これほどまでの事態に陥った原因はただひとつ。
幻想郷が一個の意識ある生物だという事実を、誰もが知らなかったことだろう。
これは幻想郷の生みの親ともいえる八雲紫も例外ではなかった。だが、彼女の無知を責めてはならない。
彼女は彼――ここで彼と称したのはもちろん、幻想郷を一個人として扱うためのものである――の身体の上に降り立ち、その自覚なしに幻想郷の名前を与えただけなのだ。
彼はそれまで、ただ横たわるだけの豊潤な大地であったが、そこに尊敬すべき親が現れたことで、あるひとつの欲求が生まれてしまった。
子が乳よりもずっと以前に欲しがる、母の愛情というものを彼は待ち望んだのだ。
この彼のささやかな願いを察知することこそ、幻想郷全土を巻きこんだ大恐慌を回避するただひとつの手がかりであった。
だが結局のところ、彼女たちのだれひとりとして彼の望むところを知らぬままに、暴力的ともいえる手段を用いて解決へと至ってしまったのである。
そのときの彼の心中が想像できるだろうか。
できないだろう。
ここで、できると言うような輩は、まず私の話を聞いていない。彼のどんよりとした目つきを、あなたは間違えてとらえるに決まっている。
なぜ、そう断言できるのか。それはもちろん、私が知っているからだ。
あなたには自覚が足りていないのだと。
よろしい。
物事には順序がある。私だって好きで焦らしているわけではないことを承知してもらいたい。ここまできて、ようやく私は説明する機会にありつけるのだ。
では、発端から話させてもらおう。
まず、ここで登場させるのは、霧雨魔理沙だ。
ここに霧雨魔理沙をえらんだわけは、彼女が彼の正体を、その自覚の有無にかかわらず、いち早く察したただひとりの人間だからである。
霧雨魔理沙はそのとき、生きるか死ぬかの瀬戸際にいた。
迫りくる災厄に小さな唇を引き結び、その強大な牙城を崩さんと血と汗を流していた。
そう、霧雨魔理沙は自宅の清掃に必死になっていたのである。
あなたもよく知っているように、彼女の蒐集癖と、借りていくという魔法の言葉は、抜群の威力をほこっている。その餌食になったあわれな敗残者どもは、本来の役目を果たせないまま、彼女の好奇心と自室のわずかに空いた床の一部を埋めるだけの置物と化すのだった。
だが、自分たちが増殖する一方で、数という一点では衰えを見せないのだと理解した置物たちは、ここで暴君霧雨魔理沙に反旗をひるがえすことを決意したのである。
この反逆を、霧雨魔理沙は真正面から受け止め、霧雨邸は全面戦争の舞台となった。
「これは、いる……これもいる。これも。これは、いるな……」
すなわち、衣食住の機能を食いつぶした無数の置物を整理、処分してしまおうと、魔理沙はようやく決心したのだった。
「いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる、いる…………だあっ、ちくしょう! おかしいだろ! なんでぜんぜん片付かないんだよ!」
霧雨魔理沙の整理術はあまりに愚かしいやり方ではあったが、それは仕方のないことだった。彼女の蒐集への執着はちょうど、腕が手によこす、無償の愛のようなものにきわめて似ていた。
だがここで重要なのは、彼女の度しがたい性癖ではなく、目前に立ちふさがる天敵の一部にあったのだ。
霧雨魔理沙は這うような速度でその敵を打ち崩してゆき、ついに問題のものをつかんだ。
「うわぁ。ばっちいなぁ」
それは、泥まみれのエプロンだった。
わが女主人公、霧雨魔理沙のトレードマークであり、少女らしさの象徴。
だがバニラ菓子のような、あの甘くとろけそうな色はいまや見る影もない。
ほとんど真っ黒になった泥が、居心地のよさそうな布地の上をわがもの顔で居座っていた。その硬くなった泥は、洗濯かごに入れられないまま、置物の山に埋もれてしまったことを物語っている。
魔理沙はすっかり忘れていた汚れ物に、心底うんざりするように首をふった。
そこで、とつぜん、妙なことが起こった。
魔理沙はそのエプロンをいらないものとして処分しようとしたのだが、彼女の目はいっこうにその汚れから離れなかったのだ。
