信仰は、人の為にあるもの。
「ねえ神奈子様、また信仰を得たいと思ったことは、ありませんか?」
とある休日の昼下がり、早苗は言った。神社の境内には誰もいない。蝉の声さえ遠い、静謐な空気の流れる夏の午後。参拝に訪れる人間はめっきり、というか殆どいない。
「早苗がそんなことを言い出すなんて、珍しい」
「えへへ」
早苗が買ってきた棒アイスを食べながら、時間がだらだらと過ぎていく。そんな日々の繰り返しを、不便に思ったことはない。
「現状を悩んではいないか、ということです。今では神への信仰も薄く、その力も……って、そんなことは言うまでもないことかもしれませんが」
全くだ。食べ終わったらしい早苗がぴょん、と立ち上がる。休日の早苗はTシャツにジーンズのラフな格好で動きやすそうだ。ゴミ箱に捨てに行って、いそいそと戻ってくる。
「それで、神奈子様。また信仰を得たいとは思いませんか?」
「信仰だって色々ある。名前でする信仰、力でする信仰」
私は端的に答えた。現実は法信仰と科学信仰で成り立っている。そこに突き立てるには、今の私は、この時代の私では、力も名前も、足りない。
仕方がない、と思う。科学信仰が流行するのは、それが人々にとっての恩恵となるからだ。それも、与えられるばかりではなく、仕組みが理解でき、誰にでも与える側になれる。人々が手にすることのできる神の奇跡。そして法信仰に至っては、人が死ぬことなく、準拠していれば、法を敷く側に不正があっても、ある程度正常に成立する。法を信仰しない者は奪われるばかりだが、信仰する者には奪う権利が生まれる。一種不平等だが、信仰とは元々そんなものだ。信じる者には与え、信じない者からは奪う。信仰する対象が変われど、その原理は変わらない。
そして何より、神の力がその二つの前で通らないのは、その二つは神の力を無効化してしまう。現代では、『分からないモノ』は須く不審なのだ。長い時間を経て得た私の神としての力も、より信仰の強い力には敵わない。時折現代の信仰さえ破り、災いを成す荒魂もいると聞くけれど……。
「早苗の問いは今更のこと。何度も考えたし、大抵の神様も同じように悩んでいる。だが、実際に信仰が増えた話は聞かない。それが理由で、結論。何にしても不可能な事象の類。したいしたくないの問題じゃない」
私はより直裁に答えた。早苗は曖昧に笑っている。
「私も、そう思ってました」
どこか、早苗の表情は泣き出しそうにも見える。早苗から友人や家族の話題が出たことはないな、と思う。
「ままならないこと、沢山ありますよね。こうしたいああしたい、って思っても、どうしようもないこと」
ざあ、と風が吹く。さっきまで風が吹く気配さえない、穏やかな空気だったのに。
「どうにかできる、と言ったらどうします?」
早苗は時々、そんな風になる。激していないのに力に満ち、特別なことを話している訳ではないのに心に言葉を届けてくる。信仰を得る顔。神の姿だ。
「最早信仰は、人間が、人間に対して行うもの。我々が貸しているのは名前でしかない。それは、そうですよね。現代に伝わる信仰は人間のための信仰ですから。神代から永い時が経った現代は、神が力を振るう世ではありません。我々が本来の意味で信仰を受けることは不可能。現代においては無価値なことですらあります」
風を受けてたなびく早苗の髪が、逆光にきらめく。
「旅立ちましょう、神奈子様。新しいフロンティア。新しい信仰の場所へ。我々の入る隙間のない世界とは別のところ」
強い目をして、早苗は私に笑いかける。対照的に、私は笑うことが出来なかった。
「我々が、我々らしく在ることの出来る場所! 行きましょう、幻想郷へ!」
人が神を信じなくなって長い時が経つ。信仰が国を作るという感覚の薄いこの国では、元々宗教が狂信的に信仰されることは殆どなかった。とは言え、それは我々神の側には関係のないことだ。例え国の基盤作りの為に「神」「宗教」が利用されようと、信じられればそれは即ち力。人に信じられること、それが施政者の嘘でも、長い時間が立てば、やがて施政者自身が信じざるを得なくなる。それが名声というものであり、信仰というものだ。
だが、信仰が利用されることすら失われた。本当に今、我々はただ存在しているだけだ。神であったという矜持と共に。
人の世より遙か以前の神代。あの頃は良かった、と思う。力はもっとシンプルなものだった。神代においては力が絶対的なものだった。神が国を統べているのだから、国そのものが信仰と言っても良かった。国の外に出れば、そこは別の神の信仰の領域。実にシンプルだ。信仰は国を広げて増やすもの、ああ、実にシンプルだ。それが良いことかは分からない。結局は戦争、血と死体と未亡人と孤児の上に築くものだから、それが無いだけでも今は良い時代なのだろう。信じる者には庇護を、信じない者には死を。分かりやすい時代だった。祟りなんて回りくどいものもなかった。
でも、あの頃は実に楽しかった。何より自分で物事は自由にできたし、自分の力が行き届いていると実感が出来た。今はあの頃より信仰が広がってても、自分の力で広げた感じはしない。それに、人の世に出ることなんてタブー視どころかナンセンスだし、自分で出来ないってのはもどかしい。とは言っても祭とかで荒ぶってみるのは楽しかったし、参拝に来る人間を愛でるのは母性愛的な優しさが自分の中に溢れるのを感じた。今だって悪くはない。ああ、全く悪くはないさ。
時代、だ。何と言ってもその一言に尽きる。神の世は終わり、人の世が来た。人の世でまだ名前が生きていて、存在していられるだけでも儲けもの。もっとも、諏訪子の奴もそうしてたみたいに、そんな風になるように国作りを(私と、やり方は全く違うけど)してきた訳だから、信仰が続くのは当然のことだった。
何、退屈も悪いものじゃない。私はそんな風に、永い時を生きた。
そして、早苗と出会った。
何百年に一度くらいの割合で、私や諏訪子を見ることのできる人間がいる。東風谷早苗もそんな人間の一人だったが、早苗の場合はまた具合が違っていた。
風を操ることの出来る現人神。
奇跡を起こす程度の人間。昔はそれなりにいたけど、今はさっぱりだ。その力がその時代にとって有益なものなら持て囃され、そうでないなら忌避される。何より今は理解と分析と量産が伴わないと有益とは見なされないから、余計にその傾向は強い。一代限りで終わるものが、後の世に続かない時代。世知辛いものだ、と思うけれど、今はただの人間が名声を得る時代だから、仕方ないのかもしれない。
昔は力を示す為には、人を従えて、言葉を届けなければならなかった。直接、時に間接的に。人を統べ、守っているという事実を元に、一人一人の心まで従えていなければならなかった。今は違う、一人一人の力が上がったから施政者が統べる必要はないし、相対的に人々の役に立つ人間というものの質が変わってくる。神=王だった時代が変わり、信仰が変わってくるのは当然のことだ。王がただの人間になって、今は王に変わる支配者すらいなくなった。今はただの人間の存在が保護される時代で、一人の人間の力が強い。
だから、当然、その少女は信仰なんて受けていなかった。対外的にはただの少女、私や諏訪子の前でだけは現人神と認識される。そのことについて、早苗がどんな風に感じてるのかを聞いたことはないし、早苗だって自分から話したそうでもなかった。早苗は頻繁に神社に顔を出して私とだらだら話してたし、私や諏訪子の方も、話し相手がいるのはありがたかった。何、神様なんて所詮人と関わっていたい寂しがりやさ。
詳細が分からなくとも、早苗が悩みを抱えてるのは間違いない。現代の迷い神。信仰を失いゆく途上の古い神。我々は、互いにはみだし者同士で、互いに互いを求め合っていた。
それが、そんな世迷い言を言い出すなんてねぇ。
いや、むしろ早苗だからこそ、かもしれない。
「やだね」
早苗は唐突に神威を失った。早苗の悩みは真実のもので、それは私も同じ。なのに、考えて出した答えを、あからさまに、それも粗雑に扱われるとは思っていなかったのだろう。早苗は真摯なイエスを……あるいは真摯な問いを、反駁を、前向きになれる、私の意志を望んでいたのであって、拗ねた子供のような答えなんて待ってなかったのだ。
「……何故。神奈子様とて、現状には……それも数百年も前から、憂いていたのでしょう」
「それでも嫌だね、そんな馬鹿なことがあるかい」
「……ッ! どうして分かってくれないんですか! あなたの為だけとは言わない。諏訪子様の為でもあり……何よりも、私の為でもある! それは言い訳しません。でも……でも! そんな、私の考えの真意も聞かず、どうしてそんな悪し様に切って捨てるのです! それが、それが神ですか! 信仰を司り人に寄り添う者ですか!」
早苗は喚き立てた。あぁ、早苗は正しい。自らの神の部分に、人として、立ち向かう正しい現人神の姿だ。私が神であった頃、そんな風に真摯に自分に向き合えただろうか。いや――早苗は、自分に向き合わざるを得ないのか。私の頃のように……向き合うべき人々がいないから。
……いや、向き合うべき人に、向き合っていないから。
「逃げるんだろ。巻き込むなよ、私を」
ぐ、と早苗が言葉に詰まった。
「要は逃避だろう? 早苗の言ってることは。自分が神だってことを誰も分かってくれない、誰も信じてくれない。分かってくれるのは私と諏訪子だけ、だから一緒に逃げようって言うんだろう? 早苗のことなんて何も知らないけど、そう外れてもないだろ。それで、私に、もう少なくなったけど、私を信仰してくれる人々を見捨てろと」
「それは!」
「舐めるなよ、小娘」
早苗が言いかけた何かを力任せに圧し潰す。
「逃げるんじゃないって言うんだろう。この世界でも信仰は残る、新しい信仰を求めるって。それが何だ? え、早苗、言ってみろ。それが、何だ? 私に何か益するものなのか?」
「前のように、新たな力を――」
「力が欲しくて神になる奴がいるか。お前は、力の為に神になるのか」
「信仰が信仰として在る世界を、また知りたくはないのですか!」
「一人で行け。私は要らん」
「どうして……!」
早苗がぐ、と歯を噛み締める。話は完全に平行線、どちらも譲ろうとはしない。早苗は決めたら一直線なところがある。一度言い出したことは決して曲げない。でも、私にだって言い分はある。私は見捨てない。人を。早苗は見捨てるべきものがない。それが、私達の間にある隔たりだ。
「どうして分かってくれないんですか、分からずや!」
ついに早苗が御幣を振り翳した。吹き始めた風は暴風になって私に激しくぶつかった。それくらいで揺らぐ私じゃない。柱を取り出して相対する。
「分かりたくも無い! 行きたきゃ一人で行け、寂しがりやの糞餓鬼!」
柱を振り回し、風を吹かせて飛び回る早苗と、子供みたいに大喧嘩。
