湖岸に立ち、魔理沙は湖面の彼方を見据える。
好天、気温は暑いくらいだというのに、湖の奥のほうには靄が不自然に立ち込め、対岸はおろか紅魔館のある島すらも見出すことができない。
目指すはその島、紅魔館が擁する大図書館。
魔理沙は今日も紅魔館攻略を志し、ここまで来ているのだった。
湖岸に立ち、彼女は湖を見つめている。
右手には愛用の魔法の箒。時に応じて格闘攻撃にも用いられる不憫な箒だが、その本懐は空を自在に飛ぶことだった。その飛行速度は正に天翔ける流星の如く、二百由旬の距離だって一跨ぎときたものだ。
――その機能が正常だったならば、の話だが。
「……さて、どうしたものかな」
魔理沙は溜め息をつき、手の中の箒に目を落とした。
飛べなくなってしまった、魔法の箒に。
事の起こりは数刻前のこと。
魔法の森の上空で、いつものようにアリスとじゃれあっていた時、いきなり箒が揚力と推力を失い、魔理沙は墜落してしまったのだ。
梢に向けて真っ逆さま、危うく百舌の速贄になりかけたところをアリスに助けられたものの、それきり箒はうんともすんとも言わない。いや、元々しゃべりはしないのだが、完全に魔法の箒としての機能を失ってしまったのだ。いまや単なる清掃にも使いがたい、重いだけの箒である。
もしや何か別の物体に変質してしまったのではないかと思い立ち、魔理沙は香霖堂へ駆け込み、霖之助の能力で鑑定してもらった。結果は、
「名前は『魔法の箒』、用途はまたがって空を飛ぶもの――つまり、誰もが知っている君の箒だ。これで満足かい?」
当たり前のことを言わせるな、といわんばかりの顔で、霖之助は告げたのだった。つまり、箒は飛ぶ機能を失ったわけではなく、その能力を何らかの要因によって封じられていると、そう考えられた。
魔理沙に心当たりはなかった。ただ、この事態が全くの突然のものではないことは知っていた。実は二、三日前から、飛行時の速度や挙動の不安定といった不調を、箒から感じてはいたのだ。
そのことを口にすると、霖之助と、店までついてきていたアリスに白い目を向けられた。
「そんな古ぼけた箒なんて捨てちゃって、新しいのを作ればいいじゃない」
アリスはそう提案した。
魔理沙だってそうできれば楽だとは思う。愛着も一緒に捨てられるのなら。だがこの箒は、空という過酷ながらも自由に満ちた世界で運命を共にしてきた相棒なのだ。おいそれと別れられはしない。
霖之助も意見してきた。
「いっそこれを機に、飛ぶのを止めるのもいいかもしれないよ。僕たちは本来、空を飛ぶ生き物じゃないんだし、羽はなくとも二本の足を持っている」
半ば以上は冗談だったのだろうが、正論ではあった。だから魔理沙も正論を返しておいた。
「その足は過去に引き返すためのものじゃないぜ」
ひとたび手にした便利を捨てられる奴なんていないのだ。無論、そんな理由がなくとも、魔理沙はなんとしても愛用の箒を元に戻す決意だった。
その後も様様な意見が飛び交ったが、ろくなものは出なかった。
――霊夢に相談したらどうだ、空飛ぶ亀を貸してくれるかもしれない
――あんなのに乗れるのは霊夢くらいだぜ、色んな意味で。そもそも問題の解決になっていないだろ
――独力飛行の魔法くらい修得しておきなさいよ
――そんな暇があったら箒の技量を磨くぜ。荷物を運ぶのに便利だし。いつぞやの永い夜にはお前も乗せてやったじゃないか、私にしっかりしがみついてきて……
――やめて言わないで
……結局、最終的に魔理沙が選んだのは、しごくオーソドックスな手段。知識人を、より正確には知識人の持つ本をあたるという、セオリー通りの行動だった。
不安そうな顔を見せる霖之助やアリスに胸を叩いて見せ、魔理沙は店を飛び出した。
そんなわけで意気込み大きく、紅魔館を目指して、単身、ここまでやってきた魔理沙であったが、さっそく大きな障害にぶち当たっていた。
俗に紅魔湖と呼ばれる、巨大な湖。海かとも見まがうような広大無辺のこれを、常ならば箒に乗って飛び越えてきた。だが、今日の魔理沙は飛べないのだ。
