雪が無音で鳴る冬の山脈。
道もなく生きるものすら絶えた白の原野。風雪によって流れ行く雲の向こう側に時折輝く満月が、視界を明滅させる。どちらにせよ、闇と白との空間。
揺れながら残る足跡が、雪嶺に向かって伸びてゆく。但しそれは、時間を追う毎に新雪に埋められて消えてゆく。
傘と箕を深く被った老人が一人、杖とかんじきを頼りに進んでいく。ゆっくりと、着実に。厳冬にも耐えうる強靭な肉体はなおも健在ながら、寄る年波が彼から生気を奪いつつあった。
一歩進むごと、しゃりん。
二歩目を踏み出せば、またしゃりん。
身につけた鈴が鳴る。
睫毛も凍ってしばたたくのも苦痛な彼の視界に、夢か幻か、一軒の家が浮かびあがる。
このような場所に家などとは記憶にない。危険を予知する光が脳髄に閃いたけれど――。
骨の髄まで凍結せんとする冬の冷気によっておおよそ魂まで冷え切った彼は、誘惑に抗しきれず、半ば本能的にその家の戸口を叩いた。
「夜分遅くに申し訳ない。次第に強くなる雪に往生している旅の者です。一晩とは言わぬまでも、軒先にて雪を凌がせていただきたい。どうか、お願いいたします」
すると、戸口のつっかえ棒を外す音がして、軋む引き戸が開かれた。
「それは難儀をなされましたね。なにもないところですが、どうか火で温まっていかれるがよろしいかと」
老人を迎え入れたのは、年若い娘だった。
誰も踏み散らかさぬ秘境の雪のような肌。防寒だろうか、頭を白い布で覆い隠し、まるで尼僧のような扮装だった。里を探しても稀有であろうほどの美貌を伏せて、囲炉裏の席を奨めてくる。
「……申し訳ない」
雪を落として旅装を解いた老人は訝しげに周囲を眺めたものの、それに勝る諦念をもって座敷に上がり、自由に動かぬ両の手を火にかざして温め始める。
少女の顔は敢えて見ずにいる。
確認すべき何かを怖がるかのように。僅かに震える指。
少女は囲炉裏に掛けてあった鍋から白湯をすくい取ると、茶碗を老人に差し出した。
「ありがとう」
「いいえ」
「………………」
「………………」
沈黙。
「……お嬢さんは、ここで一人暮らしですかな。街道から外れて遠いし、なにかと不便だろうに」
「父が狩人をやっていますから、いつも待ちぼうけで。不安ではありますが、小さな生活には不便を感じることもなく。只々、太陽と月とを交互に眺める日々を過ごしています」
「そうですか」
「………………」
「………………」
無言。
白湯を啜る老人も、それを見ているのか見ていないのか杳としてしれない少女も、言葉をうまく継ぐのに慣れていないようだった。
が、今度は炎の向こうから言葉が継ぎ足される。
「……ご老人は、あのような冬の最中にこのような場所まで、どのようなご用件で?」
「………………」
老人は逡巡をしている様子だったが、熱い白湯を飲み込むと、ポツリと呟いた。
「末期の旅、というやつですかな」
「………………それは、また……」
「里に家族はなく、知人はなく、もはや銭を得る理由もなく。そのまま黙して朽ちるが定めとも思いつつ、唯一残った未練を頼りに旅に出たものの、こうしてまたお嬢さんの情けを受けてしまっている。ほんとうに、人の業とは深い汚泥のようなものですな」
少女は答えない。
代わりに、囲炉裏の中で枯れ枝がパチリと音を立て、小さく火の粉が上がった。
嗄れた声が、喉から言葉を絞る。
「……未練ついでに、老人の譫言を聞いて下さらんか。五十年、誰にも語らなかった話じゃ。罪からは逃れられぬとしても、冥途に持っていくには少し重い。話し終わる頃には、たぶん雪も弱まっているだろうから……どうか、どうか」
少女は答えず、ただ小さく頷いた、ように見えた。
気のせいかもしれない。
老人は瞑目し、大きく息を吐き、口の寂しさに煙草を探る素振をしてそれも諦め。
自分が歩んできた道を思い出すようにして、
ゆっくり、ゆっくりと語り始めた。
※
その頃の幻想郷は、人口増に比例するようにして妖怪が猛威を振るっていた。幾度と無く邑に襲来し、四ツ辻で、家の影で、樹の下で、人々を攫っていく。
特に、夜が長く人々の往来が耐えがちになる冬は抗する手段もなく、小さな集落がなくなるほどの被害が出ることもあった。
長老たちは古来の因習に則り、より刺激せずより動かず、ただ冬が去るのを待つように諭した。だが、何時の時代もそうであるように、若者たちには恐怖を越える若さと恐懼を知らぬ傲慢さがあった。彼らのうち、もっとも勇気があって豪胆で、もっとも憤怒を燃やした者たちが、冬の妖怪を討伐すべく銃や剣を手に立ち上がった。
