※作中の登場人物は幻想郷の住人とたぶんあんまり関係ありません
――十二月二十四日。
人類で最も成功した宗教家の生誕を世界中で祝う日の、その前日。
私はその日、トナカイだった。
トナカイだったと言っても、普段通りに朝目覚めたら、なんの理由も前触れも感じることなく自分が種族の壁をひょいと跨いでトナカイになっていたことに気がついたというわけでもなければ、元よりトナカイとして生まれて今日までトナカイとしての生涯を歩んできた私が、なぜか宇佐見蓮子と命名されたといったわけでもなかった。
平たく言えばトナカイの扮装をしているわけである。
つま先から始まり頭の上に至るまで、短い毛足の茶色い布地が全身を隈なくカバーしていた。いわゆる着ぐるみである。頭の上には勿論、シンプソンズのように焦点の曖昧な目をしたトナカイの頭が呆けた表情を浮かべているし、ぬいぐるみ素材の二本の角の間には申し訳程度のサンタ帽だって乗っている。首には安っぽくメッキされた金色のベルが赤い紐で括られていたし、何故かお尻には丸い尻尾まで付いていた。
トナカイの尻尾がどんなのだったか記憶に無くとも、こんなバニーガール然とした丸い形状はしてないんじゃないかと指摘したくもなるが、目下の問題点は尻尾ではない。クリスマスムードを盛り上げる名脇役、その役どころを果たすのに過不足無いこのトナカイの衣装、いっそ全身が完全に覆われていれば不満を感じることもなかっただろう。安全上の理由なのか、はたまたそれ以外の理由なのか、トナカイの首にあたる部分に大きな穴が開けられていて、衣装を着込むと中の人の顔がその穴から露出するという至れり尽くせりな親切設計であった。
つまり観測的立場からすれば人間の頭の上にトナカイの頭があるという滑稽な図式となり、おまけにトナカイらしからぬ二足歩行という間抜けさを上塗りする様相であった。頭に羞恥プレイという言葉が浮かんでは消えていく。
こう見えて私も一応、年頃の女の子である。客観的にどう見えるかが問題じゃなくて、精神と感性はその必要条件を十分に満たしていると自負している。このような滑稽でしか有り得ない格好を自主的にしているのだとすれば、女子としての感性ないし趣味趣向に疑問を抱かれたとしても文句は言えない。百歩譲って自室もしくは親しい関係者宅でなら、まあ大目に見てもらえるかもしれないが。
しかし残念なことに、トナカイである私が佇んでいるのは紛れも無い公衆の面前であった。具体的には駅前繁華街に位置するコーヒーショップの軒先。もし私がこのトナカイと無関係な赤の他人だったとすれば、一体どんな反応をするのであろうか? 携帯を取り出して愉快な珍風景を画像フォルダに納めるだろうか? ……やらないとは言い切れない。あまつさえ、その画像をワールドワイドウェブに乗せて世界中に配信してしまう可能性は? ……絶対に無いと否定するのは難しい。考えれば考えただけ、頭の領域は羞恥に塗り替えられていく。
もちろん言うまでもなく、トナカイであることは私の本意では無かった。それを証明するかのように、私の目の前には会議室のよく似合う木製天板のテーブルが置かれており、白地のテーブルクロスで申し訳程度に飾られた卓上にはパッケージング済みのクリスマスケーキが並べ飾られ積み上げられていた。パイプ椅子に座る私の隣の席には、世界共通的なトナカイの味方、クリスマスイブの立役者、サンタクロースが和やかに微笑みながらペットボトルのお茶を飲んでいるし(最もこのサンタクロース、中身は私と同じくうら若き乙女であるし目に映える鮮やかな赤い衣装は膝丈のミニスカートへとアレンジが加えられていた。このような可愛いらしい格好の配役に紙一重で辿り着くことができないのは、私の生まれ持っての運命的な采配というべきなのか、あなたの人生にそのような道は用意してませんから諦めなさいと神様に言われているかのようで、内心ちょっと落ち込む)まあつまり、クリスマスケーキの街頭販売をしているわけである。
トナカイの格好もサンタの衣装もケーキの販売促進と捉えれば何ら不自然なことじゃない。だからと言って私の羞恥が軽減されはしても無くなるわけではないが、できることなら写メだけは遠慮してもらいたい。
まあそれはさておき、ではどういう経緯でクリスマスのイブの日に私がトナカイの格好でケーキの路上販売をすることになったのか。思い起こしてみれば何てことの無いごく日常的な会話が、すべての始まりだった。
十二月に入ってまだ間もない、とある日の事。
暦の上では師走と言うが、教授は勿論のこと助教授や助手が走り回るわけでもなく、年の瀬だという理由にならない理由だけで何だか気持ちばかり焦らされている、そんな平凡でいつも通りな日。私たちは穏やかな日常の通常業務として普段となんら変わらぬ学食で特に目立った変化も無い食事を取っていた。