もちろん、この湖の存在を忘れていたわけではない。香霖堂でも霖之助たちに指摘されていた。それに対し魔理沙は、
「だからって待っていても、来てくれるのは物騒なメイド長くらいだぜ。図書館の側から来てくれないなら、こちらから行くしかないだろ」
と、威勢よく啖呵を切ってきたのだった。なんの策も無いくせに。
とりあえず、ぐるりと自分が立つ湖岸を見渡してみる。舟の類はどこにも見当たらない。まあ、はじめから期待などしていなかったが。
考え込んでいるうちに、体がぶるっと震えだす。水場の近くのためだろう、辺りの空気はひんやりとしていた。いや、ちょっと不自然に冷えすぎていた。
異質な気配を察知し、魔理沙は鋭い視線を当たりに巡らす。
「いるいる。夏場に快適な、この冷気。強力でもないくせに隠れてるなよ、チルノ」
「隠れてなんかいないわよ。それに強力よ、私は」
どこに潜んでいたのか、魔理沙の正面、湖面を、チルノが仰向けになりながら滑るように近付いてきた。
奇怪な光景に魔理沙は驚いたが、よくよく目を凝らすと、チルノは氷に乗っているのだった。おそろしく透明度の高い氷でできたボートが湖面に浮かび、それにチルノは寝そべっているのだ。
魔理沙は思わず感嘆の声を漏らす。
「おお。これ、お前が作ったのか?」
「そうよ。ふふん、大したもんでしょ」
晩夏の強い陽射しの下で氷精のチルノが元気なのも、このボートのおかげなのだろう。彼女はごろりと姿勢をうつ伏せに変え、ほっぺたをボートの床に貼り付けた。氷みたいに透明な羽をご機嫌に揺らし、
「はあ、気持ちー」
今にもとろけてしまいそうな表情を見せる。
「羨ましい」――それが、チルノとボートを見て魔理沙の脳裏に浮かんだ最初の言葉だった。「渡りに舟」は二番目で、ついでに言うと三番目は「アイスボートとアイスソードって似てるな」などという、どうでもよいものだった。
「殺してでも奪い取る……のもいいが、これ、二人くらいは乗れそうだな」
「なに? 魔理沙も乗りたいの?」
「そりゃ乗りたいぜ。て言うか、乗る!」
魔理沙は岸から大ジャンプ。チルノが慌てて飛び退いたことで生まれたスペースに、見事な着地を決めた――かに見えたが、つるりと滑って尻餅をついてしまった。ボートが大きく揺れる。
「な、なにするのよ、いきなり!」
「うひゃ、こりゃ本当に気持ちいいな。チルノは天才だぜ」
「え、そ、そんなことあるけど……って、ごまかすなー!」
「まあ落ち着け、おてんばな恋娘。こんな素敵な物を、私以外の奴が独り占めするなんて法はないぜ。紅魔館まで乗せてってくれよ」
「なによー、いつもみたいに飛んでいけばいいじゃない」
チルノはボートに長々と横たわる魔理沙の箒を、裸の足で突っついた。魔理沙は苦い笑いを浮かべ、箒の房を撫でる。ここまで引きずってきたため、房は穂先が広がり、軽く傷んでしまっていた。
「こいつには、今日は休みをやったんだ。私ばかり週休二日じゃ不公平だって、ヘソを曲げたんでな」
「……ふーん」
魔理沙の軽口に何を嗅ぎ取ったのか、チルノは軽く首を傾げた。
「それじゃ、しょうがないわね。今回だけだからね」
「お、話せるな。よし。この、森で見つけた名も無きキノコをあげよう」
「いらないわよ! スカートの中から変なもの取り出さないで!」
二人を乗せて、氷のボートはゆっくりと動き出す。櫂などはなく、チルノの意思に従って動くらしい。氷精の肩書きは伊達ではないな、と魔理沙は彼女を見直す思いだった。
「それにつけても凄いな、チルノ。これは氷の芸術だぜ」
口にも出して、おだてておく。もしも機嫌を損ねて、湖に放り出されでもしたら、ちょっと洒落にならない。
ボートはゆっくりと湖上を行く。ボートの底も透明なので、魔理沙はまるで水上を滑っているかのような気分になった。
ボートは水面に波紋を広げ、その向こうには、泳ぐ魚や揺らめく沈水植物の姿を見ることができた。水の透明度も高く、水深がゆっくりと増していくのを実感できる。
