とある朝、霊達の管理者である西行寺幽々子は、縁側に座る自分の従者、魂魄妖夢を見付けた。
普段ならば、この時間には剣術の鍛練を行っている筈だが、今はその気配は無い。
どうやら、熱心に本を読んでいるようだ。
真剣な横顔から察するに、剣術の指南書でも手に入れたのだろうか。
もしそうならば、感心な事だ。
だが、あまり根を詰めすぎてもいけないし、少しリラックスさせてやろう。
幽々子は妖夢の背後からこっそり忍び寄り、その背中に覆い被さる。
「よーうむ。何を読んでるの?」
「わっ、幽々子様!」
「ふふ、簡単に背後を取られるなんて、妖夢もまだまだね」
「むう‥‥」
いま一つ腑に落ちないが、自分の油断で背後に回られたのは事実。
妖夢は反論できず、唇を尖らせるに留まった。
「それで、そんなに熱中して、何を読んでいるのかしら?」
「あ、これですか? これはですね‥‥」
幽々子が話を戻すと、妖夢は答えようとした。
が、幽々子の顔を見つめたまま、その言葉が途切れる。
「妖夢? どうかした?」
「幽々子様。改めて確認したいのですが、幽々子様は亡霊‥‥つまり、お化けですよね?」
「お化けって言われると、何だか安っぽく聞こえるけど、まあそうね」
「ですよね。そんな幽々子様にお願いがあるのですが」
「ん? どうしたの?」
「私の刀に入ってもらえませんか?」
「はい?」
「楼観剣に入って下さい。あ、別にどっちでもいいんですけど」
困惑する幽々子に、鞘に入った刀を押し付ける妖夢。
「さあさあ、スルッと入っちゃってください!」
「いやいや、妖夢?」
「多分、人魂になった方が入りやすいと思います」
「妖夢」
「この本によりますと、オーバーソウルとかいう技らしくて‥‥」
「妖夢!」
ほっぺたに鞘をグイグイ押し付けられて、流石の幽々子も声を荒げる。
当り前である。
「なんでしょう?」
「あなた、何言ってるの? そんな技、本当に書いてた?」
「はい。ほら」
「どれどれ‥‥漫画! これ漫画じゃないの!」
「はい」
「空想と現実を一緒にしてると、いつか困った事になるわよ。って、そんな事より」
一しきりツッコミをこなした幽々子は、ある事を思い出す。
「あなた、今の時間は剣の稽古をしてる筈じゃない。どうして漫画なんて読んでるのよ」
「ああ、こないだ紫様が持って来てくださいまして」
「いや、入手経路じゃなく」
「それがですね‥‥ちょっとお恥ずかしい話なんですが」
「恥ずかしい?」
不注意でケガでもしたのだろうか。
仮にそうならば、確かに妖夢は恥じるかも知れない。
大事をとって、医者にでも診せておいた方がいいだろうか。
心配する幽々子に、妖夢は説明を始めた。
「昨日の夕飯、天ぷらだったじゃないですか?」
「夕飯? ええ、そうだったわね」
「それで、結構多めに残ってしまったじゃないですか」
「そうだったかもね」
「捨てたり、腐らせてしまったりするのは勿体ないので、今日の私の朝食にしたんですよ」
「あら、そうなの」
「そうしたら、思ったよりも胃の負担が甚大でして」
「まあ、朝から揚げ物はね」
この辺りで、既に幽々子は嫌な予感がしていた。
「それでですね、今ちょっと、あまり動き回りたくないと言いますか‥‥」
「‥‥‥‥」
「今激しい運動をすると、ちょっとその‥‥ローゲーがですね」
「妖夢」
「ローゲーがルーデーっていうか」
「妖夢」
「ハンレーのローゲーがルーデーなんで‥‥」
「妖夢!」
あまりに不甲斐無い妖夢に、再度幽々子の怒声が響く。
一日に二度も怒ったのは、久し振りだ。
前回は二週間ほど前だったか。
案外最近であった。
勿論、その時も原因は妖夢だった。
「あなたね‥‥揚げ物を食べ過ぎて気持ち悪いから動けないなんて、あまりに情けないわよ」
「はい」
「恥を知りなさい」
「ですから、お恥ずかしい話って言ったじゃないですか。最初に」
「度が過ぎるわよ!」
妖夢を叱りつけた幽々子は、深く溜息を吐く。
そして、今度は諭すように言葉を紡ぐ。
「こんな事をあなたのお爺ちゃん‥‥妖忌が知ったら、悲しむわよ?」
「そ、それは‥‥」
「大体にして、最近のあなたは、ちょっと緊張感が足りないわ。そんな事じゃ、自機を外されるわよ」
「うう‥‥」
「ここらで初心に帰って‥‥そうだわ」
「幽々子様?」
「あなた、一度里の道場に通ってみなさい」
「ええ!?」
「知り合いの人間が先生をやっているの。その弛み切った心を、しっかり鍛え直してもらいなさい。いいわね?」
「しかし、今更人間に剣を教わるなんて‥‥」
「もし何も得るものが無ければ、すぐにやめていいわ。とにかく、一度行くわよ」