最終的に諏訪子が『神遊びだ!』ってはしゃぎながら乱入しててんやわんや。早苗は泣きながら逃げてったけど、私は久々に大暴れできて非常に楽しかった。
「昨日、学校で調理実習をしたんですよ。このご時世、何でもボタン一つでできる時代に」
神社の中、こないだの喧嘩が嘘みたいに私達は話していた。私達は互いに頑固で意地っ張りだと思う。似た者同士なのだ。だから、互いに喧嘩のことなど大して気にしてない所も、似ていると思う。
「何にでも儀式、準備は必要なものさ。それで、どうだった?」
「私の班は……お味噌汁を作りました。まぁ、うまくできましたよ。でも、お味噌汁にあんな手間をかけるなんて、何だか不思議でした。そういうのはとってもお高い、天然の食材を使った高級なお店でするものだって、思ってましたから」
今の時代は、何でも効率化の時代だ。何でもフリーズドライ、解凍は機械に入れてボタン一つ。素材も全部、そのシステムに最適な合成素材を使っている。天然素材なんてものは、一部の好事家だけの贅沢品なのだ。合成素材は手軽で安価、何より味が上等だ。天然モノも上等な味かもしれないが、味が同じなら手間をかける必要なんてどこにもない。
「昔はどこでもあったんだよ。一家に一つ、一日に三回」
「信じられません。神奈子様もそうだったんですか?」
お前な、と私は呆れて言う。
「私を誰だと思ってる。私は神様の妻をやってたんだぞ。当然、神様の食卓には神様の食事が浮かぶ。当然のことだろう」
「やっぱり、神様は特別なもの食べてたんですか? 竜神の刺身とか」
「どこまで罰当たりなんだ。せいぜい竜宮の使い程度だよ。特別な時以外は普通のものを食べてる。全部天然なことを除けば、お前と何も変わらない。早苗だって神だけど、普通のものを食べてるじゃないか」
「うーん。将来もっと特別なものを食べます」
「どこまで行っても変わらない。特別なものを食べるから神なんじゃない。人は、信仰を受けるお前を見るから神と見るのさ。声ばかり大きい者や、とんでもないペテン師が信仰を受ける時代だ。逆に、早苗みたいな本物が不遇な扱いを受ける。人が何を信じるかを、自分で見極めようとしない、……ほんの少し哀しい時代だな、今は」
「そうですね。…………」
早苗がちらりと私を見る。なんだまた例の話かと身構えたが、早苗はふいと目をそらした。
「じゃ、今日はこのくらいで帰ります。じゃ、またあした」
またな、と私も手を振った。早苗の姿は夕闇の中遠ざかって消えていった。
晴れた夏の日、珍しく神社に参拝に来たのは、可愛らしい帽子を被った二人組だった。白と黒って風貌の、アンバランスな二人組。
「ほら、ここが本殿みたいよ」
「んー」
「んーじゃないわよ。メリーでしょ? 守矢の神社に行ってみたいって言ったの。せっかく調べ物までして連れてきてあげたのにさ。そんな反応、傷ついちゃうな」
「あらら、それは大変。あとで舐めて治してあげる」
「そ、そんな……昼間っから、大胆すぎるよ、メリー」
親しげに言葉を交わして、赤くなったり肩を叩いたり、こっちにも睦まじさが伝わってくる。親友だろうか、それともその一歩先かな? 人が来ることも少なくなった時代じゃ、人が来るたびに勘繰るのは悪いところだ。これじゃまるで近所の噂に目を光らせる年寄りみたいだな。
「うーん、立派な本殿ねぇ。とは言っても朽ちかけてるけどね。オリジナルっていう価値観は、私達が生まれる前に消えちゃったものね、メリー?」
「ええ。観光っていう信仰さえ、今じゃあらゆるところで複製されてるもの。家にいても、大学にいても、それこそ休憩時間に神社参りが出来ちゃう時代だものね。今更こんなところに来る人なんて、昔の神社を知ってるお年寄りか、私達くらい」
なむなむ、とメリーと呼ばれている白い方が両手を合わせて頭を下げる。うむうむ、と満足げに頷いて、目の前の少女達に幸あらんことをと願う。
「それにしても、メリー、どうしたの? いきなり、『守矢の神社に行きたいわ』なんて。また、いつもの結界が見えたりでもしたの?」
「んー」
「んーって。また生返事。いきなり言い出して、急場で調べた私の身にもなってよ」
「かたかたの前で呟くだけでしょ?」
「かたかたって。PCって言ってよ。まぁ、そうだけどさ」
じゃーん、と言ってメリーが鞄から硬貨を取り出す。鈍色に輝く五円玉。
「わっ、わっ、何それ!硬貨じゃん、どしたのそれ。オークションで売ったらすごい額になるやつでしょ?」
「今は何でもカードだもんね。欲しかったら、そこにいくらか落ちてるわよ。蓮子だって、『お賽銭』のことくらい知ってるでしょ。昔は神様に、お金を捧げて幸せを願ったの」
「なんて非科学的な。信じられない、そんなことをするくらいならそのお金で自分の為になるものを買えばいいのに」
私もそう思う。自分の為に使えばいいのに、と思うけど、自分のお金を自分の為だけに使うと、後ろめたくなって自分を傷付けちゃうのが人間だ。ご祝儀、香典、寄付、人間はお金を渡し合うのが好きだ。私が受け取ることで幸せになったらそれはそれで良いんじゃないかな。神社の人がお金を使ってくれたら、また信仰は増える。この世は全てギブアンドテイク。
「ま、そんな非効率さが好まれた時代もあったのよ」
資本主義の申し子のような黒い方……蓮子とは違って、メリーの方は少し柔軟らしい。メリーが五円玉を拾って、賽銭箱に放り込んだ。こと、と寂しい音がした。昔はもっとちゃりちゃりじゃらじゃら鳴ってたのが懐かしい。メリーは両手を合わせたあと、私に真っ直ぐに視線を向けた……まるで、見えてるかのように。それから、メリーは、私に向かって微笑んだ。
「私が、見えてるのか? お嬢さん」
私の言葉に応えるかのように、笑みを益々強くする。ふぅん、と思った。早苗といい、この時代は変わった人間が沢山いるようだ。
「今日は、挨拶だけですので」
畏まった様子で、連れの子には聞こえないよう、小さな声で呟く。
「改めて顔を出させて頂きます。……風祝の娘にも、よろしくお伝え下さい」
ふん、と思う。早苗が幻想郷なんて価値観を、自分から見出すはずもなし。あの子に吹き込んだのはこいつか。
「ええ、また来なさい。早苗だけじゃ話にならないわ。また、腹を割って話しましょう」
メリーはふっと笑うと、蓮子の手を取って歩き出す。
「さ、用事は済んだから。行きましょう、蓮子」
「今の何? ……ねえメリー、もしかしてあなた、また何か見えたのじゃないの?」
「蓮子、旅館はもう取ってあるの? 私、蓮子と一緒に泊まるのって初めてだから、何か楽しみだわ」
「うん、私も……って、話を逸らさないでよ。ねえ、結界が見えたの?」
「ねえ、そのお部屋に布団は一つ、二つ?」
「そ、そんなの決めてないわよ。わ、私はメリーと一緒に泊まるからって、そんなことまで考えてまではないわよ。今回は、メリーともっと仲が深まればいいなって、それくらいしか思ってないんだから……って何を言わせるのよ! だから、さっき何をしてたのって……」
「あら、こんにちわ」
「って、聞けよう! うぅ……私、メリーのことが分からないよ」
メリーが声を掛けた相手は、石段を登ってきた早苗だった。メリーに向かって頭を下げて、何事かお礼を言っている。メリーがいいのよと言わんばかりに片手を上げて、蓮子が今の誰よと問いかける。
彼女らが別れ、早苗が強い目をして私を睨み、真っ直ぐに歩いてくる。
「……アイス、食べますか」
「……もらうよ。お供え物を無駄にしちゃ、バチが当たる」
誰が当てるんですか。早苗はそう言って小さく笑った。
アイスを食べながら私達は無言で、互いの肌を隔てる(あるいは繋がっている)空気を読み合うみたいに、早苗がちらちらと私を見、私は悠然と構えて早苗が何かを言ってくるのを待ち受けた。
「……幻想郷のこと、もう一度考えました」
「無駄だ。帰れ」
早苗が顔を上げて、憮然とした顔で私を睨んだが、すいっと顔を背けてやり過ごした。少しは大人になったらしい。こっちが子供みたく振る舞っているのだから、そうならざるを得ないのだから当然のことか。
「逃げだ、と神奈子様はおっしゃいました。それは否定しません。ですが、それはむしろ自然のことではないでしょうか」
「どこがだ。この世に神は八百万といた。その全てが幻想郷に行ったか? 高い信仰を持つ者は生き残り、少し持つ者は私のように生き存え、あとの者は……かつて自分を信仰した人々を眺め、消えていった、そうじゃないのか? それが見守る為か、あるいは縋ったのか、それは分からないが」
「神奈子様も、いずれ……そうなるのですよ? それを、甘受する気なのですか?」
「そうだ」
「……このままで、いいのでしょうか。いいですか、この点においては確実に言えます。このままでは、神奈子様は存在としての意義を失い、消えてしまいます。幻想郷ならばそんなことはない。新たな信仰を得、永く生きることが……」
「くどい。私の存在も消滅も、私が決めることだ。お前みたいな人間に、構われる筋合いは無い」
「……どうして分かってくれないんですか、分からずや!」
前と一緒だった。食べかけのアイスを傍らに投げ飛ばした分、前よりなお悪い。
「あなたの為を思ってるんです! 行くって、一言言ってくれれば、それだけで神奈子様は生き延びられるし、私だって邪かもしれませんが新しい世界に行ける、それだけでいいじゃないですか! どうして、神奈子様は消滅してもいいなんて、そんな寂しいことを言うんですか……!」
泣きながら御幣を振り翳す早苗。泣きながらでも、私には全く関係がない。
「だから、お前にはお前の事情があるんだろう。私はそれに干渉しない。だから、お前はお前で行けばいい。私だって、行きたくなったら行くよ。どうしても行きたくないって訳じゃない」
「でも! だって、いなくなっちゃったら、一緒に行けないじゃないですか。……どうしてですか? どうして……一緒に行けばいいじゃないですか……! どうして……うぅ、神奈子様なんて嫌いです! もう、勝手に消滅でも何でもしちゃえばいいんです!」
泣きながら風を飛ばしてくる。全く、と思いながら立ち上がる。もう神社は古いから危ないって言うのに。
「あー! そりゃいいや、もう早苗の顔も見なくて済むし! そしたら早苗は一人で行かざるを得ないから、それで万々歳だよ!」
「馬鹿! 神奈子様の大馬鹿! 死んじゃえ!」
生きて欲しいって言ってるのに死ねって。これだから情緒不安定は困る。
そんなことを考えながらも、やっぱり暴れるのは楽しい。
そう、これでいい、と思う。こんな風に早苗をあしらい続けたらそれでいい。私か早苗、どちらかが死ぬまで。
次の日の昼、メリーが一人で境内を訪れた。……アイスを持って。
「早苗ちゃんがですね、暑い時期に供え物をするならアイスが良い、って言ってくれたので」
ふむ、と怪しみながらも、私はありがたく受け取った。お供え物は無駄にはしない主義だ。
「それで、こないだの話ですが……」