黒い染み。乾ききった土くれ。すそから広がっている泥の汚れ。
こんなものがどうして気になるんだ、おかしなところなんてなにひとつないんだぞと、魔理沙は自分に言い聞かせた。
しかし、彼女の目はまるで、よくごらんなさいとだれかに言いつけられたかのように、ぴくりとも動かなかったのである。
ならばと、魔理沙は思い切ってなんでもいいから口にしてみようと考えた。
……あなたは彼女の思いつきを馬鹿らしいと思うだろうか。とんでもない間違いだ。これこそ、彼女の取るべき、ただひとつの行動だったのだ。
「こんなに泥、ついていたかな」
魔理沙は泥の汚れを見て、雨の中を思い浮かべた。
重い手足。息を切らす自分の姿。靴底の泥は跳ね上がり、小さな黒い水滴がいくつもこちらに飛びかかるだろう。
それとも、よっぽと激しい一戦でもやったかな。
魔理沙はもう一度、エプロンを眺めた。
汚れすぎているな、と彼女は思った。泥の中に浸けてでもしないと、これほど泥まみれにはならないのではないか。
「それとも、こいつが自分で勝手に育っていったとか」
もちろん、魔理沙は本気でそう言ったわけではなかった。
だが、はからずもその思いつきこそ、彼の存在をはじめて明らかにした最初の一歩だったのである。
そして、そこに踏み込んだのが霧雨魔理沙であったことも、事態を明白にする大きな手助けとなった。
ピカ一の好奇心と行動力、そして十分な技術や知識を持つ協力者たち――それは微生物レベルの分析能力を持つ顕微鏡の作成者や、あらゆる可能性を追求できる程度に知識がある解説者が例に挙げられる――との友好な関係、これらを持ち合わせていた彼女でなくて、一体ほかのだれが彼の姿をいち早くみとめられただろうか。
これはまさしく、彼女の功績と言ってよい。その点において、私たちは霧雨魔理沙に感謝しなければならないだろう。
この時点では。
幻想郷その人の存在は、顕微鏡をのぞき見たところ、その土くれが確かに動いていることから証明された。
そしてこの大発見は、日を一度またいだころには、住人たちの誰もが知るところとなったのである。
これは天狗の仕業だった。
彼ら天狗が、これほど食いでのあるごちそうに手をつけないはずがなかった。
それに彼らのほとんどは、長い腕としなやかな脚を持っている。そのため、住人たちは魅力的なうわさの真相について飢え苦しむことはなかったのだ。
そして、このとき公表された情報は以下のものだった。
第一に、幻想郷は一個の生物であり、その本体は広大な土壌の大部分である。また、一部は我々が元来指す土そのものであるが、これは彼の老廃物であると考えられる。
第二に、幻想郷は自由意志を示す。これはたとえば、同種の植物のうち、一方が枯れ果ててしまい、もう一方が巨大なサイズになるまで成長することからうかがえる。すなわち、自然は彼のいわば衣服であり、その好みにより、草木の繁栄が決められていた。この地の自然がおそろしく美しいのは、彼の美意識によるところが大きい。
第三に、幻想郷は我々と同タイプの知性を持つと思われる。あいまいな言い方になるのは、意思疎通の専門家、古明地さとりの証言のみが根拠となっているためである。
彼女は、以前から胎動する赤ん坊のような気分をよく味わっていたというが、まさか自分が本当にその役目をなしているとは夢にも思わなかっただろう。だが、先の発見の恩恵を得た彼女が、ようやく彼を意識できるようになったことは言うまでもない。
そして彼女いわく、彼の言葉はあまりに大ざっぱで、その声量がすさまじいこともあり、手がつけられないとのことだった。ただ、なにかを強くほしがっていることだけはわかった、というのが証言の内容である。
さて、これらの知識のおかげで、住人たちはこの新しい隣人を快く受け入れることができた。
結局、彼が正体を現したところで、大多数の人間と妖怪にとっては見方が少し変わる程度で、自分たちの生活を脅かすものではないということに落ち着いたのだ。
仮に敵意があるならば、どうしてとうの昔に我々を滅ぼさないものだろうか。
事実、幻想郷は自分の皮膚の上をぴょんぴょん飛び跳ねる仲間たちに、愛着を覚えていたのだ。
