今、私は濃紺の星空にぽっかりと浮かぶ赤い月を眺めながら、紅魔館のカフェテラスでデッキ・チェアに腰を掛け、瀟洒な従者がミルクティを持ってくるのを待っている。
そして、そらやってきた。私に一秒でも早くティーカップを差し出そうと、一つたりとも無駄のない動きで咲夜が歩いてくる。ああ、こちらに向かってくる彼女の行く先に、その数歩先の地面に一匹の蟻がいる。
このままでは、彼女は間違いなく蟻を踏みつぶすだろう。一匹の虫けらを踏み潰さぬように無駄な動きをして、私へのお茶出しが須臾でも遅れることを彼女はよしとしないからだ。
「咲夜」
「はい」
ハイヒールがぴたりと止まる。蟻は己が命の危機など全く知らず、ちょこまかと動いている。
「ご苦労様」
「どういたしまして」
ハイヒールが動き出す。槍のように尖ったかかとが地面に突き刺さる。その先端の脇をマイペースな虫が歩いて往く。生命が助かったことなど知りもせず、巣穴に帰ろうと歩いて往く。
お分かりいただけただろうか?
今、私は運命を操作した。
と、言われても良く意味が分からないだろう。よろしい。少しかいつまんで説明しよう。
まず、運命とは「元より決められていた巡り合わせ」のことであり、「ある事象がやがて辿りつく未来は決定されている」ということだ。
私はそれを操ることが出来る。つまり既に決定された未来、定められた未来の姿を変えることが出来るのだ。
だが私が未来を変えられたとしても、変わる前の未来を私が知らなければ、私は自分の干渉により未来を変えられたと認識できない。
このままでは蟻が咲夜に踏み潰される、と知らなければ、それを私の一言で回避させてやったとしても、私はそれを単なる偶然か、あるいは気にもとめない些事であるとしか認識できないだろう。
ところが、私は今君に、運命を操る能力について説明をしている。つまり私は、私が変える前の未来を事前に知って、自らがそれに影響を与えていることを観測している。
運命を操る事と、運命を知る事はセットなのだ。
そう、私は運命を知ることができる。
「相変わらず、美味しいお茶ね。ほのかな苦味が舌を痺れさせるわ」
「隠し味にイチイの種子を加えてみましたの」
「なるほど」
こうしてティータイムは終わる。
従者は頭を垂れてから、軽やかな動きでティーセットを片付けた。
私は口の中に残る苦味を吐き出すように、白い吐息を虚空へ向けて放った。
さて、理解していただけたかな?
私が咲夜に放った一言により、蟻は潰されることなく、失われるはずの生命は助けられた。
蟻は自分が助けられたことなど知りもせず、餌を巣穴へ運ぶべくちょこまかと歩いていった。
これが私の運命を操作する能力。いや、虫けらの一匹を助けるのが本来の使い方ではない。私が日々、どうやってこの能力を駆使しているのかは、また明日話そう。
と、あ! あっ。
「ふぇ……ぶぇっくしょい!」
おっと、失礼。
どうやら夜風に当たりすぎたようだ。
明日、私が風邪をひいて寝込んでしまう運命が見えた。
それを回避するためにも、今夜はもう温かい布団に包まって眠ることにしよう。
◇ ◇ ◇
今日は晴れる。この事は昨日の夜から知っていたので、私は朝ふかしをすることにした。
そう。私が見通すことの出来る運命は、何も人間一人や一個の生命体についてのみではない。このように明日の天気すらも知ることができる。
というのも昨日咲夜の運命を見ていれば、今日の午前からは外で洗濯物を干しているのが分かるし、夕方には満足気にそれを取り込んでいるのが分かるからだ。
自分自身の運命を見れば、明日一日を無事に過ごせるかも知ることができるし、明日の朝食に何が出てくるのかも知ることができる。まぁ、ごはんについては食卓についてからのお楽しみとしたいので、極力見てしまわないようにしているが。
このように応用次第では、如何なる事象についての運命すらも知ることのできる私であるが、それを操作するとなると、そう簡単にはいかない。
明日の天気が晴れだからといって、妹が外に出てしまわないようにと雨に変える事はできない。私が関与すれば運命は変えられるといっても、何にどうやって関与すれば晴れを雨に出来るか、その方法が分からなければ運命は変えられないのだ。
「お嬢様、トマトが残っていますわ」
「嫌だよ。ぐじゅぐじゅしてるから嫌いだって言ってるじゃん」
「ダメです。お召し上がりください」
「うぇ~」
だから、このようにしてランチに大嫌いなプチトマトが混入されていると知っても、その運命は容易には変えられなかった。
咲夜にトマトは出すなと言っても聞いてくれないし、以前に台所に侵入して嫌いな食材を捨ててやった時には上手くいったが、それ以来あすこは――食料庫は厳重な警備によって閉ざされてしまった。
「あー、くそぅ」
「お嬢様。最近、言葉遣いが汚いですよ」
「分かってるよ!」
恥を晒した。従者から叱られるなんて。
私は誇り高き吸血鬼。実際そうであるし、そういう風に思われたいのに。まったく、このメイドは気が利かないな。
ぐぬぬ。
ちょっとストレスを解消しなければならない。ストレス解消といえば博麗神社だ。あそこでひと暴れするに限る。
「咲夜、神社に行ってくる」
「はい、それでは私もお供いたしましょうか」
あ、今、運命が変わった。
お昼ごはんの皿を片付けながら応えた彼女の、運命が変わった。
私が神社に行くと言ったから、咲夜はそれに付き従うことになる。
そうなると当然、紅魔館での仕事をする予定だった彼女の未来は変わり、それに従って咲夜周辺の運命は変わるのだ。
そして変わった結果、彼女が今日一日どういう運命を辿るかを覗き見する。
「ちっ」
私は思わず舌打ちをした。
咲夜が死んだ。
夕方くらいに咲夜は死んでしまうのだ。
ふと庭で仕事と称しつつ遊び呆けている妖精メイドに目をやる。
無残だ。
バラバラどころじゃない。霧散している。肉の一片も残さない死に様だ。
にこにこ笑いながら花畑をほじくり返している彼女は、昼過ぎに無慈悲なる死を迎える。
いや、まぁ、妖精の一匹や二匹が死ぬのは問題ではない。どうせ、四半期過ぎれば復活するんだろうから。
だが咲夜はダメだ。彼女が死んだら替えは効かない。
さて、さてさて。ここからが私の仕事だ。
悪い運命に巡り合ってしまったなら、それを変えてしまえるのが私の能力。
その為に私は運命の変わった原因を探り、どうやったらそれを改変できるか試行錯誤する。
まぁ、原因は妖精メイドの末路を見た瞬間に確定している。というよりも咲夜が死ぬという最悪な事態の原因は、五分以上の確率で奴が関与しているに決まっているのだ。
「パチェ、いる?」
どうしました? と尋ねる咲夜をシカトしつつ。
手元に置いている水晶玉で、私の足元ずっと下、地下深くに住んでいる友人に話しかける。透明な球体の向こうには、気だるそうに本を読み耽る魔女の姿。
そして、瞬時に運命を読む。
おぉ、なんてこった。いや、予想はついていたけどさ。
彼女は咲夜より少し早く、私が紅魔館に帰ってくる直前に死ぬ。
地下深くから湧き出てきた狂気と相対して、私の唯一の友人は烈火の剣に斬り裂かれて死ぬ。
あーあーあーあーあーあー。
もうダメだ。ちょっとの操作で咲夜を助けられるなら、少しは試行錯誤をしようって気になるけど、パチェまで死ぬような事態なら、もうぐちゃぐちゃだ。
まるで、壊れた機械仕掛けを自分で直そうといじくり回し、かえって悪くなって、もう河童でも直せないようになってしまったかのようだ。余計な手出しだ。デウス・エクス・マキナは器用でなくてはならない。
そして私は器用ではない。
「やっぱ止める。今日はうちでのんびりしてるわ」
「そうですか」
ものの数秒で発言を翻した私に対して、咲夜は特に表情を変えずに了承の返事をした。
すると彼女の運命は、再び平和な洗濯物の取り入れになり、あくせくと紅魔館の業務を回す姿になる。水晶玉の向こうにいるパチェの運命も相変わらずの本の虫になり、運命を読んでも読まなくても映像が変わらないでおなじみの姿になる。
悟られぬように、心の中でだけ安堵の溜息をついていると、咲夜がいつの間にか食器を片付け、私に話しかける。
「それでは、そろそろお休みになりますか?」
「ああ、そうするよ」
朝ふかしをすると言ったり、神社に遊びにいくと言ったり、それをすぐに撤回したり。咲夜は私のこういった自由奔放な言動には慣れっこだから、何も言わない。だけど周りから見たら、私ほどワガママで気の変わるのが早い奴もいないだろう。
それでも仕方がない。なぜなら私は運命を操るのだ。
つまり、それは未来を変えられる力。しかし過去を変えることは出来ないということ。既に起こってしまったものは、遡って改変は出来ないのだ。
だから咲夜の死を、パチェの死を回避しようと色々弄った結果、やっぱりダメでした。みんな死んじゃいました。ではシャレにもならない。
長年の経験により、こうしたバッドエンドな運命を引き起こしそうな場合は、全て元に戻すのが一番なのだ。
私が神社に遊びに行こうとさえしなければ、誰も死ななくて済むのだ。ならば、これほど負担の軽くて効果のある対処法は他にあるまい。
私は不器用だから、壊れた機械仕掛けには手を出さない。
「あぁ、眠い眠い」
私は燦々と太陽の光が照らす外の景色を想いながら、寝室へと向かっていく。
ああ、しかし。
「せっかくの天気だ。どこかに遊びに行きたかったな」
これには、流石の咲夜も呆れた様子で溜息をついた。
◇ ◇ ◇
人間の里で、人が死んだそうだ。不慮の事故だったらしい。
それに関して、霊夢からこう言われた。
『あんた、運命が操れるんなら人間の一人くらい助けてやりなさいよ』
冗談ではない。
私だって暇ではないのだ。何が悲しくて幻想郷中を甲斐甲斐しくパトロールし、人死にが出ないように逐一世話を焼かねばならないのか。
私が守るのは紅魔館に住む者。それと――スペルカードルールで戦うものだけだ。
「さて、今月は死人ゼロね。これで半年以上、怪我人すらなし。素晴らしいわ」
八雲紫が定期報告の場で、そのように言った。
こればっかりは本当に面倒臭いのだが、私の背負わされている枷の一つであるから、きちんとこなさなくてはならない。
それはつまり、スペルカードルールにおける死傷者の事前保護のことである。
スペルカードルールについては知っているな? ふむ、よろしい。
えーっと、だ。要するに、弾幕ごっこをしている連中の運命を読み、どちらかが怪我をしたり死にそうだったりする場合には、それを邪魔するのだ。そして弾幕ごっこを中断させ、それによって発生する痛ましい事故を回避する。それが事前保護というワケ。
なぜ私がこんな仕事をしなければならないのかというと、それは自業自得なのであるが、自分の能力を過信して幻想郷に攻め入った結果であった。
紫の奴にまさかの敗北を喫し――半年前から察知した自分の敗北の運命を、どうあがいても覆せなかったのだ――無理矢理に結ばされた停戦協定。それは幻想郷に永住させてもらえるが、その条件として面倒な仕事を課せられるという内容。
それが、この高貴な私には似つかわしくない、裏方仕事なのである。
まぁ、もともとお節介な性格であると自覚しているし、真剣に戦おうとしている奴らの邪魔をするのも楽しいので大して苦でもないが、紫にいいように使われているのは腹が立つ。
奴の提唱したスペルカードルールの根幹には、それが遊びであること、擬似的な決闘であり殺し合いではないこと、がある。そのルールを守るために、私の能力が利用されているのだ。
それはいかんともしがたい。
「報告書によると……でも、あなたの介入した決闘って、妖怪同士のが多いわね。肝心の人間と妖怪の弾幕ごっこには、あなた、まるで介入していないじゃない」
「霊夢たちなら、そうそう簡単に死なないからいいでしょ」
「あのねぇ」
「いや、冗談。ちゃんと見てるけど、死の運命自体が発生しないのよ。大したもんだわ、あの子らは」
とか紫の奴には、適当な事を言った。
ん? 君には本当のことを教えようか。
私は霊夢たちの運命を見ているし、たまに死の運命も発生しているが、それに積極的に介入はしていないということ。それを紫に正直に話したら説教されてウザいから適当にごまかしているのだ。
なぜ、介入しないのかって?
