Coolier - 新生・東方創想話

きみのこえがききたくて

2011/12/31 12:50:51
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 夢殿大祀廟にはなみなみと暗闇が湛えられている。
 霊廟とは死者が眠る場所であり、その眠りを妨げるようなことがあってはならない。故に篝火の一つも焚かれていない。静謐な闇だ。頭上には土の蓋が重くのしかかり、人の侵入を拒んでいる。墓所を暴こうなどという不届き者であっても、これを掘り進めることは容易ではあるまい。
 その逆もまた然り。
 監視する目が途切れることはなく、出ることも入ることも叶わないのだ。
 では――と、蘇我屠自古は思う。
 己がこの場所に在る意味は何だというのか。
 霊廟の守護を務めるでもなく、まして外に出ようとしているわけでもない。にも、拘らず。
 ――何故、私はここにいる。
 既に飽きるほど繰り返した自問だ。時間の感覚などとうに無くなって久しいが、幸い――というべきなのかは分からないが――屠自古は生身を喪失した亡霊の身である。
 思索をするくらいしかできることがないから、延々堂々巡りをするように考えている。
 自分は何故、ここにいるのか。
 聖徳王が眠りについた後。
 本来であれば、屠自古――刀自古はそのまま人間として死ぬ定めだった。太子の隣には、蘇我氏と策謀と知略を以て相争った物部布都が立つ。屠自古の居場所はそこにない。
 なればこの身があり続ける意味はなし。
 そう、考えていた。
 見届けるべきを見届け。
 それなりに生きて、死んだ――はず、だった。
 なのに。
 気が付けば、屠自古はこの大祀廟の中にいた。太子亡き後、仏教派の手で封印が施され、何人たりとて中には入れるはずがなかったのに。
 ――私は。
 ここで何をしているのだろう、と屠自古はまた思う。
 亡霊の身体は便利だ。飲まず食わずで構わないし、眠りたくなければ眠らなくても構わない。それで死ぬことがないのだから。既に死んでいるのだから当然ではあるのだけれど。
 生きていた年月を遥かに超える、長い永い思索である。
 生前の記憶を思い返すことにも飽きた。
 ただただ、思う。

「何故、自分がここにいるのか――未だにそう考えておられるのですね?」

 暗闇に声が反響した。

「……青娥殿。また来たのですか」
「御機嫌よう。と言っても、皮肉にしかなりませんか」
「無論です」

 これ以上なく簡潔に屠自古は答えた。
 声の主は――霍青娥という。豊聡耳神子に道教の知識を与え、死して尸解仙となる秘術を授けた仙人である。怪しげな鑿を使い大祀廟の内外を自由に行き来する唯一のひとでもある。
 しかし、屠自古は青娥を信用していない。自らの道楽のためだけに仙術をばらまき、後は野となれ山となれという生き方が気に食わないからだ。現に、仙人となるべく眠りについた神子は未だに目を覚まさない。神子自身の見通しが甘かったこともあるが、この仙人――邪仙の口車に乗せられた部分が大きいのである。
 いずれ仏道は滅びるだろう――なんて。
 その"いずれ"が何時になるのか。
 計算できない人ではなかったのに。

「何をしに来たのです。この場は太子様が眠っておられる霊廟なのです。妨げることは何人たりとて許しませんよ」
「あら、怖い。そう睨まずとも解っておりますわ」

 何がおかしいのか、青娥はころころと笑う。
 ――視界の利かない闇だというのに。下らないことを。
 眉間に力が篭っていたことは事実だけれど。それとも、また怪しげな術でも使って闇を見透かしているのかもしれない。考えて、屠自古は俄にうそ寒い気持ちになった。決して有り得ないことではない。
 自分には見えず。
 相手には――見えている。
 その想像は、ひどく屠自古を不安定にさせる。

「顔色が優れないようですね」
「……」

 やはり。
 見えている――のか。
 青娥はただ笑っている。
 あるいは――哂っているのだろうか。
 ――こんな場所に縛られた私を。
 敷かれた封印を物ともせず、青娥くらいしか変化がない場所だ。青娥はどこかに縛られることをよしとしない性格である。亡霊という我が身が、青娥にとってはさぞ奇異な存在に映っているであろうことを、屠自古は自覚している。
 ふらふらと。
 彷徨うように。
 国中を、否――海をも越えているのかもしれない。よくよく思い返せば、最後に聞いた声とは音色が違っているようにも聞こえる。
 ――よもや身体を乗り換えたのでは。
 怖気の走る想像をしてしまい、屠自古はわずかに身震いをした。青娥が真実、暗闇を見透かしているのならば。それすらも見られたことになるのだが。幸い、青娥はこれといって反応を示さなかった。
 代わりに。
 様子を見に来たのですよと青娥は言った。

