洞窟の中は大抵、湿っている。
土の中にあるので、土中の水気が降りてくるからだが、いちおう、風のある場所では、あまり湿っぽい空気になることはない。
しかし、岩が多くなってくると、風で運ばれたものや、染み出した水気が岩を冷やし、どこかうそ寒い空気に洞窟を変える。
土の性質から鍾乳洞ができるようなことはないが、場所によっては、朝夜にしずくが落ちる。
そんな性質を持つ、とある暗がりの中で、ある種のいとなみが今まさに行われているようだった。
外の世界では、絶えて久しいいとなみ。
妖怪が、人を食う。
「…おか…ぁ…さん…」
ひゅー、ひゅー、と細い呼吸音に混じって、
かすれた声に、洞窟の岩壁が反響ともいえないほどの余韻を返す。
「たす……け……」
それを蓑虫というと、的確な表現になる。
天井から一本の糸で吊るされ、太さの様々な白い糸に幾重にも巻かれ、手足の先と顔の一部だけが露出したそれは、人間の子供のようだった。
そこに、声がした。
わずかにしゃがれたような、引き攣れたような響きがあるが、若い女の声のようであった。
「私は、さ」
その“蓑虫”のすぐそばに、一人の女が立っている。
外見は少女といっていい。だが、幻想郷では少女の外見をしたものほど警戒してかかるべきだ。
「好きなんだよ。妖怪だから」
日に干した藁のような色合いの髪を、黒い帯で無造作に後ろで結っている丸顔の女は、くりっとした大きな瞳に、とろけそうな笑みを浮かべて糸の塊に話しかける。
「人を苦しめたり、痛めつけたりするのは、そりゃもう大好きだよ。死体の方が好きって子もいるけど、私は断然生きてる人間だね。泣いたり笑ったりしてくれなくちゃあ、つまらないから。坊やだって、そういう友達の方がいいでしょ?」
乱暴に、逆さになった子供の頭を掴む。
糸の間にのぞく、黄色く濁った目から涙がこぼれ、それを見ると彼女はもはや恍惚に近い表情になる。
「ええとね、勘違いしないで欲しいんだけど、もちろん死体だって好きだよ?子供は肉が柔らかすぎるから好きじゃないけど、だから食べないなんて贅沢は言わないよ。甘栗が大好きだからって、お饅頭を出されて食べないなんてことはないでしょ?」
見開かれた子供の目に、女はその表情のまま、しかし、目はひどく冷たく光らせながら、開いた口を近づけた。
人間のものと同じ、だが、骨もたやすく噛み砕く圧倒的な強靭さを持つ歯並びがひらく。
「先に殺すなんて勿体無いこともしないよ。なるべく長生きするように食べてあげるから、一生懸命…歌ってね」
その声音だけは優しく、女の指が糸の隙間をめくり、獲物を引っ張り出しにかかる。
くぐもった悲鳴があがる。
「…はぁ」
ビクッと女は振り向いた。
一瞬前まで誰もいなかった空間から、ため息が聞こえたから。
「はらえ」
凛とした響きが聞こえた時には、女は糸の塊を蹴って跳んでいた。
そこへ退魔の霊符が幾重にも飛来する。
霊符は白い糸にぶつかると軽い音を立てて炸裂し、蝋燭しか照明のない洞窟を白く照らす。
糸が焼けるようにしてぶつ切りになり、蓑の中からこぼれかかった子供の体を、博麗霊夢は素早く滑り込んで両手で受けた。
「あぁ、紅白な方の巫女さんかい」
洞窟の、吹き抜けのように高くなった場所から、黒谷ヤマメは声をかけた。
藁色の髪を掻き、まいったなと言う。
「服が焦げちゃったじゃないの」
彼女は水差しのようにふくらんだ服の裾をたしかめながらそう言うが、霊夢は黙って抱えた子供を見下ろしている。
「………」
子供は全身が、おそらくは汗で濡れていた。着物までもぐっしょりと。
顔色は紙のように白く、額から右目、唇のあたりまで黄色い水泡のようなものがびっしりできて、よく見ると下の方までも続いていた。細い呼吸で震えている。
「病気ね」
「まあね、それ以外に見えたらちょっと自信を無くすかもしれないね」
ヤマメは岩に片手片足で張り付きながら、楽しそうに言った。
「あんたがやったのね」
「私の能力をお忘れかい?」
「あっそう」
霊夢は言うと、きびすを返した。
「おや?」
「連れて帰るわ」
「戦わないの?」
「…」
霊夢は顔だけでヤマメを振り向いた。
「戦って欲しいの?」
「………」
ふしぎな底光りのする瞳で、人間は彼女を見ていた。
ヤマメは目を閉じて肩をすくめた。
そして目を開けると、二人は既にいなくなっていた。
「………」
ふらり、と上体を傾け、
そのまま逆さに落ちる、と見せかけて、片手片足から出した糸で地面のやや上にぶら下がりつつ、ぼんやりヤマメは呟いた。
「食べ損ねた」
「なるほど」
霊夢が八意永琳のもとへ子供を運ぶと、永琳は診察室のベッドに寝かせた子供に、ひとしきり診察をしてからそう言った。
「何がなるほどなのよ?」
「ちょっと厄介そうな病気というのが分かったから、なるほど」
霊夢の問いにそっけなく答えると、幻想郷随一の薬師はカルテを取って何事か書き込み始めた。
「こんな病気初めて見たんだけど」
「このあたりの環境で自然発生する種類じゃないわね。あなたは出てなさい」
永琳は霊夢を見ずに言う。
「わかった」
「その前に。霊夢、ここに来るまで誰かに接触した?」
出て行こうとした霊夢は呼び止められ、
「いいえ、真っ直ぐここに来たから」
「ならいいわ。土蜘蛛の扱う病はすべからく感染症のはずだから、あなたも消毒しておきなさい」
「カンセンショー?」
「うつる病気ってこと。見たところあまり感染力は強くないと思うけど、念のためよ」
霊夢は己の巫女装束の袖を見た。
子供の汗と、水泡が潰れて垂れた黄色い汁で濡れている。
「服も洗濯してもらっていい?」
「鈴仙に言って」
霊夢は診察室を出た。
ここは永遠亭。永琳とそれを従える輝夜の屋敷で、二人の手下は全て兎関連の妖怪という魔窟である。
とはいえ、ここの妖怪達は人間を捕えて食うことはない。
霊夢が診察室の襖を開けると、ちょうどくだんの兎、鈴仙も隣の襖から出てきたところだった。
「ねえ鈴仙」
「ん?」
手に何かの瓶を持って出てきた鈴仙は、素直に振り向いた。
霊夢は取り外した袖を差し出しながら無遠慮に言う。
「服、洗濯して」
「えっ、なんでよ?自分でしなさいな」
「永琳があんたに言えって言ったのよ」
「師匠が?他に何か言われなかった?」
「カンセンショーがどうとか」
「ああ、…ええと、じゃあ手洗いとかもしといた方がいいわね。石鹸あげるからこっち来て」
鈴仙に連れられて研究室のような部屋に入ると、霊夢はリボンを外して袖から手を抜き、タイルで出来た小さな風呂のような、箱型の洗面台の上で二の腕のあたりまでを洗った。
「この水道、変わった形してるわね」
「実験器具洗ったりするからね。さ、脱いで」
「ん、全部?」
「一応、念のためよ」
「着替えがないんだけど」
「あ」
鈴仙はちょっと固まった後、少し待てと言い部屋から出て行った。
「仕方ないからこれで」
そして持ってきたのは、白いカッターシャツと濃い藍色のスカート、同色のブレザーだった。
「あんたの?」
「そうよ。今、他に合いそうなのがないのよ。後で返してね」
「やれやれ」
仕方なく霊夢はその一式を身に着けた。
「……」
「なによ」
「すげえ違和感」
笑いながら言う鈴仙に、霊夢はいつものそっけない表情で言った。
「無駄に胸のところが余るんだけど」
「あー…ブラも使う?」
「ブラってあの、胸に巻く固いやつよね?いらない」
何故か優越感混じりの苦笑をする不届きな鈴仙を尻目に、スカートを履いた霊夢は、そのまま部屋を出て、黙って永遠亭を後にした。
(…さて)
どうするかな、と霊夢は考えた。
元はといえば、人里まで買い物に出た際、子供らに泣きつかれたのが原因だった。
いわく、友達が妖怪の巣に入ったと。
霊夢は一般的な人間達から、ある種畏怖されてはいるが、幻想郷を守護し、人妖の調停をつとめる博麗の巫女である。
ゆえにそういった話を受けて、助けに行くというのも彼女の仕事だし、手遅れだった場合も一応、できるだけは『持ち帰る』。
その後、遺族や里の依頼で霊夢が下手人(下手妖怪?)を退治をするのが常だ。
「まずは、あの子の親にでも言うか?でも、永遠亭までは普通の人は行けないし、永琳なら治すだろうし。たぶん」
ブレザー姿から巫女服に着替えた霊夢は、台所でお茶を淹れながら呟いた。
色々考えてはいるが、とりあえず里の有力者に話を通すべきだったかもしれない。
子供らに頼まれた時も、どっちを先にするべきか考えはしたが、あえて子供を助けに行くことにした。普通なら妖怪退治には準備を整え、それなりの戦う力を持った人間を集めなければ、泥棒に追い銭ということになりかねないのだが。
とにかく、助けてから里の人間には一言、言うべきではあったのに、なんとなく霊夢は住居である博麗神社まで帰ってきてしまった。
「ふう」
お茶を飲む。湯呑みを持ったまま廊下に出て、居間に入る。
今日は誰もいない。いつも妖怪が寄り付くせいで、妖怪神社などと人間達に噂されてしまったのが、霊夢が畏怖されている要因のひとつである。
おかげで、静かでいい――
「?」
ふと、違和感を感じて右手を見た。
左手から、つるっと湯飲みが滑り落ちた。
「わっ!」
咄嗟にしゃがんで空中で湯飲みを掴む。中身が無事だったことに安堵する。
だが、先ほどから感じていた震えが、悪寒となって背筋を走った。
「…これは…なに?」
腹の奥が震えて、胃から何かが競りあがってくる。
(まずい、吐く)
