椛は私の恋人だ。
思いっきり抱きつけばしっかり抱き返してくれる。会えば何にも考えてなさそうな顔で笑いかけてくれるし、”好き”って言ってくれる。
もちろん甘えるだけじゃなくて、今日なんかは手帳に書き連ねた”恋人に甘えさせる方法”が今か今かと出番を待っているのだ。
椛は私の恋人なのに、
「何してんの」
「はたてさん、こんにちは。何と言えばキスですね」
なんで私以外としてんのよ。
炎天下に揺らめく森が墨を滲ませたように暗くなる。いつの間に私は鉛を飲み込んだんだろう。重く冷たい感触に胃がひっくり返りそうだ。ざらつく舌を口の底から引き剥がした。
「それ、誰」
こんなこと訊きたいわけじゃないのに。”誰か”なんてどうだっていい。
「ああ、紹介が遅れました。顔を会わせるのは初めてですよね。これは同僚の……」
言葉は私を素通りしていく。熱を奪われ体が冷える。
悪びれもしてない様子で、むしろ宝物を披露できて嬉しがる子供のような表情で椛は話し続ける。どうしてそんな顔できるのよ。
それに、手だ。気付いてしまった。ごく自然に隣の肩へ置かれた手。あんたから触れてくれることなんて殆どないのに、その女にはするんだ。
「どうしました。大丈夫ですか」
一段大きな問いかけで我に返った。緩く、細く息を吸う。大きくしたら勢い付いて叫びだしそうだから。
「何が?」
「涙が流れていますよ」
あんたのせいだ。椛、あんたのせいなんだ。
ありったけの力をかき集めて、拳を固く握り締める。ぶん殴ろうとして、顔を上げて、ぼやける視界に眉根を寄せた椛が見えた。やめた。椛はずるい。そんなの殴れるはずないでしょ。
拳を解いたら、まとめて全身の力まで抜けた。
「はたてさんっ」
私を支える必要なんてないのに。
「急にどうしたんです。具合が悪いのですか」
最悪よ。友人を心配する腕で抱かれたくない。恋人の腕がいいんだ。
今すぐ逃げ出したいのに、込めた力が全部翼の先から流れ出る。柔らかい体は、むずがる私を抱え込み動きを封じた。干したての布団と似ている椛の香りに、飛ぶ気力も根こそぎ失せた。
「椛は」
喉の震えがはっきり分かる。
ためらう私の耳元に、なんでしょうか、って囁きが届いた。気遣う声に勇気を貰った感じがして、息を少し吸い込めた。問いにして、搾り出す。
「私のこと、嫌いになった?」
「うん?」
なにそれ。
「待ってください。何事ですか。一体全体、何ゆえそのようなことになるんです」
「だって、えっと」
名前、聞き逃してた。
「そこの女と口付け」
「ええ、挨拶がどうかしましたか」
挨拶。そういえば聞いたことあるような。
「こりゃあいい!」
馬鹿笑いが森に響いた。酔っ払った鬼が来たかと思ったら、発生源はあの女みたいだ。
「安心しなよ姫海棠様。こいつにそんな器用な真似、出来っこないさ。長の付き合い、よぅく知ってる。含みもなんにもない『おう元気か』ってなもんだよ。
ああでもめんこいねぇ。ほんにめんこい。そりゃこいつも惚れるわけだ」
椛の肩越しに見える姿は、九の字に折れて大笑い中だ。
耳と尻尾は生えてるけれど、やっぱり鬼じゃないかしら。
「話が見えませんが何であれ」
不意に少し引き離されて、真正面から覗き込まれた。
「私ははたてさんが好きですよ」
真面目な顔して、こいつは何を言うんだろう。言葉が私にぶつかった。そのまま体を溶かしていく。
河童の機械より複雑に絡まりあった考えを、なんとかかんとか整理して出てきた結論はと言えば、私の早とちり?
「これで納得してもらえますか」
心配そうに見詰めてくる顔が近い。後ろで笑い続けてた女は息も絶え絶えだ。
溶けた体が恥ずかしさで燃え上がる。この状況をどう解決するかって言えば、
「ああもう完っ璧に納得したわよバカ椛!」
葉団扇で吹っ飛ばした。
***
椛を探しに行く途中、河で顔を念入りに洗った。
水面に映してみると萎びてない。うん、大丈夫。
「白狼天狗って変よ。どうして挨拶で口付けできるわけ」
袴から水滴が、ぱたぱた落ちて岸辺を濡らす。二人は”空が近かった”とか”飛ぶ烏と目が合った”とか言い合いながら、裾を絞ったり、体を震わせ水をそこらに跳ね飛ばしている。
余裕っぷりが憎たらしい。私の体は火照ったままで、真夏の熱気が後押ししてる。いっそのこと私も川に飛び込もうかしら。
「変って言われてもねぇ」
「私達には普通ですからね」
私が狼だったら死ぬかも知れない。そもそも好きな人としたいのに、友人相手は無理だ。
「まぁなんだ」
意識の外から声が掛かった。
「詫びのひとつもくれたって罰は当たらないだろう。いきなり飛ばすなんて私らに翼は生えていないんだ」
「あ、うん、ごめん」
言葉は責めているけれど、おどけた調子はさっきの馬鹿笑いを思い出させる。それでも謝らなくちゃいけないだろう。あれはどう考えてもただの八つ当たりだ。挨拶のことは聞いてたはずなのに、我ながらどうかしてる。
でも二人が唇を合わせてた姿はやっぱり嫌で、思い返したくない光景だ。嫉妬なんてする必要ないはずなのに、うっかりしたら”挨拶するな”なんて言い出しそうで。ああもう、やだなぁ。
「いえ、どの道水浴びはするつもりでしたから、気に病むこともありません。ところで、私に用があったのではないのですか」
「そうそれ」
でも、
「なんだい。私を気にするこたないよ、姫海棠様」
どっか行けなんて言えないわよね。
「はたてでいいわよ。面倒くさい」
それに椛の同僚だ。これきり会わないなんてないだろう。
「あら、気さくだね。ありがたい」
「馴れ馴れしいのに”様”だけは付けるなんて気味が悪いのよ」
「そりゃごめんよ。初めて会う気がしなかったんだ。椛からあんたの人となりを散々聞かされてたからねぇ」
どうしよう。懐の手帳を今になって思い出す。内容は知らないけれど、何せ”甘えさせる方法”だ。人目の前でするなんて到底無理に決まってる。
「どうだい。今夜は椛と暑気払いに呑む心算なんだけどさ。話しにくいなら一緒に来ないか。酒精が入ればちょっとは舌も回るだろう」
こいつは邪魔者だ。気を利かせたつもりなの?
