あたいは頭に来ると、そこらへんの廃材で爪を研ぐ。場合によっては、爪痕だらけの板を叩き割る。それでも収まらなければ、おくうや怒りの原因に話す。猫だけど吠える。
おくうはもっと正直に喚く。翼の先から指先爪先まで、全身で大暴れする。子供っぽいけれど、発散は上手い。長くても一日で終わって、次の朝には忘れている。
他のペット達も、似たようなものだろう。ストレスを溜めること自体少ない。放し飼いの地霊殿は、年中快適だ。
こいし様は、怒らない。「あ、お燐達ずるーい。それ旧都の新しいおやつでしょ? 私に内緒で食べる気だったんだぁ」と笑って膨れる程度だ。分けてあげると許してくれる。「大目に見ましょう、えへん」と。揺れる黒い大目は、何も視ていない。感情という手足が、半分眠っている。
そして我らが主、さとり様。あのひとも怒らない。数百年間一緒にいるけれど、一度も当たられたことがない。他人にも物にも寛大だ。稀に叱るときも、どこが悪かったのかを噛み砕いて説明する。どこかの閻魔様みたいに、声を荒げない。早口にならない。偉いなあと感心していたら、穏やかに反論された。
「私が下手なだけ。映姫の方が人間ができているの。人間じゃないけど」
「逆だと思いますよ。さとり様の方が立派で、大人です」
「知らないわよ、彼岸で後悔しても」
雪染めの夕暮れ、洗面室での会話だった。さとり様はいつものように、小鋏で枝毛を切っていた。周囲の房ごと巻き込んで。
昔は、髪が長かった。今のあたいと同じくらい。地下の湿気に弱いからと、大分前に短くした。以来、大規模な髪型変更はしていない。ベリーショートにすれば傷みが減りそうだけれど、
「伸びるのが遅いの。失敗したときが怖いから、止めておくわ。貴方の想像を読むに、似合わなそうだし」
「にゃ、そうですか。まあでも前髪とか、やり辛かったら呼んでくださいね。おくう達の世話で慣れてますから」
ありがとう。花弁のような髪切れを集めて、
「そのおくう達がお呼びよ。ツリーの鉢に敷く、白めのうの砂利は何処だって」
さとり様はあたいを促した。騒がしい広間から、お燐お燐の大合唱が聞こえる。手を洗う暇もない。
「毎年のお祭りなのに、誰も覚えてない。プレゼントすっぽかしてやろうかな」
「ま、頼られるのは嫌じゃないけどね。いっちょお燐さんが頑張ってやりますか、とも考えてる」
「にゃはは。さとり様は、例年通り便箋でいいですか?」
「ええ。色柄のセンスに期待してるわ」
注文をしっかり刻んで、あたいは飾り付けの会場に向かった。
もう数日で、西洋の歴史ある神様の誕生日になる。困っている人を大勢助けた、伝説の英雄だそうだ。信者は彼の生誕を祝う。もみの木の着付けや、贈り物や宴会で。彼を信じない地霊殿でも、同様のことをする。単純に美味しくて、楽しいから。花見や雪見の感覚だ。あたい達を温めなかった、救世主はどうでもいい。
さて、石粒はどの辺りにしまったか。統一感無し、輝き満載の大木の下で思案した。
色硝子や指人形のような軽いものとは、別にしていたはずだ。小麦用の麻袋に入れていた。
一時倉庫や、冬道具の物置には見当たらず。
食材と間違われてはいないかと、厨房に急行。外れ。ご馳走の試食で使ったのだろう、粉砂糖やココアの袋が捨てられていた。
ごみ箱から、連想ゲームのように裏手の廃棄蔵へ。駄目だった。火のない焼却炉も覗いたけれど、空っぽ。灰を吸う羽目になった。しかも直後に、庭担当の新入りが報告に来た。園芸用と勘違いして、地面に撒いてしまったそうだ。ということは、今頃は薄雪の下か。
「掘り起こすのも手間だね、うん。綿や白砂に切り替えよう」
代案を伝えると、幼い後輩は喜んで走っていった。謝罪もお礼もなく。
仕方がない、まだまだひよっこだ。初めはよくあること。さとり様のような、大きな心で接していかないと。
頼りにされるのは、不快ではない。けれども、駆け回った身体は冷たい。ありがとうの一言が欲しい。
(結局有難がられたいのか、お燐さんは)
己の強欲さを悟って、情けなくなった。隙間風の厳しい、ごみ蔵の地べたに座ってみた。あたいのように狭い。不用品で溢れて、息苦しい。座椅子は蜘蛛の巣、回覧は虫食い。刃こぼれした斧は、裸で転がっている。多分無害だ。ここを開ける住人は、年に十いればいい方。
気分に流されて、床の土に爪を立てかけた。
糸らしきものを、掻き取った。棚蜘蛛の網のようには、壊れない。藁?
