……お。
目を覚ませば年が明けていた。
私がそう思ったのは、先ほどから曖昧な意識の中を満たしていた低く震える音がちょうど止んだからでもあり、それが遠く里の方から届いてくる、百八つめの鐘の音だとも知っていたからだった。
百七つめと八つめには僅かな間があったのを覚えており、その百八つめは年を越してからという慣例があることは、今思い出した。
月明かりはない。僅かに、閉じた明り取りの隙間がぼやけて見えた。
土間と居間と寝間を仕切ることなく放り込んだ空間の隅、浅く膨らんだ布団の中で僅かに身を起こすと、胸元と敷布団の間にたちまち外と変わらない夜気が滑り込んだ。ひゃ、と喉の奥で声が漏れる。慌てて、寝入る直前まで抱えていたはずの火鉢を暗がりの中で探した。しかし、ここで居ついてしまってもいけないと、身震いが収まったのち本格的に腰を上げた。自分は欲望に弱い人間なのだと言う自覚はある。乱れた髪を払い、かじかむ指の握りを確かめながら、
「えっ、と……いつからだったっけ」
記憶をまさぐる。
確か、約束があったのだ。
単調な生活の中で、私が約束を交わす相手は多くない。しかし、最近は瞬時に相手が閃くほど少なくもない。
知人が、増えているのだ。増やしていると言うと気恥ずかしいので、こう言う。
――よくないなぁ。
そうも思うが、中々人間変わらない。
とはいえ、今日は別に珍しくもない、里にいる知人と会う約束なのだと思い至る。会って、食べて、新年なのでどこか参って、そんなことをするつもりでいた。体内時計によれば、約束の時間まではまだ余裕があった。
「……初詣って、寺でもいいんだっけ」
身支度をそこそこに、靴と戸を鳴らして外へ出た。
きれいな夜が、竹林の向こうに垣間見えた。
/
道すがらに眺めた命蓮寺は、見るからに賑々しくしていた。
いつの間にやら出来ていた、思うに天から降ってきたんじゃないかという投げやりな立地のこの寺院は、里からはそこそこ離れている。もちろん昨日今日出来たものでなし、獣道に比べればはるかに上等な道筋が起伏を持ちながら里までつけてあるが、それでも距離があるということは危険を伴う。人を襲うような妖怪は、年中無休で通常営業なのだから。
となれば、今その道を行く人間は概ね三つに分けられる。幾らか腕に覚えがあるか、単に物珍しさに危険を忘れているのか、そうでなければ、
「あ、参拝の方ですか?」
歩く人波の熱気にあやかろうと道に相乗りしたとき、尼僧然とした姿の、確か妖怪の女が声をかけてきた。途切れ途切れに列を成す客を整理しているのは、その妖怪の背から湧き立つ入道雲の妖怪だった。つまりは三つめ、腕に覚えのある誰かに守ってもらっているか、だ。
「いや、里の方に用があって。参拝には後で来るかも」
「なるほど。今境内でぜんざい作ってますけど、いかがです?」
伸べられた手の先。
寺院が建立された後から作られたという塀の向こうに、物が燃える青白い煙に絡むようにして、白く透明な湯気が昇っているのが見えた。人が集まる理由は色々だが、この時期これは効果的だろう。私は言葉を選んでは削り、「豪勢ね」とだけ答えた。
「今だったら食べ放題ですよ?」
「いいよ。人を待たせてるし、そっちで食べる約束があるの」
「あら残念」
反応が軽いとこちらも負い目がなくていい。
少しだけ、足を止めて話をした。住職自ら鳴らしたという鐘の音がどこまで届いたか、尼僧は興味津々のようだった。さしあたって竹林の奥までは聞こえたと私が言うと、大層喜んでいた。山や外れの神社まで聞こえていればいいという呟きに、こちらは苦笑で返した。幻想郷の信仰もややこしくなってきたと思う。
そのうちに列が乱れ始めると、やってきた鼠の妖怪に尻を叩かれ、尼僧は慌てて戻っていった。
「時間を取らせたようだね。申し訳ない」
背格好の割に老成した喋り方の鼠だった。私は小さく手先を振り、すぐポケットに戻した。
「いいよ。実際待たせてるかもだけど、私も信用ないから。少々遅れたって大差ないし」
「それは感心できないな」
口調はそのまま、こちらの懐にためらいなく切り込んでくる声だった。老成しているのは喋りだけではないようで、私は久々に目上にたしなめられる感覚を得ていることに気づかされる。
「信用は得がたい財産だよ。失った上ならなおさらだ。相手が我慢してくれているなら、その間に取り戻した方がいい」
掴みどころがないどころかありすぎて、数瞬、言葉に迷う。
「……そうね」
人間、変われば変わるものだと思った。
「最近そう思うようになった」
「そうかい」
