連載ものです。
SO-NANOKA-
SO-NANOKA-2
SO-NANOKA-3
よろしくお願いします。
鋭い視線に射止められ、凍らされた蛙のように体が動かない。
視線の主は居酒屋で倒れ、また、紅魔でも倒れた妖夢。どこか間の抜けた感じで、自分と似ているな、とすら思ったほどだったが、違った。
彼女には芯がある。頑なに主の命を実行しようとする心が。
「スパイ、なんて言っちゃったら嫌でも帰ってもらわないといけないよ」
至極当然の事を言った。しかし、正しい事を言えたとは思えない。
秒針が一つ揺れる。
「帰りません」
心臓が早鐘を打つ。
気落とされている時、相手が無茶苦茶を言っているとわかっているのに、まるで聖者の言のような力を持ち、逆らえないと錯覚してしまう。理解はしている。しかし、理屈だけでは、どうにもならない恐怖があった。
「幽々子は、紅魔の何を求めてるの?」
「幽々子様は紅魔自体を求めております」
即答。巨人の一歩にも劣らぬ力強さで妖夢は足を踏み出す。踏み潰されぬように、チルノは一歩下がらざるをえなかった。
「なので、私をスパイとして、ここに置いてください」
無茶苦茶な――。
妖夢は、一歩、また一歩と確実に近づいてくる。一方チルノは下がり続けるのみ。しかし、ついに限界が訪れる。
ざらりとした壁が背中をなめた。
「ここに、私を置いてください」
青い瞳は、もう三十センチも離れていない。
……そうだ。るーみゃは?
ほとんど反射的にそう思った。体裁の良い逃げだ。けれど、目は自然とルーミアを探そうとしていた。その時だ。どん、と壁を伝わった衝撃波が鼓膜を揺さぶった。見ると、妖夢の右手が壁に張り付いている。
「目を逸らさないで下さい」
五寸釘を腹部に打ち込まれたかのようだった。近くに居るはずのルーミアにすら、助けを求められない。
「何度でも言います。私をここに置いてくれませんか? チルノさん。あなたに訊ねているのです。ルーミアさんには訊ねておりません。それに、わかるでしょう。ルーミアさんが干渉しようとしていないのが」
視界はブルーでも、一つだけ、ルーミアの行動を察知できる部位がある。聴覚、耳だ。わずかな沈黙に割り込むように、淡々としたタイピングの音が響いていた。
ひたすら自分の作業をこなす時の音だ。
「わかりましたか?」
どうして、どうして助けてくれないんだろう。今までは助けてくれたのに。
そんな事を考えている自分に自嘲した。
いつの間にか、ルーミアの力にばかり頼るようになっていた事くらいわかっている。今まで、甘えに甘えてきた。
ルーミアならば、すぐに解決してくれる、と。
けれど、妖夢は相手会社の側近だ。下手な返答をすると、商売じたいの破綻に関わりかねない。
なおの事ルーミアでなければいけないのでは? ルーミアと比べ、自分がやったのでは、確実性を著しく欠いてしまう。
だから、だからルーミアじゃないといけない。
でも、ルーミアは拒否をした。商売の破綻は自分自身の身を破滅に関わるというのに。
……待ってよ。考え直すべきだ。
まず、どうして拒否をしたんだろう。
そこを考えるべきだ。
ルーミアがチルノのヘルプを拒否したには、それなりの理由があるはずだ。理由もなく、拒否をする事は絶対にしない。
ここに到り、一つ、別の思考がうまれた。
これまでの、ルーミアとの付き合いを思いだす。
仕事で間違いを犯してもルーミアには嫌な顔をされた事はない。むしろ、微笑んで訂正をしてくれる。任せられそうな仕事はどんなに失敗した後のチルノにも、ただ黙って渡してくれる。
そして、提出したら、また直してくれる。学校の先生のように。
つまり、この問題は間違えても修正できる。まず、自分で解答を出せ。それが間違えでも良いから。間違えたとしても、自分がカバーしてやる。こう言いたいのではないか。
付き合いの中、ルーミアが話さなくても、ある程度は言いたいことがわかるようになってきた。しかし、あくまで身ぶり手ぶりがあっての事だ。
今の見解は、まったく見当違いの事かもしれない。
でも、なんとなく、ルーミアがそう言いたいのだという気がした。
間違ったらごめん。なんて言う気持ちではなく、間違っていても良い。という自信が湧いてきた。今まで、ルーミアが居るから堂々と間違えをする事ができたのかもしれない。いや、事実そうだろう。この関係が一番しっくりとくるのではないか。それが良い事か悪い事かはわからないけれど。
とにかく、踏ん切りがついた。
やろうよ、あたい。これは、あたいの仕事だ。
チルノはわかっていた。ルーミアのように的のど真ん中を射抜く完璧な解答は出せない事を。しかし、自分なりの答えを出そう。
表面上は不敵な笑いを作り、腹いっぱいに酸素を喰らった。
「……居ても良いよ。紅魔に」
ヤクザ顔負けの刀のような瞳と真正面から向き合う。自分に、覇気あるとしても、今、妖夢には到底敵わない。
「へえ、良いんですね」
怖い。怖いけどね、やっぱりやらないとね。
熱くもないのに掻く汗が壁に吸いついているような感覚があった。けれども、強引にそれを引き離す。
今までとの態度にギャップがあったからだろうか。はじめて、妖夢の余裕に陰りが見えた。青の瞳との距離は、もうほとんど零距離だ。青空のような目に、僅かに霧がかかったのも見て取れた。