何だろう、明るい場所で見たい。
希望に沿うように、暖色の光が射し込んだ。おくうも飛び込んできた。
「居たー! 心配させて、このこの」
「暴れないでよ、埃立つって」
「埃立つようなとこにいる方が悪い。探したんだよ台所の戸棚とか」
道理でメイプルシュガーの匂いがする。
「数十年ぶりの再会じゃないんだから。三十分ちょっとだよ、慌てないの」
「お燐には三十分でも、私には数十年っぽいの。たくさん数えられないのに、頭使わせないで」
数えてるじゃん、という突っ込みは封印。親友の真心が嬉しかった。素直にお怒りを頂戴した。
あたいがどんなにちっちゃくても、おくうはおくうなりに気付いてくれるだろう。そういうひとと暮らせる、あたいは幸せだ。
「さとり様がミルクティーくれるって。差し入れ。ロイヤルでストレートでフラッシュな」
「フラッシュしない。ロイヤルなのね」
廊下を低空飛行する、おくうをゆっくり追った。
指爪に挟まった泥を、洗い落としてから行こうか。左手を見詰めて、疑問と再度会った。こびりついて、絡まっていた。
糸は、髪の毛だった。片端が波打って、醜く潰れている。まるで、錆びかけの鉄斧で押し切ったかのように。
地霊殿には、散髪鋏も鏡もある。髪弄りの得意なペットもいる。
一体誰が、わざわざあんなところで。
土色を払った。
水に溶いた、桃紫。ホールの仲間達には、当てはまらない。おくうでも、こいし様でもない。
さとり様だ。洗面台で目にした、髪房とそっくり。
(枝毛切りかな、つい気になって)
あのひとでも、そのくらいの奇行はするだろう。たまにグラニュー糖の一気飲みや、茶葉齧りをしている。面白そうに。
紅茶を牛乳で煮出すさとり様に、一応念じておいた。「折角まめに手入れしてるのに、斧で刈っちゃいけませんよ」と。
「はーい」
ささくれも深爪もない、健やかな右手が振られた。
本当は、ある選択肢に至りかけていた。さっきまでへこんでいたから、感付けた。二、三の事実と推理から。
廃棄場の暗さでは、どれが枝分かれの毛か判らない。事前に摘んでいても、簡単に見失う。
切るだけ切って、放置するのも変だ。無視していい、がらくたとでも思わない限り。
あたいについてきた髪屑に、不良品は一本もなかった。まとめて切断する必要はない。かえって毒だ。
だとしたら、ああでも。あたいの三十分が、おくうには数十年でも。あたいにとっての奇行が、さとり様にとっては凶行でも。
正解したくなかった。直視を避けたかった。どう応えたらいいのか、わからなかった。
我らが主、さとり様は怒らない。
妄想、取り越し苦労であれ。あたいの望みは翌日、一冊のノートに粉砕された。
およそ八十枚綴じ、掌二つ分くらいの大きさ。表紙は布張り。古びた蔵で、唯一整っていた。昨日は存在しなかった。
髪の栞を咥えて、あたいを待っていた。
(どうしよう、これ)
読めば、答えの一端があるはず。あたいにできる、適切な応えの欠片も。
見なかったことにすれば、これまでと変わらずにいられる。無理矢理、さとり様を誤解していられる。
(そうしてきっと、絶対に、)
悔やむ。川の向こうまでずっと、自責の念を連れていく。後からでは間に合わない。
おくうが変貌したときのような、瀬戸際だ。あの冬あたいは、将来嘆かないための行動をした。大事なおくうと、あたい自身のために。
自分可愛さで、誰かに構って何が悪い。
腹は決めた。邪魔をされない、落ち着ける場が欲しい。
あたいはさとり様の帳面を持って、プレゼントを選びに出た。鬼神の眠る午前中だ、大抵の飲み屋は空いている。入り組んだ小路の喫茶店なら、更に。
◆
深夜、自分で自分の髪を切った。何の前準備もなく。普段使いの鋏で。紐で束ねた状態のところを、一気に。
一気にとは行かなかった。やはり日常鋏は鈍らである。少しやり損ねた。高低もばらばら。怪しまれないよう、ショートカット風に修正した。
切ったのは、他に当たる先がなかったからだろう。私には他人を殴ったり、喚いたりする勇気(正しく暴力を振るえる自信?)がない。相手の痛みを覚って、怯んでしまう。妹のように、逸脱する根性もない。植物や無機物も破壊できない。植えたひとや、作ったひとがいるから。蔵に閉じ込めるのが精々。
切ろうと思ったのは、同日夜のこと。動くのは早かった。こういうときだけ、私は素早い。
切りたくなるまでには色々あった。ペットの一部は相変わらず、昼過ぎからお酒を呑み始めた。栓抜きの思念と、音がいつも同じなのでわかる。しかも毛布を出して、通り道に寝転がってしまった。お燐は私の了解なく、私が喜ぶと思って靴下を買ってきた。今履いているものの保温効果について説明したが、若い彼女に伝わったかどうか。おくう達鴉組の蓄音機が、何度も音階を外していた。耳のいい子がいつ泣き出すか、気になった。夕飯は余り物のお餅を焼いた。搗いたら黴が生える前に食べる。常識を教えないと。順番に網で加熱して出していった。ペット、こいし、私の順。当たり前のように、こいしは何もしない。宴もどきになって、おくうは眠ってしまった。横になるとすぐ睡魔が訪れるのに、学習しない。未熟な彼女達を残して、私は遠くに離れられない。酒瓶の途切れた辺りで、ああ来るなあと予想した。お姉さん格・お燐の「こら寝床行くよ」だ。案の定来た。私にはこの文句が、「あたいも眠いんだってば、迷惑かけないでよ」に視える。「さとり様怒ってないかなあ」とも取れる。私は皆を灼熱地獄跡に誘導するのを手伝い、その後自室へ直行し、鋏を手に取った。
何処が一番いけなかったのかは、見当がつかない。色々は、色々だ。
こういう日記らしいことを書いたのは、いつ以来だろうか。気持ちの整理のために、記しておくことにした。
以上。
◆
最初の十数枚は、衣類のアイデア帳だった。縮小サイズの型紙や、ステンシルの図案が並んでいた。ラフスケッチは、あたい達の尻尾や羽用の工夫たっぷり。色鉛筆の薄塗りに、ゆったり和んだ。ノートの出し間違いや、さとり様流の悪戯だったのではないか。油断してページを捲ったら、これだ。
黒インク一色、心境の独白。惑っているのに、文字も飛ばしがちなのに、誤字はゼロ。ちぐはぐさが恐ろしかった。屋内なのに指が凍えた。