テーブルに置かれたメリーのトレイは豆腐のサラダから始まり、豆腐ステーキに冷奴、麻婆豆腐に杏仁豆腐と完璧なまでに豆腐で統一されていた。ヘルシーで女の子らしい食事と強引に解釈できないことも無い。一方、私のトレイには豚の生姜焼き定食が窮屈そうに並べられていた。ヘルシーとは無縁だし女の子らしさも感じられない。でもまあ今日は生姜焼きな気分だったので致し方ない。食事はその時の気分を優先すべきだと私は常々考えている。きっとメリーも食卓を豆腐で埋め尽くしたい気分だっただけで、健康のことを考えているわけでもなければ、豆腐に強い恨みを抱いていて一刻の猶予もなく世界中の豆腐を食べ尽くし消滅させなければ気が収まらないなんて事情があるわけでも無いのだろう。
普段どおりの食事風景、話を切り出したのは私からだった。会話の内容に深い考えがあったわけじゃない。
「ねぇメリー、賢者の贈り物って話、知ってる?」
「え、あの貧しい夫婦がプレゼントを贈りあう話のこと?」
年末が近くなると出現頻度が高くなる、日本人なら誰でも一度は聞いたことがあるだろうというほど有名な話だ。どっかの国に住む貧しい夫婦、夫は値打ち物の金の懐中時計を持っていて、妻は美しい金髪を持っていた。クリスマスの日にお互いが相手に内緒でプレゼントを用意しようとするが、なにしろお金が無い。仕方なく夫は懐中時計を質に入れ、妻は髪を切って売って金を工面した。しかし皮肉なことに、妻の用意したプレゼントは懐中時計に合う金の鎖、夫の用意したプレゼントは妻の髪に似合う櫛だか髪飾りだか。お互いのプレゼントは無用の長物となってしまったが、二人は掛け替えの無い物を手に入れたのでした。めでたしめでたし。
「私、昔っから思ってたんだけど、あの話はフェアじゃないわ」
「フェアじゃない?」
「そう、フェアじゃない。だって考えてみてよ、妻が売ったのは髪の毛なのよ。そりゃ美しい髪の毛だったかもしれないけど、時間が経てばまた伸びるじゃない。でも質に入れた懐中時計は違うわ。お金の工面ができなけりゃ質流れしてそれっきり。プレゼントの金策に困るような夫婦が懐中時計を買い戻せるなんて考えは楽観的すぎるわ。前提条件が公平じゃないのよ」
「ユニークな考えね。いえ、ユニークというよりも捻くれてる、かしら」
「捻くれてなんかないわよ。きっとみんな私と同じこと考えてるけど言わないだけなのよ」
メリーは箸で器用に切り分けた冷奴を口に含むと、しばらくもぐもぐさせてから、こう返した。
「蓮子の偏屈者」
「偏屈じゃないわ」
「天邪鬼」
「違うって」
どこを切っても引っ張っても白人にしか見えないメリーが日本古来の言葉を流暢に話す様子は奇妙な面白さがあった。そのギャップを味わうのが最近の私の密かな楽しみだった。
「例えばよ、百歩譲って、賢者の贈り物EP2とか銘打つ続編があって、そこで夫の懐中時計を買い戻す納得できる展開があるんなら、私だって不満は無いわ」
「誰もそんなの望まないんじゃないかしら。深く考察するまでもなく蛇足でしか無いもの」
「そうかなぁー。蛇足かなぁ」
正直な気持ちとしては、そんなのどちらでも良かった。なにか疑問を解消したいわけでもなければ、なにか結論を得たいわけでもなく、ただメリーと楽しくお喋りがしたい、その為だけの意味しか持たない、お喋りのためのお喋りだったのだから。
メリーは豆腐尽くしの食事をほぼ食べ終え、仕上げとしてデザートの杏仁豆腐をスプーンですくい上げようとしていた。私もデザート食べようかな、と暢気に考えを巡らせていると、メリーが「あっ」と小さな声をあげた。
「ねぇ蓮子、わたし、いいこと思いついちゃった」
「いいこと?」
メリーの白い頬は仄かに上気し、菫の瞳は深い色を湛えていた。好奇心に胸躍らせる子供のように喜びを隠さないその表情は、私が一番好きな表情だった。
それに、メリーがいいことと言う時は、メリーにとってだけでなく私たち二人にとっていいことなのだから。
「もうあと一月もしないうちにクリスマスじゃない。そのイブの夜にね、私たちでプレゼントの交換をするの」
「それが、いいこと? 去年もやったような気もするけど」
「肝心なのはここからよ。相手に渡すプレゼントには条件があるの。それは、今日からイブの夜までの間にアルバイトをして、それで稼いだお金だけで用意するの。仕送りや貰ったり借りたりしたお金、あと貯金も使っちゃ駄目」
「なるほど、私たち流の賢者の贈り物なわけね」
経験豊富とはいかないものの、私だってアルバイトぐらいしたことはある。今からの短期となると職種は限られてくるかもしれないけど、特に問題は無さそうだった。
「うん、面白そう。その話、乗った」
「決まりね。それでこそ蓮子よ」
微笑みながら杏仁豆腐を口に運ぶメリーを見て、やっぱり私もデザートを食べようと決心したところで、不意に大事なことを思い出す。午後提出のレポートの仕上げがまだ終わっていない。
「やばっ、メリー今何時?」
「え、どうしたの急に」
訝しながらもメリーは手首に嵌めた細身の腕時計に目を落とす。ブランドに詳しくないけど、きっと目玉が飛び出そうなほどの高級品なんだろう。
「えっと、十二時四十分」
「ああっ時間無い! レポートやらなきゃ。ごめんメリー後で連絡する」
「あ、うん。がんばってね」
手で挨拶を済ますと、私は鞄を引っ手繰るように掴んで食堂を駆け出した。