これを逃すのは、真のまぬけというものだ。
決起として、より一層不敵な笑いを作り出す。見る人が見れば、演技と分かるだろう。それでも、今の妖夢には、効果あり、と踏んでだ。
「スパイとして、なら。あたいは、スパイとして妖夢が動く事を信じるよ」
ねえ、あってる? 仮面の裏でルーミアに問いかける。
刀を模した瞳が、盾のように丸くなる。
もう焦っていない。この瞬間、自分のペースに持ち込めたのがわかったからだ。
次に声を上げたのは妖夢。それも、「はい?」と、とてつもなく間抜けなものだった。
予想外の答えのせいだろうか。ただ一つ、やっぱり、と思ったことがあった。
「妖夢が、スパイとして動くなら、スパイ以上の事をしないよね?」
宣言したとは言え、活動はスパイらしく動く。この前提だ。スパイは陰で動くもの。なら、影を作らなければよい。
止めを刺しに行った。もう、罠にはまった兎と同じ。後は、捕るだけ。
「終わるまで、ずっとあたいがついてるよ」
「ええ?」
二度目の間の抜けた声。
やっぱり、と思ったことが確信に変わった。最初に思った通り、妖夢はチルノに似ている。一度折れればもろい。
「だから、よろしくね。妖夢」
いつの間にか、チルノと妖夢の間は開いていた。勿論、チルノがあけたのではない。ぎこちないと自覚しつつも、笑顔を浮かべて、右手を妖夢に差し出したのだった。
徹夜明けの太陽は体に優しくない。全国チェーンのコンビニストア、香林堂で購入した朝食を抱え、チルノと妖夢は街中を歩いていた。
日が昇る時間帯とはいえ、まだ人通りは少なく、車道を走るのも地霊館の人化した猫くらいだ。
あの後、ルーミアは一つだけ、訂正を加えた。
幽々子が手伝いをしろ、と言っていた事を伝えればよかった。と、パソコンにうって教えてくれた。
あわてて、伝えたものの、今の妖夢はスパイか、手伝いか、決めかねているようである。
そもそも、チルノの余計な鎌かけがなかったらこんな事態にはならなかったのでは? と、思えなくもなく、ルーミアに聞いたが、仕方ない、私もそうするかもしれない、とのことだった。
紅魔の仕事場へと戻る。
「はい、朝食」
「そーなのかー」
今だパソコンに張り付いていたルーミアにおにぎりを三つ渡した。しかし、あからさまに不満げな顔をされてしまった。
昨日、あれだけ食べたというのに、まだ入るのだろうか。苦笑いをし、机につく。中ぶらりんの状況の妖夢は、ソファに座って思案顔を作っていた。
うだぁ、と背もたれにもたれかかる。
コーヒーが欲しいな。徹夜明けの頭が言っている。甘いコーヒー。すると、願いが叶ったのか、目の前にコーヒーが現れた。
半ば寝ぼけたまま、大きく一口。
「ん……!?」
熱い!? 吹き出しそうになるのを足をばたつかせてこらえる。
ようやく、液体が喉元を過ぎる。信じれない程頭が冴えていた。べろはヒリヒリするけど。
「目が覚めたかしら」
いつの間にか、背後に酔狂な咲夜が立っていた。相変わらず、妙なところで不意打ちを入れる。眠気覚ましには確かにちょうど良いけど……。
「社長がお呼びですわ」
それだけ言うと、咲夜は憮然と去っていった。妖夢の事には一切触れずに。
チルノとルーミアは、妖夢をつれて、すぐさま社長室に向かった。
「ルーミア、チルノ。なかなか良い度胸しているじゃないか。あんな取引を受けるなんてな」
豪奢な椅子に座ったレミリアの言葉には、怒りはなく、感嘆の響きが多く含まれていた。
「それに、スパイを一人抱え込むなんてな」
チルノは、まだこれら全ての事をレミリアには伝えていない。直接事の終始をみていたかのような情報力だ。
それに、スパイと分かっていて警戒する様子も見せない。
「ま、受けたことに関してはなにも言わない。勝算があるから受けたんだろうしな。ただ、幽々子はとんでもない戦略家だ。足元をすくわれないようにしろよ」
おっと。
なにかを思い出したのかレミリアは声をあげた。
「そうそう。一つプレゼントをくれてやる。チルノ」
レミリアから受け渡されたのは、ノートを乱暴にちぎって作られた紙切れだった。
「ふふふ、スパイには見せるなよ」
意地の悪そうに笑うレミリアにチルノは頷く。
それを見たレミリアは満足したのか伸びをする。
「頼むぞ。会社の事もあるが、なにより、ルーミア、お前の身がかかってるんだからな。」
タイムリミットはきっかり零時。
それまでに、幽々子との決着をつけねばならない。事前に連絡をしてから、美術館に向かう。
美術館は白城を模した作りで、その現実離れした景色にチルノは、思わず唾を飲んだ。ビル郡の中にでかでかと建っていれば尚更目立つ。
この美術館の館長を勤めるのは永江衣久。
某検索エンジンで調べたところ、空調管理の上手さと、頭の堅さとで選ばれたらしい。この頭の固さが、チルノ達にとって裏目に出ないことを祈るばかりだ。
今回の場合は、時間をあまりかけたくない。
迅速且つ円満に。
そうしなければ、ルーミアが遥か彼方へと消え去ってしまう。
古風な作りをしているとはいえ、入り口は自動ドアだ。入ってすぐ右に、受付があった。受付には、ガラスが張られ、外部からの攻撃を抑制するようにしてあった。ガラスの奥には誰もいない。また、受付の先にある広大なロビーにも、人は見受けられない。
平日だから?
