悪い夢の中で、現の蝶が縫いとめられているのを見ている。
◆ ◇ ◆
帯。
腰紐。
長着。
長襦袢。
肌襦袢。
廊下に着物が足跡のように点々と落ちている。脱ぎ散らかした幽々子様は歩みをまったく緩めずにそのまま湯殿へ行ってしまった。私を置いて。
幽々子様の裸の背中が扉の向こうに消えたのを見届けて、私の体はようやく動き始める。落ちている着物を一つ一つ拾い上げ、丁寧にたたんでいく。
帯には帯の、襦袢には襦袢のたたみ方というものがある。それを教えてくれたのはこの抜け殻の主だ。私には母の記憶がない。家族と言えるのは爺様だけなのだが、声音を思い出すのには少し時間がかかる。寡黙な人だった。体格に合った、低くて重い声をしていた。思い出した。あの声で怒鳴りつけられれば、子供はきっと泣いてしまうだろう。
幸か不幸か、私にその記憶はない。代わりに鯉口が切られた音を覚えている。
――斬るということ。魂魄家の使命。あとは庭の手入れについて。
爺様は私に剣を教え、剣以外のことも剣で以って伝えた。爺様の教えはいつも正しかった。何も言わずに私たちの前から去ったのは、それ以外にやり様を知らなかったからだろうか。わからない。
けれど、もしそうだとしたら。
爺様の別離の剣を、私は何が何でも切り払う。
「ねえ、ようき」
瞬間、肩が震えた。怒鳴られた子供のように。
花弁のように柔らかく無邪気な声。
「ようき。ようきったら。はやくこっちにいらっしゃいな」
喉が震える。声を出すのを阻むように。返事をすれば、どうしようもないことがもっとどうしようもなくなっていく。わかっている。
手の中の肌襦袢を縋るように強く握り締めて、私は応える。応えてしまう。応えなければいけないから。
低くも重くもない少女の声で。
「す……すぐに参りますので。少々お待ちください」
「はやくしてね。はだかのままじゃ、さむいわ」
そこから先は他人事のように体が動いた。着物をたたみ、自分も服を脱ぐ。せめて薄物を身に付けたかったのだが、何故か幽々子様が駄々をこねるのだからしようがない。
リボンも、何もかも外して。生まれたままの姿で湯殿の扉を開く。
もう何も隠せない。
「お待たせ、しました」
「あら、ようき」
――斬るということ。魂魄家の使命。あとは庭の手入れについて。
「どうしたの。お風呂に剣なんて」
それ以外のことはすべて幽々子様から教わった。
幽々子様は母ではない、主だ。
でも今はそんなのどっちでもいい。
「私は、魂魄家の、人間ですから……」
どうして此処に居ないのですか爺様。
半人前の私は、貴方に、きっと重要なことを教わり損ねたのです。
◆ ◇ ◆
幽々子様がおかしくなってしまった。
「ねえ、ようき」
幽々子様が私を爺様の名前で呼んだ。最初は私も、また何かのおふざけかなと思ったのだ。
私は魂魄妖夢ですよと言うと、幽々子様は不思議そうな顔をして、
「ようむ? ようむ……あなたはようきじゃないの?」
と言った。普段からどこか呆けた所のある方だったが、その表情は真に迫っていて、明らかに異常だとすぐに感じ取れた。
幽々子様は、私を爺様だと認識しているらしかった。それが始まり。
「ねえようき。××を知らない?」
私の知らない名前を呼ぶ。知りません――本当に知らないのだ。ここには私と幽々子様と、あとは爺様くらいしか住んでいなかったから――と答えると「そう。どこにいったのかしら」と言う。
ふらりと庭を散歩したり、縁側でのんびりしたりと、生活はあまり変わっていない。ただ時々……子供のような行動を取られるようになった。例えば脱衣所で服を脱ぎ散らかしたり、とか。以前の幽々子様なら絶対にしないことだった。
そのうちに、私は気づいた。
妖夢と呼ばれることがなくなった。
私の主は、魂魄妖夢という存在を、そもそも知らないような様子だった。
すぐに、紫様に相談した。幽々子様のことで、この人以上に頼れる方が他にいなかったからだ。
紫様は、
「そう。もう、そんな時期なのですね」
と、落ち着いた様子だった。
紫様曰く、幽々子様に今起きているのは病気でもなんでもない、言ってしまえば――どうして紫様がそんな言葉を使うのか、わかりないのだが――生理のようなものらしい。
躰が、存在が、零となるべき過去を欲しているのだと。
「死を、忘れそうになっているのです。だから思い出そうとしている」
「死を?」
「そう。亡霊は死してなお生きているという錯覚から成り立っている、あなたも知っているでしょう?」
「でも、亡霊は……」