私が運命を見て操作をする上で、苦手としている連中がいる。その筆頭が博麗霊夢。
彼女は本人の資質もあるし、性格もあるし、私が関与したって運命操作の影響を受けないことが多い。まるで暖簾に腕押し、やってると虚しくなるから、彼女の運命は操作したくない。
あとは霧雨魔理沙も性格的に、私の言うことを聞くこともないし、大概はこっそりと一人で、勝手に死亡フラグを立て、勝手にそれをへし折るもんだから介入の仕様がない。
それと、そうだねぇ。
うちの咲夜も、実は操作しづらい。
彼女は私のメイドだから、私の言うことは割りと聞いてくれるけど、時間を操作する能力のせいで運命が読みづらい。ちょっと目を離すと、とんでもなく飛躍した運命になっていたりする。だから、やりづらい。
そして彼女たちに共通するのは、何故か私が介入しなくても死の運命を回避することがある、ということ。だから私はもう、放任主義でいくことにしているのだ。
「これからも、よろしく頼むわよ」
「あぁ、任せな」
ほんの数分だけの会合は終わり、紫はすきまに消え去った。ふぅ、やれやれ。
ああ、話の続きをしようか。
運命を読めたとしても、それを変えるために的確な操作ができるワケではない。だから危機はあらかじめ知っておくと便利である。思考と試行の時間に余裕が生まれるからだ。
そこで私は月に一度、こうして紫との会合があった後に、定期的に身の回りの者の「長期運命」を見ることを習慣付けている。
普段は数分後とか、一日後の運命を見るだけだが、これから一ヶ月の間に大きな出来事がないかどうかチェックしておくのだ。
まぁ、一ヶ月後の運命なんて、私が日常生活レベルのアクションを起こせばバタフライ・エフェクト――例えば、私がくしゃみを一つしただけで、それが回りまわって幻想郷を滅亡させてしまうようなこと――で変わっていってしまうものなので、あくまでも参考程度に過ぎないのであるが。
「さ~て、今月の私は?」
早回しで場面を見ていき、死亡や身体欠損、損失または離別、はたまた結婚やら妊娠やら色々と大きなイベントがないかだけを流し見ていく。
まずは私から始めて、咲夜、パチェ、霊夢などなど重要な人物の運命から見ていくのだが。
「あれ、参ったな。私、一ヶ月後に死んでる」
思えば自分の死を見るのは初めてな気がする。
今までも誰かを死や怪我から守ろうとし、自分に死の運命が灯ってしまうことはあったが、始めっから自分が死ぬことになっている運命というのは新鮮であった。
それも死に様が判別できない。一ヶ月後の私は「完全に消滅している」状態のようで、私の目には真っ暗な闇しか見えないでいた。
「咲夜ー」
私はとりあえず、自室にメイドを呼びつけた。
彼女の一ヶ月後の状態を見れば、私の死に様も大体の判別がつくだろう。
例えば一緒に戦って散っているのなら、何処かから襲来してきた強大な敵に紅魔館が敗れたということであろうし。咲夜が血に濡れたナイフでも握っていようものなら、弾幕ごっこで手が滑ったか、彼女の裏切りかで、とにかく咲夜によって私が殺されるということなのであろうし。彼女が私の傍らで泣いているのならば、実は私が不治の病に罹っており一ヶ月後に力尽きるということなのであろう。
「はい、なんでございましょう?」
「ちょっと、じっとしてなさい」
私はとりあえず過程をすっ飛ばし、私が消滅する一ヶ月後の咲夜の運命を見た。すると、そこに浮かび上がったのは、ぽっかりと口を開ける木の洞みたいな闇であった。
「参ったな」
「どうなさいました?」
「咲夜、お前も死ぬよ」
「あら、まあ。どうしましょう」
いや、本当にどうするかな。
とりあえずパチェやら霊夢やら、他の連中の運命も見てみるか。
◇ ◇ ◇
ああ、疲れた。
ようやく、幻想郷中の運命見通しツアーも終了だ。
で、結論。
パチェも門番も、霊夢も魔理沙も、山の神も鬼も、あと妹も。
全員一ヶ月後に消えてしまっていた。
ただ、ひとりの例外がいた。
「で? 私だけが外の世界に逃げてるってワケ?」
「うん。あんたは一ヶ月後、やたらに日差しが強くて、異常にでっかい湖のほとりでジュース飲んでたわ」
「多分、ハワイにあるプライベート・ビーチね。こっそりと用意していたのが功を奏したのねぇ。ふふふ」
「それでさ。こうなると、もう、一ヶ月後の私たちの死因は幻想郷の滅亡になってしまうんだけど」
「原因は?」
「知らないわよ」
そうなのだ。
私が死の運命を見れば、普通は原因がある程度分かる。なぜなら、その死に様が映像として見えるからだ。そこから死因は特定できる。
ところが今回のみんなの最期の姿は、真っ暗闇になっており、原因が皆目見当もつかない。背景すらもない、ただの闇。
そして八雲紫だけが外の世界に逃亡しているという事は、つまり幻想郷が全て消滅して闇のようになってしまうという結論。それでみんなが一斉に死するということなのだろう。
この推測には紫も同意したようで、珍しく顔をしかめて考えこんでいる。
「原因は分からないって、なんでよ」
「だって、死体も何もない。ただの闇しか見えないんだよ」
「その過程を見れば分かるんじゃないの?」
「お」
ああ、そうだ。
死体から死因を探るのに慣れすぎていて、自分の能力の素晴らしさを忘れていたよ。
ダイジェストのようにして結末だけを見るのではなく、私が死ぬ一日前くらいからじっくりと私の運命を見れば良いのだ。そうすれば死因は分かるはず。
「ちょっと待ってね」
「ごゆっくり」
私はお言葉に甘えて運命を読み始める。
ああ、すまないが。君もちょっと待っていてくれ。
一ヶ月後の私の「最期の日」。
夕方に起きてご飯を食べて、適当に遊びながら夜が来るのを待つ。
咲夜の淹れた紅茶を飲む。相変わらず隠し味に毒を仕込まれている。殺す気か、でも美味い。
魔理沙が図書館から本を盗んだという、耳たこ話をパチェから聞かされる。ついでに海洋生物の召喚に失敗して、必要ないのが大量に呼び出されたので小悪魔に干物にさせているという、どうでもいい話も聞いた。アホか。
フランドールと喧嘩した。いや、喧嘩ではない。また妖精メイドを何人かぶっ飛ばしているのを見つけて、私がこっぴどく叱ってやっただけだ。
明け方の食事はステーキだ。香辛料のたっぷり効いた、いいお肉。ああ、事前に知ってしまっては喜びも半減だ。フランドールの馬鹿は手を滑らせて塩コショウをテーブルにぶちまけている。ざまぁ。
肉の匂いに釣られたか、魔理沙が遊びにやってきた。面白いものがあるとかいって、しょうもないものを売りつけにきたようだが、パチェに見つかって逃げ出した。めくらましの閃光弾で私もとばっちりを受ける。くそったれ。
そんな、なんの変哲もない一日。
そして、ついには最期の一時間になってしまう。まだ、なんの変哲もない。
何かしらの天変地異による災害だというのだろうか? それだと始末が悪い。原因が妖怪とか人間にない限り、私には対処のしようがない。
私は朝日の昇る前の、薄暗さの中で、静かに庭を散歩している。
横には咲夜、そして何故か門番も一緒になって歩いている。門の警備はどうした。
「ふわぁ~あ。そろそろ、眠くなってきたな」
大きなあくびをする私。それを見てにこりと微笑んで、咲夜が「では、そろそろ」と声を掛ける。
その時であった。
私の口の描く形が、あくびの余韻である大きな丸から、わずかな歪さを孕む。そして顔が一瞬、くしゃりと縮む。
「は」
一拍置いて。
「ぶぁっくしょん!」
見事である。見事なくしゃみである。
そして、その大きな音に驚いた咲夜が、一歩後ずさりする。ちょうど、そこにいた門番が背中を押される形になり、前へと数歩よろめいた。
「うわぁ、っとっと」
門番はそのまま、よろよろと歩いたかと思うと、都合よく地面に転がっていた小石を踏んでバランスを崩す。そして盛大にコケると同時、宙を掻いた手が、あるものを掴んだ。
そこにいたのは、なんか、あのー、だれだっけ。
金髪のガキ、あれ、妖怪だった。
その頭についた赤いリボンを、転倒した門番がひっつかんでしまい、その勢いでリボンはほどけて取れた。
数秒間、私たちはきょとんとする。
ただ、リボンの取れた妖怪だけが、その目を爛々と輝かせて。
次の瞬間、私は声をあげることもなく闇に呑まれた。そして意識は闇と同化し、私という生命体は消滅してしまう。
それが私の、そして咲夜の、紅魔館の、いや、幻想郷の最期であった。
「……なんだ、これは」
そんな運命であった、と紫に報告する。
「ふーむ。バタフライ・エフェクトね」
「冗談じゃないわよ! なんであの、ちんちくりんな妖怪に私が殺されなきゃいけないのさ!」
「ルーミアか。ふむ、あれの管理は完璧だと思ったのだけれど」
紫は納得がいったような様子で、さらに眉間に皺を寄せる。
どういう事か説明してもらおう。
「で、詳細は?」
「手っ取り早く言うと――ルーミアの持つ闇の力は幻想郷を滅ぼす危険があります。それを御札、つまり赤いリボンで封じていたはずですが、何かの拍子に物理的な防壁がなくなって紅美鈴の手によってそれが外され、幻想郷は闇に包まれてしまいました。デッドエンド」