魔理沙は湖上からの光景に、しばし見とれた。いつも何気なく飛び越えてきた湖だが、視点の高さを変えるだけで、こうも新鮮に映るものなのか。
「きれいでしょ?」
チルノが、まるで自分自身が褒められているかのように、得意げな顔を見せる。
「ああ……でも、ちょっと冷えすぎかな」
魔理沙の唇が、色を失いつつあるように見えた。また、肩が小刻みに震えだす。いくら暑い日とは言え、氷の上に長時間座るなど、通常の人間にとっては罰ゲームに等しい、それをやっと魔理沙は知ったのだった。
懐で涼風を発生しているミニ八卦炉を停止させる。
「あのさ……これ、もうちょっとスピード出ないのか?」
「無理」
あっさりと、チルノ。
「まあ、のんびり行けばいーじゃん」
もしや、これは日頃の恨みを晴らすべく、意地悪をされているのではないだろうか。魔理沙はそう疑ったが、チルノの無邪気な笑顔に、そんな策謀の気配は無かった。ああ、こいつは天然なんだ。
とうとう我慢できなくなり、魔理沙は冷え切った尻を浮かせ、進行方向と逆を向いた。懐の内でミニ八卦炉が、今度は熱を持つ。
「チルノ、その辺にしっかり掴まってな」
「え、なに?」
尋ね返すチルノに魔理沙は二度は言わず、両手を右の腰だめに構えた。手の中に白色の光が溢れだす。
「ちょ、あんた何を……」
「マスタースパーク!」
チルノの声を飲み込んで、魔砲の爆音が大気を揺らした。光の魔法はボートの後方、湖面を叩き、その反動でボートは突き飛ばされたかのように勢いよく飛び出す。
「きゃああああ、止めて止めて止めてぇ!」
悲鳴を引きずりながら、ボートは湖面を跳ねるように滑走した。前方に向き直った魔理沙は、接近する島と館の影を見つけ、ガッツポーズ。
「やったぜ……?」
そのせいでバランスが崩れたのか、どうなのか。ボートはいきなりつんのめるような形になり、引っくり返った。まあ、無茶をした当然の報いではあった。
「へくち」
自分のくしゃみで目を醒ました。
慌てて身を起こした魔理沙が知ったのは、ずぶぬれになりながらも地上に自分の体があることと、そばに紅魔館の威容がそびえていることだった。傍らにはちゃんと箒も転がっている。
「ばかー、あほー、二度と乗せてやらないからー」
罵声が降ってきたので見上げると、チルノが暮れなずむ空を飛び去ろうとしていた。氷精の衣服も魔理沙と等しくびしょびしょになっている。
あいつが助けてくれたのだろうか。魔理沙は首を傾げる。チルノの細腕では、魔理沙一人ならともかく、箒を沈む前に運ぶのは至難だろう。単なる清掃用のものに比べて、魔理沙の箒はかなりの補強が為されている。かなりの重量があった。魔理沙だって、湖岸まで運んでくるのに大変な思いをしたのだ。
「……まあ、いいか」
しばらく考えても答えが出なかったので、あっさり思考を打ち切った。溺死しなかっただけ儲けものだ、そう前向きに考える。
「とにかく渡湖作戦は成功だな。にしても冷えるぜ、早く紅魔館でお茶でも出してもらうか」
館の敷地をぐるりと取り囲む塀に沿って歩き、魔理沙は紅魔館の門前に到達した。
そして門を見上げて絶句する。門柱も門扉も、高さはざっと五メートルほどもあるだろうか。まるで巨人が出入りするためのもののようだ。
いつもは軽く飛び越えていくため、ほとんど意識してこなかったが、まともに向かい合うと、それは恐ろしいまでの存在感を誇っていた。柱も扉も、暗い赤色で染められているところが、また不気味さに拍車をかけている。
「こりゃ、ますます門番の存在がかすむわけだ……」
つぶやいていると、上空からその門番、紅美鈴が魔理沙のことを認め、降りてきた。魔理沙と門との間に立つ。
「魔理沙じゃない。何してるのよ」
「なに、一度、この門が開閉するところを見てみたいと思ってな。ちょっと開けてみてくれないか?」
「今日はこれ以上の来客の予定はうかがっていないわ。……それにしても、いつもなら門も門番も存在しないかのような顔で通り過ぎていくくせに、今日はどういった風の吹き回し? 地上からノコノコと」