「待て。……どうせ長くなる。こんな所で話してて早苗が来てもややこしいから、食べ終わるまで待ってくれ。それから、茶店にでも行こう」
「それなら、こんな山奥にまで来させる前に行ってほしかったですわ」
そんなことを言いながらも、メリーは神社の階段に腰掛けて大人しく時間を過ごすようだった。膝に肘を載せて、掌で頬を覆うように、私を見つめてくる。
「随分と……趣のある社ですね」
「そんなあからさまな世辞はいいよ」
「こんなぼろい所に住んでて哀しくありませんか?」
「露骨に言ったら良いってもんじゃないよ。スルーしよう、スルー」
食べ終わった後、ゴミを握ったまま立ち上がると、メリーもスカートのお尻をはたいて立ち上がる。先導して歩き出す。途中ゴミ箱に捨てて、歩きながらメリーを振り返る。
「こないだの子はいいの?」
「蓮子のことですか? ええ、あの子は今頃一人で温泉巡りでもしてますから」
ふぅん、と私は頷いた。それこそ二人で行きたかったんじゃないだろうか? 私は放っておくことにした。
山を下り、寂れた喫茶店に入る。いらっしゃいませー、とカウンターに座っていた店員が立ち上がって仕事に戻っていく。私の姿を気にすることはない。背中にしめ縄を背負っていようとも、違和感がないような結界を常に張っている。存在そのものは何となく理解でき、店員には普通の人間と見えていることだろう。むしろ、今時珍しい観光客で、普通からは少し離れた格好をしているメリーの方が目立っているくらいかもしれない。メリーは喫茶店に入ってから、きょろきょろと興味深げに中を見た。
「随分と俗っぽい神様なんですね」
「気にしなくていい。私は元々こうだから」
それで、と先を促した。まあまあ、とメリーが宥めるように呟く。
「そこまで急がなくたっていいじゃありませんか。互いに時間が惜しい訳でもありませんし。あ、アイスコーヒーで」
ふん、と思う。どうだっていいが、他人と話すのは嫌いじゃない。
「チョコサンデー」
「うわ、いたく少女的なものを好むんですね。神様なのに」
「好きなんだよ、悪いか」
店員が軽く頷いて注文を受けたことを示す。さて、と今度はメリーの方から口を開いた。
「三日ほど前ですか。早苗ちゃんに幻想郷のことを教えたんですね。守矢神社の神奈子様」
「早苗は、私のことも話したのかい」
「ええ。随分慕っている様子でしたよ」
「そりゃ良かった」
「ところがですね、その夜にですね。早苗ちゃんから電話がかかってきて、神奈子様と喧嘩をしたとおっしゃる」
「なんとまぁ。あの子が迷惑をかけて申し訳ない」
全くあの子は。深々頭を下げると、あぁ、いえいえ、とメリーが小さく手を上げる。
「元々、声を掛けたのはこっちですから」
「そもそも、どうやって声を掛けた? お前は……最初は、その幻想郷だか、どこか別のところにいた訳だろう。最初に早苗に声を掛けた時は」
「あ、申し遅れておりました。私、こちら側ではマエリベリー・ハーン。通称メリーを名乗ってますが……向こう側では、八雲紫を、名乗っていますわ」
どうぞご贔屓に、とメリー……いや、八雲紫は、妖しげに少し笑って、軽く頭を下げた。
心なしか、八雲紫を名乗った瞬間から、髪はよりうねりを増し、表情が大人び、ワンピースで分からないけどプロポーションもこう、ぎゅっと良くなった気がする。名前は姿を現す。学生の姿から、心さえも魅了して縛ってしまう、魔性の姿へと変貌する。
「それで。幻想郷の営業担当が、どうして早苗を勧誘したんだ?」
「境界をちょちょっと操ることができるのですわ、わたくし。それで距離の境界も、早苗の心の境界もちょちょっと」
「ありゃ私んだ」
「それは失礼」
返せ、と子供らしく言うと、紫はサンデーに差しっぱなしのスプーンからアイスをすくって一口、ぱくりと食べる。
「あら、これ美味しいわ。ちょっと店員さん、私にも一つ頂戴」
「それで、早苗に幻想郷に来いと、たらし込んだ訳だ」
「そうそう。それであなたが断って、直接話をさせて頂こうと思ったわけ」
「なら簡単だ、帰れ。お呼びじゃない」
「あらあら」
紫が、運んできたチョコサンデーに夢中になり、話すのを止める。
「いいか、私はそんな所に興味はないし、諏訪子はこの土地を気に入ってるし、早苗は人間だ。そんな、いかがわしい、お前のような妖しい奴がいる、不健全で、不衛生で、どことも分からんような世界に、これっぽっちも行く気はないんだ。分かったか」
「素直じゃないこと。何があなたをそんなに、頑なにさせるのかしら」
「お前に話す義理はない、帰れ」
ふむ、と紫は唸った。何がふむだ。帰れ帰れ。
「早苗と話してみて、また来るわ」
「帰れ」
私はそう言ってやってから、半分解けたサンデーにスプーンを差し込み、食べる。紫もそれ以上何かを言う気もないらしく、黙ったまま食べ始めた。
「先に帰る。払っておいて」
小銭をちゃらんと転がして、席を立つ。紫がスプーンをくわえながら何かを言いたそうに、私を見ている。言いたいなら言えば、と言わんばかりに見下ろしていてやっても紫は私を見返すばかりで、何も反応なんて返してきやしない。焦れて背を向ける。
「もう少し、早苗と話をした方が良いわよ、神奈子」
その途端に声が飛んでくる。知ったことか、と鼻息荒くあしらう。
「あと、神奈子、今の世の中じゃこんなの使えないわ。カード持ってるから、払っておいてあげる」
丁重にお願いした。思えば紙幣という価値観が消えてから、(店に入るということは稀だったけれど)支払いは早苗にお世話になりっぱなしだった。
奢ってもらったとは言え、紫の言うことには怒りを納められなかった。何を、と思う。お前が私と早苗の、何を知っているのだ。
退屈で退屈で仕方なかった時期だ。信仰を知っている、最後の世代の人間達が往生を迎える歳になり、我々は急速に力を失いつつあった。
早苗と出会ったのはそんな日々の中だった。
歳は十に届くか届かないか、そんな幼子が、夜中に一人、泣きながら神社を訪れて言った。手を合わせ、頭を下げて。
「かみさま、どうかお母さんとお父さんを、どこかへやってください」
「そんなことを言うものではないよ、お嬢さん」
私はいつものように、聞こえていないと知りながら、その子に呟いた。幼子は、おそらく両親と喧嘩したのだろう。その場だけの信仰と言えど、少しだけ力が蓄えられるのを感じたから、そのお礼のつもりだった。例え一瞬の信仰にも礼で返す。届いていないと知りながら。
でも、その子は顔を上げて私を真っ直ぐに見た。信じられない、という表情をして驚きを素直に示して。
「――かみさま?」
「私が、見えるのか?」
少女はこくりと頷いた。それが東風谷早苗……現人神の、少女との出会いだった。
その日は、朝まで二人、つまらないことを話して過ごした。山を下りて、探しているだろう少女の母親を捜しても良かったけれど、神社に一人置いていくことを考えると、それよりは一緒にいて守ってやる方が良いと思ったのだ。主に少女が話し、私は相槌で聞き手に回った。
人には見えないものが見えるのに、誰も信じてくれない。それから早苗は羽根の生えた女の子、皿の乗った半魚人、鼻の長い修験道の男のことを話した。……妖精や河童、天狗のことだ。近頃は減っているとはいえ、少女にそれが見えているのは明らかだ。それらを感じられる人間は、そこまで珍しくない。特に幼い頃なら、それなりの割合でいる。けれど、神まで見えるとなると話は別だった。その頃はまだ、早苗が現人神であることを知らない。
「だからね、みんな、私のこと変な子だっていうの。先生も。先生がおかあさんにもそんなこと言うから、変なこと言うの止めなさいって言うの。でもね、私見えてるんだもの。見えてて、本当にあるのに、変なことっておかしいでしょ」
そうだね、そうだね、と答えながら、危ういな、と私は思った。幻想に囚われたものがどうなるか、私はずっと見てきた。私は……堕落するのを見ていただけだけど、諏訪子なんかはもっと残酷だ。山で川魚を食べた人間を、鱗の生えた巨大な魚に変えてしまったり、半分蛙の人間に変えてしまったり。最も、それが山のルールだ。守れないものには罰が下る。
『物事には境界がある。私達はこちら、あなた達はそちら。……越えてきた者はこちら側にされたって、文句は言えないはずだよね。……ねぇ、神奈子?』
諏訪子はびちびちと跳ねる、人間だったものを見下ろして、私に顔を向けた。その凄惨な笑みを、私は今も覚えている。
目の前の少女もまた……人ではなくなる。私はぞっとした。恐れを感じて、早苗に向き直った。
「ねぇ、早苗。考えてみてほしい。早苗は変な子じゃないことは、私が知っている。だからね、それがもし誰にも見えないものとして、それはそれでいいことなんだと思う。早苗。早苗が何者であるかは、早苗自身が知っているから、もう少し、皆に歩み寄ってもいいんじゃないかな」
朝になって早苗は帰っていった。探しに来た母親が、泣きながら早苗を抱き寄せて、でも早苗はどこか不満げに冷ややかに母親を見つめていた。その表情を、今も覚えてる。私と下らない話をして笑い合う早苗とは、どこか重ならないその表情。
でも、今も早苗は、どこかにその顔を隠し持っているはずなのだ。それほどまでに冷たい、現世に対する不信。
早苗は現実を憎んでいた……詳細を知らなくとも、どう考えてもそうだ。だから、やがて育ち、危うさも薄れてきた少女早苗は、私を求めたのだ。友達、あるいは母親、あるいは姉のような存在として。私は神だったから。早苗が現世にて見えないはずのものを、唯一共有できる存在だったから。早苗が現世にて得られないものを、私に求めたから。
それこそが、最も危ういのだと、どうして身を離してしまわなかったのだろう。早苗にとって異世界と関わることこそ、人間でなくなる最も早い道なのに。
早苗が私との関わりを断てば、人の世に紛れ、傷付き、身を削られながら、けれど削られた分だけ丸くなって自分を誤魔化しながら、人の世に馴染むことができたはずだ。その、あったはずの未来は私の存在で消えた。神のような、幻想の存在と交わり、人の世を疎む。そのバランスは加速度的に崩れたはずだ。幻想を知っているから、幻想に交わる。幻想に傾く。
早苗を堕落させて、現世から遠ざけているのは、私だったのだ。
でも、私にはそれを止めることができない。
何故なら、私も寂しいからだ。早苗は……いなくなったはずの、そして最後の……私に、本当の信仰をくれる人間だったのだから。私が見守るだけじゃなく、言葉を返し、一緒に笑い合うことのできる人間。私を信じ、共にいてくれる人間。遠い昔、肉の身体を持っていた頃を思い出す。あの頃は今のような大袈裟で無意味な信仰形態なんて無かった。今の私と早苗のような、互いに側にいて助け合うような関係だった。東風谷早苗は私にとっては誰よりも大切な人間であり、娘だった。早苗が家族を信じず、信頼を私に求め、私を母と見る以上、早苗は娘だった。かけがえのない娘だった!