「忠告どうも」
その返事を最後に、私はその場を離れた。鼠は追求せず、小さく鼻から息を抜いていた。
寺に向かう人は徐々に増えているようで、あの湯気もいつまでもつか知れなかった。実際、里の門をくぐる際に振り向くと、もう寺の空には何も見えなかった。
「……一杯くらい貰ってもよかったかな」
それに、腹の虫が同調する。
約束の時間はもう過ぎていると、体内時計が知らせてくる。
/
「ごめん。遅れた」
第一声にこれをつけても、つけなくても、慧音は表情を変えない。
「まぁ、座れ」
向こうの第一声にしたところでこんなもので、私は雑然とした空気の中腰を下ろした。
寺に大分人が流れた気もしていたが、それでも里でも大きめの盛り場となれば絶えることのない悲喜こもごもで溢れている。無論、参拝から戻って加わった者もいるだろう。
壁際の席は空気にしろ気分にしろ中心部とは温度差を持つ。板張りの隙間から染み出してくる外気が靴を抜いた足を冷やしていくのに、私は抗するように胡坐をかいた。
自分用のお通しが数品置かれると、それをつまみながら私はおもむろに切り出した。
「寺まですごい行列だったよ。ぜんざい配ってた」
「寺の妖怪は見回りに出ていたか?」
「うん。入道と鼠がいた」
「ならいい。見回りを出すのは決め事でな」
小口に食む合間を縫っての会話は、自然と短い言葉の応酬になる。
慧音の手元には、私と同じだけの小鉢が中身を減らしつつも残っていた。私が食べ始めるのに合わせて箸を持ち直し、食べ切るペースも揃えようとしているらしい様子に面映さを覚えつつ、
「にしても、寺にあんなに人が集まるものなのね」
「というと?」
「どこの神社にしろ、あてなら他にもあるだろうに」
「そうだな。普通の人間の視野で考えれば、」
一拍置くのは、長口上の前兆だと知っている。慧音は僅かに一つまみを口に運び、
「幻想郷に、今までこうした行事の参詣先はなかったに等しい。博麗神社は僻地な上、その存在すらそれほど知られてはいない。山の神社は――」
「守矢神社でしょ。知ってる」
言い澱む声に、恐らくという按配の言葉を挟んだ。そういえば、彼女との会話でその名前を使ったことがないと気がついた。幸い、彼女は安心した様子で、
「ああ。その守矢にしても、立地がまた悪く、加えて妖怪の住む山の神社という風聞だけはしっかり行き届いている。その点、命蓮寺は単に少し遠いだけだ。こんな時分にしろ、今のように見回りさえついていれば、誰でも行けるし、行きたがる」
「出来た当時も随分と盛り上がったようだしね」
「そうだな。あそことて妖怪の多い場所だ。始めは随分と警戒もしたが――」
そこまで言って、慧音は僅かな気づきに顔をしかめる。口元を隠し、
「すまない。今する話でもなかった」
「いいよ。調子よく喋ってくれた方が、私も嬉しい」
「そうか。でも私は気恥ずかしい」
指先を唇にやったまま、慧音は料理に逃げもせず視線を目下に落としていた。
私は返答に窮する。こういうとき、慧音は言い訳をしない。相手が叱るのを待ってしまう。出すぎた分、打ってくれという意思表示なのだろうけど、私にしても叱るというのは苦手なのだ。
……この辺、やっぱ慣れないといけないんだろうなぁ。
そう感じる。間髪入れず、さらりと適切な声がかけられるのもあまり褒められたものじゃない気がするが、沈黙でごまかすのがより上等とも思わない。ともあれ、今の自分の身の丈としては、
「そういえば、言い忘れてた」
思いついた端から、言葉を紡いでみる。
「……なんだ?」
そのうちに俯き始めていた慧音が、上目に窺ってくる。「うん」と小さく答え、私は最後の小鉢を片付けた手を卓に乗せ、
「あけまして、おめでとうございます」
拍子を全部、抜いてみた。
「……ああ、おめでとう」
慧音も、こちらと同様の動作で僅かに笑んだ。そこには、こちらがはぐらかしたことへの呆れも含まれている気がした。
そこに本膳がやってきて、会話は無理やりにお開きとなった。というのは私の癖で、本格的に箸が進みだすと少しも舌が回らない。慧音はそれを承知していて、当人はそうでなかろうとも口を開かなくなる。料理は御節のいいとこどりをしたような並びで、巷で人気のなさそうな品目は小鉢にひとまとめにしたような割り切りが気持ちよかった。
一通り食べ切ってから、酒器だけになった卓を挟み改めて息を吐いた。店内の客足は減るどころか益々増え始め、前のめりにならなければ器の擦れる音と飛び交う声とでお互いの声すら掻き消されるほどになっていた。
「どうする? これから」
