復活を祝う宴もそろそろ締めくくりに入ろうかという頃、主役であるはずの太子様がこっそりと席を抜け出していた。
私はその後を追った。太子様は洞窟を出て外の墓地に着くと、誰かの墓石の前に座り込み静かに月を眺めた。不思議と満月以上に明るく感じる、十四番目の月だった。
蒼い月光に晒されたそのお姿を見るのは、一体どれだけぶりになるだろう。長い眠りにつく以前と変わらない美しさだった。
「感傷に浸っておいでですか。柄にもない」
私は、昔と変わりないような憎まれ口を言った。
「屠自古」
「宴を抜けだして、何をしているかと思えば。貴方が主役でございますのに」
「すみませんね。静かな場所に行きたくて」
喜ばしい日にも、強い王にも似合わない、儚げな笑顔だった。
「でしたら、そろそろ休まれては? 久しぶりに動かれてお疲れなのでしょう」
「それがなんだか勿体なくて。せっかく長い眠りから覚めたのに、また眠ってしまうなんて」
「ただの休憩と思えばよいこと」
「むー」
よく眠って元気はつらつ、という様子ではなかった。どちらかといえば、寝すぎてぼうっとしているといったほうが近い。復活したてとはこんなものだろうか。
太子様は、ぐるりと景色を眺めた。穏やかな表情で、陰気臭い墓場の墓石やら供え物やら、その辺に生えている草木やらを見て、それからふよふよと浮かぶ幽霊たちを見た。
最後に私をじっと見た。どこか弱々しい表情に思えた。
「分かりました。屠自古の言うとおりにします」
「ええ」
そう言われて安心する。私は心配なのだ。太子様は他人のために無理をしすぎる。先程の宴でも周りに流されるがまま、大量の酒を飲まされていたから危ない。万が一、復活早々に倒れられては聖徳王の沽券に関わる。
「ただ……その、」
太子様は、罰が悪そうに目を逸して言った。
「できれば、ベッドまでお伴して」
こんな甘えたような言葉に、冷たいはずの身体が少し熱くなった。今更どうしてそんなことを尋ねるのだろう、狡いな。そんなに不安げに、淋しそうに。
彼女は豊聡耳。それに私は、一応でも、伴侶だというに。これではまるで馴れ初めのようではないか。
「別に、構いませんが……」
こんな強がりが太子様に通用するはずがないが、私はここで素直にお伴しますといえるほど、気の利いた女ではなかった。それでも太子様はにっこり笑ってくれた。
「そうですか、よかった!」
こんな言葉で喜んでいただけるのは、豊聡耳の太子様なればこそだ。
やはり私は逆立ちしたって普通の女だった。太子様がいなければ、気持ちひとつ満足に表せない、出来の悪い妻だった。
「私は、不安なんです」
静かな寝室。新しい"べっど"の上に座り、寝間着姿の太子様はそう呟いた。
「一度、貴方を置いて行ってしまったのに」
私は部屋の戸を閉めて、太子様の前にふよふよと浮かんだ。
「どうして、貴方はここに」
太子様といえど、今回ばかりは不安に思うらしい。時が経ちすぎたせいで、私はすっかり亡霊になり、大祀廟は地の下に埋まり、信仰の力はこの幻想郷にしか及ばなくなり……。
それだけならまだしも、この方は家族を欺いて死んだふりなぞしたものだから、後ろめたさがチラつくようだった。当時、きっと目覚めるときは独りだろうなどと思ったことだろうに、実際目覚めてみれば目前に見慣れた嫁と義母である。
私を見たあの瞬間の、太子様の青ざめた顔と言ったらなかった。それでどれだけ責められるかと怯んでみたら祝福の嵐なのだから、逆に困ってしまったに違いない。罪なお方である。
「貴方の妻なりますれば」
私はそうとだけ答えた。
「……大したものですよ、君は。まさか千四百年も待っていたなんて」
太子様は困ったとき、どうしてかデレデレと笑う。
「うっかりうたた寝をしていたら、千三百九十年ほど経っていただけのことです」
「え……まあ、十年でも凄いと思いますけど」
たはは、と笑う顔がなんとも頼りない。すっかり参っているようだ。
このぐらいの仕返しをしたぐらいでへこたれては困る。この方は偽の訃報で妻を泣かせ、さらには復活までの間こんなにも長く待たせたのだ。これからもっと困らせてやりたい。
「そんな姿になってまで」
太子様は私の脚を見て言った。
痛いところを突かれたものだ。……目立つから、当然かも知れないが。
「あまり見ないでくださいまし、恥ずかしいですわ」
