夕闇迫る小道を、少年が駆ける。
この情景だけを遠目に見たら、遊びに熱が入りすぎた為少々帰る時間が遅くなり、家で待つ母親に叱られぬよう急いで家路に着いているようにも思えるだろう。友達と何かに熱中するあまり時が経つのを忘れるのは、年頃の少年ならば誰でも経験する事だ。
しかし、今ここで道を駆けている少年が目指しているものは、決して自分の家ではない。それは、彼の表情を見るだけでも判る。
彼の顔に浮かんでいるのは、悲壮、憤怒、あるいは決意。いずれにせよ、自らの家に帰ろうとするものが浮かべる表情ではない事は確かだ。
彼が目指すのは、ある一軒の店。彼の住む里からは外れた位置にある、風変わりな道具屋であった。
◆ ◆ ◆
「……いらっしゃい」
身体ごと、と言う表現そのままに、その少年は店へと勢い任せに飛び込んできた。
そして店主である森近霖之助はその落ち着きのない光景を一目見て、あまり真っ当な対価は得られなそうだと内心嘆息しつつも、一応の挨拶をしたのだった。
挨拶を受けた少年はと言うと、いまだ肩で息をしていてまともに答えを返せる状態ではなく、霖之助は今にもやれやれと言わんばかりの口調で二の句を告げた。
「何を求めてここに来たにせよ、取り敢えず今君が一番に求めるべきは新鮮な空気だろう。息が落ち着くまでは、そこらにでも腰を落として休んでると良い」
しかし少年は霖之助の好意を受け取る気は更々ないらしく、息を落ち着かせるどころか、息を荒げたまま霖之助の方へとつかつかと歩み寄る。
そして彼は、開口一番店主へと自らの思いをぶちまけた。
「妖怪を倒す道具が欲しい」
そう、一言を。
まともに呼吸も整っていないままの、明らかに辛そうな表情。しかし回復するのを待つ、僅かな時間すら惜しかったのだろうか。少年は、無意識に酸素を求める身体を無理矢理に押しとどめ、自らの求めるものを一言で言い切った。まるで、途中で呼吸に邪魔をされては、願いが叶わなくなってしまうとでも思い込んでいるかのように。
その切なる少年の求めは、確かに霖之助の耳朶を打った。そして霖之助はその言葉を受けて、暫し沈黙してしまう。少年が告げた言葉は、彼にとって予想外のものだったからだ。
改めて少年を検分するに、歳は十かそこらであろうか、まだあどけなさの充分に残る顔立ちである。そのような少年が香霖堂を訪れる事さえ珍しいのに、その上やけに物騒なものを求めるとあれば、霖之助の驚きも相当だった。
「巫女や魔法使いが異変を解決する時には、あんたが作っている道具を使うと聞いた。それが欲しい」
沈黙が場を支配している間に息を整えたのか、いつしか落ち着き払って真っ直ぐに立っている少年が、霖之助を真正面に見据えたまま言う。
霖之助は、少年のその視線にどこか不穏なものを感じる。何か、その瞳の奥に隠しているものがありそうだと。
内奥に隠れたものの正体を探る為には、じっと見つめ合っていても埒は開かない。まずは幾つかの言葉を少年に投げかけ、そこから返ってくる反応を見てみる必要があるだろう。
そう判断した霖之助は、少年へと言葉を紡ぐ。少年の本当に欲するものを見極めるために。
「一体全体、君はその道具を何に使う気だい」
「そんなもの決まっている。妖怪を倒すためだ」
「フムン。妖怪を倒す、と。しかし、妖怪を退治するのは巫女の役目だろう。少なくとも君の役目じゃあない」
「俺は奴等に友達を殺された。だから復讐の為に、俺自身がやるんだ。巫女は、友達とは何の関係もない。それじゃ、復讐にはならない」
なるほど、と霖之助は内心で一つ息をつく。
幻想郷における人間と妖怪の距離は、ここ最近で急速に近付いている。とは言え、やはりその二者の間には、暗くて深い溝がある。近頃はその溝が細くなったが為に、その存在に気が付いていないまま境界へと近寄るものも多い。