別に急ぐようなことじゃないし帰ろうか。でも二人きりにするのは癪に障る。まるで追い出されるみたいじゃない。私は椛の恋人なのよ。うん、帰りたくなくなってきた。それに今は、椛の香りを胸一杯に吸い込みたい気分だ。あれは鬼の酒より酔えると思う。
「いいですね。この間はうなぎで呑み損ねましたから、はたてさんと酌み交わせる機会を待っていました」
そうよね。椛はこういう奴だ。のんびりした笑顔の癖に、尻尾の動きは土埃が舞いそうなほど激い。ここで断ったら耳も尻尾も、錘を括り付けられたように項垂れるって分かってる。
「あー、じゃあそうする」
「ありがとうございます」
まぁいいか。この妙な女にまた変なことされないように、しっかり見張ろう。
板を打ち付ける音が響いた。
「さぁて、決まったんなら向かおうか」
手を鳴らしたんだろう、合掌したまま擦り合せている。
「何処へ」
「椛の家だよ。知ってるだろう」
細められた目が私をねめつけている。こいつ、喧嘩売ってんのかしら。
「当然でしょ」
自分でも驚くほどに大きな声を上げてしまった。
なんでこんなに焦るんだろう。決まり悪さについ睨み返した。
「そりゃ結構だ」
にかりと笑顔になったけれども、ぞろりと剥いた犬歯が白い。気に食わない。
***
暮れ掛かった道中は退屈だった。椛が私を見てくれない。見ても二言三言でまた反対側に顔を戻す。そんな時に椛の親友だとかいう女は、決まって視線をこっちに寄越す。眦が少し持ち上がっていて。私の神経を逆撫でしていく。
嫌な目だ。二度三度と見るうちに、なんでこう感じるのか思い当たった。文が私の新聞をからかう時とそっくりだ。私の反応を面白がって、それでいて何処か挑みかかってくる表情。初対面でどうして馬鹿にするような態度取られなきゃいけないのよ。椛がいなけりゃこの喧嘩、残さず全部買い占めてやるのに。
「それじゃあ肴を調えちまおうか」
「ええ、そちらは鯉を頼みます」
――座っていてください。はたてさんは客ですから。
――それにここの台所にゃ慣れてないだろう。
あんたは客じゃないのかと訊ねたら、”ここは別荘だ”と返された。椛はそう言う頭に拳をくれて、困ったように笑ってた。でも本当に困ってるなら耳が倒れるって私は知ってる。
ため息をひとつ吐いたら背骨が芯を失って、そのまま卓袱台に突っ伏した。
あんた達、何なのよ。肩寄せ合って小突き合って、楽しそうに笑い合って。これじゃ親友じゃなくて、まるで夫婦みたいに思えて。考えたらどんどんそれっぽく見えてきた。
片方は腰まである髪を無造作に縛ってて、もう片方は肩に掛からない程度の短さで中性的な雰囲気。どっちも線は丸いけど、男女の一組でも通りそうだ。
何考えてんのよ。あの二人は親友同士だ。恋人じゃないただの友達で、だから嫉妬なんてする必要ないし、恋人たる私はどっしり構えてればいいのよ。
「はい、味見」
「これ、塩辛すぎやしないか」
「呑むから丁度良いのですよ」
文から聞かされた愚痴が脳裏をよぎる。”腹に入れば同じ”とか”人目の前で”とかぶちぶち文句を垂れながら、最後は「恋人だから”はい、あーん”くらいは仕方ないわね」で締めくくられたもの。あれはどう考えても惚気だった。
私だってされたことないのに何してんのよ。
「椛」
「何でしょうか」
立ち上がって土間に下りた。
「私も味見したい」
「ええ、いいですよ。ではこれをどうぞ。先に始めていてください」
箸と小鉢を渡された。胡瓜の梅肉和えが盛られてる。
「うん、ありがとう」
肩越しに振り向いた能天気な表情に、そうじゃないとは言えなくて、卓袱台にすごすごと引き返す。今の私に椛とお揃いの尻尾があったなら、無残に垂れ下がっているんだろう。
口に入れる気力はなくて、箸で胡瓜をいじめ続ける。この胡瓜は椛だ。バカ椛だ。
視線を感じた。顔を上げると、目元だけで笑うにやけ面が見えて、
「何よ」
「いや、別に。胡瓜は嫌いかい」
「そんなんじゃないけど」
「ならいいんだ」
何が言いたいわけ。
お腹の底にどろりと重い何かが溜まる。形も何もないけれど、色だけは断言できる。黒だ。いつもはきっと納戸の暗がりにいるんだろう粘ついた黒。吐き出したい。
ことりと硬い音がして、私の意識を引き戻す。焦点が急に結ばれ目眩を起こした。
「おや、待っていてくれたのですか。退屈だったでしょうに」
椛は皿を置いた姿勢のままだ。心配させたかしら。
「あー、うん、ちょっと部屋見てたから、平気」
「見るようなものもありませんが。ああ、中に上がったのは初めてでしたね」
この点は生意気なあの女に、ちょっとくらい感謝してもいいかも知れない。二人っきりで椛の家に入ったら、きっと私がどうにかなる。翼の先まで針金の通ったように、緊張して固まった私が見える。邪魔者だって案外役に立つわね。
「どうだい。殺風景だろう」
隣にもう一皿。視界の端に、そうねとおざなりな返事をする。
がらんとした板敷の中に、小島の浮かぶように卓袱台があって、片隅に一棹の茶箪笥と小物入れ。あとは長押に薙刀だ。その内、椛と立ち会ってみても面白いかも。
部屋にはこれだけしかないけれど、
「あれか。物がないと一際目立つねぇ」
続き間には衣桁が見える。掛かっているのは浴衣で、蝶の文様が踊ってる。
「あんたに告白するために誂えたらしいじゃないか。身形にてんで構わない椛に、そこまでさせるとはなぁ」
「気に入ってもらえたようで嬉しい限りです」
顔があっという間に熱くなった。
「えっとさ、あれ、もう着ないの。飾っとくだけ?」
浴衣を眺め続けたら、告白してくれた日を何から何まで思い出すのに。
幸せすぎて頭が真っ白になった瞬間を、何度も思い出してしまうのに。
正面から椛が退く気配はなくて、どうしても視線を戻せない。
「いえ、しかし同じものを続けてというのも芸がありませんから、しばらくはあのままですね」
「そうなんだ」
「ええ、次のために別の浴衣を用意をしている最中なんですよ。期待してもらえるならば嬉しいです」
”次”。そうだ。デートはあれっきりで終わりじゃなくて、これから何遍もするんだろう。
「こいつがまた幸せそうに報告してくるんだよ。やれ生地を買っただの、やれ帯を見繕っただの」
「そこまでにしてください。何もわざわざ言わなくてもいいでしょうに」
話を逸らせたはずなのに、でかい墓穴を掘った気がする。
「とにかく始めない? 肴できたんでしょ」
諦めて正面に向き直る。私を睨む目と会った。
「万端だよ。酒、注ごうか」
今はもうからから笑っているけれど、気のせいじゃない。同じ目を最後に見たのはたった数十年前だし、見間違えるはずがない。余所者の吸血鬼とその下僕に成り下がった腰抜けどもが、河を隔ててこちらを見ている。
怒号と絶叫、風雨と剣戟。地面へ染み込む黒い血と、木にもたれかかって死に行く肉が、風を腐らせ瘴気に変える。
法螺貝の合図が聞こえた。腕と脚と翼とそれ以外の何もかもを振り回して雨を駆け下り私は
「どうしました」
椛の顔。
「近いっ」
息を整え、状況を確認した。湿気ってはいるけれど夏の夜にありがちなもので、血も雨も降ってない。自分以外の全てを呪う怨嗟の代わりに、鈴虫が暢気に恋を歌ってる。
肺から息が流れ出た。茶箪笥が背中に触れてる。飛び退った勢いのまま激突しなかったなんて運がいい。
「様子が妙でしたから、すみません」
「気にしないで。ちょっと考え事してて驚いただけ」
夏の長い夕暮れにランプの光が溶け込んで、部屋の形は曖昧だ。そんな中に、背を少し丸めて耳も肩も落としている椛の姿は、見ているだけで泣きたくなる。
こんなことで謝るなんて、どうして椛はそうなのよ。私の馬鹿。
「よく分かんないけどさ、平気なら始めないか。匂いがやたらと鼻を突付いてきて倒れそうなんだよ」
あんたのせいだ。ほんとに何だって言うのよ。
***
日が落ちた。
椛の手前、滅多なことは出来ないし、向こうからもないはずだ。一応の用心で、葉団扇は手元に置いた。
「で、あれだよ」
「何よ」
鯉の洗い膾に毒は入ってない、と思う。多分。効きが遅いならどうか分からないけど、三人とも食べるんだから大丈夫だ。料理には罪がないし、気にしないことにして箸を動かし続ける。
悔しいけど美味しい。小骨は見当たらないし、歯応えもしっかりしてる。刺身って面倒だからやらないのよね。かなり久しぶりかも。
視界の隅で、天井に向け大きく呷る動きが見えた。
「お前さん達、不安にはならないかい」
「不安?」
鸚鵡返しをするしかない。
斜め向かいに座った椛もやっぱり首を傾げてて、うん、かわいい。付き合う前には気付かなかったけど、気が抜けてると子供っぽい仕草をたまにする。普段は落ち着いてるくせに、こんなところも変に似合ってる。頭撫でたくなってきた。
「そう、不安だ」
「繰り返さなくていいから。どう不安になるって言うのよ」
「何ね」
桝を構えて言葉を切った。お代わりを注ぐまで続けないつもりかしら。
焦れったい。待つついでに酒を含んだ。幽かな酔いが頭を揺らす。
「二人の仲が今後いつまで続くのか、ってことだよ」
「変なこと訊くわね」
いつまでなんて決まってる。私の気が済むまでだ。
――あんたは椛が死んだらどう思うのよ。
恋人がいつか寿命で死ぬかも知れない、そう文は悩んでた。結局どう決断したのか知らないけれど、愚痴を垂れながらも風祝の神格化を見守ることにしたようだ。
私は、三日寝ないで考えて、一日寝て、また一日考えて。
どうでもよくなった。
椛が死んだら、墓の前で転生を待てばいい。どんなに姿が変わっていても絶対探し出してやる。私の念写はこんな時に便利だと思う。
私が死んだら、やっぱり転生して椛を探しに行くだろう。もし椛も探してくれたなら嬉しい。椛の千里眼はそんな時に便利だと思う。
気が済むまでっていうのは、そういうことだ。
「私は」
どう応えようか言葉を探していたら、椛が先に口を開いた。
「はたてさんの隣にいられたならば幸せです。いつまでかは分かりませんが、これを手放す心算は毛頭ありません」
真面目な顔して、こいつは何を言うんだろう。おまけにこっちを向いて、目を細めた笑顔にならないで欲しい。
そう、としか言えなくなって、残っていた酒を一息に飲み干した。全然足りない。どうしよう。樽に口つけたら流石に顰蹙買うわよね。
「良い呑みっぷりだねぇ」
「ほっといて。暑気払いしたいのよ」
膝を崩して体を捻る。樽へ突き込み桝に酌む。
「そうそう、今夜はそのためだったけか。たんと呑めばいいさ」
言われなくても分かってるわよ。もう一杯。
「さぁて、話を戻そうか。私の言う不安は、椛がどう思おうと、長くは続かないんじゃないか、ってね」
なにそれ。
反射的に桝を投げつけかけて、押し留めた。ちゃぷん、酒が波打ち音を立てる。
我慢する必要なんてあるのかしらね。ここまで喧嘩の値下げをされたら、もう只になってるだろう。でもあいつは椛の同僚で、親友で、だから何か訳があるんだろう。きっとそうだ。
穴を開けるつもりで酒を睨んだ。たっぷり呼吸みっつ分、時間をかけて呑み干した。
「何が言いたいわけ。私が飽きるってこと?」
背後に向けて問いかける。嫌な目付きでにやけてるんだろうと想像したら、桝がきしりと悲鳴を上げた。
ああでも、真面目か笑顔かどっちかかも。あの目を私に向ける時は、決まって椛に悟られないようにしてるみたいだし。
「いやいや、そんなんじゃあないよ」
馬鹿笑いが背中を叩いた。
「言い方が悪かったね。あんたの気持ちは信用してるさ。ごめんよ」
握り締めてた指が緩んだ。また私の早とちりかしら。
「先程から妙に回りくどい。らしくありませんね」
「おや、椛からもお叱りを頂いた。さっさと言おうか。詰まりだな」
振り向くと、また大きく仰いだ姿が見えた。
酒ばっかりってのも詰まんないわね。胡瓜……はなくなってた。そんなに食べたっけ。じゃあとりあえず枝豆だ。
「周りが認めないだろう」
「どういうことですか」
私も話が良く見えない。認めないならどうだって言うのよ。口に豆を押し出しながら続きを待つ。
「考えてもみな。鴉に白狼だ。分かるだろう。種族が違う。身分が違う。そのせいで住処まで違ってくる。中腹に山裾だ。ひとつ場所には住めないさ。
そりゃあねぇ、前例がないわけでもない。でもそいつらはどうなった。知ってるだろう。”飽きた”、”疲れた”、”目が気になる”。まぁ色々理由はあるけどねぇ、結果は同じだ。諦めるんだよ。”私達には無理だ”ってね」
私が? そんな理由で?