咄嗟に左袖で受けた。咳き込むようにして、口の中からこぼれたものには、血が混じっていた。
「………まずい…わね」
体から力が抜けていくように感じて、霊夢は渾身の力を込めて立った。
しかし、足元がどうしようもなくふらついた。
(感染症、うつる病気ってこと)
「ああもう、油断した」
障子に手を突き、時々突き破りながら、霊夢は縁側に向かった。
懐にいつも備えている霊符に手を当てた。
雨戸を閉めて、霊夢は居間に寝具を引いた。
普段は寝室で眠るが、居間の方が台所にも厠にも近い。
それに、居間は区切りが正方形である。隣と仕切りの襖を外せば広くなるので、宴会等のときはそうするが、今はその必要はない。
正方形の方が、結界が安定しやすい。
「………」
汚れた袖は、外して台所の土間にあるトタンの盥に入れ、度数の高い酒をかけて放置した。
これら一連のことをしただけで体が疲れ果て、寝巻きに着替える余裕はなかった。
(…あつ、い…)
明らかに熱がある。寝ている間に、体の関節に砂が入ったような、棘のある違和感が出てきた。肩が痛い。首が痛い。腹が痛い。膝が痛い。どの姿勢になってもどこかが痛い。
(これが…病気なの、ね)
病で寝込んだことが、霊夢には無かった。
初めて味わう種類の苦痛に、
(あいつ、結構危ない妖怪だったんじゃないの…なんとか、なるかな)
結界術に長けた霊夢なら、札さえあれば霊力を注ぎ続けなくとも、結界はしばらく維持できる。
呪いの類なら、これで遮断できるはずだが。
病を媒介にしているなら、呪いの力が絶えれば、あとは病気だけの効果になる。
昔にざっと読んだだけの術書の知識ではあるが、それなりに信じれる筋のものだ。
(………でも、あんまりなんとかなりそうな気がしないわね…)
勘というのは、極限状況ほどよく働くと借りた漫画に書いてあった。
ならば普段から優れている霊夢の勘は、いったいどれほどの精度になるのか。
感じるのは、嫌な予感だけだ。
「………」
(うつる病気)
「…ふぅ、ああ…もう」
なんとか腕が動いた。立ち上がるだけで高い岸壁を登らされたような気分になる。
「…ぐ…ゲホッ!ゴホッゴホッ!」
咳き込み、ほとんど倒れ掛かるように霊夢は箪笥に手をかけた。
◇
今日は空に雲が多いが、明日からしばらくは晴れるであろうことを、経験によって文は知っていた。
昼下がりというよりは夕方の今、天狗の射命丸文は博麗神社の庭に降り立った。
空からは、神社の主の姿は見えなかった。
「こんにち…あや?」
雨戸が閉まっている。不在かな?と文は首を傾げ、そこで白い半紙が、縁側の雨戸に貼り付けてあることに気付いた。
半紙には、墨壷に指を突っ込んで書いたような、不思議な丸みのある字でこう書いてあった。
『しばらくる守にします。かってにはいると死刑。あとけーねにこどもはぶじだと伝言しなさい。アリスかまりさへ』
文は何か途方に暮れたような顔でその落書きを眺めていたが、やがて、
「まあとりあえず」
ごく自然に雨戸をこじあけようと指をかけて、
「あおっっつう!!」
触れた部分に白い火花が散った。文は奇声を上げて戸にかけた左手を抱え、跳びすさった。
「痛っつうー…」
青黒く腫れた指先を口に入れて、文はちょっと涙目になってぼやいた。
「霊夢さんこれマジ結界じゃないですか…さすがにこれを破るのは骨だわ……」
しばらく何事かを逡巡していた様子だったが、やがて文は飛び立って、博麗神社を後にした。
.
病気になったことはないが、病人の看病をしたことはある。
確か、何か口にしなくちゃ駄目だったはずなので、とりあえず干し柿と水を口にする。
(………味がしない……)
口に入れると、気分が悪くなった。
吐き出さないよう、ゆっくりと細かく噛み砕いてから慎重に飲み込み、水をゆっくり流し込む。
あるだけの手ぬぐいとタオルを持ち出して隣室に山積みにして、枕元には散薬と水の張った盥。
それらを準備するたびに、いちいち体力を使い果たしているように感じる。
まるで棒のような、神経が何本か抜けたような手を動かして顔に触れる。
嫌な細かいぶつぶつのふくらんだ感触があり、鈍い痛みを覚える。
(あのぶつぶつが出来てるのね、ああもう)
永遠亭まで行く体力はない。少なくとも、今の霊夢にはない。
(お米が無いから買いに出たんだった…でも、今は料理できないし、買い忘れたままでいいわよね。生米かじるのもなんだし)
熱にうかされ、時々もやのかかる思考で霊夢は、なんとか食事計画を立てる。
外に食材を取りに行く余裕はあるはずもなし。台所にあるのは、
(胡瓜の糠漬けに…あ、ぬかみそ混ぜ……ちゃまずいわよね。うつる病気なのに。あーあ、今まで世話してきたのになあ…)
(後は…生の……キャベツ?レタス?あれどっちなんだっけ…それと塩)
(あ…ハチミツ…ハチミツあったわね)
考えながら、雨戸の隙間からかすかに差し込む光を見て、霊夢は朝が来たのを知る。
(……寝なきゃ………ていうか…痛い……)
「………」
彼女は日傘をくるりと回して、不思議そうに小首をかしげた。
視線の先には張り紙がある。
『しばらくる守にします。かってにはいると死刑。あとけーねにこどもはぶじだと伝言しなさい。アリスかまりさへ』
「なんだいこりゃ」
声がして、彼女が視線を向けると、彼女の横に白いもやが集まって、見る見るうちに人の形を成していった。
もっとも、人にはそんな立派な双角はない。そもそもそんな登場はできない。
現れたのは鬼である。神社に半ば居ついているかのような小さな、古い鬼だ。
「……」
彼女はちらっとその、彼女よりだいぶん背の低い鬼を見てから、また張り紙に視線を戻す。
「しばらく、留守に、します?…珍しいねえ。お泊りかい?」
「さあ?」
問われた風見幽香は、張り紙からその鬼に視線を移し、微笑を浮かべてはぐらかすように答えた。
「私もたった今来たばかり。霊夢にも会っていないわね」
「そうか」
幽香は綺麗にウェーブのついた、長くは無い髪を揺らして、きびすを返す。
「……なあ、本当に霊夢は留守なのかな」
鬼がそう言って、幽香は振り返った。
「というと?」
「なんか…霊夢の匂いがするんだよ」
言うと、雨戸に手をかけた。
「おお!?」
バチィッと火花が散り、鬼が弾かれた手を不思議そうに見るのを、幽香は見ていた。
「…結界、ね」
呟く。
風見幽香は花の妖怪である。そういうことになっているし、その呼称に不満はない。
しかし、幽香自身は、それをわずかに疑問に感じている。
幽香は花が好きだ。花と共に生きることは喜びで、花を追ってさすらうことで満たされる。
それは間違いない。しかし、自己の出自は幽香自身にすら分かっていない。
覚えていない、という方が正しい。確かに、妖怪にはいつのまにか一定の容を成し、そこから自我がはじまるという種類もある。
しかし、幽香がそのたぐいだとしても、自身が花の化生というのにはどうも、不思議に思える。
彼女は植物の習性を持たない。嗜好も左右されない。植物を食べることに違和感も覚えない。
それに、いかに花が美しくたくましいからといって、こんなことが出来るものだろうか。
「おい!」
雨戸に、畳んだ日傘の先を向けた幽香を、鬼の声がとどめた。
「…何かしら」
「何する気なんだい、そんな物騒な気を込めて」
「いやねえ、開けるだけよ」
微笑んで言う幽香に、鬼は呆れた顔で、
「神社ごと吹き飛んじまうよ」
「加減はするわよ」
「今のはしてなかったろ」
「だって、生意気じゃない。居留守を使うなんて」
「いや、まだいると決まってないだろ」
「ふふっ」
幽香は笑った。
「…何がおかしいのさ」
「いやねえ、あの霊夢が結界を使って戸締りなんて、そんなこと今まで無かったわよ?」
「ん…まあ、ね」
「つまり、何か隠してるってこと。きっと開ければはっきりするわね」
「だからってさあ…」
ぼさぼさの蓬髪をがりがり掻く鬼は、何やら言葉を選んでいるようだったが、幽香は構わない。
「そういえば、鬼は嘘が嫌いなんでしょう?この張り紙が嘘だってことになるわね。ほら、怒って巨大化なさいよ。月は出てないし尻尾もないけど」
「あんた、鬼をなんか勘違いしてないか?色々と」
「ていうか、幽香もある意味鬼だと思うぜ私は」
白黒い魔法使いがそういいながら、二人の横に並んだ。
「おう、魔理沙」
「おう、萃香」
鬼と挨拶を交わし、魔理沙は黒いとんがり帽子を引き上げながら張り紙を見た。
「ああ?…なんだこりゃ」
怪訝そうに目をすがめて、しばらく考えていた様子だったが、
「とりあえず入るか」
雨戸に手をかけて結界に弾かれて2メートルくらい後ずさった。
「痛てっ!いっつぅぅーー!!あいつ結界張ってやがる!」
「そうなんだよね」
「いや、先に教えてくれよ」
「ごめんよ」
素直に謝る鬼だが、表情はぜんぜん悪いと思っていない、仲間が増えたとでも思っているようだ。
魔理沙はしばらくあごに手を当てて唸っていたが、
「……まあ、いないんじゃ仕方ないぜ」
どこか不機嫌な顔で背中を向けて、箒に乗って飛び立った。
「ひどいわね、あの子」
幽香が笑みを引っこめて言う。
「何がだい」
「私を鬼ですって。失礼しちゃうわね」
そう振られても、鬼の方としてはどうしようもない。
「…まあ、分からなくもないよ、私は」
「そうかしら?」
幽香は少し考えてから、
「ねえ、私ってもしかしたら鬼なのかしら?」
「…何言ってんだい、あんた?」
彼女はわりと真面目に質問したのだが、本物の鬼は呆れた顔をするだけだった。
.