頼んだストレートな紅茶で、温まろう。安心したい。
願う手は白地のカップではなく、黒い文書に触れていた。
短髪になったさとり様の、日付のない日記。
◆
昨日の今日でまた切ってしまった。夜更け。台所にて、野菜包丁で一房。意外と切れ味が悪かった。
誰にも見付からなかった。こいしは留守。見付かるはずがない。
寝台の用意をして、ペットの夜食のお皿を洗っているときに切った。
量こそ少ないが、幾らか満足感があった。すーっとした。
しかし代替策を考えないといけないだろう。髪には限度がある。肌……腕や手首は却下だ。痛いだろうし、薄着をしたらばれる。
調味料棚の、砂糖壺が目に入った。甘いものを気持ちが悪くなるくらい食べれば、幸せになれるかもしれない。空にするくらい食べれば。
どうも頭が痛い。
以上。
◇
現在地、書庫。
昨日は(今日は)二時頃布団に入り、明け方まで寝付けなかった。とてもお腹が空いていた。台所で何か作ろうかと思ったが、起きかけのペットがいたのでやめておいた。あの子達に気を遣わせてまで、することではない。もし誰もいなかったら、トーストと甘いお茶でも頂いていただろう。
三時間は眠れたらしい。朝食は食べた。こいしは未だ帰らず、今日も免除。あの自由さは、しばしば私の羨望と嫉妬を誘う。しかし「やれ」と言われても難しいだろう。私はそういう風にはできていない。常識人って損だ。覚り妖怪の常識が、その他多数の常識かは置いておいて。皆、普通に特別だ。
ペット用にお昼を準備して、図書室へ。私のしたことを調べたかった。収穫なし。是非曲直庁経由の古本が八割なのだ、当然か。映姫らの常識では、自殺は審判以前の大罪。書物にするまでもない。
私は死ぬ気じゃないんだけど。割と近い方法で、憤りを宥めているだけ。
得るものはなかったけれど、此処は居心地がいい。静かで気に入っている。口の音も、頭の音もしない。これでベッドと軽食処でもあれば完璧なのだが。
そして正午現在、私は飢えている。非常に空腹である。厨房には手製のサンドイッチと、ハーブサラダがある。けれども帰り辛い。急に行ったら、あの子達が緊張するかもしれない。食べ物の好き嫌いが、料理人の私に筒抜けになる。その罪悪感で、私も気まずくなる。とぼけて、慣れよう。家事や作業を分担させてみようか。気楽だろうし、お小遣いをあげやすくなる。地霊殿にいてもらう、理由ができる。
なんて理屈を閃く、私はずるい。
私の部屋には、保存食と食器を常備しよう。
この半端な日記を書くのは、思いの外楽しい。新たな娯楽と出会った気分だ。私は人に話す性分ではないので、書かないと溜まってしまうのかもしれない。幸か不幸か、今は文章化できることが沢山ある。
あ、新発見。ペーパーナイフが落ちていた。そこそこ切れそうだ。
以上。
◇
映姫に定例報告の手紙を書いた。白黒はっきりした彼岸にはない、メルヘンカラーの便箋で。遠回しにも程がある嫌がらせ。あるいは、自慢。冬祭りでお燐に貰った。どうだ私にもプレゼントをくれる子がいるんだぞーと、虚勢を張ってみる。紙だけに薄っぺらく。
万事順調と認めた。私のことは伝えない。元地獄は、今日もきちんと回転している。いい子にしていれば、館にいられる。
台所の砂糖壺は、ほぼ底が見えていた。残りの容量くらい、手に持てば想像できるのに。注ぎ足しが面倒だったのだろうか。後で言っておこう。決して激昂せず、ストックの場所を確認させる形で。今日のところは、私が。
入れるついでに、お砂糖を呑んでみた。甘くてじゃりっとして、いかにも身体に悪そうだった。保存状態もよろしくない。湿気っていた。
夢中になっていたようだ。お燐の気配を感じられなかった。びっくりされた。ペットごっこ、マイブーム。笑顔で誤魔化した。余裕だった。変人の線で納得された。狂人には届かない。
もしも、もう一度「本当にそうなんですか」と訊いてくれたら。問わないまでも、想ってくれたら。
私は号泣したかもしれない。お燐には酷だ。私は残酷だ。
わかってくれなくて、がっかりした。
わかってもらえなくて、機嫌が良くなった。
毛布を一枚増やして寝よう。
以上。
◆
鋏包丁ペーパーナイフ、糸切り厚紙缶詰の蓋。白糖、干からびた茶葉、茶殻。様々な手段で、さとり様はこっそり怒っていた。
恨めない恨み帳だ。やっていることは陰湿なのに、動機がみじめで善良過ぎる。おまけにさとり様、悪事の自覚がある。
初めて廃棄蔵で切った日は、あたいとおくうとこいし様が一緒の日だった。談話室で、旧都製の和菓子を食べていた。季節の変わり目の、入手困難なものを。三つきりのを、おくうと味わっていた。そこにこいし様が乱入して、口止めに渋々分けてあげた。さとり様は、加われない自分を褒めて、奔放なこいし様に嫉妬して、『私は汚い。淋しい。苛々する。また、切ろう。蔵に素敵な武器があった』。それでも足りずに、砕けたビスケットを部屋でおやつにしていた。水も飲まずに。
自傷、自罰。
さとり様の惨い日々は続き、裏表紙から二枚目。『やめた』という書き出しで、真っ黒い記録は終わっていた。
◆
やめた。紙幅が尽きる。こんな記述を、何冊も継いで何になる。これからは、やるだけにしよう。枝毛切りという大義名分はできた。大偽名分?
私や地霊殿が危険になる前に、このノートは処分すること。映姫には提出できない。秘密は向こう岸、浄玻璃の鏡まで隠していく。
取り返しがつかなくなってから、映姫は叱ってくれるだろうか。「どうしてこんなになるまで放っておいたの!」と。理想的、感動的な場面だ。本気で心配して、叱責してくれる。でも最早手遅れ。苦悩する閻魔様を見てみたい。相変わらず性格悪いな、私。
ん、でも。生きているうちに、叫んでもらえたらもっと嬉しい。そのひとはきっと優しい、善いひとだろう。私が傷付けたらいけないような。
誠実に恐れてくれるひとがいたら、私は止める。すぐには無理かもしれないけれど、努力する。
忠告や同情は、見当違い。私は無条件の愛情が欲しい。繋がりに生きる俗な身では、難しいか。救いの神様でもないと。ペット達が宴会の口実にする貴方を、私はささやかに信仰している。