「ふむふむ。なるほど。って、あいつ、そんな危険な奴だったの?」
「それは、もう。あれを封じた時の争いなんか、吸血鬼異変の何倍も苦労したわ。あれは歩く核弾頭、解体しようとすれば起爆し、生きている限りにおいて起爆することはない。そんな存在なの」
ルーミアが死ぬと、幻想郷も滅ぶというのか。
おいおい、そんな重要なことを運命を操れる私に秘密にしておくんじゃない。
もしも、ルーミアが霊夢に退治されそうになってるのを、私がスルーしたら大変なことに……。
あ。
「もしや、スペルカードルールも奴の為に……?」
「さぁね。ただ、あの力は公にするワケにはいかないし、かといって誰かが知らずにスイッチを押してしまうことも避けなければいけなかった」
確かに、一瞬でこの箱庭の世界を滅ぼす力を持った妖怪が、そこら辺をうろついているなど公表したら、パニックになるか争奪戦になって大混乱だ。
人間と妖怪の平和的な争いを円滑に行うシステムであるスペルカードルールも、実はルーミアの存在を秘匿しつつ、彼女の命を守るために生まれたのかもしれない。
「紫……分かっていはいたけど、あなた腹黒ねぇ。自分だけが、あの闇を自由に使える立場にいたのか」
「全然、自由じゃないわよ。……レミリア、貴方が私の立場でも、同じ差配をすると思うわ」
珍しく顔に疲労の色を濃くし、頭を抱えて溜息をつく紫。
まさか、あんな金髪チビが、八雲紫の手に余る存在だったとは。
ふぅむ、そんな事情があったとはな。
なるほど、幻想郷の勢力図がいくら塗り変えられようとも、依然として紫が頂点にいるのは、ルーミアの存在が陰ながら影響しているのかもしれない。
とまぁ、滅亡の原因は意外なものであったが、これで解決に向かって一歩前進である。
「つまりさ、一ヶ月後の封印が弱まる日、あなたがルーミアを見張ってればいいんでしょ。私以外の原因でリボンが外れないように」
「そして、あなたはくしゃみをしない」
「大丈夫よ。くしゃみをしない、って思ってれば、くしゃみをしない」
「反射的なものよ? つい、うっかりなんてシャレにならないわ」
「安心なさい。私が何千回、いや何億回の運命操作をしてきていると思っているの? 原因、過去を知ることが出来たなら、未来は変えられる。私の手によってね」
あの運命を見る限り、私がくしゃみをした原因は寒さによるものだろう。風邪でもひいたのだろうか? だから当日は外に出ないで、うちの中に引きこもっていればいい。ついでに門番にはきっちり門を見張らせて、咲夜にも暇を出してやろう。
そうすれば、あんなルーブ・ゴールドバーグ・マシンみたいな面白い滅亡の仕方はしないはず。
「ならば、幻想郷とそこに住むものの命……あなたに任せたわよ」
「そっちもルーミアの監視を怠らないようにね」
さて、これで一安心だ。
私は紫の屋敷を出ると、あったかいベッドの待つ我が家へと急ぎ足で帰った。
うむ。帰り道でルーミアに会ったら、少し腰を低くしようか。流石にね。
◇ ◇ ◇
運命が定められているというのなら、私たちの歩む人生というのは、全て結果が決まっているということか?
無論、そうである。
ならば、その過程である今現在の時間。そこで行われている思考、選択、努力、行動、その全てのなんと無駄なことか。
「こうなりたい」「こうしたい」と未来を願い、どう判断しようが、どう努力しようが、どう考えようが、その未来はすでに全て決まっていることなのだから。
と。言いたいのだな。
なるほど。君の言うことも分かる。
私も若い頃はそういった悩みに頭を抱えたものだ。
しかし、思うのだ。
私の持つ能力は、私だけのものではない。私は特別な存在ではない。
この世には何人か、私と同じように運命を変えることの出来る存在がいて、運命を読めるのだけが、きっと私特有の能力なのだ。
だから私の与り知らぬところで運命が変わることがあるし、霊夢のようにいつのまにか死の運命から逃れている例もある。
だから自分が運命を変える権利を有していると信じ、日々生きていくのが一番なのだ。最初から全て決まっていると高をくくり、歩みを止めたならば運命は停滞する。
だから私も努力を怠らない。
こうしてセーターを着込んで、自愛に努めている。
「最近、どうしたのですか? お嬢様」
「いや、近頃は冷えるからね。風邪をひかないように注意しているんだ」
「ああっ。お嬢様が体調管理をされるなんてっ」
咲夜は感銘を受けたようによろめいたが、何も私は健康体でいようとして身体を暖かくしているのではない。
くしゃみをしない。
この一点だけに注意しているのだ。
自分で意識していても、もしかしたら寝ている間にくしゃみをしてしまうかもしれない。それがバタフライ・エフェクトを引き起こしてルーミアのリボンをほどいてしまうかもしれない。
そう。失敗は許されないのだ。万全を期すのにやり過ぎという事はない。
え?
私が窮屈にみえる?
そうかな。サイズはぴったりだと思うのだが。
ああ、セーターの話ではないか。
そうだね。
私は運命を見ている。そして気に入らない運命から逃れるように行動している。君からすれば私は、運命に縛られた奴隷のようにも見えるだろう。
だが私は矜持を持っている。
私が望んで、私が選んでいるのだ、と。
何も世界を操作しているとか、未来はこの手の中にあるとか、そういう優越感の話ではない。
私は奴隷ではなく、過酷な道を突き進む、探求者であるということだ。
狭い道を通らずして、自分の欲しい運命を掴みとることは出来ないのだ。
「ところで、お嬢様」
「なんだ」
「お嬢様がぐうすか寝ていらしている間に、賢者からの使いが、伝言を残していきました」
「なんだって言ってた?」
「ちゃんと読んでいるか? ですって。何か本でも借りましたの?」
ううん。それは本じゃなくて運命の話だな。
さて、紫も慎重だな。それはそうか。自分が存在の全てを懸けて作り上げた理想郷が、闇に呑まれるか否かの瀬戸際なのだから。
だが安心しろと言ったのに。
全ての原因がくしゃみだと分かったのだから、それを防いでしまえば、何も問題はない。
え? なに?
一応、運命を読んでおいた方がいいのではないかって?
だってさ、もうその日は明日だよ。この一ヶ月間、風邪をひかないように注意したし、紫もルーミアを保護してるみたいだし。
いや、まぁ、確かに一理ある。確認しても減るものじゃないしな。
どれ。
「あら?」
「どうなさいましたか、お嬢様」
「うーん」
いや、参ったね。
明日の明け方に、幻想郷は滅ぶ。
その運命が変わっていない。
◇ ◇ ◇
紫の顔がヤバい。
鬼の形相。といっても顔が紅潮した酔っぱらいの顔じゃない。
具体的に言うと私がチビりかけるくらいの怖さ。殺意や敵意ではなく、もっと深い、それこそルーミアの発する闇のような恐ろしさ。
「明日よね。運命の日」
「う、うん」
「どうして今まで、何もしていなかったのかしら」
「えと、いやだって、私はちゃんと風邪ひかないように……」
「でも運命は変わってない。それに尽きる」
紫は懐から、真っ赤な果実を取り出した。
何故。
何故、トマトを取り出した。
「明日の運命の刻が来るまでに、運命を変えられなければ……」
言うと紫はトマトを、熟した大きなトマトを、私のお腹にポンと当てた。
「すきまから、これを直腸にぶち込むわよ」
「え」
「十個」
「えええ、え」
「きっかり十個。へたを取らずに」
こいつはマジだ。マジにやる気だ。
私のお腹をトマトで満腹にさせる気だ。
日光を浴びるよりも、ニンニクを喰らうよりも、川で遊泳するよりも、何よりも恐ろしい。レミリア・スカーレットはトマトが嫌いである。
っていうか例えトマトが好きだろうと、直腸に十個詰め込まれたら誰でも死ぬわ。
「レミリア・スカーレット。明日の貴方の死に様、どのような運命であったか教えてちょうだい」
私が昨日見た運命。
それは……。
「朝方まで布団の中に包まって、じっとしていた。だけれども食事をしに食堂へ行った時に、私は大きなくしゃみをしたんだ」
「そこにルーミアは?」
「いるわけないでしょう。ルーミアはその時、あなたが保護しているはずだから。でも……」
「そう。でも、くしゃみをした途端に幻想郷は闇に包まれた。でしょう?」
そうなのだ。
前回のように、私のくしゃみがトリガーになって、ドミノ倒しのようにしてルーミアのリボンが取れてしまったのではない。
私がくしゃみをしてから数秒後、まるで物理的な関係はないはずなのに、ルーミアの封印が解かれて幻想郷は闇に呑み込まれた。
これは、つまり……。
「運命操作者の生死に関わる事象。こうなると、もはや、貴方のくしゃみとルーミアの封印解除は、直接の関係にないでしょう?」
紫はトマトを握ったままで、本題に入る。
なるほど。確かに彼女の言うとおりだ。
「……因果の成立か。つまり“私がくしゃみをする”という過去は、“ルーミアの封印が解ける”という未来に繋がっている。私が今日、くしゃみをした瞬間、ルーミアが何処にいて何をしていようとも封印は解かれる」
何を馬鹿げたことを、と思うかい?