「風向きは普通だぜ。ちょっと庭掃除でもしてやろうかと考えたんだ」
美鈴の視線がちらりと、魔理沙の箒を捉えた。
「……なんにしたって、許しのない者を通すわけにはいかないわ。力ずくでお引取り願いましょう」
「やれやれ、ここは門番まで物騒だぜ」
身構える美鈴に、魔理沙は帽子のつばを前へ引っ張った。覗いている口元は笑っているが、隠した目には余裕が無い。箒抜きで誰かとやりあうなど、ここしばらくは経験していなかった。
「行くわよ」
りん、と鈴の音が響いた。美鈴は地面を強く蹴り、魔理沙から見て左手に飛び出した。
思いのほか速いその動きを、魔理沙は急いで追った。そして不覚を悟る。そちらは西――沈み行く太陽の光が地平いっぱいにひろがり、それを美鈴は背にしていた。
魔理沙は目を細めながらマジックミサイルを乱射、しかし美鈴の黒い影にはかすりもしない。
美鈴は疾風の如く魔理沙に迫り、眼前で大地を揺るがす凄まじい震脚、握り締めた拳を突き出す。
魔理沙は咄嗟に箒で身をかばうが、そんなもので防げる打撃とも思えなかった。
――それきり数秒、なんの衝撃もなく、魔理沙は苦痛に備えて閉ざしたまぶたを、恐る恐る開いた。すぐ鼻先で、美鈴の拳がぴたりと止まっていた。箒のガードを回り込む右フック。
「うあ……」
「私の勝ちね」
寸止めがなければ岩をも砕く一撃であったろうことは、疑うべくもなかった。魔理沙は負けを認めるしかなかった。
脱力を覚えながら、意外な思いに満ちた眼で、残身を解く美鈴を見やる。
「お前……強いんじゃないか」
「地上戦に限定すれば、そうそう後れを取るつもりはないわ。その分、三次元的な戦いは不得手なんだけど……そのあたりを得意とする咲夜さんには、到底勝てる気がしないわね」
美鈴はにこりともせず、わずかに位置のずれた頭上の帽子を直していた。
「それじゃあ、敗者はさっさと引き返す。飛べないなら泳いで帰ることね」
「つれないぜ……」
魔理沙は悄然となった。負けた以上は、今日の紅魔館入りは諦めるしかないだろう。さりとて、美鈴に言われるまま引き返すこともできない。
この島は広い、その辺で野宿でもしながら、対美鈴の戦略を練り直そうか……そんなことを考えていると、空からまた降りてくる影があった。紅魔館の屋外警備を担当するメイドだった。
「美鈴さん、裏手に侵入者が! 既に第二防衛線まで突破されています!」
それを聞いて、美鈴は愕然と魔理沙を見た。
「くっ……本命はそっちだったのね」
美鈴は浮かび上がり、メイドに先導されて上昇していく。
魔理沙はぽかんと、それを見送った。もちろん、裏手に現れた侵入者などに心当たりはない。
「あー……なんだか知らないが、チャンスを逃がさないのが私だ。悪いな、美鈴」
魔理沙は辺りに誰もいないのを確かめると、門の脇にある通用口の小さな扉に近付いた。鍵が掛かっているそれをマスタースパークで吹き飛ばし、こっそり大胆に侵入を果たしたのだった。
門のすぐ向こうには、いきなり築山がそびえていた。
「……こんな構造だっけ?」
普段は上空をさっさと通り過ぎ、ろくに観察したことがなかったため、魔理沙は門の内側の地形などほとんど把握していなかった。今になってそれを後悔する。
取りあえず、築山を迂回しないことには館の建物に近づけない。魔理沙は箒をずるずる引きずり、歩き出した。
そこからがまた大変だった。長い石段を上らされたかと思えば、今度は冗長なスロープを下らされる。道の先にいきなり広い幅の濠が横切っていたりするし、近道かと期待して入った庭園は、生垣が複雑な迷路状に配置されていた。遂に脱出を果たせなかったのか、先客のものと思しき白骨体を見つけたときには、さすがに背筋がぞっとなったものだ。
そして、あちこちに無闇と段差があり、うっかりすればすぐにつまずいてしまいそうだった。
「ここはバリアフリーとは無縁なのかよ……」
あるいは、人間に攻められた場合を考慮しての防御地形なのか。徒歩でしか移動できない者にとって、ここは絶対的な要害となるだろう。
