パチュリーがレミリア邸に居付くようになって幾許かの月日が流れた時だった。
「ねぇ、パチェ。貴女、家庭教師ってしてみない?」
「また随分と唐突ね」
彼女の唐突な思いつきに振り回せられること数十回。今更彼女の言動に驚きで返す気にはならなかったが、溜息をつくには十分過ぎる一言だった。
「今、私がしていることが間違いなければ、私は貴女に講義をしている最中だと思うんだけれど?」
小振りの眼鏡を正しながら、彼女の間違いを指摘する。
パチュリーがレミリアに自分の知識を元に色々と物事を教えるようになったのは、居付くようになってすぐのことだった。
何しろレミリアは数百年間に渡って、自分を咎めるような相手と出くわすことが全く無かったのだ。それ故に彼女には最低限程度の節度しか備わっていなかった。
メイド達からでも知ることはできたのだが、彼女達は『スカーレットデビル』の名の元に献上された娘達が大半だったために、レミリアに教えるということは畏れ多くてできなかったらしい。
だからパチュリーはタダで居座っているのも何なのだしということと、暇潰し兼雑談相手ということも兼ねて、彼女の家庭教師もどきを請け負っている。
もっともパチュリー自身も普通の一般教養の部分は外れているので、教えているのは全く役に立たない無駄知識ばっかりではあるが。
今もレミリアの私室にて講師をしている最中である。
「あぁ、私じゃないわよ。妹によ」
「へぇ、貴女に妹っていたんだ?」
パチュリーは珍しく声のトーンを上げた。
「ちょっと変わり者だけどね。貴女なら上手くとりなしてくれるでしょう」
「それは信用されているってことかしら?」
「あら、違う?」
豪奢な机の上で組んだ腕に顎を乗せながら、レミリアの本質を射抜くように紅い瞳が深く覗き込む。
「ありがとうって言っておくわ。それで早速というわけね?」
「流石、話が早いわね。それじゃ、案内するわ」
「案内は口伝で充分よ。それにすぐには終わりそうに無いし、ここで課題出しておくから帰ってくるまでに片付けておくこと」
「えー」
「パチュリー様!」
レミリアに聞いた道をたどりながらむかう最中、自分の名を呼びながら後方から急ぎ気味にやってくるものがいた。
パチュリーは気だるげにその相手を見やると、一匹の赤髪のメイドが息を詰まらせながら追いついた。
あまりメイドについて感心のないパチュリーだが、やってきたメイドは見覚えがあった。自分の書斎の整理をよく手伝うメイドだ。
「どうしたのよ。そんなに息を切らして」
「あ、あの……妹様のところに行くと聞いたのですが、本当なのでしょうか?」
耳が早いこと、と呆れたがパチュリーは言葉には出さずに視線のみを送った。
「えぇ、本当よ。けど、それが貴女にどう関係あるの?」
「え……え、と……」
冷たく言い放たれてメイドは萎縮して黙り込む。
言葉を詰まらせたメイドを軽く一瞥し、パチュリーは目的地へと足を向けた。
自分を気にかけてきた相手に余計な一言だったかと思い、一応ねぎらうようにしておく。
「あぁ、そうそう。そんなに耳が早いのなら、別の仕事でもしてもらえる? 書斎の整理とかね。後で使うからやっておいてくれるとありがたいんだけど?」
独り言のように呟き、返事を聞かないままパチュリーは飛び去る。
にべも無い言葉に一瞬呆気に取られるメイドだったが、軽く一礼して彼女は命じられた仕事場へと向かった。
「まったく馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないわね」
レミリアの言い伝で案内された場所はパチュリーに舌を巻かせるには十分な場所だった。
目の前の荘厳かつ壮大な扉を軽く叩く。
ここに至るまでの通路に魔力を循環させ、ただ増幅作用をひたすらに行なう創りがされており、そして終点である目の前の扉は夥しいまでの魔力で束ね覆われた結界だった。
しかも触ってみて確信したが常に魔力が恒常的に送り込まれており、少なくても数百年単位で固めこまれた封印というのがパチュリーには理解できた。
そのくせ外部からの干渉は非常に脆くできている。これでは外部から敵を守る結界ではなく、内部の者を外に出さないようにする檻としか言いようがなかった。
「まぁ、レミィの妹じゃ普通にカテゴリーされるほうがおかしいか」
今更ながら彼女の非常識具合を思い返す。
スカーレットデビルといわれ、数多の妖怪が束になったところで敵う筈もない彼女の存在は幻想郷においても間違いなく指折りの部類に入る。