しかし、これは私が定めたルールではないから、私に文句を言われても困る。
これは言うなれば、運命のルール。私も幾度か経験した現象だ。
一度、私のくしゃみとルーミアの封印に因果関係が結ばれてしまったら、あとは過程など関係なくなるのだ。
どんな屁理屈か、どんな物理干渉か、どんな仕組みか、皆目見当がつかないが、とにかく私がくしゃみをしたら、ルーミアの頭を飾る赤い布切れは、はらり、と地面に落ちてしまうのだ。
「分かったわね。今日の明け方、あの時刻を過ぎるまでに、あなたがくしゃみをするという運命、その全てを変えなさい。私はなりふり構わず、全力でルーミアを保護する。あなたのくしゃみ以外では、その封印が解けないように万全を期す」
「お、おーけー。……ま、任せなさい」
私はトマトを握りつぶした紫のどす黒い双眸から逃れ、紅魔館へと帰っていった。
おっと。
格好悪いところを見せたわね。
でもここからが私の見せ場。運命操作歴500年の芸術的なテクニックを、君に魅せつけてあげるわ。
◇ ◇ ◇
夜が始まる。
私は夕食前に自室で一人、己の運命を読んでいた。
ただ、くしゃみをするか、どうか。その一点のみに絞って、素早く検閲していく。
どのタイミングでくしゃみをし、そして幻想郷が闇に包まれるのか。それを探る。
その一回目はすでに分かっている。だが念のため、改めて確認してから呟いた。
「……このあと、夕食を食べている最中に一回か」
見事なくしゃみであった。勢いでワイングラスから赤い液体がこぼれ、鼻水もついでに飛び出て、その五秒後に全てが闇に消えた。
本当に私のくしゃみで、私のくしゃみによって、幻想郷は終焉を迎えるのだ。
「……明け方を待たずして、私のくしゃみで世界は終わるか。これも私が風邪をひかないように気を付けた影響で、変更された未来……」
くしゃみをすると分かって、それで口を抑えればいいという話ではない。あれは反射的なものなのだから、抑えたからといって運命が「くしゃみをしていない」と判断してくれる保証はどこにもないのだ。
もっと根本から断たねばならないのだ。私の運命から、くしゃみを。切り離してしまわねばならない。かなぐり捨ててやらなければならない。
「くそぅ。時間がない。何故、私はあそこでくしゃみをしたのだ。原因を取り除かなければ……」
もう一度、食事の風景に意識を集中させる。
テーブルに着く私、食事を運ぶ咲夜、パチェもやってきてワインだけ飲むという、そして門番が花園の整備が終わったと告げに――
あっ?
ここから、しばらくして、だ。私の顔が歪み、大きなくしゃみが食堂に響き渡るのは。
よく見ろ。運命の映像を鮮明にしろ。
咲夜は違う。彼女とは今日一日ずっと一緒にいた。パチェも図書館に引き篭っていたのだから特に因子は持っていないだろう。ならば、ならば最後に外からやってきた、こいつ。
門番か? こいつが原因か? 良く見ろ。門番を注視せよ。
門番の身体を汚しているのは、土や泥だけか?
いや、違う。
黄色い、粉?
なんだ、これは……。
あ、ああ、あああ!
こいつ。こいつ。
こいつ、身体に花粉をつけてきていやがる!!
杉か!? ブタクサか!? いや、どうでもいい!
そうか、私は花粉症だったのだ!
「咲夜」
すぐに従者を呼び出す。今日、彼女はずっと館の中にいたはず。彼女は花粉を身に纏ってはいないだろう。
「何か御用ですか?」
「今日は門番を館に入れるな。ずっと門の見張りにつかせておけ。そして、永遠亭の医者を呼び、至急に花粉症の特効薬を作ってもらうように。この手紙を見せればやってくれるだろう」
事情をしたためた便箋を咲夜に渡し、小さく溜息をつく。
風邪にばかり気をつけて、自分が花粉症だという可能性に気付かないでいた。
しかし、このタイミングで発症するなんて。500年以上も生きていて、なぜこの年、この月、この日なのだ。空気の読めない病気だなぁ。
「かしこまりました」
言いつつ手紙を懐にしまいこみ、咲夜は去っていく。
よしよし。これで永琳が私の花粉症を一時的にでも抑えてくれれば、あとは安泰だ。
私はすぐに自分の運命を読み始める。風邪もひかず、花粉症を克服し、これで今日の明け方、そこには平和な朝日が――待っているはずであった。
だが、まだ駄目だ。まだ解決には至っていなかった。私の見た未来、そこには闇しか広がっていない。
依然として幻想郷は滅亡の危機から逃れることは出来ていない。
「他にも、くしゃみをする原因があるのか?」
私はまた最初から運命を再生する。
一体どこだ? どこで私はくしゃみをする?
このあと一時間ほどして、医者からもらった薬を咲夜が持ってきてくれる。彼女は一度シャワーを浴びて着替え、花粉が服につかないようにしてくれたおかげで、私もくしゃみをせずに薬を受け取れた。
その後の夕食も問題ない。門番は現れないし、薬も効果が出ているようだ。ノーくしゃみでフィニッシュだ。
次に未来の私は、おっかなびっくりであるが、薬の効果を確かめるようにカフェテラスでティータイムと洒落込んだようだ。
おいおい、大丈夫か?
と思ったが、私は花粉の影響も受けずに優雅に星空を眺め、咲夜の淹れた紅茶を飲み干し、あとは寝室にでも引きこもろうかと館の中へと戻り――
「ぶぇぇっくっしょおおおい!」
そして幻想郷は闇に包まれた。
ああ、くそ。やはり花粉症か? 外に出たのが愚かだったのか?
いや、しかし。この「外で紅茶を飲み、くしゃみをする」という運命を見た段階で、私は外に出ることを考えなくなるはず。それだけのことで回避できるのなら、楽なことはない。
案の定、次の運命ではカフェテラスに出ないで、自室でティータイムに変更している。しかしその後に大きなくしゃみを一回。
「……問題は、ティータイムにあるか?」
ならば今度は、ティータイム自体を止めるか?
しかし、私の思考を自己分析すると、ティータイムが自らの命と世界を奪う原因になったからといって、それで愉しみを中止するような性格ではない。命を失ったって紅茶は飲みたい。
ならば、原因を特定し、くしゃみの出ないお茶の時間を探るしかない。
どれ。咲夜からお茶を受け取るあたりから、じっくりと見ていくか。
自室で引きこもり、くしゃみをしないかと、そわそわしながら私はベッドに腰掛けている。
ドアをノックする音。そして静かに開くドア。
途端に部屋の中を甘い香りが満たす。脳髄がとろけるような、幸せな気持ち。酒よりも煙草よりも麻薬よりも絶対に気持ちの良い快感。あああ、やはりこれを中止にするなんて考えられない。
ティータイム、最高。
そして従者の白く長い指が、ティー・セットをテーブルに並べていく。
「お嬢様。紅茶が入りました」
「ご苦労さん。ああ、さっきは永遠亭まで悪かったな」
「何か困ったことがあるのでしたら、私をお使いください」
「いや、いまのところは紅茶を淹れてくれるだけで、十分さ」
カップに口をつけ、そして私は眉をひそめる。
「なんだ、この味。今日は一段と変なもの入れただろ」
「ええ。今日は隠し味としてハナヒリノキの粉末を入れました。この植物は葉の粉末が鼻に入ると激しいくしゃみを引き起こす毒性がありまして、それが名前の由来なんですの」
それが原因だよ馬鹿野郎。
なんなんだよ。いつものようにドクウツギでもトリカブトでも入れておけば良いものを、何故今日に限ってハナヒリノキなんてマイナー毒物なんだよ。
さっそく、今のうちから給仕にクレームをつけよう。
「えーっと、咲夜ー」
「はい。何か御用でしょうか」
「今日の紅茶、ハナヒリノキだけは入れないように」
「あら、よく分かりましたね。入手に苦労した変わり種ですのに、もうバレてしまいましたか」
「いいか、くれぐれも入れるなよ。これはフリじゃないからな」
「残念ですね。ではまたの機会に」
「……ああ。明日以降は、試しに味わってみるよ」
最後の返事は、少し声のトーンが低くなってしまった。
なぜなら、私にはその場で咲夜の運命が見えていたからだ。
彼女は確かに紅茶に毒を入れないでくれる。しかし、彼女が明け方には闇と同化して果てるのが、私には分かってしまった。
まだ、ダメなのか。まだ、私はくしゃみをするのか。
「えい、くそ。次だ、次!」
◇ ◇ ◇
くしゃみ。くしゃみ。くっさめ。くっさめ。
くそったれー!
「ぶぇぇっくッ、しょおおい!」
幻想郷は闇に包まれた。
「うぬがー! やってられるかぁああ!」
私はついつい怒りに身を任せて叫んだ。
現在の自分は紅茶を飲み終わった直後あたり。そして次のくしゃみの運命までは、あと一時間を切っていた。
なにも私だってサボっていたワケではない。あれから次のくしゃみポイントを見つけ、その原因を探っているのだが、なかなかそれが見つからずに、ついには現実の時間が差し迫ってしまったのだ。
今度のくしゃみは厄介だ。
紅魔館のどこにいても、発生してしまう。そして、誰かが何かをしているワケではない。咲夜もパチェも門番も、それぞれの仕事や趣味に没頭しているだけのようだし、私が部屋に独りで篭っているだけでもくしゃみをしてしまう。
もはや、この紅魔館全体にくしゃみのウイルスが蔓延しているかのような、そんな絶望感だ。
いくら声を荒げようが拳を振り上げようが、未来の自分がするくしゃみは止まらない。
「……はぁ」
『どうしたの、そんな溜息なんかついて』
手元に置いある小さな水晶玉から、声が聞こえた。地下深くにある魔法図書館、そこに住む居候のパチェとの直通通信だ。
そうだ。情報がなければ知識人に頼ればよい。こういう時に役に立ってくれなければ、何のために彼女を養殖しているのか。最大の危機に助けてくれなくて、何が親友か!