視線を辺りに這わせる。
すると、人が居ない、という理由になり得そうなものを見つけた。ロビーに敷かれた赤い絨毯の先には、一つの大きな穴が開けられていた。
明らかに人為的に破壊されたもので、中へと破片が入りこんでいることから、外部からの侵入者とみて良いだろう。
……何かある。
「何があったんですかね」
とにかく、手伝いだ。そう割り切ったのか、妖夢の声は、探りを入れるようなスパイの成分は無くなっていた。チルノは曖昧に頷いてみせる。受付嬢が居ないのも、そのことが原因かもしれない。
「とにかく、入ってみようよ」
本来は、こんなこといけないのだろうけど。
ロビーに足を踏み入れようとしたとき、ルーミアの手に制止された。
「どうしたの?」
もう一度、人気のない受付をルーミアは覗き込む。あるのは、作業用の机だけ。ため息を着くと、眼鏡をかけ直し、グーをチルノと妖夢に差し出してきた。
「じゃんけん?」
こっくりとルーミアは頷いた。なんで? と、尋ねる前に、じゃんけんは無言のうちに始まった。
じゃーんけーん。
結果。ルーミア以外は訳もわからず、慌てて出すことになるわけで。
ポン。
ぱーぱーぐー。
妖夢の一人負け。
すると、眼鏡の奥に黒い黒い色が浮かんだ。こういう時、意味もなくぞくりとさせられる。何故なら、良からぬ事をたくらんでいる時の目だから――。
ロビーに向かって、妖夢をとん、と押した。
は? の顔を作ったまま、妖夢はバランスを崩す。
「みょおおおおおおん!?」
妖夢の悲鳴と同時に、チルノの体が宙に浮いた。脇腹辺りに、ルーミアの背中の感触がある。背負い投げだ。理解した時には、ロビーの地面を転がっていた。投げ方が上手いのか、不思議と痛みはない。
ロビーの赤い絨毯の上で、チルノが一回転する間に、すべては終わっていた。ルーミアもロビー内に入っており、その足元では妖夢が煙を上げていた。今のは、雷? 反射的に天井を仰いだ。
げ。
天井にはロビーと受付を区切るように無数のスペルカードが貼られていた。最近、河童が売り出した防犯用のスペルカードだ。
電気ショックは、体を麻痺させるにはもってこいだ。そして、妖夢はその避雷針にされたわけで……。
理解を深めていくにつれ、無形の罪悪感が湧いてきた。
「いや、あの、なんかごめんね。妖夢」
でも、じゃんけんで自分が負けたときは……。そう思うと、背筋が凍った。
「あの……、ルーミア……さん。気付いていたのなら……、言ってくれませんか……。刀を避雷針にするということもできたかもしれませんし……」
地べたに張り付く妖夢が消え入りそうな声で論ずる。一瞬、ルーミアは、はっ、となるも、肩をすくめて歩き出してしまった。科学的な事は、よくわからないとでも言うように。
いやいやいや、待ってよ。心の中で呼び掛ける。
妖夢に肩を貸し、チルノは後を追った。防犯装置が起動しているということは、考えていた通り何かあったはずなのだ。やはり、あの穴を開けた輩の原因だろう。
ルーミアは、館長がどこにいるのか知っているようで、迷わず進んでいった。客の巡回ルートがほとんど終わりに差し掛かった頃だ。
ルーミアの足が止まる。関係者以外立ち入り禁止と書いてあるドアだ。ルーミアが、入ろうとしないので、チルノは代わってノックをしようとした矢先。
「入って良いぜ」
気配を悟られたようで、ノックをせずとも許可が下された。少し出鼻をくじかれた気もしないでもない。
頭の固い、と情報の上ではあったけれど、声を聞く感じでは、そうでもなさそうだ。実際に、来て見ないとわからないものである。現地の情報を優先する事にしよう。
さて、第一印象重視で行こうかな。
「おじゃまっ!」
レミリアが居たら即しばくような挨拶で入室した。
「おう」
うん、大丈夫だ。
「……なんであなたが言うのですか」
もう一つの固そうな声がした。……あ、もう一人いたの?
中は薄暗かった。カーテンを閉めているにも関わらず、光源は電球の一回り大きくなったようなものしかないだからだ。
更に、よくよく見ると、白城にはふさわしくなく、壁が不気味な黒塗りだ。中央には、幅の広いソファが二つあり、その片方に調べた通りの衣玖と黒装束の少女が座っていた。
荒目の口調は、少女のものだったのか……。
もう、やってしまった事なので、気にしないことにした。
それにしても、なーんか見たことあるんだよね。あの子。
顔は、とんがりハットに隠れて見えない。
「どうぞ、そこにおかけください」
空いているソファに座った。各々が小柄とはいえ、三人だと流石に狭いものだ。
「では、自己紹介をしときます。私は、この美術館の館長を勤める永江衣玖と申します」
極めて形式的な挨拶を済ませた。少女もそれに倣ったのか、自己紹介をしようとした。
「私はだな……。て、お前らかよ」
途中で終わる。
そう言われ、活発な少女を正面から見据える。
「うえ、魔理沙だ」
見た事ある。はっきりと思いだした。魔理沙は、紅魔に来る厄介者。何度かチルノも見たことがある。話した事はなかったので、思いだすのが遅れてしまった。
「うえ、とはなんだ。くそ。意地が悪いな衣玖も。はじめから言ってくれれば良いものの……」
他人の事情にはお構いなしに、ぶつぶつと呟く魔理沙を、衣玖は、「教える義理はありません」の一言で斬り捨てた。
「ま、良い。ある意味やりやすい」
どうしてここに?