語り手の老人もそのうちの一人だった。彼は鍛冶屋で、武器の鍛造を生業としていた。他の者のように言葉で威を飾ることこそしなかったが、若く逞しく、内心は同じく敗北を想像出来ないでいた。
彼の身には、余業で作った小さな鈴があり。
歩くたび、
風が吹くたび、
――しゃりん、しゃりんと荒野に響いた。
彼らは数十人で山に入り、
やがて道を失い、
妖怪に襲われた。
年端もいかぬ少女にしか見えない妖怪は、恍惚に溺れるように笑いながら若者たちを弄んだ。彼女が華のように撒き散らす吹雪に追い立てられ、仲間たちは次々と命を奪われ、また崖に追い落とされ。一人、また一人と数を減らしていった。
それでも命からがら妖怪から逃げ延び、小さな洞で夜をやり過ごした幾人かがおり。
彼もまた闇に怯え、悔恨に歯噛みしながらも、自分たちの無力さを心に深く刻印するより他なかった。
やがて雪が止み朝日が登ると、彼らは自分たちの幸運を後ろめたく喜んだ。
もはや黙して下山する力しか残っていなかった。
ところが、さらなる試練が襲う。
柔らく深い新雪が、如月の太陽に照らされて緩くなり続け、その閾値を超えて滑り始めると――
妖怪の脅威以上に絶望の淵へと叩きこむ、大規模な雪の波となって崩落した。
慌てて洞穴に舞い戻ったものの、一人が呑まれて白の死に連れていかれた。
なお残る者たちは、洞穴の中にまで押し寄せる雪崩から逃げようと必死で地下に潜っていった。もはや松明もなく、頭を壁や氷に何度もぶつけ、血塗れになりながら手探りで、ただ生き延びるためだけに。閻魔の裁きを待たずしても地獄に辿りつけるのだと、彼らは学ばざるを得なかった。
不意に、広大な地底の空間が開けた。
死の残響が遠ざかっていく。
彼らは遂に生き延びたのだが、歓声を挙げる者はもはや誰も居なかった。
そこは不思議な場所だった。地の底であるのに上方から槍のような光がいくつも差し込み、凍った洞穴のそこかしこを照らしている。静止した時の如く張りつめた冷気が、耳を刺して痛い。
ゆっくりと歩き始めた彼らはやがて、驚愕と共に立ち止まった。
思わず唾を飲み込む。
壁面を覆う巨大な氷の結晶。
どこまでも透明な結界の中に、少女が眠っていた。
天井から届く光がその姿を照らし出す。遥か昔の貴族のように色をあわせて重ねられた萌黄色の小袿と紅の内袴で、まるで虚空を舞うかのように軽く両手を広げている。その後ろには身長をも超える長さの髪が――真白に艶やかに輝く髪が広がっていた。
永久の眠りを続ける神々しき姫の表情もまた、漂白されている。
二度と汚されることはないだろう。
無粋な闖入者に何事かをされぬ限りは。
男達は腰を抜かした。
ここは高貴なる者の墓所だったのか。或いは、悲運に身を投じた姫が輪廻を待つ冥界か。はたまた、あの憎っくき妖怪の怪生なのか。
いずれにせよ一刻も早く立ち去らねばならない。
恐怖に震える男達は頷きあった。
ただ一人を除いて。
彼は……その姫の幼くも完成された美しさを目の当たりにした瞬間、その虜囚となった。
自分が見知っている女性などとは、まったく別の存在だと、ただ思った。
女神が顕現することがあるならば、こういうことなのだろうと、ぼんやり考えていた。
早くも歩き始めた仲間たちが彼を口々に呼ぶ。
「それは魔性かもしれぬ」
「あの妖怪の本性に違いない」
「いずれにせよ、長たちに知らせて智慧を借りるべきだ」
彼は、ああ、そうなのだろう、と思った。
思いはしたがそうはしなかった。
まさに彼は今、圧倒的な存在を前にして精神の魔境にあった。
何故自分はそんなことをするのだろうと不思議に考えながら、彼は腰に提げた短刀を抜き、仲間達に襲いかかったのだ。
「あいつは魔に魅入られちまった!」
悲鳴のような声を挙がり、それが絶叫に変わっていく。
肉を、骨を絶つ鈍い音が響く。
そこに、彼が提げる鈴の音が混じる。
折角拾った命だというのに、人間たちは神聖な場所で熱い血を流しあった。だがそれも、乱闘が終わると数刻もせずに黒く滲みが残るのみとなってしまった。
熱狂が凍りついていくのを感じながら、彼は自分以外に動くものがなくなったのを確認し、屍体になった仲間達を雪の下に埋めて、再び姫の遺体の前に戻った。
この人は、いったい、ここに何百年眠っているのだろう。
人によって埋葬されることもなく、たった一人で。
寂しくはなかろうか。
辛くはなかろうか。
でも、他人に知らせてはいけないのだ。絶対に。
独り占めしようなどと考えるわけではない。この方は自分などの手が届く存在ではない。されど、もはや神域を侵し仲間を屠り罪人となった自分よりこの先、何人たりとここに立ち入ってはならないと考えた。永劫に。世界が果てるまで。