参考資料を引っ張り出して引っ掻き回して引き千切っての格闘の末にレポートを提出した私は、その足で購買の書店に向かった。善は急げのことわざではないが、夕方のうちにバイトを探して夜に結果を報告する。電話越しのメリーとそんな約束をしていた。
出入り口付近の棚からアルバイト情報誌を手に取る。過剰な厚さのそれは、手に確かな重さを伝える。隈なく目を通していたら年が明けてしまうだろう。小口に指を滑らせて、「かみさまのいうとおり」と囁いて念じる。神様の選んだページを開いて最初に目に飛び込んできたのは、とある喫茶店の求人だった。
『アルバイト、短期、長期募集。ヒエダ珈琲』
駅前通りの繁華街にあるその古風な喫茶店には、メリーと一緒に何度か足を運んだことがあった。静かで落ち着いた雰囲気の店で、どことなく大正浪漫を感じさせるほど懐古趣味に走った店内はとても居心地が良かった。照明が抑えられているので読書には向かないが。
店名が示すとおり珈琲専門店を謳ってはいるが、実際には軽食やデザートも取り扱う、つまり喫茶店である。神様もなかなか粋な選択をするものだ。
私は求人欄に目を走らせ条件を確認する。高校生不可、未経験者歓迎、時給850円―― うん、問題無い。
真新しいサロンを身につけて、芳ばしく香る珈琲を優雅に運ぶ自分の姿が容易に想像できた。アルバイトとしてならとても素敵な仕事だと思う。
私は電話番号を記憶すると、アルバイト情報誌を棚に戻して書店を後にした。
電話で求人情報を見たことを伝えると、面接がしたいので店まで来て欲しいと返ってきた。クリスマスまでの短期だということと、給料の支払いは最終日に現金で欲しいという希望も伝えたが、それによって求人を断られることは無かった。
「はじめまして、店長とオーナーを兼任している稗田です」
面接に応じてくれたのはおかっぱ頭の小さな女の子だった。どう見ても小学生か、せいぜい中学生くらいにしか見えない。世の中には立派に成人していても童顔のため子供と間違われる人というのもいるのだろうが、それにしては目の前に座る少女はあまりにも幼すぎる。どうしても子供だとしか考えられない。その癖、妙に落ち着いた物腰は永い年月を経て洗練されてきたかのようで、一言で表すなら、不思議な人だった。
「稗田は、もともと貿易で財を成した家なのですが、まだ日本で珈琲が馴染み薄い明治初期に珈琲専門店として開業して以来、この町とともに歴史を歩み、代々稗田に縁のある者が務めてきた店長職も私で九代目で……こんな話をしても退屈なだけですよね」
「い、いえ、そんなことは」
オーバーリアクション気味に慌てる私を見て、稗田店長は綻ぶような笑顔を浮かべた。
「直感ですが、あなたは大変面白い方なのではないかと思います。ええ、気に入りました。早速明日から働いて頂きたいのですが、よろしかったですか」
「え、そんな簡単に決めちゃっていいんですか」
「いいんです」
「でも、電話でお伝えした通り、クリスマスまでしか働けないとか給料は現金でくれとか、私いろいろ面倒ですよ」
「ええ、それも踏まえて、あなたを雇いたいと言っているのです」
私を見つめる稗田店長の目は、何もかも見透かすかのような不思議な感じがした。
「それで、その喫茶店で蓮子は働くことにしたの?」
「うん」
「へー、ウエイターかぁ。格好いいじゃない、きっと蓮子なら似合うわよ」
「やったこと無いんで、上手くいくか分からないんだけどね。メリーはアルバイト決まったの?」
「もちろん」
「え、どこで働くの」
「駅裏のビルに外国語学校があるじゃない。そこの英語教師をやることになったわ」
「……なんかそれ、ずるい!」
喫茶店でのアルバイトは、新鮮で遣り甲斐を感じられる仕事だった。最初のうちこそ細かいミスを犯したりもしたが、次第に仕事にも慣れていき、他のスタッフとも打ち解けて充実した日々を送ることができた。
なによりも私は、このお店が好きだった。その思いは従業員として働く立場になることで一層強まり、今では自分の家に向けるかのような愛着を感じてさえいた。
平和で穏やかとさえ言えるそんな日々に変化が訪れたのは、二十三日のことだった。
この日はミーティングと称して、閉店後に全ての従業員が集められた。概要としては、翌日の二十四日クリスマスイブを掻き入れ時と定め、クリスマスケーキを大々的に販売すること。そのために全従業員が変則的な業務を分担して執り行うということ。
具体的には十名いる従業員のうち、通常の喫茶業務で店を回すのが三名。残りの七名のうち二名は路上でケーキの販売を行い、あとの五名はケーキの製作に当たる。寒空の下で路上販売をする二名は公平にくじ引きで決められることになり、箱に入れられたくじを一人ずつ引いていくこととなった。
順番が回ってきて、私は箱の中に手を入れ、折り畳まれた半紙を取り出す。半紙を開くと、稗田店長が嬉しそうな、いや、嗜虐的と形容したほうがぴったりくる、そんな笑顔を浮かべた。
「宇佐見さんは本当に持ってますね」
半紙には流れるような草書体で「トナカイ」と書かれていた。
