この日、八雲紫はお気に入りの西洋椅子に腰掛け、物思いにふけっていた。
「ねぇ……藍」
「はい、紫様」
一見、何もない空間へ向かって声を発すると、どこからともなく彼女の式が現れる。
「私、疲れたわ」
「はぁ」
一瞬何を言ったか理解できなかった。
しかし、主人の言うことは理解できることのほうが稀なので今更だった。
「…………」
「…………」
気まずい空気が流れる。
「で?」
と言えたらどれほど楽だろうか。
内心ため息をつきつつも適当にニコニコしておく。
「その……お疲れ様です」
「疲れたの」
「何にでしょう」
「何もかも、全部」
八雲紫は、立ち上がる。
八雲紫は、両手を掲げる。
八雲紫は、叫ぶ。
「私は! カブトムシになりたい!!」
「!?」
この時、八雲藍は聞き間違いかと、思わず問いかけた。
「カブトムシというと、あの、
動物界節足動物門昆虫綱甲虫目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科真性カブトムシ族カブトムシ属カブトムシのカブトムシ
ですかっ!?」
「ええ!
動物界節足動物門昆虫綱甲虫目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科真性カブトムシ族カぢゅトムシ属カブトムシ
よっ!」
藍の脳内に戦慄が駆け巡る。
何なんだ、この主人は、その、何なんだ畜生めバーロー!
「カブトムシと私の境界を…………取り除くっ!!」
八雲紫が両手を掲げ、元気玉よろしく能力を解放する。
その瞬間、眩い光が世界を包み込む。
「ちょまっ、ゆ、ゆかりさまああああああああああああ!!」
20XX年……八雲紫という概念はカブトムシになり、カブトムシという概念は八雲紫となった。 これは、八雲紫のカブトムシ係数近似値をXとしてカブトムシの八雲紫係数近似値をYとした場合に(X+Y)/N
+3r∫23N^2がK値線性側Eに近づにつれ、∞に近づくと見せかけて実は何も起こらないことに他ならなかった……
────────────────
~人間の里~
うだるような夏の日の午後、子供たちがはしゃいでいる。
「八雲紫捕りに行こうぜ!」
「ちょ、ちょっと待ってよー」
素朴な人間の営みが続けられるここ、人間の里において、娯楽と呼べるような娯楽はそうない。
だがそんなことはお構いなしに、遊びの天才である子供たちは外へと駆け出していく。
「おっ、さっそく一匹見っけっ!」
「え、どこどこ?」
先頭を走ってた子供の一人が、クヌギの木の股ほどの所に八雲紫がしがみ付いていた。
どうやら樹液を吸っている最中のようだ。
「……ってなんだ、メスゆかりんじゃん、いらねー」
「はやくオスゆかりん捕まえて勝負させようぜ」
ペロペロペロペロ ペロペーロ。
駆けていく子供たちなどお構いなしに、八雲紫(♀)の個体は樹液を一心不乱に舐めふけっている。
古きよき日本の風情が、ここ、幻想郷にはまだ残っていた……
ここは、人里の寺子屋、人間好きのワーハクタク、上白沢慧音が子供たちに歴史を教えている。
あるものは真面目に、ある者は夢の中に、そしてまたある者は、そわそわしていた。
(わ……出ちゃダメだって)
授業の前、偶々みつけた八雲紫の幼虫をポケットに忍ばせ、見つからないものかとハラハラしている男の子がいた。
「ゆかりぃ~ん、ゆかりぃ~ん……」
八雲紫がその名前の元ともなった特徴的な鳴き声を出すたび、男の子は先生に見つかるかどうかとハラハラものだ。
それでも初めて捕まえた八雲紫の幼虫に、好奇心が隠しきれない様子で、ふふ、と時折撫でてやる。
そんな時だった。
「せんせー! ゴロー君が何か持ってきてマース!」
生徒の中でもよく告げ口する、通称チクリ魔の女の子が手をあげ、男の子を指さした。
「ん、ゴロー、なんだそれは?」
慧音先生に見つかると漏れなく頭突きか説教が待っている……
しかしゴローと呼ばれた少年は、しょぼくれながらも正直に白状した。
