魂魄妖夢は日頃酒類を口にしない。護るべき主人である西行寺幽々子に危機が訪れたとき、酩酊を理由に不覚を取ることがあってはならないからだ。
しかしこの日はそうはいかなかった。いつものごとく神社での宴会中に幾度となく差し出される盃を断っていたものの、ついにその様子に業を煮やした伊吹萃香と星熊勇儀によって羽交い締めにされた挙句無理矢理口に一升瓶を突っ込まれてはなす術なかった。
必死の抵抗むなしく妖夢の体内には大量のアルコールが流れ込んでいく。
一度飲んでしまえばもう決壊した堤防と同じ。ここぞとばかりにその後も代わる代わる飲まされ、いつしか妖夢の意識は曖昧になった。
日頃酔わない者が酔うと、得てしてろくな結果にならないものである。
そしてそれに輪をかける事実。
魂魄妖夢は酔うと絡む。
日頃酔わない者が酔って更に絡み癖がある場合、 得てして絡んではいけない相手に最悪な絡み方をしてしまう。
ふと目を覚ますと何かを虚ろな視線の先に捉え、妖夢はふらふらと立ち上がった。千鳥足で蛇行しながら向かった先は、最近何かと仲の良い八雲紫と比那名居天子が会話に花を咲かせている人目につきにくい境内の脇。
すっかり目の据わった妖夢の接近に二人が気付き、会話が途切れた。
紫は扇子で隠した口元に笑みを浮かべて妖夢を見やり、水を差された天子は明らかに不快な顔をする。
そんな二人の様子などお構いなしに妖夢は天子の正面にどっかと胡座をかいて座り込み、上目遣いで睨みつけた。
「ちょっとねぇ、前々から貴方に言いたかったことがあるんですよ」
呂律が回らないと思いきや意外としっかりした口調で妖夢はそう言った。
対する天子は特にリアクションを取るわけでもなく、冷ややかな視線を妖夢に向けながら手に持った盃を煽った。
「聞いてます? まあいいや、この機会にはっきり言わせてもらいますよ。ずっと思ってましたが、貴方の剣法、あれは一体何なのですか。技も何もあったもんじゃなくてただ力任せに振り回すだけ。あれを見てると心の底からイライラしてしまいますよ」
幻想郷には剣の使い手が少ないこともあり、妖夢は同じ剣を使う者として天子を意識していた。
だがそれだけに妖夢にとって、天子の剣は我慢ならないものだった。
その実力は妖夢も認めざるを得ないどころか実は全く歯が立たない自覚はあるのだが、それは別に剣の腕が優れているわけではなく、天人特有の頑丈さや膂力であるとかその能力が強さの由来であると思っていた。
肝心の剣といえば先程言ったように素人に毛の生えたようなもの。自分より技量の劣る相手に負けることが悔しかった。
そしてその反面、然るべき師のもとで剣術を学んでほしいとも思っていた。
そんな気持ちが、酒の力を借りて勢いよく溢れてしまう。
「ふーん」
妖夢にひとしきりまくし立てられ、天子は明らかに不快感のこもった声でそれだけを口にした。
しかし既に出来上がっている妖夢に目の前のな相手がどんな状態か理解できる余裕などなく。
「ふーんって…… 私の気持ちがわかってるんですか? 天人様だからって見下して、いい気になってるんじゃないですかねぇ。そんなんじゃせっかくのすごい……ええとナントカの剣も宝の持ち腐れですよ。いいですか? 日頃から天子さんはもっと……むぐっ!?」
「はーい、そこまでよ」
後ろから紫の手が伸び、妖夢の口を塞いだ。
話を聞いていた天子がその端正な顔の眉間にいくつも皺を寄せていたからだ。
このままだと大惨事を引き起こすかもしれなかった。妖夢だけでなく周囲にも。