クリスマスイブの厨房は、苺と生クリームの飛び交う戦場だった。午前中はケーキ製作を手伝う段取りだったのだが、経験の浅い新兵は戦場では役に立たない。茫然自失の体で邪魔にならないように右往左往することだけが、私にできることだった。
昼休みを挟んだ後、くじ引きの采配に従い、私はトナカイになった。
生地の厚い着ぐるみは毛布に包まっているようなものだから、屋外でも寒さに凍える心配は無いのではないか。そんな私の暢気な希望的観測は、年の瀬の京都の無慈悲極まる寒気によって一蹴された。
「さ、寒いですね」
「冬ですからね」
震えながら漏らした一言に、サンタ姿の相棒がのんびりとした口調で返答してくれる。サンタの中の人は中国から来た留学生で、名前は紅美鈴。もちろん本職のサンタなわけじゃなく、私と同じ学生アルバイト。
街頭販売チームのライフラインとも言える電気ストーブは彼女の足元にあった。こちらからでは彼女が陰になって熱気があまり届かないのだけど、彼女のサンタ姿のスカートから伸びる綺麗な足を包むのは黒いストッキングだけで、見ているだけで寒さが増しそうだったのでストーブは諦めた。
「しかし流石クリスマスと言うべきか、さっきからカップルしか通りませんね」
駅の方向から私たちの前を通り過ぎていくのは例外無くカップルばかりだった。いわばカップルの群れである。クリスマスじゃない日はきっと、河原の石の裏や森の木の洞などで身を寄せ合って暮らしているのだろう。
「こうもカップルばっかりだと、なんだか私たち虚しい気分になっちゃいますね」
「そうですか? でもみんな、とても幸せそうな顔をしてますよ」
美鈴さんは無邪気に微笑む。
「クリスマスって、世界中の人が優しくなれる素敵な日じゃないですか。そんな日に幸せそうな顔してる人を見てると、なんだか私まで幸せで心が温かくなってきちゃうんですよ」
話を振る相手を間違えたのか振る話題を間違えたのか、おっとりした性格の美鈴さんはいつもこんな調子だ。彼女と一緒にいると、のんびりとして気分が和む。それはいいのだが、弊害として仕事の進捗具合ものんびりしてしまい、一時間で終わる目算の仕事に四時間を費やすこととなってしまう。
とりあえずのところ、心が温かくなったとしても身体は確実に寒いままだということに注意したい。
途切れることなく続くカップルの群れを眺めていたら、なんだか眠くなってきた。サイダー色した冬の雲の下だから、居眠りは生死に関わるかもしれない。隣で微笑む美鈴さんは私が寝たら起こしてくれるだろうか? 「気持ちよさそうに寝てましたから」と、そっとしておいてくれそうだ。私の短かった生涯もここで幕を下ろすことになりそうだ。
「あっ、早苗大変だ! こんな所でケーキを売っているよ」
意識の遠のきかけた私の頭に、甲高い子供の声が響いた。顔を上げると冬なのに麦藁帽子みたいなのを被っている風変わりな女の子が、目を輝かせて蝋製のケーキの見本を眺めていた。
「諏訪子さま、今日はクリスマスなんですからケーキぐらい売ってても不思議でも何でもないですよ。むしろ、今日売らなけりゃいつ売るんだと問いたいくらいです」
「でもさぁ、折角この寒い中、売ってくれてるんだから、気前よく買ってやるのが人の世の人情ってやつじゃないかい」
帽子は変だけど、なかなかいい事を言う子供だ。ぜひ気前よく買ってやってほしい。私は神に祈るかのような心持ちで、恐らく財布を握っていると目される、早苗と呼ばれたほうの少女に懇願の眼差しを向けた。
しかし私のささやかな祈りも、少女には届かなかった。彼女は右手に下げた買い物袋を指差して、帽子の女の子に問いかける。
「私たちが先ほど買った、この買い物袋の中身、何だったか覚えてはいませんか」
「何だったっけ?……たしか、卵と生クリームと、あと苺?」
「それらを原材料としてなにが出来上がるのか、わかりませんか」
「えーと、ケーキ……かな?」
「ならば今ここでケーキを買う必要は無いのではありませんか? 夜までにケーキを完成させなければなりません。神奈子さまも待ち侘びています。帰りましょう」
「うん、そだね」
姉妹のような二人の女の子は、仲良く手を繋いで立ち去っていった。
「やっぱりみんな、ケーキは事前に準備してるか今から作るところなんですよ。準備を忘れて慌てて買ってく人なんて、滅多にいないんじゃないんですかね」
「そうかも知れませんね」
「だったら売れませんよね」
「……ですね」
それからも目の前を過ぎるのはカップルばかりで、お客さんが訪れる様子は無かった。寒い時に椅子に座ってじっとしていると体の調子が悪くなりそうなので、私は体操でもしようと立ち上がりかけて、自分の体が妙に重いことに気づく。
よく見ると、私の胸に黄色い服の女の子がしがみ付いていた。女の子は「トナカイさん、もふもふ」と、うわ言の様に呟いていた。
「なんか、えっ、何これ!?」
「モテモテじゃないですか宇佐見さん」
状況がよく飲み込めないけど、たぶんモテモテなのは私じゃなくてトナカイさんなんだと思う。どちらにしても少し困った。
幸せそうに着ぐるみに頬擦りしている女の子を、無下に振り払うのは気が引ける。かといってこのままだと動き辛いし、たぶんきっと物凄く間抜けな絵になっているんじゃないだろうか?