「妹紅は、自分の用はないのか?」
「ないねぇ」
本日限定なのか、漆で赤と黒に塗り分けられた器をすがめながら呟いた。
「私もだ」
「そっか」
私自身もだけど、それ以上に慧音の声が柔らかくなっていることに密かに安堵した。多くが酒の力なのだとすれば、それが効かない私の柔さの理由は単に緊張が解けたせいだろう。
――ていうか、未だに緊張しちゃうかぁ。
単に、では済まされないと、今更ながらに思う。
目の前の彼女との付き合いは、自分の人生を振り返ればそれほど長い割合を占めてはいない。しかし、絶対値としての年月で考えればそれなりのものではないかと、そう感じる。
確かに、始まりから現在までの月日は長いかもしれない、しかし、だからといってどれほどの頻度で彼女と接していたかというと、そこには疑問が残る。昔の昔、自分が何ということのない普通の人間だった頃の距離感でいえば、年に数度、親同士の付き合いの場でのみ引き合わされた親族の子のような立場が近いかもしれない。
そういう子とは、その都度ある程度まで親しくなれたにしても、引き離されまた出会った頃には共有したはずの色々なものが失われていて。それ以上に各々が積み重ね、得てきた様々なものによって前の自分とは異なっていて。会う度に初めてのように手探りだったと、そんなことを思い起こす。
曖昧だった。何分古い話だ。仕方ない。
自分は人付き合いが下手なのだ。これは、仕方ないでは済まされない。
意識を灼いて鎮めるように一杯煽り、
「初詣、どこかには行きたいよね。どこでもいいんだけど」
「近場ならやはり命蓮寺だろう。後で寄る約束もしたんじゃないのか?」
したけどねえ、と呟く私は、むずがゆい顔をしているのだろう。
「したけど、方便だって。それにあんなに並ぶのはやだなぁ」
ふむ、と慧音が頷く。同意を浅く感じるのは、実際彼女が並ぶことに頓着しないからだろう。私自身、時間を無為に過ごすことに関しては幻想郷でも並ぶものを見つけづらい方じゃないかと曖昧ながら自負しているが、今は寒いから嫌だ。
「それなら神社になるが」
「博麗の方はパスかな。確か忘年会から新年会までぶっ続けでさ。輝夜も行ってるんだ」
あの神社が平生から妙な面子ばかりで盛り上がっているのは、基本的にそれらに加わらない私でも知っている。蓬莱山輝夜はその妙な面子の一人で、私がそこに混ざりたくない理由の九割九部を一人で賄っていた。
「そうか。それじゃあ決まりだな」
慧音は、問われると面倒な部分について何も言わなかった。そして手にしていた酒器を軽く振り、残り少ないとみるや、一気に煽ってのける。
「おお」
「お前も、早く行くぞ。こういうのは早い方がいい」
一気に赤みの増した顔で、慧音は私の目を窺う。
「へい、へい」
こちらは、残りの確認もしなかった。ただ思っていた以上に嵩があり、煽った勢いのまま盛大にむせた。慧音は呆れたように笑っており、私は咳き込みながらも笑ってみせた。
周囲はてんでばらばらな感情で、それでいて一様に、自分勝手に盛り上がっていた。
/
透明な空気の中、頭上に白く息を従え、慧音と二人して歩いた。
里を抜け、山の麓に差し掛かるまでにすれ違う人を数えたが、
――片手で数えても指が余ったんだけど。
なるほど、これは焦って色々したくなる気持ちもわからないでもない。山に入ってからも人の姿は見えず、ついに鳥居を潜る頃になって、ようやく片手が埋まったくらいだ。
「……お」
「どうした?」
「いや、着いたな、と」
言葉を飛ばした先、黒々とした巨影が社の形をとっている。手前には組み上げられた焚き木を包む炎があり、風下のこちらを煤の臭いとともに暖かみを飛ばしてきていた。
「――あら」
次いで飛んできた声は、焚き火の傍に座った姿からだった。鉄製の火ばさみを手に、見知った格好に首元のマフラーだけを加えた彼女は、現人神という少女に違いないのだろう。立ち上がり、歩み寄ったこちらと向き合うと、
「あけましておめでとうございます。すみません、大した用意もしてなくて」
そう言って、苦笑混じりに一礼する。動きがぎこちなく見えるのは、結構な時間じっとしていたからだろう。見れば、方々の灯りとともに日頃よりも若干売り物が増えているというのはわかるが、人手が他に見当たらない。ここにしても三人、博麗神社は一人。そういう意味でも、あの寺は強みが多いと気づかされる。
「いや、いいよ。えっと、おめでとう」
「おめでとう。お二人は奥で?」
「はい。なので表は私と――」
「……え、なに? またお客?」