鼻が利かなくなってきた。
霊夢は手ぬぐいで汗をぬぐいながら、ついでに鼻もかむ。
鼻水の質がどうも、普通のと違う気がする。冬でもあまりずるずるになる方じゃないからはっきりとは言えないけど、妙に水っぽく、それでいて痰はやけにねばっこい。
左目のまわりの筋肉がうまく動かなくなってきた。あの黄色い水泡のせいだと思う。
体の痛みはあまり感じなくなったが、それでも寝起きはいささかきつい。浅い眠りを繰り返しているが、たまに深く寝入ったと思っても、寝返った拍子に間接が痛んだりして、それで目が覚める。
胃の下の辺りを冷たい金属でかき回されるような不快感もある。吐いたり生理現象として出すいろんな物に血やよくわからない液が混じって、
「……ふ……ぐ……」
喉が痛い。呼吸が時々辛い。
(体力が……戻らないわね……)
「み…ず……」
体を起こすのも辛い。力がきちんと四肢に供給されていない。
それでも水と食べ物は摂る。食うことが生きることだ。締め切っているせいで朝昼夕食の正確な時刻がわからないが、そこはかすかに見える台所の明り取りからの光でなんとなく判断する。
窓も戸もめぼしい所はすべて結界で締め切っているので、出入りは霊夢以外にはできない。
(…ちょっと早まったかな……)
思わなくもない。
しかし神社の“常連”には、わずかながら人間がいるので、そいつらに接触する訳にはいかない。
妖怪連中は平気だろうが、弱みを見せると何されるか分かったもんじゃない。少なくとも霊夢はそう思っている。
それに、妖怪連中は発症しないにしても、そいつらが人間に接触することは十分ありうる。人里に出入りを許された妖怪も多いので、そこから広がる可能性も考えると、ちょっとやめた方がいいんじゃなかろうか。そのへんまでちゃんと聞いとけばよかった。
(……弱ってるわね……まったく、妖怪なんてあてにならないっての……)
半ば這うようにして台所に入ると、ふらつきながら、へそのあたりまである甕(かめ)の水を柄杓で汲み、呑む。
冷たい液体が喉を通る感触も苛立たしい。喉がピリピリと痛む。
「…ガフッ!!ゲホッゲホッ!!」
咳き込むと、土間に水滴と赤いものが散った。
「…あ?」
顔の水泡が裂けて、血が垂れていた。
「…ほ…たい…は…」
ぜひゅーぜひゅーと呼吸をしながら、霊夢は柄杓を取り落とすように置いて、居間に戻った。
がくり、と膝が折れた。
自分の体が倒れて畳に打ちつけられるのを、霊夢は他人事のように感じた。
.
「………」
伊吹萃香は腕を組んで、博麗神社の締め切られた雨戸を睨んだ。
「………霊夢よーい」
呼びかけてみたが、返事はない。
頭の両側にある長い角が、片方は少し上がり、片方は沈んだ。
「…なんか嫌な匂いもするし……」
「…あ」
声がして、萃香が振り返ると目が合った。
森の木の影から顔をのぞかせている、緑の裾を絞った帽子に、赤い服の猫娘がいた。
「おー、確か紫んとこの猫だったっけ」
「は、はい、橙ともうしますっ」
「どうしたのさ?」
「い、いえ、その…」
鬼の存在に臆したらしい橙を、萃香はちょいちょいと手招きして呼び寄せた。
「心配しなくても取って食いやしないよ、遊びにきたのかい?」
「う、うん…」
おずおずと出てきた橙は、閉め切った雨戸と張り紙を見て、
「霊夢のやつ、いないの?」
「んー…どうだろねえ」
萃香にもわからない。
霊夢はなんだかんだで、誰かが側にいるのを拒むことがない。それはきっと、彼女には誰も触れることができないからだろうと萃香は思っている。
物理的な意味ではない。あののんきな子が、心の芯に何を持っているのか、萃香は分かった試しがない。
だから、結界で初めてあからさまに拒まれたとき、胸の内に生まれたのは、何よりも純粋な驚きだった。
「天岩戸じゃないんだからさ…もう何日目だよ」
「そんなにずっとなの?」
「………」
くるりと視界の端で日傘が回る。
萃香と橙が左を見ると、いつの間にか花の妖怪が立っていた。
その彼女は無表情に、
「……」
スッと、日傘を畳む。そしてその先を雨戸に向けた。
「だからやめとけって」
「邪魔しないでもらえる?」
日傘を押さえた萃香を、彼女は冷たい目で睨む。
「神社壊してどうすんだよ」
「もう三日も朝御飯を食べ損ねているわ。霊夢とは、朝食に糠漬けを出すという条件で野菜を融通してやってるのに」
「あんたは欠食児童かい」
「お陰で三日も和食を食べてないの。私は決まったことが行われないと我慢できない」
「案外子供なんだねえ、あんた」
「規則正しいって言うのよ。覚えておきなさいな」
言い合う間も、日傘はぐぐぐ…と細かく震えている。
動かそうとする力と止めようとする力が拮抗している結果だ。
「自分の、都合を、押し付けるのは…子供さ」
「言う、じゃ、ないの…あの子に、拒まれて、酷いかお、してた、くせに…」
ぴく、と萃香の手から力が抜けて、日傘が跳ね上がった。
「……」
どこかぽかんとした顔が、ちょっと赤くなった。
それを見た花の妖怪は、ふん、と鼻を鳴らして、振りあがった日傘を一瞬持て余し、先端を地面に降ろした。
「ごめんなさいね、図星だったみたいで」
「別に図星じゃないさ、勘違いするなよ」
「そうよね、鬼って確か、人間に相手してもらえなくなって、いじけて地下に引きこもったピュアな心の持ち主ですものねえ」
「おい、やめときなよ?」
萃香が静かな口調で言った。いつもの、酔っ払った気楽げな口調とは、雰囲気が変わっている。
しかし、花の妖怪の方は、むしろ穏やかともいえる微笑を浮かべて、言葉を紡ぐ。
「あの子は口ではイヤイヤ言っても、消極的に肯定してくれるものね。あなたみたいな厄介者でも」
「厄介者?お互い様じゃないかい」
「そうね。でも、私はあなたみたいに、寂しい寂しいって人を引き寄せるような真似はとてもできないわね。羨ましいわ」
「……」
「ねえ、あなたって本当に鬼なのかしら?女々しいのは女だから?それとも」
バシン!!