それでも日が完全に沈みきる頃、魔理沙はどうにか邸宅の玄関に辿り着いた。空さえ飛べれば、直接、図書館のある棟に向かえたのだが。徒歩の身では正面から扉を叩くしかなかった。
ノッカーを打ち鳴らし、返事も待たずに扉を開ける。施錠はされていなかった。
玄関ホールに入り、その空間のだだっ広さに魔理沙はめまいを覚える。酔っ払いの鬼が巨大化しても平気で走り回れそうなくらい、非常識に広い。紅いカーペットに立って天井を見上げると、いつも以上にそれが実感できる。普段は意識していなかったが、なるほど、これなら思い切り空中戦ができるわけだ。
目の前に長々と伸びる廊下にげんなりとなっていると、ふっと風が流れ、忽然と銀髪のメイド少女が姿を現した。メイド長、十六夜咲夜。
咲夜の値踏みするような視線は、まだ湿っている魔理沙の衣服から、箒へと移っていった。
「なに? 箒のセールス? 間に合ってるわよ」
「そいつは残念。それはそうと、お茶を一杯、くれないか?」
「……美鈴が突破されたと聞いたのだけど、あなたじゃなかったみたいね」
咲夜は右手の指の間にナイフを一瞬閃かせ、すぐにまた収めた。
「あなたのことは、パチュリー様に任せるとしましょう。私は迎撃で忙しいから」
「おいおい、通してくれるのか?」
くるりと背を見せた咲夜に、魔理沙は拍子抜けしつつも、内心ではほっとしていた。先刻、美鈴にさえ敗れたのだ。この状態で咲夜に勝てるとも思えなかった。
弾幕はパワー――それが魔理沙の信条であり、身上でもある。しかし、それは言葉通りの意味ではなく、何らかの裏付けがあってこそパワーが活きることを、彼女は理解していた。彼女の場合、その裏付けとは、箒によって得られるスピードに他ならない。高速で相手を翻弄し、優位を占めた上で、初めて強大な力を叩きつける。その基本的な戦術が、今は取れない。
とん、と床を蹴って遠ざかっていく咲夜に、魔理沙はふと積年の疑問をぶつけてみた。
「そういや、お前はなんで飛べるんだ?」
「そんなの、空間を弄れば簡単じゃない」
振り向きもせずに、咲夜は答えた。
魔理沙は苦笑するしかない。
「簡単ついでに、この広がりすぎな空間をどうにかしてくれないか?」
「自力で何とかしなさい。そんなだから、古風な魔女だと言ったのよ。初めて遭ったときにね」
そう言い残して咲夜は姿を消した。
「うーん……まあ、無血開城成功ということにしておくか」
やれやれ、と繰り返して、魔理沙は歩きだした。
やっとの思いで、図書館の入り口に立つ。
扉を開けると黴臭い冷ややかな空気が流れ出してきて、それが妙に懐かしく思えた。つい数日前にも訪れたばかりなのに。
薄暗い空間へと魔理沙は足を進める。
そこでまた、立ち並ぶ書架の背の高さに圧倒されかけた。魔理沙の背丈の優に三倍はあるものが、ずっと奥まで林立しているのだ。もし今、こんなものに将棋倒しでも起こされたら、飛べない魔理沙に助かる術はないかと思われた。
静謐な闇に、ずるずると箒を引きずる音を響かせながら、中央にある閲覧用のスペースに向かうと、普段と変わらずパチュリーがテーブルで読書に耽っていた。魔理沙の接近にはとうに気付いているはずなのに、顔を上げようともしない。
「よう、本を探してるんだが」
声を掛けると視線だけが持ち上がって、魔理沙を向いた。
「いつもは挨拶もしないで本をかどわかしていくくせに、珍しいわね」
「それこそご挨拶だな。私はお前の読書の邪魔をしないように努めてきただけだぜ」
「……それで、今日は何を思って私の邪魔をするの?」
「魔法の箒について調べたいんだ」
パチュリーの瞳が、箒へと向けられる。得心の色が、そこに浮かんだ。
「ああ、飛べなくなったの?」
「なんだ、やっぱりバレバレなのか。ここに来るまでも、なぜかみんなすぐに気付いたみたいだったしな」
付け加えれば、みんな今日は奇妙に戦意が薄かったような気もする。