メリー、いや最早私の前では紫だったその少女と三度目に会ったのは、朽ちた神社の中だった。日本酒の一升瓶をまるで振り子で遊ぶ幼子のように揺りながら私の前に示した。
「夜酒と洒落込まないかと思って。お誘いに来たの」
「お前と飲む酒はない。お供えなら置いて帰れ」
「つれないわ、せっかく来たのに。もうゲストも呼んじゃったのに」
紫の影から、おずおずと、けれど瞳には意志を宿した早苗が歩み出てくる。学生服であるところのセーラー服を着て、学校の帰りに誘われたのか? ふぅ、と息をつく。またこの展開か。いくら話したって無駄だっていうのに。
「さ、飲みましょう。今日はこんなに」
紫が空を見、つられて空を仰ぐ。月灯りに照らされて雲の影が映る夜だった。風が吹き、 雲が流れていく。斑に、薄金色に煌めく空。
「良い夜なのだから」
悔しいが、それなりに良い夜だった。知らない奴とでも、杯を交わすことを、許容してしまえるような。
それに、早苗と話がしたい。ただ純粋にそう思った。幻想郷に行くだの行かないだの、そういうのはどうでもいい。ただ話がしたかった。一週間ほどしか離れている時間はなかったのに、ほぼ毎日のように早苗が来るものだから、こんなにも会わない時間があると、……私は焦れている。
月の夜、ざわざわと鳴る風は心地良さよりもどこか恐ろしさが勝る。朽ちた堂の中で、三人で紫の持ってきた一升瓶を囲んだ。私がぱちん、と指を鳴らしてお猪口をそこに落とすと、早苗がそれぞれに注いで配り始める。
「まるで物語の中みたいね。ほら、羅生門。こんな話じゃなかった?」
「全然違うと思うけど」
ぼろいというか、雰囲気は似ているとは言わなかった。哀しくなる。
「私が下手人で、あなたが死体」
「死体かよ。老婆じゃないのかよ」
「『では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ』」
「いやだから、私の服を脱がせようとするんじゃない! だから、老婆じゃないって言ってんだろうが!」
私が掴みかかる紫を蹴り飛ばすとうふふふと気味悪く紫は笑った。全く、何を考えているのかさっぱり分からない。
「むしろ、あなたが下手人で、私が老婆なのかしら」
紫の言うことにはもう構わないことにした。
「あのー、その配役だと私が死体になるんですけど……」
早苗が小声で呟き、用意出来ましたよ、と伝えてくる。透明な液体の注がれた杯を見下ろすと、紫が掲げて乾杯、と言った。
「一体何に乾杯するんだ」
「そうね。この素晴らしい出会いに……とかでいいんじゃない」
「一体どこをどう見たら」
「乱交サークルの結成を祝ってー」
「おい、ちょっと待て。お願いだから待って」
全く、こんな奴に任せておけない。
「早苗、お前が言え。そもそも、こいつが言い出したって、集めたのはお前みたいなものなんだから」
え、あ、はい、と早苗が少し慌てながら杯を持ち上げる。
「じゃ、この世の幻想を憂う会で……なんて、どうですか?」
えへへ、と早苗が笑う。それでいいか、と私も杯を持ち上げると、紫も従った。
「じゃ、かんぱい」
杯を合わせて、液体を口に運ぶ。悔しいけど旨かった。
最初の数杯は牽制するように、我々は会話もなくちびちびと飲み合っていた。けれど酒精の力は人もまろやかにするもので、私の凝り固まっていた気持ちも次第に解れて、早苗と話したいという気持ちの方が大きくなった。
「なあ、早苗。まだ幻想郷とやらのことを考えてるのか」
突然話しかけられた早苗はびくっと身体を震わせ、「それは」と言い淀んでから紫をちらりと見た。
「そいつを連れてきたってことは、そうなんだろ」
早苗がちびりと酒を飲む。
「……うー。メリーさぁん」
「んー……頑張って?」
うー、と早苗は呟き、困った顔をして酒を飲んだ。やっぱり酒の力は大したもので、早苗にも緊張した様子は見られない。私は酒をぐい、と喉に流し込む。
「早苗はさ。気にしなくていいんだよ。私のことなんて。……行きたかったら行けばいいと思う」
早苗の表情が変わって、あ、もう怒った、と思った。早苗が一升瓶を傾けて自分の杯に注ぐ。
「神奈子様、全然私の気持ち分かってくれてません。エゴイスティックです」
「そう思いたいなら、そうで構わんさ」
再び沈黙が社の中に落ちる。早苗の次に一升瓶を受け取ると、紫が空の杯を持って、早く、と言わんばかりに私を見ていた。
「そもそも、早苗はどうして幻想郷なんてものに固執するんだ。お前がこの世界を好きじゃないとは言ってもだな」
「好きじゃない。そうですね、好きじゃないです。正しさなんてものがまるでない。私がこの世界で生きていくならば、私を失うしかない」
「だが、人だ。それが人だ。お前は人を失ってもいいっていうのか?」
「こんなものが人だなんて!」
早苗は激昂した。意に介さず、私は酒を飲む。
「こんなものが人。……人の世というなら! ……消えてしまえばいいんです、こんなもの」
早苗の心には、信じてもらえなかったという強い裏切りの記憶が、未だ渦巻いている。だが、その怒りは期待していることの現れだ。理解者が一人でもいれば、まだ早苗は現世に戻ることができる。
所詮、信じてもらえない、分かってもらえないなんてものは、誰もが通る、思春期の通過儀礼なのだ。
「私はな、早苗。正直に言うよ。私が消え去るとか、お前が幻想郷だかに行ってここからいなくなるだとかいうことよりも、お前が人でなくなってしまうのが怖いんだ」
早苗が押し黙る。紫が抱くようにして持っている一升瓶を、手を伸ばして奪うように取り、自分の杯に注ぎ、一気にあおる。
「……神奈子さんも、私が人だって言うんですか」
「人の世に馴染まぬなら、か」
ふぅ、と酒臭い息を吐く。酔いが回っている。
「……例えば人の姿をした獣がいたとして。……それが誰にも気付かれず、人としてまかり通り。……死ぬ瞬間まで人として扱われたならば、それは最早獣とは言えないのじゃないかな」
「私にもそうなれって言うんですか。自分を偽って」
「これまでだってそうしてきた。そうだろう? そうして生きると言うことが、人であるということだ。自分の姿を見失わないということだ」
「馬鹿なことを言わないで下さい! 私のこれまでに、何の価値もない。こんなものが人生で……死ぬまでこれが続くなら、いっそ死んだ方がましです」
「死んだ方がまし、なんて言っていると、本当にそうなるぞ」
早苗は杯を床に置いた。俯き、床をじっと見、思いを束ねている。
「……神奈子様に迷惑をかけたくなくて、言わなかったことですけど。……私、友達は一人もいません」
知っている。
「家族とだって仲良くしてません。恋人だって勿論いないし、誰と言葉を交わしたって楽しいとは思えません。……でも、私が辛いのはそんなことじゃないんです」
思えば酷薄なことだ、と思う。早苗が悩んでいることに、私は踏み込もうとはしなかった。それをしてしまえば、私はますます早苗の母親代わりになる。神様としての領域を、一歩超えている。
「私が怖いのは、皆が楽しんでいてくれているということです。良い子であるということが怖いんです!