橙の目には、一瞬で二人ともが、予め決められていたポーズを取ったように見えた。
萃香は拳を突き出し、それが幽香の顔面に届く前に止まっている。
その腕に、いつも萃香が身につけている鎖の、その先にある鉄球を幽香が腕をのばして掴み、鎖がピンと張って、萃香の拳を制していた。
「……」
メキッとかベキャッとか音がして、鉄球の形が変わる。要するにへこんだ。その表面を、幽香の爪の間から垂れた血が細く流れた。
「広いところに行こうぜ……久々に……切れちまったよ……」
萃香が幽香を睨む目つきは、まさしく種族の名に恥じなかった。
「ええ、付き合ってあげるわ。ちょうどむしゃくしゃしていたの」
幽香は嫣然と微笑む。その素敵な笑顔に、橙は正直ちびりそうになった。
やがて二人は揃って歩き去っていった。
橙はしばらく震えていた。
「なあ、何してんだ?」
声をかけられて、そこで気がついた橙はピクッと耳を立てた。
「あ、魔理沙」
橙が脅えている間に来たらしい魔理沙が、縁側の下で震える橙をのぞきこんでいた。
「べ、別になんでもないけど……」
「そうか、まあ猫だしな」
縁側の下にいてもおかしくないよな、と魔理沙は言った。
その時、バタタッと一斉に鳥が羽ばたく音と、ギャアギャアと鳴きながら飛んで逃げ去っていく声が、遠くの方から聞こえた。
「…?なんだ?」
「行かない方がいいよ、絶対」
「そうなのか」
魔理沙は橙の態度にどこか釈然としない顔をしたが、その助言を受けることにしたのか、閉められた雨戸の方に目をやった。
箒のひげを一本抜くと、戸の隙間に押し付ける。
チッと小さな音を立てて焦げたひげを見て、放り捨てた。
「ふうむ」
腕を組み、ふと橙のほうを見る。
縁側から這い出ようとする橙は、目が合って不思議そうな顔をした。
魔理沙が驚いたように、あるいは何か気付いたように、すこし目を見開いていたからだ。
「ふむ」
「え?なになに?」
.
意識が戻る。
もう何日が過ぎたのか、分かるはずもない。
左目が見えないことに驚くが、顔中に巻かれた包帯のせいかと思う。
たぶん自分で巻いたのだろう。手探りで巻いたような記憶が、かすかにある。
肩が痛い。首が痛い。背中が痛い。しかし、痛みの質がやけに鈍くなったように思う。熱に浮かされ続けているせいか。
知らない間に蹴手繰ったのか、はだけていた布団をなんとか寝転がったままかけようとするが、手が鉛のように冷たく、重い。
敷布団が色んなものでぐちゃぐちゃに濡れているのに気付く。鼻が利かなくてよかった。
「ひどい有様ですこと」
声がした。鈴を転がすような、という言葉を、柔らかくなめらかにしたような声。
「……、り…?」
ひゅーひゅーと細い呼吸の合間から、そいつの名前を呼ぶ。
視界をめぐらすと、
「お久しぶり、霊夢」
白地に紫色の道服、白い裾の絞られた帽子、白すぎるほど白い肌に、金色の髪を結った女が虚空に腰掛けて霊夢を見下ろしていた。
薄闇の中だが、彼女の姿だけはうっすらと輝いているように、闇から浮き上がって見えた。
「…っ、…え…る…」
「何を言ってるのか分かりませんわ」
「ゲホッ、…ぱんつ、みえてる」
「えっ嘘!?」
慌てて膝を寄せる。
「………ごほっ」
「…って、見えるわけがないわね、一本取られたわ」
彼女は長い裾を忌々しそうに手繰る。
霊夢は視線を天井に移した。
「………」
「以前言ったでしょう?地下にいるのは、忌むべき力を持った妖怪ばかりだと」
「…え、え」
「出会い頭に殺せば良かったのではなくて?」
「……」
「そうすれば“病い”は“呪い”へ変わる。あの程度の土蜘蛛ならば、貴女を脅かすほどの呪いは生めないでしょう」
「それ…、いいの?あ、ゲホッゲホッ!……あんた、は」
「病い身なのはあなた。あなたの裁量であれば、口を差し挟む気はそれほどありませんことよ」
どこからか取り出した扇子を広げ、口元を隠す。
「………」
霊夢は目をつむった。
「先に言っておきますが、その病は幾つかの病気の性質を混ぜ合わせた、土蜘蛛独自のものですわね。自然治癒はありえないわ」
「……体、力、は…?」
「?」
「かい、復、するの…?」
かすれた声で問う霊夢に、女は目をつむり、扇子を音を立てて閉じた。
「やはり、貴女はあなたですわね。自分の目が確かだったと喜ぶところなのかしら、これは」
「き、…ることに、…ゴホッ、こたえ、なさ…よ」
「ええ、体力だけなら、一時的に、下の中くらいまでは、戻ることもあるでしょう」
「そ、う…」
「その後は下がり続け、衰弱死するだけよ。どうも空を飛ぶ能力は、生理的な面の疾患には弱いみたいですわねえ」
「………」
「まあ、人間は肉と心の両輪で成り立つものですから、肉の方は、そうそう切り離して“浮く”ことはできないということでしょう」
「そう、なのか、な」
「もっと言うならば、感染する前ならば、能力で寄せ付けないことも出来たでしょうけれど、ね」
「…やっぱ、そういう…こと、かしら」
「やっぱり人間ですからねえ。手抜かりをしてしまうものかしら」
扇子を袖に仕舞うと、女は膝を組んで、そこに肘をつき、細いあごを手で支えながら、目線で霊夢をのぞきこんで言った。
「何か言うことはあるかしら?霊夢」
「…」
「例えば、助けて、とか」
霊夢は視線をそらし、ちょっと考えてから言った。
「あまり、い…、たく、ないんだけど、ね」
「……」
「どう、…ようもなく、困った、時は、………頼むわ」
「ふぅ」
女は息をつくと、微笑んだ。
「ええ、ええ、気が向いていたら、頼まれて差し上げますわ」
その姿が後ろに倒れこんだ、と見えた瞬間、女の姿は消えた。
「…」
バカらしい、と霊夢は思う。
誰かに何かを頼まれるのは霊夢の仕事なのだ。そのはずだ。それなのに、何を言っているのだ、あいつは。
たかだか人間一匹死に掛けたくらいで。
何を言っているのだ。
「…まったく、人のことを、…えたざまじゃ、ないけどさ…」
ドズン!
いきなり、突き上げるようなくぐもった音がした。
「!?」
「よし、どんぴしゃ」
「ゲホッ!けむい!」
ホコリを巻き上げながら畳を吹き飛ばした魔理沙が、博麗神社の一室に床下から頭を出して言った。
その横に橙が咳き込みながら顔をのぞかせる。
「床板破って…霊夢に怒られちゃうよ」
「その時はその時だぜ!真相究明がわれわれの使命だ」
「そうだっけ…」
半分ノリ、半分好奇心でついてきた橙は、薄暗い室内に目を爛々と光らせて視線をめぐらせる。
「いないか?だが、なんか臭いな。生臭いというか、腐臭というか」
「……いるよ、多分」
金色の光彩をひらいて別人のような顔をした橙は、眉をしかめながら確信的に言った。
「分かるか?」
「においがするよ。多分、中にいる」
「とりあえず調べようぜ」
靴を脱いで畳間に上がる魔理沙は、指を鳴らして空間に小さな鬼火を灯した。
「…居間からいくか…?」
『ゲホッ、ゴホッゴホッ』
部屋越しに聞こえた声に、魔理沙は目を見開いた。
「霊夢!?」
声が途切れ、魔理沙は居間への襖を開けようとした。
「う痛ぁ!!」
指を弾かれて悶絶した。
「また結界かよ!この!」
魔理沙は腹が立って八卦炉に手をかけた。
『魔理沙?』
そこで、襖越しに霊夢の声がした。
「…霊夢?病気でもしてんのか?締め切りやがっておい!」
『…うつる、病気なのよ!…ゲホッ!、かなりタチが悪いから、あんたは入って来るんじゃないわよ。あんたよりタチが悪いから』
「なんだとう」
『それより、頼んどいたこと』
「ああん?」
『慧音に言ったの?』
「…ああ、あの子供がどうたらな?里の奴らに伝言はしたよ!鈴仙から話は聞いた、お前が助けた子はもうほとんど回復したってさ!」
『そう…ゴホッゴホッ!』
「……霊夢…」
橙がすこし湿った声で呟く。
「んで、お前が病気になってちゃ世話ないだろ!永琳の奴を呼んでこようか?」
『あいつが、呼ばれて、ホイホイ来るような、奴か?』
「なら連れて行ってやるよ!竹林まで」
『はぁ?うつるって、言ってんでしょうが』
「だったら二人揃って治してもらえばいいだろ」
『嫌よ、そんなの』
「なんでだよ」
『…言っとくけど、あんたの想像してる何倍もきついわよ、それに』
「それに?」
『これは、私の仕事のうちよ』
魔理沙はそういわれて、無表情になった。
「…魔理沙?」
橙が、魔理沙の顔を覗き込む。
魔理沙は黙って、懐から八卦炉を取り出した。
「分かった、霊夢」
『………』
「無理矢理連れて行く」
「えっ」
魔理沙は八卦炉を構えると、
「『ナロースパーク』!」
八卦炉から発した青白い光が帯となって襖にぶつかり、光がはじけて部屋中に散った。
橙は棒立ちのまま空気の爆発に押されて、後ろの穴に落ちた。
「うぎゃっ」
ぱぁん!と音がして、襖が開く。
結界の白い光がもやのように控えめに光り、部屋を区切るようにいまだ存在している。
「一発じゃ無理だったか」
「…ゲホッ」
光はすぐに薄くなった。
居間の中央よりやや右寄りに敷かれた布団は、もはや白とは言いがたい色になっていた。
掛け布団ははがれており、布団の上にうずくまるようにしていた霊夢が、じっとりと魔理沙を見上げた。
その顔を見て、魔理沙は息を飲んだ。
「…霊、夢?」
「あんたって、言っても聞かない奴よねえ」
苦笑している、その表情は包帯で隠れてほとんど見えなかった。
包帯からのぞく双眸の左は黄色く濁り、肌は黄色か青黒く変色し、顔の半分くらいはびっしりと、細かいぶつぶつが出来ているようだ。
そして破れた水泡から、黄色かったり赤黒かったりする汁が垂れて、巻いた包帯ににじんで、首筋や襟元を汚していた。手足までも、ところどころ皮膚が破れ、黒っぽいかさぶたのようなものが見えて、肌の色は白を通り越して青くなっている。
「……お、おまえ……」
「自分で、開けて…ゴホッ、ビビってんじゃないわよ、もう」
「霊夢が妖怪になってる…」
穴から上半身を出した橙が、呆然と呟く。
「…とにかく、だ」
「なんて、顔、してんのよ」
「う、うるさい!とにかく、連れて行くからな!」
魔理沙が再び八卦炉を構える。
霊夢は、ため息をついて、片手を上げてそれを制した。
「待って、魔理沙」
「あ?」
「この病気は、一時、体力が回復する時が、来るの。今がそうみたい」
「…動けるってことか?」
「なんとかね、いつも通りとはいかないけど」
霊夢は言うと、よろけつつも立ち上がった。その衣装を見て、魔理沙が眉をしかめた。
「…ああ、さすがに、この格好は、酷いわね。ちょっと着替えるから」
「つーか、巫女装束で寝るなよ」
「着替える、力も無かったのよね。病気って、怖いわね」
魔理沙は背を向けた。橙は魔理沙と霊夢を見比べてから、穴の中に引っこんだ。
魔理沙の背後から、ゆっくりと衣擦れの音がする。
「…ところで、何か、動きはあった?」
「幽香や萃香が気にしてたぜ」
「ああ、ご飯作れなかったし、ね…ゴホッ」
「……ん、それと、例の子供だけど…」
.