だが事が起これば、その溝はすぐさま、決して変わらぬ両者の関係を浮き彫りにするのだ。即ち、捕食者と被食者という、絶対に相容れぬ関係を。
そして彼も、その関係に気が付いてしまったのだろう。友人を失うという耐え難い事実故に。
そう、まさしくこれは事故なのだ。
今の幻想郷では、妖怪に喰われるものは殆どいない。それ故に、皆忘れているのだ。人は、簡単に死ぬものだという事を。『不当な理由で命を絶たれる事など有り得ない』などと思い込んで。
しかし『殆ど』と『全く』は天と地ほども違う。どれだけ取り繕おうとも、喰われる人間は存在する。最早事故としか思えないほどの、不幸な確率で。
人々は皆、その零ではない『死ぬ確率』から目を背けて、『自分は大丈夫』と思って生きている。だからこそ、いざ自分が事故に巻き込まれた時、その有り得ないはずの貧乏くじを引いた時の衝撃は、計り知れない。
そして友人が出会った事故の衝撃の強さ故に、その近くにいた少年は目を覚まし、溝に気が付いたのだろう。
ようやく得心がいったと言わんばかりに、霖之助は一人頷く。
いつまでも一緒にいると思っていた少年の友人は、不幸な事故にあって彼の目の前から消えた。まだ幼いと言って良い少年にとって、その出来事は消し去れない恐怖を植え付けた事だろう。自分もそうやって消える可能性がある、と。
だからこそ少年は、今度は自分が事故の被害者になる恐怖を少しでも拭う為に、道具を求めたのだろう。復讐という言葉で感情を誤魔化して。
少年の行動の理由は判った。ならば、それにはどう答えるのが一番面倒がないやり方だろうかと、霖之助は考える。『一番良い』やり方ではなく『一番面倒がない』やり方を考える辺りが、実に森近霖之助らしいと言えるだろう。
考え始めてからそれほど間を置かずに霖之助が考えついた方法は、少年に自分のしたい事が一体どういう事なのかを教える、というものだった。
「君の言いたい事は判った。だが、君はさっきから本心を言葉で誤魔化している。君は、妖怪を『倒したい』のではないだろう。『殺したい』のだから」
少年は、『殺される前に殺してしまえば、自分が殺される事はなくなる』と思い込んでいるのかも知れない。恐怖に駆られた人間は、その恐怖故に思いも寄らぬ大胆な、言ってしまえば何も考えていない行動を取る事がある。冷静な者から見れば、無駄にして無謀としか思えない行動を。
少年は、落とし穴を恐れるあまり、その落とし穴を躍起になって塞ごうとしているのだ。その穴を自分一人の小さな力では塞ぐ事など出来ない事も知らず、落ちない為の術などいくらでも転がっている事なども知らず。
そう考えた霖之助は、まずはその穴を塞ぐという行為の意味の無さを説く事にしたのだ。
「僕が巫女や魔法使いに渡したのは、あくまで『倒す』為の道具だ。『殺す』道具ではない。例え道具を君に渡したとて、君の望む結果は得られないだろう」
「だったら! 殺す為の道具はないのか!」
話を遮るように、少年が声を荒げる。少年にしてみれば、藁にも縋る思いでこの店を訪れたのだ。目の前でその藁を取り上げられようとすれば、抗うほかないだろう。
霖之助は両掌を少年へと向け、ひとまず落ち着くようにと動きで示す。相手が落ち着いて聞いてくれなければ、いくら言葉を投げかけたとて意味がないからだ。
「まぁ待ってくれ。君は妖怪を殺したいと言うが、本当に妖怪を殺すのならば、知らなければならない事が幾つかある。それを知らずに道具だけ持っていっても、意味がないんだ」
少年は、思わず身を乗り出して霖之助の話に耳を傾ける。霖之助が今しがた言った言葉は、彼が妖怪を殺す道具を持っていると、暗に告げているとしか思えなかったからだ。
