歩き、歩き、少し眠ってまた歩き、
始めに映るのは暖かい黒と、まぶたの裏側からでも透き通る白。
朝だろうか。
薄く目を開け、身を起こす。部屋にひとり。布団を出ると、着の身着のまま庭に降りた。
辺りはうっすらと霧がかかり、雲が降りてきたような錯覚を覚える。それに反して、上空。
高く、遠く、薄手のカーテンのように空を覆う、山間から漏れる、横殴りの光だけが目に染みる。
じっと見つめると焦点がぼやけてくるような深い青。さらにぼやけて涙がにじむ。
朝だった。
身を反らせて伸び。天に振り上げた腕が、みしみしと筋を引き絞る。背中でぱきりと音がする。意味もなくまたもや涙がにじむ。遠く小鳥の声がした。
気まぐれとは、こういうときこそ起ころうものだとしみじみ思う。
ちょうどいい、布団でも干してみよう。唐突に、そう思い立った。
広いばかりの廊下を歩く。早朝の、穏やかで、それでいて張り詰めた空気の中を歩く。とろとろと寝間着を片づけ、のろのろと普段着を纏った。今まで虫干しばかりで耐えてきた布団たちを、客観的には遅々と、主観的にはきびきびと、軒先へと運び出す。
二本の柱に竿を渡し、布団を端から掛けていく。はたき棒を持ち出し振り上げる。
そこで飽きた。
先刻までの意気込みが、泡が弾けるようにたちまち消えた。
もういい、あとはあれらに任せよう。棒を握り、太陽に透かすように翳していた手をあっけなく下ろす。
なんだかんだで下準備までは済ませたのだ、これだけやる気が持続したこと自体が珍しい。
軒先まで戻り、肩越しに屋内へと呼びかけた。
「 」
瞬間、き、と頭の奥が軋み、響いた。
返事はない。
いないのだろうか。珍しい。ならもうひとりで構うまい。
「 」
きし、
まただ。
代わりに風が吹いた。やけに肌に刺さる。思わず身震いした。
やはり返事はない。
少し待った。しかしそれでも、床の軋む音すら聞こえない。
さすがにこれは看過できなかった。
ふたりともが主を捨て置き屋敷を離れるなど、今までにあったろうか。頬に手を当て記憶を探る。
……答えは否。いや、ありそうなことだったが、実際一度たりともなかったことだった。
眩しい。
青さばかりの空を、急に目障りに感じる。
凪を通して久しい心の水面に、ぽたりと波紋が広がった。
おかしい。
不審。無意識に辺りを見回して――そして、妙な点に気が付いた。
垣根は桜。葉桜が並び、その向こうには木々もまばらな林がある。
いつもより、どこか庭が広い気がした。いや、そもそも我が家ではそう呼べるほどの手入れをした覚えなどない。
我が家、屋敷。だがよくよく見れば、それは屋敷というよりは、
「よう霊夢」
「……霊夢?」
振り向いた。
いない。
見上げた。
いた。
頭上に、箒が一本。と、それに腰掛ける魔女がひとり。見下ろしている。
「なにぽかんとしてんだ。撮るぜ?」
「……霊夢が、どうかしたの?」
柄にもなく、声がいくらか上ずっていた。
そのせいか、はたまた別か、魔女は口を妙な形に歪めて、
「……大丈夫か? 熱があるなら迷わず寝てるだろ、お前なら」
確かに自分はよく寝るほうだ。ただそれは、別に必要に駆られての睡眠ではないのだが。
「……ええ、そうね。よくわからないけど、疲れているようだわ」
「ああ。心配するな。その間、私は茶を飲んで待っててやるよ」
地面に降り立つなり、腰に手を当て片手を口に、喉を鳴らしてみせる魔女。苦笑する。
「 が怒るわよ」
き、
「 ? なんでそこでそいつの名前が出るんだ?」
きしり、
「え?」
その笑みが、そのまま別種に入れ替わる。
自分の声が、耳の中で跳ね返る。
「どういうこと?」
「どういうもなにも、あいつんちは だぜ。なんでここにいるんだよ」
きし、き、きし、と頭が痛む。達磨落としに抜かれたように、声が千切れて突き刺さる。
顔をしかめる。冗談ではない。といっても、魔女の表情、口調にも、冗談どころか虚偽の欠片も見られない。
もう一度、振り向いた。
敷石、縁側、柱、屋根、瓦、鬼瓦、その向こうに、
鳥居。
ひときわ強い風が吹く。追い風だった。見慣れないリボンがはためき、視界の隅で揺れていた。そのリボンの向こう、屋根の先に、朱い、木々を突き抜く鳥居が見える。
そのとき、自分の顔は相当に奇矯なものだったろう。
「……魔理沙、鏡、持っているかしら?」
「ん?」
背を向けられたまま問われた魔女は一瞬怪訝に思ったようだったが、さりとて迷うことはなく、少し懐を探ってから、丸い手鏡を放った。
受け取り、覗き込む。映り込む。
「…………………」
飾り気のない黒髪。どこか冷めた黒瞳。濃くも薄くもない肌の色。それをわずかに彩るリボンは赤。
博麗霊夢の顔だった。
映っているのが自分の顔なら、自分の顔がそこに映る。基本以前の事実であって。
なのに、どうしようもなく、博麗霊夢がそこにある。
その博麗霊夢は鏡の中で、自分の頬を自分でつねる。
びい、
――痛。
やはりというかなんというか、こちらの頬も痛かった。
歩き、疲れ、深く眠ってなお眠り、
眠り、眠り、眠りの海になお沈む。
――海の境界――
傍らに降り立つ音。声。視線は地面に刺さって抜けず、朝露に濡れた雑草と、履きなれた感のある擦れた草鞋を映す。
思考停止は、およそ四半秒。
「……霊夢? おい、ほんとに」
「大丈夫。問題ないわ」
いよいよ深刻そうな顔をする魔女、霧雨魔理沙を手を上げて制し、「妙な顔しないでよ」と軽い調子でつぶやいた。
「別に、昨日は寝不足だったから、なんだか寝ぼけてたみたい。はい、鏡どうも」
放られた手鏡を呆けた表情で受け取ると、魔理沙はようやく苦笑を見せた。
「…………みたい、だな。いやぁ、びっくりしたぜ。来てみたらさ、雰囲気がほらなんというか、」
「 、みたい?」
きし、
冗談めかして、自分の名前を言ってみた。もう慣れたのか、痛みは燻る煙のように消えつつあった。
「それ。いやぁ、化けてんのかと思ったぜ」
「そうかもね。判る?」
「ああ。さっぱりだ」
魔理沙は笑って、こちらも少し笑って、魔理沙はまた笑って、こちらは笑みを引っ込め背を向けた。