「様子、というと」
「外ではようやく仏教の力が弱まり、太子が復活するに足る時代となりつつあります」
「――ならば」

 ようやくあの方と会えるのですねと屠自古は訊いた。

「ええ。太子が望んだ国体の在り方とは少々異なっているかもしれませんけれど。彼女はそれでも、民衆を導こうとするのでしょうねえ。それを目にするときが楽しみですわ」
「何が仰りたいのです」
「特に何も。素直に聖徳王の復活を祝おうではありませんか」
「……それ自体は吝かではないのですが。貴女はまだあの方に関わろうというのですね」
「それが何か?」
「私は――貴女が嫌いなのです。近くにいるというだけで虫酸が走る。どうか独りにして頂けませんか」
「あらあら」

 青娥は大仰に驚いたような声を出した。
 ――これも。
 演技なのだろうと屠自古は思う。息をするように嘘を吐き、その嘘を方便ですと言い切るような女だ。
 闇に紛れて――本心は分からない。
 顔色を見ることさえできれば、少しは理解の助けになるのだが。否――無為、か。その程度で化けの皮が剥がれるとは思えない。

「嫌われたのでは仕方がありませんわね。此度は貴女と言葉を交わせただけ、収穫があったということにしておきますわ」

 毎度、一方的に話しかけてくるのは青娥である。
 屠自古は多くの時間を微睡みながら過ごしているからだ。
 己と亡霊の在り方に思いを馳せ、神子の復活を待つばかり。
 復活するまでには理由を探しておきたいと――そう思っていたのだけれど。
 どうやら、それは叶いそうにないなと屠自古は思う。

「わたくしはこの大祀廟に門番を置こうと思います。聖徳王が復活するとなれば、いずれ何かしらの変化と、それに伴い訪問者があるはずですから」
「訪問者――?」
「貴女も用意をしておいたほうがいいでしょうね。ある程度、荒っぽい訪問になるでしょうから」
「待て、何が言いたい!」
「それでは、御機嫌よう」

 もう一度、待てと言ったのだが。
 それきり青娥の声は返ってこなかった。現れたときと同様、唐突に去ったのだ。
 屠自古は小さく息を吐いた。
 ――何なんだ、一体。
 底知れなさに磨きが掛かっているような気がする。屠自古が思う通りの人物であるのなら、底はないのだ。全てが表面的な発露であり、開け放たれている。策を弄するわけではなく、興味の赴くままに行ったことが、傍から見れば脈絡を持って見えるというだけのことで。
 苦手だ。
 企んでいるのならばもう少しそれらしくしていてほしい。それなら、まだ対処の仕様もあるというのに。開けっ広げに企む、というのも妙な話ではあるのだけれど。

「心の準備だけは――しておくか」

 ため息が、零れた。
 考えてみれば、霊体となってから初めて、光を捉える瞬間が迫っているのだ。
 亡霊になってからというもの、この暗闇の中でずっと過ごしてきたのだから。
 それとも――。
 ――私は盲ているのかもしれないな。
 考えるだけ無駄か、と屠自古は思う。結局、なるようにしかならないのだと。そうして再び、微睡みへと落ちてゆく。
 瞼を開けていても閉じていても、変わることのない暗闇。もうすぐ別れるのだと思うと――それすらも名残り惜しく思えるのが不思議だった。



 それから間もなく、夢殿大祀廟に千数百年ぶりの光が灯った。時間と共に密度を上げるそれは、淡い欲望の結晶だった。欲を吐き出せば消えてしまう類の霊である。
 どういうわけか欲望を聞き届けてくれる者が復活すると知って集まってきたのだろう。
 期待。
 不安。
 そういうものが綯い交ぜになった複雑な心境のまま、屠自古はただただ待ち続けた。自分の目が正しく働いていることに安堵し、墓所を後にする心構えを整えていた時だった。
 闖入者。飛び込んできたのは、巫女が二人と魔法使いに剣士だった。
 青娥が言った通りの――荒っぽい訪問。
 それでも、昔に比べれば優しいものだ。あやかし退治は為政者の義務。必ず殺すか封印するか。亡霊でもその扱いは変わらなかったはずなのに。たとえ亡霊とは言え、きちんと丁寧に供養されれば成仏してしまうだろう。その程度にしか未練を感じていないのだから。成仏。言葉の響きが屠自古を苦笑させた。
 ――仏、か。
 神なんて、神子がいればそれでいい。
 霊廟の中から強い思念に喚ばれ、駆けつけた場に。
 豊聡耳神子はいた。