「死にません。もう死んでいるのですから。亡霊は死を拒んでいるのでも、忘れているのでもなく、思い出さないだけなのです。けれど自分ではそう思わなくとも、死は西行寺幽々子の前提……それが薄れてしまえば、とても不安定になってしまう」
だから思い出そうとしているの、と紫様は言った。
死を。かつてあの桜の下で起こしたという死を――。
「でも、そんなことしたら、幽々子様は」
「……もし幽々子が、あの時のことを本当に思い出してしまったなら、最悪、消えてしまうかもしれません」
「そんな……」
「しかし、対策はもうわかっているのです。あなたがそれをすれば、幽々子はいずれ元に戻るでしょう。“前”もそうだったから」
「教えてください紫様、幽々子様を戻すにはどうすれば……」
その時、紫様は少しだけ気の毒そうに眼を伏せた。
「……そう。妖忌は、あなたに何も教えなかったのですね」
「はい。何か理由があったのでしょうか?」
「望むべくもない、といったところかしら。無骨な人だったから、女の体のことを教えるなんてとてもとても」
「お、おんな……?」
「あとは……そうね。流石に後ろめたかったのかもしれません」
紫様は両の手で私の肩をしかと掴んだ。紫様の眼が私の眼を覗き込んできた。
眼を逸らすことすら許されないのだと、悟った。
「魂魄妖夢。あなたのすべきことを教えます。当代の魂魄であるあなたは、それを遂行しなければいけません」
「もちろんです。幽々子様のためなら、私は何でもします」
「……ああよかった」
あなたからそう言ってくれて私は安心しました、と。
紫様は、笑いながら、その言葉を口にした。
「西行寺幽々子を、殺しなさい」
幽々子様に笑いかけるのと、同じ表情だった。
何度問い返しても、答えは同じだった。
西行寺幽々子を、殺す。あの桜の下の死を思い出す前に、新鮮な死を、その躰に刻み付ける。そうすれば薄まった概念はまた元に戻ると、紫様は言った。
信じたくなかった。幽々子様を元に戻すためとはいえ……爺様が幽々子様を殺したなんて。
私にとって爺様は祖父であり、尊敬すべき先代であり、憧れだった。魂魄かくあるべきと、その手を見て育った。
その手は幽々子様の血に塗れていた。
そして、私の手も、これから同じようになる。
「しっかりしなさい。これは先代も為したこと。幽々子を支えるためです」
「でも、幽々子様は主です」
「大丈夫。あなたじゃ幽々子は殺せませんから」
「そうではなくて、私は幽々子様を護らないといけないのです」
「これは忠義に悖ることではありませんよ。なんならあのお方に尋ねてごらんなさい――」
私は礼もせずに飛び出した。三途の河で暇をしていた死神に詰め寄り、半ば脅す形で閻魔様へお目通りを願った。
押しかけた私にも、閻魔様は公正に応じてくれた。
私は期待していた。閻魔様がこの凶行を止めてくれることを。従者が主をその手にかけることが、決して許されない、この上ない過ちであることを。
期待して、そして、裏切られた。
「はい。こちらも西行寺幽々子が定期的にそのような状態になることを関知しています。それへの対処も」
「でも、そんなことは悪」
「いいえ。それは悪行ではありません。私があなたを裁くときも、それを罪とはしません」
「そんな……」
「魂魄妖夢。これはヤマザナドゥではなく、四季映姫という一個人の言葉として聞いてください」
閻魔様は、泣いている私を慰めたりしなかった。
「護るということは、傷つけないようにすることではありません。損なわれないようにすることです」
「そのためなら、どんな非道なことをしても善いのですか? そんなことがあるのですか?」
「あなたは半人半霊です。ならば弁えなさい。人と霊に対して同じ罪悪感を持ってはいけません。為すべきこと、為されるべきことが違うのです。先代はあなたにそれを教えなかったのですか?」
それがとても冷たく聞こえたのはきっと錯覚なのだ。閻魔様は平等なのだから、特別私に冷たく当たっているわけではない。
あゝもうどこへ行っても、その言葉は私に立ちふさがるのだろう。
「西行寺幽々子を弑すこと。それが今の貴女に積める善行よ」
不条理の冷たさは平等だった。
浄土も地獄もありはしない。
「お帰りなさい」
彼岸から白玉楼へ戻ると、紫様が縁側で幽々子様に膝枕をしていた。
「ひどい顔。少し横になったほうがいいわ」
紫様は寝ている幽々子様の髪を撫でていた。お二人の様子は、本当にいつもと変わらなかった。幽々子様の寝顔も。
それが無性に悲しくて、怖かった。