「良し、落ち着いて聞いてくれる気になったようだね」
霖之助は満足げな表情を浮かべると、少年へ向け、一つ一つ言い聞かせるように話し出す。
「何かを殺す為に知っておくべきは、まずはその何かがどう生まれたか、だ。由来を知るからこそ立てられる対策というものもある」
そこで霖之助は一つ息を吸い、ちょっとした『溜め』をつくる。ここから告げる事こそが、彼が真に言いたかった事だったからだ。ここからの展開を少年に理解して貰えなければ、彼に話をする意味がない。
「そして君が殺したい『妖怪』、これがどう生まれたか。端的に言えばそれは、中世に起きた印刷革命の力に依る所が大きい」
「いんさつかくめい?」
あまりにも予想の斜め上を行った霖之助の言葉に、少年が思わずうわずった声で言葉を返してしまう。
しかし霖之助は少年の反応など馬耳東風といった具合に、矢継ぎ早に持論を紡ぎ続ける。
「そう、印刷革命。中世において、グーテンベルクなる人物が発明した活版印刷術。それによって促された、爆発的な書籍の流通だ」
「それがどうして、妖怪を生む事に繋がるんだよ……」
「人は、自らの内に様々な想いを巡らす。しかし、遥か昔ではその想いを大多数の他者へと伝える手段が存在しなかった。それ故、空回りした多くの想いが空想として散っていった」
「一応、言葉で伝えるって手もあるんじゃ……」
「確かに、数人に伝えるのならば言葉を声に乗せれば事は足りる。だが、それよりも多くの相手に、例え時が経ったとしても想いの鮮度を保ったまま伝えるには、不十分だった。声には、どうしても時間による減衰が起こるからだ。しかし、印刷技術が発達したおかげで、人は自らの想いを本という外部装置に容易に出力、保存する事が可能になった」
霖之助の生み出す言葉の洪水に流されそうになりながらも、少年は必死の抵抗を試みる。
だが、小さな人が大いなる流れに逆らった結果は大抵決まっている。少年もその多くの前例に従い、力尽きて流される事となった。
最早、霖之助を止める事は少年には出来ず、ただただ彼の言葉を受け止めるしかなかった。
「その外部装置を通じて、一人の空想が他の誰かの空想を想起させる。その輪を次々と繋げていく事で、空想は共通認識によって形成される場、幻想という居場所を得る。そして空想を束ねる事で力を増した幻想は、いつしか一定の力場として捉えられるまでの形を得ていった。そうして結実した存在が、即ち妖怪という訳だ」
「それが、妖怪の、生まれ……」
「さて、人々の繋がりによる幻想より生み出された妖怪。もしそんな妖怪を本当に『殺す』としたら、どうすれば良いのか」
妖怪を殺す為には。その言葉に、少年の瞳が再び力を取り戻す。
そうだ、それだ。それこそが知りたかったんだ。少年は両足に力を入れ、一言も聞き漏らすものかと正面にいる店主を見据える。
「それには、人から本を取り上げればいい。文字を取り上げればいい。自らの内に眠る空想を他人へと確実に伝える術を、取り上げてしまえばいい」
「妖怪を殺す為に、人から、奪う?」
「そう。妖怪を生んだのは、人自身だからね。根本を失えば、その枝葉が枯れるのは当然だろう。しかしそれは、人の人たる文化を殺し、遥か以前の精神状態へと回帰する事に他ならない。君にはそんな生き方をする気概はあるのかい? 僕には、もちろんないが」
霖之助は、微笑みを少年へと向ける。
しかし一方の少年はと言えば、先程までの力のこもった顔はどこへやら、浮かない表情を貼り付けていた。
そのまま暫く、どちらかが言葉を発する事もなく、ただじっと相手の腹を探るような視線で見つめ合うだけの時間が流れた。