「それは、あなたが普段と違いすぎて、調子が狂ったのね。傍若無人、暴走上等の代名詞みたいなあなたが、のろのろ亀みたいに歩いていたら、それは本気で相手するつもりにもなれないわ」
「ちぇっ、舐められたってのか?」
「そうじゃないわよ」
パチュリーは呆れ顔で溜め息をついた。
「あなたがそんなのじゃこっちまで落ち着かなくなるから、さっさと元通りになれって、そういうことよ」
「そう……なのか?」
魔理沙が首をひねっている間に、パチュリーは小悪魔を呼び出していた。
「案内してあげなさい。あと、こっそり本を懐に入れないか見張るように」
「はい」
背中の羽をぱたぱた動かして先導する小悪魔を、魔理沙は追った。
小悪魔は魔理沙を振り返って、くすりと笑う。
「さっきのパチュリー様の話、あれってつまり、風邪を引いたらみんな優しくしてくれる、そんなふうな意味なんですかね」
「なんだ、私が飛べなくなるのは風邪と同レベルの異常なのか? それより、お前ら風邪なんて引くのかよ」
「さて、どうでしょう?」
小悪魔は悪戯っぽく笑って、魔理沙から逃げるように高度を上げた。魔理沙は憮然とした目でそれを見上げる。
書棚の森を歩くのは、はじめのうちこそ落ち着かなかったが、だんだんと楽しくなってきた。初めてここに侵入したときの、新鮮な驚きと感動がよみがえってくる。書棚に立てかけられた移動式の梯子を昇るのなんて、これが初めてじゃなかったろうか?
そして案内された先で、魔理沙は何冊かの本を選んだ。
「『はうとぅーふらいあぶるーむ』……懐かしいな、初級の教本じゃないか。うちにもどこかに埋もれているはずだけど、どこやったかな」
念のためにその本も取る。
その一冊が、大正解だった。
パチュリーの向かいに座って本を広げ、十分もしないうちに、
「まさか、これか?」
魔理沙は声を上げ、テーブルに立てかけておいた箒を手に取った。
上下引っくり返し、房の中を、枝を掻き分けるようにして覗き込み、そして悲鳴を上げる。
「ぎにゃー、こ、こいつら!」
端から見ている者には、さっぱり意味の分からない奇行だった。
パチュリーは広げっぱなしになっているその本を引き寄せ、目を走らせた。小悪魔も覗き込み、そして二人は揃って納得の声を漏らした。
以下は、小悪魔が書棚から新たに引き出してきた事典よりの抜粋である。
【ホウキクイアブラムシ】
季節を問わず、主にエニシダ製の房を持つ箒に群生するアブラムシ。ハリエンジュアブラムシの突然変異種。最大長約2㎜。
生きた植物の養分を吸う通常の害虫とは異なり、これは魔力を吸収する。多発すると箒の飛行能力を完全に奪う。
――つまり、魔理沙は現在、害虫退治にかかっているのだった。
「この、このっ! パチュリー、永琳に頼んで駆除薬を作ってもらってくれよ」
「自力で潰しなさい。そういう地味な作業、好きでしょ?」
「そんなわけあるか!」
「部屋を乱雑にしておくから、虫が湧くのよ。これを自分への戒めとすることね」
パチュリーは小悪魔に掃除道具を取りにやらせると、奮闘している魔理沙に目を戻して、初めておかしそうに笑みを浮かべた。
「つまるところ……伝説にさえ打ち勝つ霧雨魔理沙とその箒が、ちっぽけな虫たちに屈したと、そういうわけね」
紅魔館の上空では、激しくぶつかり合う二つの人影があった。雲の多い夜空に、弾幕が星の如く散りばめられ、消えていく。
一方は十六夜咲夜。魔理沙とは別の侵入者が、美鈴を倒してからも、なぜか館内に入ってくることなく上空をうろうろしていると伝え聞いて、痺れを切らし自ら打って出たのだ。
対するは、その侵入者。正体はアリスだった。
アリスはこの場から逃げようとしているようだった。それを咲夜が追い回しているのだ。
「何しに来たのか、そろそろ話す気になった? はっきりさせておかないと、気になって寝つきが悪くなって、ひいては美容に響くのよ」
「知らないわよ、そんなの」
アリスは抱えている人形から紅玉色のレーザーを放つ。これを咲夜は優美なステップを披露してかわし、反撃のナイフを投じた。