「はあ、うるさいやつね。ありがと紫。こいつの保護者は何やってるのかしら」
「幽々子ならほら」
右手で妖夢の口を塞いだまま左手で紫が指さしたのは、離れたところで正座しながら四季映姫の説教を神妙な面持ちで聞いている西行寺幽々子。
それを見た天子は納得したようにうなずいた。
「あーなるほど、あれじや無理だわ。まったくいつでも無粋な閻魔だこと」
「ええ、その通りね」
それで、と天子は妖夢に目をやった。
「貴方、私にどうしてほしいわけ?」
天子の問いに答えさせるため、紫が妖夢の口から手を離す。
放たれた妖夢は今にも天子に飛びかからんばかりの勢いで一気にまくし立てる。
「どうってそんなの決まってますよ。貴方も剣を使うなら、ちゃんとした剣術を学ぶべきです。天子さんははっきり言って性格に難がありますから剣を通じて精神の鍛錬にもなりますし。何なら私が教えてあげてもいいですよ」
その言葉を聞いた途端、天子の表情が明らかに変わった。
先程までの不機嫌さは消え、一転して嬉しそうに。
それを見て紫は思う。逆に恐いと。
「へえ、貴方が私に剣をねぇ。それいいわね、面白そう。紫もそう思うでしょ?」
「そうね、その台詞をそのまま受け取ればの話ですけど」
「あら、やっぱりわかっちゃう?」
「もとから隠す気があったのかしら?」
「まあ違いないわね」
酒に酔って十分に働かない思考では二人の会話を理解できず、ついに妖夢は癇癪を起こしてしまう。
「また私を無視して! いいですね天子さん! 仕方ないので私が稽古をつけてあげますから、しっかり剣術を身に付けてください。わかりましたか? うんと言ってもらえるまで今日は返しませんよ」
「いいわよ」
「へっ?」
「だからいいわよ。貴方にちゃんとした剣術とやらを教わってあげるわ」
てっきり天子がなかなか了承しないだろうと思っていた妖夢は、妙に聞き分けのいい天子に拍子抜けしてきょとんとした。
天子はそれを気にする様子もなく紫に問いかける。
「ところで紫、この子って貴方の親友のツレだけどいいの?」
「いざとなったら考えるわ」
「へえ、まあ好きにしていいってことね」
そう言って天子は立ち上がり、嬉しそうに妖夢の目の前で仁王立ちして見下ろした。
「さ、早速やるわよ」
「ふぇ?」
全く思考の追いついていない妖夢の姿に天子は思わず含み笑いをこぼした。
天界で最初に会ったときのことが脳裏をよぎる。 あのときも妖夢は最初こうして呆けた顔をしていたものだ。
「今から貴方が私に稽古を付けるのよ。私の気が変わらないうちに、ね。じゃ紫、お願い」
「はいはい。わかってるわよ」
そう言って紫は妖夢の鼻っ面で指を一度鳴らした。
それと同時に一瞬で酔いは醒め正気に戻る。
「あれ、私は…」
「どう? すっきりしたかしら」
「相変わらず便利なスキマよねぇ」
「……っ!」
忘れていれば良かったものを、冴えた頭に今までの天子と紫と交わしたやり取りが浮かび上がる。
生来の生真面目さゆえ、忘れたふりをするようなこともできはしない。今更自らの振る舞いを後悔してももう遅いと思いながら、その場を繕うための言葉をどうにか絞り出す。
「天子さん、酒のせいとは言え私はとんでもないことを口にしてしまいました。どうか数々の非礼をお許しください」
謝罪の言葉と共に深々と頭を下げた。
一方天子の表情は変わらず笑顔のままだ。それが妖夢には逆に恐く感じられた。
「いやいや、何も気にしなくていいのよ。それよりせっかく酔いも醒めたことだし、早く稽古付けてちょうだい」
「え、今ここでですか?」
「当たり前じゃない。何のために正気に戻したと思ってるの」