しかし、悲しいかな。両者の間にはあまりにも人生に対する経験値の差が有り過ぎた。少年には、霖之助の腹の内に抱えているものを推し量る事など不可能だった。彼が本心から先の話を教えてくれたのか、厄介な自分を追い返そうと適当な話をしているのかが、判断できなかったのだ。
結局少年はそれ以上のにらみ合いを諦め、霖之助の話に納得する事にしたのか、はてまたこれ以上話しても無駄だと悟ったのか、霖之助へと背を向ける。
既に太陽は、その姿を殆ど山間へと隠している。次第に濃くなる闇をかき分けるように、少年が店の扉を開き、外へ出ようとする。
「……さようなら、夜道にお気を付けて」
霖之助は今にも消え入りそうな少年の後ろ姿に一抹の不安を感じ、声を掛ける。
とは言っても少年の身を案じた為に発した言葉ではない。内心では、これで帰りに妖怪にでも殺されたりしたら、寝覚めが悪くてしょうがないという、自分本位極まりない考えを抱いているだけなのだから。
そんなどちらの身を案じているのだか判らない霖之助の声は、少年へと届いているのか、いないのか。少年は肩を落とし、来た時の勢いなど見る影もなく、とぼとぼと店を後にするのだった。
◆ ◆ ◆
少年が店を出てから暫く。香霖堂内は、闇と静寂に満ちていた。
その闇の中で霖之助は一人ぼんやりと、ただ何を考えるでもなく過ごしている。
「さっきの面白い話は、貴方の本心からの弁?」
静寂を破り、どこからか告げられる声。するとやにわに闇が破れ、その隙間から一人の少女が姿を現す。そんな事が可能なのは、霖之助の知りうる限り一人しかいない。
霖之助が声の主の方へと顔を向けると、そこに居たのは予想と違わぬ人物、八雲紫その人であった。
紫はいつものような妖しい笑みを貼り付けたまま、霖之助の隣へと立つ。しかし何故だか、霖之助にはその紫の笑みが、いつもとは違った意味が込められているように感じられた。その意味が何か、と問われると霖之助自身にも言語化出来ないのだが。
「まさか、思い付きの詭弁だよ。ああでもしないと面倒事を回避できないと思ってね。まぁ、これで諦めてくれれば御の字なのだが」
霖之助もこの突然の侵入者には最早手慣れたもので、驚きを見せる事もなく淡々と先程の彼女の問いへの答えのみを返す。
本音を言えば、確かに笑みに対する小さなしこりは残ってはいた。だが、彼には彼女の腹の内を推し量る為の経験値が不足していた。それ故、結局それを探るための言葉を発する事は出来なかったのだ。
「大体、ここをどこだと思っているんだい。ここは『幻想郷』だよ。即ち、そこに属する僕ら自身だって、ある程度は幻想的な成分を含んで存在している訳だ。それと先程の弁を掛け合わせて考えると、僕らだって何かしらに記述された、誰かの空想的存在だという事になってしまうだろう? それは、あまりにも荒唐無稽と言うものだ。僕は、自分が何者かの掌で踊っているだけとは思えない」
霖之助は、素直に本心を吐露した。彼は、自らでも気が付かないうちに、自分の考えを恐れていたのかも知れない。踊っているのだとは思えない、思いたくないと。だからこそ、誰かにそれを笑い飛ばして欲しかったのだ。そんな訳がないだろう、全く貴方はおかしな事を言う、と。
そしてその霖之助が内心抱いた期待に呼応するかのように、紫が彼へと笑いかける。もう我慢できないとでも言いたげな勢いで。
その笑い声は徐々に大きくなり、紫は彼の話を肯定する事も否定する事もせず、ひたすらにくつくつと笑い続けるのだった。
この情景だけを遠目に見たら、遊びに熱が入りすぎた為少々帰る時間が遅くなり、家で待つ母親に叱られぬよう急いで家路に着いているようにも思えるだろう。友達と何かに熱中するあまり時が経つのを忘れるのは、年頃の少年ならば誰でも経験する事だ。