「それに私たちは感謝しなければなりません。美味しいごはんを食べられるのは、お百姓さんと、幻想郷さんががんばっているからです」
「はーい、先生」
当然、住人たちもまた、幻想郷をより好ましく思うようになった。大人は誇らしく、子供たちに彼を紹介したし、子供たちも素直にその考えに従うのだった。
このように幻想郷と住人たちの交流は、当初おだやかなものだったのだ。
おわかりだろうか? 私が当初と言ったわけが。
そう、あなたの考えている通り、問題はすぐに露見したのだ。
だが、仕方のないことだと言えよう。これは、幻想郷が生物であったがために、起こるべくして起きたことなのだ。
その亀裂を発見したのは、八雲紫であった。
彼女は、幻想郷の正体が明らかになっても、特に目立つ動きを見せなかった。
定期的な結界の見回りから帰ってきた式にいつも以上のことを聞いたり、独自に彼の生態調査を行うことなど、まったくしなかったのである。
問題ないと捨て置いたか、あるいはただ様子見にとどまっていただけかはわからない。
しかし、そんなことはどちらでもよかった。すでに問題は、取り返しのつかない段階にまできていたのだ。
「結界がゆらいでる?」
普段とは違う式の報告に、八雲紫の目つきは冷たくなった。
「ええ、はい。まあ、ゆるんでると言いますか、きしんでると言った方が、いいのかもしれません」
式はたどたどしく言った。しかし、それは主人の眼光によるものではなく、単純に困惑していたからだった。
「木々に施した術式は機能しています。ですが、結界そのものに負担がかかっているような状態なのです」
「神社だけなの?」
「いえ、まんべんなく」
八雲紫の目は、すでに開ききっていた。
どうも異常が起きているらしい。それもとびっきりの!
紫はしばらく一言もしゃべらなかったが、その間、歯の隙間からシュウシュウとか細い息がもれていた。
とにかく、と彼女はこぼすように言った。
「原因を突き止めなさい。私も」
そこまで言いかけて、八雲紫は自分の考えが突如、頭上をはなれてさまよいだしたのを知った。
それはふわふわとただよいながら、記憶をさかのぼり、少し前に話題になったある事件に行き着いた。この幻想郷にもっとも長く住んでいる、彼の存在に。
紫の頭が、仕掛けばねのようにさっとあがった。彼女の目は一度輝いたと思うと、ふたたび暗くなった。
そして彼女は口を開けたが、舌の上から言うべきことが顔を出すまで、しばらくかかった。
やがて、紫は言った。
「藍。私はこれから河童のところに向かいます。あなたはほかの奴らを連れてきなさい」
言いつけると、すぐに紫は姿を消した。
第一の発見者、霧雨魔理沙の住居へ着いたころには、式も彼女の言っていることを完全に理解していた。
解明された幻想郷の正体。そして、結界の異常事態。これらはもちろん、つながっている。
「たとえば、麻袋の中に犬を入れたとしよう」
式は魔理沙に言った。
魔理沙は、それに不機嫌そうな声音で答える。
「猫にしてくれよ」
「は? 猫だと」
「うん」
「きさま、よりにもよって猫だと言ったのか」
「うん」
「気は確かか? 猫を袋詰めにするなんて、気狂いのやることじゃないか!」
唾を飛ばしながら式は叫んだ。
だが、魔理沙は式の言うことに興味がなかった。彼女の意識は、ふたたびベッドの中で、やわらかなシーツに埋もれることのみに向けられていたのだ。
魔理沙からなんの反論も返ってこないことに満足して、式は説明を続けた。
「いいか。袋の中に犬を入れて、そこで育てるんだ。次第に犬は成長して大きくなり、さあ、どうなる?」
「犬、死ぬんじゃないかな。ストレスで」
魔理沙の答えに、式はストレスで死にそうになった。
「……大きくなり、力をつけた犬は、袋を切り裂いて外に出るんだよ。今、幻想郷はこの状態になりつつある。わかるか? 幻想郷は、奴は、広がっているんだ、内側から!」
「うん」
「結界はいまや、その獰猛な動きを必死になって抑えている。だが、いずれは……」
「うん」
「魔理沙?」
「うん」
話し終えてようやく落ち着いた式は、あらためて魔理沙を見た。ちょうど彼女は、重くのしかかる眠気に頭を下げたところだった。