それは、彼が知っていたからである。
先生が最も嫌うことは、風紀の乱れや規則違反よりも自分勝手な嘘であり、彼にとって、先生に嫌われることのほうが頭突きや説教よりずっと辛かったのだ。
「ほう、八雲紫の幼虫か、もうそんな時期なんだな」
ひょい、と手に取って少し楽しそうに眺める慧音先生。
「ゆかりぃ~ん……」
「おお、よしよし」
掌サイズの幼虫を、指の腹で転がすようにして撫でていると、ゴローは申し訳なさそうに質問した。
「あのね、センセー、教室で八雲紫飼ってもいい?」
「ん? んー……そうだなぁ」
しばらく悩むように目を瞑っていたが、やがてこう口を開いた。
「ちゃんと面倒をみるって約束するなら、な」
ぱぁっと笑顔になる生徒の顔を見届け、授業に戻る……
ある、寺子屋での夏の出来事だった。
────────
夜更け、教室に残された虫かごで眠る、八雲紫の幼虫を見て、慧音は考えた。
この虫には謎がある。
紫の部分は、鳴き声から来ているというのは誰でも知っていることだ。
だが、それでは八雲とはなんだろうか。
幻想郷全ての歴史を知り、外の歴史にも明るい上白沢慧音だからこそわかる。
おおよそこの虫が八雲と呼ばれるような理由がない。
そして、現在の幻想郷の管理責任者の一人である八雲藍。
彼女自身が式であるのは周知の事実だが、その主が誰であるかは謎につつまれている。
慧音は考える。
彼女の主、おそらくは八雲姓の人物がこのカブトムシの謎に関わっているのではないか。
夜が明けると同時、彼女は幻想郷の東端、つまり博麗神社へと向かった。
「あら、先生が来るなんて珍しいわね」
日が出て間もない早朝、神社の巫女、博麗霊夢は少々気怠そうに掃き掃除をしていた。
「ああ、少し相談があってな……」
普段から真面目な寺子屋の先生が、さらに深刻そうな顔をしているのを見、霊夢は客間へと案内した。
茶を淹れて出してやると、訪問者はその重い口を開いた。
「話というのは、八雲紫についてだ」
「八雲紫っていうと、あのカブトムシの?」
「そうだ」
カブトムシ、和名、ヤクモユカリは古来より日本に生息する昆虫である。
一生の多くを冬眠に使い、夏の間だけ姿を現す。
その特徴的な外見と鳴き声から昔から夏の風物詩として親しまれてきた。
慧音は昨日、考えていたことを霊夢に洩らす。
「八雲紫……ね。 実は、こんな昔話があるの」
八雲紫は昔はカブトムシではなかった。
遥か昔、カブトムシは邪神であり、八雲紫は人間の為にカブトムシと戦った存在である。
激闘の末、八雲紫はカブトムシを封印することに成功する。
しかし、その際八雲紫はカブトムシに取り込まれ、同化してしまう。
その時から、八雲紫はずっとカブトムシの封印を続けており、同時にクヌギの木の上から、子供たちを見守っている。
「と、ここまでが一般に知れ渡っているおとぎ話、でもこれには続きがあるの」
霊夢は続けた。
妖怪退治を生業とする博麗の家系に代々伝わる、八雲紫に関する秘伝の書にはこう書かれている、と。
"八雲紫の封印は完璧ではなく、それを維持するためには贄(にえ)が必要であった。
そこで八雲紫は、分身を全国に拡散させ、少数だが定期的に人間を取って食う。
これが神隠しの正体である。"
「まあ、八雲姓についてはわからないけど、昔はよくあった古い名字らしいし……」
「なんてことだ……生徒が危ない!」
顔を青くして立ち上がる慧音を一瞥し、霊夢が苦笑する。
「大丈夫よ、神隠しなんてそうそう起きるものじゃないし、それにまだ幼虫なんでしょ?」
「……しかし」
が、慧音の不安は的中することとなる。
「先生! TOMが、TOMが消えちゃった!」
寺子屋に戻った途端、数人の生徒が焦った様子で駆けつけてきた。
今日の授業の前に、八雲紫の世話をしようと集まっていた数人の子供たちのうち、一人が消えたというのだ。
それも、みんなの目の前で。
「そ、そんな馬鹿な……」
神隠しだ。
泣き出す子供たちをあやすことも忘れ、ひとり自責の念に駆られる。