そんな彼女が妹を『変わり者』と認識しているのだ。常識という枠内に収まっているわけがない。
勿論その非常識な相手と友人でいる自分のことは棚上げにしておく。
「アクセス」
単純なキーワードと共に扉についているノブを廻すと、堅牢な檻は容易に魔女を向かい入れた。
扉を跨ぐとそこは異界であった。
地下であるが故に陽光を浴びたことない部屋は底冷えするような寒さに満ちており、灯りがほとんど少ないからか深淵の奥から見つめられているような錯覚に陥る。
そして焼けた肉とむせ返るような血の匂い。
部屋に足を踏み入れるだけで、十分な狂気が満ち足りている事を感じ取れた。
「だぁれ、かなぁ?」
仄暗い中から無邪気に尋ねる声が聞こえた。
狂気の渦の中から一人の少女が出てきた。七色の翼を背に翳し、意匠の凝った杖を携えて、端から見ると陽気にクスクスと微笑みながら。
レミリアの面影を残した金髪の少女は紅い瞳でパチュリーを覗き込んだ。
「メイドさん? けれどいつも来るのと格好が違うよね?」
「家庭教師よ。あなたのお姉さんに頼まれたの」
パチュリーは応じながら彼女の様子を見て納得できた。
なるほどレミィがこの少女を出さないわけだ、と。
入った瞬間は扉に押し込められた行き場の失った魔力の影響を受けてか、この部屋が狂気に中てられているのかと推測したのだが根本が違っていた。
異質の根源は目の前の少女だ。
彼女がこの部屋に満ちた異界の正体で、彼女そのものが狂気なのだ。
無論、彼女にも他の感情もあるだろうが、まずは狂気ありきで成り立っているのだ。
これだけ内包していれば月の魔力を受けずとも彼女の狂気は十全である。こんな制御がまるで利いていない存在が普通に外に出たら即刻幻想郷のバランスは崩壊するだろう。
彼女の猛る魔力は触れるだけで焼き尽くされそうなのに、笑みは極寒を彷彿させるような冷度を持っている。
「へぇ、家庭教師なんだ。初めて見たわ」
よほど珍しいのかまじまじとパチュリーを見つめる。
「貴女は私をタイクツさせないかな?」
ピチャリと濡れた音に気付きパチュリーは足元を見た。
足元は何時の間にか赤い液体で満たされており、その液体の中には植物の蔓がいくつも這っている。
金髪の少女がスゥッと双眸が細め、彼女の意思を介したように蔓が撓り一瞬にしてパチュリーを絡め取る。
雁字搦めとはいかないものの、一瞬で満足に身動きできない状態にされパチュリーは不満げに彼女を睥睨する。
その視線の意味を理解したのか、彼女はクスリと口元を歪め視線の問いに答える。
「私はずっとこの部屋に居てタイクツなの。お姉様はあまり来てくれないしね。だからたまに来るメイドたちと一緒になって遊んでいるんだけど、これはその遊びのひとつ――まぁ、もっとも」
意匠の凝った杖をパチュリーに突きつける。
「その状態になって私のタイクツを紛らわせてくれた相手は居ないよ?」
指向性を纏った狂気を前に、魔女は目の前に突きつけられたリーバススペード先端を見つめて、
「なるほど」
呆れたように呟いた。
「まずは情操教育からじゃなくて一般教育からはじめなくちゃならないなんて、全くレミィも性格が悪いわね」
まるで現状を気にしていないあまりに淡々とした独白に、金色の少女にわずかだが怒気が膨れ上がる。
この状態に陥ったものは往々にして泣き叫ぶか、懇願するかだったのだが、目の前の彼女はこの部屋の空気にも毒されることなく、冷め切った目で状況を分析しているだけであった。
「ねぇ、家庭教師さん。貴女状況をわかってるの?」
「えぇ、勿論よ。クランベリーの蔓に絡めとられて余り身動き取れない状況。違いない?」
平然と応じる彼女にしばし呆然したが、金色の悪魔は喉を唸らせたかと思うと哄笑へと変貌した。
「アハハハハハハ! 凄いわね、家庭教師さん。そんな境遇にいながらそんなこと言ってくれたのは貴女が初めてよ? けれどね貴女はクランベリーの種子なのよ。最早ゲームオーバーね」
「種子?」
「そう種子! 赤い実を宿すために前段階! 貴女といた時間は凄く短かったけれど決してタイクツじゃなかったわ」
笑いが止まないのか、まだ肩を震わせながらも杖を持つ手とは反対の手をパチュリーへ翳す。その手には仄かに光る紅い珠が灯っていた。
「そういえば貴女の名前を聞いていなかったわね。教えてくれない?」
「パチュリー・ノーレッジよ」
「オーケー、パチュリー。聞いているかと思うけれど一応名乗っておくわ。フランドール・スカーレットよ。そしてさようなら」