気まずいのは願い下げだった。
「とにかく入りなさい。何番煎じが欲しい?」
くるりと屋敷、もとい神社の母屋に向き直る。
「そうだな。なるたけ茶の味が濃いものを頼むぜ」
すでに復調したらしい。箒を柱に立てかけて、こちらは早くも準備万端だった。
「期待はしないでね」
一声告げて、『博麗霊夢』は奥へ消える。その背中を、視線が一対刺している。
眠りの海は空色で、
始まりは知らず、終わりは未だ見ず、
底は闇に巻かれ、天は光に紛れ、
ようは皆目判らない。
縁側に座布団と盆を置き、座る。魔理沙はしきりに尻が痛いとぼやいていた。座布団が一枚しか見当たらなかったのだから仕方がない。
「薄いなぁ。相変わらず」
前振りの通り片手で一気に飲み干すと、かたんと湯のみを脇に置き、つぶやく。
「そうね。でも、茶の味のする白湯だと思えば得した気分になれるわ。今後はそう思いなさい」
「ひでぇや」
ひとしきり笑った。
明と闇の境界だった。
霧は時が経つにつれ文字通り霧消、そのうちに底の見えない光が地面を白く輝かす。一方で、母屋の中には追いやられた影が逃げ込み、陽射しに抗するように部屋の其処此処に張り付いている。
急須を引っ掴み、勝手に二杯目を注ぎ始める手をぴしゃりとはたいた。
「で、今日は如何用かしら? 茶菓子も持たずに」
「つれないぜ。私と霊夢の仲だろう?」
「そういうほどの仲かしら」
「ひでぇや」
「で、本題は?」
「かくまってくれ。アリスに追われてる」
「あら、大変」
『博麗霊夢』は無言で傍らを指し、こつんと叩いた。「縁の下か?」魔理沙が渋い顔をした。『博麗霊夢』は薄く笑った。
「そのままにしてろって意味」
「へ」
「だって、ほら」
『博麗霊夢』の視線は庭先に向けられていた。それを追う魔理沙の目が、ある一点で硬直する。
羽根を生やした人形が、庭の片隅、一本の灯篭の上に座っていた。目に覚えがある。頭のリボン。
そして、その後の魔理沙の行動は迅速だった。
一足飛びに庭に出ると、取り出す符を一閃。強烈な発光。
数秒後、目が光に慣れた頃には、手前の地面に浅いクレーターを残して消えていた。魔理沙も、立ててあったはずの箒も、また、灯篭に留まっていた人形も。
「元気ね」
同意するように、林の奥で、フライング気味の蝉が一声鳴いた。
思いの他、夏は近いらしい。
こちらも二杯目を注ごうとして、急須を手に取り傾ける。と、急須の口は一滴ほど汁を垂らして沈黙した。
あら、と苦笑が漏れる。庭の空気が、一層白く明度を上げた。日差しが強くなるのを感じる。ちりちりと皮膚が乾く感覚が心地よかった。
透明な風が庭を抜ける。枝の擦れ合う音。陽射しが白む。
しばらくして、山の向こうから断続的に音と光が届いてきた。見つかったらしい。
そこで初めて気が付く。
魔理沙が腰を下ろしていた場所に、一冊の本が置いてあった。これが追われる原因とすると、彼女は自身を囮にしたらしい。
使い魔の目でしか捕捉されていなかったあの段階での判断としては、奇抜ではあるがなかなかにいい。
正座のまま擦り寄り、手にとってみる。
見る限り魔導書の類ではなさそうだったが、その頁は図太い鎖と南京錠、それに付随する呪縛の類で、表紙もろとも闇雲に括ってあった。
この辺りの無用な厳重さが、あの蒐集家のアンテナを奮わせたのか。となると、その内容など確認も取ってないに違いない。『本物の』霊夢の言う通り、本当にどうでもいいことにばかり力を注ぐ。
背表紙には、鎖の隙間から『D』と、一文字分空けて『ary』の文字が伺えた。おそらく抜けているのは『i』。よく見れば装丁も乙女色だった。
人形遣いの少女とは直接の面識はさほどないが、その血涙だけは容易に想像がついた。
食指が、指と一緒についと動いた。が、この身体の手前、だろうか。らしくもなく躊躇われた。
そこで指を戻す。少しでも躊躇うともう興味が退く。そういう性質だった。
内容も大方の予想が付くし、構うまい。この際だ、いろいろと演じてみるのも悪くないだろう。
数十分後、七色の魔法使いに吊るされた、部品の随所を焦がした箒とその黒い付随物が境内に下りてくるまで、『博麗霊夢』は茶をすすり続けていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「ひでぇぜ……」
透明な風が庭を抜ける。枝の擦れ合う音。陽射しが白む。
唐突に、
自分の生は何色だろう。己の生はどこで分かれているのだろう。
そう考えることがある。でも考えるだけ。
夏が近い、というのはあながち間違いでもないらしい。
昼を半ば過ぎると、空は急速に色を変えた。
神社に来たのは久しぶりだというアリス・マーガトロイドは、進んで急須に茶を淹れ直し境内にひと時留まっていたが、隙を窺っていたらしい魔理沙が件の書を強奪、遁走。結果として、湯飲みにもろくに口を付けぬままに去っていった。
それから一、二刻。煙を上げて飛んでいった魔理沙が残した白い箒雲も、追いすがるアリスが放っていったレーザーの大気を灼いた跡も、雲の海に巻かれ、今はどこかは判らない。
その場を離れるのがなんとなく惜しく、昼飯は抜いた。それでも別段空腹を感じなかったのは、身体が既に昼食という概念を忘れかかっているからだろうか。
悲しいことだと空を仰ぐ。浮かぶ雲は白に青を透かした水色で、太陽はその切れ間から弱い光を滲ませている。風は強く流れは速い。雨雲の類ではなさそうだった。
視線の先から日傘が降ってきた。
見慣れたものとは違うが、簡素ながらも技巧の凝らされたものと見える。それがゆらゆらと、風に揺られながら境内に降りてくる。
ばさ、
と傘が地に着いたと同時に、少し浮き上がった。高さはおよそ、人ひとり分ほど。影は無く、日傘のものだけが薄く、地に落ちていた。
「こんにちは」
顔を隠すように傾けられた傘の下から声が這い出てきた。くるりと柄を返す細腕。薄い陽射しに霞む薄氷色の髪。血色の翼。緋色の目。
「こんにちは。今日は咲夜はいないの?」
「所用でね。今日はひとりで来たの」