天子に乗せられたことに気付いた妖夢だったが、後ろめたさも手伝ってこれは最早観念する他ないと悟る。
しかしよくよく考えてみれば天子に剣を学んでほしいと思っていたのは紛れもない事実。
ならばせっかくその相手が理由はどうであれやる気になっているのだ。うまくやれさえすれば、これはいい機会でもあるだろう。
そう自分に言い聞かせて妖夢は天子にしっかりと向き合った。
「わかりました。では僭越ながらご指導させていただきたく存じます。まずは」
「実戦形式にしましょうよ」
手始めに型から、と言いかけた妖夢の言葉は天子の無慈悲な言葉に遮られた。
「あのっ……!」
「紫、とりあえず木刀出して」
「はいはい、ちょっと待ってね」
妖夢を無視して、天子に言われるままに紫は隙間から木刀を数本取り出した。
その様子を見て妖夢はもう、この場で自分に何も選択権は無いのだと思い知りながら紫の差し出した木刀一本を受け取る。
一方天子も紫から木刀を受け取りながら。
「ああ、帽子邪魔だわ。ちょっとこれ持ってて」
「それはいいけど天子、こっち来て後ろ向きなさい」
「こう?」
「しばらくじっとしてて」
「ん、ああもう、それくらい自分でやるってば」
「うふふ、照れない照れない」
「ったくもう」
そうやって紫は天子の長く美しい蒼髪を後ろで一つにまとめた。
全く緊張感など感じさせずに和気藹々とさえ思えるその光景を見て、妖夢は少し惨めで歯がゆい気持ちになる。
少なくとも自分はこれからのことに並々ならぬ決意をもって挑もうとしているというのに、 目の前の相手はといえばこの有様だ。せめてもう少し真面目にしてくれていいだろうに。
だがしかし、そんなことに気を取られている場合ではない。
天子との技量の差を見せつけその悔しさをバネに剣術を学ぶきっかけにしてもらう。それが妖夢の描く唯一の丸く納めるシナリオである。
「待たせたわね」
木刀を携えた天子と10メートルほどの距離をとって向き合う。
これから刃を交わすというのに相変わらず天子は普段と特に変わりない様子だ。
「いえ、構いません。ですが、お願いしたいことがあります」
「あら、なあに?」
「天子さんも酔いを醒まして下さい」
「ああ、相変わらず真面目ねぇ。別に影響ないけど、いいわ。紫、お願い」
「了解よ」
「……ありがと。さて、やりますか」
「確認しておきますが、スペルカードや能力の使用はなし。お互い使うのは剣だけということでよいですか?」
「ええ、そうよ。でないと稽古にならないからねぇ」
白々しい、と思いながら妖夢は首を縦に振った。
さていよいよ立会いだ。圧倒的に力で勝る天子をねじ伏せるためにはとにもかくにも初太刀が全て。
自らが天子よりも優位に立つポイントである天狗にも勝る一瞬の速度を活かし全力で打ち込むほか、妖夢が確実に勝てる術はない。
なに、相手は頑丈さでは右に出るもののない天人だ。得物が木刀なら少々のことでは大事に至らないだろう。
そう腹を決め集中力を高める。呼吸を整え両手で木刀をしっかりと握り、半身で天子に相対し腰をぐっと落として身構える。
ずっと聞こえていた宴の喧騒はもう妖夢の耳に届かなくなり、視界に入るのは天子の姿のみ。
刹那、呼吸を止め、大地を蹴る。
動くと同時に技を打つ。放つのは、突き。
速度、間合、殺傷力どれをとっても最高といえる。
標的の体が僅かに動くのが見えたが回避も反撃も間に合うはずがなく、天子の喉笛めがけてまさに必殺の一撃が迫る。
(入るっ!)
その刃はしかし、天子に届くことはなく。
(?!)