焚き火の裏から現れたのは箒を手にしたもう一人の巫女服で、頭上には耳が一対生えていた。
「こちら臨時で来てくれた、鈴仙さんです」
「あー……」
「ああ……」
「……はい?」
寒さのせいか、悲鳴は小さかった。
/
「そうかそうか。巡り会わせが悪かったんだ。仕方ない」
「絶対そう思ってない……!」
社と賽銭箱を背に、私は慧音と巫女二人に加わって石段に腰を下ろし、遠巻きに焚き火に当たった。
巫女の皮を被ったこの兎は、聞くところによれば、
「違うの。ちゃんとした用事があったの。ただ急ぎの用じゃないし、夜が明けてからでもいいからそれまではここにいようと思って、実際そうしてたらこの子が――」
「えー? お汁粉と引き換えにって言いましたけど?」
「事後じゃん!」
手を摺り合わせながら、慧音が訝る顔で問う。
「それならなぜ着たんだ。突っぱねればいいだろう」
「いや、こんな薄着でなんで平気なのか、常々疑問だったし、もしかしたら何かしら加護がついてて平気なのかなとか……」
失笑が堪えきれず、私は鼻と口の両方で息を吐いて喉を鳴らした。
「なんだ。合意の上じゃない」
「進んで着たがったみたいに思われるのが心外なの!」
「そうかそうか」
色々な意味で心が温まった。
兎巫女が増えたところで、節目である未明を過ぎてなおこれ以上人が来るのか甚だ疑問ではあったが、これで禊ぎと販売に分かれて対応できると人巫女は喜んでいる。合意の上なのだから、それ以上は問うまいと心に決める。
「にしても、ここに用事って?」
「……守秘義務」
隣に座る兎巫女は、ぷいと反対側に顔を背けた。その先にいた人巫女が、身を傾けてこちらに顔を出し、
「薬の処理ですって。なんでもこの上でしかできないものなんだとか」
あ、ちょっとぉ! と、すぐ傍で声が響いた。
いいじゃないですかー。と声が続く。
いいわけないじゃない! とまた声が続く。
「おい、妹紅」
慧音が、すぐ隣にいた。
「……ん?」
返事をした。
「……今の言葉の意味、わかっている風だな」
その言葉を、反芻する。飲み込みきれないうちに、更に声が来た。
「なんとなく察しはつくが……、私は何も言わん」
その言葉の意味は、言葉のままだった。それを受けて、私はなぜか寂しさを得そうになって、
「ただ、お前くらいは何か言ってやってもいいんじゃないか」
続いた言葉に、たちまち心が元の場所に定まるのを感じた。
「……うん」
これは、大したことではない。
本当に、大したことではない。
不意打ちでびっくりしたのだ。それだけだ。
これ以上重ねると、裏返って深刻になりそうなのでやめた。
隣でまだ言い合っていた巫女二人に、会話の切れ目を狙って声を放った。
「ねえ。ちょっといい?」
はあ。
なに?
二通りの声が返る。
「なに、ちょっとした親切だって」
あの姫様を前にしている思いで、私はこう言ってやる。
「それの処理、私も付き合うよ」
/
結局、そのまま数刻を経ても、新たな参拝客は姿を見せなかった。
人巫女はしびれを切らし、兎巫女にマフラーを預けるなり「もうそろそろ良いでしょう!?」と奥に乗り込んでいった。このまま残っていると色々危なそうだったので、兎巫女が服を着替えるのを待って神社を離れた。元に戻った兎がマフラーを巻いたままなのを慧音が問うと、どうやら元々自分のものらしい。あいつどんだけだ。
ともあれ、神社を離れ、私達は上を目指した。
神社は、何のかんのと言って山の中腹以下に位置している。兎が、ひいては永琳が目論んでいる作業を行うには、火口まで上る必要がある。
「なあ」
「なによ」
道すがら、兎に問うた。
「それ、蓬莱の薬?」
「いえ、似てるけど別だし。私が実験で作った失敗作」
「そう」
ほらみろ。
そのうちに、木々が疎らになり、山肌が覗き始める。
既に白み始めていた空が加速度的に色を変えていく。
「お」
私は振り向いた。慧音も、兎も振り向いた。
神社は既に視界の外で、そこから下った麓の田畑も、里も、寺も、魔法の森も、霧の湖も、その先も、その先も、ずっと先まで見渡せた。
その先から、光が来る。
穏やかな風が吹く。
なるほど、これが。
「凱風快晴ってやつかぁ」
目を覚ませば年が明けていた。
私がそう思ったのは、先ほどから曖昧な意識の中を満たしていた低く震える音がちょうど止んだからでもあり、それが遠く里の方から届いてくる、百八つめの鐘の音だとも知っていたからだった。
百七つめと八つめには僅かな間があったのを覚えており、その百八つめは年を越してからという慣例があることは、今思い出した。