雲が出てきて助かったわ、とその吸血鬼は言い、ご機嫌な様子で傘を閉じた。傍らに先の魔理沙を踏襲するかのように尊大に腰を下ろすと、どこからかカップとポット、ソーサーその他を取り出した。
軽く目を見開く。それだけのものがどこに収まっていたのかということに。それと、そういう行為をこの吸血鬼が取るということにもだった。
脇に置かれた傘を見る。内側になんらかの感。あのメイドの技巧だろうか。閉じた傘口から次々と溢れてくる器の数々。便利なものだ。
見る間に一通りの用具が出揃う。最後に床に大きなハンカチを敷き、そこに丁寧に並べていく。
「咲夜と練習していてね。だいぶ腕は上がったはずよ」
「練習」
知らない話だった。が、おおよその想像は付く。
「じゃあ、その腕拝見させてもらおうかしら。レミリア」
ちょうどいい。ここは単なる食客に徹しようと判断した。なんだかんだで小腹も空いている。
レミリアは不敵な笑みを浮かべた。自信の程が伺える。
「ええ。デーモンロードの淹れた紅茶が飲めるあなたは果報者よ。霊夢」
「そうね。でも血は混ぜないでね。BもAも」
いろいろ疼くし。
「気をつけるわ」
それから、数分ほど待った。
その間も日は雲から頻繁に顔を覗かせては引っ込ませるを繰り返し、その都度彼女も顔しかめては緩めるを繰り返しつつ、真剣な眼差しで作業を続ける。
そして最後ソーサーに置かれたカップからは、ほどよい温もりと香りが漂っていた。色は見事な真紅。なんとも紅魔の主らしい。
「では」
「どうぞ」
ソーサーごと持ち上げ、口に運んだ。カップを浮かし、口を付ける。
「……」
「どう、かしら。霊夢?」
「……」
「ねえ」
身を乗り出すレミリアを片手で制す。慌ててレミリアは居住まいを正した。不自然な正座で畏まった様子の幼いデーモンロードに、せっかくの逸品を喉に詰まらせそうになる。そのまま、喉を小さく鳴らす音だけが響いた。
「……………、ふぅ」
紅茶の作法は知らない。残りを一気に飲み干し、息を吐いた。再び詰め寄るレミリア。
「ねえ、どうだった?」
「うん。そうね」
どう応えたものか。『博麗霊夢』は思案した。
思案。要は、自分と博麗霊夢の味覚の間にどれほどの差異があるかということなのだが。
レミリアの瞳を見つめ返す。紅い。それ以外の色は見えない。しかし、種々の感情が見え隠れするのは伺えた。
特に感慨は湧かない。『彼女』はこういったときどう感じているのだろう。目を向けないよう心がけているのか、それとも、目を向けてなお、
「うん。おいしい」
「……え?」
「おいしい。もう一杯、貰える?」
本当。柄にもないことをする。
それから数時間の間。実に大量の紅茶、正確には砂糖を薄く溶かしたディンブラとやら十三杯を、昼食抜きの腹に流し込むこととなった。
悪い気分はしなかった。
雲は変わらず漂い続ける。しかしその裏側で空は色を変え続け、山際では赤混じりの光を宿している。
どれだけの間生きてきたのか。
ただ、比率でいえば、六割五部以上は夢の中にいたといえる。
眠る内も生の範疇に入るかどうかは、正直考える気も起こらない。
夕陽が沈み始める帰り際、レミリアは肩越しに視線を投げてきた。
「ねえ。霊夢」
「……なに?」
剣呑な目つきはしていない。剣呑な気配も感じない。だからこそ、こちらは剣呑。
間もなく来たる夜の王たる彼女は、視線の先に矢尻を据えて、
「その辺にしておきなさい」
放つ。
宵に染まり始めた境内を、思い出したように熱気の残滓が撫でていった。
『博麗霊夢』は、前方へ向けていた手をそっと下ろす。
音もなく、眼前に浮かんでいた『それ』が揺らめいた。揺らめき、そして、瞳を閉じるように消える。
その向こうには、同じく手をこちらに伸ばしたレミリアの姿。投擲姿勢だった。視線を戻す。
「……ふん。つまらないわね」
「あら残念」
薄い笑みを浮かべる。静寂。
「ほんと。残念」
掌を上に。そこに生まれる、目玉と闇を孕んだ亀裂。思えば広がり、また思えば狭まり消える。
なるほど、力は肉体ではなく精神に付随するものだという命題は、今ここで証明されたことになる。
「いつから気づいてたの?」
「ちょっと前」
『それ』、なんでか理屈は知らないけど。とレミリアは前置いて言った。
「霊夢は日本茶以外は飲まないの。たとえ飲んでも、一言目は必ず『うちのが上よ』なんだから」
「あら。そうだったの」
報われなくて残念ね。そう言ってみた。
ついでに訊く。「ならどうして、その後ずっと頂けたのかしら」
報いてみせるさ。そう返された。
さらに答える。「せっかく、お褒めの言葉を頂いたんだからな」
気を遣われたらしい。正直、久方ぶりの体験だった。
自然、失笑が漏れた。
「そう。なら、お相子ね」
「ああ。そういうことになるわね」
『博麗霊夢』は伏し目を上げてレミリアを見据えた。『紅い悪魔』は肩をすくめ、両の翼を広げる。互いの視線が交差する。
「けれど危ないわ。私が逃げたら神社が消えていたわよ」
「そうならないくらいには見下げ果てているよ」
「あら」
ひとしきり笑った。聴き慣れない声だ、と吸血鬼は言った。自分もそう思った。
『彼女』は、あけすけに笑うことをしない。それがどうにも寂しい幼き月なのだろう。微笑ましくて笑ってしまう。
「また今度。今度はそちらに伺うわ」
「勝手にして。でも門番は殺さないようにね」
あれでも可愛い部下なんだから。吸血鬼はそういい残して、日傘を片手に、夜の闇へと溶け消えた。
見上げる。
月は雲の向こうにうっすらと霞み、剥き出しの時よりもよりいっそう優雅に見える。
うすぼんやりとしたその輪郭は、今にも雲と溶け合いそうで、しかし、決してそうはならないことを自分は知っている。
どこにも溶けず、なににも混ざらず、そういう月のような存在を、自分は知っている。
「帰ろうかしら」
耐え切れず、ぽつりとつぶやいた。
夜が明けてから更けるまで、これほどの間人なり妖なりと接していたのは、それこそ初めてのことだった。
「……そうね、帰りましょう」
少しして、またつぶやいた。
その言葉の意味を、はっきりとは見出せないまま風が吹き、そして神社は空になる。