獲物を穿った手応えの代わりに妖夢の腕に強烈な痺れが伝わる。
何が起きたかを理解した瞬間、全身から冷や汗が噴き出した。
「残念でした」
透き通るような天子の声は、動揺している妖夢には聞こえなかったかもしれない。
必中必殺のはずの突きを止めたのは、天子の持つ木刀のその切っ先。
妖夢が放った渾身の刺突に対し右腕一本で互いの剣先を合わせる離れ業をやってのけた天子。その表情は先程までと変わらず涼しいままだ。
「まさか今ので終わり?」
妖夢は金縛りにあったように硬直して動けない。
ほんの僅かな間の出来事なのにまるで何時間も経過したように感じられ、突きの型をしたまま動いてもないのにゼイゼイと肩で息をしていた。
「もうちょっとくらい稽古つけてくれないと」
天子は笑顔でそううそぶくと、右腕に軽く力を込めて突き出した。
その勢いで妖夢は後ろに弾かれて尻餅をついてしまう。
「ちなみに」
今まで妖夢が見てきた中で、初めて天子が構えた。
両手で木刀を握り、妖夢に対し半身になって低く腰を落とす。そう、それは先程の妖夢と全く同じ。
「さっきのはこうやるのかしら? 」
そう言うと同時に天子は踏み込みと共に妖夢の目の高さに低空の突きを繰り出した。
それはかろうじて妖夢の眼が捉えられたほどの速さ。
刀身はぴゅんという鋭い風切り音と共に左耳のすぐ横を通り抜け、風圧が髪を揺らした。
(馬鹿な…私の突きを真似た? 一度見ただけで? 完全に? いくら天子さんでもそんなことが可能なのか?)
混乱する妖夢に天子が顔を近付ける。
それでもなお、妖夢の意識は曖昧なままだ。
「呆けてないでいい加減立ちなさい魂魄妖夢。貴方がそんなだと主人が恥をかくのではなくて?」
天子の台詞ではっと我に返る。辺りを見回すといつの間にか周囲にはにわかに始まった宴の余興を見ようと人だかりができていた。
その中に見えた主の顔に、これはまずい、と慌てて立ち上がる。
従者の恥は主人の恥。これ以上衆目にみっともない姿を晒すわけにはいかぬ。
眼前の天人は確かに強大なれど、それを超える為にこそ剣の道は、武は在らん。
「申し訳ありませんでした。もう一度お願いします」
「ふふん、そう来なくっちゃ」
天子に一礼して萎えかけた心に喝をいれ、大きく息を吐き出す。
さて、一撃必殺のつもりで放ったはずの突きは破られた。次に打つ手は何があろうか。
「紫様、もう一本を」
「はいはい、どうぞ」
目の前に開いたスキマから木刀を受け取り両手に持つ。一刀で駄目なら二刀はどうだ。
さっきの攻防で、天子に技量の差を見せつけるという目論見は困難と悟った。ならばせめて全てを出し切ってあわよくば一泡吹かせよう。
疑問はあるがとりあえず置いておけ。後のことなど考えるな。とにかく斬ればどうにかなる。
そう心に決め、再び精神を集中させる。
受けに回るのはあまりに分が悪い。あくまで先手を取って攻め落とす。
感覚を研ぎ澄ませ。極限まで集中しろ。
…
……
………
呼吸が途切れる。
体がそれに反応する。
右足が地面を蹴る。
刹那で標的を間合に納める。
青眼に構える相手に対し、左の袈裟で斬りかかる。
流れる視界に天子が受けるのを見る。
今度こそ入る、妖夢はそう確信する。
左は布石、本命はこの右。
妖夢の連撃はそれを見た者の多くにとっては同時に思えるほどの僅かな間隔。
だがその時間差が二人の攻防にとっては重く深い。
妖夢が右から打ち込んだ薙ぎ払いは、天子の脇腹を強かに打つ、はずだった。
そう、今度もまた。
それをまるでスローモーションのように妖夢は感じた。
天子は左からの袈裟懸けを受けるではなく斬り上げて弾く。
そのままの勢いで、天子の木刀は円軌道を描く。それはまるで満月のように。
「ぐっ!」
妖夢のうめき声が小さく響く。
右からの打ち込みは天子に届く前に叩き落とされ、切っ先が土を舐めた。
「唐竹」
天子の唐突でぶっきらぼうな言葉に対し、反射的に体が動いた。