しかし、今ここで道を駆けている少年が目指しているものは、決して自分の家ではない。それは、彼の表情を見るだけでも判る。
彼の顔に浮かんでいるのは、悲壮、憤怒、あるいは決意。いずれにせよ、自らの家に帰ろうとするものが浮かべる表情ではない事は確かだ。
彼が目指すのは、ある一軒の店。彼の住む里からは外れた位置にある、風変わりな道具屋であった。
◆ ◆ ◆
「……いらっしゃい」
身体ごと、と言う表現そのままに、その少年は店へと勢い任せに飛び込んできた。
そして店主である森近霖之助はその落ち着きのない光景を一目見て、あまり真っ当な対価は得られなそうだと内心嘆息しつつも、一応の挨拶をしたのだった。
挨拶を受けた少年はと言うと、いまだ肩で息をしていてまともに答えを返せる状態ではなく、霖之助は今にもやれやれと言わんばかりの口調で二の句を告げた。
「何を求めてここに来たにせよ、取り敢えず今君が一番に求めるべきは新鮮な空気だろう。息が落ち着くまでは、そこらにでも腰を落として休んでると良い」
しかし少年は霖之助の好意を受け取る気は更々ないらしく、息を落ち着かせるどころか、息を荒げたまま霖之助の方へとつかつかと歩み寄る。
そして彼は、開口一番店主へと自らの思いをぶちまけた。
「妖怪を倒す道具が欲しい」
そう、一言を。
まともに呼吸も整っていないままの、明らかに辛そうな表情。しかし回復するのを待つ、僅かな時間すら惜しかったのだろうか。少年は、無意識に酸素を求める身体を無理矢理に押しとどめ、自らの求めるものを一言で言い切った。まるで、途中で呼吸に邪魔をされては、願いが叶わなくなってしまうとでも思い込んでいるかのように。
その切なる少年の求めは、確かに霖之助の耳朶を打った。そして霖之助はその言葉を受けて、暫し沈黙してしまう。少年が告げた言葉は、彼にとって予想外のものだったからだ。
改めて少年を検分するに、歳は十かそこらであろうか、まだあどけなさの充分に残る顔立ちである。そのような少年が香霖堂を訪れる事さえ珍しいのに、その上やけに物騒なものを求めるとあれば、霖之助の驚きも相当だった。
「巫女や魔法使いが異変を解決する時には、あんたが作っている道具を使うと聞いた。それが欲しい」
沈黙が場を支配している間に息を整えたのか、いつしか落ち着き払って真っ直ぐに立っている少年が、霖之助を真正面に見据えたまま言う。
霖之助は、少年のその視線にどこか不穏なものを感じる。何か、その瞳の奥に隠しているものがありそうだと。
内奥に隠れたものの正体を探る為には、じっと見つめ合っていても埒は開かない。まずは幾つかの言葉を少年に投げかけ、そこから返ってくる反応を見てみる必要があるだろう。
そう判断した霖之助は、少年へと言葉を紡ぐ。少年の本当に欲するものを見極めるために。
「一体全体、君はその道具を何に使う気だい」
「そんなもの決まっている。妖怪を倒すためだ」
「フムン。妖怪を倒す、と。しかし、妖怪を退治するのは巫女の役目だろう。少なくとも君の役目じゃあない」
「俺は奴等に友達を殺された。だから復讐の為に、俺自身がやるんだ。巫女は、友達とは何の関係もない。それじゃ、復讐にはならない」
なるほど、と霖之助は内心で一つ息をつく。
幻想郷における人間と妖怪の距離は、ここ最近で急速に近付いている。とは言え、やはりその二者の間には、暗くて深い溝がある。近頃はその溝が細くなったが為に、その存在に気が付いていないまま境界へと近寄るものも多い。
だが事が起これば、その溝はすぐさま、決して変わらぬ両者の関係を浮き彫りにするのだ。即ち、捕食者と被食者という、絶対に相容れぬ関係を。
そして彼も、その関係に気が付いてしまったのだろう。友人を失うという耐え難い事実故に。