もとより、生は無色で透明で、その内に境界はなく、色を塗るのも、線を引くのも己の所業。
そう思っている。また、それもやはり無意味だとも、どこか卑屈に感じている。
が、しかしというかなんというか、事態は自分の予想以上に深刻だったらしい。
「何奴!?」
長い階段の中腹でのこと。
薄い月光に刃筋を煌かせる庭師は、宙に浮かぶこちらの姿を見止めるなり表情を変えた。緩めはしないところを見ると、さほど歓迎はされていなさそうだった。霊夢には日頃の行いを改めて欲しいと勝手に思う。
「お前……こんな時間になんの用?」
「迷子なの。ここの主に会わせてもらえるかしら」
「迷子?」
その庭師は目を丸くしていた。
「ええ、迷子」
繰り返す。困惑顔の庭師は対応に窮しているようだった。しかし、真に困惑しているのはこちらのほうだ。
そう、困ったことに、
私は、帰る場所を忘れてしまったようなのだから。
それはちょうど、海に朱を混ぜても、物の見事に割ってみせても、すぐまた元の色に、元の器に還るように。
夢の海に終わりはない。海は好きだ。けれどもそれはそこで終。この物語とは関係のない話。
「あらあら」
「驚いた?」
「ええ、とても」
どうだか。
強情な庭師は結局刀に訴えることを決め、それを一念で返り討ちにしてから、改めて階段の最上、白玉楼へと昇った。
後頭部にいきなり落下してきた漬物石に意識を一瞬で刈り取られた庭師は、面目を喪失した顔で広間の片隅に座している。
首をしきりに振りながら、卑怯だ、いや、己の未熟だ、と不毛な自己嫌悪を続けていた。担がれて来られたのがそんなに屈辱だったのだろうか。
横目にそれを眺めつつ、ほどよくぬるい緑茶をすする。なるほど、正しい茶の味とはこういうものをいうのか。
「で、その話なんだけど」
「うん?」
唐突に切り出された。視線を向けると、畳一畳挟んだ距離で向かい合い、締め切った闇の中、行灯にあぶられ姿を浮かべる、桜を思わせる彼女がいる。
「ほんとうにあなた、自分のことを忘れてしまったの?」
責める様子は微塵もなく、背中がかゆいの? とでも訊いているような口ぶりだった。
「ええ。朝方は、……なんとなくだけど、残滓のような記憶があった。違和感もあった。でも今は――」
一端切る。一息ついて湯飲みを傾け、また一息。
「曖昧ね。なんかどうでもいい感じ」
「でも、私があなたのともだちであることは覚えていた、と。不思議ね」
ともだち、なんだか不思議な響きね。
そう言って、彼女も傍らの湯飲みを手に取った。不思議な動作で口元に寄せ、不思議な動作で喉を動かす。優雅とでも喩えておこう。
「ええ。でも名前は思い出せないの。口は言うんだけど、それをそれとは理解できない」
霊夢や黒白は覚えているのにね。と紅白の着物を指でつまんでみる。そうでもしなければ、自分の変化など忘れてしまいそうだった。
精神と肉体に相性があるとするならば、自分と博麗霊夢は意外に良好なのかもしれない。
「本当、不思議ね。それなのに、私はあまり困らないわ」
それは、正直いいことなのか、よくないことなのか。判断に困る問題だった。しかし彼女はやはり笑って、
「そう、不思議。不思議で、不可思議ではあるけれど、でもそれはそれでね、紫。あなたらしいと思うのよ?」
こともなげに言ってみせた。
「ゆかり」
それが私の名前。そう訊いてみると、彼女は口に手を当てて、楽しそうに、湧き出す苦笑を抑えていた。
ええ、ええ、そうね。それがあなた。むらさきいろの字を当てて、紫と読むの。そう言って、また笑う。
「そう」
染み込むように、自然に納得、いや理解できた。それは差し詰め、空の色を空色というかのように。
「そう。にしても本当、あなたは変わらないのね」
「どのあたりが?」
「そのあたりが、よ」
彼女は不思議な動作で立ち上がり、傍らで灯っていた行灯をそっと消した。ゆっくりと、天井から夜が染み出し、降りてくる。
彼女はもう少し歩を進め、広間の脇、並ぶ障子を幾つか開いた。それを見た庭師が、慌てて続く。
からり、からり、からり、からり、
ひとつ障子が開かれるたび、四角い光が広間に差し込み、たちまち闇を駆逐する。薄い藍色の光。月の光。畳が浮かべる陰影を、じっと見つめる。藍色の光。
藍色。藍。
らん。
「らん」
「見て、紫」
顔を上げた。左手に、彼女と庭師がいる。その向こうに、私は見る。
――桜。
桜。桜。桜。
先の先まで続く桜。
脇の脇まで広がる桜。
咲き誇る桜。散り乱れる桜。葉を茂らす桜。実を結ぶ桜。
天を覆う花びら。風に舞う花弁。降りしきる桜色の雪。
光の中を踊る桜色。舞い広がるさまは雲のように、切れ間から月の姿を透かしてみせる。
はらはらと。ちらちらと。ざわざわ。ほうほう。
月まで覆う、桜色の夜空。
「…………きれいね」
「お褒めに預かり光栄だわ」
ほのかに照る、月明かり。後光のようにそれを背にした彼女は、シルエットのままで扇を取り出す。
ここの桜は移り気でね。昨日までは禿山だったのよ。面を隠す扇の向こうから聞こえてくる。
今宵あなたが来たのは幸運ね。透き通る、笛の音のように響く声。
「これは庭師の創る芸術の極致。妖夢、よかったわね。主としても鼻が高いわ」
「……はっ」
その場に片膝を着く庭師。ようむ。彼女はその様をおかしげに眺め、肩を叩いてなにかを耳打ちした。途端、『ようむ』の顔は紅桜で満開となった。
彼女はまた笑い、そっと扇を振り、そっと開く。山と空、桜と紫の混ざり合う色彩。世界と、扇と、桜の中で、
「ひとつ、踊らない?」
彼女は、歌うように言った。
「…………そうね、それじゃあ」
踊ろうかしら。
瞳を上げ、彼女を見る。彼女を。そう、
「お願いするわ。幽々子」
思い出した。
私。
私は。
他でもない。
誰でもない。
八雲、紫だ。
少し前、友人ができた。そして失い、式を持った。
失った友人に再び出会った。また少しして、式が式を持った。
「ただいま」
すっと、浮かび上がる世界。全身を包む浮遊感が消え、代わりに濡れた土の音。
なんということはない一本の梅の木。その下に、空気を揺らすこともなく現れる。
翳していた腕を下ろすと、背後で隙間の閉じる気配がした。