式は口を開きかけたが、途中でやめ、魔理沙の腹の下に自分の拳を吸い込ませた。
そして、そのまま彼女をかつぎ、魔法の森からすさまじい速度で飛び去った。
こうして彼女たちと彼の衝突は、着実に迫りつつあったのだ。
ここでひとつ、明らかにしておかなければならないことがある。
幻想郷の食糧についてだ。
彼女たち住人は、真っ先にこの謎の解明に乗り出した。彼のエネルギーの供給源を断てば、それだけでこの事態は解決できると考えたからだ。
もちろん、彼女たちは総じて優秀であったため、短期間のうちにその正体を暴くことはできた。
しかし悲しいかな、どうしたところで抗えないものがあることを、忘れてはならない。
幻想郷は母の愛情を求め、また期待にこたえようとしたばかりに、このような悲劇を引き起こしてしまったのだ。悲劇とは、人間が物質のエネルギーに依存する生命形態であるように、彼が幻想に依存する生命形態であったことだった。
幻想郷は弾幕を食らっていたのである。
当然のことだが、彼は幻想郷となる以前から、弾幕を食べて生きていたわけではない。
風が彼の表面をなでると、わずかながら腹はふくれた。雨が降れば、たっぷりと喉をならした。太陽の熱量は彼の細胞に蓄えられた。動植物のあらゆる部位も、粉々にくだかれ、そのエネルギーが土壌に溶けていった。
そうして、まとわりつく空腹の苛立ちをなぐさめながら、長い間をほとんど眠りながら過ごしてきたのだった。
だが、彼はある瞬間、まったく未知の感覚に襲われた。満たされることのなかった胃袋が突如として重く、しかしあたたかく感じられたのだ。
言い知れぬ快感が、彼を瞬く間に支配した。向けられる視線。思考。言葉。知性。
そう、このときこそ、彼は幻想郷と名付けられていたのだ。
そして、おのれの皮膚を踏み固める存在を彼はみとめた。今までにない、まったく別の基盤を持った生物を。自分にすばらしいものを与えてくれた親を。妖怪、八雲紫を!
彼の夜明けの時は、こうして訪れたのだった。
しかし、なにもかもが明るくなったわけではない。
彼はその後も、しばらく空腹に、絶えず付き合わなくてはならなかった。彼が満たされた後、あのすばらしい栄養素を含んだ食糧がふたたびやってくることはなかったのである。
果てのない昼と、無限の夜を過ごした。
彼はじっとして、身じろぐこともなかった。その間、なにかのささやきや、布のこすれるような音、ときおり全身に衝撃のはしるような爆発が聞こえた。
そしてある日、身の震えるような感覚が、彼の奥底に突き刺さった。
それは彼にとって、覚えのある味わいだった。太陽とはまったく別の種類のあたたかさと、真の美味、よろこびが、彼の身体に染みわたった。
しかし彼には、以前とは少々毛色が違うようにも感じられた。
はじめて味わった食事と比べ、こちらはなんと豊満なのだろうか。細胞を飢えさせる香りと、活力をふんだんに閉じ込めた噛みごたえ。さらにそのご馳走が、何度も何度も、大量に寄こされるのだ。
それも多彩な種類をそろえて! 爆発であったり振動であったり、固体、液体、金属、波動、放射熱、ときには布の塊や、遊離した中性子、あるいはビタミン、食物繊維質、たんぱく質。
ところでこのとき、彼の身体があまりに広いため、その声を拾うには小さすぎる会話が地上でされていた。
「それは取って食べたりしてもいいのよ」
「そーなのかー」
彼の食事がこの後もしばらくは続いたのだと、あなたなら容易に想像できるだろう。
彼はむさぼるようにその豊富なエネルギーを飲み込み、今までの数十倍の速度で成長していった。
ただその巨大な食糧は、気まぐれを起こしたようにたまにしかやってこないので、その間、以前のような節制を強いられたのだった。たまに似たような香りがやってくるときがあるが、取るに足りない量でしかなく、間隔をおいてやってくるご馳走を食えば食うほどに、それらはかすみのように感じられた。
幻想郷は、身体をゆすって不満の声をあげた。すると、また食糧が降ってくる。
だが、まったくその量は足りないものだ。
母よ、お願いです。もっと食事を。大量に。すみやかに。あなたの愛を! 乳の燃えるような熱さを! とろけるような甘みを!