「他に、方法は、ないのですか?」
「これが一番シンプルでスマートなのです」
「わ、わたし。でも、紫様。わたしには……」
「いいえ。あなたはやります。あなたは当代の魂魄なのですから」
「でも!」
思わず荒げた私の声で、幽々子様が眼を覚ました。
幽々子様は。
「んぅ……紫?」
私を忘れても、紫様を間違えなかった。
それでもう、決まりだった。
「おはよう幽々子。それでは私、そろそろお暇しますわ」
「あら、もう行っちゃうの?」
「ええ。心配事は無くなったから……それじゃあ妖夢、後は“お願い”ね」
「ま、待って……待ってください!」
呼び留めも虚しく、紫様はスキマの中へひょいと身を落としていた。
私はそれでも懇願せずにはいられなかった。
「お願いです。お願いします紫様。お願いですから……」
「駄目ですわ。いくら私が幽々子の友人でも、性欲処理を頼まれることはできません」
スキマは閉じてしまった。
後には私と幽々子様だけが居た。
「ねえ、ようき」
殺すべき自分と、殺されるべき大切な主人。
その他に、どうして此処には誰も居てくれないのだろう。
「わたし、お風呂に入りたいわ」
白玉楼の静けさと、祖父から受け継いだ二刀。
私はその両方を、生まれて初めて重く感じた。
◆ ◇ ◆
場所に湯殿を選んだのは血をすぐに洗い流せるからだった。他の部屋でやれば、畳や服に血が流れて、日毎に赤く染まっていくだろう。それを見て、私の心が耐えられるとも思えなかった。
欺瞞でしかない。どれだけ洗っても、流れた血の量は変わらないのに。
「加減は、如何ですか」
「ええ。好いわ。とても」
そうですか、と私は気のない返事をしながら、幽々子様の背に湯を流す。
幽々子様は亡霊で、肉体はとうの昔に土に溶けているのだという。しかしこうして触れる幽々子様の躰は、生きている人間と変わりなかった。人肌にしては少々冷たいけれど、お湯で火照った今は何の違和感もない。
幽々子様に痛みはあるのですかと、今更なことを紫様に問うた。訊かなきゃよかったと思っても遅かった。
――ほとんど貴女と同じだと思って構いません。貴女には難しいでしょうけれど“上手に”してあげて頂戴ね。
後ろから幽々子様を見る。桜色の髪がきれいだった。細い背に背骨のかたちが浮き出ている。うなじから流したお湯が、肩甲骨を通り、腰に達してお尻の下で音を立てる。お湯を弾く柔らかい肌。私はそれに手で触れる。安心する。
何度も考えた。この下には肉と骨と臓物があるのだ。だからどう斬っても駄目なのだ。どう刺しても上手くいかない。幽々子様の躰には血が流れている。必ず血が流れる。
こんな無防備な背中を、私に晒さないで欲しかった。
「ようき、ちょっとくすぐったい」
「ご、ごめんなさい……」
「ふふ。好いの。ようきが触れるの、わたし好きよ」
幽々子様が、本当に私を爺様だと思っているのか、実は未だによくわからない。いくら爺様がただ一人の従者でも、男に背中を流させるだろうか。
信頼されていたのか、信頼しているのか。それとも、そういったことすら思い至らないほどに、おかしくなってしまったのか。
私は、私が生まれる前のことを二人に聞いたことがなかった。聞く必要がないと思っていた。私には、爺様と幽々子様がいて、それで十分だった。けれど今はそれを後悔している。どうして教えてくれなかったのかと、思わずにはいられない。
爺様は、幽々子様は、どんな風に関係していたのだろう。
どんな風に、×して、×されたのだろう。
――私見ですが、白楼剣を使うのが一番効果的でしょう。白楼剣が迷いを断つ剣ならば死の実感もより鮮明となるでしょうから。私はもともとそのために拵えられたものなのだと……いえ、何でもありません。忘れてください。
閻魔様は何を言いかけたのだろう。
わからない。もう何もわからないまま、毎日こんなことをしている。
悪い夢だと、何度思ったことだろう。湯殿で素裸のまま、白楼剣を手にしている自分がいる。間抜けな格好だと思う。滑稽な、まるで場違いだ。何をやっている魂魄妖夢。この半人前。
あゝ可笑しいと、幽々子様のように笑いたかった。
「ねえ、ようき」
「はい」
「ようき」
「はい」
「静かね」
私はもう刃を引く音すら立てなかった。
――誰か教えて。
抜いた刀身の峰に左手の親指を乗せて。
滑り込ませるようにその背へ剣先を埋める。
脊髄、肋骨、肩甲骨を避けて。
致命への最短直線。
心の臓を刺し貫く。
――どうすればこの手応えを感じなくなるの?