月明かりはない。僅かに、閉じた明り取りの隙間がぼやけて見えた。
土間と居間と寝間を仕切ることなく放り込んだ空間の隅、浅く膨らんだ布団の中で僅かに身を起こすと、胸元と敷布団の間にたちまち外と変わらない夜気が滑り込んだ。ひゃ、と喉の奥で声が漏れる。慌てて、寝入る直前まで抱えていたはずの火鉢を暗がりの中で探した。しかし、ここで居ついてしまってもいけないと、身震いが収まったのち本格的に腰を上げた。自分は欲望に弱い人間なのだと言う自覚はある。乱れた髪を払い、かじかむ指の握りを確かめながら、
「えっ、と……いつからだったっけ」
記憶をまさぐる。
確か、約束があったのだ。
単調な生活の中で、私が約束を交わす相手は多くない。しかし、最近は瞬時に相手が閃くほど少なくもない。
知人が、増えているのだ。増やしていると言うと気恥ずかしいので、こう言う。
――よくないなぁ。
そうも思うが、中々人間変わらない。
とはいえ、今日は別に珍しくもない、里にいる知人と会う約束なのだと思い至る。会って、食べて、新年なのでどこか参って、そんなことをするつもりでいた。体内時計によれば、約束の時間まではまだ余裕があった。
「……初詣って、寺でもいいんだっけ」
身支度をそこそこに、靴と戸を鳴らして外へ出た。
きれいな夜が、竹林の向こうに垣間見えた。
/
道すがらに眺めた命蓮寺は、見るからに賑々しくしていた。
いつの間にやら出来ていた、思うに天から降ってきたんじゃないかという投げやりな立地のこの寺院は、里からはそこそこ離れている。もちろん昨日今日出来たものでなし、獣道に比べればはるかに上等な道筋が起伏を持ちながら里までつけてあるが、それでも距離があるということは危険を伴う。人を襲うような妖怪は、年中無休で通常営業なのだから。
となれば、今その道を行く人間は概ね三つに分けられる。幾らか腕に覚えがあるか、単に物珍しさに危険を忘れているのか、そうでなければ、
「あ、参拝の方ですか?」
歩く人波の熱気にあやかろうと道に相乗りしたとき、尼僧然とした姿の、確か妖怪の女が声をかけてきた。途切れ途切れに列を成す客を整理しているのは、その妖怪の背から湧き立つ入道雲の妖怪だった。つまりは三つめ、腕に覚えのある誰かに守ってもらっているか、だ。
「いや、里の方に用があって。参拝には後で来るかも」
「なるほど。今境内でぜんざい作ってますけど、いかがです?」
伸べられた手の先。
寺院が建立された後から作られたという塀の向こうに、物が燃える青白い煙に絡むようにして、白く透明な湯気が昇っているのが見えた。人が集まる理由は色々だが、この時期これは効果的だろう。私は言葉を選んでは削り、「豪勢ね」とだけ答えた。
「今だったら食べ放題ですよ?」
「いいよ。人を待たせてるし、そっちで食べる約束があるの」
「あら残念」
反応が軽いとこちらも負い目がなくていい。
少しだけ、足を止めて話をした。住職自ら鳴らしたという鐘の音がどこまで届いたか、尼僧は興味津々のようだった。さしあたって竹林の奥までは聞こえたと私が言うと、大層喜んでいた。山や外れの神社まで聞こえていればいいという呟きに、こちらは苦笑で返した。幻想郷の信仰もややこしくなってきたと思う。
そのうちに列が乱れ始めると、やってきた鼠の妖怪に尻を叩かれ、尼僧は慌てて戻っていった。
「時間を取らせたようだね。申し訳ない」
背格好の割に老成した喋り方の鼠だった。私は小さく手先を振り、すぐポケットに戻した。
「いいよ。実際待たせてるかもだけど、私も信用ないから。少々遅れたって大差ないし」
「それは感心できないな」
口調はそのまま、こちらの懐にためらいなく切り込んでくる声だった。老成しているのは喋りだけではないようで、私は久々に目上にたしなめられる感覚を得ていることに気づかされる。
「信用は得がたい財産だよ。失った上ならなおさらだ。相手が我慢してくれているなら、その間に取り戻した方がいい」
掴みどころがないどころかありすぎて、数瞬、言葉に迷う。
「……そうね」
人間、変われば変わるものだと思った。
「最近そう思うようになった」
「そうかい」
「忠告どうも」
その返事を最後に、私はその場を離れた。鼠は追求せず、小さく鼻から息を抜いていた。
寺に向かう人は徐々に増えているようで、あの湯気もいつまでもつか知れなかった。実際、里の門をくぐる際に振り向くと、もう寺の空には何も見えなかった。
「……一杯くらい貰ってもよかったかな」
それに、腹の虫が同調する。
約束の時間はもう過ぎていると、体内時計が知らせてくる。