「目が云々については、隠したならある程度は」
「噂好きの鴉に隠し通せるか? 無理だね」
そうじゃない。そこじゃない。なんで椛はそんなこと。
「椛!」
「はい、何でしょうか」
竦む尻尾が目に映る。怯える視線が私に刺さる。ごめん、椛。でもそれは許せない。
怒鳴りつけたい衝動を力いっぱい押さえつける。大丈夫だ。椛はこういう奴だ。変なところで臆病者で、真っ先に守りに入る。分かってる。
「後ろめたいことなんてひとつもないのに、どうして隠さなきゃいけないのよっ」
やっぱり語気は抑えられない。これじゃますます椛が怖がるっていうのに。ほんとごめん。
「すみません」
「”すみません”なんていらないから。あんたはどう思うの」
食いしばった歯の隙間から、問いかけを無理やり押し出す。大丈夫だ。私は我慢できる。これ以上、おどおどした椛は見たくない。寄った眉間に今更気付いた。力を抜いて笑顔を作る。きっと不細工になってるけれど、やらないよりはずっとましよね。
背中がしゃんと伸ばされて、目は真っ直ぐに私を見据えた。
「私は隠したいです。はたてさんを守れるならば、どのような手段も厭いません」
椛はバカだ。どんなに虚勢を張ってても、耳はぺたんと倒れてて、尻尾はきっと背中の影で震えてる。私が睨んだだけでこれなのに、「守る」なんて大それたことどうして言えるの。
きっとここは「守られるほど弱くはない」って笑い飛ばせばいいんだろう。そしたら椛は安心して笑ってくれる。でも、
「そっか。うん、ありがと」
素直に感謝を口に出せた。
「はい」
やっぱり思った通りだ。倒れた耳はぴんと起き、ぱたぱた尻尾の音がする。
守られるほど弱くはないつもりだけれど、椛に守られるのは結構素敵な気がする。
「とは言ってもやはり難題でしょうね。天狗の方々は眼力に優れていますから」
「まぁそれはいいわよ。別に何言われたって気にしないから。それより」
椛の反対側に目を向けた。
「そんな理由で諦めなんかしないわよ」
大丈夫だ。私は言える。椛が私を守ってくれる。
「私は、椛が好き」
冷えた頭は驚くほどに、落ち着いて言葉を紡いだ。
言ってやらないと気が済まない。私は椛の恋人なのよ。
「種族とか身分とか、そんなくっだらないもん持ち出してんじゃないわよ。がちがちに固まった化石頭が言ってるだけでしょ。認められる必要なんてない。
私は椛が好き。尻尾触ったら飛び上がるし、耳撫でたら変な声だして悶えるし、抱きついたら熱射病で倒れるし。そんなところ全部好きで、それ以外もまだ知らないところも全部好き」
胸いっぱいに吸い込んで、吐き出す。
「私は絶対諦めない」
宣戦布告だ。
「意地なんかじゃ長続きしっこないよ」
「意地なんかじゃ椛を好きにならないわよ」
視界が狭まる。目を逸らしてなんかやるもんか。
無意識に風を呼んでしまったんだろうか、軒先に釣られた風鈴がひとつ澄んだ音を立てた。余韻が去って、雪の降る夜に似た静けさを感じる。
不意に構えられた桝が上がった。
「お前さん達は付き合い始めて日が浅い。だからまぁ、実感も湧かないんだろうさ」
「どういう意味」
また呷る。下ろされた手が樽に向かった。
「例を挙げようか。分かりやすいところで祝言だ。いったい誰が祝杯に口を付けると思う。陽気な酒なら事情も知らずに、暇な奴もそうでない奴も勝手に寄ってくるだろうさ。でもねぇ」
たん、と樽が打たれて鳴った。
「蓋を開けりゃ渋面作った鴉のお歴々に、隙さえあれば噛み付いてやろうって狼の歯が並んでるんだよ。血の代わりに酒が流れる飲兵衛だって、もっと気楽な席を探しに行くさ」
「誰が来るとか来ないとか、どうだっていいわよ」
狼ばっかりじゃないわよ。鴉の嘴を甘く見ないで欲しいわね。
噛み付いてやろうかと構えたら、 まぁ待ちなと卓袱台越しに手の平を突きつけられた。
「例だって言っただろう。祝言に限ったことじゃない。一事が万事、この調子だ。『肩入れしてると思われちゃ敵わない。あいつらには近寄らないでおこう』ってねぇ。聡明な鴉天狗様なら、その後どうなるかくらい見当がつくだろう」
分かる。でもそんなの今更だ。元から人付き合いのいい方じゃないし、そんな程度で疎遠になるような奴、こっちから願い下げよ。面倒が減って清々する。
もしそうなったなら新聞の購読数が減るかもしれないけれど、それだって何とでもなる。悔しいけど、文の真似をしてもいい。山以外にだって読み手はいる。
「私には関係ないわね。大体ほんとにそうなら。文がなんにも変わってないのはどう説明つけるつもり」
「ああ、椛から聞いてるよ。あの方は例外中の例外だ。人間とだなんて正気の沙汰じゃない。変わり者が希代の変わり者になったってだけだ。
まぁ裏が無いわけでも無いんだろうけどねぇ。相手は山の有力者だ。縁を結べるなら目溢しのひとつもしてやろう、ってぇ腹積もりが上の方にあってもおかしくないよ」
あの偏屈共ならありそうな話だけど、それなら、
「ありがたくももったいなくも、私達には嘴を突っ込んでくるってわけ? それこそどうだっていいわよ。適当に『はいはい』言って流せば済むし。鬱陶しいのは間違いないけど」
「あんたならそうだろうさ。射命丸様ほどでなくても変わり者だってことは良く分かった。でもなぁ」
切って、酒と息をついだ。
「椛はどうなる」
「うむ?」
話を振られるなんて思ってなかったんだろう、目を白黒させている。ついでに穂が膨らんでる。
「お前さんはもうちょっと危機感を持った方がいいんじゃないか。ただでさえ射命丸様と誼があるってんで煙たがられてるんだ。『へまをしたら、すぐさま注進されるんじゃないか』ってな。
勿論、お前がそんな奴じゃないことは知っている。だが知らない奴からしたらそうなるんだよ。これ以上、鴉に近付いてみな。風上に立つだけで、百間先から避けられるようになるだろうよ」
椛が酒で何かを飲み下した。予想外だったわけじゃなくて、単に食べてる最中だったようだ。私達のことだって言うのに、話聞いてたのかしら。なんか情けなくなってきた。
一息ついた椛には悩むそぶりも見えなくて、いつもの調子で微笑んだ。
「恋人の出来たことを喜んでくれた友人がひとりいるだけで、私には十分ですよ。それどころか、にとりを始めとして幾人かが祝ってくれています。これ以上、望むべくもありません」
「嬉しいと言ったのは確かだがねぇ」
少しずれてる気もするけれど聞いてたみたいだ。
なんで私が気を揉まなきゃいけないんだろう。
「まったく、お前さんはどうしてそう気楽になれるんだ」
苦虫を煎じて飲めばこんな顔になるのかしらね。
「何が不満だって言うのよ」
「不満? 私ぁ心配なんだ。お前さんたちの関係を知られてごらんよ、今までの生活なんて消し飛んじまう。やっかみ、陰口、嫌がらせ、なんでもござれだ。そもそもな……」
愚痴にしか聞こえない、聞きたくもない”心配”が延々続く。折角椛がいるのに、なんで私はこんなクソまずい酒呑んでるのかしら。噛み締めた鯉まで生ゴミに思えてくる。
考えればこいつには最初っから邪魔されっぱなしだ。三途の河まで吹き飛ばさなかったのが失敗ね。ああでも、あの時は椛もいたし駄目か。今ならいいかしら。でも例えきゃんきゃん吼えるろくでなしでも、こいつは椛の親友で、恋人たる私は椛の交友関係に目くじらなんて立てない、度量の広いところを見せてないと駄目だ。
「詰まりだな、私は忠告してるんだよ」
やっと結論に入るのね。
「お前さんたちは、別れた方がいいんだ」
真面目くさった顔して、こいつは何言ってんのよ。
「この先、分かりきった結果しかありゃしないよ。それなら嫌な思いをする前にやめちまえばいいんだ。
大体が、この先あるかも分からない。焦れったいだろ椛よぅ。この女は口付けひとつ、ろくに出来ない初心なねんねだ。いくら待っても何もありゃしないさ」
葉団扇の柄を握る。手のひらに爪が食い込む。息を浅く吸い、吐き出す。