自分がもう少し早く帰っていれば……
「帰っていれば……どうだというんだっ」
バン、と壁を殴る。
どうしようもない。
忽然と消えてしまうのが神隠しだ。
時も場所も不明。
今の彼女にわかるのは、その目的と、犯人だけ……
「お前だ……お前がTOMを」
TOMは可愛い生徒だった。
真面目で、優しく、活発で……
「あいつを、TOMを返せ!」
慧音は虫かごから八雲紫を取り出し、その手に徐々に力を込め……
「待ちなさい!!」
「!? ……そんな……馬鹿な」
振り向いた先、声のした方向に立っていたのは、八雲紫。
先日、子供たちがクヌギの木にいるのを見つけた♀個体の成虫である。
それが、二足歩行をし、あまつさえ人間の言葉を喋っているではないか。
「それは私の分身、無闇に殺生することは許しませんわ」
八雲紫は日傘をくゆらせ、幽雅にそう言い放つ。
あまりにも非現実的な現象に、戸惑いが隠せない慧音だったが、なんとか答える。
「分身、だと?」
「そう」
傘をくるくると回し、八雲紫は語りはじめた。
「いま、ようやく思い出したの……私は、八雲紫。 私はいくばくか昔、カブトムシと概念を融合した。
そして世のカブトムシは、私となり、私もまたカブトムシとなった……」
「……すまないが、言っている意味が」
「いま、外の世界は大変なことになっているわ」
八雲紫は言う。
自分、オリジナルの八雲紫が覚醒した時と同時刻、全世界の分身となるカブトムシ八雲紫もまた、同じように賢者八雲紫として目覚めた。
が、その多くはオリジナルよりもむしろ虫の本能のほうが強かったため、超高度な知識と力を持つ虫のような生物となった。
それと同時、虫の本能として種を増やすため、世界の八雲紫は人間の世界を襲い、喰い始めた。
本来肉食をしないカブトムシが、妖怪と混ざったことにより様々な変化をおこしていたのだ。
「これを止めるには、私とカブトムシの概念を再び剥離しなければなりません……」
「…………」
「あなたも知っているはず、神や妖怪は確かに人間より遥かに強い力を持っていますが、人間が絶滅しては生きていけません。
それは信仰であったり食料の問題であったり様々ですが、しょせん我々は人間ありきなのです。
その人間が絶滅の危機に瀕している」
「それほどまでに……?」
はいと八雲紫は答える。
後3日もあれば、人間は滅んでしまうだろうと。
「しかし、今の私の力では完全に元に戻すことは最早はかなわない。
剥離するとどちらかが一方、この場合はカブトムシという概念がこの世から消え去ってしまいます」
そこで、と八雲紫は慧音に頭を下げた。
「あなたに強力して欲しい、幻想郷の歴史を管理するあなたならば、歴史に関しては私の力の及ばない所にも干渉できるはず……」
「つまり私に、消えゆく種の存在を記憶しておいて欲しい、と」
「はい」
夏の日差しが強い。
しかし二人は対面したまま、汗一つ流さなかった。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
先に口を開いたのは慧音だった。
「それが本当なら、私も協力したい……が、正直なところ、自信がない」
「自信?」
「実は、貴方を見たときから、既視感がしていた、しかしいまだに誰だか思い出せない。
貴方の話が本当だとして、私の力ではこの程度なのだ。忘れずにいられる自信がない」
「ああ……」
その点はご心配なく、と八雲紫は言った。
「その時は貴方が私の力の及ばない所にいたからでしょうが、私が貴方に意図的に協力すれば、可能なはずです」
それから、さらに数分間、睨み合いが続いた。
そしてついに、慧音がため息をついた。
「…………わかった、協力しよう」
「ありがとうございますわ」
見た目西洋風の、可憐な少女にしか見えないその自称妖怪は、ニッコリとほほ笑んだ。
「それでは、今すぐに始めましょう、時間がありません」
「私は何を?」
「そこに立っているだけで……カブトムシのことだけを考えていて」
わかった、と目を閉じた。