 どさくさに紛れて――祝いの言葉を忘れてしまったことだけが。
 屠自古の心に小さなしこりを残したのだけれど。
 





 仙界は穏やかな静寂に満ちている。日常生活に支障を来すようなことはないけれど、耳が良すぎる神子は基本的に大きな音が苦手なのである。だからといって、新しく住まう世界を作り上げてしまうのはやり過ぎだとも思ったのだが。
 与えられた私室の中で、屠自古はまた物思いに耽っていた。
 また、というか。
 久しぶりに――である。
 幻想郷の各勢力への視察を兼ねた挨拶回り。宴会と酒の流儀。何やかやで、慣れるまでには結構な期間を要してしまった。亡霊として通常の生活を送っていた先人に会うこともできたし――といっても、その亡霊もまた屠自古の苦手な掴みどころのない性格をしていたのだが――幻想郷という土地を知るためには、必要な時間ではあったのだ。
 ただ――自分だけの時間というものを取れる機会は減ってしまった。
 神子や布都と共にいられることは、素直に嬉しいと思うのだけれど。
 少しくらい、と思わないではない。
 齟齬。
 千四百年分のズレが、屠自古と布都――そして、神子との間に横たわっているからだ。
 一人になる時間というものが欲しくもなる。
 神子を始め多くの人間や妖怪の姿を見られることは、率直に言って幸せだ。視覚というものの大切さを屠自古は身を以て知ったのである。
 自分の存在すらもあやふやになってしまうような闇。
 封印という目に見えない重圧が加わっていたことも、後になって知った。
 あれを恋しいと思うことは――一度外に出てしまえば流石に、ないが。
 それでも。何もせずに過ごす時間というものは、非常に短くなった。家事の担当を買って出たことも原因だ。神子にさせる、ということは生前の朧気な記憶からもたらされる矜持が許さなかったし、かといってもう一人の同居人――物部布都に任せきりにするのは不安だった。
 神子が復活したことに拠る安堵と、新しい生活の慌ただしさ。
 その中で。
 屠自古は自分が何故存在していられるのかという疑問を忘れかけていた。
 夢殿を出て、最初の年が明けようとしている。
 今日はどうしても家事当番をしたいのだと布都が言い出し、久方ぶりに何もせずぼんやりし始めたときになってようやく――思い出したのである。
 大晦日。
 怨敵、もとい命蓮寺では除夜の鐘を撞くのだと知り、年越しの宴会――師走の終わりから三が日にかけて、博麗神社で行われる大宴会――には申し訳ないが参加しない旨を伝えてある。復活した神子の耳に、鐘の音は少々過ぎた音なのだ。
 慣れればまた違ってくるのだろうか。
 とは言え。
 百八つも煩悩を聞かされたのではさすがに堪りませんからと本人は笑っていたけれど。
 最初の年の瀬くらいは我々だけで過ごしませんか――初めにそう言ったのも、神子であり。
 神子の言うことならば否やはないと布都が言い。
 屠自古もまた、それに倣ったのだ。結局は三人とも、つましく新年を迎えて心機一転を図りたかったということなのだろう。
 その布都は現在、炊事場で蕎麦を茹でている。どこからか年越し蕎麦なるものを調達してきたことが、そもそも今日の家事をしたいと言い出したきっかけであるらしい。何と言うか、かつては政敵として互いに対立していた相手の手からなる食事を摂るというのも妙な気分だと屠自古は思う。
 ――それを言えば。
 布都は毎日、こうした気分を味わっているのかもしれない。案外、意趣返しなのだろうか。思って、屠自古は頬に苦笑を刻んだ。復活してからというもの、布都は変な稚気を見せることが増えている。生前の彼女からはあまり想像できない性格だから、別人が成り代わっているのではないかと心配したことも一度や二度ではない。
 まあ――、