縋るような眼差しで美鈴さんに助けを求めるが、彼女は曖昧な笑顔を返してくれるだけだった。
「可愛らしいし、そのままでいいんじゃないですか」
「いや、そのままは流石に困るんですけど。美鈴さん他人事だと思って適当言ってません?」
私の発する困ったオーラを察知したのか、気がつけば目の前にピンクの服を着た少女が立っていた。彼女は私にしがみ付いている女の子を無造作に引っつかむと、一息に引き剥がす。
「やーん、トナカイさん、もふもふするのー」
「トナカイさんが困っているじゃありませんか。自重なさい、こいし」
こいしと呼ばれた女の子は、しばらくじたばたと暴れていたが、テーブルの上を見てピタッと動きを止めた。
「あっ、あっ、お姉ちゃんケーキだよ」
「ケーキの路上販売ですね」
この子はケーキを売ってることに気づかず、ダイレクトにトナカイをもふもふしていたのだろうか? トナカイしか目に入っていなかったのだろうか? トナカイを見かけると抱きついてしまう病の患者なのだろうか?
「ねぇ、ケーキ買って帰ろうよ。すごくおいしそうだよ」
「駄目です」
即答で断られました。
「忘れたのですか? 今年はお空がケーキを作ってくれるから、みんなで食べようと言ったじゃないですか」
「でも、失敗するかもしれないじゃない」
「お燐が付いているから大丈夫です」
「保険はあったほうがいいよ」
「仮に、もし、お空のケーキが失敗作だったとして」
ピンクの服の少女は小さくため息をつく。
「保険でおいしいケーキが用意してあったと知ったら、お空はどんな気持ちになると思いますか」
「……落ち込む、かな」
「落ち込んだお空なんて見たくないですよね? だったら、美味しいケーキを作ると信じて待ちましょう」
「うん」
「じゃ、帰りましょうか」
「ちょっと待ってお姉ちゃん。帰る前にサンタさんをもふもふ……」
こいしと呼ばれた女の子は、じたばたと暴れながら姉に引き摺られていった。
「姉妹だったんでしょうか? なんだか不思議な子たちでしたね」
「そうですね。でも、可愛らしかったですよね」
「ま、まぁ……意外と重かったけど」
その後も順調に売り上げゼロを維持したまま、夕暮れ時になってしまった。
冷やかしで覗いていく人やトナカイ姿の私を見て笑い出す人はいても、ケーキを買っていく人はいなかった。写メはやめて!
寒さと疲れでぼーっとしていたところ、ふと気がつくと目の前に二人の少女が立っていた。
「なぁ霊夢、ケーキ売ってるぜ」
「それがどうしたっていうの」
先に話しかけた方の少女は布地の多そうな黒いドレスに黒い帽子。話しかけられたほうの少女は目に鮮やかな赤い服に、赤くて大きなリボンを髪に飾っていた。
「知ってるか? 今日はクリスマスイブだ。クリスマスイブにはみんなケーキを食べなきゃいけないんだ」
「私は和菓子派だから遠慮しておくわ。それに神社の巫女だからクリスマスも遠慮しておくわ」
赤い服は巫女装束のつもりらしかった。見たところかなりのアレンジが加えられているが。
「一年の三百六十五日のうち、一日ぐらいケーキを食べる日があってもいいだろ! それに神社だから巫女だからってクリスマスが駄目だってんなら、私の家に来ればいい。そうすりゃ問題ないだろ!」
「そんなにケーキが食べたいなら一人で食べればいいじゃない」
「一人でって……そんなの、それじゃ意味が無い」
黒いドレスの子は俯いて、押し黙ってしまった。赤い服の子も自分が言いすぎてしまったことに気がついたのか、居心地が悪そうに口をつぐんでしまう。
「……わかったわよ、食べればいいんでしょ、ケーキ」
赤い服の子は、ワザとらしく大きなため息をつくと、テーブルの上の見本を真剣な表情で睨み付ける。ケーキを食べるということはケーキを買ってくれるということだろうか?犬も食わない痴話喧嘩が始まったときはどうなるものか心配だったが、美味しいケーキを二人で食べればすぐに仲直りしてしまうことだろう。
「ああ、でもここじゃ駄目ね。二人で食べるには大きすぎるし、よく見たら値段も高いわ」
初めての売り上げかと思われたが急転直下、ここじゃ駄目と一刀両断されてしまった。
確かに小柄な女の子二人では少し持て余すサイズかもしれない。それに価格が高めなのも事実だった。しかしそれは素材と製法に拘ったための止むを得ない価格設定で、実際に食べて貰えたなら必ず納得できる、むしろ安いとさえ思ってもらえる筈だった。
実際に私は昨日試食をさせてもらい、甘さを抑えた上品なクリームと芳醇なスポンジの見事な調和に、不覚にも感動すら覚えてしまった。
その感動を表すために「このケーキならご飯何杯でもいけそうです」と答えてしまった事は、なかったこととして歴史から消し去りたいという気持ちでいっぱいではあるが。
「別の店に行くわよ。千八百円以内でなんとか探して、あとはファミチキでも買って魔理沙の家で食べましょう」