「はあ……。知り合いなら良かった。どうしてもファーストスペルを見たいと言うので、入れてしまいました。断ると、美術館が破壊されてしまうかもしれないので」
できれば、衣玖のみが良かったけれど、ロビーに空いた穴を見れば頷かざるをえない。確か、紅魔では、パチュリーが似たような被害に会っていたような気がする。
「それに……」
「待った。私は小店を営むただの少女だ」
衣玖の言葉を魔理沙が引きちぎる。何を言いかけたんだろう。その違和感と興味が、チルノの脳内情報を引っ張ってきてくれた。
魔理沙の両親は商売における成功者だ。つまり、除け者にすると、少々厄介かもしれないという事。しかし、当人は、家出し、今はよくわからないオカルトの小店を営んでいるとか。理由はわからないが。もっとも、そんな情報は今この場ではなんの役にも立たない。
いっこうにはじまりそうにないので、とにかく……と、チルノは相手の事情を無視し、話を切り出した。
「とにかく、あたい達はファーストスペルを返してもらいに来ただけだよ。返してくれる?」
さっさと終わらせてかった。故に、きつい言い方になってしまった事をチルノは自覚する。
「私が取った、みたいな言い方ですね」
苦笑が衣玖の表情を埋める。チルノは敢えて訂正しないことにした。結果として、そう聞こえてしまったのならば、そのままで押し通してみる。
「そうですね……」
考え込む時の癖なのか、衣玖は、右手を頬にあてた。
それを見て、ため息をつきたくなった。
強気に出るのは良い。しかし、どうにもしっくりこないのは事実だ。下出に出ても、上手くいくかはわからないのだが。結局、どちらが正しいかわからないのだ。どちらにせよ、簡単にいかないことは確かな事だけれど……。
この時の、ルーミアと妖夢の反応は全く正反対のものだった。
他人事のように余裕をふりまき、構えるルーミア。どんな返答が来ても、即答できるように構える妖夢。雷にうたれたことなど、もう忘れているような気すらした。チルノも、妖夢と同じように気張っていた。
ここでも、正しいのは、やはりルーミアだった。
「良いですよ」
ん? 気張っていた二人は、現実味のない答えに顔を見合わせ、目を白黒させた。
「良いですよ。なに意外そうな顔をしてるんですか。このファーストスペルは好きに使っても構わない、と渡されたものです。契約書にも、書いてあると思いますよ」
チルノの頭が追い付かないまま、衣玖はそう言うと、木箱を足元から取り出した。
「返します」
あんぐりと口を開けて見ていた。あとで、その時の自分の表情を見たら、我ながら間の抜けた表情だ。そう苦笑するほどに。
あまりにも、簡単すぎる。
チルノと妖夢だけだったら、小一時間は固まっていただろう。しかし、ルーミアはそういった驚きからは無縁のようだ。ルーミアに肩を叩かれ、ようやく我を取り戻すことができた。
「あ、ありがとう」
こんなに簡単に返してもらえる物なのだろうか。
妖夢が、「私が来た意味は?」と呟いたほどだ。
衣玖の行動は、絶対に割に合わない事だ。商売の世界は、感情より利益を追求するような所だ。チルノ自身ですら、感情と利益、どちらを取るか、と言われると悩んでしまう。利益は最強へ。感情は友へ。天秤にはかけがたい。
衣玖は、莫大な利益を無視した。あんなにあっさりと言っているが、決断に無理がないはずはない。むしろ、怪しいとすら思える。けれど、ここで疑っていては話にならない。疑い始めたら終わりが見えなくなる。
数学と同じで、偽なら一つの間違いを指摘すればよいけれど、真ならば、全ての事象が正しい事を証明しなければならない。
どこかで、疑いに歯止めをかけなければならない。
なので、チルノは、罠だとしたら、後からそれを逆手に取る。そう決めて、今は受け取ることにした。
あの中に、単価三億円以上の品物が。
そう思うと、自然と手の温度が氷点下まで下がる。
静止した手から震える手へ。古ぼけた木箱が渡ろうとしたときだった。
「なぁ、それ、衣玖の好きにしていいんだよな? なら、私に売らないか?」
今まで、猫の置物のように座っていた魔理沙がふいに横槍を入れた。唐突な行動に、チルノは思わず面を食らってしまう。
一切れの暗雲が青空に浮かんだ。
邪魔する為にここに居たのか。今更ながら厄介払いしなかった事を後悔したものの、まだファーストスペルは衣玖の手にある。
しかし、チルノが歯噛みする時間さえなく、その暗雲は衣玖の「ダメです」で一蹴された。
どうやら、衣玖の頭の固さが味方してくれたようだ。流れが来ている。
今度こそ。手から震えが消えていた。木箱を受け取る。
手にした時に、はぁああ、と体内の空気を全て吐き出すようなため息をついた者が居た。
勿論、魔理沙だ。残念そうに立ち上がり、カーテンのかかる窓際へゆらゆらと歩いて行った。表情は深くかぶった帽子で見えないが、心情を読みとるには十分すぎる。
悪い事をしたかな、とも思わなくもないが、会社、なによりルーミアの運命がかかっているのだ。個人の趣味に付き合っている暇はない。冷徹にならざるを得ないのだ。
同情の四つの視線が、魔理沙に集まる。すると、何を思ったのか、彼女の手が、カーテンをむしり取る。槍にも劣らぬ太陽光がチルノの目をさした。
強奪する気!? 戸惑ったものの、強奪を図ろうとした様子もなく、静かに、徐々に視覚は戻ってきた。
視覚が戻り、光も入ってきていたので、帽子の元に浮かんでいた魔理沙の表情がよく見えた。その表情は、釘付けにならざるを得ないものだった。清々しいまでに、穢れの無い子供のような笑顔。それは、四人に嫌な予感を与えるには十分すぎた。
「ダメなら、頂くまでだぜ」
種明かしをするマジシャンのように両腕をひろげる。
右手には、八卦炉。左手には、スペルカードが持たれていた。
言葉と行動の意味を確認すべく、あわてて木箱を開ける。そこにあったのは、布と、スペルカード一枚だけ入りそうな空間だった。
やられた……。
魔理沙を取り押さえようと、四人が体を浮かした時にはもうすでに遅った。
「マスタースパーク!」
窓に向かって、極太のレーザーが放たれた。
嵐のような風が四人を打つ。
破壊が進むにつれ巻き上がる砂ぼこりと石の断片の合間にチルノは魔理沙を睨んだ。むしろ、それしかできなかった。
時間がないのに。
思念は飛ぶはずもなく、返ってきたのは、星が出るのではないかという程のウィンクだけだった。
いくら手足を動かそうとも、進むこともままならない。馬鹿みたいな火力だ。衣玖ですら、人口の嵐の中でもがくしかできなかった。
息ができないのは、風のせいだけではない。
魔理沙に手を伸ばしたものの、彼女はあっという間に砂ぼこりの波にのまれ、消えていった。
SO-NANOKA-
SO-NANOKA-2
SO-NANOKA-3
よろしくお願いします。
鋭い視線に射止められ、凍らされた蛙のように体が動かない。
視線の主は居酒屋で倒れ、また、紅魔でも倒れた妖夢。どこか間の抜けた感じで、自分と似ているな、とすら思ったほどだったが、違った。
彼女には芯がある。頑なに主の命を実行しようとする心が。
「スパイ、なんて言っちゃったら嫌でも帰ってもらわないといけないよ」
至極当然の事を言った。しかし、正しい事を言えたとは思えない。
秒針が一つ揺れる。
「帰りません」
心臓が早鐘を打つ。
気落とされている時、相手が無茶苦茶を言っているとわかっているのに、まるで聖者の言のような力を持ち、逆らえないと錯覚してしまう。理解はしている。しかし、理屈だけでは、どうにもならない恐怖があった。
「幽々子は、紅魔の何を求めてるの?」
「幽々子様は紅魔自体を求めております」
即答。巨人の一歩にも劣らぬ力強さで妖夢は足を踏み出す。踏み潰されぬように、チルノは一歩下がらざるをえなかった。
「なので、私をスパイとして、ここに置いてください」
無茶苦茶な――。
妖夢は、一歩、また一歩と確実に近づいてくる。一方チルノは下がり続けるのみ。しかし、ついに限界が訪れる。
ざらりとした壁が背中をなめた。
「ここに、私を置いてください」
青い瞳は、もう三十センチも離れていない。
……そうだ。るーみゃは?