「なぁ、パチェ。ちょっと、くしゃみについて調べてみてくれないか?」
『くしゃみ? どうしたの? 花粉症?』
「ああ、それは治ったんだけどな。至急頼むよ」
『ま、いいわ。ちょっと待って』
パラパラ、と本のページをめくる音がしばらく続いた。
そして唐突にパチェの説明が始まる。
『くしゃみ。鼻腔に付着したウイルスや埃などの異物を、激しい呼気と共に排出するために起こる反射的な反応。くしゃみの語源は“くさめ”という言葉であり、この“くさめ”とは陰陽道における『休息万命』の呪言を早口にしたという説、あるいは『糞喰らえ』の古語である『糞食め』が変化したものである、との説がある』
「わあー。いいわ。ありがとう」
やはり、うちの知識人は調べるところが、どこかズレている。
まぁ、私のくしゃみの原因を探ってくれ、と言われても出来ることじゃないだろうし、しょうがないか。
『どうしたのよ、レミィ。やっぱり声に元気がないわよ』
「いやね。失敗もここまで続くと、気が滅入ることすらなくなるってね」
『人生トライアルアンドエラー。試行錯誤よ、レミィ。私だって今日は、散々だったわ』
「へぇ……」
人の愚痴を聞いている場合ではないが、あまりにも疲れきってしまい、頬杖をつきながら、ついつい耳を傾ける。
『今日も魔理沙が図書館に来て、私の大事な資料をパクっていったのよ』
「その話、既視感がすごいんだけど」
一日に二回は聞くね。白黒の奴も盗むなら一気に盗んでいけよ。
『今回はさらに二次被害があったのよ。ちょうど、私が召喚の呪文に使おうとしていた資料だったから、情報不足のままで儀式を行わざるを得なかった』
「んー、あ。そういえば海についての研究をしたいから、海洋生物を召喚するって話をしてたね」
幻想郷には海がない。だから海に住む生物を召喚して研究しようというのだ。
まぁ、パチェは例え海があってもフィールド・ワークをする性質ではないだろうが。
『そうなのよ。それで、魔理沙のせいで資料が足りなくって、儀式は失敗。目的のものじゃない、必要のない生き物が大量に呼び出されてしまってね。大変だったわ』
「おいおい。うちが磯臭くなったらどうするんだ」
『大丈夫よ。小悪魔に処分させたわ。干物にして今度の儀式に使おうかと思って、外で干させてる』
「ひどい事させるわね。それで、何を召喚したの?」
『クラゲよ。本当はカミクラゲっていうインテリアにも出来そうな綺麗な奴を呼びだそうとしたんだけど、失敗して出てきたのはアカクラゲって奴。こいつは別名・ハクションクラゲといって――』
「そいつのせいだああああああああ!!」
私は絶叫すると水晶玉を引っ掴み、廊下をすっ飛び、窓から身を投げた。背中の羽を大きく羽ばたかせ、水晶玉に向かって叫ぶ。
「パチェ! 小悪魔はどこにいるっ!」
『さぁ……裏庭じゃないかしら』
「っていうか、ハクションクラゲって何!?」
『アカクラゲ。乾燥すると、その刺糸が空気中に舞い上がり、鼻腔に入り込むことで激しいくしゃみを引き起こすというクラゲよ』
「なんでそんなピンポイントな奴を召喚して、しかも干してくれちゃってるワケ!?」
『私に聞かないでよ。私だって欲しかったのはカミクラゲであって――』
「ええい、やかましいわあああ!」
私は怒りに任せて水晶玉を敷地外へと放り投げた。あーれー、なんて間の抜けた声と共に、水晶玉は森の彼方へ消えていく。
「裏庭は、ここかぁ!」
私は目的地にたどり着くと、問答無用で魔力を放出する。エプロンに三角巾、軍手を装備した小悪魔が私を見て腰を抜かす。
「えっ、ひぇ! レミリア様!?」
そして小悪魔がせっせと物干し竿に吊り下げていた赤いクラゲたちに向けて、スピア・ザ・グングニル!
それはまだ干されて間もないようで、乾いて刺糸が拡散する前に間に合ったようだ。すまん、罪のないアカクラゲたちよ。その真っ赤な身体だけは気に入ったが、お前の存在を許すわけにはいかないのだ。
爆発、炎上、焼失するクラゲたち。数時間の労働が無に帰し、泣き叫ぶ小悪魔。それらを背にして私は、己の運命に目を向ける。
「ちぃ、くそう。まだダメなのか」
相変わらず明け方の幻想郷は闇に呑まれたままだ。
次のくしゃみを探すため、私は溜息混じりにその場を去った。
◇ ◇ ◇
さて、次のくしゃみは何時だろう。運命を流し見していくが、今度は少し時間が空くようだ。
おっと、これから二時間後にフランドールが地下から出てきて、私と大喧嘩をするらしい。やれやれ。
そして、あ、お……くるか? くるのか?
「ぶぇ……くっしょーい!」
きたぁあ! 幻想郷終了・完!
というワケで、これから二時間半ほどあとに、私はくしゃみをする。
今回もクラゲ同様に、私が直前にとる行動などに直接の原因はみられない。何か目に見えないものか、あるいは私の与り知らぬところでくしゃみ因子が発生しているのだろう。
「今度は私だけでなく、他の連中の運命も見た方が早いな」
クラゲの教訓により、私は自分だけの運命から原因を探るのはやめた。自分に原因があれば、くしゃみの瞬間を見ただけで、すぐに分かるはずなのだ。
だが今回のくしゃみも原因は不明。きっと自分以外の誰か、または環境がそうさせているに違いない。
私はとりあえず咲夜、パチェの運命を見させてもらった。しかし、彼女たちに原因となるものは見当たらない。あとは門番や小悪魔、はたまた妖精メイドたちも一応チェックする。――すると。
「ねぇ、ねぇ、聞いた? レミリア様って、未だにおねしょするらしいわよ」
「え~、マジ~? 500歳にもなって~?」
というような話を、今から二時間半後にしている妖精メイドを見つけた。
ははぁ~、なるほど。人に噂をされるとくしゃみをする、という迷信があったな。
っていうか、おねしょとか、してねぇし。いや、マジで。
「なぁ、君たちよ」
「な、なんですか?」
怯えきった妖精メイド二匹の頭を鷲掴みにし、私は牙を剥き出して顔を近づける。
「噂話っていうの、私は好かないんだよなぁ」
「そ、そうですか」
彼女たちからすれば、噂話をしていたというのは未来の話なのだから身に覚えがないはずだ。だが、私からすれば彼女たちがそういう噂話をするのは確定されたことであり、事実なのだ。私が運命を変えない限りは、確実にそういう未来が待っているのだ。
だからこれは、正当なる脅迫である。
「これから紅魔館で私の噂話をした奴は、懲戒免職処分とする」
「ちょ、懲戒免職……!? って、なんですか?」
「つまりは、生きてここから出られないってことだ。あと……」
「あ、あと……?」
「私はおねしょ、してないから」
「あ、わわ」
気絶しそうなほど怯えた妖精たちに「他のみんなにも言っておくように」と言い含め、私は手を離した。
さて、これで噂話によるくしゃみは止まったはず。
だが。
「ぐぬぅ」
と、自分の運命を見た私は、唸り声を上げる。
まだ、二時間半後のくしゃみは改変されていない。
「この時間のくしゃみの原因は、噂話じゃないのか……? いや、違う。まだ私の噂話をする奴がいるに違いない。――そうなると、マズイな」
私は紅魔館を出ると、慌てて幻想郷を飛び回った。
私の噂話をするのが紅魔館にいる者だけとは限らない。それこそ幻想郷の全ての人間と妖怪の運命を見て、私の噂話をしないかを確認しなければいけないだろう。
しまったな。やはり時間が足りない。あと二時間半で終わるだろうか?
今は夜。人間は寝ている。だから各家々にコウモリの使い魔を放つ。熟睡している人間は、噂話などしない。それで対象を除外していき、こんな夜更けに起きている人間だけをピックアップして、私が自ら運命を見にいく。
対象となったのは結局、魔法の研究で夜更かししている霧雨魔理沙と、妖怪の活動時間に合わせている聖白蓮だけであった。
その二人ともが私の悪口を言う運命にないと分かると、あとは夜も活発な妖怪連中を虱潰しに探す。
そうして大体の調査を終えたのは、ちょうど二時間後であった。
結局、紅魔館の外で私の噂話をする妖怪はおらず、解決策の見つからないまま紅魔館に戻ってきてしまった。
「くそ。どうする?」
あと三十分もすれば、何処かの誰かが噂話をして、それで私はくしゃみをしてしまう。
ああ、どうすれば良いのだ。
そう思って溜息をつく。今夜、何度目の溜息だろうか。
打つ手がなくなり、しばし呆然と夜にそびえ立つ我が家のシルエットを眺める。
私がなんとかしなくては。私が運命を変えなければ。
そうしなければ、この館は跡形もなく消滅する。ここに住む者たちは、主の不甲斐なさによって死を迎える。
ぶっちゃけ、幻想郷やそこに住む連中が死ぬことより、それが我慢ならない。
「よし、諦めてたまるか!」
気合の一言と共に立ち上がる。
それと同時に、爆発音が聞こえた。
「なにっ!?」
館の一角が吹き飛び、瓦礫がけたたましい音を立てて崩れ落ちる。特徴のあるこの壊し方、そしてうちの内部でこんな音を轟かせる不届きもの。それは一人しかいない。
そして、私は答えを見つけた。
「フランドール!」
◇ ◇ ◇
闇の解放をまたずして、人生の終焉を迎えた哀れな妖精メイドたちを尻目に、私はフランドールの放つ弾幕を避けつつ、彼女に肉薄した。
「いい加減にしろ!」
ゲンコツ制裁を脳天に見舞ってやり、墜落していく妹を見ながら、私は彼女の運命を読んでいた。
そう。最後の陰口野郎は、私の実の妹であった。
『お姉さまの、馬鹿』
今から三十分後、私の手によって地下室にぶち込まれた彼女が、膝を抱えながら呟いた一言。それが私のくしゃみの原因だったのだ。
地面に叩きつけられた華奢な身体がバウンドするのを見計らい、空中でそれの胸ぐらを掴む。
「フランドール! 罰として今日は明け方のご飯は抜き! そして地下室で頭を冷やしなさい!」
「うるさーい! ばーか、ばーか!」
涙目になりながら反論してくる妹を引きずりながら、地下室への入り口にたどり着く。そして私はふと思い出し、最後に付け足す。
「それと、私の悪口は言わないこと!!」
危ない。頭に血が上り過ぎて、肝心なことを忘れるところだった。
だが妹は私の言うことなど、全く聞きそうにない。
「ばーか! ばーか!」
「うるせー! 言うな! 幻想郷が終わる!」
怒りに任せて部屋へと放り投げてやり、ターヘル・アナトミィよりブ厚い扉を閉めて、外から物理的かつ魔法的な鍵を掛ける。
そして乱れた息を整えると、一つ深呼吸をする。
ああ、無様だったな。
どうも妹と関わると私は冷静さに欠ける。大目に見て欲しい。
静かに瞳を閉じて、己の運命を見る。
やはり三十分後には、私はくしゃみをしてしまう。そして崩れ去る地上の楽園、幻想郷。
「やっぱりダメか……。ああ、どうしたもんかねぇ」
私は頭を抱え、地下室の扉へと目線を向ける。
やはり妹が私への悪態を呟くのは、変えられない事実のようだ。
もしも、それを回避する手立てがあるとすれば、それは彼女と一対一での話し合いである。今からでも、お互いに言葉をぶつけ合い、そして仲直りをするしかない。
「ああ、くそ。無理臭いな」
思わず笑ってしまいそうになる。
私とフランドールの仲の悪さは、幻想郷に来る前からの筋金入りだ。鉄筋コンクリート状態のガチガチの仲の悪さだ。
それをどうやって解消しろというのか。
あ?