”椛の親友だから”なんて考えてた私が馬鹿だった。あと一言、何か言って見なさい。三途の河通り越して、地獄に直接ぶち込んでやる。
「それに始まり方だって薄っぺらい。『恋人の出来た射命丸様が羨ましくなった』ってなんだい。どうせすぐ飽きて終わるんだよ。この女は移り気な尻軽
「 」
空気が震えた。
視界が一瞬白く染まって、全身に痺れを感じる。止まった肺が動き始めた。指先から感覚が戻ってくる。でも頭の奥にはいつまで経っても痺れが残り続けて。なにこれ、耳鳴り? そういえば音がしない。喧しいほど鳴いてた虫がいっぺんに消えたようで。知らず伏せていた顔を上げた。
狼が立っている。
耳の先から尻尾まで、毛が逆立って膨らんでいる。たわめられた発条のように、背が丸まって力を溜めている。剥き出しの長い犬歯が「何でもいいから噛み付かせろ」って叫んでいる。これ、椛だ。
そんな顔しないでよ。いつもみたいに微笑んで欲しい。寄った皺で歪んだ頬が、そのまま固まってしまいそうで怖い。殺意を込められた目が、そのまま笑えなくなってしまいそうで嫌だ。そんな顔見たくない。
「なんだい薮から棒に」
いつの間にか耳鳴りが収まってた。でも虫の音はまだ聞こえない。
声のした方に目を向ける。しかめっ面が見えた。
「火事場じゃあるまいし、そんなでかい声で呼ばなくたって聞こえてるよ」
応えるように、椛が吼えた。
「言葉を遣ったらどうなんだい。そんな古めかしい遣り方、忘れちまったよ」
もたもたと口を開け閉めしてるのに、意味のあるものは出てこなくて。
椛の姿は喋り方を忘れたように見える。
「はたてさんを侮辱したな。私はお前を許さない」
歯の隙間から押し出された言葉は、唸り声で濁ってる。
「椛、お前さん分かってんのかい。私闘はご法度。良くて追放、悪くて死罪だ」
「無論」
何? 私闘? 私のために怒ってくれてるのは分かるけど、いつの間にそんなことになってんのよ。
ああもう、今はそれどころじゃないでしょ。止めないと駄目だ。追い出されるくらいなら何とでもなるけど、死罪だけは駄目だ。何を覚悟したつもりになってたんだろう。私は馬鹿だ。転生を待つなんて悠長なこと、出来るわけ無いじゃない。
葉団扇を手放して、脇に手をついて。
馬鹿笑いが聞こえた。
「分かってない。全然分かってないよ。お前さんはいいとして恋人はどうするのさ」
「笑うな。剣を取れ」
場違いな笑い声とは正反対に、椛の声は冷え切っている。
一瞬気が削がれかけたけれど、椛の背中に遮二無二取り付く。ざわりと尻尾が大きく跳ねた。
「そらきた。それを放り出せるかい」
椛の胴が捩れた。こっちに顔を向けたんだろう。まごつく声が私を呼ぶけど、返事なんてしてやらない。私は忙しいんだ。抱き締めた体が今にも飛び出していきそうで怖い。回した腕にありったけの力を込める。
「はたてさん、お願いします」
「なに」
一応聞いてやる。聞くだけだ。
「どうか放してください」
「いや」
これ以上、何も言いたくないし、何も言えない。喉が変な具合にごろごろしてて、噛み締めてないと溢れてしまう。頬が熱いし目も熱い。背中に目元を押し付ける。鼻水まで出てきた。この馬鹿狼の服でかんでやろうか。
わんわん鳴る耳の向こうで、不意に息を吐く音が聞こえた。抱き締めていた胴が緩んでいく。
「分かりました。何もしません。ですから放してください」
「うそ」
信じられるものか。この狼は極めつけの大馬鹿だ。
「本当です」
手を取られた。掴む指の柔らかさに全身から力が抜けて、あっさり腕を引き剥がされる。
「どうか落ち着いてください。はたてさんには泣いて欲しくありません」
肩を軽く押さえつけられただけで、体が沈んでへたり込む。正面から優しく抱かれた。胸に顔を埋める。もう我慢しなくていいんだろう。喉を開いて溜まりに溜まったものを吐き出す。私の悪口なんか聞き流せばいいのに、そう思うんなら死にたがるなんてやめてよね。
「いやはやなんともまぁ中てられるもんだねぇ。いっそ妬ましくなるよ」
忘れてた。笑い声はもう聞こえてこないけど、あいつがいたんだ。元はといえば全部あいつのせいだ。椛が死ぬ羽目になるなんて冗談じゃないわよ。喉はまだ止まらないし力も全然入らないけど、一発盛大にぶん殴ってやらないと気が済まない。
立ち上がろうとして、無理だった。腰が抜けてる。
「私は許したわけではない。はたてさんに謝れ」
頭の上で響いた声は椛の剣より鋭くて。私に向けられてもいないのに少しだけ緊張する。
まぁこれでもいいか。怒ってくれてるのは嬉しいし。
「ああ、もちろんだ。私が悪かった。許してくれるかい」
「別にいいわよ。でも今度何かあって椛が死ぬようなことになったら、あんたを一寸刻みに引き裂いて山中の鴉に食わせるから」
けどあんなのを鴉にあげたらお腹を壊すかも知れない。
やっぱり池に沈めよう。暗い水底でどろどろに腐るのがお似合いだ。
「ありがとさん。肝に銘じとくよ」
謝られたし、ぐだぐだ言うのは大人気ない。引きずるのも面倒だ。気を取り直して……なんだっけ。私、何してたのかしら。
ああ、宴会だ。
「どうしました。もう大丈夫なのでしょうか」
「うん」
もぞもぞやってたら感付いたんだろう、回した腕を解いてくれた。ずっとくっついていたくなるけど、気合を集めて胸から顔を上げる。脚は何とか動きそうだ。
立ち上がろうとして、よろめいた。椛が支えてくれた。
「ありがと。水借りるわね」
「はい、どうぞ」
部屋をぺたぺた横切って、土間に下りて、水を汲んで、洗う。
よし、呑み直そう。邪魔者はいるけど、とにかく酒で流してしまいたい。
「謝りついでにもうひとつ」
まだ何があるってのよ。
「お前さん達、口付け以上はまだなんだろう」
「ええ、そうですね」
何平然と答えてんのよ。そんなこと言うようなもんじゃないでしょ。違う。そうじゃなくて、知ってるってことはもしかして普段から話してるってわけ? ああもうこのバカわんこ。
音が轟く。耳をぶん殴られたような衝撃に、考えるより先に視線を上げる。顔全体を口にして笑ってる馬鹿がいた。やっぱりこいつも犬歯が長いだなんて、心底どうでもいい感想が浮かぶ。
「なんだいなんだいその照れ方。顔の赤さなんてどうだ、よぅく熟れた柿だって青く見えるよ。聞いてた話より格段に初心じゃないか、ええ? めんこいねぇ。ほんにめんこい。そりゃこいつも惚れるわけだ」
やっぱり吹っ飛ばそうか。腰に手をやって。
葉団扇どこ? 置きっぱなしだった。まどろっこしい。もう何でもいいから手当たり次第に風を集めて、
「いや、剣呑剣呑。笑ってごめんよ。でもそれじゃあからかいたくもなるさ」
ランプの下でひらひら手を振る姿が見える。引っぱたきたい。
睨んでいたら、桝を掴んで顔を覆った。一口に呑みほす幽かな音。
「さぁて、椛」
「なんですか」
何しようってのよ。こいつは脈絡がなさすぎる。
一足に椛の隣へ行って、屈んで、顔を近づけて、
「私はここまでだ」
「どういうことでしょう」
まただ。また口付けした。見せつけてんの?
まだ一回しかしたことないのに。椛は私の恋人なのに。
「はたて……には」
私の横に立った。ランプの光が遮られて、
「これだ。唇は駄目だって聞いてるからねぇ」
頬? なんであんたがこんなことするのよ。される謂れなんてない。あるはずがない。
「あんたなら信頼できるってもんだ。椛を幸せにしてやっておくれよ」
言われなくてもそのつもりよ。手の甲で頬を拭っていたら、まだ隣から動いてないことに気付いた。用は済んだんでしょ。さっさと席に戻りなさいよ。
――舌を使いな。それなら私らにとっても”特別”だ。
耳に囁き。
「それじゃあ帰るよ。後で話を聞かせておくれな、お二人さん」
邪魔者が消えた。
***
「あれ、何だったのよ」
「悪い奴ではありませんが、大概思い付きで動いています。深く考えても無駄になるばかりですよ」
まぁ確かにそうだ。最初に笑われて、喧嘩吹っかけられたかと思ったら口付けられて、最後にあの変な言葉。
”舌”ってなんのこと?