ほとんど反射的にそう思った。体裁の良い逃げだ。けれど、目は自然とルーミアを探そうとしていた。その時だ。どん、と壁を伝わった衝撃波が鼓膜を揺さぶった。見ると、妖夢の右手が壁に張り付いている。
「目を逸らさないで下さい」
五寸釘を腹部に打ち込まれたかのようだった。近くに居るはずのルーミアにすら、助けを求められない。
「何度でも言います。私をここに置いてくれませんか? チルノさん。あなたに訊ねているのです。ルーミアさんには訊ねておりません。それに、わかるでしょう。ルーミアさんが干渉しようとしていないのが」
視界はブルーでも、一つだけ、ルーミアの行動を察知できる部位がある。聴覚、耳だ。わずかな沈黙に割り込むように、淡々としたタイピングの音が響いていた。
ひたすら自分の作業をこなす時の音だ。
「わかりましたか?」
どうして、どうして助けてくれないんだろう。今までは助けてくれたのに。
そんな事を考えている自分に自嘲した。
いつの間にか、ルーミアの力にばかり頼るようになっていた事くらいわかっている。今まで、甘えに甘えてきた。
ルーミアならば、すぐに解決してくれる、と。
けれど、妖夢は相手会社の側近だ。下手な返答をすると、商売じたいの破綻に関わりかねない。
なおの事ルーミアでなければいけないのでは? ルーミアと比べ、自分がやったのでは、確実性を著しく欠いてしまう。
だから、だからルーミアじゃないといけない。
でも、ルーミアは拒否をした。商売の破綻は自分自身の身を破滅に関わるというのに。
……待ってよ。考え直すべきだ。
まず、どうして拒否をしたんだろう。
そこを考えるべきだ。
ルーミアがチルノのヘルプを拒否したには、それなりの理由があるはずだ。理由もなく、拒否をする事は絶対にしない。
ここに到り、一つ、別の思考がうまれた。
これまでの、ルーミアとの付き合いを思いだす。
仕事で間違いを犯してもルーミアには嫌な顔をされた事はない。むしろ、微笑んで訂正をしてくれる。任せられそうな仕事はどんなに失敗した後のチルノにも、ただ黙って渡してくれる。
そして、提出したら、また直してくれる。学校の先生のように。
つまり、この問題は間違えても修正できる。まず、自分で解答を出せ。それが間違えでも良いから。間違えたとしても、自分がカバーしてやる。こう言いたいのではないか。
付き合いの中、ルーミアが話さなくても、ある程度は言いたいことがわかるようになってきた。しかし、あくまで身ぶり手ぶりがあっての事だ。
今の見解は、まったく見当違いの事かもしれない。
でも、なんとなく、ルーミアがそう言いたいのだという気がした。
間違ったらごめん。なんて言う気持ちではなく、間違っていても良い。という自信が湧いてきた。今まで、ルーミアが居るから堂々と間違えをする事ができたのかもしれない。いや、事実そうだろう。この関係が一番しっくりとくるのではないか。それが良い事か悪い事かはわからないけれど。
とにかく、踏ん切りがついた。
やろうよ、あたい。これは、あたいの仕事だ。
チルノはわかっていた。ルーミアのように的のど真ん中を射抜く完璧な解答は出せない事を。しかし、自分なりの答えを出そう。
表面上は不敵な笑いを作り、腹いっぱいに酸素を喰らった。
「……居ても良いよ。紅魔に」
ヤクザ顔負けの刀のような瞳と真正面から向き合う。自分に、覇気あるとしても、今、妖夢には到底敵わない。
「へえ、良いんですね」
怖い。怖いけどね、やっぱりやらないとね。
熱くもないのに掻く汗が壁に吸いついているような感覚があった。けれども、強引にそれを引き離す。
今までとの態度にギャップがあったからだろうか。はじめて、妖夢の余裕に陰りが見えた。青の瞳との距離は、もうほとんど零距離だ。青空のような目に、僅かに霧がかかったのも見て取れた。
これを逃すのは、真のまぬけというものだ。
決起として、より一層不敵な笑いを作り出す。見る人が見れば、演技と分かるだろう。それでも、今の妖夢には、効果あり、と踏んでだ。
「スパイとして、なら。あたいは、スパイとして妖夢が動く事を信じるよ」
ねえ、あってる? 仮面の裏でルーミアに問いかける。
刀を模した瞳が、盾のように丸くなる。
もう焦っていない。この瞬間、自分のペースに持ち込めたのがわかったからだ。
次に声を上げたのは妖夢。それも、「はい?」と、とてつもなく間抜けなものだった。
予想外の答えのせいだろうか。ただ一つ、やっぱり、と思ったことがあった。
「妖夢が、スパイとして動くなら、スパイ以上の事をしないよね?」