「ああ、わかったそうしよう」
私には何も言うことができなかった。美味しいから高価でも仕方ないなんて理屈、所詮はそれを買える余裕のある人にしか通じない。お小遣いで遣り繰りする、中学生かそこらの女の子からすれば、そんなの横暴でしかない。
きっとあの二人にとっては、素材より製法より、二人で選んで買ったという事実こそが重要なこととなるのだろう。
「ケーキは売れなかったですけど、仲直りできそうでよかったですね」
「ケーキは売れなかったですけどね」
「おいしいんですけどね」
「勿体無いですよね」
夜の帳が下り、あたりはすっかり暗くなっていた。イブの夜である。ケーキの箱を片手に駅から家路を急ぐ人たちや、あとカップル。
ケーキを持っているのならケーキが売れるはずもない。「足りないかもしれないから、もうひとつ」なんて人や「気分がいいから、もうひとつ」なんて人や「トナカイが二足で立ってたから、もうひとつ」なんて人、居るはずも無い。
テーブルの上に頭を預けてぐったりしていると、二人の小さな女の子がこちらを覗いていた。
「ケーキを売ってるわよチルノちゃん」
「ケーキ? あの甘くて美味しいケーキ?」
「そう、そのケーキ」
「大ちゃん、なんでケーキ売ってるの」
「今日はクリスマスイブだからよ」
「クリスマスイブ?」
「知らないのチルノちゃん? みんなでケーキを食べる日のことよ」
「えぇっ、そうなの! だったらあたいもケーキ食べたい!」
「チルノちゃん、お金持ってる?」
「持ってない。大ちゃんは?」
「私も持ってないの」
「そっか。レティはお金持ってるのかなぁ」
やたらと青系に色の偏った女の子二人が、小声で相談をしていた。ひょっとしたら私は寒さにやられて幻覚を見てるのかもしれない。
「二人とも、こんなところで寄り道してどうしちゃったの」
「あ、レティ。あのね」
青いのが更に増えた。二人の母親にしては流石に若すぎる。近所のお姉さんといったところだろうか。
「私たちケーキが食べたいの」
「レティも一緒に食べようよ」
「ああ、なるほど。そういえば今夜はクリスマスイブだったわね」
後から来たレティと呼ばれる女の子は、サンタ姿の美鈴さんににっこりと微笑む。
「ねぇサンタさん、ここのケーキは美味しいのかしら」
「ええ、勿論ですよ」
美鈴さんは、自信に満ちた笑顔を浮かべた。
「私たちが売ってるのは、この町で一番美味しいケーキなんですから!」
「この町で一番だったら、食べなきゃ駄目よね。じゃあひとつ貰えるかしら」
「あ、ありがとうございます!」
そんなつもりは無かったのに、私は気がつくと、立ち上がって深々とお辞儀をしていた。
ただケーキが売れただけ。それだけのことなのに、嬉しくて仕方がなかった。
隣りにいる美鈴さんとハイタッチして、そのあと抱きついた。嬉しくて気持ちが舞い上がって、笑いが止まらなくなってしまった。
小さな二人の子供にケーキの箱を手渡すと、嬌声を上げてそれを頭の上に掲げ持ち、二人は元気に走り出した。
「こらこら、走ったら危ないわよ」
レティと呼ばれてた女の子も早足でそれを追いかけて、ふと、何かを思い出したように私たちに振り返った。
「あなたたちにもプレゼント」
声は聞こえなかったが、そう言ったような気がした。
そして空を見上げる彼女に釣られて、私も空を見上げる。
「あっ!」
黒一色に塗られた夜の闇に
はらりはらりと
雪が舞い降りてきた。
「……降ってきちゃいましたね」
「ホワイトクリスマスですね。ロマンチックで素敵じゃないですか」
「素敵ですね、でも、寒い」
「こんばんは、ケーキください」
物凄く聞き覚えのある声がしたかと思うと、目の前にメリーが立っていた。
メリーは私と目が合うと力の限りに噴きだして、その後腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、蓮子、なにその格好は!」
私は、己がトナカイであることをすっかり忘れておりました。
「ちが、これは違う!」
「なにが違うのよ!あーもう蓮子ったら、可愛いすぎ」
「み、見ないで、お願い!」
恥ずかしくて顔が赤くなってくる。穴があったら入りたい。泣きたい気分だった。
なにより、ケタケタと小気味よく笑うメリーが恨めしい。
「大体、なんで私が働いてるところにメリーが来るのよ」
「あら、私はただケーキを買いに来ただけよ」
「そんな理由が通じるわけないじゃない」
「えー、だって嬉しいじゃない」
「ん?」
メリーは悪戯っぽく、小さな舌を見せた。
「私に贈り物をするために働いてるんでしょ?がんばってる蓮子を見れたら、物凄く嬉しいって思わない?」
「え、じゃ、じゃあ私もメリーが働いてるとこ見たい」
「私はもうアルバイト終わっちゃったもの」
「ずるい!」
「いつでも体験入学受付中だったんだから、見に来ればよかったのよ」