上白沢慧音は考える。 カブトムシのことを。
日本の夏にはよく生息する、別名ヤクモユカリ。
長い期間冬眠とし、夏の間しか姿を見せない。
その姿は少女のような特異な格好をしており、鳴き声はゆかりぃ~ん。
主に樹の蜜を舐めて過ごす。
幼虫は手のひら大だが、成虫になると人一人分までになる、昆虫。
そこまで考えた時、慧音の目の前に光が迸った。
目を閉じていてもわかるほど、強い光だった。
時間にして数秒、いや、1秒もなかったかもしれない。
気が付いた時には、目の前には何もなく、ただ一人、ぽつねんと寺子屋の前に立っていた。
あれは夢だったのだろうか。
翌日、生徒を一人捕まえて、カブトムシについて聞いてみる。
「カブトムシ……ってなーに?」
自分でもわかる程、鼓動が早くなるのが分かった。
これこれこういう虫であると説明するも、クワガタムシか、だとかそのような反応しか返ってこない。
本当に、なくなってしまったのだ。
カブトムシという概念が、そもそもなかったことになってしまった。
この世にそもそも、カブトムシはなかったのだ。
「八雲、紫……」
今となっては彼女がどういう存在であるか、はっきりと思い出せる。
いや、幻想郷の人々にとっては忘れるという概念すらなかったのかもしれない。
あのカブトムシ八雲紫の世界に移り、戻ってきたのを知っているのは、世界で彼女と、上白沢慧音のみ……
あるいはあの妖怪のことだ、それすら壮大なイタズラだったのかもしれない。
彼女はいま、どこに……
────────
「はぁ…………はぁ……」
太陽が登り切り、暑さ絶頂ともいえる時間。
独りの妖怪が苦しそうに、雑木林の中を歩いていた。
私のカブトムシはどこ……?
彼女が消してしまったカブトムシ、あろうはずもない。
それでも彼女は、八雲紫は探していた。
半ば自棄になりつつ、カブトムシを。
そして彼女は見つける、林の中、不自然に切り開かれた場所、そして一本の切り株を。
その切り株に腰掛ける、一人の少年の姿を。
「…………」
おぼつかない足取りで、ゆっくりと近づく。、
もはやスキマを使う気力もなく、見つかっても相手は所詮人間、どうとでもなるだろう。
「あ」
と言いかけて、喉で抑えた。
死んでいる。
下を向き、遠くからはわからなかったが、この少年は、既に亡骸となっていた。
妖怪という種族だからこそわかる腐の匂い、生のなさが直観で読み取れた。
ブロンドヘアーの、歳は10代前半、里の子供ならば寺子屋に行っているくらいの年頃だ。
この奇妙な死に方をしている少年の傍ら、それはあった。
それは、一枚の紙であった。
手紙などによく使われる、レター用紙が一枚、二つに折りたたまれて、置かれていた。
そして何より、そこに書かれている文字を見たとき、八雲紫に戦慄が走った。
「八雲紫様へ」
手紙の表には、確かにそう書かれていた。
彼女は、枯れた喉の痛みも忘れ、震える手を抑えて……手紙を開いた。
【 株 ト ム 死 】
「ねぇ……藍」
「はい、紫様」
一見、何もない空間へ向かって声を発すると、どこからともなく彼女の式が現れる。
「私、疲れたわ」
「はぁ」
一瞬何を言ったか理解できなかった。
しかし、主人の言うことは理解できることのほうが稀なので今更だった。
「…………」
「…………」
気まずい空気が流れる。
「で?」
と言えたらどれほど楽だろうか。
内心ため息をつきつつも適当にニコニコしておく。
「その……お疲れ様です」
「疲れたの」
「何にでしょう」
「何もかも、全部」
八雲紫は、立ち上がる。
八雲紫は、両手を掲げる。
八雲紫は、叫ぶ。
「私は! カブトムシになりたい!!」
「!?」
この時、八雲藍は聞き間違いかと、思わず問いかけた。
「カブトムシというと、あの、
動物界節足動物門昆虫綱甲虫目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科真性カブトムシ族カブトムシ属カブトムシのカブトムシ
ですかっ!?」
「ええ!