会心の添手突き。
徒な震えは一切無く、無粋な暇は刹那も無く、慚愧の念は鋼にない。
仕損じようもない断命の一刀を。
――どうすればもっと上手く×せるの?
からんと、鞘が床に落ちた。
「……ぁ」
幽々子様が顎を引いて自分の胸を見下ろした。自分の胸の谷間から剣の切っ先が生えているのが見えるだろう。致命傷だ。
私は残心のまま、その最期を待つ。
「……××?」
この時、私はいつも喩えようのない安らぎを感じる。
幽々子様は今際に必ず“ようき”ではない誰かの名前を呼んだ。私の知らない名前で、毎回違う。私は、なんとなくだけれど、幽々子様が×してきた人たちの名前なのだと思っている。
たとえそれが知らない名前でも、その響きは確かに私が知っている、幽々子様の呼び声だったから。爺様ではなく、私を呼ぶ声だったから。
この時だけは、自然に応えることができるのだった。
「――はい。幽々子様」
ふっと、糸が切れたように幽々子様の上半身から力が抜けた。
同時に、私は白楼剣を素早く抜いて、放り出した。
幽々子様の背から、胸から、血が吹き出た。私は幽々子様に抱きついた。回した両の手で胸の傷を塞ぎ、押し付けた自分の胸で背の傷を塞いだ。体はこれ以上ないほどに近いのに、それ以外は果てしなく遠ざかっていく。
「幽々子様……」
幽々子様の血は、冷たくなっていく体とは対照的にお湯のようだった。それが私の胸を伝って、腹を流れ、腿を濡らし、足元に広がっていく。
抱かれているような温かさに、責務も忠義も慕情も何もかも溶けていくようで。
涙が溢れて、零れて、血に混ざっていった。
幽々子様は死んでいた。
「まだ、足りませんか?」
護るべきものがある。護りたいものがある。ちゃんと覚えている。
しかし、こんなに血に塗れた私は、本当にそれを護れているのだろうか。
「何がいけませんか。×し方ですか? まだ、下手ですか?」
確かめる勇気がない。私は、愛しい人を、背中から貫くことしかできない半人前だ。
この未熟さを、誰に謝ればいいのかもわからず泣いている。
それでも。
「わたし、もっと上手くなりますから。きっとお望みのように×しますから。がんばりますから。ねえ、幽々子様。お願いです。お願いします。お願いですから」
それでも、願っている。
幽々子様には笑っていて欲しいと、願っている。
「もう死んじゃやだぁ……」
そして叶うなら、いつか、私の名前を呼んで欲しい。
◆ ◇ ◆
――おはよう妖夢。
――おはようございます幽々子様。
――どうしたの? 涙が出ているわ。
――……いえ。幽々子様に名前を呼ばれたのが、嬉しくて。
――私はいつでもあなたを呼んでいるじゃないの。妖夢。
――はい。
――変な妖夢。
――はい。
――ねえ妖夢。
――はい。
――いやいや妖夢。
――はい。
――魂魄妖夢。
――はい。
――ようむ。
――はい。
――泣かないの。
――はい。
――ねえ、妖夢。
――はい。
――私、またお風呂に入りたいわ。
――もう、入りましたよ。
◆ ◇ ◆
帯。
腰紐。
長着。
長襦袢。
肌襦袢。
廊下に着物が足跡のように点々と落ちている。脱ぎ散らかした幽々子様は歩みをまったく緩めずにそのまま湯殿へ行ってしまった。私を置いて。
幽々子様の裸の背中が扉の向こうに消えたのを見届けて、私の体はようやく動き始める。落ちている着物を一つ一つ拾い上げ、丁寧にたたんでいく。
帯には帯の、襦袢には襦袢のたたみ方というものがある。それを教えてくれたのはこの抜け殻の主だ。私には母の記憶がない。家族と言えるのは爺様だけなのだが、声音を思い出すのには少し時間がかかる。寡黙な人だった。体格に合った、低くて重い声をしていた。思い出した。あの声で怒鳴りつけられれば、子供はきっと泣いてしまうだろう。
幸か不幸か、私にその記憶はない。代わりに鯉口が切られた音を覚えている。
――斬るということ。魂魄家の使命。あとは庭の手入れについて。
爺様は私に剣を教え、剣以外のことも剣で以って伝えた。爺様の教えはいつも正しかった。何も言わずに私たちの前から去ったのは、それ以外にやり様を知らなかったからだろうか。わからない。
けれど、もしそうだとしたら。