「こんにちわ、橙さん」
外に出た橙は、縁側から頭を出したところで声をかけられた。
「あ、天狗さん」
側にしゃがんだ射命丸文に、橙は縁側から這い出して、スカートの前後を交互に払う。
「探検お疲れ様です、で、収穫はありましたか?」
「いつからいたの?」
「え?ええと、ついさっきですよ」
実は最初から見ていた。苦手な鬼がいたので隠れていたのだ。
「それで、中はどうでした?」
「霊夢、いたよ」
「え、本当ですか?病気や怪我ですか?」
こくんと頷く橙。文はふーむと唸って愛用のメモをめくる。
「それで、様子は?」
「酷そうだった。ねえ、写真には撮らないであげて」
「へ?」
その言葉に、文は一瞬呆けたあと、真剣な顔になる。
「そんなにですか」
「よう、天狗」
後ろから声がして、文はムクドリのように無防備に振り返った。
「ぎゃあ!」
「挨拶だねぇ」
伊吹萃香が立っていた。愛用の瓢箪に口をつけて、ぷはーっと酒臭い息を吐く。
「あ、いや、これは失礼しました。驚いたもので」
「だろうねえ。まあ、そんなに嫌いなさんな」
「いえいえ、嫌うなんてそんな…」
文は低姿勢で接しながら、内心汗を垂らしていた。
鬼は本能的に怖いのである。だから、右目のところに青タンがあるのはどうしてですか?とか、気にはなっても軽軽に聞けないのだ。
そんな文に構わず、鬼は何かを考えているような目で、もう一度瓢箪に口をつけて、ぽつりと言う。
「まあ、久々の気晴らしにはなったよ」
「何がでしょうか」
「いや、すまん。たいしたことじゃないさ」
言うと、萃香は橙に聞いた。
「で、どうだったんだい」
「…霊夢、妖怪みたいになってた。魔理沙が、医者に連れて行くって言ってた」
「……そうか」
萃香はひと息つくと、指を広げて、すこし曲げた。
ゴギギッと鉄の塊が擦れ合うような音がして、指がわずかに膨らんだ。
「霊夢は本当に困った奴だねえ」
両手をゆるく垂らして、萃香は縁側に近付くと、右腕を振り上げ、
「ふんっ!」
叩きつける。
バシィン!とすさまじい音がして、雨戸が二つに折れて倒れた。剥がれた半紙が宙を舞う。
しかし結界は健在なようで、空中で青白い網が絡まっているかのように翠香の右手はバチバチと火花を散らし続ける。
だが、委細構わずそのまま肩まで押し込み、ひねる。
ビシッ!、と亀裂の走るような音がして、激しく鳴っていた火花が静かになった。
「…さてっと」
赤く腫れた右手を気にする様子もなく、萃香は縁側に上がる。
「…すごい」
「おお…」
橙と文はそれぞれ感嘆の声を上げた。萃香はふと足を止めた。
彼女の剛腕で雨戸を弾いたはずだが、それがぶつかったはずの、居間の障子戸には傷一つついていない。
「念入りなことだね」
苦笑して、再び右手を持ち上げるが、
「やめなさい、馬鹿」
声がして、障子がスッと開いた。
「霊…」
萃香の目の前で開いた障子戸の向こうにいたのは、彼女の初めて見る霊夢だった。
肩を出さない普通の巫女装束を着ていた。髪は艶が失せ、肌にも、気配にもまるで生気がない。顔中に巻かれた包帯からのぞく醜い病痕は、禍々しさすら感じさせる。
「なに?、ご飯食べたい、なら…よそで、たかりなさいよ」
なのに、その言葉だけは、どうしようもなくいつも通りだ。
「…ひどい顔だな、霊夢」
「はっきり言うんじゃ、ないわよ」
「お医者、行こうよ。あの宇宙人のとこ」
「…触らないで」
萃香の伸ばした手がピクッと止まる。
「自分で、行けるわ」
彼女をかわし、足袋のまま、霊夢は地面に降りた。そのまま平然と歩き出す霊夢に、橙が追いすがる。
「れ、霊夢!」
「…橙」
霊夢は今気付いたというような顔をした。その反応に、橙の顔が歪む。
「つ、連れて行ってもらいなよ。霊夢、危ないんだよ?」
「そうね、言われなくても分かってるわ、あと、ゲホッ…私に触っちゃ駄目よ。うつるかもしれないから」
「霊夢ってば!」
「あ…、部屋、入らないでね。汚いから。後で片付ける、から。翠香、雨戸は、あんたが、直しなさいよね」
かすれた声で、途切れながらも、平然とした様子で喋る霊夢。
その手首を掴むものがいた。
「霊夢」
「……」
よろけた霊夢は、体を捻って、右目で左側の射命丸文を見た。
「なに、取材なら…」
「永遠亭に連れて行きます」
「あんた、新聞記者、が…」
「黙りなさい」
冷徹にも聞こえる口調でそう言うと、文は萃香と橙の方を向いて言った。
「私が一番足が速いです、この困ったちゃんを連れて行きますね」
「勝手な、こと…」
「妖怪は勝手なものよ、だからあなたもそうやって、意地を張っているんでしょう」
「誰が、妖怪、よ」
「病は魔性が憑くこと。あなたは今、妖怪になってるの」
「…何、を…」
霊夢の言葉が途切れた。文は、有無を言わさぬ口調で告げた。
「妖怪になってる間は、巫女の仕事をしなくていいのよ」
「………」
「…ええと、だから、早く人間に戻ってください。さすがに今の霊夢さんは、記事にできませんから」
文は真面目な顔で、少し赤くなりながら言った。
霊夢は、俯いていた。
そして、するりと文の手から逃れた。
「!?」
力を緩めた覚えのない文は驚きの表情を浮かべた。だが、霊夢はキッと文を睨んで言った。
「馬鹿にすんじゃないわよ、誰が妖怪よ、このバカっ天狗!」
「…霊夢さん」
「ゲホッゲホッ!!あのねぇ、私は、私は……」
ふらりと傾き、霊夢が膝をついた。
「霊夢!」
萃香と橙が駆け寄る。文は、じっと霊夢を見ていた。
「……何で妖怪に、心配されなきゃなんないのよ」
がば、と勢いよく立ち上がると、霊夢は素早く印を切って、両手を広げる。
「待ちなさい!」「おい!」
咄嗟に文と萃香が飛び掛るが、指が触れる寸前で霊夢は消えた。
「…くそ!」
霊夢のいた空間を通り過ぎて、萃香は着地しながら舌打ちをした。
「…筋金入りの意地っ張りですね」
空中で止まった文も苦々しげに言う。
「今のは亜空穴か。なあ、あの術はどのくらい移動できるんだ?」
「ええと、理屈の上ではどこにでも行けるけど、実際は距離が開くほど疲れるそうです」
萃香の問いに、文はポシェットに三冊持っているうちの、二番目に古いメモをめくりながら言う。
「そうか、じゃあ近くにいるかな」
「虱潰しもいいですけど、萃香さんの能力ではなんとかなりませんか?」
「うーん、直接引き寄せるのは今の霊夢には危ないしな…心を萃めようか?」
「それで来ますかね?」
「多分無理だぜ」
外れた雨戸から、魔理沙が顔を出す。
「魔理沙、無理って?」
「おーいて、あいつ後ろ頭に陰陽玉ぶつけやがった…いてて」
「大丈夫?」
橙が聞くと、魔理沙はおう、と頷いてから、萃香の問いに答えた。
「今は“空を飛ぶ”能力を全開にしてるはずだ。萃香の“萃める”でもたぶん届かないぜ」
「使えるんですか?あの体調で」
「あいつの能力は、体力は使わないんだよ。霊力を消費してるかどうかも怪しいがな。あとな、死にかけるほど霊力が研ぎ澄まされる種類の人間がいるけど、霊夢はまさにそれだ。術で使う体力を霊力と精度で補えるとしたら、既に結構遠くに行っているかもしれん」
「…やれやれ」
萃香は息を吐くと、瓢箪に口をつけた。
心の端で、なんで私は焦ってるんだ?