動物界節足動物門昆虫綱甲虫目カブトムシ亜目コガネムシ上科コガネムシ科カブトムシ亜科真性カブトムシ族カぢゅトムシ属カブトムシ
よっ!」
藍の脳内に戦慄が駆け巡る。
何なんだ、この主人は、その、何なんだ畜生めバーロー!
「カブトムシと私の境界を…………取り除くっ!!」
八雲紫が両手を掲げ、元気玉よろしく能力を解放する。
その瞬間、眩い光が世界を包み込む。
「ちょまっ、ゆ、ゆかりさまああああああああああああ!!」
20XX年……八雲紫という概念はカブトムシになり、カブトムシという概念は八雲紫となった。 これは、八雲紫のカブトムシ係数近似値をXとしてカブトムシの八雲紫係数近似値をYとした場合に(X+Y)/N
+3r∫23N^2がK値線性側Eに近づにつれ、∞に近づくと見せかけて実は何も起こらないことに他ならなかった……
────────────────
~人間の里~
うだるような夏の日の午後、子供たちがはしゃいでいる。
「八雲紫捕りに行こうぜ!」
「ちょ、ちょっと待ってよー」
素朴な人間の営みが続けられるここ、人間の里において、娯楽と呼べるような娯楽はそうない。
だがそんなことはお構いなしに、遊びの天才である子供たちは外へと駆け出していく。
「おっ、さっそく一匹見っけっ!」
「え、どこどこ?」
先頭を走ってた子供の一人が、クヌギの木の股ほどの所に八雲紫がしがみ付いていた。
どうやら樹液を吸っている最中のようだ。
「……ってなんだ、メスゆかりんじゃん、いらねー」
「はやくオスゆかりん捕まえて勝負させようぜ」
ペロペロペロペロ ペロペーロ。
駆けていく子供たちなどお構いなしに、八雲紫(♀)の個体は樹液を一心不乱に舐めふけっている。
古きよき日本の風情が、ここ、幻想郷にはまだ残っていた……
ここは、人里の寺子屋、人間好きのワーハクタク、上白沢慧音が子供たちに歴史を教えている。
あるものは真面目に、ある者は夢の中に、そしてまたある者は、そわそわしていた。
(わ……出ちゃダメだって)
授業の前、偶々みつけた八雲紫の幼虫をポケットに忍ばせ、見つからないものかとハラハラしている男の子がいた。
「ゆかりぃ~ん、ゆかりぃ~ん……」
八雲紫がその名前の元ともなった特徴的な鳴き声を出すたび、男の子は先生に見つかるかどうかとハラハラものだ。
それでも初めて捕まえた八雲紫の幼虫に、好奇心が隠しきれない様子で、ふふ、と時折撫でてやる。
そんな時だった。
「せんせー! ゴロー君が何か持ってきてマース!」
生徒の中でもよく告げ口する、通称チクリ魔の女の子が手をあげ、男の子を指さした。
「ん、ゴロー、なんだそれは?」
慧音先生に見つかると漏れなく頭突きか説教が待っている……
しかしゴローと呼ばれた少年は、しょぼくれながらも正直に白状した。
それは、彼が知っていたからである。
先生が最も嫌うことは、風紀の乱れや規則違反よりも自分勝手な嘘であり、彼にとって、先生に嫌われることのほうが頭突きや説教よりずっと辛かったのだ。
「ほう、八雲紫の幼虫か、もうそんな時期なんだな」
ひょい、と手に取って少し楽しそうに眺める慧音先生。
「ゆかりぃ~ん……」
「おお、よしよし」
掌サイズの幼虫を、指の腹で転がすようにして撫でていると、ゴローは申し訳なさそうに質問した。
「あのね、センセー、教室で八雲紫飼ってもいい?」
「ん? んー……そうだなぁ」
しばらく悩むように目を瞑っていたが、やがてこう口を開いた。
「ちゃんと面倒をみるって約束するなら、な」