「布都が楽しそうならそれでいいか――と、考えていますね」
「……お人が悪いですね。考えていることを勝手に覗くとは」
「これは失敬。しかし、屠自古があまりに無防備過ぎるのも良くないのです。"声"を聞かずとも、何を考えているかくらいは分かりますよ」

 神子はそう言って微笑んだ。屠自古は薄く頬を染める。確かに、炊事場に向かってにやけていたのは事実である。ただでさえ勘の鋭い神子のことだから、それと知れてしまうのも無理はない。
 見れば、廊下側の障子が開いたままになっている。神子はそこに立っていた。これほど忘我に至るのならば、閉めておいたものを。油断していた。屠自古は内心歯噛みして、すぐさま可笑しくなった。自室なのだ。油断も何もあったものではない。

「なにゆえ私などの部屋に来たんです」
「いえ、ね。少し――布都がいると不都合な話をしに来たのですよ」
「不都合」
「ええ。彼女は政友ですが、私を尊崇の対象と見ている部分が小さくない。弱みになるようなことを聞かれるのは避けたいのです。入っても?」
「構いませんが――」

 屠自古の内心を一抹の不安と――かすかな喜びが過ぎる。
 秘密の共有。これを契機に、少しでも溝が埋まればいいのだけれどとも――思う。
 新しい家は幻想郷の風俗に倣った造りである。基本的は寝殿造りというらしい。かつて自分たちが生きていた時代は飛鳥時代と呼ばれていることも知った。往時は珍しかった瓦が広く普及していることに驚いたり、筵のように薄かった畳が厚くなり住居の床一面に敷かれていたりと家屋を見てまわるだけでも楽しい時間だった。
 仙界に戻り家を建てたのは神子一人だ。生前から色々と規格外だった彼女の能力は尸解仙となって以降、ますます大きくなっている。
 音を立てずするすると障子を閉めて部屋に入った神子は、屠自古の前で正座した。

「こちらでの生活には慣れましたか」
「それなりに。そういう貴女こそどうなんです。仙人になってしばらく経ちますが」
「悪くないものですよ。やはり、生身でひとの声を聴けることは面白い」
「面白い――ですか?」
「ええ。欲得を抜きに考えても、面白いものです。人間のみならず妖怪の欲望も聞き知ることは楽しい。ただ、彼らの欲は私に分からない形であることも多い。その辺りはおいおい学ばなければならないでしょうね」
「手立ては」

 神子は命蓮寺の名前を挙げて、

「かの寺院に手解きを頼もうかと。数年前にできたばかりの新参伽藍なのだそうですが、とてもそう思えないほど幻想郷に馴染んでいる。我々も学べるところがあるでしょう」
「……仏門に頭を下げるというのは癪ですね」
「分かってください。まずは民草を知ることから始めなければならないのです」
「決定権は貴女にあります。私のことは置いて、太子の御心のままになさいませ」
「ありがとう、屠自古」

 沈黙。
 何だかそわそわと落ち着かなさそうに、神子は部屋を見回している。見たところで彼女の興をそそるようなものはないのにと屠自古は思う。
 趣味など持てるはずもなかったから、部屋の中はとにかくモノがないのだ。これから増やしていけばいいと思っている。

「時に――」

 屠自古は進化論というものを知っていますか、と神子は言った。

「いえ。寡聞にして知りませんが」

 屠自古は訝しさに眉をひそめる。急に何を言い出すのだろう。
 弱みになり得ること、とやらに関わりのあることなのだろうか。

「紅魔館」
「は?」
「屠自古も一緒に挨拶をしに行ったでしょう? 鬼の住む紅い館ですよ」
「それは覚えていますが」
「あの館の地下には多くの本が所蔵されていましてね。貸本屋を営んでいるというので、主の薦めるものを幾らか借りてきたのです」
「はあ」

 相変わらず学ぶことが好きであるらしい。
 身体的に変化をしても、精神的にはあまり変わらなかったのだろう。神子は飛鳥の頃にも隋から取り寄せた書物を読み耽っていた。執務室に山と積まれた巻物を整理したことを覚えている。
 その本によると――と、神子は続けた。

「生物は長い年月を掛けて、環境に適応するよう絶えず変化を続けているものなのだそうです」
「……そのような話をするために、わざわざ?」
「まあ聞いて下さい。反対に――使わないモノはなくなってしまうこともあるそうでしてね」

