夏の全盛期は秋の兆しと共に折り返しを迎え、今では蝉の鳴き声だけが微かに響いている。
魔法の森は常緑多年草によって年中緑色に覆われるが、時折風によって運ばれて来る落ち葉は、その季節の移り変わりを確かなものだと確認させてくれた。
もう一月でもすれば妖怪の山は真っ赤に染まり、見る者に賛美の言葉を吐露させるだろう。尤も、妖怪の山で紅葉を楽しめるのは天狗くらいだが。
何はともあれ、そんな涼しげな風が吹き抜ける夜の刻、僕は香霖堂の閉店準備をしていた。
今日も相変わらず客は来なかったが、その分読者という世界に一日中没頭することができた。もうじき秋もやって来るし、読者の秋と言うやつである。
そして、もう一つの有名な秋と言えば、食欲の秋。
炊きたての新米、収穫したての里芋、産卵の役目を終えた落ち鮎、森林の味覚である茸。
こう言った旬な食材は夏バテ気味だった僕の身体もあっという間に調子を取り戻すだろう。
「しかし……」
目の前にある先程述べた食材の数々。厨房の机を埋め尽くさんとするその量は、明らかに一人分という分量を超えていた。
何故このようなことになったのか。それは人里で日用品の買い物がてら、霧雨の親父さんに会いに行った時の事だった。
「――そういや霖之助、お前少し痩せたか?」
今までの会話の流れを切り、霧雨の親父さんは一通り僕の身体を見回してそう尋ねてきた。
久々に顔を見せに来たが親父さんは相変わらず元気に店をやっていた。親子共々、ここまで変わらない人というのも珍しいと思う。
「そうですか? そんなことはないと思いますが……」
「どうせ飯のことなんざすっかり忘れて道具ばっかり弄ってんだろ?」
図星である。修行時代にもそんなことがあって色々と叱られたっけな。
しかし僕は人間と妖怪と妖怪のハーフである。生命維持の為の食事は殆ど不必要なのだ。
「……まあ、道具屋ですし。それに僕は半妖ですから――」
「だーから、そんな事言ってるからひょろひょろなんだよ。ちょっと待ってろ」
そう言って親父さんは店の奥に引っ込んでいった。
食べても変わらないと思うけどなぁ、と思わず苦笑する。
でも、こういう親父さんの気遣いは何時になっても変わらない。そのことを嬉しく感じる僕がいるのも確かなのだ。
「ほんと、変わらない人だよなぁ」
――後に山ほど食材を入った紙袋を抱えた親父さんが戻って来るのだが、無論僕はまだ知る由もなく。
さて、そんなこんなで(半ば強引に)貰ったこの食材。どんな料理を作ろうか、その調理法を考えていた時だった。
――ガン、ガタガタン!
外で何かがぶつかった音、次いで物が落ちた音が、僕の頭に浮かべていた献立表を散らしていく。
「…………」
嫌な予感がする。
無視してもいいのだが、ぶつかったのは間違いなく家の入り口辺りだ。そして、その後に聞こえた落下音も非常に気掛かりである。
ああもう。何でこう毎回。
溜め息を吐きつつ、入り口のドアを開ける。カランカランと鳴るカウベルが、僕を慰めているような気がした。
「……ん?」
ドアを開け、その光景に思わず眉を寄せる。
というのも、『何も見えない』のだ。時刻は夜とは言え、外の森や玄関の光景が完全に見えないというのは明らかにおかしい。
一歩先すら見通せない闇夜の空間。どうしようかと思う矢先、前方から少女らしき唸り声が聞こえてきた。
「うーっ、重いよぅ」
「誰かいるのかい?」
「ん、誰ー? 誰かいるならさっさと私を助けてよー」
助けを求める側なのに随分な言い様だ。
「助ける助けない以前に、まず君の姿が見えない。それどころか、周囲の状況把握すらできない。よって僕はどうすることもできない」
「しょーがないわね、今見えるようにするわー」
「……見るように……?」
疑問を抱くより早く、自分の手足すら見えない漆黒の空間に僅かな光が射し込んだ。
その光は次第に暗闇を押しやり、僕の視界を日常のものへと戻していく。
微かにざわめく森の影。僕の店から届くランプの光。
そして、目前に映るある光景。
「これなら見えるでしょ? 早く助けてよー」
その光景とは、大きな木板に下敷きにされた少女という、なんとも珍妙なものであった。
「……非常に不本意ながら、僕は君を助けざるを得ないようだ」
その理由は一つ。それはその少女を下敷きにしている木板である。
『香霖堂』と大きく書かれたそれは、紛れもなく僕の店の看板だった。
「さて、状況を整理しようか。僕は森近霖之助。この店、香霖堂を営む者だ。君は?」