宣言したとは言え、活動はスパイらしく動く。この前提だ。スパイは陰で動くもの。なら、影を作らなければよい。
止めを刺しに行った。もう、罠にはまった兎と同じ。後は、捕るだけ。
「終わるまで、ずっとあたいがついてるよ」
「ええ?」
二度目の間の抜けた声。
やっぱり、と思ったことが確信に変わった。最初に思った通り、妖夢はチルノに似ている。一度折れればもろい。
「だから、よろしくね。妖夢」
いつの間にか、チルノと妖夢の間は開いていた。勿論、チルノがあけたのではない。ぎこちないと自覚しつつも、笑顔を浮かべて、右手を妖夢に差し出したのだった。
徹夜明けの太陽は体に優しくない。全国チェーンのコンビニストア、香林堂で購入した朝食を抱え、チルノと妖夢は街中を歩いていた。
日が昇る時間帯とはいえ、まだ人通りは少なく、車道を走るのも地霊館の人化した猫くらいだ。
あの後、ルーミアは一つだけ、訂正を加えた。
幽々子が手伝いをしろ、と言っていた事を伝えればよかった。と、パソコンにうって教えてくれた。
あわてて、伝えたものの、今の妖夢はスパイか、手伝いか、決めかねているようである。
そもそも、チルノの余計な鎌かけがなかったらこんな事態にはならなかったのでは? と、思えなくもなく、ルーミアに聞いたが、仕方ない、私もそうするかもしれない、とのことだった。
紅魔の仕事場へと戻る。
「はい、朝食」
「そーなのかー」
今だパソコンに張り付いていたルーミアにおにぎりを三つ渡した。しかし、あからさまに不満げな顔をされてしまった。
昨日、あれだけ食べたというのに、まだ入るのだろうか。苦笑いをし、机につく。中ぶらりんの状況の妖夢は、ソファに座って思案顔を作っていた。
うだぁ、と背もたれにもたれかかる。
コーヒーが欲しいな。徹夜明けの頭が言っている。甘いコーヒー。すると、願いが叶ったのか、目の前にコーヒーが現れた。
半ば寝ぼけたまま、大きく一口。
「ん……!?」
熱い!? 吹き出しそうになるのを足をばたつかせてこらえる。
ようやく、液体が喉元を過ぎる。信じれない程頭が冴えていた。べろはヒリヒリするけど。
「目が覚めたかしら」
いつの間にか、背後に酔狂な咲夜が立っていた。相変わらず、妙なところで不意打ちを入れる。眠気覚ましには確かにちょうど良いけど……。
「社長がお呼びですわ」
それだけ言うと、咲夜は憮然と去っていった。妖夢の事には一切触れずに。
チルノとルーミアは、妖夢をつれて、すぐさま社長室に向かった。
「ルーミア、チルノ。なかなか良い度胸しているじゃないか。あんな取引を受けるなんてな」
豪奢な椅子に座ったレミリアの言葉には、怒りはなく、感嘆の響きが多く含まれていた。
「それに、スパイを一人抱え込むなんてな」
チルノは、まだこれら全ての事をレミリアには伝えていない。直接事の終始をみていたかのような情報力だ。
それに、スパイと分かっていて警戒する様子も見せない。
「ま、受けたことに関してはなにも言わない。勝算があるから受けたんだろうしな。ただ、幽々子はとんでもない戦略家だ。足元をすくわれないようにしろよ」
おっと。
なにかを思い出したのかレミリアは声をあげた。
「そうそう。一つプレゼントをくれてやる。チルノ」
レミリアから受け渡されたのは、ノートを乱暴にちぎって作られた紙切れだった。
「ふふふ、スパイには見せるなよ」
意地の悪そうに笑うレミリアにチルノは頷く。
それを見たレミリアは満足したのか伸びをする。
「頼むぞ。会社の事もあるが、なにより、ルーミア、お前の身がかかってるんだからな。」
タイムリミットはきっかり零時。
それまでに、幽々子との決着をつけねばならない。事前に連絡をしてから、美術館に向かう。
美術館は白城を模した作りで、その現実離れした景色にチルノは、思わず唾を飲んだ。ビル郡の中にでかでかと建っていれば尚更目立つ。
この美術館の館長を勤めるのは永江衣久。
某検索エンジンで調べたところ、空調管理の上手さと、頭の堅さとで選ばれたらしい。この頭の固さが、チルノ達にとって裏目に出ないことを祈るばかりだ。
今回の場合は、時間をあまりかけたくない。
迅速且つ円満に。
そうしなければ、ルーミアが遥か彼方へと消え去ってしまう。
古風な作りをしているとはいえ、入り口は自動ドアだ。入ってすぐ右に、受付があった。受付には、ガラスが張られ、外部からの攻撃を抑制するようにしてあった。ガラスの奥には誰もいない。また、受付の先にある広大なロビーにも、人は見受けられない。
平日だから?
