「最後の一個」
虫の音が聞こえるようになった夜。昼の熱を冷すような夜。縁側で茶を楽しみながら、幽々子は不意にそんなことを言った。
「はい?」
夢見るような声を思わず聞き返す。けれどそれに答えてはもらえず、疑問符は空中をさまよう。仕方なく彼女の従者たる妖夢は、すぐそばで進む変化に目を向けた。
一つ。
「手の中にはおまんじゅうがあるの。あなたはそれがとっても美味しいことがわかっていて、食べたらきっと幸せになれると思っている。……ううん、知っているの。だけどそれは二度と手に入らないかもしれないおまんじゅうで、不思議なことにそれは日持ちするのよね。そういうおまんじゅう」
一つ。
「だからいま食べなくても大丈夫だし、駄目ってことはないの。今食べたって、あとで食べたって美味しいことには変わりないはず。それにもっとお腹をすかせてから食べた方が美味しいかもしれない。そうとも思うのね。おまんじゅうはおまんじゅうだから逃げたりはしないし、腐ったりしないこともわかってるのに」
一つ。
「でもやっぱり食べたいと思う」
一つ。最後の───
「最後の一個<ラスト・ワン>」
その目がはじめてこちらを向いた。相変わらず読めない瞳。ときどき、そこに感情が介在しているのかがわからなくなる。普段の態度から勘定が介在していないことはわかるのに。
「あなたはどうするかしら?」
幽かな波が流れていく気配がした。相手の意思を探ろうとしてもやはり見えない。それどころかこちらが探られているような気さえする。なんのことはない質問のはずなのに、絶望的に答えが見付からないのは自分が未熟だからか。
「……幽々子様。私には幽々子様のおっしゃりたいことが良くわかりません」
「あら、言っていることはわかるのね」
幼さのにじむ眉間によってしまった筋を見、幽々子は相好を崩す。
「そのくらいは……。つまり、なんだかんだ言っても今そのおまんじゅうを食べたいということでしょう?」
「もう、いやね、妖夢ったら」
「は、はい?」
「わかっているのにとぼけるなんてひどいわ。──それがファイナルアンサーなのでしょ?」
その言葉にますます混乱する。混乱してる間に、幽々子の手が皿に残った最後のかしわ餅に伸びた。するりと帯でも解くように葉っぱが取り去られる。
「ファイナルアンサー?」
「え、はい」
どちらにしろそれ以上の言葉は妖夢の中にない。これ以上何を言えばいいかわからないし、そもそも問い自体が全然見えていないのだから。真実は斬って知るものだという師の教えもここでは役に立たない。だってこんな事で幽々子様を斬るわけにもいかないし……。
「じゃあ、はい」
「!? はむむっ……………!!」
ちょんと額をつつく感じでかしわ餅が唇にあてがわれ、妖夢は目を白黒させる。状況の展開についていけず、というかもともと状況自体に置き去りにされていたので混乱は二乗。なんとか問いただそうするが声が出ない。
「……ぷはぁっ、な、いきなりなにをするんです幽々子さま」
ようやく言えたのは「むーむー」と三回ほど繰り替えしたところではじめて、かしわ餅の存在を思い出したからだった。指先で口元を拭い、くすくす笑っている幽々子を見る。
「え、それは正解のご褒美。でも妖夢、最初から言ってくれれば良かったのに」
「なんてですか?」
「自分も食べたいって」
「そ、そんなことは……」
言い募ろうとする妖夢を制し、幽々子はイニシアティブを取った。
「昔の人の言う通り」
「はい?」
「『目は口ほどにものを言い。けれど言わねばなにも伝わらぬ』って……。品薄だったのは残念だけど、それが妖夢が自分の分を我慢しなくちゃいけない理由にはならないわ」
