「ホットケーキ、食べたいな」
メリーは言った。
一時中断、懸案棚上げというわけだ。
是非もなし。
「なあに? 蓮子さんに作れ、とでもいうわけ?」
「うん。蓮子、作って。だってここは蓮子の部屋じゃない」
「ほうほう。そんな理屈ですか」
「ミックス粉じゃないやつがいい。蜂蜜も、たっぷりで」
「無茶を言いなさんな」
それでも私は台所に向かう。逃げるように、と見られないようにわざと大儀そうに歩いた。
さて、ホットケーキとな。
電気コンロの上の戸棚をあける。折り良くも「本物」の小麦粉が実家から送られてきたところだ。
卵も牛乳も蜂蜜もみんな人造のシロモノだけれど、黄金色に輝く草原みたいに、香ばしい匂いが立てばいい。
ベーキングパウダーはと。あった。
「昔、学校から帰るとお母さんがよく焼いていてくれたわ」
台所と部屋の境にメリーは立っている。
お母さん。いいね、それも重要な熱冷ましワードだ。私も復唱しておこう、お母さん。
あなたの娘は、ちょっとだけ普通じゃない子に育ったかもしれません。
粉を振るったりしなくっていいんだっけ? ボウルにあけた小麦粉に、ベーキングパウダーと砂糖、塩を入れて混ぜる。
手を握ったところまでは、いい。セーフだと思う。
どういう流れでそうなったのか、思い出せるけれど納得できない。
午後の講義が二人とも休講だったから、私の部屋で課題のレポートを書いていた。退屈だから音楽を流して、前に一緒に旅した山陰の神社の写真なんか眺めて、次はどこに行きたいとか、そんな話をした。
メリーの、ブルーグレーのセーターは毛足が長くて、部屋の空気の流れのかたちにゆらめいていた。
外では雨が降り出した。コタツの、頂点を共有する二辺に住み着いた私たちはまたしばらく黙って本を眺め、ペンを走らせ、ハンディPCのキーを叩いた。
『手、荒れちゃって』
前に投げ出したメリーの手を、私は何の気なしにつかんだ。
『最近、夢はみる?』
それも大した意図で聞いたわけではない。
メリーと目があった。緑とも、青ともつかない色がまばたきの合間にも私をじっと捉えた。
『蓮子はさ、一番の悪夢って覚えてる?』
『そうだなあ』
私の右手を、メリーの左手が波打つようにほぐしている。
『熱を出したとき見たやつ。大きな青い星が浮かんでて、その下で蛇みたいな、蛙みたいなぐねぐねした生き物が、地面を覆いつくして、ずっと動いてるの。ずっとよ』
『青い星なら、地球じゃないの』
『違うみたい。水や空気じゃなくって、地肌が青い、大きな大きな球形なわけ』
『ふうん』
メリーはどこか疲れて見えた。肌の匂いが強くて、体調がよくないか、女の日だったのかもしれない。
『この前見たのは、よく覚えてるわ』
また目があった。どういうわけか、私は目をそらすことができなくなった。
『一面彼岸花が咲いているの。紫がかった、強い赤の花をつけて、地平線までね。どこからか、水の音が聞こえたわ……。私は花に埋もれてぽつんと立っているの。手足の感覚は確かにあるのに、私は私の立っている姿を、外から見ているのよ。まるで目だけが身体から離れて漂っているみたいに』
私とメリーは、瞳の中心を一本の見えない棒で貫かれたようだ。お互いの瞼が動くと、眼球を咀嚼しあっているような感覚にとらわれる。二匹の蛇が、それぞれ尻尾から相手を飲み込もうとしているかのように。
『自分の姿を見るのって、あんなに気味悪いだなんて、知らなかったわ』
メリーは目を伏せた。視線がはずれ、私の背骨から力が抜ける。雨音は弱くなり、つないだ手がやたらと熱い。
『そういうもんなのかな』
大きく息を吐く。笑われたと思ったのか、顔をあげたメリーには抗議するような色があった。
『私は、メリーを見ていても気味悪くないよ』
『そりゃ、蓮子だからでしょ』
『うん』
大げさにうなずいてみせる。メリーは笑った。冬の木漏れ日みたいに、力のない笑みだ。目線も遠慮がちに、さっきまでとはうってかわっておずおずと、私の肩から首、頬へと輪郭をよじ登ってくる。
手の中でメリーの指のかたちを感じた。私は、メリーのすべてを知ったような気になっていた。内臓のどこかを共有したように、具体性のない彼女の情報が、私に流れ込んでいた。
心の一部ではげしい警鐘が鳴っている。もう一度、瞳を覗いてはいけない気がした。メリーもまた私とまったく同じことを考えていて、それがつながってしまえば、きっともう元には戻れなくなる。
つとめて何気なく手を離した。