「あ、恥ずかしがるところなんですね、それ……」
わざとくねくねして見せるのは女心というものである。
諦めひとつで成仏できるところ無理やり現世に残っていたら、人の体をなしていない脚になってしまった。力不足の象徴のようなものだ。所詮普通の女の所業というわけである。蘇我の名に、少しは恥じておかねばなるまい。
ふむむ、と言って真面目に考えだす太子様がおかしい。そんなことより自分の心配をしていただきたいものだ。これからやることは山積みある。
「さ、もう休まれなさい。明日から忙しくなりますよ」
こうでも言わねば朝まで唸っていそうだ。太子様が私を労る必要などないというのに。ただ気丈に振舞ってさえいてくれればよい。太子様の妃である限り、私はそれで満足だ。
「屠自古は、寝なくてよいのですか」
と太子様は尋ねた。また私の心配だ。
「宴の後片付けが待っておりますゆえ」
そっけなく答えると、彼女は案の定淋しそうに笑った。
「生真面目なところ、変わってませんね」
余裕ぶってそう仰った。これで親切のつもりなのだから困る。れでぃふぁすととは、女に甘ければよいというものではない。
「ええ生真面目ゆえ、貴方に心配されるようなことは何もありませんわ。もっとも、私の心配でなく、自分が淋しいゆえ傍に居られよと仰るのであればやぶさかではありませんが」
「はい?」
「素直に一緒にいたいと仰りなさい」
「なっ。あ、貴方という人は」
太子様は顔を真っ赤にして俯いた。分かりやすい方だ。
要は傍にいる口実が欲しかったのだろう。はじめから、素直にそう言えばよいものを。……私が言えたことではないが。
「……い、一緒にいたい、です」
「ええ。わたくしもです」
「き、来て」
「はい」
嬉しさを顔に出さないよう懸命に堪えながら、毛布に潜る太子様の、傍らへと手をつく。新しい"べっど"はさすが柔らかい。
太子様が軽く毛布を捲って私を招く。こんな仕草に懐かしさを覚えた。ようやくあの人が戻ってきたのだと実感した気がする。
それでそっと太子様の腕の中へ入るようにしたのに、彼女はすぐにその腕を引っ込めてしまった。
やれやれ。こんなときぐらい、もっと喜んでみせるべきだっただろうか。私が少しそっけなくしただけで、すっかり自信をなくしたようだ。太子様がそんな様子では困る。これから彼女は再び、人々を導いてゆかねばならぬというに。
「ひどいです」
私はけしかけた。
「え?」
「私がお傍にいるのは、やはり余計なのでは?」
「え、あ、いえ、決してそんなわけでは」
すると太子様は冷や汗をかいてたじろいだ。ちょっとした冗談だというに、お可愛らしい。
「……いいのかなと、思いまして」
と太子様は細い声で仰った。
「本当は、まだ怒っていたりしないかと」
「いえ。私が勝手に待っていただけのこと」
「けど、だって、私は貴方に黙って、」
昔のこと、と、私は太子様の口元に指を当てた。
「ただの女と、忘れていかれたくなかった。その思い以外にありませんでしたわ」
でもと、言いかけた太子様の唇が止まった。
この方ははにかみ屋のくせをして、昔から女が好きだった。何人もの妃がいた。それぞれの妃を、それぞれに愛した。私はそのうちの一人でしかなかった。その上この方は女以上に政治が好きだった。女にかまける時間などほとんどない。
私など、こうして面と向かうことすら、そう多くはなかった。
これからは少しくらい、私のことを見直してくれると嬉しい。この方はきっと怒られたいのだろうが、私は怒らない。そんな簡単な女でいたくないのだ。
「分かっていますわ。太子様はご自分の立場ゆえ、あのような選択をされたのだと。私なぞより大事な物があって当然」
「そうではなくっ」
全く目を合わせない太子様が、少しばかり可哀想に思えてきた。だが私は淡々と事実を告げる。太子様は一度私に嘘を吐いた。私がそれでも無理についてきた。思えばやたらに苦しい思いばかりした。太子様は私のことがお嫌いだったのかと、千四百年間怯え続けた。それでも太子様のことを忘れられずにいた。
いつまでも責めるつもりはないが、水に流すつもりもない。曲がりなりにも私は妻だ。私は断りもなしに独りにさせられたのだ、その間どれだけの思いを秘めたことか。
「ご無理をなさらず。私はそれでよいと思っておりますゆえ」