苦笑気味に、ちょっと思った。
だが、まあ、理由はすぐに思い浮かぶ。
またあいつと酒を飲みたいのだ。のんきそうな顔を見たいのだ。
その程度の、切実な理由だ。こいつらだってそうじゃないかな。
「でも、行き先は分かってる。先回りしてローラー作戦といこう。あのアホに、『舐めるな』って言ってやろうぜ」
「次は即ふん縛りましょう。まったく、本当に死にかけてるんですか、あの子は」
.
黒谷ヤマメは岩棚の隙間に、自分の糸を布団代わりに広げて寝そべっていた。
何か、予感のようなものがある。
枕元に置いてある、まとまりのない道具の山の中から、銀色の四角い、手のひらに収まる大きさの金属を取り上げた。
「……」
それには、3分の2くらいの位置に切れ込みが入っている。その切れ込みに爪を入れると、蓋が開き、中の管のような形の部分に、ひとりでに火が灯る。
ランプと似たような仕組みじゃないかと彼女は推察しているが、それをここまで小さくするのはすごいと思う。
あの手先が器用だがやかましい河童共だって、これには驚くのではないだろうか。
「………?」
離れた場所で、何か聞こえたような気がした。
獲物の気配に反応したアシダカグモのように、瞬時にヤマメは寝床を飛び出し、するすると天井近くまで壁を登った。
闇の中から、あー、という悲鳴というには可愛らしい声をあげて、がっこんがっこんと、ゆるい坂道になった岩場を桶が転がってきた。
それはヤマメの眼下を通り過ぎ、岩に跳ね返って、別の岩の隙間に収まるようにして止まった。
桶の中で目を回しているのは、彼女の友達である。
「新しい遊びかい?キスメ」
びしゃっ、と、濡れた布が地面を叩くような音がした。
目線を向けると、キスメが転がってきた洞窟の暗がりの中から、誰かが歩いてくる。
「……」
目を細め、睨むようにしてキスメはその人影を見つめた。
どうやら、予感の相手で正しかったようだ。
「…あはは!いい感じになってるじゃない」
「お陰様、でね」
紅白の巫女は、ヤマメを見据えながら答えた。
「あの病気はちょっと広がりにくいと思ったんだけどな、運が悪かったね、巫女さん」
「そう、みたいね」
「それで、何か御用?」
白々しい笑みを浮かべて土蜘蛛は聞いた。
だが、霊夢の濁った左目はうつろなままで、右目は、ヤマメが期待したような激情のたぐいを映すことは無かった。
「確かめたい、ことが、あるのよ」
「…確かめたい、って?」
予感とは違う流れになった。
ヤマメは、相手の思惑を計りかねて、つい素直な口調になってしまう。
「あんた、里の子供と遊んでたんでしょ?」
ヤマメは目を見開く。
「もちろん、こないだ病気にした子とは、違う子。ゲホッ…魔理沙が、その子から聞き出してきたわ」
「……」
「言葉が、うまく喋れなくて、のけ者にされたり、いじめ、られたり…してた、らし…け、ど」
いいさして、霊夢はよろけ、壁にもたれて何度も咳き込んだ。
ヤマメは、その背中を見下ろしながら、しばらく、何かを考えるように黙っていた。
「……そういう事はあんまり言わなかったね、あの子は」
ぽつり、ぽつりと、思い出しながらヤマメは言った。
「突然ふらっと洞窟に入ってきてさ、気まぐれに遊びに誘ったら、ぜんぜん警戒せずに乗ってきてさ」
「…っふぅ、はぁ…」
「こいつ死にたいのかなって思ったけど、まあ、お腹減ってなかったしね」
「…そう」
「それで、ちょっと遊んでやったら、何日かしてまた来るしね。ここへの途中だって安全じゃないだろうに、本当に死にたいんじゃないかと思ってた」
「そう、ゲホッ!」
「あらら、大丈夫?」
「続けなさいよ、全部、教えなさい」
「…まあいいや。とりあえず、食べたくなるか、あの子が死にたい、って言ったら食おうと思って相手してた」
ずっと他の子の遊ぶ姿を見ていたらしく、遊び自体は色々知ってたんだよ。
それが面白かったから、教えてもらったりさ。そこに転がっているキスメも、その子の事が気に入ったみたいでさ。脅かし甲斐があるって喜んでた。毎回同じ手でキスメが脅かすんだけど、そうそう、つるべ落とし。毎回すごいびっくりするんだよねえ。学ばないのかなって最初は思ってた。
でもあの子、うまく喋れなくても、結構賢いみたいなんだよね。妖怪から隠れるためのおまじないとか知ってるみたいだったし、お守りも持ってたよ。それが分かったのは、最後のあたりになってからだけど。
でも、そうだね。一月、は経ってないかな?わかんないや。そのくらい前からぱったり来なくなったんだよね。
うん、それでおしまい。
まあ、こんなもんかな、って感じ?
「…そう」
霊夢は、相槌を打ちながら聞いていた。壁によりかかって、細い呼吸を丁寧に、強いてゆっくりとするようにしながら。
「それでこの間、知らない子供らが何匹か私のところに来てさあ」
ヤマメは、巣を気分で変える。古くなった糸は処分しないといけないし、その張替えの時に、面倒ならコンパクトに、気分がいい時は大々的に巣を広げ、他の妖怪に嫌がられたりする。
糸を出してすーっと床面まで降りると、ヤマメは銀色の四角い金属を見せた。
「これで、巣に火を点けようとしたんだよ。これと、あと油の壷も持ってたな。壷は油が欲しいって言う奴にあげちゃったけど」
「……そう」
「うん。妖怪退治の積もりだったんじゃないかなあ。で、これは殺してくれってことだなと思って、そうしようと思ったら、あんたに邪魔されたってわけ」
ヤマメが語り終えると、霊夢はよろけながら、顔を上げた。
「…大体分かったわ」
ゆっくりと、壁に手をついて、懐から札を取り出す。
「1枚」
霊夢が差し出したのは、スペルカードだ。
「…いいの?」
「何が」
「戦わなくて」
「戦う、わよ。だから出してんでしょうが」
「いやいや、そうじゃなくて、私を殺したり殺されたり」
「殺されはないけど、とりあえず、あの子も死んでないし、依頼も受けてないし、今殺す理由がないじゃない」
「……苦しくないのかい?」
ヤマメは銀色の金属器を仕舞い、霊夢に聞いた。
「苦しい、すっごく」
「痛くて辛いだろう?そういう病気なんだから」
「そうね。だからぶっとばす」
「治してから来ようとか思わないもんなの?バカなの?」
「嫌なのよ」
霊夢は、ぎりっと音がするほど歯を噛んだ。そして、震える声で続けた。
「私は、私の仕事の始末がつかないのが、我慢できない。博麗として、どんな結末であれ、オチが必要なの」
「…よくわかんないけど、まあいいや」
ヤマメは、カードを取り出す。
「3枚。分かってるだろうけど、加減はしないよ?」
「ええ」
30秒でヤマメは負けた。
◇
「お疲れ様」
飛ぶと、危ないのだ。
楽ではあるが、今は向かい風すらが苦しい。おまけに目がかすんでいるので、岩や木にぶつかると即ゲームオーバーである。
しかし、余裕がないため飛んでいた霊夢は、眼前に現れた妖怪をよけそこねるところだった。
「うわっ!」
「きゃ」
かろうじて激突を回避した霊夢は、なんとか制動をかけて向き直る。
「今は、あんたの相手を、している、暇は、ない、けど、…さとり」
「とっても酷い有様ですからね」
覚りの妖怪少女は、スカートの裾をつまんで丁寧にお辞儀をすると、陰のある両目と、赤い第三の瞳を霊夢に向けながら言った。
「土蜘蛛から、子供がよく紛れ込むけど、どうしたものかな?と相談を受けていたのですけど、解決しましたか」
「さあ、したんじゃ、ない?」
古明地さとりは、赤い瞳を抱えて、顔の両目を閉じると、
「…なるほど、確かに一件落着はしたのでしょうけど、すごいわね」
「…あ?」
「それほどの状態で、まともな意識を保っているとは」
霊夢は、さとりを無視することに決めて、ふと、ぐらっと体から浮力が失せた。
「きゃあ!」
声を上げて、倒れ掛かってきた霊夢をさとりが咄嗟に受け止める。体力どころか、精神力すら切れかけだ。
「あらまあ、大丈夫ですかというのも馬鹿らしいほどですね」
「悪かったわ、帰ったら、服も体もよく、洗って…」
「地下の妖怪に、こんな人間向けの病気に罹患するようなものはいませんよ、ご自分の心配をなさい」
「…うるさい」
さとりは、すっと目をすがめて、微笑を浮かべた。
「……なるほど、妖怪がきらいなのね」
「そうよ」
「おっと、すいません、嘘をついてしまいました」
そして笑みを深くする。
「妖怪に自分を委ねることがきらいなのね」
「…誰、だって…」
「助けられることも嫌、恵まれることも嫌、愛されることも…」
「だまれ」
霊夢はさとりを突き飛ばすと、自力で浮遊する。
「…心のたがが随分甘くなっていますね。まあ、無理もありませんけど」
「…ぐぅっ、ゴホッ!?」
口元を押さえて咳き込み、傾いた霊夢は、あっという間に、再び抱きとめられた。
「ガッ…ガボッ!!」
びしゃっ、と。
霊夢が吐いた血を浴びて、抱えるさとりは眉一つ動かさなかった。
「……こごろが…」
「…」
霊夢は、抱きすくめた手を拒む力も、もはやなく、唯一動く瞳でさとりを睨みつけて、いがらっぽい声で言った。
「心が、読めたって、分からないことが、あるわ」
「…それは興味深いですね」