こんなことに勝ちも負けも無いけれど、なんだか負けたような気分で悔しい。
トナカイの格好で悔しがっても間抜けなので、それが余計に悔しかった。
「交代ですよー、宇佐見さん」
店内から文字通り躍り出てきたのは先輩店員の射命丸さん。いつも飄々としているけど名字だけはやたらと格好いい。
交代が来たということは、私のこの店での仕事ももうすぐ終わりということ。二週間とちょっとのアルバイト、長かったような短かったような複雑な気分だ。
仕事は楽しかったし店のみんなとも仲良くなれたし、もう二度と会えなくなるわけでもないのだけれど、やっぱりこれで終わりとなると、どうしても寂しい気分になってしまう。
交代の射命丸さんがトナカイじゃなくてサンタの衣装なのは少しひっかかるけど。
「あやや? ひょっとしてこの人が噂の、宇佐見さんの彼女さんですか」
「はい、彼女さんです」
「違います!」
間髪いれずに即答するメリーを睨み付ける。面識の無い人に誤解を招く発言をするのはやめてほしい。
「そういうのじゃ無いんですから」
「まあ、蓮子ったら人前だから照れてるのね」
「だから違うって!!」
私以外の三人は楽しそうに笑い出す。なんだか本当に照れくさくなってきた、顔が熱い。
「ま、それはいいとして、着替えが終わったら部屋に来てくださいって店長が言ってましたよ」
「あ、はい」
「ああそっか、宇佐見さん今日で終わりでしたよね」
美鈴さんの言葉には、ちょっとだけ暗い響きが感じられた。
「寂しくなりますね」
「うんうん、宇佐見さんが失敗した時の『ああっ!』っていう悲鳴が明日から聞けないと思うと、寂しいですよね」
「あら、蓮子ったらそんなに毎日失敗ばかりしてたのかしら」
「いやあの、毎日失敗ばかりってのは、かなり誇張された表現で、実際はちゃんとしっかり働いていて……ですよね美鈴さん?」
「……あはは」
美鈴さんは困ったような曖昧な笑みを浮かべる。
「まあでも、アルバイトが今日で終わりでも、宇佐見さんがお客さんとして遊びに来てくれればいいだけの話ですから」
「そうですね、また来ます」
「絶対ですよ、みんなで待ってますからね!」
「はい!」
「彼女さんも一緒にですよ」
「いやだからそういうのじゃ無いですって」
店長に挨拶してお給料を貰うため、メリーとは一旦別れた。給料でプレゼントを買ってからメリーの家で合流することになっていた。
店長室とプレートの架かった重厚なドアを開けると、不規則に揺らぐ蓄音機の奏でが耳に届いた。八畳ほどの部屋の中には床を探すのが難しいほど、和洋折衷、大小様々な物たちが押し込められていた。床面積に対して物が多すぎて整理されているのか散らかっているのか判断できない。部屋を占有するそれらの物たちに共通するのは、いずれも永い時を経た骨董品だということ。
明日から古美術商に鞍替えするのだろうと誤解しそうになる光景だったが、溢れるほどの骨董品に囲まれていると、時間の流れがゆっくりになったかのような不思議な安堵感を覚える。お店の雰囲気と似ているな、と思った。つまりきっと、ヒエダ珈琲の居心地のいい空気は、店長が趣味に突っ走った結果として得られたものなのだろう。
骨董品の林の奥の奥に、書き物をする小さな背中があった。
「ああ、ご苦労様です」
稗田店長は書き物の手を休めて、私に微笑みかける。
「お仕事は今日の十九時までという約束でしたね」
「はい。短い間ですがお世話になりました。あの、とても楽しかったです」
偽らざる正直な気持ちだった。これで終わりとなると、ちょっとだけ感傷的な気分になってしまう。
「ケーキ、あんまり売れませんでした」
「構いませんよ。ケーキの販売は予約のお客様がメインです、街頭販売は余興みたいなもの。お祭りは楽しまないと勿体無いですからね」
恥ずかしかったり寒かったりしたけど、お祭りと言われてしまうと楽しい思い出のように感じてしまう。
「宇佐見さんは、よいムードメーカーでした」
店長はまるで猫のように目を細める。
「この町に珈琲の専門店を構えて、私で九代目。ヒエダ珈琲には永い歴史があります。その永い歴史の中でも私が知る限り、お客様に砂糖と間違えて小麦粉をお出しした店員は宇佐見さんが初めてです」
「えっ!?あ、ご、ごめんなさい」
「ブルーマウンテンを注文されて厨房に元気よくスプラッシュマウンテンと告げた店員も、宇佐見さんが初めてです」
「それはその……すみません」
着物の袖で口元を隠して、店長はくすくすと笑い出す。
「私の目に狂いはありませんでした。あなたの突飛な行動で私たちの気持ちがどれほど和んだことか」
「あのー、誉められてる気がしないんですが」
「これで辞められるというのが本当に名残惜しい。心変わりはありませんか」
「いえ、今のところは」