……初めて会った時、私が家と喧嘩してましたよね。その時神奈子様が諭してくれたから、私はもうちょっと交わろうと思って努力してみたんです。……皆がやっているようにして。何を言われてもにこにこ笑って。勿論妖怪の事も、神奈子様のことも誰にも言わず。
……そうしたら、私は誰からも好かれるようになりました。自分で言うのも何ですが」
自儘にしていようとも、そこに益があるならば信仰は生まれる。だが、この世は何が益であるということか。……早苗は、信仰を集める神の姿を宿している。
「誰も困らない。……でも、私は信じられません。だって、私の何も知らないのに、どうして皆が私の言うことを笑って聞けるのか、信じられないんです。
例えば、私にとって一番大切な友達は神奈子様、あなたです。私はそう思ってます。でも、そのことを誰にも話すことができない。おかしくないですか? 神奈子様のことを、誰にも話したことはありません。家族にも、学校の人にも……。私のことを、誰も分かってくれない。でも、私が怖いのは、うまくやれてることなんです! 私はあの人達に愛情を一片たりとも与えていないのに、それを愛情だと思う。嘘の愛情から帰ってくるものが、どうして愛情だと思えるんです! このまま、自分を殺したまま、生きるのが人生なら。嘘に嘘で答えるのが人生なら、私は……」
早苗は幼い。自分が少しだけ、他人とは違うということを認めることができない。早苗だってきっと分かっている。けれど……
早苗が現世から逃げてきた日のことを思い出す。一晩中早苗を捜していただろう母親。再び会えた安心と喜びに、静かに泣く姿。あれこそが本物の愛情ではないか。
「それが、お前が現世を捨てる理由か」
早苗は静かに頷く。
「……お前の家族は、お前を愛しているというのに。お前が愛していないから、捨てるのか?」
早苗は黙り込んだ。ぐっと唇を噛み、私を睨むように見つめている。どこか悔しそうで、哀しそうでもありながら、早苗の目は決めていると言っている。
「……愛しているいないではありません。……私はきっと、あの人達の子供に産まれるべきじゃなかったんです」
「お前がそう思うことは……親にとっては最も辛いことだ」
「私は、あなたにそう思われることよりも、辛いことはありません。両親とのことは…神奈子様には、関わりのないことです」
合間に小さな沈黙を生みながら、長い間話していたが、今度こそ二人の間に長い沈黙が落ちた。早苗は崩した正座のまま杯を睨み、動かない。まるで、そこから一歩も引く気がないと、現世に戻る気はないと言わんばかりに。
まるで私達の意志を示すかのように、沈黙は重くのしかかった。早苗にもこの重みが、私の意地そのもののように感じているだろう。それを前にして我を張ることにも限界がある。私はそれこそ、早苗が死ぬまで口を閉ざし続けても構わない。だが、早苗は未だ幼い少女だ。常に変化を伴わなければ、心が死ぬ。そして変化とは、常に自分から牽引するものではない。
もし私が早苗に、私と一緒にいろ、と言えばそうするだろうし、幻想郷に行くべきだ、と言えば、逡巡の末に受け入れ、そうするだろう。だが、そういう言い方はしない。私は早苗を意図的に変えてしまいたくはない。現世に残ること、幻想郷に行くこと、どちらに行けば幸せという正解はない。早苗が不幸になってもよいのなら、私はどちらかを早苗に与えることができる。だが、選択と同時に不幸を与えたのなら、責任を取るしかない。
昔なら、無責任に力を与えてやったこともあったが、今は……早苗には、そんなことはしたくない。早苗に不義理はしたくない。早苗を失いたくないのだ。
早苗を失わず、不幸にせず、私が責任を取る最も簡単な方法は、早苗を奪ってしまうことだ。早苗を私のものにしてしまうことだ。どこかへと連れ去って、愛していると毎日言って、私が働きに出て暮らせばいい。最早存在価値の薄れたこの身を、早苗の為の存在にしてやるのも悪くない。
だが、私は躊躇う。神であるこの身で、そんなことをしてしまって良いものか? ――許すはずがない。まず私が、私が神として生きた日々が。そして、何よりも、私の前に立った人達が。私を神として見、縋り、信奉した人々が、私の背に乗っている。彼らを失うということは、私が神でなくなるということだ。神であった日々を捨て去るということだ。
けれど、私は彼らと、早苗を天秤にかけていることを認める。
あぁ、早苗、お前を愛している。
だが、私はどこへも行くことはできないんだ。
私は初めて、早苗を羨ましいと思った。
神奈子様、と早苗が私を呼ぶ。
「この際だから正直に言いますけど。私、神奈子様が好きです。神奈子様を、失いたくないんです。それはここで力を失っていくこともですし、私が幻想郷に行った時、こちらに残って欲しくないんです」
私が早苗を縛っているのか? ……そんなはずはない、早苗を縛っているのは自分自身だ。早苗はどこへでも、飛んでゆくことができる。そのはずだ、そう思いたくて私はそのまま口にした。
「……早苗は、どこででもやっていけるよ。私を待つことはない」
だん、と。
この夜で聞いたことがない破裂音が、耳を打った。
「馬鹿、神奈子様の大馬鹿! いつも、神奈子様はそうやって! 自分のことを蔑ろにするのは、止めて下さい!」
早苗が立ち上がっている。私を見下ろし、睨み付けて、感情を露わにして。私は驚きに早苗を見上げるしかない。
「どうして、神奈子様は素直になってくれないんです!? 存在を失いたくないって、生きていたいって、私と……一緒にいたいって、言ってくれないんです!? いなくなってもいいだなんて、誰かと一緒にいなくてもいいだなんて、そんなはずがないでしょう! 神奈子様、私はあなたと一緒にいたい。神奈子様もそう思ってくれてる、なんて自己愛が過ぎるでしょうけど、でも、誰かと一緒にいるのは必要なんです! それが私だって、認めてしまえばいいんです! 馬鹿!」
早苗が叫ぶほど、頭は冷えていった。私も立ち上がり、早苗の前に向き合った。
「……正直に言うよ、早苗。私はな、自分よりもお前のことが大事なんだよ」
「なら!」
「私と一緒にいることで、お前が不幸になるのなら!」
私はこの夜初めて、感情を露わにした。思えばこれほど素直に、激昂し、声を荒げたことは……本当に久しぶりだった。それこそ神代、数千年を超えて以前、人の身であった頃以前にしか覚えがないほど……
「……私は、お前と一緒にいることはできないよ。お前を失いたくない」
早苗は強い目をして、私を睨んでいたが、突然顔を青ざめさせて呻いた。身体が傾ぎ、何とかたたらを踏んで持ちこたえた。
「おい、どうした?」
私が声をかけるのも構わず、かけた手を振り払って外へと走り出すと、やがて嗚咽が聞こえてきた。吐いているらしい。なんだ、と私は安堵した。
「酔っただけか。このくらいの酒で、弱い奴だ」
「いやー、結構飲んでたわよ。あなたもふらついてるじゃない」
馬鹿言うな、このくらいで、と言うと、紫は突然私を押してきて、突然のことにふらついた身体を立て直せず、私は転んでしまった。身体を横たわらせるのが心地よい。
「……何しやがる」
「……それにしても、ずっとほったらかしで退屈しちゃったわよ。さて、結論は出たかしら?」
聞いてたら分かるだろうに。私は立ち上がり、早苗の方へと歩きながら答えた。
「平行線だよ。これには答えは出そうにない。お前も、ずっとここにいられる訳じゃないんだろう? 分かったらさっさと出て行きな。早苗が幻想郷に行きたくなったら、早苗の方からお前を訪ねるだろうさ」
早苗の元に歩み寄り、床板の縁から地面に向かって吐いている早苗の背をさすってやる。「残念だわ」と言いながら紫もついてくる。
「紫、平気なら水を汲んでやってくれよ」
「大丈夫じゃありませんわ」
うえ、と紫が呻いてその隣で吐き始める。やれやれ、と思う。一人でほったらかされていた紫は、一人で延々飲んでいたらしかった。馬鹿な奴だ、と思う。何が楽しくてやってるんだか。
「ごめんなさい、神奈子様……」
私は黙って背中をさすってやった。こんなことは、謝るまでもないことだ。酔っ払いの相手は昔から好きだ。手間がかかるからかもしれない。まるで母親だ、と思う。手がかかるから好きなんて。
「うえー」
「お前はうるせぇな」
二人の背をさすりながら、何となく酔いを感じている。ちょっと吐きそうだったけど三人並んでる姿がものすごく間抜けで、私は何とか我慢した。
「それで、早苗さん? あのですね、私に提案が」
「気分が悪いんだから、話は落ち着いてからにしろよな」
「もうですね、いっそ幻想郷に行っちゃいましょう。時間もないことですし」
俯いて話を聞いていた早苗が顔をゆっくりと持ち上げる。
「でも……神奈子様を置いて、なんて」
「というのは口実ですよ。幻想郷に行っちゃったと見せかけて、三日で帰ってくる早苗さんに神奈子さんは感涙。『帰ってきちゃいました』『早苗……』そこで幻想郷の魅力を語っちゃったりなんかすれば、神奈子様ももうノリノリですよ」
「全部聞いてるんだが」
冷静にそう呟く私がいないかのように、早苗が「それはいい考えですね」と紫を熱っぽく見つめている。まだ酔ってるのか?
「じゃ、さっそく」
紫が指をパチン、と鳴らすと早苗の姿がそこから掻き消える。
「ちょっと、おい!急すぎるだろ」
「大丈夫大丈夫、三日したら帰ってくるから。それより、神奈子、水ちょうだい……」
「水って……あー、私もしんどくなってきた。水が飲みたい」
その瞬間、私は見た。落ちてくる大量の水柱を。水圧で床板をめきめき鳴らしながら降り注いだ水は私も紫も神社の境内まで押し流していった。今はメリーという人の姿なのに、大丈夫なのか?