庭の一角で、私は屋敷を見上げていた。
小さな土蔵を無数に繋げたような、数珠の如き外層。その内側は九割が物置、残り一割のみが生活区域であることを知るものはあまりいない。
名前を付けた覚えはないが、一般には迷い家と呼ばれているらしい。
苦笑した。
「本当に迷っちゃったわ」
脳裏は晴れ渡った頂のようで、冷え切っているが透明だった。そして今、迷いはない。
衣装を改めて見回す。紅白の袴と露出の多い薄手の上着。なるほど、博麗霊夢だ。
しかし、私はそれ以前に、八雲の紫であるということ。それが真実だった。
でもだからこそ、少し後悔がある。今頃になって湧いてくるのは、後に悔やむの文字通り。
もう少し、あちこち回ってみるべきだったかなと思う。展開は容易に予想が付くが、実際見てみるのとでは楽しみの質が違う。
まあいい。と首を振る。今日の自分はえらく物分りがいい。霊夢が幾分か混ざっているのだろうか。わからないが、そんな気がした。
機会があれば、今度はもっと楽しもう。
もう一度、今度は目の前に隙間を開く。分け入った。
暗転。
再び現出。
きし、と床が鳴いた。
どうやら、残り一割に当たったらしかった。
どこか黴臭い空気。微かな息遣いに揺れる埃。天井際の明り取りからは、透けた光が湧き水のようにこぼれ続けている。
古びた、式の彼女以外は入ることも稀な調理場だった。式の式は刃物使いが危なっかしいらしく、彼女が決して許可しなかったのを覚えている。
視界の片隅には、外界から適当に寄越してみた、足長広めの食卓と、椅子がある。指の挟む間もないほどに種々の食器が積み重ねてあり、触れただけで崩れそうだった。
薄暗い部屋の中では、全てが死んでいるようで、全てが命を宿している。そういった世迷言に納得してしまうだけの空気。
自分の家、だというのに、どこかよそよそしさを感じた。屋敷にまで嫌われたのだろうか。それこそ世迷言だった。
「さて、あとは確認ね」
数歩歩いただけで、足元の感触が畳張りのそれに変わる。本当、狭い家だ。
八畳ばかりの、住める中では一番大きな部屋。据え付けられた電灯も、電気がなければ当然用を成さず、今は天井で沈黙していた。
その球を見つめ、物思う。
あそこまでで作業を中止したのは、確かそこで飽きたからだった。やるなら電気を引くのが先ではないかと彼女は主張していたが、なんとなく聞き流していた。
自分の部屋でもあったし、なにより飽きた。飽きたらそこで終り。それが自分の、八雲紫の数少ない規範でもある。
視線を外した。
「…………正直、どういうことだったのかしら。と思うわね」
部屋の隅のそれを見て、知らずつぶやく。
白い布団の塊。繭を連想させるそれは、柱に取り付くように密着し、僅かに上下している。
金色の細い髪が、岩から流れ出すように床に広がっている。
どうしようもなく見知った顔で、
そうしようもなく見慣れぬ顔で、
『八雲紫』が、眠っている。
「人がさんざんな目に会ってたっていうのに、まったく」
慣れない付き合い。
慣れない茶会。
慣れない演舞。運動不足だ仕方ない。
呆れる。
――なるほど。
まさに鏡を見た気分だった。
または橋の上から川面を見下ろすような。
世の中には、自分と向かい合って初めて判ることがあるという。つまりはそういうことで、
私は、日頃こういう感情を持たれているわけか。
なるほど、これは腹立たしい。
その場に、うずくまるように座り込んだ。前かがみに背を曲げた。その背が、小刻みに揺れる。
お腹が痛い。脇腹が引きつりそうだ。
口元がおかしな具合に緩んだ。両腕で、抱え込むよう胸を押さえた。
可笑しい。可笑しい。可笑しい。可笑しくて、あんまり可笑しくて死にそうだ。
目の前に自分がいて、ここに自分がいて、ここには彼女がいて、
おそらくその内側にも彼女がいる。
大声を上げて笑いたい。霊夢の声で大笑いしてみたい。どんなことが起こるやら。
しばし漏れ出す大波と戦った。幽々子の気持ちがよく判る。波が引いても、しばらくそうしていた。
そうだ、と思い出す。
呼吸を鎮める。息を潜める。感覚を巡らせ、視野を眼から解き放つ。
少し息を吸った。
吸った分だけふっと吐いた。
吐いた呼気が声になる。声は部屋を小さく揺らし、
「八雲、藍」
「はい」
外は凪いでいた。障子のかたつく音すらしない。月明かりだけが、うっすらとした輪郭を持っている。
声がした。
瞬間、心が躍った。
振り向きはしない。守り通そうとは思わないまでも、進んで失いたくはないものがある。
背後に立ち現れた気配は、大きくも威圧感は感じさせない。
「藍」
「はい」
「ただいま」
「お帰りなさいませ。紫様」
「夕餉の準備」
「しばしお待ちを」
遠ざかる足音。
畳に手をつき、『自分』の顔を覗きこむ。
――ねえ、霊夢。
私には、ね。
黒髪の少女は、微笑んでいた。丸まって眠る、金髪の女も微笑んでいた。眠気眼で。そして、寝返りを打つ。
少し前、友人ができた。そして失い、式を持った。
失った友人に再び出会った。また少しして、式が式を持った。
そして、昨日とも呼べるのほどの最近、私は、面白い人間と出会った。
いつものように部屋で待つ。
開け放たれた戸の向こうでは、青白い明かりに照らされた、九つの尾が揺れていた。
いつものように部屋で待つ。
背を預けた毛布の下で、くぐもった声が漏れていた。
頭上には灯が浮かび、周囲に白光を撒いている。藍は気が利く反面、灯が天井をじりじり焦がしていることに気づかない。
さりとて教える気もなく、それよりは、いつか自分で気がついたときの方が楽しみだった。
床の軋む音。藍がいろいろと抱えてくる。
「橙は?」
丸いちゃぶ台が目の前に置かれる。
「今日は紅魔湖に泊りがけですよ」
続けて米櫃と茶碗、椀に小鉢に箸置きその他もろもろ。昼間の吸血鬼を思い出す。
「ふうん。確か、あの辺りって群れがあったわね。そこかしら」
適当に茶碗を選んで差し出す。向こうの手と一瞬触れ合う。別に、お互いそれほど初心じゃない。
「ええ。氷精やらなにやら、知り合いが増えたと喜んでいました」