記憶を浚って考える。思い返したら、まだ頬に感触が残ってるような気がして。
「何はともあれ、肴はまだありますから呑み直しましょうか」
あー、もしかして、でも、それって、
「無理に決まってるでしょ何考えてんのよ馬鹿狼!」
「ごめんなさいっ」
あれ?
「違う、椛のことじゃないから気にしないで。怒鳴ったりしてごめん」
隣に駆け寄り、平伏する体を抱える。
”すみません”はあっても”ごめんなさい”は初めて聞いた。これ、ちょっと嬉しいわね。言葉遣いが他人行儀なのは諦めてたけど、もしかしたら変わってくれる日も来るのかも。
ぱちりぱちりとランプに当たる羽虫の音が、宥める私の声に重なる。火にかけた薬缶の沸くほどに、椛の潤んだ瞳は乾くまでに時間がかかった。
その間、初めて見る椛の泣き顔はかわいい、ってことと、あの女はこんな表情も見たことがあるんだろうか、なんて私は考えて。やっぱりあるんだろうな。あんなに親しげだったんだし。悔しい。こんな椛を独り占めにしたいなんて我侭だろうか。
「取り乱してすみません」
「私が悪かったんだから謝らないでよ。でもそんなに怖かった?」
こんなこと二度も起こさないようにしないと。かわいかったけど、もっと別の心が痛まない泣き方をして欲しい。
「ああ、いえ、あれが随分と失礼を働きましたから。気を悪くしたでしょう」
「別にいいわよ。私、誰かと性格合うのってあんまりないし慣れてるから」
「しかし」
まだ愚図愚図言うの? 私は気にしないのに。
駄目ね。睨まないようにして、うん、笑顔はちゃんと出来たはず。耳を撫でる。なるべく優しく毛並みに沿って。
「ありがとうございます」
「うん」
よかった。安心してくれたみたいだ。
流石に撫で方も慣れてきたわね。我ながら上達したと悦に入る。
「そういえば、緊張も一役買っていたのかも知れません」
「緊張って、何で」
まぁ大したことはないんだろう。今はもうすっかり元の椛に戻ったし。
かわいいっていうより綺麗で凛々しい。何か惜しい気がしてきた。こういうところも好きだけど、普段から半分ほどは、さっきみたいなのでもいいと思う。
「はたてさんと二人きりになったためです」
脳が凍った。
「外で会っている時と何ら変わりは無いはずなのに、不思議なものですね。そして先程の言葉で、それが嫌なのだと思い込みました」
ぱちりぱちり、椛の声に重なって何処か遠くで音が聞こえる。
「はたてさん?」
金色の目がふたつ、私を覗き込んでいる。脳が解けて沸き立った。全力で顔を逸らした。一瞬視界が暗くなる。
言わなきゃ気付かなかったのに何てことしてくれんのよ。
「何」
「やはり嫌でしたか?」
横を向いたせいだろう、耳が声に近付いて、飛び跳ねたくなるほどくすぐったい。
「イ」
裏返ったからやり直し。
「嫌じゃないわよ」
「そうですか。安心しました」
嫌じゃない。嫌じゃないけどこんなの無理。なんで慰める姿勢のままなのよ。
ふわふわした髪の感触、手のひら全部で感じてる。ゆったりした息遣い、小さな動きが肌に伝わる。木綿越しに届く体温、夏を押しのけ腕を焼く。
もう駄目。離れ
「あ」
尻餅をついた。足がもつれたわけでもないのに、変な具合につっかえて、もう何なのよ。原因は探すまでもなく見つかった。
椛の指が、私の裾を掴んでる。
「ああ、すみません。少々甘え過ぎました」
慌てて引っ込ませた手と、申し訳なさそうに落とした眉。でもあんた全然反省してないでしょ。脇に尻尾がちらちら見えてるわよ。椛ってこんな奴だっけ? 絶対違う。白狼天狗ですらない、なんかもっと危険な妖怪だ。
今すぐ帰ろう。かわいいけど、かわいいから駄目だ。私の限界が近い。
「あのさ
「そう、暑気払いでしたね。ようやく二人で呑めます」
あんたから離れてくれたのは助かるけど、ちょっとくらい話聞きなさいよ。なんでそんなに浮かれてんのよ。
「椛」
どうかしましたか、って振り向いた顔には、遊び盛りの子犬も負ける笑顔が浮かんでて。なんでもない、としか言えなくなった。
私は馬鹿だ。このままじゃどうなるか分からないのに。うっかりしたら心臓が破裂すると思う。
「ああ、用事でしょうか。そもそもの訪ねてくれた理由だというのに、忘れていてすみません」
懐の手帳が急に私をせっつき出した。
――やっぱり場所はどちらかの家ですよね。リラックスできるし色々できます。色々したいなー。
早苗、あんたは間違ってる。私も最初はそう思ったけど大間違いだった。
だってほら、ここは椛の家で、椛の香りが充満してる。椛の料理は所狭しと肩を並べ私を威圧していて、椛の浴衣が仁王立ちでこっちを監視してる。そして何より、椛がいる。
落ち着けるはずないわよ。
「違いましたか?」
椛の笑顔がどんどん曇って、耳まで重くしおたれて。椛はずるい。
「んー、うん、違わない……かも」
「それは良かった。では呑みながら伺いましょう」
もうどうにでもなれ。
***
「まずは一献どうぞ」
ひどく丁寧に徳利を構えてる。
されたら、上司に注ぐ気苦労が思い出されそうで嫌だ。
「手酌でいいわよ」
それにこれ以上近寄られたら肩が無視できないほど擦れ合いそうだ。今でも迂闊に動けないのに、もしそうなったら私はきっと地蔵になる。真夏の熱気で蒸し焼きになるのは分かりきってるのに、動けないままじりじり死んでいくんだ。
差し向かいもきついけど、今とどっちがましなんだろう。
「面倒だというのは重々承知ですが、叶うならば受けて頂きたく。本音を言えば、はたてさんの返杯を干したいのです」
つい隣を見てしまう。
「あんた、妙に素直ね」
「私は素直に生きている心算です。先日、雛さんにも『自らに誠実たれ』と諭されたこともあります。どうでしょうか。受けてもらえますか」
こんなに押しが強いだなんて初めて知った。誤魔化す言葉はもう見つからなくて、頷いて顔を伏せる。”ありがとうございます”と、それに続いた小さな衣擦れ。俯いた視界の中に、膝がいざり寄ってきた。無意識に体を引きかけ慌てて留める。諦めるしかないわね。
盃を突き出して、これ嫌がってるように見えたかしら、後悔した。頭の中で三回ほど私をぶん殴っておく。
指先に加わる揺らめく重み。音もなく増していく。
「ではどうぞ」
知らずため息が漏れた。いつも私から抱きついてるくらいなのに、こんなに緊張するなんて理不尽だ。八つ当たり気味に呑み干した。鼻を抜ける薫風と、喉を滑る飴色の辛味、胃の腑に落ち着く小さな熾き火を一時に感じた。
ため息をもうひとつ。
「じゃ、あんたの番」
「はい」
顔を上げなくても分かる。たった二文字の”はい”に、すっごく喜んでる様子が詰め込まれて溢れてる。
徳利を手に取った。盃と腕だけを、視界に収めて注いでいく。酒に映り込むランプの光が次第次第に鮮明になる。
満月だ。徳利を引き上げる。
椛は動かない。
静かね。灯心の燃える音まで聞こえてきそうで。なんとなく居心地が悪い。腰を動かし座り直した。
かつんと火屋が大きく鳴った。蛾でもぶつかったんだろうか。それを合図にしたように、椛の腕が持ち上がる。喉がひとつ、ふたつと鳴って、ひとつ満足げな吐息。
「ありがとうございます」
「じっと見てたみたいだけど、なんかあった?」
「ああ、いえ、夫婦のようだと思いまして」
いきなり何言ってんのよ。
バカとか、気が早すぎるとか、三々九度にもならないとか、言葉が頭の中をぐるぐる回って喉から出ようと我勝ちに争って、
「やっぱり今日のあんたって変よ」
笑ったり困ったりはするけれど、自分のことは何にも言わない。私の詰まらないお喋りに、黙ってたまに相槌打って静かに聴いてる地味な奴。
「だとしたら酒の力もあるのでしょうね、枷が外れたようです。普段は気が張っていて甘えられない分、尚更になります」
小さな含み笑いが聞こえた。
「このようなことを口に出すのも酔ったせいなのでしょうね。はたてさんの香りはひどく甘くて、上等な酒より酔いが回る。私の鼻がおかしくなりそうです」
私の匂い? 半日の間、椛を探して飛び回ったせいで汗臭いだけだと思う。
真夏の夜に漂う熱気が私の体を茹で上げる。せめて会う前に水浴びくらいしとけば良かった。私は多分何十年も、思い出しては転がり回るんだろう。断言できる。最悪だ。
「なんとも気恥ずかしいものですね。話を変えさせてください。用事というのは何でしょうか」
「そう、それよそれ。でもちょっと待ってて」
渡りに船だ。少なくとも今よりひどいことにはならないだろう。
――これは直前に読んでください。はたてさんの場合、多分ぶっつけ本番のほうがいいと思うんですよね。変に考えたら気負いそうで。
純情なようですから、なんて余計なお世話だ。文を飼い慣らしてるほどだし、って頼ってみたけど妙に疲れた。
懐から手帳を引っ張り出す。どこかがつっかえたのか出てこない。力任せに引っ張ってようやく取り出せた。焦りすぎだ。
早苗、どんなこと書いてくれたのかしら。
――ぎゅっと抱き締めてあげましょう。きついほど安心できます。
拍子抜けした。これはもう済んでる。概ね満足してくれたみたいだし、そもそもいつもやってる。次。
――「好き」って言ってください。耳元で囁いてくれたら満点です。目を覗き込みながらでも可。
これもやったわね。耳元じゃないけど。っていうかこれって早苗の願望じゃない? 似たようなこと文に散々惚気られたし。あんまり大したこと書いてないのかも。次。
――お風呂で背中を流して欲しいです。そして雰囲気が出てきたところで押し倒
無理。