視線を辺りに這わせる。
すると、人が居ない、という理由になり得そうなものを見つけた。ロビーに敷かれた赤い絨毯の先には、一つの大きな穴が開けられていた。
明らかに人為的に破壊されたもので、中へと破片が入りこんでいることから、外部からの侵入者とみて良いだろう。
……何かある。
「何があったんですかね」
とにかく、手伝いだ。そう割り切ったのか、妖夢の声は、探りを入れるようなスパイの成分は無くなっていた。チルノは曖昧に頷いてみせる。受付嬢が居ないのも、そのことが原因かもしれない。
「とにかく、入ってみようよ」
本来は、こんなこといけないのだろうけど。
ロビーに足を踏み入れようとしたとき、ルーミアの手に制止された。
「どうしたの?」
もう一度、人気のない受付をルーミアは覗き込む。あるのは、作業用の机だけ。ため息を着くと、眼鏡をかけ直し、グーをチルノと妖夢に差し出してきた。
「じゃんけん?」
こっくりとルーミアは頷いた。なんで? と、尋ねる前に、じゃんけんは無言のうちに始まった。
じゃーんけーん。
結果。ルーミア以外は訳もわからず、慌てて出すことになるわけで。
ポン。
ぱーぱーぐー。
妖夢の一人負け。
すると、眼鏡の奥に黒い黒い色が浮かんだ。こういう時、意味もなくぞくりとさせられる。何故なら、良からぬ事をたくらんでいる時の目だから――。
ロビーに向かって、妖夢をとん、と押した。
は? の顔を作ったまま、妖夢はバランスを崩す。
「みょおおおおおおん!?」
妖夢の悲鳴と同時に、チルノの体が宙に浮いた。脇腹辺りに、ルーミアの背中の感触がある。背負い投げだ。理解した時には、ロビーの地面を転がっていた。投げ方が上手いのか、不思議と痛みはない。
ロビーの赤い絨毯の上で、チルノが一回転する間に、すべては終わっていた。ルーミアもロビー内に入っており、その足元では妖夢が煙を上げていた。今のは、雷? 反射的に天井を仰いだ。
げ。
天井にはロビーと受付を区切るように無数のスペルカードが貼られていた。最近、河童が売り出した防犯用のスペルカードだ。
電気ショックは、体を麻痺させるにはもってこいだ。そして、妖夢はその避雷針にされたわけで……。
理解を深めていくにつれ、無形の罪悪感が湧いてきた。
「いや、あの、なんかごめんね。妖夢」
でも、じゃんけんで自分が負けたときは……。そう思うと、背筋が凍った。
「あの……、ルーミア……さん。気付いていたのなら……、言ってくれませんか……。刀を避雷針にするということもできたかもしれませんし……」
地べたに張り付く妖夢が消え入りそうな声で論ずる。一瞬、ルーミアは、はっ、となるも、肩をすくめて歩き出してしまった。科学的な事は、よくわからないとでも言うように。
いやいやいや、待ってよ。心の中で呼び掛ける。
妖夢に肩を貸し、チルノは後を追った。防犯装置が起動しているということは、考えていた通り何かあったはずなのだ。やはり、あの穴を開けた輩の原因だろう。
ルーミアは、館長がどこにいるのか知っているようで、迷わず進んでいった。客の巡回ルートがほとんど終わりに差し掛かった頃だ。
ルーミアの足が止まる。関係者以外立ち入り禁止と書いてあるドアだ。ルーミアが、入ろうとしないので、チルノは代わってノックをしようとした矢先。
「入って良いぜ」
気配を悟られたようで、ノックをせずとも許可が下された。少し出鼻をくじかれた気もしないでもない。
頭の固い、と情報の上ではあったけれど、声を聞く感じでは、そうでもなさそうだ。実際に、来て見ないとわからないものである。現地の情報を優先する事にしよう。
さて、第一印象重視で行こうかな。
「おじゃまっ!」
レミリアが居たら即しばくような挨拶で入室した。
「おう」
うん、大丈夫だ。
「……なんであなたが言うのですか」
もう一つの固そうな声がした。……あ、もう一人いたの?
中は薄暗かった。カーテンを閉めているにも関わらず、光源は電球の一回り大きくなったようなものしかないだからだ。
更に、よくよく見ると、白城にはふさわしくなく、壁が不気味な黒塗りだ。中央には、幅の広いソファが二つあり、その片方に調べた通りの衣玖と黒装束の少女が座っていた。
荒目の口調は、少女のものだったのか……。
もう、やってしまった事なので、気にしないことにした。
それにしても、なーんか見たことあるんだよね。あの子。
顔は、とんがりハットに隠れて見えない。
「どうぞ、そこにおかけください」
空いているソファに座った。各々が小柄とはいえ、三人だと流石に狭いものだ。
「では、自己紹介をしときます。私は、この美術館の館長を勤める永江衣玖と申します」
極めて形式的な挨拶を済ませた。少女もそれに倣ったのか、自己紹介をしようとした。
「私はだな……。て、お前らかよ」
途中で終わる。
そう言われ、活発な少女を正面から見据える。
「うえ、魔理沙だ」
見た事ある。はっきりと思いだした。魔理沙は、紅魔に来る厄介者。何度かチルノも見たことがある。話した事はなかったので、思いだすのが遅れてしまった。
「うえ、とはなんだ。くそ。意地が悪いな衣玖も。はじめから言ってくれれば良いものの……」
他人の事情にはお構いなしに、ぶつぶつと呟く魔理沙を、衣玖は、「教える義理はありません」の一言で斬り捨てた。
「ま、良い。ある意味やりやすい」
どうしてここに?