「神ー奈ー子ーぉ」
諏訪子の声が低く響く。砂利の上で立ち上がった私を前に、諏訪子が小さな身体に恨みを募らせて私を見ている。
「せっかくの宴会に私を呼ばないなんて、どういうことさ!」
「事情があるんだよ……放っとけ、野良神」
最初は怒っていても、途中から諏訪子は神遊びに興じ始めた。
酔ってて調子の悪かった私は、吐いた上に三回くらい負けた。
早苗がいなくなって、日々を過ごした。何百、何千年、時を過ごすうちに、個人が顔を出してくる時期が、短くなっていった。私自身の感覚が伸び切って、一瞬一瞬の価値が薄れてゆく。近頃は存在している理由もあったと思えたのに。
何のことはない。自らを省みないというだけだ。自分の価値を自分で決めてしまっている。
だが、早苗がいなくなってからの時間は、異様なほどに焦れた。紫が言った三日間、そんなものは何の信用もならないけれど、何もない日々、退屈なほどに焦れた。所詮神なんてものは、ただの寂しがりやだ。
私は一人、自らも知らぬうちに涙を流している。人の世を統べ、人に触れ、信じられるようになり、もっと信じてもらいたくて、人の世に残る。だけど、忘れられれば、誰もの価値から消えてしまえば、最早存在している意味などないのだ。あぁ、寂しいが為に生き存え、寂しいが為に死ぬのだ。
早苗。お前は私を見てくれる最後の存在だ。お前がいなければ、私は生きている価値などないのだ。
早苗は戻ってくると言った。けれど、紫など信じられるものか。私は一人だ。
私は一人、ただ神であったという自尊心を抱いて立っている。早苗を捨てて手に入れたもの。早苗が来る前、そしてこれから、私が縋る最後のものだ。
一秒一秒ごとに、私の期待が私を裏切ってゆく。
そうして、早苗のいない日々を過ごした。
夏の日々は変わらないまま。思えば、季節の巡り代わりだけが、私の周りで唯一の、不変のものと言って良いのかもしれなかった。寂しさに心揺れようとも、頬を撫でる夏風だけは、変わらず心を安らかにしてくれる。
「よっと」
諏訪子が社の中によじ登ってくる。あの日喧嘩をしてから一週間が経っていた。あの日、喧嘩をした次の朝に紫=メリーはやけに浮かれている蓮子と神社を訪れて、別れを告げて帰っていった。早苗が帰ってくる気配は見せず、やはりあんな奴、信じられないと一人沈思した。けれど、孤独と諦め、受け入れることには慣れている。
「ここに来るのは珍しいな、諏訪子」
「あぁ、ここは乾いて仕方ない。神奈子も山の中にくればいいのに。山の中はひんやりじっとりして気持ちいいよ? 川遊びだってできるし、山の中にはお友達がいっぱいだ。こんな、もう終わった場所になんて人も妖も来ないんだから、放っておいたらいいのに」
「お前には分からんさ」
諏訪子はふぅん、と言って朽ちた床にぺったり座り込んだ。何が楽しいのかふんふん首を揺らして、リズムを取っているかのようだった。
諏訪子を本質的に現すならば、本能的なのだ。自分に益することならば恩恵を与え、そうでなければ威を持って報いる。自分勝手なように映るかもしれない。だが、明確な一つのルールに基づいて行動を決定するというのは、実際のところ何よりも平等なことだ。少なくとも、私は嫌いじゃない。力を自儘に振るえることには、羨ましさを覚える。
「ね、なんで早苗に辛く当たるの?」
「諏訪子も早苗に何か言われたのか?」
「あはは! 何を馬鹿なことを。仮にあの子に言われたからって、なんで私が神奈子を説得しなきゃいけないのさ。私はただ興味本位で言ってるだけ。どうして、神奈子も幻想郷に行きたがってるのに、幻想郷の存在も知ってるのに、早苗に意地悪言って頑なに行きたがらないのか、をさ」
諏訪子は、早苗が来て喧嘩をしている時、どこかで聞いていたらしい。ふぅ、と溜息をつく。
「正直になりなよ。別に、この世界に未練も何もないんでしょう? 前々から言ってたじゃない、人間の信仰は既に神奈子ではなく、神奈子の名前に向けられているって。神奈子がいなくたって、信仰は変わらないって」
「全くの本心じゃない。……人に信仰されているかいないかは別にして、見守りたいとは思う」
「あぁ、神奈子はそういう厄介なところがあるからね。それから、幻想郷のことだね。何ちゃらの神様も幻想郷に行った、私らも行こうかなぁって、私に言ってたじゃない。気まぐれかもしれないけどさ。神奈子は前から幻想郷を知ってたのに、早苗に対してどうしてそんな意地悪をするのか、私には分からないよ」
私はかぶりを振った。諏訪子、と呟く。諏訪子は変質に対して寛容だ。だから、早苗が変質してしまうことにさえ簡単に言ってしまえる。
「諏訪子、私は好きで早苗に意地悪をしてるんじゃない。私らが幻想郷に行くのはいいさ、元々人外だ。そこで寄せ集められるのもいい、現世から追い出されたはぐれ者同士だ。でも、早苗は人間だよ。現人神であろうとも、だ。今この時代に生きてる、人間。普通に恋をして、普通に結婚し、普通に死ぬ。それを失うんだぞ。異境に行くのも、人でなくなるのも、早苗が自ら選択するならいい。私に寄り添おうとするなら、そんなこと……許せるものか」
「矛盾してるよ、神奈子。そもそも、早苗から言ってきたんだから。早苗が行くと言ってるんだから、行けばいい、単純な話じゃない? そもそも、こっちから持ちかけたって一緒だと思うよ。あの子が行くというなら、それでいい。そうじゃないの?」
「逃げるのはいいんだよ。世の中から爪弾きにされて、別の場所で生きる分には問題ない。でも、私らがいるから、という理由で人を止めてしまうのは違うよ。そもそも……本来は、早苗は私達と一緒に居るべきじゃないんだ」
私が諭すように言っても、諏訪子は飄々としたまま首を揺らしている。
「そうは、思わないけどねぇ」
「あの子の取る道は……一人で幻想郷に行くか、一人でここに残るか……別に、私らが行く訳じゃなくても、一緒にいるべきじゃないんだ。私らと一緒にいると、ますます早苗は人から離れる。現世から乖離してしまう」
私は、本心を隠して言った。諏訪子がばっと顔を上げ、私の顔を真っ直ぐに見た。
「神奈子だって怖いんだ」
「何を?」
「神奈子だって怖がってる。早苗の、人としての運命を奪ってしまうことにもだし、何より、早苗を失うことにさ」
「……そんなこと、ない」
けれど、諏訪子に隠していた本心は、筒抜けているみたいだった。私は何よりも、早苗を失ってしまうのが恐ろしい。それも、自らの手でそれを行おうとしている……行っている途上だ。でも、それを認めてしまえばそんなに辛いことはない。何をしたって、早苗の為にはならない、それを認めてしまうことが。
「そんなことないなら、突き放せばいいでしょ? どうしてそうしないのかな。神奈子はさ、このままでいると、きっと一生早苗と一緒にいるよ。それで、早苗は人とは交わらない、変人として認識されたまま、一生を終える。私達は一生あの子に連れ添うから、それも不幸な人生じゃないかもしれない。でも、神奈子の言ってることとは矛盾するよね。だからって、私らが勝手に幻想郷に行ったら、あの子はついてくるよ。なんだかんだ言っても、あの子には私らしかないんだから。ねぇ、神奈子、考えてもみなよ。あの子にとって、私らは変化を与えてしまう害悪じゃない。むしろ、私らを失うことが害悪になるんだ。認めて、一緒に幻想郷に行ってしまえばいいじゃない。それが、一番良いことだよ。私以外には」
諏訪子はこともなげに言った。……私はそれに対して返す言葉を持たなかった。あるとすれば認めてしまうことだった。
「……諏訪子は嫌なんだろう?」私は話を逸らした。
「ああ、嫌だね。この土地が私は好きだもの、ここが私の居場所だって思ってる。幻想郷なんて訳も分からないところなんてまっぴら。普通の自然がいいよ、私は」
かつて奪い取られたもの。でもその影を、諏訪子は見せない。
「…………」
「それを言い訳にはしないでよ。私だって神だもの。もう既に、本来の存在としての死は済ませてる。何より神は人の為に生きるものだから、今生きてる早苗の方を優先してやってほしいな。まぁ、私は恨むけどね。二度も住処を奪い取って」
「……すまん」
「謝るくらいなら最初からするなよ。とは言っても、神奈子は変わらないね。あの時も、自分の国に生きてる人達の為だったんでしょ? 今は、一人の人間の為。はは、私らの規模も小さくなったもんだ。新しく始めるったって、生まれ直したくらいの気分で、気楽に生きていけばいい。ここで小難しく考えてるより、らしいかもしれないよ。早苗みたいに力がどうこう、信仰がどうこう言う訳じゃないけどさ」
諏訪子は言いたいことだけを言うと、んー、と伸びをしてぴょんと立ち上がった。
「あぁ、乾く。長い話をして疲れたよ。私は帰るから、早苗の為に何がいいかを良く考えてしてやって。あの子は私に良くしてくれたからね。神奈子だって、それはそうでしょう?」
返す言葉もなかった。
諏訪子が出て行くと同時に、早苗が帰ってきてただいま戻りましたと言った。
私が最初に感じたのは苛立ちだった。
正直に言えば、帰ってくるはずなんてないと思っていた。休みになれば天狗と一緒に山登りをして、夏になれば河童と川で遊ぶような子だ。
幻想を望み、その一つになる。それはどれだけ幸せなことだろうと、私は思った。私もここで見届ける。早苗はもういない、だけど人の世は存在し続ける。それは幸福なのだとただ思った。
そう思い、時を過ごした。
何のことはない。ただまやかしだ。早苗が戻ってきたことにこんなにも安堵する。
だからこそ腹が立つ。
「今日も、暑いですね」
「行かないぞ」
「はい?」
早苗が驚いたように聞き返してきてから、私は焦った。『行きましょう』と言われるとばかり思っていた。思い込みが過ぎて、言葉の方から先に出てしまった。
「い、いや、何でもない……そうだな、まだまだ暑い」
燦々と陽が照っている。社の中はひやりとして涼しいが、床を斜めに切り取るように差し込む日差しに触れると、座っていてもじっとりと汗をかく。
「ええ、こんなに暑い夏はいつ以来でしょうね。近頃は夏でも涼しいことが多かったですから。とは言っても、神奈子様に比べたら、数えるほどしか夏を過ごしていないんですけど」
早苗は手を口元にかざしてくすくすと笑った。
「向こうも、こちらと変わらず夏でした。日差しが降り注いで……違うところは、文明の香りがしないことくらいですかね。ここも田舎ですけど、向こうには機械類がありませんから。勿論文明が存在しない訳じゃなくて、私と同じような立場の人もいますから、機械とかの存在は知っています。ただ、流通とかは一切していません。……ですから、涼むものと言えば日陰と水浴びくらいしかなくて、びっくりしましたね、ええ」
「……そうか。そう、悪い所じゃなさそうだな。安心したよ」
「心配してくれてるんですか?」
ふん、と鼻を鳴らした。
「あれだけ行こう行こうって言ってたのに、行ってみたら良い場所じゃなくて、でも意地を張って帰れないのじゃないかと心配していたよ。三日を過ぎたから、随分と馴染んだんだろうと思っていた」
「あ、そうでした! ええと、遅くなって申し訳ありません、神奈子様。三日で帰ってくるつもりだったのですが……そう、向こうで修行をしていたんです! 今日は、神奈子様に勝負を挑みます!」
勝負? 私はゆらりと早苗に顔を向けた。
「構わん。私が負けたら一緒に向こうに行けと、そういうことだろう? だが、私が勝ったらどうする。お前が残っても、私に益はない。一体何を捧げる?」
「私の全てを」
「何?」
早苗はあまりにも簡単に、けれど強い語調で言った。
「私の処遇を、神奈子様が決めて下さって構いません。一生仕えろと言うならそれに従います。神奈子様にとって益になるように計らってくれればそれで構いません。私は神奈子様が決めてくれた道なら、信じて進むことができますから」
馬鹿な娘だ、と思う。二度と顔を見せるな、と言えばどうするつもりだ。二度と顔を見せず、人の世で人として幸せに暮らせ。そう言われたら。思えば、私の思う早苗にとっての理想と、早苗にとっての理想は全くの真逆にある。私が早苗の為にすることは、早苗にとって悪夢のはずなのだ。
だが、それで良いのだ。早苗は人なのだ。人の世に、馴染む為には私が最も害悪なのだ。本当にそうか? 八坂神奈子……心動かされるが故に突き放したいだけではないのか? 早苗を認め、歩み寄ることができないだけではないのか?