「それは備忘録でしょうか」
尻尾を踏んづけられた猫みたいな声が出た。
息が荒い。気付いたら、まん丸な目をした椛が私を見ていて、私は背を壁に付けていて、後ろ手に隠した手帳が重い。
空気を求める肺を動かし無理やり言葉を喉から押し出す。
「見た?」
一瞬が長い。見開かれていた椛の目が、瞬きふたつで元に戻った。
「手帳のことでしょうか。それならば内容は見ていません。個人的なものでしょうから」
そうだ。椛はこんな奴だ。足から力が抜けてへたり込む。
危なかった。あの人間、何書いてくれてんのよ。見られてたら椛と心中する羽目になってたとこよ。
「それ程に驚くとは一体何事でしょうか。用事が言い辛いならば後日改めてでも構わないでしょう。無理はしないでください」
「うん、えっと」
どうしよう。どうしようって言っても、さっきのは何が何でも絶対無理だ。それっぽい雰囲気に万が一にでもなったなら、私は逃げ出すか、椛をぶっ飛ばすかのどっちかする。
悩んで視線を漂わせた。ふらつく視界に椛の姿が入ってくる。
心配そうだ。耳は後ろに引かれてて、口はへの字に曲がってて、尻尾はゆらゆら落ち着かない。それでも私を急き立てずにじっと我慢して待っている。
――普段は気が張っていて甘えられない分、尚更になります、
いつも私は優しいこいつに、迷惑かけてばっかりだ。抱きついて、無茶言って、振り回して。
恩返しじゃないけれど、今夜は甘えさせてあげる絶好の機会なんだろう。私は椛に満足してもらいたい。私は椛の恋人で、 泣きたくなるほど好きだから。これは意地なんかじゃない。
やってやるわよ覚悟なさい、椛
「あのさ」
「はい」
深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ……ちょっと足りない。あとみっつしてから言おう。
うん、よし。
「お風呂、入らない?」
「風呂ですか? 随分と唐突ですね。用事はそれでしょうか」
「まぁ、そんなところ」
腕組みして悩み始めた。
今更だけど、これってすごく間抜けな気がする。一大決心が風呂だなんて、椛だって悩むわよね。私、何してるんだろう。
でもこの緊張は、本物だ。食いしばってないと歯の根が合わなくなりそうだし、背中に吹き出た汗はブラウスまで染みそうだ。今、立とうと思っても、膝はろくに動かせないだろう。
「それは先程済みましたね。暑いものですから、夏場は水浴びで間に合わせています」
「あー、そうなんだ」
間延びした声しか出ない。溜め込んだ息が口から盛大に流れ出す。
うん、済んでるんなら仕方ないわよね。押し倒すこともない。そもそも私達には早過ぎるのよ。次行こう、次。
――押し倒して欲しい。でも無理なんですよね。照れ屋さんだし。百歩譲って一緒に入ってくれるだけでもいいです。
ほんと馬鹿だ。私の決心、どうしてくれんのよ。
一緒に入るくらいならなんとかなるかしら? 目瞑って出来るだけ見ないようにして、思い切り距離とって肌くっつかなきゃなんとか……まぁこれもまた今度。残念ね。ほんと残念
「ですが、はたてさんが望むのならば、喜んで」
なんで余計なこと言うのよ。
***
白い。
「気が付きましたか」
黄と灰のちらつく星が白の上で行き交っている。
「まだ起きないでください」
白を隔てた向こうから、遠くかすんで声が聞こえる。
頭がはっきりするにつれ、星は順々に霧散していく。
「湯中りしたのですから、どうぞそのままで」
開けている目が辛くなり、瞼を閉じて休ませる。
そうだった。あれは拷問だった。
脱衣場からもう椛を意識しっぱなしで、背中を流すなんて言い出す余裕もなくて、まごまごしてたら先に言われて、肌を擦られている内に、
――髪を下ろした姿も素敵ですね。
耳元で囁かれた。
思い出さないようにしよう。あの後、どうしたんだっけ。
そうそう。ごちゃごちゃ言う椛を振り切って、湯舟に顎まで沈んで、何にも見ないように痛くなるほど目を固く瞑って、そこから先が思い出せないわね。
甘えさせてあげるどころじゃない大失敗。ほんとに私、何してるんだろう。
ふわりと髪を掻き揚げられた。昼間の熱気も忘れたように、涼しい夜気が風になって体を撫でる。火照った頭が少しはましになった気がして、ゆっくりと目を開けた。このまま暗い中で考えてたら、自己嫌悪が無限に湧き出す予感もしたから。
どれだけ経ったんだろう。多分ここは縁側で、軒先で揺れてる風鈴の隣には、十日月が顔を出してる。家までの道中には上りだしていた月が、今は中天を少し過ぎてる。大雑把に逆算して……凡そ半刻足らず。私、寝すぎ。そりゃまぁちょっとは寝不足だったけどさー。
ああもう、切り替えだ。折角の好機にうだうだやってても仕方ない。取り替えそう。私は椛を思いっきり甘えさせてあげるのだ。
でも、この白いのってなんだろう。
「気分は如何ですか」
月がふたつ増えた。本物とは違う、本物より金色の満月。椛の目だ。
あー、そうか。これって胸だ。椛、胸大きいし。それで先っぽから顔の上半分が覗いてる。けどこれって大き過ぎない? サラシ解いてる? うん、多分これで正解だ。
でも、そうすると、もしかして、今の体勢は? それに頭に敷いてるこれって、
「わぅっ」
悲鳴が上がった。気にせず体を横に一回転。全力を込めて腕と膝を突き、全身を背後に投げ出す。板の軋む耳障りな音がした。廊下が流れる。背中に風圧、爪先に固い感触。踵を踏み込み制動を掛ける。勢いを殺し切らずに半身を外に向け、翼を広げて逃げ……なんか服が邪魔してる。羽穴は?
目眩でぐらつく視界の中に、襦袢姿で正座する椛が見えた。
「何してんのよっ」
「何と言われても、膝枕ですが。それより急に動いて大丈夫ですか」
ちっとも大丈夫じゃない。ちょっと貧血気味だ。
冷や汗が顔と背中を埋め尽くしてる。息切れが激しい。大声を出したせいで、足りない空気がさらに足りない。倒れかけ、咄嗟に雨戸の縁を掴んだ。それでも体のくず折れる勢いが止まらない。視線が足元に傾いでいく。指が雨戸を勝手に放した。落ちて、
「ああ、間に合った」
抱きとめられた。柔らかい感触に、全身の血が顔に集まる。
足りなかったり溢れたり、頭から苦情が来そうだ。
「待って放して平気だからっ」
肺全部を使って声を出したつもりなのに、衣擦れでかき消されるほどか細い声。
「こればかりは何と言われようとも聞けません。どうか安静にしてください」
優しく白を押し付けられて、意識が白に染まっていく。
このバカ狼。
***
――膝枕もいいですね。文さんの香りとか柔らかさとか堪能できて溶けます。耳掻きしてくれたら言うことありません。
やっぱり願望だったのね。しかも当てにならない。溶けるなんて生ぬるいもんじゃないわよ。爆発だ。
「細かい文字を読んでも平気なのですか」
「もう何でもないわよ」
「そうは見えませんが」
私の心以外は平気。心底情け無いわね。
今度の失神は短かったようで、必死に叫ぶ椛の声にあっさり叩き起こされた。
それより問題なのは、今着てるのが襦袢ってことだ。替えが無いのは承知済みだし、借りることだって事前に決めてあった。でも私は、湯舟の中で気絶した。
死にたい。
「うん、気にしないで。心配してくれてありがと」
まともに椛の顔を見られない。
「それならば茶を淹れますね。喉も渇いているでしょうから」
「さっきの水で足りたし酒でいいわよ」
「そうですか?」
「いいの。それよりさ」
今の椛がどんな表情してるのか、大体察しがついてしまう。眉根を寄せてこっちを窺っているんだろう。
「耳掻き貸してくれる」
「ええ、構いませんよ。今出しますね」
小物入れに向かう気配と引き出す音。
大丈夫。見られたなんて今更だ。拭かれたことも気にしない……なんて無理だけど今だけ忘れる。もう失敗しない。バカみたいに優しいこいつを、絶対甘えさせてやる。
手元に影が落ちた。
「はたてさん、どうぞ」
耳掻きを受け取れば後戻りはできない。自分に使うなんて言い訳したら、この先終生できない気がする。うん、大丈夫だ。
顔を上げた。椛が微笑んでる。浅く息が漏れた。
「どうかしましたか」
怪訝な表情になった。
そりゃそうよね。耳掻きで驚かれたら私だって不思議に思うわよ。
「ん、何でもない。ありがと。それじゃあさ」
胡坐かいてた。慌てて座り直す。みっともない。始める前から挫けそうだ。
目一杯に息を吸い込み、片っ端から度胸に変える。吐いた。
「ここに寝て」
”ここ”を指す指に力を篭めすぎた。定規に出来そうだと思う。
「膝枕でしょうか。どうしてまた」
「いいから。あんたの耳、掃除してあげるの」
怪訝な顔に驚きが加わった。
焦らさないでよ。溜めた度胸が蒸発しそうで怖くなる。焦る腕が、目の前にある手を取った。でも引くほどの勇気は出なくて、視線を床に落としてしまう。
ありがとうございます、なんてのんびりした声が落ちてきて、ため息を漏らしかけた。これで安心だ。もう引き返そうたって引き返せない。後はするだけ。
「では失礼して」
薄暗い光の中で、煌く白髪が鼻を掠めて膝に降りた。
髪から香りが立ち上ってる。するだけなんて何軽く考えてんのよ。
「緊張するものですね」
口の動く振動が膝に直接響いてくすぐったい。
私もあんたと同感。今すぐ逃げたいくらいよ。
「してもらう方になったのは久々です」
「何それ。してくれる奴っているの」
「ああ、いえ」
そんな親しい、っていうか家族か恋人みたいな奴なんて、聞いてる限りじゃ一人もいない。でも、一人いた。あんた達ってそこまでなの?