咄嗟に頭上で交差させた二刀めがけて木刀が振り下ろされる。
鈍い音と共に打ち下ろしが止まり、腕の骨が折れたかと錯覚するかのような衝撃が妖夢の体に突き抜ける。
「右薙」
また同じ口調の天子。
斬撃が妖夢の右から地面と水平軌道で迫る。
まともに受ければ今度こそ骨が砕けかねない。その場で脚を揃え跳躍して躱す。
ブンッという音を残し刀身は両脚の下を通過した。
「右切上」
今度は右薙の勢いで半身に向いた天子が斜めに木刀を振り上げる。
狙いは宙空で前屈みに突き出された妖夢の頭。
妖夢は軌道を見切ってその状態から虚空を蹴って後ろに反り返り、文字通り紙一重で躱す。
そのまま一回転して着地。
天子の連撃もさることながら、妖夢の体術も凄まじい。
二人を遠巻きに取り囲む観衆から、溜息にも似た歓声が上がる。
妖夢の脳裏にめぐる思い。
この剣は、この太刀筋は、口調まで。いや馬鹿な。
だが確かだ。
だからこそ、躱すこともできた。
忘れることなどできようはずもない。
間違おうはずもない。
体の末端まで、魂の深淵までに染み付いたものだから。
着地して膝を落とした状態から、地面を蹴って妖夢は再び宙に飛び出す。
間合が詰まる。
天子は既に木刀を下に降ろし、斬上げにて迎え討つ構え。
妖夢は天子めがけ両刀を叩きつける。
両者の刀の出会い頭。まともなら妖夢の体は弾き飛ばされるだろう。
しかしこのとき妖夢がいたのは、天子の間合のほんの僅か内側。
妖夢は持ち前の速度によって初めて天子を上回る。
十分な剣速を得られなかった天子の木刀は妖夢の両刀を防ぐにとどまった。
互角の威力は鍔迫り合いへと移行する。
その最中、妖夢は天子へと呼びかける。
「天子さん!」
「何かしら?」
「いつ、どこで覚えたのですか? その剣を……魂魄流をっ!!」
天子がこの場で使っているのは紛れもなく自らと同じ剣術である。
それも、妖夢を凌ぐ腕前で。
「じゃあ、私から一本取ったら教えてあげる」
天子はそう言って微かに笑みを浮かべ、一段と両腕に力を込めた。
天子から理由を聞き出すためには勝たねばならぬ。
ならばこれは妖夢にとって絶対に負けられない戦い。
多少は卑怯な手を使おうが、衆人の前で一本取れば天子も納得せざるを得まい。
妖夢の使える得物は刀だけではない。武器は、もう一つ。
(半霊でっ!)
天子の鼻っ面に半霊をぶつけてやれ。剣術とは自らの五体も駆使するもの、これもれっきとした戦法だ。
「ぶごっ!!」
だが次の瞬間に悲鳴をあげたのは妖夢の方だった。
とても硬い、石のようなもので頭部を殴られた痛みが妖夢を襲う。
「貴方、いくら何でも分かりやす過ぎよ。魂魄流だって自分で言ってるんだから、私がその手を知らないわけないでしょうに。ま、自分がやろうとしたことだから恨みっこなしね」
(ああそうか……要石……)
幕切れはあっけなく。徐々に遠くなる天子の言葉を聞きながら、妖夢の意識は薄れていった。
「はっ!!」
目を覚ました妖夢は慌てて上半身を起こす。周りを見回すとよく慣れた光景。白玉楼の自室である。
外からは日の光が射し込む。だいたい今は昼頃か。
(そうか、私は……)
意識がはっきりしてきたところで、天子とのやり取りの一部始終を思い出す。
完膚なきまでにやられた。
剣技で、それもよりにもよって魂魄流の。
天子は他でもない妖忌から剣を教わった、それは確かだろう。
妖忌は天子に魂魄流を教えたのだろうか。
なぜ天子はあれ程の腕前を持ちながら今まで一切それを見せることがなかったのか。
そんなことを考えていると、廊下を歩く足音が近づいてきた。
足音の主は妖夢の部屋までやって来て、そっと障子を開ける。
「……っと、ようやく起きたわね」
「天子さん。どうしてここに?」
妖夢が起きているのを確認すると、天子は部屋に入って枕元に正座した。