「私? 私はルーミアって名前よ」
「ふむ、ではルーミア、君がああなった経緯を教えてくれるかな?」
「えー面倒くさーい」
それはこちらの台詞である。
全く、看板を元に戻すのも楽じゃないというのに。
「質問を変えよう。先程のあの真っ暗な空間は君の能力によるものかい?」
「そーよ。日の光が届かないよう大抵さっきみたいな感じにして飛んでるわー。そしてさっきみたいな感じでぶつかったり」
「……は? もしかしてあの空間では君も何も見えてないのかい?」
「当たり前じゃない、光も届かないようにしてるんだから。光がないなら目が見える訳ないわー。でもそれも闇の風物詩」
なんともまあ、不便というか抜けてるというか……。
つまり、彼女は何時ものように盲目の状態で飛び回り、今回闇の風物詩とやらで店の看板と激突した訳か。
実に傍迷惑である。とんだ厄介な者が来てしまったものだ、こういう輩はさっさと帰してしまうに限る。
「まあ兎に角、次からは気を付けることだ。分かったら自分の家に帰ってくれ」
「はーい」
彼女、ルーミアがくるり背を向けた。
ああ、ようやく邪魔者もなく旬な食材に舌鼓を打てる。早く調理に取り掛かろう。
そう思っていた時、不意にルーミアが再び僕へと体の向きを変えてきた。
「あ、ところで――」
「? なんだい?」
「この辺で食べられる人類っている?」
「……何?」
「だから、食べられる人類」
まるで道を尋ねるような気軽さで、ルーミアはそう尋ねてきた。
別に妖怪が人間を食べることは珍しいことではない。物理的に腹は膨れるし、何より妖怪の本質である恐れを大量に得られる。
しかし、ここら辺でそんな物騒な事をされる訳にはいかない。
「残念ながらこの辺りに人間は殆ど通らない。他を当ってくれ」
「んー、そう? 探せばいないかなぁ?」
秋になる時期だというのに僕の額には汗が浮かぶ。
人里から香霖堂へ続くたったの一つの道。その辺りで仮に犠牲者でも出たりすれば、僅かながらいた里からの来客者は確実に潰えることだろう。それだけは避けたい。
それならばどうするべきか。答えは思いの外、直ぐに導き出せた。
「……君はお腹が空いてるのだろう?」
「ん? あなたを食べていいってこと?」
「どうしてそうなる、全力でお断りだ。そういう訳ではない、此処で普通の食事していけ、ということだよ」
幸い、元々一人では有り余る量を抱え込んでいるのだ。保存の効かないのもあるし、妥当な策だろう。
「良く分からないけど、ご飯食べさせてくれるの?」
ぱぁっとルーミアの顔が明るくなる。
「ただし、お腹が膨れたらここらで人間を食さないこと。これが条件だ」
「うんうん、わかったー」
どうやら特に積極的に恐れを得たいという訳ではないらしい。少し安心した。
「ではそこに座って待っててくれ。間違っても店の商品を壊さないように」
「? 商品ってどれ? このガラクタ?」
「……とにかくそこに座っててくれ」
材料を用意し、僕は再びメニューの再構築をする。
面倒だが少々手間を掛けなければなるまい。腕を捲り、早速と僕は再び厨へと入って行った。
「ほら、出来たから居間に来なさい」
「わぁーおいしそー」
居間の机には霧雨の親父さんから貰った食材を使った料理達が並ぶ。
そしてその並べられた料理を嬉々として眺めるルーミア。掴みはまずまずといったところか。
「食べていい?」
「ああ、いいよ」
どこで覚えたのか、ご丁寧に「いただきまーす」とルーミアは合掌してから、目前の茸の炊き込みご飯を頬張った。
ちなみに彼女はこれまたどこで覚えたのか、ちゃんと箸を使って食事をこなしている。野良の妖怪にしては珍しい。
「んーおいひー!」
「口に物を入れて喋らないように」
「ふぁーい」
分かっているのかいないのか……。
とりあえずと、僕も「頂きます」と合掌してから里芋の煮転がしを口に運ぶ。もちもちとした里芋の食感に、醤油と砂糖、めんつゆで味付けした甘塩っぱさがなかなかいい塩梅だ。及第点。
次いで落ち鮎の塩焼き。此方は特に薬味は入れずに素材本来の味を楽しむ。産卵で脂を乗せた身は頭から尻尾まで余すとこなく堪能でき、卵の食感もまた美味。深夜はうるかを調理して日本酒を用意しよう。
そしてルーミアも食べた茸の炊き込みご飯を一口。魔法の森でも特に香りと味のよい茸に、収穫したての新米、味付けの酒と薄口の醤油も手伝い、噛む度に食材の味わいが僕の舌を刺激する。美味い。