お誕生日、おめでとうございます。今年も、屋敷の皆にいいことがありますように。
以上。
◆
息を、溜め込んでいたようだ。重たく吐き出した。尖った猫耳が震えた。
さとり様は、小さい御方だった。あたいの過大評価を差し引くと、余計にちびっこい。ずるくて遠回しで怒り下手で、怒りっぽい。
でも、落胆はしなかった。あたい達を守り育てたのも、またさとり様だから。どれほど卑屈で、自称性悪でも。数百年は、容易に果たせる善行ではない。あたいには不可能だ。やっぱり、さとり様は凄い。手のかかるいい子だ。
真実に間に合って、よかった。ほっとして、妬いた。さとり様に祝われる、遠い遠い神様を。
やれることをやろう。結果を目指して。大事なさとり様と、可愛いあたい自身のために。
お店の妖怪に、一つお願いをした。時間がかかるのは承知。別の買い物をして回る。全部抱えて、あたいのお家に帰る。
さとり様の帳面の最後は、昨日綴られたばかりの日記だった。あたいへの手紙でもある。紺青のインクの怨念。読んでも読まなくても、あたいの選択は変わらなかっただろう。
◆
久し振りに、このノートを開いた。喜ばしいような、悔しいような……悔しいだ、悔しい。辛い出来事があった。
誰からも頼られる、気のいいお姉さんのお燐。あの子がちょっとしたことで己を恥じて、ごみの蔵に座り込んだ。
立ち位置が重なるからか、お燐の心理は追跡してしまう。私も、あそこで自分を責めた日がある。
「結局有難がられたいのか、お燐さんは」。共感し、彼女の成長を実感した。大したものだ。
けれども、すぐに腹立たしくなった。おくうがお燐の行方不明に気付いて、捜索を開始。闇の中の彼女を、直感と友情で発見してのけた。
ずるい。私のときは、居ないことにも気付かなかったのに。なんでお燐ばかり? 姉ぶっててもまだ鈍感なのに。何もしていないのに、なんでいいことがあるの? 不公平だ。
我慢しなさい、状況が違うのだからと、私はわがままの火種を黙らせた。
再発火。鈍感お燐が頭を働かせた。私の行為を、察しかけていた。待望の瞬間。回避したかった暴発。幸福なのか災難なのかで、混乱した。あの子も困惑してくれている。苦しめてしまった。
こんな私の、どこが立派で寛大なのだろう。最悪でしょう? 貴方のさとり様は。
凶暴さが治まらない。お燐が確かめに戻るのは、ほぼ決まっている。私は懐かしいこの一冊を、彼女に委ねる。
八つ当たりだ。吐き気がする。
お燐は読むだろうか。恨みを晴らすって、どんな感覚なんだろう。
私は初めて、私ゆえに嫌われるだろう。覚悟はできている。する。
家出していいよ、お燐。おくうや、皆を連れて。地上でもどこでも。
じゃあね。お幸せに。
◆
二人暮らしには寂し過ぎる、庭園つきの洋館に帰宅した。着地の際、雪原に革長靴がめり込んだ。荷物が重かった。
エントランスで、おくうとこいし様が迎えてくれた。あたいの荷解きを助けつつ、箱や包装の中身を予想している。
「そっちは開けないの。当日まではツリーの前。おくう堪えて」
「頑張る。運ぶね。もう山積みなんだよ、夜店みたい」
「祭りだねえ。ああこいし様、さとり様は?」
「お姉ちゃんは階段で一回こけてた」
「なんか急いで部屋に行っちゃったよ。閻魔様のお説教かな」
逃げたな。私と対面するのを怖がって。どこまでも悪役失格だ。追いかけよう。
「お燐、このおっきな紙箱は?」
「私の大好物の匂いがする」
腹ぺこ探偵二名が、黒と銀の髪を寄せ合った。生憎、おくう達の分じゃない。こいし様にねだられても、あげない。
付録のジンジャークッキーを渡して、引き剥がした。
さとり様、いますか。返事しなくてもいいです。あたいは入れなくても、そのままで。これだけ引き取ってください。
こころは、雄弁だ。明確な思考の木も、枝葉も送れる。あたいが過去を読んだことも、それでも帰りたいと望んだことも。日記の下にある、薔薇リボンつきの箱のことも。
ホールのケーキを、喫茶店で作ってもらった。内も外もお任せで。とりあえず、虚しい重みではないと思う。
平皿やカットナイフは、室内にある。
媚びや憐れみの意図はない。悪い子らしく、好きなだけ食べちゃえとそそのかすくらい。さとり様は、なかなか一番乗りをしないから。
扉から白い手が伸びて、持っていった。あたいは閉ざされた、厚い板に寄りかかる。座って、耳を澄ます。
磁器のぶつかるような高音。フォークかな、鋭い金属音。
「ベイクドチョコレート」
粉砂糖でお化粧してる。さとり様が、淡々と教えてくれた。
背中の全面が、弱く押された。多分さとり様が、戸に半身を預けた。
無味無臭、無音の時が流れる。感想は強いない。私達には、色んなものが足りない。自由な沈黙とか。何でもない間とか。ないけれど、まだ遅くはないはず。
「責めて、止めないの? 髪の、こと」
止めない。どうなっても、あたいはさとり様が好きらしい。白黒合わせて。どっちも、あたいはできるだけ聞く。
小雨のような、嗚咽が響いた。ドアの先では、大泣きしているのかもしれない。ひっそりと。
それでいい。降り止まなくて。
便箋を買ったよと、報せた。閻魔様が羨みそうな、甘口の女の子っぽいの。
あともうひとつ、さとり様には贈り物がある。どうかなと、提案してみた。
快諾の証に、食べ切れなかったショコラケーキを貰った。たったの一切れしか、残っていなかった。
さとり様、よく切れていらっしゃる。
おくうはもっと正直に喚く。翼の先から指先爪先まで、全身で大暴れする。子供っぽいけれど、発散は上手い。長くても一日で終わって、次の朝には忘れている。
他のペット達も、似たようなものだろう。ストレスを溜めること自体少ない。放し飼いの地霊殿は、年中快適だ。
こいし様は、怒らない。「あ、お燐達ずるーい。それ旧都の新しいおやつでしょ? 私に内緒で食べる気だったんだぁ」と笑って膨れる程度だ。分けてあげると許してくれる。「大目に見ましょう、えへん」と。揺れる黒い大目は、何も視ていない。感情という手足が、半分眠っている。