/
「ごめん。遅れた」
第一声にこれをつけても、つけなくても、慧音は表情を変えない。
「まぁ、座れ」
向こうの第一声にしたところでこんなもので、私は雑然とした空気の中腰を下ろした。
寺に大分人が流れた気もしていたが、それでも里でも大きめの盛り場となれば絶えることのない悲喜こもごもで溢れている。無論、参拝から戻って加わった者もいるだろう。
壁際の席は空気にしろ気分にしろ中心部とは温度差を持つ。板張りの隙間から染み出してくる外気が靴を抜いた足を冷やしていくのに、私は抗するように胡坐をかいた。
自分用のお通しが数品置かれると、それをつまみながら私はおもむろに切り出した。
「寺まですごい行列だったよ。ぜんざい配ってた」
「寺の妖怪は見回りに出ていたか?」
「うん。入道と鼠がいた」
「ならいい。見回りを出すのは決め事でな」
小口に食む合間を縫っての会話は、自然と短い言葉の応酬になる。
慧音の手元には、私と同じだけの小鉢が中身を減らしつつも残っていた。私が食べ始めるのに合わせて箸を持ち直し、食べ切るペースも揃えようとしているらしい様子に面映さを覚えつつ、
「にしても、寺にあんなに人が集まるものなのね」
「というと?」
「どこの神社にしろ、あてなら他にもあるだろうに」
「そうだな。普通の人間の視野で考えれば、」
一拍置くのは、長口上の前兆だと知っている。慧音は僅かに一つまみを口に運び、
「幻想郷に、今までこうした行事の参詣先はなかったに等しい。博麗神社は僻地な上、その存在すらそれほど知られてはいない。山の神社は――」
「守矢神社でしょ。知ってる」
言い澱む声に、恐らくという按配の言葉を挟んだ。そういえば、彼女との会話でその名前を使ったことがないと気がついた。幸い、彼女は安心した様子で、
「ああ。その守矢にしても、立地がまた悪く、加えて妖怪の住む山の神社という風聞だけはしっかり行き届いている。その点、命蓮寺は単に少し遠いだけだ。こんな時分にしろ、今のように見回りさえついていれば、誰でも行けるし、行きたがる」
「出来た当時も随分と盛り上がったようだしね」
「そうだな。あそことて妖怪の多い場所だ。始めは随分と警戒もしたが――」
そこまで言って、慧音は僅かな気づきに顔をしかめる。口元を隠し、
「すまない。今する話でもなかった」
「いいよ。調子よく喋ってくれた方が、私も嬉しい」
「そうか。でも私は気恥ずかしい」
指先を唇にやったまま、慧音は料理に逃げもせず視線を目下に落としていた。
私は返答に窮する。こういうとき、慧音は言い訳をしない。相手が叱るのを待ってしまう。出すぎた分、打ってくれという意思表示なのだろうけど、私にしても叱るというのは苦手なのだ。
……この辺、やっぱ慣れないといけないんだろうなぁ。
そう感じる。間髪入れず、さらりと適切な声がかけられるのもあまり褒められたものじゃない気がするが、沈黙でごまかすのがより上等とも思わない。ともあれ、今の自分の身の丈としては、
「そういえば、言い忘れてた」
思いついた端から、言葉を紡いでみる。
「……なんだ?」
そのうちに俯き始めていた慧音が、上目に窺ってくる。「うん」と小さく答え、私は最後の小鉢を片付けた手を卓に乗せ、
「あけまして、おめでとうございます」
拍子を全部、抜いてみた。
「……ああ、おめでとう」
慧音も、こちらと同様の動作で僅かに笑んだ。そこには、こちらがはぐらかしたことへの呆れも含まれている気がした。
そこに本膳がやってきて、会話は無理やりにお開きとなった。というのは私の癖で、本格的に箸が進みだすと少しも舌が回らない。慧音はそれを承知していて、当人はそうでなかろうとも口を開かなくなる。料理は御節のいいとこどりをしたような並びで、巷で人気のなさそうな品目は小鉢にひとまとめにしたような割り切りが気持ちよかった。
一通り食べ切ってから、酒器だけになった卓を挟み改めて息を吐いた。店内の客足は減るどころか益々増え始め、前のめりにならなければ器の擦れる音と飛び交う声とでお互いの声すら掻き消されるほどになっていた。
「どうする? これから」
「妹紅は、自分の用はないのか?」
「ないねぇ」
本日限定なのか、漆で赤と黒に塗り分けられた器をすがめながら呟いた。
「私もだ」
「そっか」
私自身もだけど、それ以上に慧音の声が柔らかくなっていることに密かに安堵した。多くが酒の力なのだとすれば、それが効かない私の柔さの理由は単に緊張が解けたせいだろう。
――ていうか、未だに緊張しちゃうかぁ。