呆然と座り込んだ若者の髪を、天井の風穴から入り込んだ優しい風が、低く笛を鳴らすようにして揺らす。それに呼応して、身につけた鈴がただ、しゃりん、と鳴った。
――そして。
数日後、彼は下山した。
一人だけ無事に戻ってきたことを、村人たちは口々に非難した。彼らは若者たちの無謀さが命を代償とするだろうと予期していたものの、感情の捌け口として唯一の生存者にきつく当たるしかなかった。彼がなにも語らなかったことが、逆に感情を逆撫でした。
「あいつは妖怪に利したから助かったんだ」
「皆を見殺しにしたんだ」
「人非人め!」
やがて彼は町中に暮らすことができなくなり、村外れに小さな庵を編んでそこに住まった。鍛冶の腕は確かだったので彼を頼む者も僅かにいたものの、もはや彼が刀剣を打つことは二度となかった。
年を経ても彼は嫁を取ることもなく、日中、町に顔を出すこともなく。
まるで妖怪のようにあった。
毎年冬になると、誰にも尾行させないようにしつつ雪山に赴き、姫の前に傅き、仲間の遺体を弔い、冬の妖怪に襲われることもなく帰ってきて、沈黙と共に暮らした。
それがまた、彼を孤立させ、奇異の視線を集める理由になった。
たった一瞬の狂気からこちら、生きながら死ぬ日々が、五十年続いた――。
※
老人が語り終えると、待っていたかのように雪が弱くなった。
「……さて、そろそろ出立せねば。喋りすぎて声が出ないなど情けないが、感謝して、いる」
そういう彼が、火の前から立つことができない。
ゆらゆらと揺らめく炎が、生気を失った瞳の中で揺らめく。
掌の上には小さな鈴。
彼が作った最後の鈴。
「この期に及んでこのように、なお暖かさに揺らぐとは、人間とは本当に、本当に業が深い。まるでそう、深く深く著しく歩きにくい、ああ、あの如月の新雪のように――」
※
※
吹雪。
ちぎれ雲の向こうに時折、満月が顔をのぞかせる。
雪道の途上に倒れた古老の旅人が動かなくなって久しい。もはや半ば雪に埋もれていた。
ぼんやり開いた瞳にも雪が掛かって、もう溶けない。
数刻もすれば全てを覆い隠してしまうのだろう。
骨ばった手から零れ落ちた鈴が転がっている。
雪に埋もれてもはや鳴らないそれを、拾い上げる細い指。
彼を挟んで彼を見下ろす四つの瞳、二つの視線。
雪上の一方は、白と青の装束を纏った白い肌の少女。鈴を指に絡めて弄んで。
他方は、燃え上がるような緋色の髪をして、巨大な鎌を肩に担いだ死神だった。
「……そこの妖怪、どういう了見だい? ここは今、三途の川に一番近い雪原さ。あたしは命数の尽きた人間を迎えに来ただけなんだけどもな」
「あら、幻想郷に出没する死神といえば、仕事を怠る怠け者と聞いていたけれど、こんな真冬の最中にこんな場所まで現れるとはね。実は結構勤勉なんじゃないの?」
「まあそれはそれでこっちにも都合があるし、おたくには関係のない話しさ。お言葉通り、仕事をさっさと終わらせて塒に引き上げたいところな訳だけど――」
死神が皮肉そうに笑う。
「どうやら残業手当を映姫様に申請するはめになるのだろうかね?」
「その必要はないわよ」
冬を体現する少女は高らかに宣言する。
「この魂魄は私が冬の彼方に連れて行く。あんたはもっとしっかりした防寒具を着込んできたほうがいいんじゃないの?」
「待て、そうはいかない!」
死神が一歩を踏み出すより早く、氷柱混じりの寒気が吹きつけて、その視界を遮っていく。
腕に紅い線を刻んでゆく鋭い氷の切っ先に、死神は目を細める。
しゃりん!
「いかに強力な人妖とて、閻魔の裁きという世界の理には逆らえないぞ!」
「あははははははははは! ならばこの冬の向こうで待っているからな! しけた六文銭を磨いて出直してくるがいいさ! あはははははは! あはははははははは!」
しゃりん! しゃりん! しゃりん!
妖怪の甲高い笑い声と、どこまでも響く鈴の音が輪唱を奏でている。
やがてそれは、吹き荒ぶ吹雪に紛れ、立ち尽くす死神の視界から遠ざかっていった。
※
※
しゃりん――。
もはや誰も訪れることのない、
光射す闇の聖堂に、
風が吹き込むたび、鈴が鳴る。
氷壁には釘、
無数の釘、
そこに結わえられた鎮魂の鈴が、
彼が捧げた無数の鈴が、氷の調べを歌う。
いつまでも消えぬ残響に囲まれて、氷漬けの姫君が永久に眠る。
その口元にうっすらと笑みを浮かべて。
人を惑わす美貌を持ち、目的のためなら世界の理を踏みにじることも厭わない。
いろんな意味で背筋がすっと寒くなる話でした。