そして我らが主、さとり様。あのひとも怒らない。数百年間一緒にいるけれど、一度も当たられたことがない。他人にも物にも寛大だ。稀に叱るときも、どこが悪かったのかを噛み砕いて説明する。どこかの閻魔様みたいに、声を荒げない。早口にならない。偉いなあと感心していたら、穏やかに反論された。
「私が下手なだけ。映姫の方が人間ができているの。人間じゃないけど」
「逆だと思いますよ。さとり様の方が立派で、大人です」
「知らないわよ、彼岸で後悔しても」
雪染めの夕暮れ、洗面室での会話だった。さとり様はいつものように、小鋏で枝毛を切っていた。周囲の房ごと巻き込んで。
昔は、髪が長かった。今のあたいと同じくらい。地下の湿気に弱いからと、大分前に短くした。以来、大規模な髪型変更はしていない。ベリーショートにすれば傷みが減りそうだけれど、
「伸びるのが遅いの。失敗したときが怖いから、止めておくわ。貴方の想像を読むに、似合わなそうだし」
「にゃ、そうですか。まあでも前髪とか、やり辛かったら呼んでくださいね。おくう達の世話で慣れてますから」
ありがとう。花弁のような髪切れを集めて、
「そのおくう達がお呼びよ。ツリーの鉢に敷く、白めのうの砂利は何処だって」
さとり様はあたいを促した。騒がしい広間から、お燐お燐の大合唱が聞こえる。手を洗う暇もない。
「毎年のお祭りなのに、誰も覚えてない。プレゼントすっぽかしてやろうかな」
「ま、頼られるのは嫌じゃないけどね。いっちょお燐さんが頑張ってやりますか、とも考えてる」
「にゃはは。さとり様は、例年通り便箋でいいですか?」
「ええ。色柄のセンスに期待してるわ」
注文をしっかり刻んで、あたいは飾り付けの会場に向かった。
もう数日で、西洋の歴史ある神様の誕生日になる。困っている人を大勢助けた、伝説の英雄だそうだ。信者は彼の生誕を祝う。もみの木の着付けや、贈り物や宴会で。彼を信じない地霊殿でも、同様のことをする。単純に美味しくて、楽しいから。花見や雪見の感覚だ。あたい達を温めなかった、救世主はどうでもいい。
さて、石粒はどの辺りにしまったか。統一感無し、輝き満載の大木の下で思案した。
色硝子や指人形のような軽いものとは、別にしていたはずだ。小麦用の麻袋に入れていた。
一時倉庫や、冬道具の物置には見当たらず。
食材と間違われてはいないかと、厨房に急行。外れ。ご馳走の試食で使ったのだろう、粉砂糖やココアの袋が捨てられていた。
ごみ箱から、連想ゲームのように裏手の廃棄蔵へ。駄目だった。火のない焼却炉も覗いたけれど、空っぽ。灰を吸う羽目になった。しかも直後に、庭担当の新入りが報告に来た。園芸用と勘違いして、地面に撒いてしまったそうだ。ということは、今頃は薄雪の下か。
「掘り起こすのも手間だね、うん。綿や白砂に切り替えよう」
代案を伝えると、幼い後輩は喜んで走っていった。謝罪もお礼もなく。
仕方がない、まだまだひよっこだ。初めはよくあること。さとり様のような、大きな心で接していかないと。
頼りにされるのは、不快ではない。けれども、駆け回った身体は冷たい。ありがとうの一言が欲しい。
(結局有難がられたいのか、お燐さんは)
己の強欲さを悟って、情けなくなった。隙間風の厳しい、ごみ蔵の地べたに座ってみた。あたいのように狭い。不用品で溢れて、息苦しい。座椅子は蜘蛛の巣、回覧は虫食い。刃こぼれした斧は、裸で転がっている。多分無害だ。ここを開ける住人は、年に十いればいい方。
気分に流されて、床の土に爪を立てかけた。
糸らしきものを、掻き取った。棚蜘蛛の網のようには、壊れない。藁?
何だろう、明るい場所で見たい。
希望に沿うように、暖色の光が射し込んだ。おくうも飛び込んできた。
「居たー! 心配させて、このこの」
「暴れないでよ、埃立つって」
「埃立つようなとこにいる方が悪い。探したんだよ台所の戸棚とか」
道理でメイプルシュガーの匂いがする。
「数十年ぶりの再会じゃないんだから。三十分ちょっとだよ、慌てないの」
「お燐には三十分でも、私には数十年っぽいの。たくさん数えられないのに、頭使わせないで」
数えてるじゃん、という突っ込みは封印。親友の真心が嬉しかった。素直にお怒りを頂戴した。
あたいがどんなにちっちゃくても、おくうはおくうなりに気付いてくれるだろう。そういうひとと暮らせる、あたいは幸せだ。
「さとり様がミルクティーくれるって。差し入れ。ロイヤルでストレートでフラッシュな」
「フラッシュしない。ロイヤルなのね」
廊下を低空飛行する、おくうをゆっくり追った。
指爪に挟まった泥を、洗い落としてから行こうか。左手を見詰めて、疑問と再度会った。こびりついて、絡まっていた。
糸は、髪の毛だった。片端が波打って、醜く潰れている。まるで、錆びかけの鉄斧で押し切ったかのように。
地霊殿には、散髪鋏も鏡もある。髪弄りの得意なペットもいる。
一体誰が、わざわざあんなところで。
土色を払った。
水に溶いた、桃紫。ホールの仲間達には、当てはまらない。おくうでも、こいし様でもない。
さとり様だ。洗面台で目にした、髪房とそっくり。
(枝毛切りかな、つい気になって)
あのひとでも、そのくらいの奇行はするだろう。たまにグラニュー糖の一気飲みや、茶葉齧りをしている。面白そうに。
紅茶を牛乳で煮出すさとり様に、一応念じておいた。「折角まめに手入れしてるのに、斧で刈っちゃいけませんよ」と。
「はーい」
ささくれも深爪もない、健やかな右手が振られた。
本当は、ある選択肢に至りかけていた。さっきまでへこんでいたから、感付けた。二、三の事実と推理から。
廃棄場の暗さでは、どれが枝分かれの毛か判らない。事前に摘んでいても、簡単に見失う。
切るだけ切って、放置するのも変だ。無視していい、がらくたとでも思わない限り。
あたいについてきた髪屑に、不良品は一本もなかった。まとめて切断する必要はない。かえって毒だ。
だとしたら、ああでも。あたいの三十分が、おくうには数十年でも。あたいにとっての奇行が、さとり様にとっては凶行でも。
正解したくなかった。直視を避けたかった。どう応えたらいいのか、わからなかった。
我らが主、さとり様は怒らない。
妄想、取り越し苦労であれ。あたいの望みは翌日、一冊のノートに粉砕された。