若干五秒。深さは縁が七割、高さは中心が十割飛んで二割二部。理想的なごはん盛りを完成させる。
「心配?」
受け取るなり、箸を手に取り突き立てる。
「ええ。今すぐにでも飛んでいきたいです」
主に一歩遅れて己の分の御飯をよそう。積む量も自然主から一歩下がる。
「ほれはあひらのいんりょくかひら、ほれほも――んぐ、こちらの、斥力だったり?」
噛んで、噛んで、切って刻んで飲み下す。口元の粒を指でつまみ、丸めて団子にしてぱちんと弾く。軽い弧を描き、傍らに転がる『自分』の口に吸い込まれた。
「ご想像に、んぐ、ほまかへひまふ」
汁椀を傾け、煽るように飲み干す。彼女には先に具を食べ切る癖がある。
「いつ気づいたの?」
菜っ葉の漬物を口へ放り込む。
「いつの間にか、なんとなくです」
同じく漬物をひと欠け噛む。そして御飯を二口含む。ゆるゆる咀嚼。
「ずっと寝ていたのに?」
こちらも汁を煽った。さいころ豆腐とワカメが喉に引っかかる。のた打ち回った。
「私達は、紫様の面の皮を主としているわけではありませんから。――どうぞ、これを」
腰を浮かし、水を注いだ湯のみを差し出す。
「そう。――ねえ、藍」
「はい」
気がつけば、櫃も小鉢も残らず空になっている。具は喉元を無事流れ去り、人心地。畳の上、大の字になって横たわったままで少女は告げた。
「今晩は、橙に付き合ってあげなさい」
「……よろしいので?」
間。
向けられる、期待の滲む目。まあ、仕方あるまい。と少女は思う。
「ええ。いってらっしゃい。その代わり」
間。
「なんでしょう」
間。
「脱がないようにネ」
さらに間。背中の毛布が大きくうねり、「ぐるじい」という声が漏れる。
寝苦しい夜は、大抵重い夢を見る。
その逆に、重い夢を見るから寝苦しいときもある。
そういう夢は大抵重石の形をとる。そして苦もなく壊される。
「よい……しょ、っと」
ぼふ、
と畳と空気を叩く音。埃が舞い上がり、月明かりに照らされる中はらはらと散る。頭上の明かりは、とうの昔に消えていた。
にしても、今日という日は、布団にやたらと縁がある。
二枚組で敷くなどという無粋な真似はしなかった。敷布団を二枚重ね、枕は蹴り出し、柱に根を張る『自分』を引き剥がす。
「藍ったら、お皿洗いくらいしていって欲しかったわね」
今となっては過去の出来事、天井を突き破り、夜空へ涙ながらに消えていった式に思いを馳せる。
おかげで幾星霜ぶりに食器の片づけをする羽目になった。とはいえ、意外に面白かったので別段腹も立たなかったのだが。
「さて、と」
丸まった布団ごと『自分』を担ぎ上げ、床に敷いた布団に投げ落とす。どすん。床が僅かに揺れ、埃がさらに巻き上がる。
これは本格的に大規模な掃除が必要そうだった。そのうち藍に言っておこう。
身を屈め、両手の指を蜘蛛の如く蠢かす。含み笑い。花びらをめくるように、一枚一枚、布団の幕を剥いでいく。気分はさながら吸血鬼だった。
そのうちに細い肩が覗く。白い足も覗く。薄く光る二の腕が覗き、腰が覗き、最後の一枚を剥いだところでようやく気がつく。
「裸じゃない。私」
そのままの意味だった。身体を横倒しにして背を曲げた姿はいかにも幼子で、本来の自分ならまず見せない。壁で繭を張るのが常だった。
そんな『自分』を上から見下ろす。体外離脱に似た情景でなかなかに面白い視点だ、とひとり思う。
早々に片付けようと思う一方、相手が眠ったままであることに一抹の不満。
「まあ、今は寝ててもらわないと……ねえ、霊夢?」
外面はあくまで自分のイレモノではあるが、今はそれは捨てておく。外見にこだわらないのは自分の数少ない美点であると思っていた。
さて、と頭に手を差し込み、リボンをほどく。指先で端をつまみ、抜いた。
しゅるりと髪ずれの音がして、肩にかかる重量が少し増す。両耳前で束ねた房も解き、傍らに放る。
あとは早かった。この巫女の軽装ぶりには痛み入る。腰を下ろすと、膝が布団に沈み込んだ。すぐ目の前に顔がある。
一度、舌先で唇を濡らした。『自分』のものほど厚みがない。やはり、そういうところは幼い少女だと感じる。
意識するより先に口が笑みを作った。表情豊かな身体だった。となれば、自分に対するあの無愛想さは霊夢の心に問題があるのだろうか。
まあ、そこが可愛い訳だけど。
「――うふ」
さて、事件の解決に乗り出そう。ついでに身も乗り出そう。
うっすらと首筋に汗が滲む。こういう緊張とは無縁だったが、状況が状況だ。
馬乗りになり、肩に手を伸ばす。触れるなり押し倒す。腰の左右に膝をつく。ぱさりと落ちた手を掴み、ワルツを踊る番のように、そっと手の平を重ねた。
「悪いわね。あなたはお堅いから、こうでもしないと」
どちらのものか、喉が鳴る音。
近づいていく。
瞳が触れ合いそうなほど近く、鼻先が突きあうほどに近く、唇が重なり合いそうなほど近く、近く。
「……こういうときに帰ってきたりしないでよ、藍」
「…………ん、」
薄闇が降りているのが救いだった。
全てが終わった今だからこそ思う。
面倒ごととは無作為な行為の中で生まれるのが常であり、今回もまた、その例に漏れることはなかった。
寝ぼけていたのだろうか。
重石といっしょに、私は妙なものまで壊していた。
それを壊したのは偶然だろうか。ただ少し、そうなることを望んでいたそれは。
青。
――あら、紫?
上下も左右もなにもない。
――ええ。霊夢、『私』の居心地はどうだった?
透明な青。
――どうもしないわよ。わけがわからないわ。どういうわけ?
彼方まで広がっている。
――プロテクトというのかしら、防衛本能みたいなものよ。目が覚めないのはそのせいね。
その実、眼前で途切れている。
――呆れた。身体の芯まで怠惰と眠気が染み付いてるわけね。
不定形な世界。
――酷いわ霊夢。
そんな中。
――ここでは替わってないのね。
そこを横切る形で浮かぶ。
――ここは夢の海中。身体は蚊帳の外だもの。
八雲紫が浮かんでいる。
――よく判らないわね。
その姿。
――酷いわ霊夢。
漂っている。
――ねえ。
それでいて、どこかに根ざしている。
――なに?