「勘違いしないでよ? 別に貴方のことが心配で昨日はここに泊まらせてもらったとかいうわけじゃないんだからね? 」
「ええと……はあ……」
天子の訪問に気まずさを覚え、妖夢は下を向いて溜息をついた。
「…………」
「…………」
溜息と共に黙りこくる二人。沈黙から二度目の鹿威しが遠くで聞こえたとき。
「いつまでも辛気臭い顔してるんじゃないわよっ」
沈黙に耐えきれず、そう言って天子はうなだれる妖夢の額を指でつついた。
「あたっ」
「それにしても隙だらけねぇ」
「すみません……」
天子にからかわれて立ち直るどころか逆に落ち込んでしまう妖夢。
そんな妖夢の様子を見て、呆れるように天子が声をかける。
「で、私になんか聞きたいことがあるんじゃないのかしら?」
はっとして妖夢は天子の顔を見るが、すぐにまたうつむいてしまった。
「しかし……私は結局天子さんから一本も取れませんでしたので……」
「ふーん、じゃあ聞かなくてもいいのね?」
「教えて下さい!」
咄嗟に妖夢は勢いよく布団から飛び出し、天子の正面に向かい合って座り直す。
「そんな慌てなくていいわよ。どうせ結果に関係なく言うつもりだったし。と言ってもそんなに大した話でもないんだけどね」
そう茶化す天子を見る妖夢の表情は真剣そのものだ。どんな話も聞き逃すことの無いようにと、天子の声に集中している。
「まあ、今から十年くらい前のことね。私が天界で池のほとりを散歩していたら、貴方みたいな半霊背負った見慣れないジジイがいたから声かけたのよ」
「なんと声をかけたのですか?」
「あん?いや普通に何者かしら貴方って」
「ああ、『緋色の霧、それは緋想の気』とかじゃなかったのですね」
「当たり前じゃない。貴方にそう言ったのは異変ごっこしてたからよ。もしかして貴方、私が初対面の奴にいつもそんなこと言ってるなんて思ってるわけ?」
「いや、そういうわけではありませんがつい気になって。申し訳ありません」
「全く、次に話の腰折ったりしたらもう言わないからね?」
「肝に命じておきます」
「で、これ見よがしに帯刀なんてしてたからちょっと興味持っちゃって。私が喧嘩吹っ掛けて、成り行きで勝負することになったの」
天子の話に相槌を打ちながら妖夢は話を聞く。
「師匠と勝負、ですか」
「今回と同じ、能力無しの純粋な剣術でね」
「結果はどうなったのですか?」
「負けた。と言うか普通に考えて勝てると思うの?」
ああ、と言って妖夢は愚問だと自覚した。今ならともかく、その時点で素人同然の天子が剣の腕で妖忌に敵うはずがない。
と同時に負けず嫌いな天子がそこまで素直に妖忌のことを高く評価していることが誇らしく感じた。
思わず緩みそうになる顔を引き締めて、逆に天子に問い返す。
「いえ、でも実際の立会いはどんな感じだったのですか?」
「まあ紙一重と言えば紙一重だったのだけど、何とか受けることはできてもこっちの打ち込みは全然当たる気しなくて。しかも明らかに本気じゃないし。あんまり悔しかったからその場で弟子入りしちゃった」
「なるほど」
「で、そこから妖忌に修行つけてもらったわ。その代わりに家の手配とか日用品の買い出しとかしてあげたんだけどね」
「そんなことしてたのですか」
「だって、天人じゃないのに天界のお店なんかに行けるわけないじゃない。まあ剣の修行はそれなりに暇潰しになったし、楽しかったわ」
「楽しかった……ですか」
「ええそうよ。貴方は違うの?」
天子からそう言われて妖夢は口をつぐんでしまった。
妖夢にとって剣とは生まれたときから共に在るものであり、もはや人生の一部と言っていい。ましてやその存在意義は主を守るためのもの。
それ故に、剣を楽しむという発想を抱いたことなど一度たりとも無かった。
少し考えてからまた口を開く。
「正直なところ、剣が楽しいと言うのが私にはよく分かりません。私にとって剣の道とはそういう対象ではない気がします」
「本当に真面目なのね」