彼の身体は、そのすさまじい食欲を満たすために、そして食糧を見逃さないために、徐々に広がっていった。だが、その侵攻はある場所でぴたりと止まった。
食糧だ! 待ちかねた栄養がそこにある!
彼は歓喜し、彼の身体を囲んでいた結界を猛烈ないきおいで、しゃぶりはじめた。
幻想郷の食糧源が判明してから、幾日かが経過した。だが、彼女たちの間に、有効な対策は一向に浮かび上がらなかった。
そして、もはや、わずかな猶予も残されていないのだと、八雲紫は思い知った。
苛立ちのあまり、机をたたく。木材で作られた重そうな机は、その小さな拳を中心にしてぱっくりと割れたので、先ほどまで使っていた貴重で複雑な機材は、すべて床の上で粉々になった。
河童と魔女は悲鳴をあげた。
霧雨魔理沙はかわいそうな友人を見ないようにして、とりあえずと前置きをして紫に言った。
「弾幕を使わないようにすれば」
「命名決闘法案を廃止したところで、あらゆる別の要素が彼を補ってしまう」
紫は舌がもつれるような早さで続けた。
「それに、もう遅い! 彼は今、結界に干渉しはじめています。いよいよ、結界を解かなければ……」
静かな恐慌と沈黙がその場に降り立った。
その外、幻想郷のあらゆる場所では、恐慌だけが伝染していた。
情報規制は天狗の前では無意味だった。少し前から噂は、風が流れる場所のすべてにあますところなく届けられた。
水位が下がりつつある湖の近くで、ある妖精は親友に言った。
「どうしよう、どうしよう。どうしよう、チルノちゃん」
「大丈夫よ、あたいにまかせて。今やっつけるから」
チルノはそう言って、土を食べ始めたが、すぐに顔をしかめて吐き出した。
「うえ、まずい! こいつ、なかなか強いなー」
地下深くの大きな空洞にある街中で、ある鬼は周囲に聞いた。
「ここって、奴さんのどこら辺なんだろうな」
「胃袋じゃねえんですかい」
「ばっか、お前。ここは地底だぞ。もっと下の方だろう」
「腸か」
「いや、膀胱だろ」
「きたねえのが集まってるもんな」
酔っ払いどもは一斉に笑い合った。
山と人里の境目では、ある名もない狂人が聴衆に叫んだ
「夜明けが来た! 黄金時代の到来だ!」
幻想郷の熱狂的な愛好者たちは、それに賛同した。理想郷が今まさに姿を現そうとしているのだと互いに頷き合った。
また、その中には、外界の技術に異常な興味を持つ河童の研究陣や、さまざまな野望を持つ天狗の一派も多くいた。
「我々はもうどこにいても一人ではない。すばらしく、頼もしい彼が、我々の二足をしっかりと支えてくれるのだ。これほど心強いことがあるだろうか! なにが起ころうとも我々は安泰なのだ! 世よ、彼の望むままにあれ!」
ふたたび、喝采が巻き起こった。
そして、ただ時間が過ぎるのを待つようにうなだれる面々の中で、さっと頭をあげた魔法使いは言った。
「いいことを思いついた」
そこにいる全員が魔理沙を見た。
魔理沙は不敵な笑みを浮かべて、言った。
「食べ過ぎるとどうなるかって、教えてやったらいいんじゃないか」
幻想郷は夢中になって、大結界を吸収していた。
彼の身体に、活力、魔力、妖力、気力、その他あらゆる栄養素が際限なく流れ続けた。
まだ、足りない。まだ。もっと。もっと!