そう、まさしくこれは事故なのだ。
今の幻想郷では、妖怪に喰われるものは殆どいない。それ故に、皆忘れているのだ。人は、簡単に死ぬものだという事を。『不当な理由で命を絶たれる事など有り得ない』などと思い込んで。
しかし『殆ど』と『全く』は天と地ほども違う。どれだけ取り繕おうとも、喰われる人間は存在する。最早事故としか思えないほどの、不幸な確率で。
人々は皆、その零ではない『死ぬ確率』から目を背けて、『自分は大丈夫』と思って生きている。だからこそ、いざ自分が事故に巻き込まれた時、その有り得ないはずの貧乏くじを引いた時の衝撃は、計り知れない。
そして友人が出会った事故の衝撃の強さ故に、その近くにいた少年は目を覚まし、溝に気が付いたのだろう。
ようやく得心がいったと言わんばかりに、霖之助は一人頷く。
いつまでも一緒にいると思っていた少年の友人は、不幸な事故にあって彼の目の前から消えた。まだ幼いと言って良い少年にとって、その出来事は消し去れない恐怖を植え付けた事だろう。自分もそうやって消える可能性がある、と。
だからこそ少年は、今度は自分が事故の被害者になる恐怖を少しでも拭う為に、道具を求めたのだろう。復讐という言葉で感情を誤魔化して。
少年の行動の理由は判った。ならば、それにはどう答えるのが一番面倒がないやり方だろうかと、霖之助は考える。『一番良い』やり方ではなく『一番面倒がない』やり方を考える辺りが、実に森近霖之助らしいと言えるだろう。
考え始めてからそれほど間を置かずに霖之助が考えついた方法は、少年に自分のしたい事が一体どういう事なのかを教える、というものだった。
「君の言いたい事は判った。だが、君はさっきから本心を言葉で誤魔化している。君は、妖怪を『倒したい』のではないだろう。『殺したい』のだから」
少年は、『殺される前に殺してしまえば、自分が殺される事はなくなる』と思い込んでいるのかも知れない。恐怖に駆られた人間は、その恐怖故に思いも寄らぬ大胆な、言ってしまえば何も考えていない行動を取る事がある。冷静な者から見れば、無駄にして無謀としか思えない行動を。
少年は、落とし穴を恐れるあまり、その落とし穴を躍起になって塞ごうとしているのだ。その穴を自分一人の小さな力では塞ぐ事など出来ない事も知らず、落ちない為の術などいくらでも転がっている事なども知らず。
そう考えた霖之助は、まずはその穴を塞ぐという行為の意味の無さを説く事にしたのだ。
「僕が巫女や魔法使いに渡したのは、あくまで『倒す』為の道具だ。『殺す』道具ではない。例え道具を君に渡したとて、君の望む結果は得られないだろう」
「だったら! 殺す為の道具はないのか!」
話を遮るように、少年が声を荒げる。少年にしてみれば、藁にも縋る思いでこの店を訪れたのだ。目の前でその藁を取り上げられようとすれば、抗うほかないだろう。
霖之助は両掌を少年へと向け、ひとまず落ち着くようにと動きで示す。相手が落ち着いて聞いてくれなければ、いくら言葉を投げかけたとて意味がないからだ。
「まぁ待ってくれ。君は妖怪を殺したいと言うが、本当に妖怪を殺すのならば、知らなければならない事が幾つかある。それを知らずに道具だけ持っていっても、意味がないんだ」
少年は、思わず身を乗り出して霖之助の話に耳を傾ける。霖之助が今しがた言った言葉は、彼が妖怪を殺す道具を持っていると、暗に告げているとしか思えなかったからだ。
「良し、落ち着いて聞いてくれる気になったようだね」
霖之助は満足げな表情を浮かべると、少年へ向け、一つ一つ言い聞かせるように話し出す。
「何かを殺す為に知っておくべきは、まずはその何かがどう生まれたか、だ。由来を知るからこそ立てられる対策というものもある」