「いいだろう。それで、勝負っていうのは? いつもの神遊びか?」
私は自分の迷いを、脇に置いて言った。終わってから考えれば良いのだ。逃げることならいつでもできる。
神遊び、なんて言えば聞こえはいいが、ただの喧嘩だ。早苗は首を小さく振って、軽く笑みを作った。
「いいえ、もっとスマートな方法です。神奈子様もきっと楽しめると思います。実を言うと一週間、私は向こうでその練習をしていたんです。どうすれば神奈子様を楽しませられるかな、と。それで、向こうで流行ってる決闘方法を知って、それが本当に楽しいことだと分かってもらえれば、向こうに興味を持って貰えるのではないかと」
神奈子様、こちらへ、と早苗が誘う。誘われるままに立ち上がり、境内へと。十歩ほどの距離を取って相対する。
早苗は御幣を振り翳し、周囲に光り輝く弾を生み出してゆく。風が吹くように揺れ動き、それはいくつもの線を描いて、五芒星の姿をして早苗の周りに立ち並んだ。
「これは……」
「弾幕ごっこですよ、神奈子様。先に相手に当てた方の勝ち、簡単でしょう?」
揺らめき、広がりを見せて五芒星が崩れ、私の方へと向かってくる。早苗が操る風よりも遅く、だが複雑さを伴って。圧倒的な色彩……目を離すことができない。
言われたままに合間をすり抜け、回避する。
「これが弾幕?」
「ええ、神奈子様。幻想郷には、私達と同じように……様々な力を持った者達がいます。彼らは皆自らの力を誇示するのに殺し合いをするのではなく、その力を使って自らの弾幕を想像するのです。美しく、複雑で……魅力に満ちた決闘方法です、神奈子様!」
そしてまた、早苗は五芒星を生み出す。さっきよりも巨大な五芒星が描かれ、重なり合って広がる。崩れ、弾となって打ち寄せる。
「秘術『グレイソーマタージ』!」
「……それが、この弾幕の名か」
「ええ。私自身の力。私自身を描く弾幕です!」
避けて、避けてゆく。そうして、早苗の弾幕をより理解する。早苗の力。殺し合いの為じゃない、力を力としてではなく……弾幕として使う。現実から離れた力。
「そうか、これが幻想か」
「神奈子様にも、作ることができるのですよ。勝ち負けすら曖昧な……新しい闘争の形。命を奪わず、勝ち負けに関わらず楽しむことができる。幻想郷では皆弾幕によって異変を起こし、弾幕によって解決するのです。より強い弾幕を作れる者が、信仰を得るのです!」
「私にも作れるのか?」
「ええ、神奈子様!勿論です!」
ぱっと、早苗の弾幕が掻き消える。私に作れと言っているかのようだ。無論私もそのつもりだった。私の中で弾幕が生まれてゆく。これまで見て来た祭事の姿。私の生きるこの神社の姿。
「……御柱」
御柱が立ち並ぶ姿。ただ、これではあまりに直接に過ぎる。お札が誘導されて、引き寄せられてゆくイメージが脳裏に生まれる。これによって避け辛さを増す。
「神祭……『エクスパンデッド・オンバシラ』……!」
イメージの中にあった弾幕が、表面化する!早苗を取り囲むように御柱が立ち並び、その中でお札の形をした弾幕に早苗が追い詰められ、回避してゆく。
「これが……弾幕か」
「御柱……祭で……とは言っても、動画の中でしか見たことはありませんが….最早古のものとなった神祭の姿なのですね、この弾幕は」
不思議な感覚だ。力を使っているのに、暴力による昂ぶりがない。ただわくわくするような気分だ。どんな弾を作るのだ。どんな弾を見せられるのだ。
「どうだ、回避できるか。早苗」
「ええ。分かってくれば……簡単です!」
御柱は早苗を追い詰めても、圧し潰すことはしない。もししてしまえば、これほど簡単に当ててしまう方法はないというのに。それをしないのが弾幕、そうなのだな。
このままやってしまえば終わりになる。弾幕だとか、そうではなく、本当にやってしまえば。早苗がいなくなれば全部終わりと言って良い。だが、それをしないのが弾幕という存在なのだ。
次へと続いてゆく! 連続してゆくことは、終わりのない姿を描くことだ。終わりのない姿を描くことができるのだ。弾幕を生み出すということは、私にさえ!
「では……こちらからも行きますよ。開海! 『海の割れる日』!」
水のイメージ。水色の弾幕が左右に立ち並ぶ。波に揉まれるように形を変え、その中から早苗が槍を投擲するように、弾幕を放ってくる。中心の弾は密度は高くない。だが左右を囲まれ、不規則に動く波の弾に惑う。
「面白い」
「面白いでしょう?」
海と刃を回避しながら、こちらも負けじと大量の刃を発生させた。かつて見た神祭の姿。
「贄符『御射山御狩神事』」
必死に回避する早苗が、次々と端へと追いやられて行く。波立つ弾幕の中で、刃と刃を交錯させ……人と神の力量を感じさせず、我々は撃ち合った。
一度当たれば終わり。でも、本来ならば、私の一撃と早苗の一撃は違う。私の一撃は早苗を死なせ、早苗の一撃で私は傷もつかないだろう。だが、この弾幕の世界で一度は一度。人と、人ならざる者の間を埋めるもの。争いでありながら殺し合いではない。
危うく水色の弾幕に飲まれそうになりながら、紙一重で回避する。早苗が御幣を振って、弾幕を消し去る。合わせるように私も弾を消し、正面から早苗に向き合う。
「あまり考え事ばかりしていると、つまらない所で被弾してしまいますよ? さて……それでは、終わりにしましょうか、神奈子様。奇跡『神の風』!」
「終わりになるのは早苗の方だ。……『マウンテン・オブ・フェイス』!」
「お前は人だよ、早苗。神じゃない」
早苗を打ち負かした後、仰向けに寝転ぶ早苗の横にあぐらをかいて座り込んだ。
「加えて言うなら、お前は幼いよ。早苗。お前自身が何なのか、幸せは何なのか……そういうのを考えるには幼すぎる。お前が何者か、何が幸せかなんて、そのうち分かってくる。何もお前が決めることばかりじゃない」
早苗が顔を覆っている。泣いているのか、と思う。私も捨てられない。見出したばかりの幻想郷も捨てられない。捨てられない捨てられないと喚くのは子供ばかりだ。私は慈しみを込めて見下ろした。
「だがな、早苗。自分が神だと決めて、見知った世界を捨てて。……新しい世界を見出すって言うなら、私は止めないよ。お前の幸せはここにしかなくて、ここに残るべきだなんて言うのは止めよう。新しい幸福を見出すといい」
決別する。
「早苗、勝負の時の約束だ。……幸せになれ」
……かつての、私自身と。
「……と、言いたい所だが。人間に幸福を与えるのは神である私の責務だし、信仰するお前を放ったらかしたら、神としての沽券に関わるからな。……お前のことは私が幸せにしてやる。幻想郷に連れて行け」
早苗が涙に濡れた目で、私を見る。
「神奈子様」
「どうした? お前しか行き方を知らないんだから、連れて行ってくれないと困るだろう」
「神奈子様!」
わっと縋り付いて、抱き締めて泣き濡れる。よしよしと早苗の髪を撫で、早苗の感情を受け止めた。愛情に愛情で返す。それだけでいいのだ。そう、それだけのこと。
さよなら、私。さよなら、世界。……さよなら、私を信じた人々。私がこの世界を信じたことは、名前に記しておくよ。
さて、目出度し目出度しだ。神奈子は早苗を失わない。早苗は神奈子を失わない。二人は幻想郷で新しい世界を見出し、新しい信仰に生きる。実にハッピーエンド!
「私以外はね」
諏訪子が私を見下ろしている。
「諏訪子だって私と早苗を失わない、それでいいだろ」
「誰がお前らみたいなのを失って寂しがるもんか。決め事は全部二人でして、あげく新しい宴会も新しい遊びも二人じめ。これで怒らないって法があるかい」
「分かった分かった、付き合ってやる。早苗、離れて」
「何それ、どうせ遊べば満足するって思ってるんでしょ。まぁ……新しい遊びを見てたから、それはそうだけどさ」
私が立ち上がり、早苗が顔を擦りながら脇へと避けて、諏訪子と対峙する。いつだって、私達はこうなのだ。
諏訪子が帰ってから、早苗と二人、今日の夜に幻想郷に行くことを決めた。今すぐでも良かったけれど、個人的なことをするには夜がいい。それに、私達にはするべきことがあった。
「早苗、幻想郷に行くことを家族には伝えたか?」
「いいえ。必要のないことですから」
嘘だ。言うまでもなく早苗が強がっているのは、分かった。好きにすればいいと言ったばかりではあったけれど、言ってやらなければいけないと、私は思った。
「……早苗、それは駄目だ。するしないじゃない、これは区切りだ。この世界を見捨てる区切りだ。ここで済ませとかないと、向こうに行ってからの禍根になる。禊はお前の家族の為にするんじゃない。お前の為だ。してこい」
早苗はぐっと押し黙った。けれど、私の言葉は伝わっているはずだ。早苗は顔を上げて、分かりましたと言った。少し待って下さい、とも。
夕方になって早苗の家に行った。早苗は何も言わなかったけど、私はついていった。早苗がそれを望んでいるのは何となく分かった。早苗が家に入っていく時、扉を開けたままにしておいたのは……私にも聞いておいて欲しいと、そういうことだろう。私は玄関の更に外、石塀に背を預けて、早苗が居間に入っていく音を聞いた。
早苗、と母親が呼ぶのが聞こえた。お前、どこに行っていたの。三日間も家を空けて、学校からも連絡が来たんだよ。
お母さん。それから、お父さん。……黙って家を空けたことは、謝ります。それから、学校も休んだことも……こんなことして、いけない子だと、思ったかもしれません。
でも、私は。……いけない子です。あなた達をずっと騙してます。私、本当は良い子なんかじゃないんです。あなた達の娘に産まれたこと、感謝することができません。生まれ落ちた後のこと、育ててくれた事には、感謝する以外にありません。愛情を感じない日はありませんでした。でも、私、その愛情に応えることができません。
私は別のものだから。
(その自信がどこから来るものなのか)私は考える。私、八坂神奈子が、自らを神だと認識した時。そんなもの、無かったように思う。神代において、神とは力であった。当時の私は神ではなかった。神となる途上であり、人の身に過ぎなかった。神と呼ばれ、信仰を得た時初めて神になったように思う。
(ならば、東風谷早苗。人の身でありながら神を指向するお前は、どこへ行くのか)
いや、むしろ。私が神にしてしまったのか? 早苗が自らを神と呼ぶことを、許容したことで。それほどまでに圧倒的に、私が早苗を変えてしまったのか。
何にしても、この決別は、聞き届けなければならない。早苗の言葉は続く。
あなた達はきっと信じられないから、黙ったまま行きます。私、もう戻りません。
……これまで、本当にありがとうございました。ちっとも馴染まない娘でごめんなさい。いつか、こうなるって思ってたかもしれません。あなた達は近所の目とか、気にするかもしれません。でも、私、おかしいんです。学校のこととか、出て行くこととか、いなくなることとかに、申し訳ないと思えないんです。むしろ自然のことだと……私、おかしいんです。おかしい子なんです。
……私、もう行きます。私、謝っても謝りきれないから。だから、忘れて下さい。私のことを覚えてても、不幸になるだけだと思います。もう、忘れて下さい。あなた達の下になんていられなかった、愚かな娘のことなんて。
早苗、と呼ぶ声がする。早苗の父親の声。早苗が家を出て、父親と母親が追いすがる。私は両親の背、早苗の背を石塀から見ている。
母親が父親を押しとどめる。
早苗。お前が良い子にしてるのは分かってたよ。何かに悩んでるのも、それに付き合ってあげられないのも。母親が言う。
でも、お前がそうやって悩んでるのが嬉しかったんだよ。皆悩んで大人になるんだ。そうやって、お前がいつか素直になってくれるって信じてた。それは別れる時になるまで信じるしかないって思うと寂しかったけれど、でも、お前は答えを見つけた。早苗。私は嬉しいよ。
……早苗は振り返らない。振り返っても迷惑になるだけだと信じている。私は歩み、早苗に並んだ。二人からは私の姿は見えない。早苗を隣に見ながら、後ろの二人をちらりと見る。二人して泣いている。でも、そこに感傷は生まれなかった。そこにあるのは早苗が自分の道を選んだことと、早苗が十数年を過ごした場所があるだけだった。
「申し訳ないと思う必要、ないですよ」
「あの二人の、お前を喪ったという痛みは……胸に刻まなきゃいけない。私も負ったかもしれない傷だ」
そうですか、と早苗は感情を表さず言った。その声は震えていた。
早苗は嘘をつくのが下手だ。愛情を感じない人間なんていない。そして早苗は、また泣いた。制服の胸元を握りしめてぐしゃぐしゃにして、泣き濡れた。
自分が自分であるということには、痛みを伴うものだ。私は傷付くことから離れすぎていた。
紫に貰ったメモを元に、早苗が陣を描いている。神社を囲むようにして巨大な円と図式を描いている。
「もう、終わりますよ」
「そうか。諏訪子を呼んでくるよ」
行く段になって、私は少しばかりの感傷を感じていた。これまでを捨て去ることに変わりはないから。早苗みたいに、禊を済ませられる訳でもない。全て自分の中で、神になった時から変わらない、自分の中で済ませるべきことだった。死者に謝る方法などない。
「その必要はないよ。来てあげたさ」
諏訪子がそこにいる。そうか、と言う。気を紛らわすことも敵わないとは。早苗が陣を書き終わり、私の方に歩いてくる。
「もう、いつでも行けます」
「……そうか、やってくれ」
逃避行の前に家を出る時、こんな気分になるのだろう。行く先があるとは行っても。早苗が私の手を握ってくる。
「……神奈子様」
何だ、と応える。早苗が顔色を伺っている。
「……まだ、申し訳ないとか思ってます?」
「思ってないさ。……ただ、少し不安なんだ」
早苗には最早隠し事をする必要なんてなかった。禊を済ませた早苗は最早私と同じものだ。神としての作法はこれから教えてやれば良い。
早苗はふふっと笑う。
「神奈子様、私はどうなったとしても、神奈子様のことを信じていますよ」
その瞬間、私は確信した。私は神を失っていない。生きていた頃、最初の信奉者は一人だった……その頃と同じだ!私は神であり続ける。
分かっていたこと。だが、早苗もそう信じている。信仰の力は、神にとって何よりも強い力だ。信じてくれる力!