腕の下で皺のよったノートを伸ばす振りをしていると、置き去りにされたメリーの指が立ち上がり、尊大な政治家のように歩いて、彼女の胸元に戻っていく。
ホットケーキが食べたい、と。
それから彼女は所望した。
ヴァニラエッセンスがあればよかった。甘過ぎて飲むのをやめたワインが冷蔵庫に残っていたので、卵と牛乳を加えた生地に垂らしてみる。
メリーは黙って、柱によりかかり、長いスカートから出たタイツの足先をこすりあわせている。台所に入ってこようとはしない。まるで彼女にしか見えない「境目」が、台所の入り口に横たわっているかのようだ。
あるいは、本当にそうなのかもしれない。
「座ってていいよ?」
フライパンをコンロに横たえ、油を落としてペーパーで伸ばす。
パチパチという音を聞いて、生地をボウルから流し込みフライパンをゆすって整える。
メリーは物音を立てない。手元に集中していると、まるで自分一人のためにホットケーキを焼いているようだ。
「コーヒーいれてくれる? 一式、そっちにあるから。カップもね」
不安になって、声をかけた。
「うん」
返事はしたが、メリーが動く気配はない。
でこぼこした生地の円盤がかすかにふるえ、小さな穴があちこち開き始める。
「いい匂いね」
だしぬけに、メリーが近寄ってきた。私との間に横たわるものなんて、何もなかった。
何も。
当たり前だ。出会ってからずっと、そんなものはなかったのだ。
なんて恐ろしいのだろう。
私の心臓は、これまで止まっていたかのように、急に存在を声高に主張しはじめる。
不必要な勢いで血流が押し出され、ムリヤリ手足の先につめこまれる。しもやけみたいな痛みと痒みが戻ってくる。
「もう、匂いだけで充分幸せになれそう」
「そう。なら、メリーは匂いだけでいいのかしら」
耐熱樹脂のヘラであおいで、湯気を送ってやる。
「嫌だわ蓮子。ふふ、ふふふ」
目があった。
少し堅苦しい感情がメリーの目の奥にはあった。友達をはじめたばかりの距離感だ。
見つめているうちに少しずつそれがゆるんでいく。夏の室内に置かれた氷のように、だんだん角を失い濁りがうすれ、向こう側が見えてくる。
メリーの手が私の袖をつかんでくる。
お互いのまばたきが増える。奥にあるものを、少しいびつな形状のものを、少し引き出しては確認し、相手にもそれを求める。
一センチずつ。一ミリずつ。
慎重に着実に。
でも嘘はいけない。誠実に。ちゃんと正しいメッセージを、私は送れているのだろうか。
動悸がどんどん早まる。全身が伸び縮みしているようで、台所もそれにあわせて歪んで見える。
顔が赤らんでいるのはわかる。裸で立っていたって、こんなに恥ずかしくはないはずだ。でもきっとメリーも、同じくらい恥ずかしいのだ。
袖をつかんでいるメリーの手を捜して、引き寄せて握った。
メリーの目が開かれ、瞼の肉が震えた。彼女は小さくうなずき、私もそうした。
「蓮子」
「なに?」
メリーの、少し肉厚な唇が割れて白い歯が覗く。
「それ、ひっくり返さなくっていいの?」
裏返した一枚目の眺めは、控えめに言って食べ物よりタイヤに似ていた。
二枚目からはうまく焼けた。
ワインを入れたせいか少し黒ずんでいるものの、味は申し分なかった。ワイン自体の風味は少しも感じられなかったけれど。
蜂蜜とバターをあわせたり、二杯目のコーヒーを甘くしてそのまま食べたり。意外と飽きがこない。
あまりホットケーキに馴染みはなかったけれど、これからは一人のときもたまに焼いてもいいかもしれない。
「ふー。お腹いっぱい。あったかくなっちゃった」
四つんばいで這って行ったメリーが窓をあける。雨はやんで、手が届きそうに低い冬の雲がもこもこと起伏をつくる。
焼いてる途中のホットケーキみたいだ。そろそろ、ひっくり返す頃合か。
「夢の中で、夢を見たことはある?」
口の中で呟くように言ったのに、メリーには聞こえていたらしい。振り返り少し考え、ゆっくり首を振る。
「じゃあ、もう変な夢は見ないわよ」
「どうしてよ」
メリーは笑う。境目を見る特別な能力が無くなりでもしない限り、それはないでしょ、と言った。
もう夢の中にいるからよ、と私は、言わなかった。
私とあなた。どちらかが目覚めない限り。
<了>
分かりにくいですね、これはゴメンナサイ……。
うぎぎ……読解力が足りねぇ。お目汚し申し訳ない。
長々書きましたが、普通に面白かったです。リア充被弾しろ
まともに感想かけないのですが100点だけでも!
末永く爆発しろ!
これからは悪夢を見る必要はないですよね
これはいい密室秘封倶楽部
そんな事考えちゃう蓮子が好きです。被弾しろっ!