爺様の別離の剣を、私は何が何でも切り払う。
「ねえ、ようき」
瞬間、肩が震えた。怒鳴られた子供のように。
花弁のように柔らかく無邪気な声。
「ようき。ようきったら。はやくこっちにいらっしゃいな」
喉が震える。声を出すのを阻むように。返事をすれば、どうしようもないことがもっとどうしようもなくなっていく。わかっている。
手の中の肌襦袢を縋るように強く握り締めて、私は応える。応えてしまう。応えなければいけないから。
低くも重くもない少女の声で。
「す……すぐに参りますので。少々お待ちください」
「はやくしてね。はだかのままじゃ、さむいわ」
そこから先は他人事のように体が動いた。着物をたたみ、自分も服を脱ぐ。せめて薄物を身に付けたかったのだが、何故か幽々子様が駄々をこねるのだからしようがない。
リボンも、何もかも外して。生まれたままの姿で湯殿の扉を開く。
もう何も隠せない。
「お待たせ、しました」
「あら、ようき」
――斬るということ。魂魄家の使命。あとは庭の手入れについて。
「どうしたの。お風呂に剣なんて」
それ以外のことはすべて幽々子様から教わった。
幽々子様は母ではない、主だ。
でも今はそんなのどっちでもいい。
「私は、魂魄家の、人間ですから……」
どうして此処に居ないのですか爺様。
半人前の私は、貴方に、きっと重要なことを教わり損ねたのです。
◆ ◇ ◆
幽々子様がおかしくなってしまった。
「ねえ、ようき」
幽々子様が私を爺様の名前で呼んだ。最初は私も、また何かのおふざけかなと思ったのだ。
私は魂魄妖夢ですよと言うと、幽々子様は不思議そうな顔をして、
「ようむ? ようむ……あなたはようきじゃないの?」
と言った。普段からどこか呆けた所のある方だったが、その表情は真に迫っていて、明らかに異常だとすぐに感じ取れた。
幽々子様は、私を爺様だと認識しているらしかった。それが始まり。
「ねえようき。××を知らない?」
私の知らない名前を呼ぶ。知りません――本当に知らないのだ。ここには私と幽々子様と、あとは爺様くらいしか住んでいなかったから――と答えると「そう。どこにいったのかしら」と言う。
ふらりと庭を散歩したり、縁側でのんびりしたりと、生活はあまり変わっていない。ただ時々……子供のような行動を取られるようになった。例えば脱衣所で服を脱ぎ散らかしたり、とか。以前の幽々子様なら絶対にしないことだった。
そのうちに、私は気づいた。
妖夢と呼ばれることがなくなった。
私の主は、魂魄妖夢という存在を、そもそも知らないような様子だった。
すぐに、紫様に相談した。幽々子様のことで、この人以上に頼れる方が他にいなかったからだ。
紫様は、
「そう。もう、そんな時期なのですね」
と、落ち着いた様子だった。
紫様曰く、幽々子様に今起きているのは病気でもなんでもない、言ってしまえば――どうして紫様がそんな言葉を使うのか、わかりないのだが――生理のようなものらしい。
躰が、存在が、零となるべき過去を欲しているのだと。
「死を、忘れそうになっているのです。だから思い出そうとしている」
「死を?」
「そう。亡霊は死してなお生きているという錯覚から成り立っている、あなたも知っているでしょう?」
「でも、亡霊は……」
「死にません。もう死んでいるのですから。亡霊は死を拒んでいるのでも、忘れているのでもなく、思い出さないだけなのです。けれど自分ではそう思わなくとも、死は西行寺幽々子の前提……それが薄れてしまえば、とても不安定になってしまう」
だから思い出そうとしているの、と紫様は言った。
死を。かつてあの桜の下で起こしたという死を――。
「でも、そんなことしたら、幽々子様は」
「……もし幽々子が、あの時のことを本当に思い出してしまったなら、最悪、消えてしまうかもしれません」
「そんな……」
「しかし、対策はもうわかっているのです。あなたがそれをすれば、幽々子はいずれ元に戻るでしょう。“前”もそうだったから」
「教えてください紫様、幽々子様を戻すにはどうすれば……」
その時、紫様は少しだけ気の毒そうに眼を伏せた。