「そんなこと……」
納得できない、というように太子様は唇を噛み締めた。しかし悪いのは太子様だ。
太子様は言いかけた言葉を飲み込むと、すっかりしょげたように肩を丸めて、毛布へ沈んだ。
「……すみません。私は主人失格です」
もごもご、毛布の中でそう呟いた。
「ええ失格です」
私が容赦なくそう答えてやると、太子様は微動だにしなくなった。おいたわしや、偉大なる聖徳王のこんな姿、かつての臣下が見たら何と思うことか。けれどもこれだけはやめられない。明るい太子様を落ち込ませることができるのは、妻の特権だ。
まったく。それが妻に対する言葉ですか。しゃきっとおしよ。そう言葉にしようとしたところで、太子様は、
「すみません……すみません屠自古。すみません……」
震えた声で情けなく謝った。
調子に乗っていたら、少し言いすぎただろうか。そんなふうにされると、私のほうが慌ててしまう。
「いえ……分かればいいのです。私こそ、すみません。勝手なことを申しました」
「ちがうんです、屠自古」
太子様は毛布から飛び出して、涙を浮かべた目をいきなり見せた。私はのほほんと、ああ、綺麗だなぁなんて思った。それも束の間、次の瞬間にはこの胸に抱きつかれていた。
「屠自古、屠自古屠自古、とじこぉ……」
抱き締める力がどんどん強くなっていく。嬉しいが、太子様は珍しく取り乱した様子だった。勢い余って顔に擦りつけられた涙が、熱い。
「ど、どうしたのですか」
「だって、だって」
なんだか、苦しい。
「落ち着いてください、子供ではあるまいに」
「だって屠自古が」
「……私が?」
「屠自古が、こんなに冷たくなっているから……!」
ああ、涙が熱いのは、そのせいか。
私のこの身体は、女ですらなかった。長き旅から帰ってきた太子様を迎え入れ、包み込み、同じ夜を越す温かさが、ないのだった。
だから太子様は慌てて手を引いたのか。
だからそんなに己を責めるのか。だから素直な言葉をかけてくださらぬのか。
そうだった。太子様が復活なされた喜びのあまり、私は自分の身に起こったことすら忘れていたようだ。
こんな身体で、よき妻を気取ってしまった。何が、太子様の女か。せっかく太子様が蘇ったのに、私は力不足ゆえ、いつ消えても分からない希薄な存在だった。これでは太子様を安心させることも、喜ばせることも満足にできない。それどころか却って太子様を苦しめるだけではないのか。
今まで気付かなかった私は、馬鹿だ。懸命になりすぎて、何も見えていなかった。
「私は思った以上に、残酷なことを、して……。こうなると分かっていれば、きちんと、しっかり、貴方をこの時代まで連れてきた、のに」
太子様は泣きながらそう言った。
「そのお気持ちを戴けるだけで、満足ですわ」
私はあたかもよき妻のように振舞って、そう答えた。
我侭を言いたかった。けれども太子様をこれ以上困らせるのは、あまりに酷だった。そも、私がこの時代まで勝手についてきたことこそ大きな我侭だったのに。悪いのは、私だった。
太子様は私を抱いたまま、しばらくすすり泣いた。そして落ち着いた頃に、何でもないような顔で微笑んだ。
「すみません、妻の前で、みっともないですね」
優しく髪を撫でながら、そう言って頂けたのが嬉しかった。私はゆっくり首を横に振った。
「その妻がこのような異形では」
ぼそっと答えた。
「ち、違うんですってば」
「私を抱いても冷たいだけ」
「いいんです、そんなの」
「すみません」
「違う、謝らないで。聞いてください屠自古。私は貴方がどんな姿だって、いいの。ただ、私、貴方をもっと大切にすることもできたはずなのに。私がもっとしっかりしていれば……」
見ればいつの間にか心配する顔になっている、太子様。泣いたり笑ったり繰り返しても、最後にはなぜそんな顔をするのだろう。
今の私はそんなに情けなく見えるのか。
「別に、平気です」
「ならばもっと平気な顔をしてください」
「平気な顔です」
「可愛い顔ですけどっ! ……」
「……」
この方は。
言ってから照れるぐらいなら言わなければいいのに。
だけど少しは、嬉しかった。
「責任を取りたいです」と、太子様は私の髪を撫でた。
「何の責任です」
「貴方をこんなにしてしまった」
はぁ。
我慢していた溜息がとうとう出た。この人は女心が分からなすぎるのではないか?