どうでもいい、立ち位置が違うだけだろう。
――どうしてあんた裸なの?
胡乱な頭でそう断じる。
――さっき脱がしちゃったのよ。
眠気がどうにも振り切れない。
――脱いだ、じゃなくて?
それは『どちら』の眠気だろうか。
――今の『私』はあなたなの。それを見ちゃったからつい、ね。
紫は肩をすくめてみせる。
――……。
たゆん。
――最悪。
唾棄の嵐をかましたい。
――さっきから酷いわ霊夢。
どこまでも笑う。
――そのへんにしておきなさいよ。
どこまでも眠い。
紫はもう一度肩をすくめる。
視点からは直行したまま、ふわっと宙に浮く。
鼻先に顔を近づける。
瞳が触れ合いそうだった。
色の読めない瞳。
――今回のあらましが聞きたい?
海中から見る陽射しのように、変わる色。
――聞かなきゃ駄目なわけ?
眠い。
――ご自由に。
すごく眠い。
――じゃあ、いい。
ここでは意味を成さないはずの身体。
――あら、つれないのね。
それが未だにあるような。
――とにかく、早く解決して。
まぶたが落ちかかる。
――まあ、おねむさんったら。つまらないの。
つまらなそうで、楽しげな笑み。なんとなく、不満。
――じゃあ、一言でまとめて。
意識が消えそうだった。
――そうねえ……。
浮かび上がる。
『少しの間、ふたりの距離はゼロになっていた』なんてどうかしら。
引き上げられる。
――ロマンチック、ね。路線がずれてるけど。
自由になる。
――あら、私は悪くないわよ? 夢のせい。
もう限界だった。
――ふぁ、う……夢……?
吐息が漏れる。
――そう、夢。私の夢に割り込むくらいの、どこかでおかしな――……
繋がりが断ち切れて、声が漏れて、
――もう、いいわ。おやすみ、紫。
妙なことを言った。とは、ただ眠さばかりが先に立っていたその時は思わなかった。
――あら。
彼女が目を見開くのが、切れ切れに、
――…………そうね。おやすみ、霊夢。
切れ切れに、見えて、
――そうだわ。ちょっと訊いてみるんだけど……霊夢?
そのまま消えた。
いつもそこにいた。いつまでも底にいた。
見上げていれば全てが見える。ここは暗い。上は明るい。ここからならば見渡せる。
そうしていつもそこにいた。眠りの海の底にいた。
浮上していく意識。
暖かな光。頬を照らす熱。ぴくり、指が震えた。さらに上へと浮き上がる。
眼が覚めた。
五感が体を成す。暗幕のように垂れ下がるまぶたが重たく、視界は思いのほか白く、光が手前に差し込んでいるのが見えた。見慣れない部屋だと思った。窓は小さく、天井は高く、一角が炙られたように焦げていた。全体的に薄汚れた部屋だった。
ついでのように遅れて、沼の底のような濃い気、妖気の類が肌をなめる。怖気は走らない。感じ慣れたものだった。身を起こそうとして、下半身に妙な重量を感じる。よろめいて、傍らに手を付く。途端、どろりとした液体に触れた。
二の腕に電気が走った。
周りには無闇に乱れた布団が、それこそ死体のように幾つも転がっていた。
そしてその中、右手の下の一枚が、小さな沼と化している。
薄黄色い窓を透かし、差し込んでくる、鈍い光を跳ね返す、
よだれのぬまに。
首筋を悪寒が駆け抜けた。
浮ついた頭を懸命に働かせる。思考全てが千路に乱れる。まるでまとまらない。
のっそりと、重い身体を傾ける。それだけで、腹の重石が転がり落ちた。
金髪を全身に絡みつかせた、万年寝太郎、大妖怪だった。太郎はどうでもいい。
胸元で光が跳ねる。てかる。よだれで光る。どろどろだった。服など着ていない。どろどろだった。
だんだんと、皮膚の感触が鮮明になる。毛布の衣擦れがひどくくすぐったい。
全身くまなく、汗とその他でぐっしょり濡れていた。
「……うえ」
眠気眼でつぶやいた。自由になった膝を曲げ、のっそりと腰を上げる。布団に埋もれていた半身が、外気と触れ合い鳥肌を立てた。
窓の光が、部屋に真横に入り込む。朝のようだった。
まぶしい。
早朝、部屋の中の冷えた空気が、ゆるやかに熱を持っていく。
足首を尻に敷いて、窓越しに、ぽかんと外を眺めていた。鳥の鳴き声がした。
ふと気がつく。
「…………夢、って、言ってたかしら」
ミノムシ状に布団に包まった、スキマ妖怪を見下ろした。気の抜けるような寝息を立てていた。少し覗き込むが、髪に隠れて表情は窺えなかった。
違う。思考を止めるな。
問題は、まだ解決したわけではない。
頭は一瞬で晴れ渡った。
視線を走らせ、部屋の片隅に置かれた紅白衣装を見つける。とりあえず手近で綺麗そうな毛布で身体を拭いた。くまなく拭いた。必死で拭いた。その後サラシを巻きリボンを結び、上着袴また上着、最後に胸にリボンを付けて、博麗霊夢は迷い家を飛び立った。
「……こんなの、もう二度と御免なんだからね」
朝焼けの雲を抜け、遥かな空を一路、神社へ。
彼方を夢見ていた。
背中合わせの彼女とは、決して視線は混ざらない。
けれども存在を感じる。
その距離を、戯れに縮めてみたい。
そう思うことがあった。
そしてやって来た、寝苦しい夜。
たまたま、偶然が重なったのだろう。
本当、世の中は面白い。
祓い棒を一本、符は適当に。見繕うなりすぐに神社を離れた。
冥界。
「あら。…………あなた、霊夢?」
「寝ぼけてんの? それより、大規模な結界に心当たりはある?」
「寝ぼけてなんかないわよ……そうね、桜花結界」
「ごく最近のもの」
「じゃあ知らないわね」
「そう。じゃ」
「あら、そういえば妖夢は?」
「外で伸びてる」
「あらあら」
永遠亭。
「……なにしに来たの? こんな朝から」
「結界、作ったでしょ?」
「結界。どうだったかしら、永琳?」
「いえ。ここのところは別に」
「そう、じゃ」
「ああ、待って。鈴仙は?」
「庭で伸びてる」
「あらそう」
紅魔館。
「あら。霊夢? その中も霊夢?」
「知ってんの?」
「ええ」
「そう。ま、どうにかね。それより、ここで結界作ってる?」