「……そう。妖忌は、あなたに何も教えなかったのですね」
「はい。何か理由があったのでしょうか?」
「望むべくもない、といったところかしら。無骨な人だったから、女の体のことを教えるなんてとてもとても」
「お、おんな……?」
「あとは……そうね。流石に後ろめたかったのかもしれません」
紫様は両の手で私の肩をしかと掴んだ。紫様の眼が私の眼を覗き込んできた。
眼を逸らすことすら許されないのだと、悟った。
「魂魄妖夢。あなたのすべきことを教えます。当代の魂魄であるあなたは、それを遂行しなければいけません」
「もちろんです。幽々子様のためなら、私は何でもします」
「……ああよかった」
あなたからそう言ってくれて私は安心しました、と。
紫様は、笑いながら、その言葉を口にした。
「西行寺幽々子を、殺しなさい」
幽々子様に笑いかけるのと、同じ表情だった。
何度問い返しても、答えは同じだった。
西行寺幽々子を、殺す。あの桜の下の死を思い出す前に、新鮮な死を、その躰に刻み付ける。そうすれば薄まった概念はまた元に戻ると、紫様は言った。
信じたくなかった。幽々子様を元に戻すためとはいえ……爺様が幽々子様を殺したなんて。
私にとって爺様は祖父であり、尊敬すべき先代であり、憧れだった。魂魄かくあるべきと、その手を見て育った。
その手は幽々子様の血に塗れていた。
そして、私の手も、これから同じようになる。
「しっかりしなさい。これは先代も為したこと。幽々子を支えるためです」
「でも、幽々子様は主です」
「大丈夫。あなたじゃ幽々子は殺せませんから」
「そうではなくて、私は幽々子様を護らないといけないのです」
「これは忠義に悖ることではありませんよ。なんならあのお方に尋ねてごらんなさい――」
私は礼もせずに飛び出した。三途の河で暇をしていた死神に詰め寄り、半ば脅す形で閻魔様へお目通りを願った。
押しかけた私にも、閻魔様は公正に応じてくれた。
私は期待していた。閻魔様がこの凶行を止めてくれることを。従者が主をその手にかけることが、決して許されない、この上ない過ちであることを。
期待して、そして、裏切られた。
「はい。こちらも西行寺幽々子が定期的にそのような状態になることを関知しています。それへの対処も」
「でも、そんなことは悪」
「いいえ。それは悪行ではありません。私があなたを裁くときも、それを罪とはしません」
「そんな……」
「魂魄妖夢。これはヤマザナドゥではなく、四季映姫という一個人の言葉として聞いてください」
閻魔様は、泣いている私を慰めたりしなかった。
「護るということは、傷つけないようにすることではありません。損なわれないようにすることです」
「そのためなら、どんな非道なことをしても善いのですか? そんなことがあるのですか?」
「あなたは半人半霊です。ならば弁えなさい。人と霊に対して同じ罪悪感を持ってはいけません。為すべきこと、為されるべきことが違うのです。先代はあなたにそれを教えなかったのですか?」
それがとても冷たく聞こえたのはきっと錯覚なのだ。閻魔様は平等なのだから、特別私に冷たく当たっているわけではない。
あゝもうどこへ行っても、その言葉は私に立ちふさがるのだろう。
「西行寺幽々子を弑すこと。それが今の貴女に積める善行よ」
不条理の冷たさは平等だった。
浄土も地獄もありはしない。
「お帰りなさい」
彼岸から白玉楼へ戻ると、紫様が縁側で幽々子様に膝枕をしていた。
「ひどい顔。少し横になったほうがいいわ」
紫様は寝ている幽々子様の髪を撫でていた。お二人の様子は、本当にいつもと変わらなかった。幽々子様の寝顔も。
それが無性に悲しくて、怖かった。
「他に、方法は、ないのですか?」
「これが一番シンプルでスマートなのです」
「わ、わたし。でも、紫様。わたしには……」
「いいえ。あなたはやります。あなたは当代の魂魄なのですから」
「でも!」
思わず荒げた私の声で、幽々子様が眼を覚ました。
幽々子様は。
「んぅ……紫?」
私を忘れても、紫様を間違えなかった。
それでもう、決まりだった。
「おはよう幽々子。それでは私、そろそろお暇しますわ」
「あら、もう行っちゃうの?」