それとも私が特別、複雑な心でもしているだろうか。
「責任がなければ、愛せませんか」
「そ、そうじゃなくって……とっ屠自古、拗ねちゃったの?」
太子様は突然、猫でもあやすような高い声を出し、顔を近づけてきた。「よしよし」と言って、また私の髪を撫でた。
いきなりでびっくりした。
少なくとも今やるべきことではない、そういうのは。
「愛しているから、責任を取りたいの」
「愛していなくたってそうするでしょうに、貴方は」
「あ、よく分かっていますね、さすが屠自古」
「殴りますよ」
あれっなんて言う、彼女の困った笑顔をまた見た。困ったのは私だと言いたい。
そういえば太子様はこういう方だった。悪気は一切ないのだが、いかんせん正直すぎる。
「でも、愛していますよ」
「……」
「あ、信じてませんね」
「信じていますわ」
「信じてないです」
「はい」
「ぶー」
太子様はわざと膨れ面を見せたが、信じてあげない。
くだらないことだけ鋭いのがこの方だ。能力の使い道を間違っている気がしてならないのだが。
そういう妙なセンスが、私はなぜか好きだった。不思議と尽くしたくなる。婚前は無愛想だ、男勝りめ、行き遅れるぞと身内にさんざん揶揄された私が、この方と少し話すと、すっかり女になってしまう。
かつて太子様の妃だった女たちも、これに惹かれたのだろうか。
どうせなら、太子様には私の欲望など聞くよりも、私の心から愛をそっくりそのまま奪い去ってもらいたい。愛してくれれば嬉しいが、たとえ愛されなくても、私の心は何も変わらない。
「もう、よいです、太子様」
私は言った。
「冷たさに手が震えております」
「そ、そんなことは」
「ご無理をなさらず。私をこれ以上、落第させないでくださいまし」
太子様が私なぞのために、無理などされてはいけない。いきなり風邪でも引かれたら大変だ。
そうだ。抱き締められないぐらい、何だ。妻は妻だ。太子様を立てられればよい。それが妻の役割だ。そのために千四百年も待ったのではないか。
「屠自古」
太子様は淋しそうな顔をして、私の冷たい身体から手を離した。
「心配せずとも、今更逃げませんわ」
「そうじゃないと……まったく。強い女ですよ、貴方は」
太子様はまた何でもないように微笑んだ。
これでよい。私の思い、通じたに違いない。
「はぁ。屠自古。私は豊聡耳とはいえ、貴方も少しは素直に気持ちを言ってほしいものです。貴方ほど厄介な女は見たことがない」
「それは褒め言葉ですよね」
「まぁ」
太子様は口元に手をあて、わざとらしく一度咳払いをした。
「おほん。屠自古。今までよく、ついてきてくれましたね」
そしてわざとらしく微笑んだ。
この方にいつもどこか余裕があるのは、私の思いなど、とうに全て理解しているからなのか。
「これからも、宜しくお願いします」
「お傍に置いてくださるのなら」
「これからの一生を尽くして、貴方を守ります。希薄な亡霊である貴方を、必ず守ります」
亡霊となってでも、この世に残って正解だった。たとえこの身が滅ぼうとも、こうして太子様といられるのだから、充分に幸せではないか。
「屠自古。よければ、改めて結婚してくれませんか」
太子様はゆっくりと目を閉じて言った。
「貴方が今なお私の妻であること、世間に知らしめたい」
少し意外だった。こんな甘言で信じてみてもいいかな、という気になってくる辺り、私も甘い。
「なるほど、それは面白い。早速明日、式を挙げましょう」
「それは早すぎです……」
続いて私も目を閉じた。近い未来の夢でも見ようと、柄にもなくニヤニヤ笑ってしまった。
私はその後を追った。太子様は洞窟を出て外の墓地に着くと、誰かの墓石の前に座り込み静かに月を眺めた。不思議と満月以上に明るく感じる、十四番目の月だった。
蒼い月光に晒されたそのお姿を見るのは、一体どれだけぶりになるだろう。長い眠りにつく以前と変わらない美しさだった。
「感傷に浸っておいでですか。柄にもない」
私は、昔と変わりないような憎まれ口を言った。
「屠自古」
「宴を抜けだして、何をしているかと思えば。貴方が主役でございますのに」