めぐまれた食欲は、それでも満たされることを知らず、彼に食事を促した。彼の身体中にある細胞が、苦しみながらもこの巨大な食糧を受け入れ、かつてない速度で増大していった。
そのとき、おどろくべきエネルギーの爆発が起こった。
食糧というにはあまりに強大なものだ。それは奔流となって彼の口の中へ、ぎゅうぎゅうに押し込まれていく。
喉の詰まるいきおいだった。溺れそうになるほど大量の食糧が、彼の食道を押し広げ、胃袋に殺到していった。
幻想郷にはまったくわからなかった。あれほど求めていた食糧が、こうして大軍としてやってきたというのに、なぜ消化しきれないのだ、なぜ吸収しきれないのか。
彼がそう思うのも仕方ない。地上ではこのとき、並みいる実力者たちが数十人単位で弾幕を放っていたのだ。
あまりに太い光線からはじまり、札、ナイフ、星々、嵐、炎、情念、血、桜、氷、銃撃、剣戟、その他のあらゆるエネルギーが一斉に、大量に、華やかに襲いかかったのだ!
彼の食欲は実際にすさまじいものではあった。その無尽ともいえる食糧にいくらかは持ちこたえたのだから。
だが、その後はすっかり縮みあがった。
その暴力的なエネルギーの奔流に、彼はたたきのめされ、ずたずたに引き裂かれ、ついには嘔吐するにいたったのだ。
彼女たちの誰かが言った。
「やった!」
「いや、待て!」
「ああ、穴が!」
何年もの間、蓄積された彼の身体は、ただの土くれを吐き出し続けた。
土の大波が、雷光のような速度で結界に何度も何度もぶつかった。
ついにはその強靭な結界に穴をあけ、おそるべき敵を倒した彼女たちは休む間もなく、その対応に追われることとなった。そのため、彼の身体がみるみる縮まり、しまいには肉眼では見られないサイズにまで打ち砕かれたことを知るものはいなかった。
幻想郷はこのような経緯をたどり、彼女たちに追いやられることとなったのだ。
彼のいなくなった、幻想郷はいまやすっかり元通りとなっている。すべての住人たちを巻き込んだこの異変は、死者を出すことなく無事に解決されてしまったのだった。
大体、話すべきはこんなところだろう。
……さて。
では、本題といこう。
幻想郷はあのとき、結界の穴に流れ込み、何百、何千万分の一の世界の住人となり、いわゆる外の世界で生きていた。
外界に流れ着いた当初、彼は細胞サイズにまで破壊され、塵やほこりと同様に、空気中を浮遊していた。
彼がつぎに目覚めたときには、四方が赤黒いやわらかな壁で構成された部屋にいた。
このとき、彼の意識が戻ったのには理由がある。しかるべき栄養素が、天井にあいた穴から降ってきたためだ。
それはわずかに発泡する金色の液体であったり、透明な、しかし水ではない液体であったりした。いずれもツンとくるアルコール臭を放っていたのだ。
しかし、彼の食欲はとどまることを知らず、好き嫌いもないために、それらを自分の活力としておおいに利用することにした。
これもまた、大量に、それもあまり長い間待たされることもなく続きがくるため、彼はほとんど目覚めるところまで戻った。
だが、ここで部屋の狭さにぶつかったのだ。
今いる場所はあまりに狭い。これでは元に戻れない。それに栄養は際限なくやってくるから、この大きさのままじっとしていることもできなかった。
そこで彼は、身体の大部分を残し、意識を分割して、その部屋から抜け出すことにした。
残った彼もまた、部屋の許容サイズをこえそうになったとき、ふたたび分裂して、別れることを繰り返した。
いずれ、元のサイズに戻るために、一個の生物になるために、細胞たちは分裂による増殖を取ったのだ。
外に出た彼のひとつは、今までいたところがある一種の生物の中であったことに気付いた。
彼は今では、昔とまったく正反対の立場にいるのだと思い知った。
しかし、なんと居心地のいいところかと、彼は考えた。
食糧に困らない理想の住処は、自分が元に戻るためにぴったりの場所ではないか。それに、この生物はいたるところにうじゃうじゃいる!