「はあ……。知り合いなら良かった。どうしてもファーストスペルを見たいと言うので、入れてしまいました。断ると、美術館が破壊されてしまうかもしれないので」
できれば、衣玖のみが良かったけれど、ロビーに空いた穴を見れば頷かざるをえない。確か、紅魔では、パチュリーが似たような被害に会っていたような気がする。
「それに……」
「待った。私は小店を営むただの少女だ」
衣玖の言葉を魔理沙が引きちぎる。何を言いかけたんだろう。その違和感と興味が、チルノの脳内情報を引っ張ってきてくれた。
魔理沙の両親は商売における成功者だ。つまり、除け者にすると、少々厄介かもしれないという事。しかし、当人は、家出し、今はよくわからないオカルトの小店を営んでいるとか。理由はわからないが。もっとも、そんな情報は今この場ではなんの役にも立たない。
いっこうにはじまりそうにないので、とにかく……と、チルノは相手の事情を無視し、話を切り出した。
「とにかく、あたい達はファーストスペルを返してもらいに来ただけだよ。返してくれる?」
さっさと終わらせてかった。故に、きつい言い方になってしまった事をチルノは自覚する。
「私が取った、みたいな言い方ですね」
苦笑が衣玖の表情を埋める。チルノは敢えて訂正しないことにした。結果として、そう聞こえてしまったのならば、そのままで押し通してみる。
「そうですね……」
考え込む時の癖なのか、衣玖は、右手を頬にあてた。
それを見て、ため息をつきたくなった。
強気に出るのは良い。しかし、どうにもしっくりこないのは事実だ。下出に出ても、上手くいくかはわからないのだが。結局、どちらが正しいかわからないのだ。どちらにせよ、簡単にいかないことは確かな事だけれど……。
この時の、ルーミアと妖夢の反応は全く正反対のものだった。
他人事のように余裕をふりまき、構えるルーミア。どんな返答が来ても、即答できるように構える妖夢。雷にうたれたことなど、もう忘れているような気すらした。チルノも、妖夢と同じように気張っていた。
ここでも、正しいのは、やはりルーミアだった。
「良いですよ」
ん? 気張っていた二人は、現実味のない答えに顔を見合わせ、目を白黒させた。
「良いですよ。なに意外そうな顔をしてるんですか。このファーストスペルは好きに使っても構わない、と渡されたものです。契約書にも、書いてあると思いますよ」
チルノの頭が追い付かないまま、衣玖はそう言うと、木箱を足元から取り出した。
「返します」
あんぐりと口を開けて見ていた。あとで、その時の自分の表情を見たら、我ながら間の抜けた表情だ。そう苦笑するほどに。
あまりにも、簡単すぎる。
チルノと妖夢だけだったら、小一時間は固まっていただろう。しかし、ルーミアはそういった驚きからは無縁のようだ。ルーミアに肩を叩かれ、ようやく我を取り戻すことができた。
「あ、ありがとう」
こんなに簡単に返してもらえる物なのだろうか。
妖夢が、「私が来た意味は?」と呟いたほどだ。
衣玖の行動は、絶対に割に合わない事だ。商売の世界は、感情より利益を追求するような所だ。チルノ自身ですら、感情と利益、どちらを取るか、と言われると悩んでしまう。利益は最強へ。感情は友へ。天秤にはかけがたい。
衣玖は、莫大な利益を無視した。あんなにあっさりと言っているが、決断に無理がないはずはない。むしろ、怪しいとすら思える。けれど、ここで疑っていては話にならない。疑い始めたら終わりが見えなくなる。
数学と同じで、偽なら一つの間違いを指摘すればよいけれど、真ならば、全ての事象が正しい事を証明しなければならない。
どこかで、疑いに歯止めをかけなければならない。
なので、チルノは、罠だとしたら、後からそれを逆手に取る。そう決めて、今は受け取ることにした。
あの中に、単価三億円以上の品物が。
そう思うと、自然と手の温度が氷点下まで下がる。
静止した手から震える手へ。古ぼけた木箱が渡ろうとしたときだった。
「なぁ、それ、衣玖の好きにしていいんだよな? なら、私に売らないか?」
今まで、猫の置物のように座っていた魔理沙がふいに横槍を入れた。唐突な行動に、チルノは思わず面を食らってしまう。
一切れの暗雲が青空に浮かんだ。
邪魔する為にここに居たのか。今更ながら厄介払いしなかった事を後悔したものの、まだファーストスペルは衣玖の手にある。
しかし、チルノが歯噛みする時間さえなく、その暗雲は衣玖の「ダメです」で一蹴された。
どうやら、衣玖の頭の固さが味方してくれたようだ。流れが来ている。
今度こそ。手から震えが消えていた。木箱を受け取る。
手にした時に、はぁああ、と体内の空気を全て吐き出すようなため息をついた者が居た。
勿論、魔理沙だ。残念そうに立ち上がり、カーテンのかかる窓際へゆらゆらと歩いて行った。表情は深くかぶった帽子で見えないが、心情を読みとるには十分すぎる。
悪い事をしたかな、とも思わなくもないが、会社、なによりルーミアの運命がかかっているのだ。個人の趣味に付き合っている暇はない。冷徹にならざるを得ないのだ。
同情の四つの視線が、魔理沙に集まる。すると、何を思ったのか、彼女の手が、カーテンをむしり取る。槍にも劣らぬ太陽光がチルノの目をさした。
強奪する気!? 戸惑ったものの、強奪を図ろうとした様子もなく、静かに、徐々に視覚は戻ってきた。
視覚が戻り、光も入ってきていたので、帽子の元に浮かんでいた魔理沙の表情がよく見えた。その表情は、釘付けにならざるを得ないものだった。清々しいまでに、穢れの無い子供のような笑顔。それは、四人に嫌な予感を与えるには十分すぎた。
「ダメなら、頂くまでだぜ」
種明かしをするマジシャンのように両腕をひろげる。
右手には、八卦炉。左手には、スペルカードが持たれていた。
言葉と行動の意味を確認すべく、あわてて木箱を開ける。そこにあったのは、布と、スペルカード一枚だけ入りそうな空間だった。
やられた……。
魔理沙を取り押さえようと、四人が体を浮かした時にはもうすでに遅った。
「マスタースパーク!」
窓に向かって、極太のレーザーが放たれた。
嵐のような風が四人を打つ。
破壊が進むにつれ巻き上がる砂ぼこりと石の断片の合間にチルノは魔理沙を睨んだ。むしろ、それしかできなかった。
時間がないのに。
思念は飛ぶはずもなく、返ってきたのは、星が出るのではないかという程のウィンクだけだった。
いくら手足を動かそうとも、進むこともままならない。馬鹿みたいな火力だ。衣玖ですら、人口の嵐の中でもがくしかできなかった。
息ができないのは、風のせいだけではない。
魔理沙に手を伸ばしたものの、彼女はあっという間に砂ぼこりの波にのまれ、消えていった。
そして急展開、続編が待ち遠しいです
【良い点】
設定が斬新
ルーミアの丸眼鏡
【気になる点】
基本チルノ視点で地の文が書かれていると思いますが、そうすると不自然に感じる・分かりづらい部分があります。