「すみませんね。静かな場所に行きたくて」
喜ばしい日にも、強い王にも似合わない、儚げな笑顔だった。
「でしたら、そろそろ休まれては? 久しぶりに動かれてお疲れなのでしょう」
「それがなんだか勿体なくて。せっかく長い眠りから覚めたのに、また眠ってしまうなんて」
「ただの休憩と思えばよいこと」
「むー」
よく眠って元気はつらつ、という様子ではなかった。どちらかといえば、寝すぎてぼうっとしているといったほうが近い。復活したてとはこんなものだろうか。
太子様は、ぐるりと景色を眺めた。穏やかな表情で、陰気臭い墓場の墓石やら供え物やら、その辺に生えている草木やらを見て、それからふよふよと浮かぶ幽霊たちを見た。
最後に私をじっと見た。どこか弱々しい表情に思えた。
「分かりました。屠自古の言うとおりにします」
「ええ」
そう言われて安心する。私は心配なのだ。太子様は他人のために無理をしすぎる。先程の宴でも周りに流されるがまま、大量の酒を飲まされていたから危ない。万が一、復活早々に倒れられては聖徳王の沽券に関わる。
「ただ……その、」
太子様は、罰が悪そうに目を逸して言った。
「できれば、ベッドまでお伴して」
こんな甘えたような言葉に、冷たいはずの身体が少し熱くなった。今更どうしてそんなことを尋ねるのだろう、狡いな。そんなに不安げに、淋しそうに。
彼女は豊聡耳。それに私は、一応でも、伴侶だというに。これではまるで馴れ初めのようではないか。
「別に、構いませんが……」
こんな強がりが太子様に通用するはずがないが、私はここで素直にお伴しますといえるほど、気の利いた女ではなかった。それでも太子様はにっこり笑ってくれた。
「そうですか、よかった!」
こんな言葉で喜んでいただけるのは、豊聡耳の太子様なればこそだ。
やはり私は逆立ちしたって普通の女だった。太子様がいなければ、気持ちひとつ満足に表せない、出来の悪い妻だった。
「私は、不安なんです」
静かな寝室。新しい"べっど"の上に座り、寝間着姿の太子様はそう呟いた。
「一度、貴方を置いて行ってしまったのに」
私は部屋の戸を閉めて、太子様の前にふよふよと浮かんだ。
「どうして、貴方はここに」
太子様といえど、今回ばかりは不安に思うらしい。時が経ちすぎたせいで、私はすっかり亡霊になり、大祀廟は地の下に埋まり、信仰の力はこの幻想郷にしか及ばなくなり……。
それだけならまだしも、この方は家族を欺いて死んだふりなぞしたものだから、後ろめたさがチラつくようだった。当時、きっと目覚めるときは独りだろうなどと思ったことだろうに、実際目覚めてみれば目前に見慣れた嫁と義母である。
私を見たあの瞬間の、太子様の青ざめた顔と言ったらなかった。それでどれだけ責められるかと怯んでみたら祝福の嵐なのだから、逆に困ってしまったに違いない。罪なお方である。
「貴方の妻なりますれば」
私はそうとだけ答えた。
「……大したものですよ、君は。まさか千四百年も待っていたなんて」
太子様は困ったとき、どうしてかデレデレと笑う。
「うっかりうたた寝をしていたら、千三百九十年ほど経っていただけのことです」
「え……まあ、十年でも凄いと思いますけど」
たはは、と笑う顔がなんとも頼りない。すっかり参っているようだ。
このぐらいの仕返しをしたぐらいでへこたれては困る。この方は偽の訃報で妻を泣かせ、さらには復活までの間こんなにも長く待たせたのだ。これからもっと困らせてやりたい。
「そんな姿になってまで」
太子様は私の脚を見て言った。
痛いところを突かれたものだ。……目立つから、当然かも知れないが。
「あまり見ないでくださいまし、恥ずかしいですわ」
「あ、恥ずかしがるところなんですね、それ……」
わざとくねくねして見せるのは女心というものである。
諦めひとつで成仏できるところ無理やり現世に残っていたら、人の体をなしていない脚になってしまった。力不足の象徴のようなものだ。所詮普通の女の所業というわけである。蘇我の名に、少しは恥じておかねばなるまい。