そこで霖之助は一つ息を吸い、ちょっとした『溜め』をつくる。ここから告げる事こそが、彼が真に言いたかった事だったからだ。ここからの展開を少年に理解して貰えなければ、彼に話をする意味がない。
「そして君が殺したい『妖怪』、これがどう生まれたか。端的に言えばそれは、中世に起きた印刷革命の力に依る所が大きい」
「いんさつかくめい?」
あまりにも予想の斜め上を行った霖之助の言葉に、少年が思わずうわずった声で言葉を返してしまう。
しかし霖之助は少年の反応など馬耳東風といった具合に、矢継ぎ早に持論を紡ぎ続ける。
「そう、印刷革命。中世において、グーテンベルクなる人物が発明した活版印刷術。それによって促された、爆発的な書籍の流通だ」
「それがどうして、妖怪を生む事に繋がるんだよ……」
「人は、自らの内に様々な想いを巡らす。しかし、遥か昔ではその想いを大多数の他者へと伝える手段が存在しなかった。それ故、空回りした多くの想いが空想として散っていった」
「一応、言葉で伝えるって手もあるんじゃ……」
「確かに、数人に伝えるのならば言葉を声に乗せれば事は足りる。だが、それよりも多くの相手に、例え時が経ったとしても想いの鮮度を保ったまま伝えるには、不十分だった。声には、どうしても時間による減衰が起こるからだ。しかし、印刷技術が発達したおかげで、人は自らの想いを本という外部装置に容易に出力、保存する事が可能になった」
霖之助の生み出す言葉の洪水に流されそうになりながらも、少年は必死の抵抗を試みる。
だが、小さな人が大いなる流れに逆らった結果は大抵決まっている。少年もその多くの前例に従い、力尽きて流される事となった。
最早、霖之助を止める事は少年には出来ず、ただただ彼の言葉を受け止めるしかなかった。
「その外部装置を通じて、一人の空想が他の誰かの空想を想起させる。その輪を次々と繋げていく事で、空想は共通認識によって形成される場、幻想という居場所を得る。そして空想を束ねる事で力を増した幻想は、いつしか一定の力場として捉えられるまでの形を得ていった。そうして結実した存在が、即ち妖怪という訳だ」
「それが、妖怪の、生まれ……」
「さて、人々の繋がりによる幻想より生み出された妖怪。もしそんな妖怪を本当に『殺す』としたら、どうすれば良いのか」
妖怪を殺す為には。その言葉に、少年の瞳が再び力を取り戻す。
そうだ、それだ。それこそが知りたかったんだ。少年は両足に力を入れ、一言も聞き漏らすものかと正面にいる店主を見据える。
「それには、人から本を取り上げればいい。文字を取り上げればいい。自らの内に眠る空想を他人へと確実に伝える術を、取り上げてしまえばいい」
「妖怪を殺す為に、人から、奪う?」
「そう。妖怪を生んだのは、人自身だからね。根本を失えば、その枝葉が枯れるのは当然だろう。しかしそれは、人の人たる文化を殺し、遥か以前の精神状態へと回帰する事に他ならない。君にはそんな生き方をする気概はあるのかい? 僕には、もちろんないが」
霖之助は、微笑みを少年へと向ける。
しかし一方の少年はと言えば、先程までの力のこもった顔はどこへやら、浮かない表情を貼り付けていた。
そのまま暫く、どちらかが言葉を発する事もなく、ただじっと相手の腹を探るような視線で見つめ合うだけの時間が流れた。
しかし、悲しいかな。両者の間にはあまりにも人生に対する経験値の差が有り過ぎた。少年には、霖之助の腹の内に抱えているものを推し量る事など不可能だった。彼が本心から先の話を教えてくれたのか、厄介な自分を追い返そうと適当な話をしているのかが、判断できなかったのだ。