天子は笑いながらそう言った。
怪訝な顔で妖夢は返す。
「それって褒められてないですよね」
「貶したつもりもないけどね。剣に対するスタンスと同じく、ただ人それぞれってだけの話。で何だったっけ、そうそう、それで十年くらい修行つけてもらって」
「十年!」
天子の剣が積み上げた歳月の少なさに妖夢は眩暈を覚えた。
自分がその数倍かけて磨き上げてきたものを、天子は僅か十年で越えたというのだ。
それをなし得たのは天人という存在ゆえか、それとも天賦の才ありか。
「そう、だから最近の話よ。でももう剣は止めたわ」
「どういう事情があったのですか?」
「確かに楽しかったけど、途中で気付いたのよ。これは違うって」
「何が違ったと?」
「所詮、武とは弱きものが強きものに抗い乗り越えるための手段。持たざる者が何かを乗り越えるために多くを犠牲にして身に付けるもの。私は違う。天人だもの。強きものであり持てる者、そして乗り越えられようとする側よ。もし剣術を極めても、それで戦うようになればわざわざ自分が弱者だと認めてしまうことになる。だから妖忌以外には誰に対しても魂魄流の剣術を使うことはなかったわ。それよりも剣術だとか魔法だとか、そんなもの真正面から打ち砕いてみせてこそ真の強者だと思わない?」
この天子の言葉は妖夢の心にストンと落ち着いた。もっともそれは天子の考えを理解したというよりは、根本的にいろいろな意味で住む世界から考え方がまるで違うのだという意味で。
なるほどたかが十年程度の修行でここまでの技量を身に付けているのだ、そのまま妖忌の元で修行を続けていれば魂魄流の極意である時を斬ることも修得できたはずだ。
だがそれに頼らずとも十分以上に天子は強い。天人として持っている身体能力に唯一無二の大地を操る能力、神の力たる要石、それと数多の実戦経験。加えて天界の宝具である緋想の剣を駆使するとなれば確かに剣術など無用の長物なのかもしれない。必要でないものだったからこそきっと、剣が楽しかったとも思えたのだろう。
「うーん、そんなこと考えたこともありませんでした。それに天子さんの考えも生き様も私にはわかりませんし、これから先もわかることはないと思います。私にとって強さの追求とは剣の道そのものですから」
「ええ、貴方はそれでいいと思うわ」
そう言って笑う天子を、妖夢は幾分か羨望の思いを込めて見る。
と同時にいつか天子の強さを越えられたら、いや越えてみせよう、とも。
「ま、じゃあ話の続き」
そう言いながら天子は背伸びをした。
居住まいを正して妖夢もきちんと聞く姿勢を取る。
「はい」
「私が剣を教わるのを止めて妖忌がまた旅に出るってなって。あいつ、これでお別れってときになって初めて実は孫がいるなんて言い出してね」
初めて出てきた自分との接点に、妖夢の体に力が入る。
「師匠は私のことを何と?」
妖夢は思わず天子に向かって身を乗り出しかけたが、天子が反射的に出した掌によって制止された。
そのままの状態で天子は話を再開する。
「具体的なことは別に。ただ自分が剣術教えたってのと、霊の管理を手伝いしてるみたいなことだけ」
「そうですか……」
「いつか会って妖忌の話をしてやろうとは思ったわ。で妖忌がいなくなってからしばらくしてどうにもこうにも退屈になっちゃってねえ。暇潰しに異変でも起こそうかなと思ったんだけど、どうせならついでに妖忌の孫も見ておこうと。とりあえず緋色の雲が出てて霊の数に異常があれば私にたどり着くだろうって考えたの」
「ああ、それであんな回りくどいことを」
「来たはいいけど貴方はいまいち事態をわかってなかったわね。貴方の主人と違って」
「面目ありません……」
「まあそれからずっと貴方に妖忌の話する機会を探してたんだけど、ただ言うだけじゃつまらないしなかなか面白そうなシチュエーションがなくてねぇ。やっと昨日そのチャンスが来たってわけ。最初はちょっとムカついたけど、ようやくこれで一区切りついたわ。魂魄流も今日で封印、もう二度と使わない」