「わかりましたよう‥‥」
こうして妖夢は、剣の基礎の基礎から学び直す羽目になってしまったのである。
「と、いうわけですの」
「なるほどなるほど。‥‥ところで、ローゲーとは一体‥‥」
「そこは気にしないでくださいな」
数日後、妖夢と付き添いの幽々子を迎えたのは、髭を蓄えた高齢の男性だった。
背はあまり高くなく、隻眼であるとか大きな傷があるとか、そういった特徴もこれといって見当たらない。
実に普通の、所謂優しそうなお爺ちゃんである。
「では、早速今日から仮入門という形でよろしいかな?」
「ええ。よろしくお願いしますね。ほら妖夢」
「はい。お世話になります」
幽々子に促され、妖夢は一礼する。
ふと道場の中を見渡すと、大人が数名と多くの子供達。
どうやら、門下生の大半は少年少女のようだ。
その事実に、妖夢のやる気は更に消失する。
「おや、どうやら君はあまり乗り気ではないようだね」
「え? あ、いえ、そんな事は‥‥」
「まあ、無理もない。聞けば君は、博麗の巫女のように何度か異変にも関わっているらしいじゃないか」
「はい」
「実戦を積んだ者にとっては、物足りなく見えても仕方ないのう。ま、肩肘張らずに、息抜きのつもりでいるといい」
「はあ」
「道着と防具は予備の物を貸そう。では、始めようか」
数分後、初めての剣道着に四苦八苦しながら何とか身につけた妖夢は、渋々と稽古に参加した。
「正面打ち50本、始め! おーう! えい! えい! えい! えい!」
『えい! えい! えい!』
「やめ! 左右打ち50本、始め! おーう! えい!えい!」
『えい! えい!』
・
・
・
・
・
「やめ! 集合!」
暫くの間、素振りを繰り返した妖夢を含む門下生達は、指南役の合図で一ヶ所に集まった。
全員が集合すると、先ほど妖夢と話していた道場主が口を開く。
「はい。皆さん、寒くなってきましたが、風邪はひいていませんか? 体を温めるためにも、しっかり稽古を頑張りましょう。それと今日は、お客さんが一緒に参加しています。魂魄妖夢さんです。彼女は真剣の取り扱いにも慣れた上級者ですので、皆さんも負けないように頑張りましょう」
紹介を聞いた面々の視線が妖夢に集まる。
ペコリと礼をした時、門下生の一人がこんな事を口にした。
「強いって‥‥どれくらい強いんですか? 先生達よりも強いの?」
「ふむ、そうじゃの。‥‥面白い、挨拶代わりに、一度試してみようか。構わんかね?」
「あ、はい!」
「相手は‥‥君に頼むか」
「はい!」
道場主に指名されて一歩前に出たのは、壮年の男性。
先ほど稽古の指南をしていた者だった。
「では、試合が出来るように移動を」
二人を見守るように下がっていく門下生達。
この時、妖夢は内心喜んでいた。
相手も多少は腕が立ちそうだが、所詮は竹刀を使う剣道。
負ける要素など無いのだ。
ここで完勝すれば、幽々子にも見直してもらえるだろう。
「よし、二人も準備はいいかね?」
「はい!」
「はい!」
「よろしい、では‥‥お互いに、礼! 始め!」
「おおおおう!」
「!?」
「めええええん!」
「うわっ!」
開始の合図と共に、相手が大きな声を出す。
素振り稽古の時にも感じていたが、皆一様に声が大きいのだ。
それも、相手は妖夢よりも随分と大きな男。
威圧感は半端ではない。
一瞬怯んだ隙を見逃さずに打ち込まれる一撃を、何とか捌く妖夢。
「どおう! めえええん! どおおう!」
それを皮切りに、怒涛のように連続で打ち込まれる。
その一つ一つをかわし、反撃に打って出ようとする妖夢。
しかし。
「あっ!」
「白、反則!」
なんと、打ち込んだ竹刀を払い飛ばされてしまったのだ。
「くう‥‥こ、こんな筈じゃ‥‥」
竹刀を拾い上げた妖夢は、激しい動揺を見せる。
チラッと場外を見ると、正座をしている幽々子が目に入る。
このままでは、あまりにまずい。
「始め!」
「おおおう!」
「やあああ!」
追い込まれた妖夢は、相手に負けない声量で気合を入れ直す。
「めえええん!」
大きく振りかぶり、竹刀を頭上に振り下ろしてくる相手。
体格差がここまであると、やはり面を中心に狙ってくるようだ。
腕が上がった一瞬の隙に、妖夢の竹刀が相手の胴部を打つ。
しかし、妖夢の勝利を宣言する声は聞こえてこない。
竹刀の打突部が当たっていないと見なされたようだ。
「でえええい!」
「しまっ‥‥!」
確実に決まったと思えた打ち込み後の油断を付き、相手の竹刀が妖夢の頭上に振り下ろされる。
そして。
「面あり! 一本! 勝者、赤! お互いに、礼!」