およそ八十枚綴じ、掌二つ分くらいの大きさ。表紙は布張り。古びた蔵で、唯一整っていた。昨日は存在しなかった。
髪の栞を咥えて、あたいを待っていた。
(どうしよう、これ)
読めば、答えの一端があるはず。あたいにできる、適切な応えの欠片も。
見なかったことにすれば、これまでと変わらずにいられる。無理矢理、さとり様を誤解していられる。
(そうしてきっと、絶対に、)
悔やむ。川の向こうまでずっと、自責の念を連れていく。後からでは間に合わない。
おくうが変貌したときのような、瀬戸際だ。あの冬あたいは、将来嘆かないための行動をした。大事なおくうと、あたい自身のために。
自分可愛さで、誰かに構って何が悪い。
腹は決めた。邪魔をされない、落ち着ける場が欲しい。
あたいはさとり様の帳面を持って、プレゼントを選びに出た。鬼神の眠る午前中だ、大抵の飲み屋は空いている。入り組んだ小路の喫茶店なら、更に。
◆
深夜、自分で自分の髪を切った。何の前準備もなく。普段使いの鋏で。紐で束ねた状態のところを、一気に。
一気にとは行かなかった。やはり日常鋏は鈍らである。少しやり損ねた。高低もばらばら。怪しまれないよう、ショートカット風に修正した。
切ったのは、他に当たる先がなかったからだろう。私には他人を殴ったり、喚いたりする勇気(正しく暴力を振るえる自信?)がない。相手の痛みを覚って、怯んでしまう。妹のように、逸脱する根性もない。植物や無機物も破壊できない。植えたひとや、作ったひとがいるから。蔵に閉じ込めるのが精々。
切ろうと思ったのは、同日夜のこと。動くのは早かった。こういうときだけ、私は素早い。
切りたくなるまでには色々あった。ペットの一部は相変わらず、昼過ぎからお酒を呑み始めた。栓抜きの思念と、音がいつも同じなのでわかる。しかも毛布を出して、通り道に寝転がってしまった。お燐は私の了解なく、私が喜ぶと思って靴下を買ってきた。今履いているものの保温効果について説明したが、若い彼女に伝わったかどうか。おくう達鴉組の蓄音機が、何度も音階を外していた。耳のいい子がいつ泣き出すか、気になった。夕飯は余り物のお餅を焼いた。搗いたら黴が生える前に食べる。常識を教えないと。順番に網で加熱して出していった。ペット、こいし、私の順。当たり前のように、こいしは何もしない。宴もどきになって、おくうは眠ってしまった。横になるとすぐ睡魔が訪れるのに、学習しない。未熟な彼女達を残して、私は遠くに離れられない。酒瓶の途切れた辺りで、ああ来るなあと予想した。お姉さん格・お燐の「こら寝床行くよ」だ。案の定来た。私にはこの文句が、「あたいも眠いんだってば、迷惑かけないでよ」に視える。「さとり様怒ってないかなあ」とも取れる。私は皆を灼熱地獄跡に誘導するのを手伝い、その後自室へ直行し、鋏を手に取った。
何処が一番いけなかったのかは、見当がつかない。色々は、色々だ。
こういう日記らしいことを書いたのは、いつ以来だろうか。気持ちの整理のために、記しておくことにした。
以上。
◆
最初の十数枚は、衣類のアイデア帳だった。縮小サイズの型紙や、ステンシルの図案が並んでいた。ラフスケッチは、あたい達の尻尾や羽用の工夫たっぷり。色鉛筆の薄塗りに、ゆったり和んだ。ノートの出し間違いや、さとり様流の悪戯だったのではないか。油断してページを捲ったら、これだ。
黒インク一色、心境の独白。惑っているのに、文字も飛ばしがちなのに、誤字はゼロ。ちぐはぐさが恐ろしかった。屋内なのに指が凍えた。
頼んだストレートな紅茶で、温まろう。安心したい。
願う手は白地のカップではなく、黒い文書に触れていた。
短髪になったさとり様の、日付のない日記。
◆
昨日の今日でまた切ってしまった。夜更け。台所にて、野菜包丁で一房。意外と切れ味が悪かった。
誰にも見付からなかった。こいしは留守。見付かるはずがない。
寝台の用意をして、ペットの夜食のお皿を洗っているときに切った。
量こそ少ないが、幾らか満足感があった。すーっとした。
しかし代替策を考えないといけないだろう。髪には限度がある。肌……腕や手首は却下だ。痛いだろうし、薄着をしたらばれる。
調味料棚の、砂糖壺が目に入った。甘いものを気持ちが悪くなるくらい食べれば、幸せになれるかもしれない。空にするくらい食べれば。
どうも頭が痛い。
以上。
◇
現在地、書庫。
昨日は(今日は)二時頃布団に入り、明け方まで寝付けなかった。とてもお腹が空いていた。台所で何か作ろうかと思ったが、起きかけのペットがいたのでやめておいた。あの子達に気を遣わせてまで、することではない。もし誰もいなかったら、トーストと甘いお茶でも頂いていただろう。
三時間は眠れたらしい。朝食は食べた。こいしは未だ帰らず、今日も免除。あの自由さは、しばしば私の羨望と嫉妬を誘う。しかし「やれ」と言われても難しいだろう。私はそういう風にはできていない。常識人って損だ。覚り妖怪の常識が、その他多数の常識かは置いておいて。皆、普通に特別だ。
ペット用にお昼を準備して、図書室へ。私のしたことを調べたかった。収穫なし。是非曲直庁経由の古本が八割なのだ、当然か。映姫らの常識では、自殺は審判以前の大罪。書物にするまでもない。
私は死ぬ気じゃないんだけど。割と近い方法で、憤りを宥めているだけ。
得るものはなかったけれど、此処は居心地がいい。静かで気に入っている。口の音も、頭の音もしない。これでベッドと軽食処でもあれば完璧なのだが。
そして正午現在、私は飢えている。非常に空腹である。厨房には手製のサンドイッチと、ハーブサラダがある。けれども帰り辛い。急に行ったら、あの子達が緊張するかもしれない。食べ物の好き嫌いが、料理人の私に筒抜けになる。その罪悪感で、私も気まずくなる。とぼけて、慣れよう。家事や作業を分担させてみようか。気楽だろうし、お小遣いをあげやすくなる。地霊殿にいてもらう、理由ができる。
なんて理屈を閃く、私はずるい。
私の部屋には、保存食と食器を常備しよう。