 道理ではある――か。

「必要がなければ捨てるものもあるでしょう」

 我が身に置き換えて、屠自古は呟く。容易いことではないのだろうが、ありえないとも言い切れまい。必要なものは増やし、不必要なものは切り捨てる。
 長きを生きた獣があやかしに化けるようなものか。屠自古の想像ではその辺りが限界だったが。

「翻って、屠自古。君はあの霊廟の中でどうしていましたか」
「どう――とは」
「言葉通りに捉えていただいて結構です」
「特に何もしていませんでした」

 それは、復活した神子にも話したことがあるはずだ。

「時折訪れる青娥殿の他には変化する事象もなく、ただただ茫洋と過ごしていたばかりだったんです。何を、と言われても」
「それです」
「はい?」
「だから、私は少し心配になったのですよ。君が消えてしまうのではないか――とね」
「そんなことはありえませんよ」
「今の君がそう考えていたとしても、仮に君が自分は必要ないと思い込んでしまえば――消えてしまうかもしれないでしょう」
「だから、そんなことは」

 ない――と言いかけて、屠自古は口を噤んだ。
 言い切れないからだ。
 屠自古は自分が何故亡霊となってしまったのか、その理由が分かっていないのだから。

「私が消えることと貴女の弱みとに何の関係があるんです」

 苦し紛れに屠自古は問い返した。
 はぐらかすように神子は言う。

「西行寺幽々子氏と会ったでしょう」
「……ええ」
「彼女は生前の記憶と死に際の記憶を持たない亡霊なのだそうです。通常、亡霊とは現世に対する強い執着なくして存在しうるものではないはずなのに」
「……存じておりますが」

 生きていた頃と。
 死ぬ――瞬間。
 覚えている。重要なのはおそらく、そのとき何を思ったのか――だ。
 神子がお隠れになり、目を掛けていた山背大兄王が没した後。
 今際の際に脳裏を掠めたのは。

「屠自古。君の未練は――何ですか」
「未練――ですか」
「通常は未練無くして亡霊たり得ない。蘇我と物部の間を行き来し、己は仙人になることを放棄した君は、今――何を望んでいるのですか」
「私の欲望を聞く程度のことは訳もないでしょう」
「西行寺氏が稀な亡霊であり、変化した亡霊であるのなら――反対に、私の耳は使わない間に衰えてしまったのかもしれません」
「何ですって?」

 さらりと。
 至極重要なことを、言わなかったか?

「それが、弱み――なのですか」
「……この道具は霍青娥より譲り受けた呪具でしてね」
「青娥――殿、から」
「そう毛嫌いしないで下さい。君が彼女を苦手としていることは知っていますが、あれは根本的に奔放なだけなのです。利用しようというのなら、こちらも利用すればいいだけのこと」

 助けられていることは事実なのですし、と神子は苦笑する。

「これを通さなければ――私は現在、肉声が薄く聞こえてしまうのです。おそらく、欲望を聞きとる能が強くなりすぎた結果なのでしょう。欲望の声が大きすぎるせいなのかも知れません」
「薬師に診ていただくことはできないのですか? 宴席で顔を合わせた中にいたはずですが」
「人の医がこの身にどれだけ通じるか、知れたものではありませんから。これさえあれば、問題はないのですし。それに幾らかは口唇を読むことで代用できます。しかし――」

 神子はそっとヘッドホンを外す。

「これを通して純度を高めても、君の"声"はよく聞き取れない。亡霊の欲望がまだ理解の範疇外にあるのか。それとも、君の声という特定の音を聞くことができなくなってしまったのか」

 亡霊だから、なのか。
 本当に神子の耳が衰えてしまったのか。
 ただ、と神子は続ける。

「西行寺氏はこうも言っていた。我思う故に我在り。未練など無くとも、私は私である時点で既に存在している。故にそんなものは必要ないのだと。私はね、屠自古。君や布都には居てもらうだけでいいとも考えている」

 貴女には。

「そう言い切れるだけの何かがありますか」

 ここにいる憑拠が。

「正直なところ、恐ろしいのです」
「恐ろしい――?」
「……はい。今に伝わる私の姿は、伝聞と誇張で歪んでしまっている。果ては、実在をすら疑われているようなのです。そんな場所に私が出ていったところで、国を率いることができるかというと」
「確かに――難しいでしょうね」
「多くの者が望み、君や、橘や膳が望んだ国体の在り方とは異なっているとは言え、どこの馬の骨とも分からない者に国の舵取りを任せられるはずがない。ましてそれが記紀に名を残した人物であるというなら、まずは騙りを疑って然るべきだと私でもそう思います」