自分に稽古をつけてほしいと、何度か喉まで出かかった言葉を最後まで妖夢は飲み込んだ。
天子だって、十年かけて身につけたものを捨てるのはきっと軽く考えてではなかったはずだ。その思いに泥を塗るようなことはするべきではない。そう思った。
「そうですか。せっかくあんな腕をお持ちなのに残念です。でも、いろいろお話していただいてありがとうございました。私としては師匠が無事でいるのがわかって何よりです。それに、何だか天子さんのことも今までより近くに思います」
(ぎゅるるる)
「あっ」
「ぷっ」
妖夢の腹が鳴った。昨日の夜から何も食べてないのだから空いて当たり前である。
天子に笑われて妖夢はお腹を押さえながら恥ずかしさに頬を赤く染める。
天子はそんな妖夢の両手を掴んで引っ張り起こした。
「ま、とりあえず食事の用意でもしなさいな」
「ああ、やっぱり私がしないといけないのですね」
「当たり前よ。私か幽々子が作れとでも言うつもり?」
「う、喜んでさせていただきますとも」
そんなやり取りの後、妖夢が多少の理不尽を感じながら廊下を歩いている途中で前を行く天子がふと足を止めた。
「そうそう、妖夢」
「はい?」
「魂魄流じゃなければ稽古相手になってあげてもいいわよ」
日頃実戦相手に不自由している妖夢にとって、これは望外の申し出だった。
たとえ魂魄流でなくとも実戦で培われた天子の剣には大いに学ぶべきものがある。もちろん断る理由などあるはずもない。
「本当ですか!? ぜひお願いします!」
「ふふ、そうと決まれば今夜はそのお祝いね。萃香も呼んで酒盛りしましょう」
そう言われて昨日の失態の記憶が蘇る。
何があろうともう酒は口にすまい。そう決意した矢先でもある。
「いやいやいや、お酒だけはもう勘弁してくださいっ」
「そんなことこの私が許さないわよ。ほら先に腹ごしらえしときなさい」
「ひええええ!」
涙目になりながら廊下を引きずられていく妖夢だった。
そんな二人の姿を遠くからそっと見つめる人影が一つ、あったとか無かったとか。
おわり
?ここだけちょっと気になりまして…
二人は良い関係になりそうですね
タイトルの最後に「プロローグ」とあっても違和感のない終わり方が少し残念です
もっとも今後の二人が織り成すドタバタを想像できますから、こういうのも好きです
もし妖夢が酒に強かったら、天子はいつ妖夢とこの会話をするつもりだったんだろうかw
でも「天子アゲ!」過ぎのせいで相対的に妖夢が可哀相なことになってるから、妖夢好きの人には反感を買うかも。そこらへんを意識して気をつけてみるといいと思います。
作家さんの進歩を見ていくのは楽しいなあ。頑張ってください。
速攻訂正させていただきました。誤字ゼロってなかなか難しいです。
いつもありがとうございます。次回もご覧いただければ幸いです、
>名前が正体不明である程度の能力様
ありがとうございます。
天子好きならこれ読んどけ!と言われるような作品を書きたいものです。
>6様
この後日談を書くかどうかはわかりませんが、てんみょんで甘々な作品を書こうかと思ってるところです。
マイナーですが好きなカップリングです。
>とーなす様
気ままな天子のことだから忘れちゃったりして…
というのは冗談として、それこそ酒を酌み交わしながらの雰囲気がよさそうです。
>>11様
自分としては妖夢って東方キャラで天子の次に好きでこの作品でもdisる意図はなかったんですが、結局のところバランスを著しく欠いてしまってました。
でも成長してると思って頂けているのは心の底から嬉しく思います。
過去作品を読んでいただいてることに対しても。
正直なところまだまだ面白いストーリーの勘所がよくわかってないので、今年はそれを身につけるべく精進しようと思ってます。