姉妹なんだから、話せば分かるってか?
そりゃあ、君。分かってないよ。
まぁ、でも。
やるしかないのか。
気が重いな。
やはりデウス・エクス・マキナは器用でなくてはならない。私は合わない歯車を力ずくで合わせようとして、歯を欠けさせるタイプだ。
「フランドール。入るわよ」
ノックしてから扉を開ける。
中は明かりもない真っ暗な部屋。まるでこれから訪れる終末を思い起こさせる、吸血鬼でさえ震える寒い闇。
こんなところに一人でいるのは、寂しいだろう、悲しいだろう。
だが、それが罰なのだ。
しかし、今は罰を与えている場合ではないのだ。
なんとしても、こいつが私の陰口を叩かないように、言いくるめないと。
「ねぇ、フランドール。私もちょっと、言い過ぎたわ」
「……」
「明け方のご飯、抜きじゃなくてしても良いよ」
「食べたくない」
勝手にしろ!
と怒鳴りたくなるのをグッとこらえ、私は声色を努めて優しくし、蹲るフランドールの肩を叩いた。
「私だってね、何もあなたのことが嫌いだから叱ってるわけじゃないのよ。ただ、あなたも幻想郷でつつがなく過ごせるように、そのお手伝いをしているだけ」
「誰がそんなこと頼んだのよ」
「ぐ、ご……。よ、妖精メイドなんか殺しているよりも……霊夢や魔理沙と弾幕ごっこをしてる方が楽しいでしょ?」
「うん。霊夢や魔理沙と遊ぶのは楽しい。でも、お姉さまは嫌い」
「が、ぎ……ぐぐ。フ、フフ、フランドォオル。おねえさま、が、けんかはやめましょうって、言ってるのよ」
鏡を見なくとも自分の姿が手に取るように分かる。引きつった笑顔、こめかみには青筋だ。
「さぁ、フランドール。仲良くしましょぉぉ!」
私の鋭く尖った爪が、思わず妹の肩に食い込んだ。それを引き剥がすように相手の爪も私の手首に突き刺さる。
「私が……! 仲良くしたい、なんて、頼んだ……!?」
「いやぁね、フランドール……、し、姉妹なんだから、仲良くする、のは……当然じゃあ、ないかし、ら……!」
「ちょっと、お姉さま……! 肩、服が破けるんだけど、痛いんだけど……!」
「フランドールこ、そぉぉ……もう、ほら、おねえっさまの、手首から……血が吹き出てるでしょぉお……人間だったらもう失血死してるわぁ……! ちょっと、は、その馬鹿力……抑えなさ、いよぉぉお」
「がぎぎぎぎ」
「ぐぐぐぐぐ」
一触即発。第二ラウンドの開始。スカーレット姉妹全面戦争勃発。そこから導き出されるのは、幻想郷の終焉。
そんなバッドエンド一直線の状態を防いだのは、デウス・エクス・マキナではなく、紅魔館の誇るトリック・スターであった。
「お嬢様。お食事の用意ができましたわ」
血塗れの私たちを見ても動じることがなく、ただ静かに食事の用意が出来たと告げる従者。その顔には冷静や冷徹の仮面ではなく、にこやかな笑みが浮かんでいた。
「今日のメニューはステーキです。妹様もご一緒にどうですか?」
「えっ! ステーキ!? いくいくー!」
フランドールは頭でもぶつけて記憶喪失になったのかよ、という変わり身の早さで咲夜のもとへと駆けていった。
私はそんな妹の後頭部にジャンピング・ニーを決めたい衝動に駆られながらも、我が忠実なるメイドのナイス・アシストを無駄にしないためにも、ぐっとそれを飲み込んだ。
「そうね。ゆっくりと食事でもしながら、話しましょうか」
「うん! そうしよー!」
フランドールはニコニコと笑顔で咲夜の二の腕に掴まり、私への怒りもすっかりと忘れたようであった。
やれやれ。やっぱり私には向かないな。
ん。そうだ。
これで噂話によるくしゃみは防げただろうか?
そう思って運命を調べてみる。
ふむふむ。先ほどまで予告されていたくしゃみポイントは回避できたようだ。
十数分後の私は、フランドールと一緒にステーキを食べている。
おぉ、美味そうなステーキじゃないの。私はテーブルの上に置いてある塩コショウを手に取ると、それを熱々の肉へと振りかける。私は味が濃い方が好きなのだ。
容器をテーブルに戻すと、今度はフランドールがそれを手に取った。そして力任せに振り上げ――
「あ」
蓋が宙を舞い、食堂に塩コショウがぶちまけられる。フランドールのステーキは胡椒まみれになってしまった。いや、それは実にめでたい、あ、いや、悲しむべきことなのだが。
それよりも重要なのは、その煙幕が如き香辛料の中で、私が「ふぁ……ふぁ……」と小さく声を上げていることだ。
ああ。
そういえば胡椒って、そんな使い方もあったなぁ。
「ぶぇぇぇっくっしょおおおおい!」
幻想郷は闇に包まれた。
「……咲夜」
フランドールが急ぎ足で一人食堂に向かったのを見計らい、メイドへと耳打ちをする。
「なんでしょうか?」
「食卓に塩コショウが置いてあるな。あれを片付けておいてくれ」
「え? お嬢様はアレがお好きでは……?」
「簡潔に言おう。フランドールがあれをぶち撒けてステーキが台無しになるのだ」
「あら、そういう運命が見えたのですね」
「そういうことだ。頼んだぞ」
「かしこまりました」
ふぅ~。
噂話のくしゃみフラグに比べたら、なんと簡単に解決できるものだったか。
あとのくしゃみも全部、こういう風に簡単であればいいのだけれど。
それにしても、なんだって今日に限って、こんなにもくしゃみの原因が次々と発生するんだ?
まるで、何かに引き寄せられているかのようではないか。
いや、普段は気にしていないだけで、いつもこのくらいくしゃみをしているものかもしれないな。
さてさて。私もお腹が空いたことだし、ステーキを楽しむとするか。
腹が減っては戦も出来ぬ。くしゃみも止められぬのだ。
◇ ◇ ◇
良い酒に良い肉。これほどシンプルかつ贅沢な愉悦があるだろうか。
私は目の前に置かれた肉にナイフをいれ、次々に口へと運んでいく。
対面するフランドールはと言えば、静かに肉をちまちま喰っている。
いかんな妹よ。肉は豪快に喰わねばならぬ。それが吸血鬼という高貴かつ凶暴な肉食系女子の本懐だ。
とか思っていると、突如として妹がナイフを皿に置いた。
「どうした?」
「……ない」
「何がだ?」
「塩コショウ」
どきり、と心臓が高鳴るのを感じた。
まさか、咲夜に言って隠させておいた塩コショウについて、奴が言及するとは……。何かを感づかれたか?
「何か足りないと思ったのよね。もっと味付けを濃くしないと」
「あ、ああ。そうだな。全く、咲夜は何をしているんだ」
「ねぇ、お姉さま。早く塩コショウを持ってきてもらいましょうよ」
「いや、しかしだね。フランドール。せっかく咲夜が調理してくれたものを、こちらで味付けを変えてしまうというのも、無粋ではないか?」
なんとしても塩コショウの缶をフランドールに渡すワケにはいかない。それをしたら最後、胡椒がぶちまけられて私の鼻腔は完全崩壊、幻想郷も完全崩壊。
だが、それを聞いた妹はみるみるうちに不機嫌になっていく。
「なによ。自分だっていつも色々とかけてるじゃない。目玉焼きにケチャップとか」
「いや、それはまぁ。あれは咲夜もかけるように用意してくれたものだし」
「いいから、早く塩コショウ持ってきてよ! 咲夜ー!」
いかん。
大声を出して咲夜を呼ぶフランドール。
咲夜は私のくしゃみにより幻想郷が崩壊するというロジックを知らない。
私は周りの人間に、自分があなた達を救っているのです、というのが好きではない。だから咲夜には事情を告げていなかった。
それが仇となるかもしれない。
フランドールが癇癪を起こしそうになれば、胡椒がぶちまけられてしまうから、という理由しか知らない咲夜は、きっと塩コショウを持ってきてしまう。意固地に断って、それでフランドールが暴れるリスクに比べたら、食卓が胡椒まみれになることなど屁でもないからだ。
そして咲夜が塩コショウを持ってきてしまえば、後はフランドールに缶を握らせるしかない。無理にそれを取り上げれば、フランドールはまた私への愚痴を零すだろう。悪口くしゃみフラグの再点灯だ。
くそう。こうなったら。
「咲夜! 塩コショウをもてい!」
「はい。かしこまりました」
私の言葉を待っていたのだろう。瞬時に咲夜が食堂へと現れ、私の手元に塩コショウの缶を置く。
「お姉さま、それを早くこっちにちょうだい」
「まぁ、待ちなさい。フランドール」
私はそういうと缶を右手に持ち、席を立った。そしてゆっくりとテーブルの脇を通り過ぎ、フランドールの横に並ぶ。
「え、どうしたの……? お姉さま」
困惑した様子のフランドールに向け、私は精一杯の優しい笑みを向ける。
「さっきは悪かったわ。これはお詫びのつもりよ」
言いながら缶の蓋を丁寧に外し、缶を逆手にもってステーキの上へと持っていく。
「ごめんね、フランドール。私……不器用だから、上手く伝えられなくって……。お詫びに塩コショウをまぶさせて……」
「お、お姉さま……」
嗚咽のようなものを漏らしながら、私の左手の指先は目頭を押さえる。そして手の甲で隠すようにして、鼻を塞いだ。
右手の缶が上下にゆさゆさと揺れ、中からは塩コショウが適量放出され、ステーキへとまぶされる。
「え、と。ありがとう。お姉さま」
「いいのよ、スパイスを効かせるくらい……だって私たち、血を分けた姉妹じゃない!」
「お姉さま!」
「妹!」
馬鹿らしい茶番劇を演じつつ、私は缶の蓋をしっかりと閉めて、さりげなく近づいてきた咲夜に渡す。彼女もどうやら、今日の私が何かしらの重大な使命を帯びていることに気付いたようだ。こくりと頷いてその場から消えた。
なんとか乗り切った。
などと安堵する私をあざ笑うかのように、食堂へとある人物が駆け込んでくる。
「邪魔するぜ!」
それはこの場にはいて欲しくない者。つまりは場を荒らす、予測不能の天変地異、トラブル・メイカー。霧雨魔理沙である。
彼女は息を切らしながら――何かから逃げてきたようである――きょろきょろと周りを見渡すと、ふぅ、と一息ついた。
フランは闖入者をその瞳に捉えると、きゃは、と明るく笑った。
「あ、魔理沙だ! 何してるのよ?」
「おぉ、チスイコウモリが二匹。いやなに、行商人の真似事をしていてね。この家の主人にも是非、買っていただきたいものがある」
「押し売りの間違いでしょ。それも盗品の」
私はいつものような応酬を心がけ、焦りを察知されないようにしながら、魔理沙の運命を読み始めた。
おかしい。
確か魔理沙がやってくるという運命は、この食事が終わってもう少し経ってからのはず。それが早まってきている。
運命の糸が絡まり、歪みはじめている。
予測できる運命が、刻一刻と変化している。
そして魔理沙は、案の定パチェに追い掛け回されている最中のようであり、このあとに彼女に見つかる。
それから逃げる際に懐から閃光弾を取り出し、使用する。その光に目潰しを喰らった私は――
「ぶっっくし!」
幻想郷は闇に包まれる。
なんでだ!?