この半端な日記を書くのは、思いの外楽しい。新たな娯楽と出会った気分だ。私は人に話す性分ではないので、書かないと溜まってしまうのかもしれない。幸か不幸か、今は文章化できることが沢山ある。
あ、新発見。ペーパーナイフが落ちていた。そこそこ切れそうだ。
以上。
◇
映姫に定例報告の手紙を書いた。白黒はっきりした彼岸にはない、メルヘンカラーの便箋で。遠回しにも程がある嫌がらせ。あるいは、自慢。冬祭りでお燐に貰った。どうだ私にもプレゼントをくれる子がいるんだぞーと、虚勢を張ってみる。紙だけに薄っぺらく。
万事順調と認めた。私のことは伝えない。元地獄は、今日もきちんと回転している。いい子にしていれば、館にいられる。
台所の砂糖壺は、ほぼ底が見えていた。残りの容量くらい、手に持てば想像できるのに。注ぎ足しが面倒だったのだろうか。後で言っておこう。決して激昂せず、ストックの場所を確認させる形で。今日のところは、私が。
入れるついでに、お砂糖を呑んでみた。甘くてじゃりっとして、いかにも身体に悪そうだった。保存状態もよろしくない。湿気っていた。
夢中になっていたようだ。お燐の気配を感じられなかった。びっくりされた。ペットごっこ、マイブーム。笑顔で誤魔化した。余裕だった。変人の線で納得された。狂人には届かない。
もしも、もう一度「本当にそうなんですか」と訊いてくれたら。問わないまでも、想ってくれたら。
私は号泣したかもしれない。お燐には酷だ。私は残酷だ。
わかってくれなくて、がっかりした。
わかってもらえなくて、機嫌が良くなった。
毛布を一枚増やして寝よう。
以上。
◆
鋏包丁ペーパーナイフ、糸切り厚紙缶詰の蓋。白糖、干からびた茶葉、茶殻。様々な手段で、さとり様はこっそり怒っていた。
恨めない恨み帳だ。やっていることは陰湿なのに、動機がみじめで善良過ぎる。おまけにさとり様、悪事の自覚がある。
初めて廃棄蔵で切った日は、あたいとおくうとこいし様が一緒の日だった。談話室で、旧都製の和菓子を食べていた。季節の変わり目の、入手困難なものを。三つきりのを、おくうと味わっていた。そこにこいし様が乱入して、口止めに渋々分けてあげた。さとり様は、加われない自分を褒めて、奔放なこいし様に嫉妬して、『私は汚い。淋しい。苛々する。また、切ろう。蔵に素敵な武器があった』。それでも足りずに、砕けたビスケットを部屋でおやつにしていた。水も飲まずに。
自傷、自罰。
さとり様の惨い日々は続き、裏表紙から二枚目。『やめた』という書き出しで、真っ黒い記録は終わっていた。
◆
やめた。紙幅が尽きる。こんな記述を、何冊も継いで何になる。これからは、やるだけにしよう。枝毛切りという大義名分はできた。大偽名分?
私や地霊殿が危険になる前に、このノートは処分すること。映姫には提出できない。秘密は向こう岸、浄玻璃の鏡まで隠していく。
取り返しがつかなくなってから、映姫は叱ってくれるだろうか。「どうしてこんなになるまで放っておいたの!」と。理想的、感動的な場面だ。本気で心配して、叱責してくれる。でも最早手遅れ。苦悩する閻魔様を見てみたい。相変わらず性格悪いな、私。
ん、でも。生きているうちに、叫んでもらえたらもっと嬉しい。そのひとはきっと優しい、善いひとだろう。私が傷付けたらいけないような。
誠実に恐れてくれるひとがいたら、私は止める。すぐには無理かもしれないけれど、努力する。
忠告や同情は、見当違い。私は無条件の愛情が欲しい。繋がりに生きる俗な身では、難しいか。救いの神様でもないと。ペット達が宴会の口実にする貴方を、私はささやかに信仰している。
お誕生日、おめでとうございます。今年も、屋敷の皆にいいことがありますように。
以上。
◆
息を、溜め込んでいたようだ。重たく吐き出した。尖った猫耳が震えた。
さとり様は、小さい御方だった。あたいの過大評価を差し引くと、余計にちびっこい。ずるくて遠回しで怒り下手で、怒りっぽい。
でも、落胆はしなかった。あたい達を守り育てたのも、またさとり様だから。どれほど卑屈で、自称性悪でも。数百年は、容易に果たせる善行ではない。あたいには不可能だ。やっぱり、さとり様は凄い。手のかかるいい子だ。
真実に間に合って、よかった。ほっとして、妬いた。さとり様に祝われる、遠い遠い神様を。
やれることをやろう。結果を目指して。大事なさとり様と、可愛いあたい自身のために。
お店の妖怪に、一つお願いをした。時間がかかるのは承知。別の買い物をして回る。全部抱えて、あたいのお家に帰る。
さとり様の帳面の最後は、昨日綴られたばかりの日記だった。あたいへの手紙でもある。紺青のインクの怨念。読んでも読まなくても、あたいの選択は変わらなかっただろう。
◆
久し振りに、このノートを開いた。喜ばしいような、悔しいような……悔しいだ、悔しい。辛い出来事があった。
誰からも頼られる、気のいいお姉さんのお燐。あの子がちょっとしたことで己を恥じて、ごみの蔵に座り込んだ。
立ち位置が重なるからか、お燐の心理は追跡してしまう。私も、あそこで自分を責めた日がある。
「結局有難がられたいのか、お燐さんは」。共感し、彼女の成長を実感した。大したものだ。
けれども、すぐに腹立たしくなった。おくうがお燐の行方不明に気付いて、捜索を開始。闇の中の彼女を、直感と友情で発見してのけた。
ずるい。私のときは、居ないことにも気付かなかったのに。なんでお燐ばかり? 姉ぶっててもまだ鈍感なのに。何もしていないのに、なんでいいことがあるの? 不公平だ。
我慢しなさい、状況が違うのだからと、私はわがままの火種を黙らせた。
再発火。鈍感お燐が頭を働かせた。私の行為を、察しかけていた。待望の瞬間。回避したかった暴発。幸福なのか災難なのかで、混乱した。あの子も困惑してくれている。苦しめてしまった。
こんな私の、どこが立派で寛大なのだろう。最悪でしょう? 貴方のさとり様は。
凶暴さが治まらない。お燐が確かめに戻るのは、ほぼ決まっている。私は懐かしいこの一冊を、彼女に委ねる。
八つ当たりだ。吐き気がする。
お燐は読むだろうか。恨みを晴らすって、どんな感覚なんだろう。
私は初めて、私ゆえに嫌われるだろう。覚悟はできている。する。