単に、では済まされないと、今更ながらに思う。
目の前の彼女との付き合いは、自分の人生を振り返ればそれほど長い割合を占めてはいない。しかし、絶対値としての年月で考えればそれなりのものではないかと、そう感じる。
確かに、始まりから現在までの月日は長いかもしれない、しかし、だからといってどれほどの頻度で彼女と接していたかというと、そこには疑問が残る。昔の昔、自分が何ということのない普通の人間だった頃の距離感でいえば、年に数度、親同士の付き合いの場でのみ引き合わされた親族の子のような立場が近いかもしれない。
そういう子とは、その都度ある程度まで親しくなれたにしても、引き離されまた出会った頃には共有したはずの色々なものが失われていて。それ以上に各々が積み重ね、得てきた様々なものによって前の自分とは異なっていて。会う度に初めてのように手探りだったと、そんなことを思い起こす。
曖昧だった。何分古い話だ。仕方ない。
自分は人付き合いが下手なのだ。これは、仕方ないでは済まされない。
意識を灼いて鎮めるように一杯煽り、
「初詣、どこかには行きたいよね。どこでもいいんだけど」
「近場ならやはり命蓮寺だろう。後で寄る約束もしたんじゃないのか?」
したけどねえ、と呟く私は、むずがゆい顔をしているのだろう。
「したけど、方便だって。それにあんなに並ぶのはやだなぁ」
ふむ、と慧音が頷く。同意を浅く感じるのは、実際彼女が並ぶことに頓着しないからだろう。私自身、時間を無為に過ごすことに関しては幻想郷でも並ぶものを見つけづらい方じゃないかと曖昧ながら自負しているが、今は寒いから嫌だ。
「それなら神社になるが」
「博麗の方はパスかな。確か忘年会から新年会までぶっ続けでさ。輝夜も行ってるんだ」
あの神社が平生から妙な面子ばかりで盛り上がっているのは、基本的にそれらに加わらない私でも知っている。蓬莱山輝夜はその妙な面子の一人で、私がそこに混ざりたくない理由の九割九部を一人で賄っていた。
「そうか。それじゃあ決まりだな」
慧音は、問われると面倒な部分について何も言わなかった。そして手にしていた酒器を軽く振り、残り少ないとみるや、一気に煽ってのける。
「おお」
「お前も、早く行くぞ。こういうのは早い方がいい」
一気に赤みの増した顔で、慧音は私の目を窺う。
「へい、へい」
こちらは、残りの確認もしなかった。ただ思っていた以上に嵩があり、煽った勢いのまま盛大にむせた。慧音は呆れたように笑っており、私は咳き込みながらも笑ってみせた。
周囲はてんでばらばらな感情で、それでいて一様に、自分勝手に盛り上がっていた。
/
透明な空気の中、頭上に白く息を従え、慧音と二人して歩いた。
里を抜け、山の麓に差し掛かるまでにすれ違う人を数えたが、
――片手で数えても指が余ったんだけど。
なるほど、これは焦って色々したくなる気持ちもわからないでもない。山に入ってからも人の姿は見えず、ついに鳥居を潜る頃になって、ようやく片手が埋まったくらいだ。
「……お」
「どうした?」
「いや、着いたな、と」
言葉を飛ばした先、黒々とした巨影が社の形をとっている。手前には組み上げられた焚き木を包む炎があり、風下のこちらを煤の臭いとともに暖かみを飛ばしてきていた。
「――あら」
次いで飛んできた声は、焚き火の傍に座った姿からだった。鉄製の火ばさみを手に、見知った格好に首元のマフラーだけを加えた彼女は、現人神という少女に違いないのだろう。立ち上がり、歩み寄ったこちらと向き合うと、
「あけましておめでとうございます。すみません、大した用意もしてなくて」
そう言って、苦笑混じりに一礼する。動きがぎこちなく見えるのは、結構な時間じっとしていたからだろう。見れば、方々の灯りとともに日頃よりも若干売り物が増えているというのはわかるが、人手が他に見当たらない。ここにしても三人、博麗神社は一人。そういう意味でも、あの寺は強みが多いと気づかされる。
「いや、いいよ。えっと、おめでとう」
「おめでとう。お二人は奥で?」
「はい。なので表は私と――」
「……え、なに? またお客?」
焚き火の裏から現れたのは箒を手にしたもう一人の巫女服で、頭上には耳が一対生えていた。
「こちら臨時で来てくれた、鈴仙さんです」
「あー……」
「ああ……」
「……はい?」
寒さのせいか、悲鳴は小さかった。
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「そうかそうか。巡り会わせが悪かったんだ。仕方ない」