「ええ。心配事は無くなったから……それじゃあ妖夢、後は“お願い”ね」
「ま、待って……待ってください!」
呼び留めも虚しく、紫様はスキマの中へひょいと身を落としていた。
私はそれでも懇願せずにはいられなかった。
「お願いです。お願いします紫様。お願いですから……」
「駄目ですわ。いくら私が幽々子の友人でも、性欲処理を頼まれることはできません」
スキマは閉じてしまった。
後には私と幽々子様だけが居た。
「ねえ、ようき」
殺すべき自分と、殺されるべき大切な主人。
その他に、どうして此処には誰も居てくれないのだろう。
「わたし、お風呂に入りたいわ」
白玉楼の静けさと、祖父から受け継いだ二刀。
私はその両方を、生まれて初めて重く感じた。
◆ ◇ ◆
場所に湯殿を選んだのは血をすぐに洗い流せるからだった。他の部屋でやれば、畳や服に血が流れて、日毎に赤く染まっていくだろう。それを見て、私の心が耐えられるとも思えなかった。
欺瞞でしかない。どれだけ洗っても、流れた血の量は変わらないのに。
「加減は、如何ですか」
「ええ。好いわ。とても」
そうですか、と私は気のない返事をしながら、幽々子様の背に湯を流す。
幽々子様は亡霊で、肉体はとうの昔に土に溶けているのだという。しかしこうして触れる幽々子様の躰は、生きている人間と変わりなかった。人肌にしては少々冷たいけれど、お湯で火照った今は何の違和感もない。
幽々子様に痛みはあるのですかと、今更なことを紫様に問うた。訊かなきゃよかったと思っても遅かった。
――ほとんど貴女と同じだと思って構いません。貴女には難しいでしょうけれど“上手に”してあげて頂戴ね。
後ろから幽々子様を見る。桜色の髪がきれいだった。細い背に背骨のかたちが浮き出ている。うなじから流したお湯が、肩甲骨を通り、腰に達してお尻の下で音を立てる。お湯を弾く柔らかい肌。私はそれに手で触れる。安心する。
何度も考えた。この下には肉と骨と臓物があるのだ。だからどう斬っても駄目なのだ。どう刺しても上手くいかない。幽々子様の躰には血が流れている。必ず血が流れる。
こんな無防備な背中を、私に晒さないで欲しかった。
「ようき、ちょっとくすぐったい」
「ご、ごめんなさい……」
「ふふ。好いの。ようきが触れるの、わたし好きよ」
幽々子様が、本当に私を爺様だと思っているのか、実は未だによくわからない。いくら爺様がただ一人の従者でも、男に背中を流させるだろうか。
信頼されていたのか、信頼しているのか。それとも、そういったことすら思い至らないほどに、おかしくなってしまったのか。
私は、私が生まれる前のことを二人に聞いたことがなかった。聞く必要がないと思っていた。私には、爺様と幽々子様がいて、それで十分だった。けれど今はそれを後悔している。どうして教えてくれなかったのかと、思わずにはいられない。
爺様は、幽々子様は、どんな風に関係していたのだろう。
どんな風に、×して、×されたのだろう。
――私見ですが、白楼剣を使うのが一番効果的でしょう。白楼剣が迷いを断つ剣ならば死の実感もより鮮明となるでしょうから。私はもともとそのために拵えられたものなのだと……いえ、何でもありません。忘れてください。
閻魔様は何を言いかけたのだろう。
わからない。もう何もわからないまま、毎日こんなことをしている。
悪い夢だと、何度思ったことだろう。湯殿で素裸のまま、白楼剣を手にしている自分がいる。間抜けな格好だと思う。滑稽な、まるで場違いだ。何をやっている魂魄妖夢。この半人前。
あゝ可笑しいと、幽々子様のように笑いたかった。
「ねえ、ようき」
「はい」
「ようき」
「はい」
「静かね」
私はもう刃を引く音すら立てなかった。
――誰か教えて。
抜いた刀身の峰に左手の親指を乗せて。
滑り込ませるようにその背へ剣先を埋める。
脊髄、肋骨、肩甲骨を避けて。
致命への最短直線。
心の臓を刺し貫く。
――どうすればこの手応えを感じなくなるの?
会心の添手突き。
徒な震えは一切無く、無粋な暇は刹那も無く、慚愧の念は鋼にない。
仕損じようもない断命の一刀を。
――どうすればもっと上手く×せるの?