ふむむ、と言って真面目に考えだす太子様がおかしい。そんなことより自分の心配をしていただきたいものだ。これからやることは山積みある。
「さ、もう休まれなさい。明日から忙しくなりますよ」
こうでも言わねば朝まで唸っていそうだ。太子様が私を労る必要などないというのに。ただ気丈に振舞ってさえいてくれればよい。太子様の妃である限り、私はそれで満足だ。
「屠自古は、寝なくてよいのですか」
と太子様は尋ねた。また私の心配だ。
「宴の後片付けが待っておりますゆえ」
そっけなく答えると、彼女は案の定淋しそうに笑った。
「生真面目なところ、変わってませんね」
余裕ぶってそう仰った。これで親切のつもりなのだから困る。れでぃふぁすととは、女に甘ければよいというものではない。
「ええ生真面目ゆえ、貴方に心配されるようなことは何もありませんわ。もっとも、私の心配でなく、自分が淋しいゆえ傍に居られよと仰るのであればやぶさかではありませんが」
「はい?」
「素直に一緒にいたいと仰りなさい」
「なっ。あ、貴方という人は」
太子様は顔を真っ赤にして俯いた。分かりやすい方だ。
要は傍にいる口実が欲しかったのだろう。はじめから、素直にそう言えばよいものを。……私が言えたことではないが。
「……い、一緒にいたい、です」
「ええ。わたくしもです」
「き、来て」
「はい」
嬉しさを顔に出さないよう懸命に堪えながら、毛布に潜る太子様の、傍らへと手をつく。新しい"べっど"はさすが柔らかい。
太子様が軽く毛布を捲って私を招く。こんな仕草に懐かしさを覚えた。ようやくあの人が戻ってきたのだと実感した気がする。
それでそっと太子様の腕の中へ入るようにしたのに、彼女はすぐにその腕を引っ込めてしまった。
やれやれ。こんなときぐらい、もっと喜んでみせるべきだっただろうか。私が少しそっけなくしただけで、すっかり自信をなくしたようだ。太子様がそんな様子では困る。これから彼女は再び、人々を導いてゆかねばならぬというに。
「ひどいです」
私はけしかけた。
「え?」
「私がお傍にいるのは、やはり余計なのでは?」
「え、あ、いえ、決してそんなわけでは」
すると太子様は冷や汗をかいてたじろいだ。ちょっとした冗談だというに、お可愛らしい。
「……いいのかなと、思いまして」
と太子様は細い声で仰った。
「本当は、まだ怒っていたりしないかと」
「いえ。私が勝手に待っていただけのこと」
「けど、だって、私は貴方に黙って、」
昔のこと、と、私は太子様の口元に指を当てた。
「ただの女と、忘れていかれたくなかった。その思い以外にありませんでしたわ」
でもと、言いかけた太子様の唇が止まった。
この方ははにかみ屋のくせをして、昔から女が好きだった。何人もの妃がいた。それぞれの妃を、それぞれに愛した。私はそのうちの一人でしかなかった。その上この方は女以上に政治が好きだった。女にかまける時間などほとんどない。
私など、こうして面と向かうことすら、そう多くはなかった。
これからは少しくらい、私のことを見直してくれると嬉しい。この方はきっと怒られたいのだろうが、私は怒らない。そんな簡単な女でいたくないのだ。
「分かっていますわ。太子様はご自分の立場ゆえ、あのような選択をされたのだと。私なぞより大事な物があって当然」
「そうではなくっ」
全く目を合わせない太子様が、少しばかり可哀想に思えてきた。だが私は淡々と事実を告げる。太子様は一度私に嘘を吐いた。私がそれでも無理についてきた。思えばやたらに苦しい思いばかりした。太子様は私のことがお嫌いだったのかと、千四百年間怯え続けた。それでも太子様のことを忘れられずにいた。
いつまでも責めるつもりはないが、水に流すつもりもない。曲がりなりにも私は妻だ。私は断りもなしに独りにさせられたのだ、その間どれだけの思いを秘めたことか。
「ご無理をなさらず。私はそれでよいと思っておりますゆえ」
「そんなこと……」
納得できない、というように太子様は唇を噛み締めた。しかし悪いのは太子様だ。
太子様は言いかけた言葉を飲み込むと、すっかりしょげたように肩を丸めて、毛布へ沈んだ。