ちらとルーミアを見てみる。口いっぱいに頬張るその姿は、その幼い容姿と合わさり非常に微笑ましかった。
「どうだい? 少しはお気に召したかな?」
「んぐ、むぐ……。うん、貴方ってこんなおいしいもの作れるのね」
「一人で暮らしてればそれなりにね。食材の要因もあるだろうけど」
自分の作った物に満足して貰えるのは嬉しく感じるものだ。勿体それは料理だけに囚われず、八卦炉だったりお祓い棒だったりもする。
改めて、僕が道具屋を営んでいる理由を実感させられた。ただそっちは副業かつほぼ無報酬だけど。
「むぐむぐ。この料理の仕方ってあなたが考えたの?」
「違うよ、調理法は全て昔のヒトが考案したものだ」
「ふーん、凄いのねぇ」
「そう、先人の遺した知識というのは本当に偉大なんだ。だがね――」
きょとんとしているルーミアに、僕はやや力を込めて説明を始めた。
「その料理を考えたのは他でもない、君が食べようとしている人間達なんだよ」
「へーそーなのかー」
「そうだ。人間の食に対する情熱は時として賢者の頭脳すらも凌駕する」
美食という言葉は美しい食事、つまり美味しい食事と書く。
尤もこの言葉に具体性はあまりなく、これには個人の感性が深く関与している。
何故なら味の感じ方は人によって様々であり、どんなものを美食として感じるかはその人次第だからだ。
高価な食材を使った料理を食べるのも勿論美食と言うだろうし、或いは健康面を重視した食事だって美食に有り得る。
そしてそんな未だ見ぬ食を求め、自分の舌を満足させる為に労力を惜しまない人間達。それが美食家である。
美食家の歴史は驚くことに太古の時代にまで遡る。まだヒト、つまり人間という種が存在するようになったばかりの時代にも美食家は存在していた。
その頃食べられていたのは狩りで獲得した獣の生肉だったという。石器等を使い始めてまだ間もない時代である。
この時代に、火を使って肉を焼いて食べたという文献がある。とある人間が火を使い、味が生肉より優れていることに気が付いたのだ。
これが全ての美食の祖であり、飽くなき探求への第一歩であると言えよう。
その後人間の食文化は更に進化していった。土器を使っての調理、稲作の発展、新しい食材。
時には発酵という神の力見付けたり、腹を膨らますという意味でなら全く必要でない調味料も生み出した。
食は常に人間と共にあり、逆もまた然り。その永い歴史の積み重ねが此処にあり、僕と彼女の舌と腹を満たしてくれるのだ。
「えーとつまり」
「うん」
出来るだけ分かりやすいよう、ある程度砕いてルーミアに説明すると、ルーミアはうーんと唸って口を開いた。
「人間はこの先もっと美味しいご飯の作り方を思い付くかもしれない」
「うん」
「でも、もしかしたら私が食べる人間にもそういう人がいるかもしれない」
「あくまで、の話だがね」
「だから――」
思わず心の中で笑みを浮かべる。どうやら彼女は狙い通りの結論を導き出せたようだ。
「人間は……あんまり食べない方がいいのかな」
「霖之助ー、茸とってきたから何か作ってー」
「……また君かい、ルーミア」
あれから一月。ルーミアは今でも香霖堂へちょくちょくやって来ていた。
しかし、彼女が買い物に来たことは一度もない。何故か今みたいに食材を持って来ては僕に調理を依頼してくるのだ。
なんでも、『もっと食べたことのない味を知りたい』とのこと。どうやらすっかり美食の虜になったようだ。
「……ふむ、毒茸ではないようだね。じゃあ味噌汁にでもしてみようか」
「わーい」
僕としては人間を食べることを控えて貰いたかっただけなのだが、思わぬ誤算である。
「ねーねーはやくー。私霖之助の料理が楽しみで仕方ないのよー」
……だが、たまには他の誰かと食事を取るのも……まあ、悪くない。本当にたまには、だが。
さて、早速調理に取り掛かろうか。
折角楽しみにしてくれるヒトがいるらしいのでね。
「うん、やっぱり美味しい。ねー霖之助、私に毎日味噌汁作ってよ」
「僕のメリットが何一つないな。却下」
「えー」
《了》
ホッコリしました(笑)
>>僕としては人間を食べることを控えて貰いたかっただけなのだが、思わぬ誤差である。
誤差→誤算かな?
プロポー(ry
プロポーズは無意識なんだろうなぁw
霖之助さんの旗折職人っぷりは伊達じゃない。
しかも口がうまいし。。
ご指摘ありがとうございます! 修正させて頂きました!
ああ自分の未熟さが浮き出る浮き出る…。