からんと、鞘が床に落ちた。
「……ぁ」
幽々子様が顎を引いて自分の胸を見下ろした。自分の胸の谷間から剣の切っ先が生えているのが見えるだろう。致命傷だ。
私は残心のまま、その最期を待つ。
「……××?」
この時、私はいつも喩えようのない安らぎを感じる。
幽々子様は今際に必ず“ようき”ではない誰かの名前を呼んだ。私の知らない名前で、毎回違う。私は、なんとなくだけれど、幽々子様が×してきた人たちの名前なのだと思っている。
たとえそれが知らない名前でも、その響きは確かに私が知っている、幽々子様の呼び声だったから。爺様ではなく、私を呼ぶ声だったから。
この時だけは、自然に応えることができるのだった。
「――はい。幽々子様」
ふっと、糸が切れたように幽々子様の上半身から力が抜けた。
同時に、私は白楼剣を素早く抜いて、放り出した。
幽々子様の背から、胸から、血が吹き出た。私は幽々子様に抱きついた。回した両の手で胸の傷を塞ぎ、押し付けた自分の胸で背の傷を塞いだ。体はこれ以上ないほどに近いのに、それ以外は果てしなく遠ざかっていく。
「幽々子様……」
幽々子様の血は、冷たくなっていく体とは対照的にお湯のようだった。それが私の胸を伝って、腹を流れ、腿を濡らし、足元に広がっていく。
抱かれているような温かさに、責務も忠義も慕情も何もかも溶けていくようで。
涙が溢れて、零れて、血に混ざっていった。
幽々子様は死んでいた。
「まだ、足りませんか?」
護るべきものがある。護りたいものがある。ちゃんと覚えている。
しかし、こんなに血に塗れた私は、本当にそれを護れているのだろうか。
「何がいけませんか。×し方ですか? まだ、下手ですか?」
確かめる勇気がない。私は、愛しい人を、背中から貫くことしかできない半人前だ。
この未熟さを、誰に謝ればいいのかもわからず泣いている。
それでも。
「わたし、もっと上手くなりますから。きっとお望みのように×しますから。がんばりますから。ねえ、幽々子様。お願いです。お願いします。お願いですから」
それでも、願っている。
幽々子様には笑っていて欲しいと、願っている。
「もう死んじゃやだぁ……」
そして叶うなら、いつか、私の名前を呼んで欲しい。
◆ ◇ ◆
――おはよう妖夢。
――おはようございます幽々子様。
――どうしたの? 涙が出ているわ。
――……いえ。幽々子様に名前を呼ばれたのが、嬉しくて。
――私はいつでもあなたを呼んでいるじゃないの。妖夢。
――はい。
――変な妖夢。
――はい。
――ねえ妖夢。
――はい。
――いやいや妖夢。
――はい。
――魂魄妖夢。
――はい。
――ようむ。
――はい。
――泣かないの。
――はい。
――ねえ、妖夢。
――はい。
――私、またお風呂に入りたいわ。
――もう、入りましたよ。
前の作品も読んできましたが、何とも言えない雰囲気が漂っていて良かったと思います
一言で纏められないから、ちょっと長々と書きたい。
物語に淀みがないというか、最初から最後まで繋がっている感覚もそうだし、一つ一つの情景が浮かぶような美しさに満ちている。幽々子の異常、妖忌の思い出、妖夢の困惑と決意、そして凄絶でありながら愛情に満ちた殺害から、終わりまで。
で、設定の使い方。魂魄妖夢がなぜ刃を持つのか。魂魄妖夢がなぜ幽霊を殺す力を持つのか。そういう力を持った者が西行寺家の庭師なのか。そういうことまで容易に想像させる力に満ちている。背景まで作り込まれた感じが凄い。
妖夢はこれから幾度もの季節と共に、同じことを繰り返すんだろうな、とか、名前を呼んでもらう為に同じことを繰り返して、うまくできたら名前を呼んでもらえるんだろうか、とか、そういうことをするうちにそれをすることに違和感がなくなって、距離が近付くんだろうか、とか。何か色々なことを考えました。単純な愛欲に支えられたものではないのに、よりインモラルさとかエロティシズムを感じるというか、それでいて純愛よりも純愛であるのかもとか、そのどれもでありながらどれでもない、唯一無二の価値観、そういうものがこの作品の魅力なんだろうなと感じました。
いや、本当に素晴らしい物語をありがとうございました。乱文ですがコメントを添えて感謝の形としたいです。ありがとうございました。
妖夢に共感出来るものが多少なりともあるからなのかもしれない
素敵な作品をありがとうございます。
前半部分で以前読んだなーみたいな設定が続いて驚いたのですが、元になっていたのですね。
元作品はシュール部分に特化でいい意味で割と軽く流し読みできましたが、これはグサッときます。
妖夢の心情描写が切なくて、その分深い愛情を感じられて、バリバリ感情移入してしまいました。
うまく言えないんですが、エロというよりエロティシズムを堪能できました。
はあああ、よかったわあ…
なんというかこの世とはズレてるって印象が強めに出てて
合作っていうとシャーリーさん原案でMinisteryさんが文章担当かねえ