なぜ、今のタイミングでくしゃみをした!?
闇に呑まれるまでの数秒間。呆然とする“未来の私”に、“未来のパチェ”が解説してくれる運命が見えた。
『光くしゃみ反射ね。一部の人間は激しい眩しさを感じるとくしゃみをしてしまうそうよ。まさか吸血鬼もそうだとは知らなかったわ、ってきゃっ――』
光くしゃみ反射! そういうのもあるのか!
勉強になるなぁ。って感心している場合じゃない!!
現実時間でのストーリーも、刻一刻と進んでいるのだ!
「ちょっと魔理沙! 本を盗んでくれたおかげで、私がどんな苦労を――」
魔理沙の背後から紫色の魔女が、抗議の声を上げながら迫る。
えい、くそ! もうパチェがやってきたのか。
どんどんと、先読みできる運命と現実の時間が狭まってきている。
これはまるで、詰将棋で追い込まれていく王将の気分じゃないか。まるで運命の包囲網に追い詰められたような感覚。
だがくしゃみの指揮をとる者などは存在しない。これは単純にタスクの処理速度の問題だ。そうに違いない。
見せてやる。500年にも亘って運命を操作し続けてきた手腕を。
「あっ、まずい。それじゃあな、吸血鬼――」
魔理沙の手が服の中へと伸びる。
目をつぶるか? いや!
パチェの運命を一瞬だけ、ほんの一瞬だけ見た。
「――らさぁ、なんでクラゲを焼き尽くしたのよ。まったく予備があったからいいものの」
恐らくは魔理沙が逃げ去った数十秒後、パチェが私に対して話しかけている場面。懐から乾燥したアカクラゲを取り出して、私に突き付ける運命が見えた。
ちぃ。連続くしゃみ攻撃か!
「グングニル!」
右手から魔力を放出し、槍状のエネルギーを解き放つ。
それは魔理沙が閃光弾を取り出そうとして手を突っ込んだポケットを引き裂き、その後ろから追いかけてきたパチェの足止めをした。
「おわ! 危ないな、何をするんだ!」
「ちょっと、レミィ!? 私のクラゲを焼き尽くしただけでなく、いきなり攻撃してくるなんて――」
二人の抗議を無視しつつ、私はその場から離れるべく踵を返した。ちらりと見えたフランドールの好感度は、今のところ大丈夫なようだ。悪口くしゃみは回避できている。
「私は寝る!」
そうだけ言い残して、私は一目散に逃げ出した。こうなったら明け方までの数時間、引きこもるしかない。
ここに来て、押し寄せる波が如く、くしゃみフラグが矢継ぎ早に私へと近づいてくるようだ。
「っと!?」
廊下を走っている私の運命に、変化が現れた。このまま真っ直ぐ進めば寝室なのだが、そのドアを開く直前に私はくしゃみをする。
足を止めてみるも、今度は数秒後に、私はこの場でくしゃみをする。
「どういう事だ!?」
とりあえず私は今来た道を急いで戻る。
原因は不明であるが、紅魔館の廊下には私がくしゃみをするポイントがあるらしい。
「お嬢様!」
不意に現れた咲夜が、珍しく声を大きくして私に話しかける。
「なんだ。走りながら話すぞ」
「永琳からの使いが、至急にと。――薬の効果が思ったよりも早く、切れるそうです」
「薬の……?」
ああ、合点がいった。
私の薬の効果が切れるということは、花粉症がまた再発するということ。そして紅魔館は今現在、花粉の侵入を許しているということだ。
恐らくはフランドールが壁に開けた穴から、次々と花粉が舞い込んできている。そして廊下を侵食しているのだ。
「咲夜、助けて欲しい」
「何をすればよろしいのでしょうか」
「絶対に花粉が入ってこない場所を、用意してくれ」
「……食料庫はどうでしょうか」
「良いな。鍵を寄越せ」
「はい」
手渡された銀色の鍵を握りしめ、私は急いで食料庫へと向かった。
幸いにして、そこまでの道筋に花粉の魔の手は伸びていなかった。
重い鉄の扉に魔術的な結界の施された鍵。厳重な戸締りは、確かに花粉の侵入を防いでくれるだろう。なにしろ私の侵入を防ぐために作られた場所なのだ、それくらいは当然だ。
中に入ると、咲夜が里で買ってきた食材が並ぶ、薄暗くて埃っぽい広間があった。思わずくしゃみが出ないか心配であったが、運命を見る限りでは大丈夫なはずだ。
ここに居れば、くしゃみの因子が紛れ込む可能性は少ないだろう。遠距離からのフラグ成立をしてくる悪口くしゃみだけに注意すれば良い。
私は気を緩めずに己の運命を見続け、くしゃみをしてしまわないかに注意した。
いや、しかし危なかった。本当に誰かが私にくしゃみをさせようと、戦術的に追い詰めてくるような恐怖さえあった。この食料庫さえ、本当は相手の術中に嵌り追い込まれた袋小路に感じる。
いざという時。本当に逃げ切れなくなった時は、究極のくしゃみ防止法、自害を実行するしかない。そう思ってしまうほどに追い詰められた。
「おっと」
私の運命にくしゃみの音が響き渡った。やはりこの場所も安全ではないか。
今から約五分後、猶予は少ない。私の後ろにそびえ立っている戸棚が老朽化のせいか崩れ、置いてある袋が転げ落ちる。そこから溢れでたるは黒胡椒。それが密室において殺人的な刺激を鼻腔に与え、私は特大のくしゃみをするという寸法だ。
「やれやれ、逃げないとな」
つかつかと出口へ向けて歩みを進め、そしてドアノブに手を掛けたところで、動きが止まってしまう。この行動による私の運命予測は、このドアの向こうがすでに花粉により侵されていることを知らせる。
「ああ、本当に詰将棋だ。それも後一手で、投了」
やはり私は追い込まれていたのだ。
この食料庫はくしゃみから逃れられる聖域ではなく、私を捕らえて処刑台へと送るための牢獄であった。
私に残された手は、必死に鼻をつまみ続けるか、それとも絶対にくしゃみをしない最高で最悪の方法か。
いや、運命は見えている。私のくしゃみが幻想郷滅亡のトリガーになるのならば、その存在をこの世から消し去るしかない。私は自分で選択する。誇りを持って選択する。
あまり時間がない。
決断はすぐにしなければいけない。
この包囲網は完璧だ。王の盾となる駒は存在せず、王はどのように動いてもその心臓を貫かれる。
だが、これは詰め将棋ではない。
現実の話だ。
そして、例え詰め将棋だとしても、私には逆転の方法がある。咲夜やパチェとチェスで遊ぶ時に、よく使う手だ。
そうだ。
私が追い詰められている不愉快な盤など、ひっくり返してしまえば良い。
◇ ◇ ◇
「ああ、くそ。咲夜にこっぴどく怒られるな」
全てが終わったあとの事を心配する程度には、私は自分の策に自信を持っている。
というより、こうする他ない。
私は己の身から生み出される無尽蔵の魔力を解放すると、肉体の周りにその威力を振るい、散らす。
「さぁ、燃え尽きろ」
紅い光が食料庫を満たし、中に置かれた食材も何もかもを燃え尽きさせる。胡椒が私の鼻腔内の粘膜に纏わりつくことなど、叶うはずもなく、全ては消滅する。
咲夜がせっせと買いためた食料は、今宵尽きる。全て灰燼に帰す。スタッフもこの後で美味しくいただけない程度に、炭すら残らない。
「うおおおお! くしゃみ、死ねぇぇぇ!」
そう、この作戦の名は。やけくそ。
炎を纏ったままで、私は天井を突き破った。妹の比ではない、下手をしたらこの棟が倒壊しかねない破壊。館の中に充満する花粉などは蹴散らし、私は朝日の光に照らされつつある澄み切った青空へと、舞い上がった。
それを追いかけるように、紅魔館周辺の森から、何か黄色い粉が、まるで獲物に襲いかかる虫の大群のような様相で迫ってきた。あれは……花粉!?
裏庭の辺りからは風に舞ったアカクラゲの刺糸が! 倉庫からは焼け残った胡椒も参戦!
ん? カフェテラスから上昇してくるのは……こ、こいつは! 「俺も忘れてもらっちゃ困るぜ!」とばかりに咲夜オススメのハナヒリノキの粉末もやってきたァー!
うおっ! まぶしぃ! 油断すれば朝日の輝きで一撃必殺、光くしゃみ反射だ!
って、おい。いい加減にしろよお前ら。なんなんだよお前ら。
良いだろう。運命はそこまで私にくしゃみをさせようとするか。
ならば、抗ってみせる!
このレミリア・スカーレット。絶対にくしゃみなんかに負けはしない!
「誰も私に近づくなァァァー!」
自分の周りに紅い炎を展開させる。
それは私にくしゃみをさせようと近づいてくる、あらゆる因子を焼き尽くす。
目をつぶってるから光でもくしゃみをしないし、もしこの最悪のタイミングで私の噂話をするような奴がいたら、スピア・ザ・グングニルでぶっ飛ばす。炎に囲まれているから身体はポカポカで寒さ対策もバッチリ!