後ろ髪引かれる思いも確かにあった。このお店でのアルバイトは新鮮で充実した時間をもたらしてくれる。しかし私には他に優先すべき事がある。学業はまあとりあえず置いておくとして、しばらく休業中だった秘封倶楽部の活動を再開しなければいけない。メリーと連れ立って行きたい場所がまだまだ沢山ある。
「他に、やりたいことがありますので」
「……そうですか」
店長は小さく息を吐くと机に向き直り、抽斗から茶封筒を取り出して私に手渡す。封筒には確かな厚みがあった。
「今日までのお給金です。約束通り現金でお渡しします」
「ありがとうございます」
「また家で働きたくなったらいつでも仰ってくださいね、歓迎いたします。もちろんお客様として立ち寄られても歓迎いたしますが」
「その時はよろしくお願いします。本当にありがとうございました」
ささやかだけど印象的な縁に感謝をこめて、私は深くお辞儀をした。
「どういたしまして。可愛らしい彼女にも宜しくお伝え下さい」
「え、あれはそういうのじゃなくて……」
にこやかに微笑む店長の目には嗜虐的な色が浮かんでいた。
貰ったばかりの給料でプレゼントを用意して、メリーの家に付いたのは二十時を少し過ぎた頃だった。
炬燵に入って鍋の準備をしていたメリーは、私の顔を見て安堵するかのよな笑顔を見せた。
「ごめん、待った?」
メリーに贈るために用意したプレゼントが巨大すぎたため、無理を言って店員のおじさんにここまで運んでもらった。にこやかに応じてくれた店員さんによって運び込まれたダンボール箱には「エアーウォーカー」と印刷されている。箱が馬鹿でかいのでラッピングの仕様が無い。包装紙を無造作に貼り付けるだけなら、やらないほうがマシだ。
「ああ、蓮子。あなたったら本当にわかってるわ」
メリーは感激に潤んだ瞳で私を見つめると、胸の中に飛び込んで強く抱きつく。
「私の本当に欲しい物を贈り物に選んでくれるなんて。最高よ、信じられないくらい嬉しい」
エアーウォーカーは何年か前に大々的に宣伝をして、結果として流行し損なった健康器具だ。まるで空の上を歩くかのような感覚でランニング運動が可能で、シェイプアップやダイエットの効果が期待できる……らしい。
メリーがこの健康器具に並々ならぬ興味を抱いていたことを私は知っていた。もっとも、最初に出会った頃からメリーは魅力的な女性らしい体型をしており、今だそれを維持しているわけだから、突然スーパーモデルを目指すのでもなければダイエットの必要なんて無い。きっと彼女には、なんだか楽しそうな遊具ぐらいにしか見えていないのだろう。
「ありがとう蓮子。次は、私の番ね」
そう言ってメリーは、可愛くラッピングされた小箱を私に差し出す。
「開けてもいい?」
「ええ、もちろん」
小箱に入っていたのは男物のクロノグラフ。例えば予想できない不運でトラックに轢かれたとして、持ち主の命が失われたとしても、お構い無しに正確な時を刻み続ける。そんなタフさが売りの腕時計だった。
「遅刻常習犯のあなたにはぴったりだと思わない?」
「メリー……」
私の特異な目は、星を見れば時刻を知ることができる。その能力もあって、私は普段、時計を持ち歩く習慣が無かった。しかし裏を返せばそれは、星が見えなければ時刻を知ることができないという意味であり、メリーの言うとおり約束に遅刻してしまうこともたまに、いや何度か、いや頻繁にあった。
箱から取り出して腕に付けてみる。細すぎる私の手首に無骨な男物の時計はひどく不釣合いだ。でも、それは、私がそうありたいと願う宇佐見蓮子の姿にはとてもよく似合っていた。
私と、私の大切な友人は、心の深いところで繋がり、理解しあっている。それはひょっとしたら錯覚なのかもしれないけど、こんなにも嬉しい気持ちになれるのなら、錯覚でも構わない、そう思えた。
「ありがとうメリー。大切にするわ」
「どういたしまして。これで遅刻も無くなるといいんだけどね」
「それは約束し兼ねます」
悪戯っぽい答えを聞いて、メリーは弾けるように笑い出した。
「そろそろ鍋が食べ頃だと思うわ。座って」
土鍋の蓋を取り、私たちは言葉も無く箸を進めた。
二人の間に言葉は必要なかった。
誰よりも大切な友達からの贈り物が嬉しくて、胸が一杯で、言うべき言葉が見つからなかった。…………訳ではない。
土鍋の中で茹であがっているのは北海道直送のタラバガニ。
これも二人がアルバイトをした給料を出し合って調達した物だ。
十分な仕送りでゆとりのある学生生活を送っているとはいえ、タラバガニなんて滅多に口にできるものじゃない。
私がいて、メリーがいて、蟹がある。
言葉なんて必要なかった。
一人暮らしには広すぎるメリーの部屋に
鍋の煮える、ぐつぐつという音と、蟹を食べる、もしゃもしゃという音だけが
静かに響いていた。
終
>サイダー色した冬の雲の下
冬の色じゃない気がしますw
トナカイ装備赤面蓮子の画像ください!
皆可愛くてもうね!