言葉通りに、興味を秘めた目でさとりは霊夢を見つめる。それには、貴重なものを咀嚼する喜びも秘められていた。
「あいつらが、いけないのよ」
「妖怪は悪ですからね」
「あたしは、いつか、あいつらを殺さなきゃいけないかもしんないのよ」
「巫女ですからね」
「なんでなついてくんのよ、馴れ馴れしくしてくんのよ。ばっかみたいよ」
「そうですね」
「どれだけ喧嘩しないように、宴会してたって、明日、どうなるかなんて、…わかんないのよっ、私には…」
「誰にも分かりませんよね」
「違う、わよ。そうじゃ…ない」
さとりは笑みを深くした。それは、ペット達をいとおしむ時のそれに似ている。
「あなたには、執着がないから?愛することが、分からないから?」
「分かんないわよ!」
霊夢は血を吐くように言った。
「あいつらが、何をして欲しいのかなんて、わがんないわよ!私は、自分の命すらこのざまよ!欲しいものがないやつに、あいつらのことなんて、分かるわけ、な…、じゃ、ない………の…」
「それでも、あなたは、どうしたいの?…いいえ、それは決まっているのね」
「…わ……た………は…」
血のついてない方の袖で、さとりは霊夢の口元を拭った。
「かわいそうに。死にたいほど、苦しいのですか?」
「……」
まったく力の入ってない手が、さとりの手を払う動きをした。
さとりは、あえて逆らわない。
「行く、わ」
「…どこへ?」
「……」
もはや、意識をほとんど感じられない。
さとりは、静かに第三の目をしまう。霊夢は、浮きながら気絶しているに等しかった。
「…ちょいまち」
その霊夢を、違う妖怪が受け止めた。ボロボロにほつれた服の胸に、霊夢がおさまる。
「黒谷ヤマメ」
さとりが、名前を呼ぶ。ヤマメはさとりに聞いた。
「心の味はどうだった?」
「ええ」
さとりは実に性格の悪そうな笑顔を浮かべ、それを見てヤマメは眉をしかめた。
「…堪能したみたいだね」
「さすがに瀕死だから、催眠にかかりやすかったです」
「じゃ、私も」
霊夢の顔の包帯をひと息にとっぱらうと、ヤマメは口を霊夢の顔に寄せた。
ふと、霊夢の片目がじっと見つめている。もう、視力もろくにないはずだが、ヤマメは渋そうな顔をして、言い訳がましくいった。
「……ちょっとだけだし、勘弁して」
あぐ、と口を開けると、霊夢の顔にびっしりと生え、ところどころが破れた水泡に歯を立てた。
左目の横のあたりに口をつけて、引き抜くように顎を動かす。
ぱりぱり、と、乾いた落ち葉が割れるような音がして、まるで割れやすいパイ生地のごとく、ぶつぶつの付いた皮膚がまるごと剥がれて取れた。
「…あぐ、むぐ、……うお、なにこれ」
その皮膚をずるずると口の中に飲み込み、咀嚼しながら、ヤマメが驚いた声で言う。
「美味でしたか」
「ん、すっごい」
霊夢は、顔の大半の皮膚が剥ぎとられた。剥がれた部位には、すでにサーモンピンクをした薄い皮膚が生まれている。
「…優しいのね、てっきり頭から、まるごといくかと思いましたが」
「そしたら困ったことにならない?あなたは」
「ええ、きっと」
さとりは答えると、霊夢を見た。
襟元にも見えていたはずの水疱が失せている。肌はいまだ紙のように白いが、先ほどまでの病痕は魔法のように、嘘のように消えてなくなっていた。
「まあ、これで貸し借りなし?」
「…治すのもできるのね」
「病気を吸い取るだけなら完璧に」
特別、こだわりのない表情で言う。
「怪我も、病の気が付いているところはちょこっと治せる。こっちの免疫を足して再生をうながしたり、唾液に糸を混ぜて皮ふの代わりにしたり」
手で霊夢の体のあちこちを、なにかを確かめるように触りながら、ヤマメは言う。
「これは私の病気だし、治すのは楽勝、でも体力までは戻せないよ。……これ、どうしよう」
抱えた霊夢を見て、困った顔をするヤマメ。
「置いていけばいいでしょう」
「ここに?」
さとりは頷いた。周りを見渡して、
「たぶん、私に会いたくない方が来ていますから」
「?」
「それでは、私はこれで。たまに出かけると、いいことがあるものね」
相変わらず暗い瞳で微笑むと、さとりは後ろ向きで飛びながら、洞窟の奥に消えていった。
「おい、さとり?」
ヤマメが呼びかけるその横で、急激に空気が集まっていく。
そして、集まったもやがあっという間に鬼のかたちになった。
「………」
ヤマメは硬直した。藪でいきなり虎と出会った兎は、きっとこんな気分になる。
彼女よりも小さなその鬼は、圧倒的な存在感だけでヤマメの心を萎縮させる。
「それ」
鬼は、ヤマメの腕の中の人間を指差して言った。顔は苦笑しているが、目がびっくりするくらい笑ってない。
「貰っていっても、いいかな?」
「はい」
ヤマメは素直に霊夢を差し出した。それを肩に抱えると、
「んじゃ、邪魔したね」
子鬼は背中を向けた。
ヤマメは呆然としながら、霊夢を抱えて去っていく鬼に何故か手を振っていた。
◇
結局、霊夢が永遠亭から脱出するまでに一週間がかかった。
3日ほど寝た後で目が覚めて、外傷の手当てはすでに終わっていたのだが、病気の元である「うぃるす」が消えてなくなったことに永琳は興味を覚えたらしく、霊夢に様々な検査をしたがった。
一方の霊夢は検査も注射も嫌がり、度々脱出を試みては兎の群れや気まぐれなお姫様、ナースの格好をした鈴仙に阻まれて、体力の回復が遅れに遅れた。
お見舞いには誰もこなかった。それを意外だと思うことを、案外すんなりと受け入れた自分が霊夢には意外だった。
あの時、さとりに何を語ったのか、霊夢はよく覚えていない。
多分、知らない方がいいと、なんとなく思う。知れば、恥ずかしさで死んでしまう気がする
退亭許可が出て神社に戻ると、霊夢は愕然とした。
博麗神社が半壊していた。マスタースパークで撃ちぬいた感じの有様だったので、通りかかった花の妖怪を捕まえて聞くと、「結界がまだ残っててちょっとイラっとしたし、部屋がすごく汚らわしかったから消毒してあげたのよ。あ、漬物は無事だから安心なさい。感謝もなさいな」と供述したので、霊夢は幽香の、右ほっぺたにあざの痕がある顔に陰陽玉フィンガーを叩き込んだ。事情聴取はその場で殴り合いに発展した。
霊夢は僅差で敗れた。
それが三日前のことだ。
「…ふぁ」
欠伸をしながら、霊夢は神社の縁側で、ぐい飲みを傾けている。
神社の建て直しを里の大工に依頼しに行って、里の守護者である上白沢慧音から、色々と話を聞いた。
霊夢が寝込んでしばらくした頃に「子供は無事だ」と伝言に来る輩(主に妖怪)がやたら多く、すわ大量誘拐事件か、と騒ぎになったこと。(霊夢は「変なこともあるものね」とコメントしておいた)
ヤマメと遊んでいた子を、霊夢が助けた子が中心となって苛めていたこと。
いじめっ子が、最近妙に機嫌がいい、そのいじめられっこから無理矢理ヤマメの事を聞きだしたこと。
たまたま手に入れた(無縁塚まで行ったのか?ここはよく分からない)道具を試す意味を兼ねて、妖怪退治に行ったこと。
後の顛末は、大体知ってのとおりだと、慧音はため息混じりに言っていた。
『私の教育が悪かったと言われれば言葉もない、すまん』
ばっかじゃないの、と霊夢は思った。
人間とは、そういうもんだ。自分の限界が、何かにぶつかるまで分からない人間は、確かにいるのだ。
そして限界を知る代償に、命を支払ってしまう人間もいる。
それを何かのせいだと言うことも、もちろんできる。だが、霊夢はそのいじめっ子を笑えない。
「私は…」
言いさして、やめた。独り言にしても、それを認めるのは恥ずかしすぎた。
「よう、霊夢」
屋根の上から、子鬼が顔を出した。彼女は軒をつかんでくるりと身を翻し、縁側に落ちるように腰掛けた。
床板がぎしっと鳴る。
「萃香」
彼女は、霊夢から一人と半人前ぶんくらいの距離を置いて腰掛けている。
「神社を直したのは、あんたなの?」
幽香と殴りあった後で、里に行っている間に、壊れた神社に柱や梁が渡されていたのだった。その後も、霊夢が留守にするたびに神社が直っていっていたのだが、萃香と顔を合わせるのは、永遠亭から帰ってから、これが初めてだ。
「…それは、聞かぬが華ってことにしといてよ」
そっけない態度で言うが、照れてるみたいだな、と霊夢は思った。だが、それとは少し違う気もする。なんだか、落ち込んでいるような。
萃香が落ち込むなんて馬鹿らしいと思った。その意見に、しかし全面的に賛成できない自分もいる。
「いいの?」
「紫にも頼まれてるしね、壊れたら直して頂戴って」
目を合わせないで言う萃香。
霊夢は腰を上げると、下ろしたての畳を踏みながら、台所の方に向かう。
萃香は、腰の瓢箪を口に当てた。
「………へんな感じ」
誰だろうと無遠慮に接するのが萃香だった。それは鬼だからでもあるし、彼女だからでもある。
それなのに、今まで霊夢の顔を見る踏ん切りがつかなかったのは、一体どうしたことだろう。
「ふう」
酒精が喉から体に行き渡る感覚は、幾度繰り返しても飽きることがない。
しかし、その爽快さも、今はなんとなく濁っている。
(拒まれて、ひどい顔してたくせに)
あの花女の言葉を思い起こし、萃香は苦笑する。
まさか、そういうことじゃないだろうね?