 だからというわけではないけれど、と神子は伏し目がちに屠自古を見つめた。

「まずは政治の基本に立ち帰ろうと思うのです」
「……基本、とは」
「近しい人を守りたい。私の政治が行き着く場所は、結局のところそこなのです。生死を超えてまで私に従ってくれた布都と、そして誰よりも――君を。故に私は知りたい。君が何故、この場に留まっていられるのか。耳のことなど、本当はどうでもいい。君や布都が私に近しい者だということ――それ自体が私の弱みなのです」

 それを守りたいと思うことは理解してもらえるだろうか――と、神子は思いつめたような目で屠自古を見た。

「私は」

 私は――と、屠自古はわずかに言い淀む。しかし。
 意を決して拳を握る。
 膝でにじり寄り、神子の耳にヘッドホンを被せる。
 至近から目を覗き込んで――言う。

「私にも、分からないんです。どうして自分が亡霊になったのか。ですが、貴女の耳に私の声が届かない理由は何となく分かります」
「……本当ですか」
「欲望――未練は常に叶い続けているから、聞こえないのだと思います」

 死に瀕して思ったのだ。

「貴女をもう一度だけ、見たかった」
「私を?」
「おそらく、それが私をこの世にとどまらせた理由です。未だ黄泉よりの使者が見えない理由は分かりませんが。人で在り続けることが、貴女と再び相見えられぬ理由になるなら――人の身など捨てられればいいのにと、最期に思ったことだけは覚えています。それが現世に対する強い執着とやらに当てはまるか否かは分かりませんが。我思う故に我ありとは、言い得て妙ではありますね」
「屠自古……」
「同時に――布都だけをあなたの傍においておくことへの不安も抱いたのですけれど。彼女はあの頃から、貴女を盲信するところがあったので」

 屠自古は小さく苦笑する。
 神子に永劫、国を治めたいのだと聞かされたのは、彼女が身体を壊してからのことだ。
 定命であることを呪い、天賦の才を持ち得たが故の――葛藤。
 人が人の上に立っていては、国が定まらない。
 ただ――理解できないものを人は恐れる。
 ならば、人を裏で操り国を導こう。
 自分がただの人ではない、天才なのだという――強烈な、自負。
 豊聡耳神子が熱弁を振るった国の在り方。
 しかし、

「そんなものは、私の眼中にあったわけではないんです。ただ、一目でいい。貴女の姿をもう一度目にしたかった」

 そう。

「貴女が今、私達を守りたいのだと仰っておられるように。私は私の目的があったから、きっと現世に執着したんです。ですが」

 誤算が一つ――と、屠自古は指を立てる。

「太子様を見た瞬間、未練ができてしまったこと――です」
「新たな未練、ですか」
「はい。貴女の行く先を共に見たい。どうせ亡霊となっているのだから、どれだけ長く掛かろうとも傍にいられるではないか、とね。これだって欲ではあるのでしょうが、人の抱くそれとは少々趣が異なっている。理解の外にあっても不思議ではありますまい」

 暗闇でただ、神子の姿だけを思い続けた千四百年。
 未練はない。それなりに生き、失意のうちに閉じた生涯ではあったけれど。未練というなら、それはきっと。
 ――太子の作る、国を見たい。
 永遠を生きる人も、幻想郷には住んでいる。藤原の娘とは一度、腹を割って話してみたいものだとも思っている。
 現世に降りたる神の末裔。地底も一度、見ておきたい。神子がそう望んだのは、秋も深まった頃だった。全てを叶えるには、なるほど時間がいくらあっても足りはしない。

「貴女が私の"声"を聞けないというのなら、届くまで何度でも伝えます。口頭なり筆談なり、いくらでも手段はあるでしょうし。私は――貴女に会うことだけを夢見て、千四百年を過ごしていたのですから。貴女が隣にいる今、どうしてその程度が苦になりましょう。使わないことで衰えたというなら、使うことでまた元に戻ることもあるはずです。私は協力を惜しみません」
「……ありがとう、屠自古」
「ああ、そう言えば――まだきちんと伝えていませんでしたね」