結局少年はそれ以上のにらみ合いを諦め、霖之助の話に納得する事にしたのか、はてまたこれ以上話しても無駄だと悟ったのか、霖之助へと背を向ける。
既に太陽は、その姿を殆ど山間へと隠している。次第に濃くなる闇をかき分けるように、少年が店の扉を開き、外へ出ようとする。
「……さようなら、夜道にお気を付けて」
霖之助は今にも消え入りそうな少年の後ろ姿に一抹の不安を感じ、声を掛ける。
とは言っても少年の身を案じた為に発した言葉ではない。内心では、これで帰りに妖怪にでも殺されたりしたら、寝覚めが悪くてしょうがないという、自分本位極まりない考えを抱いているだけなのだから。
そんなどちらの身を案じているのだか判らない霖之助の声は、少年へと届いているのか、いないのか。少年は肩を落とし、来た時の勢いなど見る影もなく、とぼとぼと店を後にするのだった。
◆ ◆ ◆
少年が店を出てから暫く。香霖堂内は、闇と静寂に満ちていた。
その闇の中で霖之助は一人ぼんやりと、ただ何を考えるでもなく過ごしている。
「さっきの面白い話は、貴方の本心からの弁?」
静寂を破り、どこからか告げられる声。するとやにわに闇が破れ、その隙間から一人の少女が姿を現す。そんな事が可能なのは、霖之助の知りうる限り一人しかいない。
霖之助が声の主の方へと顔を向けると、そこに居たのは予想と違わぬ人物、八雲紫その人であった。
紫はいつものような妖しい笑みを貼り付けたまま、霖之助の隣へと立つ。しかし何故だか、霖之助にはその紫の笑みが、いつもとは違った意味が込められているように感じられた。その意味が何か、と問われると霖之助自身にも言語化出来ないのだが。
「まさか、思い付きの詭弁だよ。ああでもしないと面倒事を回避できないと思ってね。まぁ、これで諦めてくれれば御の字なのだが」
霖之助もこの突然の侵入者には最早手慣れたもので、驚きを見せる事もなく淡々と先程の彼女の問いへの答えのみを返す。
本音を言えば、確かに笑みに対する小さなしこりは残ってはいた。だが、彼には彼女の腹の内を推し量る為の経験値が不足していた。それ故、結局それを探るための言葉を発する事は出来なかったのだ。
「大体、ここをどこだと思っているんだい。ここは『幻想郷』だよ。即ち、そこに属する僕ら自身だって、ある程度は幻想的な成分を含んで存在している訳だ。それと先程の弁を掛け合わせて考えると、僕らだって何かしらに記述された、誰かの空想的存在だという事になってしまうだろう? それは、あまりにも荒唐無稽と言うものだ。僕は、自分が何者かの掌で踊っているだけとは思えない」
霖之助は、素直に本心を吐露した。彼は、自らでも気が付かないうちに、自分の考えを恐れていたのかも知れない。踊っているのだとは思えない、思いたくないと。だからこそ、誰かにそれを笑い飛ばして欲しかったのだ。そんな訳がないだろう、全く貴方はおかしな事を言う、と。
そしてその霖之助が内心抱いた期待に呼応するかのように、紫が彼へと笑いかける。もう我慢できないとでも言いたげな勢いで。
その笑い声は徐々に大きくなり、紫は彼の話を肯定する事も否定する事もせず、ひたすらにくつくつと笑い続けるのだった。
けど本当に好きです。
幻想の塊が妖怪ならば、半人半妖とはいったい何か。
文体、題材、キャラの造形、文章に漂うほの暗い雰囲気、
どれも自分好みなSSでした。
霖之助が語る妖怪の生成理論が、現実における東方の創作に
かかっているようで、とても面白かったです。
欲を言えば、読んだ後に少し物足りなさを感じたので、もう少し
枝葉というか、物語の曲折があればなお良かったと思いました。
ゾクッとさせられました。
幻想郷だと何があってもおかしくなさそうなだけに余計に考えさせられました。