開いた手を握りこみ紅い珠は四散し、絡め取った蔓へと自身の力を送り込む。
縛り上げられたクランベリーの蔓は限界以上に収縮されていく。
なるほど。魔力が蔓を絞り込み妖力魔力が爆ぜ、赤い実と紅い花のように散らせる、クランベリーの花が咲くとは上手い表現だと納得する。
しかしそれよりも早く、パチュリーが虚空に指先で描いた印が完成するほうが早かった。
風船が割れたような音が響き渡る。いつもならそのはずだったが聞こえたのはモノを断つような鈍い斬撃音だった。
「なっ!?」
驚愕したフランドールの瞳に移ったのはバラバラに寸断されたクランベリーの蔓と、鋸状の円形刃物を中空に漂わせている無傷のパチュリーだった。
パチュリーは自分で出現させた刃物の耳障りな音に顔を顰める。
「木系を媒介にしてできないことも無いけど、要改良ね。音が煩すぎるわ」
指を鳴らし、不快な音を停止させてフランドールを見つめる。
「魔女を相手にしたことが無いから気付かなかったかもしれないけれど、本当の意味で魔女を縛り上げて封じるなら指先と口元は押さえ込むのが定石よ?」
だからこそ余裕があったのだけれどねと苦笑交じりに呟くパチュリーだが、フランドールの耳には届いていない。
ただ呆然と靄と化していく蔓と、その中で虚空にいくつもの魔道書を顕界させる魔女をまとまらない思考で見つめていた。
「さてと、早速授業に入りましょうか。まずは……」
紫紺の瞳が紅に満たされた瞳と交差する。
「躾からかしらね? フランドールお嬢様」
「……アハ」
惚けていたフランドールの顔は歪んだかと思うと徐々に愉悦に染まっていく。
自分の姉以外に狂気を受け止めて返してくれる者がいるのだ。愉しくないはずが無い。
もっとヤリタイ。もっとアソビタイ。戯れたい。壊し合いがしたい!!
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! パチュリーは私を楽しませてくれる? 満たさしてくれるかなぁ!?」
「えぇ、存分にその狂気に収まりきらないほど満たすわよ、妹様!」
彼女達の狂気と魔力に呼応して、吸血鬼の持つ七色の翼と魔女の魔道書達が煌びやかに輝き始めた。
パチュリーが刃金に目を配り、軽く手を振るうとそれに応じて再び耳障りな音を奏でながらフランドールに殺到する。
三対の内の二つがフランドールのいた場所を切り刻むが、抉られたのは地面だけで彼女は狂暴な笑みを浮かべたまま突進してきた。
残りの一振りの刃が魔女を護るために割って入り、金色の悪魔の首元を狙うがわずかな残影だけを残し掻き消える。
「レミィの妹君だけのことはあるわね。身体能力が並じゃないわね」
一瞬で詰め寄ってき、首元を狙った一撃を掠めるどころか笑いながら避け、元いた場所にまで戻っているのだ。
そして自分はもとより体術は苦手な部類なのだ。近寄られてしまうと絶望的なまでに勝機は無い。表情にこそ出さないものの、内心冷や汗ものだった。
「容赦無いわねー。いきなり首を狙うなんて殺す気?」
「真逆。貴女達が首を跳ね飛ばされた程度で死ぬ凡百の似非不死身と同類なわけないじゃない」
遠慮の無い一撃にひるむことも無くケタケタと笑うフランドールの問いかけにパチュリーは苦笑して一蹴する。
吸血鬼は身体能力と共に再生能力も非常識じみている。レミリアが蝙蝠一体から元に戻ったのを見せられたときは流石にパチュリーも唖然とした。
そして彼女の姉もそうだったが、フランドールの動きもパチュリーの目では追いきれるものではない。離れていないと次の瞬間には自分の喉元が裂かれても何らおかしくないのだ。
ならば、
「目で追える距離の留めるってことね」
手早く印を結び、朗々と告げる。
『来たれ刃金の鱗を纏いし護り手よ』
金色の魔道書と周囲に展開する刃金が唸りを上げて呼応し、混ざり合い火花を散らし、脈打つように形を変貌していく。
「うわぁ……」
フランドールは感嘆の呟きを漏らす。
形成された竜は元が無骨な歯車とは思えない獰猛な姿となり主が見る先の対象物を睨めつける。銀の硬質を纏った竜は己の姿に動じない少女を睥睨し、その長い胴体を捻り射出された弾丸のように襲い掛かった。
巨大な質量に見合った轟音が、広い室内に響き渡った。
フランドールは決して鈍重ではない速度で喰らいつく顎を舞うように避け、咆哮とともに発せられる苦無型の弾丸を三日月の笑みを貼り付けたまま、踊るように躱していく。
「アハハハハハハ! パチュリー、凄いわね! こんな大きな物を出すことができるなんて。メイド達なんて精々ちっちゃい玉しか出せないんだよ?」