「……すみません。私は主人失格です」
もごもご、毛布の中でそう呟いた。
「ええ失格です」
私が容赦なくそう答えてやると、太子様は微動だにしなくなった。おいたわしや、偉大なる聖徳王のこんな姿、かつての臣下が見たら何と思うことか。けれどもこれだけはやめられない。明るい太子様を落ち込ませることができるのは、妻の特権だ。
まったく。それが妻に対する言葉ですか。しゃきっとおしよ。そう言葉にしようとしたところで、太子様は、
「すみません……すみません屠自古。すみません……」
震えた声で情けなく謝った。
調子に乗っていたら、少し言いすぎただろうか。そんなふうにされると、私のほうが慌ててしまう。
「いえ……分かればいいのです。私こそ、すみません。勝手なことを申しました」
「ちがうんです、屠自古」
太子様は毛布から飛び出して、涙を浮かべた目をいきなり見せた。私はのほほんと、ああ、綺麗だなぁなんて思った。それも束の間、次の瞬間にはこの胸に抱きつかれていた。
「屠自古、屠自古屠自古、とじこぉ……」
抱き締める力がどんどん強くなっていく。嬉しいが、太子様は珍しく取り乱した様子だった。勢い余って顔に擦りつけられた涙が、熱い。
「ど、どうしたのですか」
「だって、だって」
なんだか、苦しい。
「落ち着いてください、子供ではあるまいに」
「だって屠自古が」
「……私が?」
「屠自古が、こんなに冷たくなっているから……!」
ああ、涙が熱いのは、そのせいか。
私のこの身体は、女ですらなかった。長き旅から帰ってきた太子様を迎え入れ、包み込み、同じ夜を越す温かさが、ないのだった。
だから太子様は慌てて手を引いたのか。
だからそんなに己を責めるのか。だから素直な言葉をかけてくださらぬのか。
そうだった。太子様が復活なされた喜びのあまり、私は自分の身に起こったことすら忘れていたようだ。
こんな身体で、よき妻を気取ってしまった。何が、太子様の女か。せっかく太子様が蘇ったのに、私は力不足ゆえ、いつ消えても分からない希薄な存在だった。これでは太子様を安心させることも、喜ばせることも満足にできない。それどころか却って太子様を苦しめるだけではないのか。
今まで気付かなかった私は、馬鹿だ。懸命になりすぎて、何も見えていなかった。
「私は思った以上に、残酷なことを、して……。こうなると分かっていれば、きちんと、しっかり、貴方をこの時代まで連れてきた、のに」
太子様は泣きながらそう言った。
「そのお気持ちを戴けるだけで、満足ですわ」
私はあたかもよき妻のように振舞って、そう答えた。
我侭を言いたかった。けれども太子様をこれ以上困らせるのは、あまりに酷だった。そも、私がこの時代まで勝手についてきたことこそ大きな我侭だったのに。悪いのは、私だった。
太子様は私を抱いたまま、しばらくすすり泣いた。そして落ち着いた頃に、何でもないような顔で微笑んだ。
「すみません、妻の前で、みっともないですね」
優しく髪を撫でながら、そう言って頂けたのが嬉しかった。私はゆっくり首を横に振った。
「その妻がこのような異形では」
ぼそっと答えた。
「ち、違うんですってば」
「私を抱いても冷たいだけ」
「いいんです、そんなの」
「すみません」
「違う、謝らないで。聞いてください屠自古。私は貴方がどんな姿だって、いいの。ただ、私、貴方をもっと大切にすることもできたはずなのに。私がもっとしっかりしていれば……」
見ればいつの間にか心配する顔になっている、太子様。泣いたり笑ったり繰り返しても、最後にはなぜそんな顔をするのだろう。
今の私はそんなに情けなく見えるのか。
「別に、平気です」
「ならばもっと平気な顔をしてください」
「平気な顔です」
「可愛い顔ですけどっ! ……」
「……」
この方は。
言ってから照れるぐらいなら言わなければいいのに。
だけど少しは、嬉しかった。
「責任を取りたいです」と、太子様は私の髪を撫でた。
「何の責任です」
「貴方をこんなにしてしまった」
はぁ。
我慢していた溜息がとうとう出た。この人は女心が分からなすぎるのではないか?