「……なんで、そんなこと訊くの?」
「あらビンゴ。こっちの事情よ、黙秘するわね」
「駄目。教えられないわね。……特に、あなたたちには」
「誰とひとくくりにしてるのよ、あんた。とはいえ、駄目というなら、こっちは弾に物をいわせて――」
「ようレミリア」
「あ」
「え?」
「ようやっとだぜ。陣の再配置はぼちぼち……」
「……魔理沙?」
「あちゃぁ……」
「……え、なんだ。なんで紫が?」
「……あんたもか……。って、今なんて?」
「え、と……なんで紫が?」
「それは読めた。その前!」
「陣の配置はぼちぼち」
「それだ! ――レミリア?」
「……もう、やむを得ないわね。咲夜、霊夢を連れて行ってあげて」
「はい」
「あ、それと霊夢。美鈴は?」
「門で伸びてる」
「そう」
わからないわね。という声が、天井ばかり高い地下道に木霊した。
「気づいてたんだったら、そのときとっとと暴いちゃえばよかったのに」
「いやぁ、なんか新鮮でさ。素直に茶を出してくれる霊夢は」
「それだけで気づくもんじゃないでしょ……なんで判ったの?」
「なんでって、なぁ」
松明の火をくぐるたび、頬をよぎる影が背後へ消えていく。足音が高く響く、声が跳ね返る。
一歩足を進めるたび、見えない膜が身体を抜けていく。弱電が走る。圧迫感と、それを緩和するための、また別種の圧迫感。
なるほど、境界。あるいは強力な結界。ひいてはそんなものを張らざるを得ない存在。なぜここを先に思いつかなかったのか。
しばし口をつぐんでいた魔理沙は、まとまらない様子でつぶやいた。
「私や……あのときはアリスもいたが、別にお前の面を拝みに神社に来てるわけじゃないんだぜ」
「じゃあなに?」
「うむ」
口ごもる。妙な沈黙が続いた。
斜度の低い階段が、螺旋に下へと続いている。そのまま、しばらく無言で降りた。
ようするにだなぁ。
魔理沙がようやく、いくらかやけくそ気味に言ったとき、階段は狙い済ましたように終わりを告げた。
少し広い空間。しかし収まりようのない閉塞感。教会でいうところの懺悔室に似たものがあった。
正面に、扉。左右に、ひときわ大きな松明。それ以外の壁一面は、円状、線状、様々な形の記号が、天井にまで及んでいた。
「ようするにだなぁ」
魔理沙がもう一度言う。
「ようするに?」
「そこで合いの手を入れるな。……ようするにだ、私たちは、『博麗霊夢』に会いに来てるんだ」
「……『私』に?」
「それだけだ。補足はやらん」
「……そう」
それはどうも、ありがとう。
向き直る。事情は飲めた。今はいないが、咲夜からも話は聞いた。
「フランの揺り籠を作ろう、というわけ?」
「正直、私は納得いかんのだがな。これは揺り籠というより牢獄だ」
「静まらない狂気、ねぇ……」
向こうにもいろいろあるらしい。肩をすくめた。
月に一時期。満月を挟む一週間だけ、ここは悪魔の妹、かのフランドール・スカーレットの仮住まいになる予定らしい。
まあ、おおよそ五百年放置し続けてきた問題を、この数年でゼロに戻そうとしているのだ。相応の負荷はやむ終えまい。そう思う。
片隅に視線をやる。
あちこちに脚立が転がっている。他にも食料だかなんだか、ゴミ袋らしき塊がその足元に無数にうずくまり、彼女の覚悟を、その全身から伺わせていた。
彼女は、魔理沙は優しい。馬鹿げてることもあるけど、まあそれも彼女なのだろう。
ふむ。
「私も、手を貸そうかな」
「……本気か?」
「私の正気は、ここに来た時点で証明済み。まあ、気まぐれ以外の問題もあるし」
袴の裾から、符を一枚、続けて一枚、また一枚、計三枚。角を揃えて、蜀台を一掴み。蝋を垂らして張り合わせた。
「ちょい、そんなんでいいのか?」
「いいの。特製の一枚より、この方が火急の事態には強いんだから」
言って、天に向かって放る。懐から祓い棒を取り出し一閃。一念。合わせ札は、そのまま天井に張り付き、溶けるように消えた。
「はい。終わり」
「終わりか」
「そっちは?」
「さっきの時点で終わってる。おとついの夜に急に陣が根こそぎやられてな。それで今までかかってたんだが」
「ふむ……なるほど、そういうこと」
「なにがだ?」
「いや、なんにも」
「まあいいや。とにかく、あとは月の満ち欠け任せだぜ」
「そう」
じゃあ片付けないとね、ここら。
そう言うと、魔理沙はげんなりとしていた。その肩をぽんと叩いてへらりと笑う。あとで咲夜にでも頼んでおいてやろう。
軽く言葉を交わして、もと来た道を帰った。しばらくして、片手を付いていた壁がどくんと震える。早くも結界が作用し始めたのだろう。
これで、ここの結界はさらに強固なものになるはずだった。
ついでにいえば、もっと『あいつ』は。
「これは警告だからね、紫」
見えない彼方を睨みつけた。遠く迷い家で、布団がひとつ、見知らぬ気配にぶるりと揺れた。
「もう一度やったら、今度は大結界を張るわよ」
指まで突きつけて、宣言した。遠く迷い家で、布団がひとつ、見知らぬ殺意にびくりと震えた。
「覚悟なさい」
そして視線を伏せ、歩き出す。背後の松明が、その背を一層赤く彩り、やがて闇の中に見失った。
幻想郷は、今日もおおよそ平和に朝を迎えた。
因果応報という言葉は好きじゃない。
なぜって、自業自得と意味が似ている気がするから。
博麗霊夢は四字熟語だろうか。そうに違いない。彼女こそ、私にとっての因果応報なのだろう。
まったく、怖い怖い。饅頭怖い。博麗怖い。
それから数ヶ月、八雲紫は珍しく、ひどいいびきを掻き、夢の中で裸の式が踊り狂う、ひときわ寝苦しい夜を過ごしたという。
海の底を、少し離れたくなった日のことだった。
<終>
若干の脳内補完が必要でしたが苦ではありませんでした。
正直者の狂気とも言うべき不・常識、堪能させていただきました。
私には、心地よいものでした。
でも綺麗な日本語の波、ほぅぅ………………心の栄養です。