「にとりです。そう、彼女が幼い頃には交互にしていました」
「そっか。あんた世話してたんだっけ」
河童もいたわね。強張っていた肩が緩んだ。
私ってやな奴だなー。恋人でもない相手に一々嫉妬するなんて。
でもなんか変だ。どうして河童なら許せるんだろう。姉妹みたいなもんだから? それなら親友だって別にいいじゃない。心狭すぎ。
「それではお願いします」
「あ、うん」
まぁいいか。深く考えても始まらないし今は耳掃除。気が抜けたお陰で、変に意識しないようになってる。怪我の功名だ。緊張したままだったら椛の耳が、どうなってたか分からない。
膝に載る頭を見下ろし、難無く尖った耳が見えて、次いで椛の胸を見て、まぁそんなもんだ。気にすることじゃないわね。
手を添えた。少し髪が湿ってる。まだ乾いてないの? もしかしてこいつは、ろくに体も拭かないまま介抱してくれてたんだろうか。バカだしありうる。その癖、私の髪はしっかり乾いてて。あんたの何倍あると思ってんのよ。ちょっと泣きそうじゃない。
絶対こいつに喜んで欲しい。
「じっとしててね」
「はい」
でも、耳掃除? これって狼の耳よね。どうすんの。ちゃんと見たことってあんまりなかったかも。まぁ毛が詰まってるわけじゃなさそう
「わふっ」
「あ、ごめん」
「いえ、気にせずどうぞ」
撫で過ぎた。
もぞもぞ頭が動いて位置を直す。やっぱりくすぐったい。それはいいけど。
「あのさ」
「何でしょうか」
「耳掃除ってどうやってすんの」
見た感じ、汚れも何もなさそうだし、そもそも勝手が違う。行き場の無い耳掻きが、掻けるものを探して宙を漂う。いっそ首筋をくすぐってみようか。それはそれで楽しそうだ。けど椛には喜んで欲しいし。
迷っていたら、くつくつと音が聞こえて、
「何? いきなり笑うとか」
「ああ、はい、少々懐かしく思いまして」
戸惑ってたら、ぽつぽつと話し始めた。
曰く「にとりが初めて『自分もやりたい』と言い出した時と良く似ている」
曰く「最近は雛が役目を負うようになり寂しく感じていた。感謝している」
曰く「思い出させてくれて嬉しい。私が引き継いでくれたなら尚嬉しい」
ちょっとした思い出。小さくても大切に思えるものってあるわよね。
「それで、どうしたらいいの」
「水浴びついでに洗っていますから、確認程度に済ませてもらって結構ですよ」
「そっか」
詰まんないわね。
「そう言うとにとりは『詰まらない』と駄々を捏ねて難儀しました。なんとも懐かしい」
「私は違うわよ」
思うだけだから。
「ですからうちの耳掻きは、専らにとりのためにある様なものです」
「この綺麗さじゃ納得できるわね。それじゃ反対側見せて」
「はい」
何か嬉しい。過去は過去で話してくれはするけれど、思い出になるとさっぱり聞かなくて。まぁ訊こうとしなかった私のせいもあるんだろうけど。
「こっちも掃除はいらないわね」
どうしよう。これじゃ喜んでくれないだろうし。
「どっか痒いとこある?」
横を向いてた頭がくるりと私に向き直った。
同時にはさりと音がして、横目に見たら床を払う尻尾のようだ。
「何」
「いえ、強いて言えば耳の付け根でしょうか」
何だったのかしら。目も心持ち丸くなってた。まぁいいか。
応えて軽めに掻いていく。最初は”申し訳ない”とか”ありがとうございます”とか言ってたけれど、段々口数が減ってきて、何かに堪えているように体が小刻みに震えてきて
「くぅ」
なにこのわんこ。思わず掻いていた指が止まった。
いつの間にか金色の目がこっちを見ていて、理由もなく見詰め合う。紅を載せてるわけでもないのに、頬には薄ら赤味が差してる。緩く開いた唇からは、息が忙しなく出入りしている。瞳に映りこむランプの光は、ちらちら動いて、目が潤んでいると教えてくれる。
どうしよう。叫びたい。
「ありがとうございました。そろそろ
「待ちなさい」
起き上がろうとした肩を、私の膝に押し戻す。逃がさないわよ。
「いえ、もう結構ですからどうぞ堪忍してください」
「いいからあんたは寝てなさい」
普段なら椛の方が力は強いんだろうけれど、体勢ってもんもあるわよね。
力の出しにくい仰向けでなら、私にだって勝機はある。
一頻りどたばたやって、私が勝った。私が勝った。何度でも言いたい。
今、私の膝には身悶えするわんこが載ってる。一掻き毎に鼻に掛かった声を出す。
幻想郷中に叫びたい。花果子念報で大々的に自慢したい。
私は、このかわいい椛の恋人だ。
「椛?」
”はい”とようやく搾り出された返事は、荒い呼吸に混ざって掠れてる。
多分喜んでくれたと思う。ただ、やり過ぎたわね。まぁ何はともあれ達成だ。次は何かしら。
――添い寝
黒々と書かれてる。しかもこれが最後らしくて、丸々一頁、全段ぶち抜く縦書きだ。あんたどんだけ力込めてんのよ。
とりあえずこれはない。現実味がなさすぎて想像できない。昼寝ならともかく、今は月が傾いてるあたり夜半まで一刻程度だ。泊まりは流石にない。成果が出たところで満足すべきね。
べそりと床にうつ伏せた、襦袢姿に声を掛ける。
「それじゃそろそろ帰るわね」
はたりと尻尾が動いた。何その目。
「泊まっていくのではないのですか」
「なんで」
何か行き違いしたんだろうか。無言のまま時が流れる。
「いえ、風呂に入り寝巻きに着替え、さて寝床を用意する頃合だと考えていたところですから」
今更思い出した、私も襦袢。椛の言ってることに何もおかしい点はない。
どうすんのよこれ。どうするも何も、私の服どこ。
「はたてさん?」
ついさっきのことだから、まだ瞳は潤んでて、その上耳が倒れてる。やめてよね。仲間外れにされた烏の子だって、そんな惨めな表情しないわよ。
断ったなら、罪悪感に押し潰されて、私は謝りながら死ぬんだろう。
受けたなら、羞恥心に焼き尽くされて、私は悶えながら死ぬんだろう。
「うん、泊まってく」
「では支度をしましょうか」
椛の笑顔で部屋の暑さが格段に増した。
断れるはずないじゃない。
***
促され、続き間に移ろうとしたところで、立ちはだかる衣桁が目に飛び込んできた。無視を決め込んできた、表面に蝶の踊る浴衣。私に告白してくれた時に着ていたもの。椛は”私に合わせた”んだと言っていた。その後不安げにおどおどしつつ”どう思うか”とも訊いてきて。気に入らないはずがない。蝶をどこかで見掛ける度に、あの瞬間が思い出された。
私はきっと幸せなんだと思う。
椛が押入れから布団を出す。私は敷布団を二枚並べる。
その間も何やかやと話しかけられて、がちがちに固まる私は適当に相槌を打つしかない。気の利いた応えのひとつも言えない自分をぶん殴りたい。要領を得ないあやふやな返答なのに、椛は春の陽光みたいに長閑な笑顔を向けてくれる。私は不細工に引きつった笑みを浮かべているんだろう。恥ずかしさに泣きたくなって、それでも心のどこかで嬉しさに泣きたくなってる私がいる。自分が分からない。
布団を敷き終えた。二組の間には拳ひとつ分の隙間が開いている。これでも妥協したほうだ。わざとらしくは無い程度に離れてなくて、余裕が少し残ってる距離。寄せ合うなんて私達には早過ぎる。椛は残念がるだろうか。気付きもしないと思う。気付いたところで特に何も思わないんだろう。風呂も抱擁も、それどころか口付けさえも顔色ひとつ変えずに済ませる奴だ。布団が近いか遠いかなんて、大根の尻尾と同じくらいどうでもいいことになるんだと思う。
椛はずるい。私は隣にいるだけで、こんなに息を乱されるのに。水面に浮かび上がって空気を求める鯉よりひどい。そんな私を知らぬげに、椛は能天気な笑顔を向けてくれるのだ。それでますます私は息が苦しくなっていくのに。これじゃ私ばっかり椛を好きみたいで、椛は私を家族か何かと考えてるように見えて、
「ずるい」
「何でしょうか」
「ん、何でもない」
不安になる。椛の”好き”は、私の”好き”と同じじゃないんだろうか。
でも私のために怒ってくれたのは本当で、けどあれもやっぱり身内を守るためなのかも知れない。