「ありがとうございまし‥‥」
「も、もう一度! もう一度お願いします!」
「うわっ!?」
頭を下げようとした対戦相手に詰め寄り、再戦を要求する妖夢。
思わぬ事態に、相手も驚きを隠せない。
「お願いします! なんなら真剣! 真剣での勝負でもいいです!」
「いや、私は真剣を握った事がないんだが」
「な、なんですって!?」
その言葉に、妖夢は再びショックを受ける。
真剣を使った事もない、実戦を経験していない相手に、完膚なきまでに敗北したのだ。
「だったら尚更です! もう一度! もう一度だけでいいですから!」
「妖夢、よしなさい。迷惑でしょう?」
「幽々子様! 放して下さい! このままでは立つ瀬がありません!」
「ど、どうも失礼致しました。今日のところは連れて帰りますわ」
「待ってください! 幽々子様!」
「こ、こら妖夢、帰るわよ」
「うわああん! 勝つまでやるんだあ!」
「要求が変わってるじゃないの!」
ズルズルと引き摺られて道場を後にする妖夢。
呆気にとられる面々の中、対戦相手だけは、面の隙間から至近距離で見えた可愛い顔を思い出し、ちょっと赤くなっていた。
それから数日後、道場には妖夢の姿があった。
あの日以降、毎日誰よりも早くやって来て、稽古中は誰よりも大きな声を出し、熱心に取り組んでいる。
少し前の妖夢とは別人のようだった。
「ありがとうございました! 次!」
「お願いします! えええい!」
「やあああ!」
幽々子が稽古に取り組む妖夢を眺めていると、道場主が近くにやってきた。
「あら。先生、先日はお恥ずかしいところをお見せしまして」
「なんのなんの。あれくらい負けん気が強い方が、上達も早いものですよ」
「帰ってからも、随分悔しがっておりましたわ」
「ははは。それならば、彼女はもっと強くなりますな」
「妖忌よりも、でしょうか?」
「さあ、それはどうでしょうな」
「とにかく、彼と何度も切り結んだあなたのお墨付きなら、心強いですわ」
そう、何を隠そうこの老人は、先代庭師の魂魄妖忌と互いに剣を交え、切磋琢磨してきた間柄なのだ。
年齢は不詳である。
「地稽古、やめ! お互いに、礼!」
「ありがとうございました!」
「はい最後! 切り返し、始め!」
「おおおう! めーんめんめんめんめん!」
幽々子と道場主が話している内に、本日の稽古も終わりに近付いているようだった。
「妖怪の賢者殿が考案した、命名決闘法‥‥あれも悪くないですが、剣士たる者、時には剣と剣とで競り合う必要もあるものなんですよ」
「そうみたいですね。これで妖夢も、初心に帰れた事でしょう」
「では、もう卒業ですかな」
「ええ。気持ちさえしっかりしていれば、妖夢はここにいる方々よりも強いですからね」
「ははは。幽々子殿もなかなか親ばかでいらっしゃる」
「ところで、あの子への餞別として、一戦交えてあげて頂けないかしら?」
「私がですかな? よろしい、久々に老体に鞭打つとしましょうか」
「ありがとうございます。妖夢、こちらにいらっしゃい」
妖夢が道場での稽古を終えて数週間。
白玉楼の縁側に幽々子が座っている。
その視線の先には、剣を振るう妖夢の姿があった。
見慣れた光景だが、今までの妖夢とは僅かに違っていた。
基礎的な素振りや足捌きを、重点的に行うようになったのだ。
「正面打ち、やめ! 続いて軽跳躍50本、始め! やあああ!」
「お疲れ様、妖夢。今日もいい声が出てるわね」
「あ、幽々子様。いつからそこに?」
「少し前からよ。気が付かないだなんて、随分集中してたのね」
「えへへ」
「彼に負けたのが、そんなに悔しかった?」
そう、あの後の道場主との試合で、妖夢は善戦したものの、敗北してしまったのだ。
「悔しく無かったと言えば、嘘になりますね。けど、それ以上に清々しかったです」
「へえ?」
「私は、自分で気が付かない間に慢心していたようです。先生の剣が、私の伸びに伸びた鼻柱を叩き折って下さいました」
「そう。それじゃ、また道場に通う?」
「いいえ。それは遠慮しておきます」
幽々子の提案に、妖夢は首を振る。
「あら、どうして?」
「次に行くのは、先生に勝てる実力を身に付けた時だと決めましたので!」
晴れ渡った空の下、一人の少女が、一人前の剣士に今日も一歩近付いた。
「それにほら、剣道の道着とか防具とかって、相当汗臭くて。あんまり長く道場に通ってると、ローゲーが出ちゃいそうなんで」
そして、主の怒りのゲンコツと共に、一歩遠のいた。
でもこれは…習い事に通う小学生と心配でそれを見守る母親ですよね?
フランはレッド役かよw