ぱぁっと笑顔になる生徒の顔を見届け、授業に戻る……
ある、寺子屋での夏の出来事だった。
────────
夜更け、教室に残された虫かごで眠る、八雲紫の幼虫を見て、慧音は考えた。
この虫には謎がある。
紫の部分は、鳴き声から来ているというのは誰でも知っていることだ。
だが、それでは八雲とはなんだろうか。
幻想郷全ての歴史を知り、外の歴史にも明るい上白沢慧音だからこそわかる。
おおよそこの虫が八雲と呼ばれるような理由がない。
そして、現在の幻想郷の管理責任者の一人である八雲藍。
彼女自身が式であるのは周知の事実だが、その主が誰であるかは謎につつまれている。
慧音は考える。
彼女の主、おそらくは八雲姓の人物がこのカブトムシの謎に関わっているのではないか。
夜が明けると同時、彼女は幻想郷の東端、つまり博麗神社へと向かった。
「あら、先生が来るなんて珍しいわね」
日が出て間もない早朝、神社の巫女、博麗霊夢は少々気怠そうに掃き掃除をしていた。
「ああ、少し相談があってな……」
普段から真面目な寺子屋の先生が、さらに深刻そうな顔をしているのを見、霊夢は客間へと案内した。
茶を淹れて出してやると、訪問者はその重い口を開いた。
「話というのは、八雲紫についてだ」
「八雲紫っていうと、あのカブトムシの?」
「そうだ」
カブトムシ、和名、ヤクモユカリは古来より日本に生息する昆虫である。
一生の多くを冬眠に使い、夏の間だけ姿を現す。
その特徴的な外見と鳴き声から昔から夏の風物詩として親しまれてきた。
慧音は昨日、考えていたことを霊夢に洩らす。
「八雲紫……ね。 実は、こんな昔話があるの」
八雲紫は昔はカブトムシではなかった。
遥か昔、カブトムシは邪神であり、八雲紫は人間の為にカブトムシと戦った存在である。
激闘の末、八雲紫はカブトムシを封印することに成功する。
しかし、その際八雲紫はカブトムシに取り込まれ、同化してしまう。
その時から、八雲紫はずっとカブトムシの封印を続けており、同時にクヌギの木の上から、子供たちを見守っている。
「と、ここまでが一般に知れ渡っているおとぎ話、でもこれには続きがあるの」
霊夢は続けた。
妖怪退治を生業とする博麗の家系に代々伝わる、八雲紫に関する秘伝の書にはこう書かれている、と。
"八雲紫の封印は完璧ではなく、それを維持するためには贄(にえ)が必要であった。
そこで八雲紫は、分身を全国に拡散させ、少数だが定期的に人間を取って食う。
これが神隠しの正体である。"
「まあ、八雲姓についてはわからないけど、昔はよくあった古い名字らしいし……」
「なんてことだ……生徒が危ない!」
顔を青くして立ち上がる慧音を一瞥し、霊夢が苦笑する。
「大丈夫よ、神隠しなんてそうそう起きるものじゃないし、それにまだ幼虫なんでしょ?」
「……しかし」
が、慧音の不安は的中することとなる。
「先生! TOMが、TOMが消えちゃった!」
寺子屋に戻った途端、数人の生徒が焦った様子で駆けつけてきた。
今日の授業の前に、八雲紫の世話をしようと集まっていた数人の子供たちのうち、一人が消えたというのだ。
それも、みんなの目の前で。
「そ、そんな馬鹿な……」
神隠しだ。
泣き出す子供たちをあやすことも忘れ、ひとり自責の念に駆られる。
自分がもう少し早く帰っていれば……
「帰っていれば……どうだというんだっ」
バン、と壁を殴る。
どうしようもない。
忽然と消えてしまうのが神隠しだ。
時も場所も不明。