「そう言えば、髪はどうされるのですか」
「どうって」
なんかあったっけ。
「下ろしたままでは寝癖が付くでしょう。それでなくとも痛みます」
忘れてた。
「三つ編みにしたいけど、紐ってある?」
「ええ、今持ってきますね」
椛が衣桁の陰に隠れた。瞬間に膝が仕事を放棄して、体を布団に叩き落した。私ってこんなに緊張してたんだ。余裕が出来て真っ先に頭へ浮かんだ悩みは、”寝物語はどうしよう”ってことで。”ちゃんと寝られるだろうか”とか”椛の寝顔ってどんなのだろう”とかじゃなくて何だか笑えてくる。私は結構図太いのかも知れない。
それともまだ、これは現実だって信じられないせいかしらね。でもこれが夢だったなら、私はもっと違うんだろう。照れはしても、ちゃんと椛の目を見て話せたり、かわいく自然に笑えてるんだと思う。さっきまでの私は不恰好で不細工で、やっぱりこれは現実だ。
足音が戻ってきた。急いで目元を擦り、布団の上で正座になる。
「お待たせしました」
「うん、ありがと」
櫛まで持ってきてくれた。椛って髪短いのに何で気が付くんだろう。
口を緩ませ微笑む顔に、犬歯を剥く姿が被さる。そうか、あの女だ。
「どうかしましたか」
「何でもない。紐、頂戴」
私は嫌な奴だ。絶えずどこかに影を探して、ひとりで勝手に嫉妬して、このままだと椛を恨み出しそうだ。椛は何にも悪く無いのに。
差し出した手に、いつまで経っても紐がこない。不思議に思って顔を上げると、やっぱりまごつく椛が見えた。
「何」
「良ろしければ私が編みますよ」
あの女にもいつもそうしているんだろう。心を映した視界が暗くなる。
ここで引くのも癪だ。負けてられない。でも言葉に出来なくて、ただ頷いた。
「では失礼して」
「うん」
背後に回った椛が私の髪を手に取った。片手に束ね、先端から梳る。”手馴れている”、最初に浮かんだ感想がこれで、次に浮かんだものは”嫌だ”。私は、どこまで嫌な奴なんだろう。折角椛が梳いてくれてるのに、それを嬉しいとも思わずに嫉妬しているばっかりだ。
私が嫌だ。どうして嬉しいって思えないんだろう。私はもしかして、椛が好きじゃないんだろうか。
そんなの嫌だ。椛が笑ってくれたら、私も笑える。椛が触れてくれたら、私は思いっきり抱きつく。そんな時のいつまでも眠りたくなるふかふかした幸せは、絶対嘘なんかじゃない。
でも今感じてる底冷えする程の暗さもやっぱり本物で。嫌だ。
「はたてさん」
「何」
頬に湿りを感じる。袖で拭った。
「訊こうと思いながらも訊けず終いでした。私に用事とは何だったのでしょうか」
「何でもない」
些細なことで嫉妬してるのに、それどころか逆恨みまでしそうなのに、そんな私が”椛を甘えさせたい”なんて、言えるわけがない。意地を張って嘘を吐く私も嫌だ。
引っかかっても丁寧に解して、櫛が少しづつ登ってくる。きっと剣の手入れもこんな風にやってるんだろう。中ほどから梳き下ろされた。
「しかし湯を借りるのが目的だとは思えません」
「何でもないったら」
梳き終えるまでまだまだ掛かる。私の髪は長い。腰まであったあの女と大して変わらない。そんなところで似ているなんて嫌だ。
櫛が滑る。
「いつにも増して優しいかと思えば、妙に緊張している時もあり。それで何も無いとは説得力がありませんよ」
束ねる手が根元を掴む。大胆だけど無駄な力は入ってない、雛を扱うような優しい手付き。ほんとに包み込まれたら、餌の催促も忘れて寝てしまうかも知れない。
私は何も言えなくて、視線を片隅の行灯に向けた。ぼんやりと頼りない灯りは、それでも確かに私へ届く。眩しくて目を閉じた。
椛は何も言ってこない。瞼の裏しか見えない暗闇で櫛の流れる感覚が、流れる時間に思えてくる。布団の立てた息をついたように聞こえる音に、椛の立ち上がる気配を感じた。前髪を梳かされる。
「さて終わりました。編みますね」
頷いた。
髪をみっつに分けられる。やっぱり慣れているそぶりで淀みなく編まれていく。
「何を焦っているかは分かりませんが、ひとつだけ」
手際よく編みこむ指は止まらない。
「私は、はたてさんが好きです」
やっぱり何も言えなくて、ひとつだけ頷いた。
椛の手が肩から背中に動いていく。ぱたぱた小さな音がした。背から腰に辿りつく。そろそろ終わり。目を開けようとしたら音の正体に気付いた。私の膝が濡れていた。
衣擦れが聞こえた。紐を取ったんだろう。
「はたてさんはどうですか」
「どうって」
震える喉を無理やり動かす。
「私のことをどう思いますか」
そんなの決まってる。
「私は、椛が好き」
「ありがとうございます」
声と同時に、髪を縛られた。
「では寝ましょうか。随分と遅くなりました」
”うん”を返して、布団に潜り込んだ。考えてた寝物語はどこかに消えて、代わりに眠気が押し寄せる。隣から上がった”おやすみなさい”が遠く霞んで聞こえた。でもまだ寝たくない。せめて、これだけ。
拳ひとつ分隔てた向こうに、眠気で今にも萎えそうな腕を伸ばした。布団の端を叩く。ぱさりと頼りない音がして、ますます瞼が重くなる。まだ寝たくないのに、せめて、椛、お願い。もぞりと布団の持ち上がる音がして、
拳ひとつ分開いた隙間に、拳ふたつが収まった。
私は椛が好きだ。
そう言えた私がちょっとだけ誇らしくて、言わせてくれた椛が大好きだ。
おやすみ、椛。
***
「はたてさん、おはようございます。今日も暑くなりそうですね」
起きたら椛がいなくて、探し回ったら井戸の傍に見つけた。
「何してんの」
「何と言えば日課です。寝汗がひどいものですから、こうして流さないことには一日が始まりません」
全裸だった。辛うじて腰巻が肌にへばりついている。
朝日を浴びてなんかもう輝いてて、目が潰れそうだ。
「朝食は少々待ってくださいね。すぐに調えますから」
「あー、うん、それはいいんだけどさ。私も手伝うし」
そろりと視線を動かして、ちらりと視界に椛が入る。
無理だ。目を逸らす。
「どうかしましたか」
どうかしてるわよ。やっぱり椛はずるい。私が夢の中でまで悩んでたのに、能天気に笑ってて。当たり前か。そんなこと分かるわけないわよね。
――私らにとっても”特別”だ。
いいわよ。やってやるわよ。それが嘘か本当か知らないけれど、私は椛の恋人だ。椛の”特別”になりたい。幸せになりたいし、幸せになって欲しい。
「ちょっとそこ動かないで」
「それは構いませんが」
大きく息を吸い込んで、度胸一発、井戸に向けて歩き出す。
伏せた目に背後へ過ぎる桔梗が見えて、踏み固められた土が見えて、爪先が見えた。半歩前に椛がいる。
「なんでしょうか」
怯えさせてる? ああもう、なんで失敗ばっかりなのよ。
駄目だ。泣くのは後だ。もう愚図愚図なんかしてられない。
「椛」
「はい」
口中が干上がって、舌もねっとり粘ついてる。これじゃ上手く出来なさそうで、やめる口実にしたがってる私がいる。でもそんなの嫌だ。椛は私の恋人だ。十年先、百年先、千年先、ずっと私の恋人だ。こんなことでへこたれてなんかいられない。
顔を上げて、顔を抱き寄せて、ずるいって分かってるけど、これが私の精一杯。
頬を撫でた
踵を返して走り出す。
視界の隅で、桔梗が激しく揺れ動く。
「これだけだから。ちょっと挨拶したかっただけだからっ」
弾んだ”ありがとうございます”が背中に襲いかかってきた。喜んでくれて嬉しいけれど、それは私に止めを刺してる。
走り抜けて、家の表に出て、後ろに倒れこんだ。二十歩も走ってないのに息が切れてる。おまけに舌がひりついてる。乾いてたのに無理やりしたせいだ。でもこんなのどうだっていい。
朝日に向けて、思い切り拳を突き出した。
青空は憎たらしいほど爽やかで、確かに暑くなりそうだ。
だってもう、こんなに熱い。
ライバルをただの恋敵として終わらせようとしないところがいいですね。
とても素晴らしかったです
すごい良かったです…!
椛の友人さんの心情がわかるだけに余計にね。
本編も凄くよかったのですが、あとがきで泣けます。
それに同僚さんもイイ…