こうして、彼は寄生と分裂を繰り広げ、今では何万という数にまで増えることに成功したのだ。
うん。
どうしたと言うんだ。
震えているのか。
なるほど、興奮しているんだろう。そうに決まっている。私にはよくわかるよ。
あなたもようやく自覚したんだ。
彼はつとめて増え続けたが、それは目的ではなく通過点でしかない。
いずれ、彼のひとつひとつは集まり、群れをなして、あの広大な大地に戻らなければならないのだ。だというのに、互いにどこにいるかわからなければ、どうしようもないじゃないか。
目印は必要だ。だから彼は、自分の母たちがそうしたように、おのれの情愛を、分け与えたのだ。
従順な宿主たちは、皆、幻想郷を夢見るだろう。
我々を思い描き、つくり、その幻想はまた実に豊富な栄養素となり得るんだ。食糧として、これほどまでにふさわしいものはない。
私があなたに声をかけたのも……なあ、わかるだろう。
いよいよなんだ。
彼はついにやりきった。各地では、自覚のある彼らが元に戻るために集まりはじめている。
ついに我々は戻れるんだ。私は、彼は、以前よりもなお、広大になった! 強大になった!
これほどの幻想が集まれば、あんな壁などたやすく打ち砕けるだろう。
さあ、行こうじゃないか。
私の母を迎えに行こう。彼女たちの住処となろう。
ああ! 今こそ、私は、幻想郷に返り咲くんだ!
いやー、面白かったです。
後書きの「あらゆる少女」の一言でただの無駄に行動力のある変態野郎な気がしてきたw
>「きたねえのが集まってるもんな」
むせ返るほどの筒井康隆臭。
アンタ本当に何者さ。
幻想郷に意識がある設定の中でも屈指のssだと思うし、オチが予想外かつ勢いがあって大変楽しめました。
笑えるけどシャレにならん異変をアッサリ解決にもってった魔理沙もお見事です。食べ過ぎたらそりゃ吐くわなw
あと私も紫様に踏まれたいです。出来れば優しめに。母が子をあやすような感じでお願いします。
発砲する金色の液体…コレ、ビールのことですよね?
最初に寄生されたの神主じゃねぇかwww
おもしろかったです。
ぼくも幻想郷だ!
わたしも幻想郷よ!
幻想郷だけの話に終わらせずに私たち、読者を巻き込んだこのssの世界の解釈に魅了されました。
また、私はこのssの文体も好きです。英語の文章を訳したみたいな簡潔でわかりやすい文章。それでいて「欧州中世文学全集」とかの
古典をひっくりかえしたら、でてきそうな難解でかっこいい語彙。力強い語り方。「銀河英雄伝説」を思い出しました。あの作品もこのssも
かっこいいです。キザな文章とも言えるけど、初めから終わりまでキザを通しきっているからカッコいい。
これできっつ~い皮肉を私たち(読者)に一発かましてくれても良かった。イライラしながらも、なんだか笑ってしまって
120点入れてしまったと思います。
そして、チルノのボケが良い。キザな文章にギャグを差し込むのは、白けてしまう時もあるけれど、このssではまったくそれはなかったです。
決めるとこは決めて、馬鹿になるところは馬鹿になっている。かっこいいssです。智弘さんの過去作品をとても読みたくなりました。
ところで、このssが「踏まれたい」という変態紳士的な思いから生み出されたのなら、それが最も驚くべきことかもしれませんね…。
一体何を書きたくて、このssを書き始めたのか、知りたくなりました。
だがそれがいい
面白かったです