今の彼女にわかるのは、その目的と、犯人だけ……
「お前だ……お前がTOMを」
TOMは可愛い生徒だった。
真面目で、優しく、活発で……
「あいつを、TOMを返せ!」
慧音は虫かごから八雲紫を取り出し、その手に徐々に力を込め……
「待ちなさい!!」
「!? ……そんな……馬鹿な」
振り向いた先、声のした方向に立っていたのは、八雲紫。
先日、子供たちがクヌギの木にいるのを見つけた♀個体の成虫である。
それが、二足歩行をし、あまつさえ人間の言葉を喋っているではないか。
「それは私の分身、無闇に殺生することは許しませんわ」
八雲紫は日傘をくゆらせ、幽雅にそう言い放つ。
あまりにも非現実的な現象に、戸惑いが隠せない慧音だったが、なんとか答える。
「分身、だと?」
「そう」
傘をくるくると回し、八雲紫は語りはじめた。
「いま、ようやく思い出したの……私は、八雲紫。 私はいくばくか昔、カブトムシと概念を融合した。
そして世のカブトムシは、私となり、私もまたカブトムシとなった……」
「……すまないが、言っている意味が」
「いま、外の世界は大変なことになっているわ」
八雲紫は言う。
自分、オリジナルの八雲紫が覚醒した時と同時刻、全世界の分身となるカブトムシ八雲紫もまた、同じように賢者八雲紫として目覚めた。
が、その多くはオリジナルよりもむしろ虫の本能のほうが強かったため、超高度な知識と力を持つ虫のような生物となった。
それと同時、虫の本能として種を増やすため、世界の八雲紫は人間の世界を襲い、喰い始めた。
本来肉食をしないカブトムシが、妖怪と混ざったことにより様々な変化をおこしていたのだ。
「これを止めるには、私とカブトムシの概念を再び剥離しなければなりません……」
「…………」
「あなたも知っているはず、神や妖怪は確かに人間より遥かに強い力を持っていますが、人間が絶滅しては生きていけません。
それは信仰であったり食料の問題であったり様々ですが、しょせん我々は人間ありきなのです。
その人間が絶滅の危機に瀕している」
「それほどまでに……?」
はいと八雲紫は答える。
後3日もあれば、人間は滅んでしまうだろうと。
「しかし、今の私の力では完全に元に戻すことは最早はかなわない。
剥離するとどちらかが一方、この場合はカブトムシという概念がこの世から消え去ってしまいます」
そこで、と八雲紫は慧音に頭を下げた。
「あなたに強力して欲しい、幻想郷の歴史を管理するあなたならば、歴史に関しては私の力の及ばない所にも干渉できるはず……」
「つまり私に、消えゆく種の存在を記憶しておいて欲しい、と」
「はい」
夏の日差しが強い。
しかし二人は対面したまま、汗一つ流さなかった。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
先に口を開いたのは慧音だった。
「それが本当なら、私も協力したい……が、正直なところ、自信がない」
「自信?」
「実は、貴方を見たときから、既視感がしていた、しかしいまだに誰だか思い出せない。
貴方の話が本当だとして、私の力ではこの程度なのだ。忘れずにいられる自信がない」
「ああ……」
その点はご心配なく、と八雲紫は言った。
「その時は貴方が私の力の及ばない所にいたからでしょうが、私が貴方に意図的に協力すれば、可能なはずです」
それから、さらに数分間、睨み合いが続いた。
そしてついに、慧音がため息をついた。
「…………わかった、協力しよう」
「ありがとうございますわ」