鋭く迫る刃を、アリスはどうにか避けきったが、動きに切れがない。美鈴との戦いをこなしたこともあって、かなり疲弊しているようだった。
「そろそろ次の仕事もあることだし、この辺りで決めさせてもらうわよ」
咲夜の目が赤く光ったように、アリスは感じた。本能的な恐怖が背筋を駆け上がる。
怯んだアリスに咲夜が一気に詰め寄ろうとした、そのとき。眼下、館の中庭で何かが閃いた。
そして地上から天へと立ち昇る星を、二人は目の当たりにする。
「よみがえる伝説の翼、再び! なんてな」
二人の間の闇を斜めに切り裂いて、極彩色の星屑をばら撒いて――飛翔するは箒にまたがった魔理沙だった。
翼を取り戻した普通の魔法使いは、天空に大きなループを描き、アリスの前へと下りてきた。
「なにやってるんだ、アリス? お前も図書館に来たのか?」
「あ、あんたには関係ないでしょ」
「それもそうだな」
魔理沙は深々とうなずくと、
「じゃあ、私は帰って晩御飯と洒落込むぜ」
湖に向けて高速で飛び去っていった。
残されたアリスは茫然とそれを見送る。咲夜に向き直ったとき、その顔には絶望の表情がぶら下がっていた。
咲夜はなぜか微苦笑していた。
「冗談だぜ、アリス」
背後から風の音がしたかと思うと、アリスは流星にさらわれていた。
「助けてくれてたのは、お前だったんだな。恩に着るよ」
湖の上空を、箒が飛んでいる。前に魔理沙、後ろにはアリスの二人乗りだった。
アリスは魔理沙の腰に腕を回しながらも、顔はそっぽを向いていた。
「あんたが地面を這いずってる姿を見届けに来ただけよ」
「それなら、私が館に入ったらとっとと帰れば良かったんじゃないか」
「……どうだっていいじゃない」
そうだな、と魔理沙はうなずいて、目を下に落とした。真っ暗な湖面に、散らばる星屑が反射している。
「でも、たまにはてくてく歩くのも悪くはないもんだな。色々と面白い発見があったし」
「あら、じゃあこれからは、箒に乗るのを控える?」
「それとこれとは別だ。やっぱり箒のスピードは捨てがたいからな。より速く、より遠くへ行けば、やっぱり新しい発見があるものだし。それにさっきみたいに、ぎりぎりの場面に間に合うこともできるしな」
闇の中でアリスの顔が真っ赤に火照る。魔理沙の背中に熱が伝わってしまわないかと、アリスは気が気でない。
「あの、魔理沙、さっきはありが……」
「そんなわけで、飛ばすぜ!」
箒が急激に加速する。アリスは口に上らせかけた言葉を最後まで言い切ることができず、振り落とされないよう必死に魔理沙にしがみついた。
そして二人は星となって空を流れる。それは、幻想郷のいつもどおりの光景だった。
ディ・モールト・ベネ
ツンデレなアリスはもっと好きです。
こういう普段とは違う視点はとても新鮮でした。
魔理沙、秋霜玉EXで箒無しで飛んでいたような気がしますw
箒に大量発生した虫を想像してちょっと気持ち悪くなりましたけど(笑
でてくる人物も楽しそうでいいです。
魔理沙は自力では空を飛べないというのは妥当な考えですね。
秋霜玉では背中から翼が生えた状態ですから
設定から根本的に違っていそうですね。
ちょっと味付けを変えると重苦しくなりそうな題材だけに、気楽なエンターテイメントとして読めて非常に楽しかったです。
良いなあ、良いなあ。日間氏の書く魔理沙は、地面を走る事しかできない自分には眩し過ぎです。ご馳走様でした。
それまで積もり積もったストレスをこのシーンが吹き飛ばしていった。
ここの魔理沙かっこいいよ!
特に最後の急にスピードを出す辺り、魔理沙らしさが出てて大変グッドでした。
キャラが生き生きとしていて大変楽しく読ませて頂きました。
色々コメントを考えたのですが、どうも言い訳(主にタイトルに関して)しか思い浮かばなかったので、簡単ながらお礼の言葉だけを。
ぎにゃーと叫ぶ魔理沙w
それが登場人物達の心情からも、よく伝わりました。
たいへんおもしろかったです。
百合かどうかはさておき楽しめました