言って幽々子はお茶をすすった。「おいし」という呟きは「気にせず食べなさい」と言っているようでやさしく、妖夢はなにも言わずかしわ餅をほおばった。ですがいつも幽々子様は最低十個は食べるものですから、という言葉は心にしまって。
「涼しくて良い夜ね」
「そうですね」
風の鳴<な>、草の音<ね>、虫の声。夕立が落としていった水の匂いが空気に溶けている。
冥界白玉楼でも雨は降るし風は吹く。四季もある。それは顕界と冥界という対構造ゆえのことではなくて、四季という四つの季節が誕生から死滅までの過程をなぞっているからに他ならない。その変化の中に内在する死の気配を冥界が含むのは当然のことなのだ。
「ところで幽々子様」
「なぁに、妖夢」
「さっきの問いの答えなのですが」
「?」
終わったと思うけど、といった風情で幽々子が首を傾げる。妖夢は縁側に飛び込んで来た羽虫を追い払うと居住まいを正した。
「その時その時の気持ちに素直になること、ということでしょうか。ええっと、忍耐云々とはまた別の話でとなりますが」
すると幽々子は苦笑し、口元を扇子で隠した。ちょっと困ったような顔。でも愉しむような顔。
「いやいや妖夢。そうではないのよ。ほら、アレよ。あなたも知っている言葉のはずよ」
「?」
言葉。なんだろう……? 妖夢はそこまで考え気付く。幽々子がアレと言いながら同時に対象を限定するようなヒントを出すときは、大抵自ずと答えを口にするときだ。
そして、幽々子は言った。
「食べたいと思ったときが美味しいとき、よ」
妖夢はしばらくその言葉を吟味するように黙っていたがやおら、
「ああ、…………はあぁ……」
感嘆と呆れを取り混ぜた溜め息という高等テクを披露し、「なんて幽々子様にぴったりの言葉なんでしょう」という台詞を心の中で呟いた。別に口に出しても良かったのだけど。
「どうしたの妖夢?」
「いえ、幽々子様らしいと思っただけです」
「それは称賛なのかしら? それとも侮辱なのかしら?」
「ご随意にどうぞ」
「もう、それじゃ面白くないわ」
「どうしてですか?」
考える余地があるのに? と首を傾げると幽々子は意味ありげに笑い「どうしてかしらね?」としか言わなかった。それを強いて訊ねようとは思わない。どうせ「そうしないと墓穴を掘る妖夢が見られない」とか仕様のないことだろうからだ。
「さて、そろそろお風呂に入ろうかしら」
「はい、用意は済んでますから。すぐ、追い炊きしますね」
「………」
「幽々子様?」
沈黙に、腰を浮かせかけた妖夢の動きが止まる。閉じた扇子をいぢりながら、幽々子は視線を合わせる。着崩れた長襦袢から肩の線が見えている。
「ねぇ妖夢。今日は一緒に入らない?」
「え、はぁ……いいですけど、どうしてですか?」
「さぁ……?」
「って、私に聞かれても困りますよう」
「決まりっ」
言うが早いか幽々子はすっと立ち上がり妖夢の手を引いた。それは亡霊ならではのものか、床をなでるように音も無く駆ける。しかし引かれる方は半人半霊。霊はともかく人の方はそうもいかない。自分の磨いた床で転びそうになり妖夢はたまらず声を上げた。
「……わ、ちょっ、ひっぱらないでください」
「まかせて妖夢」
「ま、まかせるとかまかせないとか、そういう問題じゃないと思いますぅ!」
「でも善は急げよ」
「いえ、善でもなんでもないですからそんなに急がなくても、」
不意に幽々子が足を止める。急停止を強いられた妖夢はなんとかバランスを取ったが、言い掛けた言葉は途切れ、
「………あ」
幽々子が振り向いた。月光の中で亡霊嬢はほのかな光を纏い、うっすらと燐光放っている。
美しさに、妖夢は息を呑む。
見返す瞳が和み、そのまま「食べたいと思ったときが美味しいとき」とでも言うような調子で、唇が動いた。
「楽しいことですもの。楽しいことをするのは私にとって善い事よ、妖夢」
餅一つでここまで物を語れるとは、流石に幽々子様。