「絶対そう思ってない……!」
社と賽銭箱を背に、私は慧音と巫女二人に加わって石段に腰を下ろし、遠巻きに焚き火に当たった。
巫女の皮を被ったこの兎は、聞くところによれば、
「違うの。ちゃんとした用事があったの。ただ急ぎの用じゃないし、夜が明けてからでもいいからそれまではここにいようと思って、実際そうしてたらこの子が――」
「えー? お汁粉と引き換えにって言いましたけど?」
「事後じゃん!」
手を摺り合わせながら、慧音が訝る顔で問う。
「それならなぜ着たんだ。突っぱねればいいだろう」
「いや、こんな薄着でなんで平気なのか、常々疑問だったし、もしかしたら何かしら加護がついてて平気なのかなとか……」
失笑が堪えきれず、私は鼻と口の両方で息を吐いて喉を鳴らした。
「なんだ。合意の上じゃない」
「進んで着たがったみたいに思われるのが心外なの!」
「そうかそうか」
色々な意味で心が温まった。
兎巫女が増えたところで、節目である未明を過ぎてなおこれ以上人が来るのか甚だ疑問ではあったが、これで禊ぎと販売に分かれて対応できると人巫女は喜んでいる。合意の上なのだから、それ以上は問うまいと心に決める。
「にしても、ここに用事って?」
「……守秘義務」
隣に座る兎巫女は、ぷいと反対側に顔を背けた。その先にいた人巫女が、身を傾けてこちらに顔を出し、
「薬の処理ですって。なんでもこの上でしかできないものなんだとか」
あ、ちょっとぉ! と、すぐ傍で声が響いた。
いいじゃないですかー。と声が続く。
いいわけないじゃない! とまた声が続く。
「おい、妹紅」
慧音が、すぐ隣にいた。
「……ん?」
返事をした。
「……今の言葉の意味、わかっている風だな」
その言葉を、反芻する。飲み込みきれないうちに、更に声が来た。
「なんとなく察しはつくが……、私は何も言わん」
その言葉の意味は、言葉のままだった。それを受けて、私はなぜか寂しさを得そうになって、
「ただ、お前くらいは何か言ってやってもいいんじゃないか」
続いた言葉に、たちまち心が元の場所に定まるのを感じた。
「……うん」
これは、大したことではない。
本当に、大したことではない。
不意打ちでびっくりしたのだ。それだけだ。
これ以上重ねると、裏返って深刻になりそうなのでやめた。
隣でまだ言い合っていた巫女二人に、会話の切れ目を狙って声を放った。
「ねえ。ちょっといい?」
はあ。
なに?
二通りの声が返る。
「なに、ちょっとした親切だって」
あの姫様を前にしている思いで、私はこう言ってやる。
「それの処理、私も付き合うよ」
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結局、そのまま数刻を経ても、新たな参拝客は姿を見せなかった。
人巫女はしびれを切らし、兎巫女にマフラーを預けるなり「もうそろそろ良いでしょう!?」と奥に乗り込んでいった。このまま残っていると色々危なそうだったので、兎巫女が服を着替えるのを待って神社を離れた。元に戻った兎がマフラーを巻いたままなのを慧音が問うと、どうやら元々自分のものらしい。あいつどんだけだ。
ともあれ、神社を離れ、私達は上を目指した。
神社は、何のかんのと言って山の中腹以下に位置している。兎が、ひいては永琳が目論んでいる作業を行うには、火口まで上る必要がある。
「なあ」
「なによ」
道すがら、兎に問うた。
「それ、蓬莱の薬?」
「いえ、似てるけど別だし。私が実験で作った失敗作」
「そう」
ほらみろ。
そのうちに、木々が疎らになり、山肌が覗き始める。
既に白み始めていた空が加速度的に色を変えていく。
「お」
私は振り向いた。慧音も、兎も振り向いた。
神社は既に視界の外で、そこから下った麓の田畑も、里も、寺も、魔法の森も、霧の湖も、その先も、その先も、ずっと先まで見渡せた。
その先から、光が来る。
穏やかな風が吹く。
なるほど、これが。
「凱風快晴ってやつかぁ」
そうじゃなきゃ守矢神社が可哀想過ぎる。
まさに元旦という感じでした
そんな一年に一度しか触れられない空気を、丁寧に選んだ言葉と、ゆっくりとしたテンポの文章で再現している作品だと思いました。
ひとたび床についてしまえば、その不思議な感覚はあっと言う間に消え失せてしまい翌年までお預けです。
本編が比較的短い内容であったことも、それに似通った感覚を抱くのを手伝っているのではないかと思います。
個人的に数ある新年ネタ作品の中で、最も瞬間的な新年らしい作品だと感じました。