見た目西洋風の、可憐な少女にしか見えないその自称妖怪は、ニッコリとほほ笑んだ。
「それでは、今すぐに始めましょう、時間がありません」
「私は何を?」
「そこに立っているだけで……カブトムシのことだけを考えていて」
わかった、と目を閉じた。
上白沢慧音は考える。 カブトムシのことを。
日本の夏にはよく生息する、別名ヤクモユカリ。
長い期間冬眠とし、夏の間しか姿を見せない。
その姿は少女のような特異な格好をしており、鳴き声はゆかりぃ~ん。
主に樹の蜜を舐めて過ごす。
幼虫は手のひら大だが、成虫になると人一人分までになる、昆虫。
そこまで考えた時、慧音の目の前に光が迸った。
目を閉じていてもわかるほど、強い光だった。
時間にして数秒、いや、1秒もなかったかもしれない。
気が付いた時には、目の前には何もなく、ただ一人、ぽつねんと寺子屋の前に立っていた。
あれは夢だったのだろうか。
翌日、生徒を一人捕まえて、カブトムシについて聞いてみる。
「カブトムシ……ってなーに?」
自分でもわかる程、鼓動が早くなるのが分かった。
これこれこういう虫であると説明するも、クワガタムシか、だとかそのような反応しか返ってこない。
本当に、なくなってしまったのだ。
カブトムシという概念が、そもそもなかったことになってしまった。
この世にそもそも、カブトムシはなかったのだ。
「八雲、紫……」
今となっては彼女がどういう存在であるか、はっきりと思い出せる。
いや、幻想郷の人々にとっては忘れるという概念すらなかったのかもしれない。
あのカブトムシ八雲紫の世界に移り、戻ってきたのを知っているのは、世界で彼女と、上白沢慧音のみ……
あるいはあの妖怪のことだ、それすら壮大なイタズラだったのかもしれない。
彼女はいま、どこに……
────────
「はぁ…………はぁ……」
太陽が登り切り、暑さ絶頂ともいえる時間。
独りの妖怪が苦しそうに、雑木林の中を歩いていた。
私のカブトムシはどこ……?
彼女が消してしまったカブトムシ、あろうはずもない。
それでも彼女は、八雲紫は探していた。
半ば自棄になりつつ、カブトムシを。
そして彼女は見つける、林の中、不自然に切り開かれた場所、そして一本の切り株を。
その切り株に腰掛ける、一人の少年の姿を。
「…………」
おぼつかない足取りで、ゆっくりと近づく。、
もはやスキマを使う気力もなく、見つかっても相手は所詮人間、どうとでもなるだろう。
「あ」
と言いかけて、喉で抑えた。
死んでいる。
下を向き、遠くからはわからなかったが、この少年は、既に亡骸となっていた。
妖怪という種族だからこそわかる腐の匂い、生のなさが直観で読み取れた。
ブロンドヘアーの、歳は10代前半、里の子供ならば寺子屋に行っているくらいの年頃だ。
この奇妙な死に方をしている少年の傍ら、それはあった。
それは、一枚の紙であった。
手紙などによく使われる、レター用紙が一枚、二つに折りたたまれて、置かれていた。
そして何より、そこに書かれている文字を見たとき、八雲紫に戦慄が走った。
「八雲紫様へ」
手紙の表には、確かにそう書かれていた。
彼女は、枯れた喉の痛みも忘れ、震える手を抑えて……手紙を開いた。
【 株 ト ム 死 】
しかし笑ってしまった。TOMってそういうww
カブトムシって、正確に書き表そうとするとそんな長いのかー、とか藍様の台詞見て思ったりしました。何気に台詞かんじゃってるゆかりん可愛い。
八雲紫捕りのくだりでもうねw