とにかく、手当たり次第に魔力を放出しまくるのだ。これで全てのくしゃみ因子を近寄らせず、夜明けまでを乗り切る!
「レミリア・スカーレット。まだ私の力が必要かしら……って危なっ!」
なんか声が聞こえたので、ちらりと目を開ける。
私の前方に、宙空を漂う紫色の衣装。私が辺り構わず放っている炎を間一髪で避けた、謎の生物。
なんだ!? あれも、なんか、あれか! くしゃみさせる奴か!
ええい。性懲りもなく!
喰らえ、デーモンキングクレイドル! というかタックル!
「え、ちょ、ぐぼぁ!」
私の頭突きをお腹に喰らって、苦悶の表情を浮かべる紫色の妖怪。
……って、あれ、こいつ八雲紫じゃない?
「げぼっ、お、落ち着きなさい」
「あ、ごめんごめん。ってか何してるの? こんなところで。見れば分かる通りに、私は今現在、やけっぱちの暴走モードよ」
「そ、その必要はなくなったわ……。私がここに来たということは、そういうことよ」
ん? つまり……。
彼女がこの場にいるということは、ルーミアの保護はもう必要ないということ。それはイコール……。
「もしかして、時間は過ぎたの!?」
「私に聞かないでよ。でも朝日が昇ったということは……」
私は彼女の言葉が終わるより先に、自分の運命を確認する。
そこには闇に包まれた真っ黒な映像ではなく、この大暴れを心配して駆けつけた咲夜に弁明する、私の姿。
あ、ああ。
あああ!
ついに、ついに!
私は乗り切ったのか!
やばい。ちょっと泣きそう。
っていうか泣いてるわ。
「これで、終わりねぇ」
腹をさすりながら、紫がやれやれ、と溜息をつく。
彼女もルーミアの監視で大分精神を削られたのだろう。その顔色は悪い。
決して、腹部に受けたダメージが原因ではないはずだ。
「ええ。運命の時刻は過ぎた。じきにルーミアの御札も本来の力を取り戻し、門番が引っ掴んだくらいじゃほどけないようになる。そもそもの因果関係が崩れ、私のくしゃみとは何の接点もなくなる」
達成感で自然と笑顔になってしまう。だが、それを抑えて口を真一文字に結び、腕組みをしつつ語る。
私は夜の王だ。威厳は保たねばならぬ。
特に今回の件で色々と失ったものが大きい気がするので、さっそく埋め合わせをしないといけない。
「今回は大変な仕事だったわね。ご苦労さま」
「あー、くそ。そんな労いの言葉だけじゃ足りるものか。とりあえず、一年分の食料の補充と、壁の修繕を都合つけてくれよ」
「その願いを私が受けるかどうか、運命を見れば分かるでしょ?」
「ああ、それじゃあ。よろしく頼んだわ」
こうして、くしゃみから逃げ続けるという、私の人生においてトップクラスに下らなく、困難な一日は終わった。
私がくしゃみをしないように必死に頑張ったことなど、誰も知らない。私が幻想郷とそこに住むものの命を救ったことも、誰も知らない。
だけど、それで良いのだ。
私は紅魔館の主、誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレットであって、この世界のデウス・エクス・マキナではないのだから。
◇ ◇ ◇
前にも説明した通り。
運命が分かるといっても、運命が変えられるといっても、無理なものは無理。
だから私は甘んじて我が館の住民たち+アルファから、精神的リンチを受けていた。
「お嬢様。私が蓄えていた食料を全部焼失させるとは、どういうことですか? しばらくご飯抜きです」
「そりゃあ、必要のないクラゲだったとはいえ、意味もなく焼き尽くすなんてどうかしてるわ。これからはレミィの使ってるカフェテラスにクラゲを干すから。あそこなら燃やそうとしないでしょ」
「お姉さまったら、いつも私を怒るくせに、自分の方が館ぶっ壊してるじゃん」
「えーと。師匠から薬代の請求として、このくらいを取り立てるように言われてるんですけどぉ。……は、払えます? こんな金額」
「お嬢様ぁ! 私、何か悪いことしました!? なんで出禁になったんですかぁ。24時間門を見張れってことですかぁ!? 紅魔館はいつから赤じゃなくてブラックになったんですかぁ」
「いや、確かに不法侵入はしたかもしれないけどさぁ。卸したての服にでっかい穴を開けられたら、私だって怒るぜ? 慰謝料を請求する!」
「紅魔館の主よ。里の人間を代表して抗議にきた。昨晩、里で大量のコウモリが家々に侵入したことが確認されている。不要な不安を煽る真似はよしてもらおう」
「山の方からも忠告なのですがね。昨晩、吸血鬼に話しかけられたという妖怪が大勢いまして。あまり干渉されると、こちらとしても相応の対処をせざるを得ないのですが……」
「ねぇねぇ、聞いた~? レミリア様ってぇ、未だにおねしょしてるんだって~」
「えー、うそ、マジ~? 500歳にもなってェ~?」
ああ。
「知るかぁぁぁあああ! うっさいわぁあああ!!」
私は全ての訪問者をちぎっては投げ、ちぎっては投げしつつ、紅魔館から逃げ出した。
きっと奴らは「またレミリアの癇癪だ」「これだからお子様吸血鬼は困る」とか好き勝手言ってるのだろうが、知ったこっちゃない。
あ、そら。
「…………ふぁ、ふぁ」
噂をされると、くしゃみが出る。
今までずっと我慢していた分、とても気持ちの良いのが放てそうだ。
「ぶぇぇぇっくっしょおおぉぉおおい!!」
鼻水も出た。一緒に魂が抜けたかというほどの開放感。やはり、くしゃみは我慢するものではない。心に溜まったストレスさえも、一緒に排斥してくれるような心地よさだ。
もしかしたら、私って結構くしゃみが好きなのかもしれない。
あぁ、寒いな。安心したら気が抜けて、風邪をひいてしまいそうだ。
だが、別に風邪くらいひいてもいいや。
今日はハナヒリノキ入りの紅茶を飲んで、小悪魔を手伝いアカクラゲの干物を作ってやり、フランドールにたっぷり説教をして嫌というほど陰口を叩かれ、美味しいステーキに塩コショウをたっぷりとかけて、魔理沙の下らない閃光弾も甘んじて喰らい、思う存分にくしゃみをしよう。
私はハンカチを取り出すと、鼻を啜った。
<了>
不憫なレミリア…
くしゃみばっかりでつらかったろうな、レミリア。
お嬢様の真剣さと周りの温度感が素敵
ダークヒーローかくあるべしッ!
いやはやこの展開は読めなかった
レミリアのくしゃみで幻想郷がヤバイ
能力をこう解釈するとは
>>そして幻想郷は闇に包まれた。
シュールすぎて腹筋ブレイカーw
お嬢様マジGJ!
すべて解決したあとのクシャミは読んでいるこちらとしても気持ちよかった。
魔界カップ麺の楽しさがキャラとの掛け合いにありましたが、こちらは原因の滑稽さが面白い。
しかもクシャミの原因、全部ほんとにあるのかよ。なんというか……勉強になるなあ……。
孤軍奮闘のレミリアを堪能いたしました。
おもしろかったです。
殺伐とした楽園たる幻想郷に紫と紅の加護あれーー!!!
面白かったです。
紫はどんな手を講じていたのか気になるなあ。
面白かったです。 そんなお嬢様大好きだよ!
カリスマとはこうやって消えていくものなのか
誤字?報告を
》それ以来あすこは――食料庫は厳重な警備によって閉ざされてしまった。
あすこ→あそこ?
トマト「……やれやれ。子供に嫌われるのは慣れているがな」
吸血鬼って、なんとなくトマト好きそうなイメージがあります。
でも、子供ってトマト嫌いな子が多いと思います。私も子供の頃はトマト嫌いでした。
つまり、お嬢様は…………。
久しぶりに腹筋壊れそうになった。くしゃみを我慢するのは辛いよね…
ちなみに私も光に反応してくしゃみがでるタイプです。太陽の光やら電気やらを見るとつい…皆同じかと思ってたら実は一部の人だけだったwwwwwww
お嬢様! 悪い事ばかりじゃございませんよ! やりましたね!
最高に下らなくて、最高に楽しいお話でした。
あらゆる方向隙なしに面白かった
そしてレミリアのキャラも面白い。
そして、くしゃみの原因をここまで調べ尽くした貴方は、いったい何者なんだ……?
ただ割と最初からずっと原因はフランの胡椒だと思ってた
いやしかしよくもこんなにたくさんくしゃみの原因を出してこれるもんだwwww
※ごめんなさい。コメントにレスしちゃいますが、「あすこ」は誤字じゃなくて、そういった言いまわしだと思われます。作者様ではないので本当のところはわかりませんが。
迫り来る敵を一つ一つ回避する緊迫感といったら、まるでスタンド攻撃を受けたジョースター一行のごとし。
このスリリングな展開に引き込まれました。
創作応援してます。
面白かったです。
ああ!なんということだ!私には未来起きることが見えていたというのに!
わたしは運命という敵にに敗れ、滅亡を止めることができなかった。
幻想郷は、一瞬にして闇にのまれてしまった。
残念!私たちの幻想郷はこれで終わってしまった!
ならなくてよかったですねお嬢様w
もう初めから終わりまで笑ってました。でも失敗したら幻想郷滅亡だもんなあ……w
やってることは下らなくてもこういうお嬢様はかっこよくて好きよ!
そう思ってた時期が私にもありました。
とてもテンポの良いストーリーで、読んでいて面白かったです。
私は好きです。こういうお話!
なんだ、これすごい好きwww
孤独なカリスマヒーロー!かっこいいぜおぜう!
この文章力でこれだけやられるともうww
いいもん見させてもらいましたw
わがままが実は運命の操作だという解釈が非常に面白いかったです
ってか予知能力?
もってけ100点
今度から気まぐれな行動があっても「ああ、運命を変えようと頑張ってるんだな……」って思うようにします。
最後の怒涛の展開に笑ったww
能力がこれだとそのうち過労死しそうですね。
自分の能力を過信せず、人一倍の努力をしているレミリアに感動したw
最高でした!
>このレミリア・スカーレット。絶対にくしゃみなんかに負けはしない!
の一文でものすごく不安になったのは俺だけではあるまいw
ドキドキしながら読みました。おもしろかった!
あっけなく死んでいたというのに好き勝手言う周りへの不快感が勝ってしまいました