家出していいよ、お燐。おくうや、皆を連れて。地上でもどこでも。
じゃあね。お幸せに。
◆
二人暮らしには寂し過ぎる、庭園つきの洋館に帰宅した。着地の際、雪原に革長靴がめり込んだ。荷物が重かった。
エントランスで、おくうとこいし様が迎えてくれた。あたいの荷解きを助けつつ、箱や包装の中身を予想している。
「そっちは開けないの。当日まではツリーの前。おくう堪えて」
「頑張る。運ぶね。もう山積みなんだよ、夜店みたい」
「祭りだねえ。ああこいし様、さとり様は?」
「お姉ちゃんは階段で一回こけてた」
「なんか急いで部屋に行っちゃったよ。閻魔様のお説教かな」
逃げたな。私と対面するのを怖がって。どこまでも悪役失格だ。追いかけよう。
「お燐、このおっきな紙箱は?」
「私の大好物の匂いがする」
腹ぺこ探偵二名が、黒と銀の髪を寄せ合った。生憎、おくう達の分じゃない。こいし様にねだられても、あげない。
付録のジンジャークッキーを渡して、引き剥がした。
さとり様、いますか。返事しなくてもいいです。あたいは入れなくても、そのままで。これだけ引き取ってください。
こころは、雄弁だ。明確な思考の木も、枝葉も送れる。あたいが過去を読んだことも、それでも帰りたいと望んだことも。日記の下にある、薔薇リボンつきの箱のことも。
ホールのケーキを、喫茶店で作ってもらった。内も外もお任せで。とりあえず、虚しい重みではないと思う。
平皿やカットナイフは、室内にある。
媚びや憐れみの意図はない。悪い子らしく、好きなだけ食べちゃえとそそのかすくらい。さとり様は、なかなか一番乗りをしないから。
扉から白い手が伸びて、持っていった。あたいは閉ざされた、厚い板に寄りかかる。座って、耳を澄ます。
磁器のぶつかるような高音。フォークかな、鋭い金属音。
「ベイクドチョコレート」
粉砂糖でお化粧してる。さとり様が、淡々と教えてくれた。
背中の全面が、弱く押された。多分さとり様が、戸に半身を預けた。
無味無臭、無音の時が流れる。感想は強いない。私達には、色んなものが足りない。自由な沈黙とか。何でもない間とか。ないけれど、まだ遅くはないはず。
「責めて、止めないの? 髪の、こと」
止めない。どうなっても、あたいはさとり様が好きらしい。白黒合わせて。どっちも、あたいはできるだけ聞く。
小雨のような、嗚咽が響いた。ドアの先では、大泣きしているのかもしれない。ひっそりと。
それでいい。降り止まなくて。
便箋を買ったよと、報せた。閻魔様が羨みそうな、甘口の女の子っぽいの。
あともうひとつ、さとり様には贈り物がある。どうかなと、提案してみた。
快諾の証に、食べ切れなかったショコラケーキを貰った。たったの一切れしか、残っていなかった。
さとり様、よく切れていらっしゃる。
おくうもいつかさとり様の真情に気付く時があるんでしょうか。
想像もつきませんが。
ところでなんでさとり様はえーき様に手厳しいのwww
アットホームな関係で描かれことの多い地霊殿の四人に対して独自の解釈をされているのが良かったと思います。
精神的に追いつめられたさとりが最後に頼れるのはたしかにお燐しかいないような気がします。
読んでいて説得力もありました。
負の一面を描いているのに暗くならず、むしろキャラクターの魅力が感じられる話になっているのは凄いと思いました。
地霊殿はこういう話が合いますね。
ペット自慢される閻魔様以外にとってはいい結末になったね
さとり様もお燐もみんな良い子過ぎて辛い。にしてもさとり様最後まで嫌がらせを忘れないなんて流石です。
手紙受け取ったら、映姫様もいらっとするだろうなあ。あくまでイラっとする程度のささやかなイタズラしか出来ないところがまた不器用だ。
口の周りに砂糖つけてケーキほうばるさとり様かわいいよ、さとり様(ゴロゴロ
そしてえーき様どんまいw
見た目はちょっとビターで黒いイメージがあるのに、食べたら甘くてふわふわ。
そんなイメージが湧きました。
≫「お姉ちゃんは階段で一回こけてた」
ここの描写をもっと詳しくお願いします!
なんかすごく幸せな気分です。
特に映姫様への手紙が、ちょっといたずらぽくて好きです。
よっぽど、嬉しかったんだなぁと。
さとりんに安心して嫁がせることが出来るよ!
>さとり可愛いよさとり
>自分はもうちょっと黒い方が好きかな
>不器用で愛おしい
>読んでいて説得力もありました
さとりをテーマに、クリスマスのケーキを作っているような心地でした。どのくらいの甘みや香りがいいのか、悩みながら書きました。
優しいお言葉も、ご指摘も嬉しいです。
>穏やかな雰囲気
>無言でドア越しに、ノート越しに伝えあう静けさ
ありがとうございます。二人の波と、淡い凪が描けていますように。
>おくうもいつかさとり様の真情に気付く時があるんでしょうか
あるといいなと願います。気付き方も応え方も、きっとお燐とは異なるでしょう。でも同じくらい、つよいはずです。
>≫「お姉ちゃんは階段で一回こけてた」
前のめりでした。詳しい描写は、すみませんが省かせてください。聖夜をトラウマで一杯にされては、困りますゆえ。
>ところでなんでさとり様はえーき様に手厳しいのwww
>えーき様「妬ましいわ」
>映姫様への手紙
長年のやり取りで、「ここまでは大丈夫」という加減を知っているのだと思います。後は映姫様の辛口さや、対するさとり様の筆弁慶・幸福の賜物でしょう。
いつか、二人のお話も書いてみたいです。
全部ひっくるめてそんなさとりを好きになってしまうお燐が私は大好きです
お燐とさとり様が、とてもいじらしくて、とても可愛らしかったです。
比べて、さとり様から映姫様への手紙の浮つき加減がwww
年末にいいお話をありがとうございました。
お燐が成長したことにより、上下関係からより支え合える関係にそだったことでさとりの負担は減るでしょう。
その感じがドアを挟んでの情景とあいまってとてもよい感じ。
考察し甲斐のある言葉回しで、にやにやしながら読めました。
この話に限らず、深山咲さんの物語が大好きです。
お燐は良い子。
素敵なお話をありがとうございます