「彼女達と私じゃそもそもカテゴリー自体が違うわよ。家庭教師とメイドを同じに見る自体が変じゃないの?」
「それもそうね。アハハハハハハ!」
平然とやり取りを交わしているが、パチュリーは穏やかにはいられなかった。
手持ちの術式の上位に位置する銀の竜が、彼女には遊び相手程度にしかなっていないのだ。襲い掛かる竜の猛攻を彼女は戯れ程度にしか受け取っていない。
幾度かの竜の突貫を避けるとフランドールは竜との間合いを大きく離した。
「それにね。これだけ大きいと今まで試せなかったことができるんだよ」
子供が取って置きの宝物を見せびらかせるような、抑えきれない衝動と笑顔を露にしながら彼女は言う。
「思いっきりこれを使って壊すことができるんだから!!」
リバーススペースを天に翳し、彼女の紅い瞳が一際爛々と輝く。
同時に周囲に漂っていた狂気と妖気が杖へと収縮され、次の瞬間膨大な熱量とともに噴き出した。
彼女の携えた杖は血のように真っ赤に燃え続けている剣へと変化した。
「いっくよーー!!」
魔剣を振り上げ真紅の焔が鞭のように撓らせて、突撃してきた竜の頭へと振り下ろす。
「なっ!?」
今度はパチュリーが驚愕の声を上げた。
フランドールが振り下ろした一撃は、銀の竜の体を何の抵抗もなく通り過ぎて真っ二つに引き裂き、竜の体が地に落ちるよりも早く、斬られた先から灼熱の炎を燃え上がらせて虚空へと消滅していった。
焼き尽くされた竜の居た場所にグチャグチャになった魔道書と陣が、壊れた機械のように火花を上げなら霧散していく。
パチュリーは驚きに固まりかけた思考を斯き回し、今起こった事を冷静に分析する。
(斬られた? いえ、違うわね。金術によって作られたあの竜が同じ金『属』に抵抗もなく斬られるはずがない。ならば焼き払った? これも違う。それならば最初から焼かれているはず。って、まさか……)
最後に潰された魔道書と陣の無残な状況と彼女が言った最後の言葉が頭の中でリフレインする。
そもそも斬られたり焼かれたりするなら、構成している書も陣も同じような影響を受ける。だが、あの最後はまるで強引に叩き潰されたような状態だった。
そして彼女は斬るわけでも焼き払うわけでもなく『壊す』といったのだ。
「ひょっとして『破壊』されたから斬られて燃やされた……?」
ポツリと呟いたパチュリーの呟きにフランドールは喜悦の表情で振り向いた。
「へぇ!? 今のを見ただけで私の能力がわかっちゃったわけ!?」
自分の能力が露見されたにも関わらずフランドールは痛痒の翳りすらも見せない。
「けど、解ったところでどうしようもないわよ?」
炎の魔剣を弄びながらフランドールは宣告する。
彼女の言は尤もだ。判明したら対策が取れるものと、判明したところで対策の取れないものは存在する。今回の類は紛れもない後者だ。
「そぅれっ!」
紅蓮の煌きを今度はパチュリーめがけて振り下ろす。
空気を焦がしながら迫り来るそれを、パチュリーは恒常的に張り巡らせておいた結界を解く。結界での防御はあれの前には無為に等しい代物にしか過ぎない。すぐに周囲の風を自らに展開させて離脱を図る。
魔剣が地面に触れ、膨大な爆音と共に破壊された地面が粉塵となり二人の視界を覆い尽くす。
濛々と立ち込める土煙の中、フランドールは滾り狂う焔を振り払い、見えない魔女の方向を見つめて二ィっと笑った。
次の瞬間、フランドールの体はいくつかにぶれて土煙の中に消え去った。
まずいわね。
衝撃で飛び散った石の飛沫を風の膜で防いでいたパチュリーは舞い上がる煙を見て冷たい汗が体に伝わるのを感じ取った。
煙の中から突っ込んできたらその瞬間で終わってしまう。すぐにその結論に至りすばやく呪を紡ぎながら、展開された魔道書をいくつか呼び寄せる。
そして膜を散開させて立ち込める煙を打ち払う。
払われる煙の中から見えたのは三つの人影で、パチュリーは訝しげに目を瞬かせ、次の瞬間背筋が粟立った。
晴れた視界には破壊によって隆起された残骸に腰掛けるフランドールと、中空に佇んだまま笑っているフランドールと、その丁度あいだに立っているフランドールだった。
「三人……!?」
「ざーんねん。もう一人いるよぉ?」
真後ろの密着された位置から聞こえた調子の外れた声に振り返る間もなく、パチュリーの体は後ろにいた四人目のフランドールの白い手によって易々と穿たれた。
幻想"卿"ではなく幻想"郷"なんだよね…
後編を待ってます。