 屠自古はぴしりと居住まいを正した。
 畳に手をつき、深々と頭を下げる。何事かと驚く気配が伝わってくるが構わない。

「復活の儀、御目出度う御座います。聖徳王――豊聡耳神子様」

 今一つすっきりしなかったのは、これを言っていない所為でもあったのだ――と、屠自古は今になって思う。
 初めからきちんと話をしていれば。
 何も年の瀬にこんな話をする必要はなかったのかも知れない。
 会話で埋められる程度の齟齬を気に病み、一人の時間が欲しいなどという夢想に逃げることもなかったのだ。

「頭を上げて下さい、屠自古」
「はい」

 ゆるゆると屠自古は背筋を伸ばす。
 かすかに笑みを浮かべて、神子は言う。

「何だかようやく、君の声を聞けたような気がします。なんとなく――では、ありますが」
「……私も。ようやく、逢い見えられた心地です」
「しばらくは足場固めに忙しくなる。協力して下さいね、屠自古」
「是非もありません」
「そうだ、これを機にこちらの流儀に合わせて寿ぎましょうか」

 はて、と屠自古は首を傾げる。

「と、言われますと」
「旧年中はお世話になりました、今年もよろしくお願いしますと――新年の挨拶はそう言うらしい。少し早いですが、倣いましょう。今までお世話になりました。これからも――よろしくお願いします」

 神子が頭を下げた。畳に着くほど深く。
 止して下さいとは、言わず。
 ――こんな姿は見たことがなかったな。
 ただ屠自古は神子のつむじを見つめながら。
 埋められぬ溝などないのだと自分に言い聞かせるように。
 二度と神子を見失うことはしないと固く誓い。
 新しい門出を祝うように――、

「こちらこそ、よろしくお願い致します」

 そう、座礼したのだった。
屠自古が亡霊となって再び神子の前に現れたのがイレギュラーだったら、という話です。
聖徳太子には三人の妻がいたことや、物部氏や蘇我氏の存亡などなど、神霊廟は考える余地の大きい作品ですねー。
それでは、今年はこの辺りで。読んでいただきありがとうございました。良いお年を。
斎木
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コメント



0.850簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
独特の雰囲気があり面白かったです
6.100名前が正体不明である程度の能力削除
なかなかいい解釈でした!
8.100とーなす削除
年の瀬に読むに相応しい良作でした。幻想郷は楽しいことが多すぎて、成仏することなんて忘れちゃいそう。
それにしても本当に、神霊廟キャラたちはまだまだ可能性がありますね。来年はもっといろいろ見られるといいなあ。
9.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです
12.90名前が無い程度の能力削除
しっとりした雰囲気が素敵でした
15.100名前が無い程度の能力削除
もしかして:愛?…とは違うかもしれませんが、この関係は素晴らしいですね
16.80名前が無い程度の能力削除
よかったです。神霊廟キャラは色々解釈やら考察やらできて楽しいですよね。
あと関係ないけどタイトル見て今は解散したアーティスト思い出した
18.無評価斎木削除
斎木です。あけましておめでとうございます。
コメント・評価ありがとうございました。さっとお返事をば。

>>独特の雰囲気、いい解釈、しっとりした雰囲気
いまひとつ神霊廟のキャラクタ像が固まりきらない状態だったので、
そう言っていただけると嬉しいです。
設定だけを見ると色々と企んでいそうな人たちですが、締まらない雰囲気が似合うといいますか。

>>神霊廟のキャラ
何を隠そう、神霊廟が東方を知って初めての新作でして。手探り感が面白いですね。
今年はもっと沢山の話やネタが見られるといいなと思っています。

>>もしかして:愛
政治家の原点は近しい人への親愛の情ではないかと思いまして。
タイトルを平仮名にひらいたのも、少しでも柔らかさが出ればと思ってのことでした。

ささやかですが、新年の挨拶にかえさせていただきます。
今年もよろしくお願いします。
20.90名前が無い程度の能力削除
ゲーム中の白い小神霊はこの世への未練を具現化したものだとか。
声がよく聞こえないというのなら、密着して対話すれば神霊回収もできてちょうどいいと思いますよ。
22.100名前が無い程度の能力削除
原作通りな感じの青娥さんや太子の口調・態度もさることながら
屠自古と神子の少しぎこちない関係がtamaranaiです 素敵な神霊廟一家でした