足音がして、霊夢が丸い酒瓶を持って戻ってきた。
その手には杯もある。
「はい」
「え」
杯を差し出す霊夢に、萃香は思わず、杯と霊夢の顔を見比べた。
「取っておいた、いいお酒があるの。飲むでしょ?」
「あ、うん」
霊夢は萃香の隣に腰を降ろし、丸い瓶の蓋を外す。
「はい」
差し出された瓶の口を、萃香は黙って杯で受けた。
少し白く濁った酒がなみなみと溜まり、それを彼女はひと息に飲み干した。
「…うまいね」
「でしょ」
霊夢は酒瓶を置いて、自分のぐい飲みを差し出した。
「頂戴」
「…うん」
「違う、あんたの」
霊夢が置いた酒を手に取ろうとした萃香に言う。
萃香はちょっと固まってから、自分の瓢箪を取る。
「……いいのかい?これ、強いよ」
「うん、頂戴」
萃香が注いだ酒を、霊夢もひと息で飲み干した。
そのままの姿勢で、しばらく固まったあとで、
「ぶはぁっ」
熱い息を吐いた。既に、顔がちょっと赤くなっていた。
「…霊夢、病み上がりなんだろう?」
「いいのよ、もう大丈夫」
霊夢は、萃香の杯に酒を注ぎながら、
「ごめん」
と言った。
「え?」
萃香が聞き返すと、霊夢はその酒を自分の杯にも注いで、ゆっくり飲み干した。
「…うん、こっちもいい酒ね」
「…」
萃香は、その霊夢の横顔を見つめて、
「…うん、良かったよ」
と笑った。
「そう」
「うん、またこうして酒が飲めて、何よりさ」
霊夢は何もいわなかった。ただ、その萃香の瞳を見返して、小さく頷いた。
魔理沙は、庭の真ん中に下りると、箒から降りて二人の方へと向かった。
「なんだ、もう始めてやがるのか」
「おう、始めてるよ」
萃香が返事をし、霊夢はほんのり赤くなった顔で聞き返す。
「もう始めてるって?」
「馬っ鹿、お前の快復祝いに決まってるだろう。夕方から、みんな来るんだぞ?」
「なにそれ」
「萃香、まだ言ってなかったのか?」
そう魔理沙が言うと、萃香はしまったという顔をした。
「忘れてたよ」
「おいおい、宴会だってのにお前がそんなことでどうする」
言いつつ、魔理沙は箒から下げた袋の中身を霊夢に見せた。
「何コレ」
「キノコシチューの材料だよ。絶品だぜ」
「あ、私はいいです」
霊夢が手を振ると、魔理沙は不機嫌になって言う。
「馬鹿野郎、私のキノコシチューは健康増進に多大なる効力を発揮し、なおかつ美味いんだぞ?人体実験もアリスで終わってる」
「じゃあ今日はアリス抜きか。料理が厳しいわね」
「このやろう」
言い合っていると、バサバサと黒い翼が降りてきた。
「やや、こんにちわ霊夢さん!お元気になられたようで何よりです!」
文がいつもの営業スマイルで言うが、ふと固まった。
霊夢が、じっと文を見ている。
「…霊夢さん?」
不思議そうに小首をかしげた文に、
「心配かけたわね。もう大丈夫だから」
霊夢はそう言うと、目を伏せて、自分のぐい飲みにちびっと口をつける。
そんな霊夢を見て、文は目を丸くしていた。魔理沙は珍しいものを見る目を霊夢に向けて、萃香は笑いながら、手酌で杯を干す。
「…え、ええっと…私ももう持ってきますね!イノシシ肉のいいのがあるんで!」
来たばかりなのにいつもの無駄口も叩かず去っていく文。ひるがえした耳たぶが赤かったのは気のせいではなかろう。
「…なあ、霊夢」
にやにやして文を見送りながら、魔理沙は言う。
「何?」
「私にも一言ないのか?」
霊夢は、魔理沙を見てから言う。
「馬鹿」
「ちょっ!?」
「あんた、病気がうつっててもおかしくなかったんだからね。あと床板は萃香が直したみたいだから、一言言っときなさいよ」
「お前、それはないんじゃないか?」
力が抜けた声でそう言った後、魔理沙は見るからに途方にくれた顔で萃香に、悪かったな、と言った。
萃香は魔理沙に、お酒注いでくれたら許すよ、と杯を差し出した。
霊夢はそれを笑いながら見ていた。
きっと、今夜は長い夜になるだろう、と思った。
洞窟の中に、ちいさな足音が続いて、近付いてきた。
蝋燭だけが照らす薄闇の中で、声がした。
「やあ、ひさしぶり」
「……」
「なんで泣くんだい?怖くなったのかい?」
「………」
「…ああ、いやだな、怒ってなんかいるはずないだろう?」
「…」
「本当さ、妖怪は人間ほど嘘をつかないんだよ」
「………」
「うん?見ての通り平気だよ。巫女なんかに、負けたりしないさ」
「……」
「君が来たいと思えば、いつでも来るといいよ。他の妖怪には、食べられないようにね」
「……」
「あ、そうだ。地上でこれからお祭り騒ぎがあるんだって。一緒にいかないか?」
「……」
「ん?」
「……」
「…ああ、強くなっておくれ。そうしたら、もっと長く遊べるかもしれないからね。…さ、行こうか。キスメには会ったのかな?うん、じゃあ、誘いに行こうか、一緒にね」
一つの足音が二つになり、ゆっくり去っていく。
消し忘れた蝋燭の灯を、四角い銀色のジッポーがひそやかに映していた。
(了)
さとりの「おっと、すいません、嘘をついてしまいました」にはニヤリとさせられてしまいました。
シリアスな展開の割りにキャラクターがさっぱりしていて、妙なリアルさと東方らしさがミスマッチしてて面白かったです。
弾幕ごっこが妖怪退治と人間の営みに関してどういう位置にあるのかも、垣間見れた気がします。
後半から名前の誤字が。
×翠香 → ○萃香
妖怪退治は本当に命懸けですね。
結果的にヤマメとさとりさまのおかげで霊夢も妖怪に対して少し素直になれるようになったのかな
こう、光だけじゃなく闇を表現している感じ、お見事です
まさに幻想郷
ご指摘、ありがとうございました。萃香さんはメモ帳が覚えてくれないので鬼門です。鬼だけに。
でも、1番ぐっときたのはヤマメさん。一枚十秒はどうとらえるべきやら。
霊夢の動きがキレてたのか、そんな霊夢を見て無意識に加減したのか、もしくはその両方か。
題名が長い夜な理由が分からなかったが、霊夢が毒に着々と犯されていくその期間を「長い夜」として描いているんだったら納得もいく。
久しぶりに読んでて楽しいSSでした
ヤマメもいいね
上質エンターテイメント。
霊夢さん愛しい。
この頑固な霊夢が好きです。
けど、この霊夢はあれくらい周囲が構ってやるから、丁度良いんだろうなぁ。
巫女の仕事に真面目な霊夢が、いい仕事をしただけですが
ラストの、きっと物凄く長い夜になる、というのがストンと腑に落ちました。
そりゃ長くなる。
話の後にワクワクさせられて、とても良い読後感でした。
弾幕ごっこ以外の幻想郷のアレコレが見れて良かった
殺伐としてるけど基本住民が適当に生きてるおかげでこの雰囲気が成り立ってるんだなあ
霊夢の周りの人妖も素敵でした
良かったです
……アリス(笑)
この事件の解決で、妖怪に対しても丸くなれたのかな?
面白かったです。