それとも私が特別、複雑な心でもしているだろうか。
「責任がなければ、愛せませんか」
「そ、そうじゃなくって……とっ屠自古、拗ねちゃったの?」
太子様は突然、猫でもあやすような高い声を出し、顔を近づけてきた。「よしよし」と言って、また私の髪を撫でた。
いきなりでびっくりした。
少なくとも今やるべきことではない、そういうのは。
「愛しているから、責任を取りたいの」
「愛していなくたってそうするでしょうに、貴方は」
「あ、よく分かっていますね、さすが屠自古」
「殴りますよ」
あれっなんて言う、彼女の困った笑顔をまた見た。困ったのは私だと言いたい。
そういえば太子様はこういう方だった。悪気は一切ないのだが、いかんせん正直すぎる。
「でも、愛していますよ」
「……」
「あ、信じてませんね」
「信じていますわ」
「信じてないです」
「はい」
「ぶー」
太子様はわざと膨れ面を見せたが、信じてあげない。
くだらないことだけ鋭いのがこの方だ。能力の使い道を間違っている気がしてならないのだが。
そういう妙なセンスが、私はなぜか好きだった。不思議と尽くしたくなる。婚前は無愛想だ、男勝りめ、行き遅れるぞと身内にさんざん揶揄された私が、この方と少し話すと、すっかり女になってしまう。
かつて太子様の妃だった女たちも、これに惹かれたのだろうか。
どうせなら、太子様には私の欲望など聞くよりも、私の心から愛をそっくりそのまま奪い去ってもらいたい。愛してくれれば嬉しいが、たとえ愛されなくても、私の心は何も変わらない。
「もう、よいです、太子様」
私は言った。
「冷たさに手が震えております」
「そ、そんなことは」
「ご無理をなさらず。私をこれ以上、落第させないでくださいまし」
太子様が私なぞのために、無理などされてはいけない。いきなり風邪でも引かれたら大変だ。
そうだ。抱き締められないぐらい、何だ。妻は妻だ。太子様を立てられればよい。それが妻の役割だ。そのために千四百年も待ったのではないか。
「屠自古」
太子様は淋しそうな顔をして、私の冷たい身体から手を離した。
「心配せずとも、今更逃げませんわ」
「そうじゃないと……まったく。強い女ですよ、貴方は」
太子様はまた何でもないように微笑んだ。
これでよい。私の思い、通じたに違いない。
「はぁ。屠自古。私は豊聡耳とはいえ、貴方も少しは素直に気持ちを言ってほしいものです。貴方ほど厄介な女は見たことがない」
「それは褒め言葉ですよね」
「まぁ」
太子様は口元に手をあて、わざとらしく一度咳払いをした。
「おほん。屠自古。今までよく、ついてきてくれましたね」
そしてわざとらしく微笑んだ。
この方にいつもどこか余裕があるのは、私の思いなど、とうに全て理解しているからなのか。
「これからも、宜しくお願いします」
「お傍に置いてくださるのなら」
「これからの一生を尽くして、貴方を守ります。希薄な亡霊である貴方を、必ず守ります」
亡霊となってでも、この世に残って正解だった。たとえこの身が滅ぼうとも、こうして太子様といられるのだから、充分に幸せではないか。
「屠自古。よければ、改めて結婚してくれませんか」
太子様はゆっくりと目を閉じて言った。
「貴方が今なお私の妻であること、世間に知らしめたい」
少し意外だった。こんな甘言で信じてみてもいいかな、という気になってくる辺り、私も甘い。
「なるほど、それは面白い。早速明日、式を挙げましょう」
「それは早すぎです……」
続いて私も目を閉じた。近い未来の夢でも見ようと、柄にもなくニヤニヤ笑ってしまった。
なんで屠自古はこんなくずで駄目な男を好きなんだろうって思っちゃう。
可愛い。
良いですね
貴方の作品、面白いので応援してます!