「こんな言葉くらいしか、神奈子様に言えることはないですが」
えへへ、そう言って申し訳なさそうに笑う。
「信仰を失い、世を捨て……」
信仰も世も、全て元より失われていた。分かっていたことだ。それがどうした。私はここにいる。
そこに居さえすれば、いつだって始めていける。私としたことが、そんなことを忘れていたとは。人の世に腐って、何百年も眠っていたとは!
早苗の腰に手を回して抱き寄せた。
「馬鹿なことを言った……。行こう、早苗。お前がいれば、私はもっと飛べる。もっと世の中に寄り添える!」
「ええ……神奈子様」
陶酔したように熱っぽい顔をして、早苗は言った。だけど、今はそんなこと、気にしてられなかった。
新しい世界。そこが何であろうと関係ない。私のいるところが世界だ。神社ごと、私は幻想郷へと飛び立った。隣に早苗がいることを幸いだと思った。
幻想郷、妖怪の山において、私達は再び信仰を開始した。信仰は親交。信仰は侵攻。時に荒々しく、時に親しげに。覚えたばかりの弾幕と、持ち前の神性を持って、我々は妖怪の山で信仰を得、里にまでその名前を知られようとしていた。
「さて、そろそろ動きましょうか」と早苗は言った。「私が以前幻想郷に来た時、お世話になった神社を、乗っ取ります」
「乗っ取る、か」
私は自分で言うのも何だからしくなく、俯き加減に言った。諏訪子はかつて現世において消えていった土着神と遊ぶのに忙しい。ここにいない者に気を遣っても仕方ない。
「ええ。恩はあっても、私達の目的とは相容れないものです。里の、人間の信仰を集めようと思ったらどうしてもあそこの神社の目に触れない訳にはいきませんし、ここが攻め時です。……それに、控え目に言って信仰がある様子はありませんでした。加えて、巫女はぐうたら、神様の姿も見えない。私達が信仰を集める為の場所として使った方が、幻想郷の為でもあります。立地は言うことはないし」
ふむ、と私は辺りを見回した。山の中に神社があることは、私の神性を増すのに役立っている。妖怪からの信仰は集め易い、だが人里からは遠い。この配置には……何者かの意志が働いたかのような感じがある。
八雲紫。あのとぼけたような、人の良い笑み。あれは人を信じさせる笑みだ。だが、誰もが紫を気味の悪い笑みだと言う。あの笑みが気味悪く感じるようになる、何かがあるのだろうか?
「神奈子様? ……行って来ますよ?」
「あ、ああ」
その時、早苗を押し留めるべきであったのか、私は未だに判断がつかない。
決定的な敗北。
早苗のように現人神である訳でもない、巫女というだけの人間。そして、その巫女に追いつこうと縋る、魔法を使う人間の二人組。だが、敗北にも心が荒まない。殺し合いで生き存えるのは恥でしかないが、弾幕なら負けることもあり得ることだ、と受け入れることができる。
そして、結果として信仰がないことに悩む博麗神社の巫女と和解し、彼らの間に、幻想郷に受け入れられた。早苗は、博麗の巫女とどちらが信仰を集められるか、挑むように励み、切磋琢磨に互いを高め合っている。早苗が頑張るほど、私の信仰も増える。諏訪子もここを受け入れた。誰も困らない。誰もが幸せになる。
「……これがお前のシナリオか? 八雲紫」
「人を疑うのは良くないことですわ」
社の中に、八雲紫が現れる。外では早苗が境内を掃き清めている。空気が澄み、緩やかな風の吹く晩夏。
「ふん、やっぱりそうか。やましくない奴が、来るはずないからな」
「ぎくり。……なんて」
「何、考えてる」
「んー。そっちの早苗ちゃんと、うちの霊夢が似てたからね」
「どこが」
「早苗ちゃんは与えられてるものに満足できず、自分で新しい世界を望んだ。うちの霊夢は自分で何でも解決しちゃうけど、何も与えられることはない」
「真逆だろう」
「ええ。だから似てるのよ。自分で解決するってことの経験がない早苗と、何かを与えられる経験のない霊夢。きっと、知り合ったら互いを羨むわ。良いライバルになるかは別として、互いの存在は意識する。それでね、神奈子。あの子達に一番必要なのは、きっとそういう友達だわ。自分とは全く違う、異質な存在。あの子達はまだ幼いから、そうやって他人を知っていくわ。……ちょっと、何驚いてるのよ」
「いや。……お前があまりに素直に答えるから……」
ふぅ、と息を吐く。紫も思ったより悪い奴じゃないらしい。ぱちんと指を打って、お茶と湯飲みを取り出す。床に置いて、煎れてやる。
「あら。ちょっとパワーアップした」
「うるさいな。……まだ、聞いてないことがあるんだよ。早苗だけで良かったんなら、どうして私を巻き込んだ」
僅かな沈黙。……風が吹き、風鈴をちりちり鳴らした。もう仕舞わないと。夏も終わりだ、と思う。向こう側で過ごした夏を思い出す。差し入れに、早苗がアイスを持ってくることはなくなった。けれど、人々に知られ、信仰を得て、時折人や妖怪が訪れるようになった。向こう側にいた頃とは違う。圧倒的に充実している。何もせず、ただ神社の中、過去とプライドの中座って。
「……神奈子は変わった。……私ではなく、早苗に巻き込まれた。それでいいでしょう」
は、と私は笑った。紫が早苗を求めたのは、紫だけの理由ではない。早苗自身が求めていたから、与えただけだ。それが相互利益に繋がると知って。
紫にとって、私も同じ理由だとすれば、この上なく下らない理由だ。
「なんだ、そんなことか」
「それ以上言わないで、恥ずかしいんだから」
紫はふいと顔を背け、境目を生み出して半身を沈めた。もう帰るのか、と聞くと、ええ、と紫は返した。
「もう、話は終わったから」
「また来い」
紫はちょっと驚いた顔をして、私を見た。それからふっと微笑って、「ええ」と答えた。我々の間には、それだけで良かったのだ。
「はは」紫がいなくなった社の中、私はおかしくなって笑った。神はいつだって寂しいものだ。そう、信仰が欲しいったって人や、妖怪と関わりたいだけの、ただの寂しがりやだ。
「神奈子様? ……誰か、来られてたんですか?」
「いんや。誰も来てない。……一人だよ」
早苗が逆光の中、私を見下ろしている。不思議そうな顔をして。
「早苗」
「はい?」
「私は幻想郷に来られて幸せだよ。……お前は、どうだ?」
分かっていても、聞かずにはいられない。早苗は何を今更、と言わんばかりに、小さく笑った。
「神奈子様、知っていますか? 私をこんな風にしたの、神奈子様だってこと。神奈子様に会いにいったあの日、神様なんていないって思ってたんです。また家に連れ戻されて、人生はこんな風にできてるんだなって、思いながら神社に手を合わせたんです。神様がいるなら応えてみろ、というような気持ちで。……そうしたら。神奈子様が私を見出してくれたんです。つまり、私にとって神とは神奈子様で、私はそうでなければ、自分の力に気付いた時も、きっとそれを隠したでしょう。だから、神奈子様。あなたの存在が……私に幻想郷を与えたんです。私にとって、あなたと幻想郷は表裏一体です。……だから……」
「とても、幸せですよ。神奈子様」
かつての自身の立ち位置から一歩踏み出せた神奈子を応援したい気持ちになります
面白い作品をありがとうございました
ベタなお話だけど早苗が元から巫女じゃないし同居すらしてないってのがどえらく新鮮だった
一人称視点で書かれてるおかげで更にニヤニヤするシーンも増えて素晴らしく俺得でした
結末が分かってる話ではあったしストーリーよりもキャラクターに惹かれる話だったかな
メリーの設定はこれで話1つ丸丸作れる気もするけど、メリー≠紫派な俺としてはチョイ役で良かった
営業担当って言葉みてちょっと吹いたwwww