夢を見ている、と思った。うすもやのかかった視界いっぱいの既視感。夢は過去の記憶を整理する過程であると誰かから聞いたことがある。それともなにかの本で読んだのか……よく覚えていない。
とにかく、その一環で過去のことを思い出しているのだ――ちょっと前にいなくなったはずのそいつが目の前にいるのだから、そういうことなのだろう。
だからこれは夢だ。
内容は、別離の追体験。
「じゃあね、お燐。元気で」
らしくもない、変に静かで透き通った声で、そいつは言った。
これがふたりの最後とすれば、せめてそいつが背を向けるまでは笑っていてやりたかった。そうするためには仕方なく、ほんとに言いたかったことを苦労して喉の奥に押し込んで。
無理に笑顔をつくり、あたいは別れの言葉を口にする。
さよなら。
火焔猫燐の起床は、猫っぽい見た目に反して、それほど遅いものではない。近くの部屋に住む動物――燐と同じ、さとりのペットたち――が身支度をする物音で、自然と目を覚ますのが常である。最近はどうしてか、ちょっとだけ寝坊気味だ。夢見でも悪いのかもしれない。カウンセラーに相談してみるべきだろうか?
シーツにくるまれたまま上半身を起こし、しばらくぼんやりと虚空を眺める。真っ暗でほとんどなにも見えなかった。二重にかかったカーテンのせいというだけではない。人工太陽が点灯する時間まではもう少し余裕があり、それまではどこも常夜灯程度の光源しかない。地底のごく一般的な朝である。
あくびをかみ殺しながら二段ベッドを降りる。寝間着のまま、そして裸足のままぺたぺたと廊下へ出て、洗面所へ向かう。胸の前でゆるくまとめた、貧乏パーマ状態の髪が力なく揺れていた。
「おはよ、お燐。今日は寒いね」
「おはようございます燐さん」
「おりーん、うぃーっす……ってすげぇ眠そうだな」
ペット寮の長い廊下を歩いていると、燐よりも早起きな動物たちが口々に声をかけてくる。燐はそれぞれにあいさつを返し、鏡の前に立った。
ああ、確かに眠そうな顔をしているな。と燐は認めて、歯ブラシをくわえた。ペンを持つように構えたそれを小刻みに滑らせながら、目をこする。まだ覚醒には遠い。しっかりしろ、今日は大事な仕事の日だ。朝とはいえこうも気が抜けていていいものではない、と自分に言い聞かせる。蛇口からほとばしる水をすくって顔に叩きつけると、ようやく意識がはっきりしてきた。
「ちょっとお燐さん!? お時間ありまして!?」
「……なにさ、寮長さん。朝に空いてる時間なんてないよ、あたい」
タオルで顔を拭いているところで、小うるさい寮長が朝っぱらからうるさく話しかけてきた。低血圧とは無縁の彼女は、先輩たちから推薦の多かった燐が辞退したために寮長になったという経緯がある。そのせいか、なにかにつけてライバル視して燐に絡んでくる。いちいち相手にしていては身が持たないので、いつも適当にあしらっていた。
「文句があるなら仕事終わりにでもしておくれ。じゃーね」
おそらくゴミ出しの日を間違えたとか、夜に足音を立てるなとか、そういう話だろう。早々に切り上げるのが正解だ。
部屋に戻り、身づくろいを始めるころには人工太陽の明度が上がって、『朝』という名の時間帯が来る。光を受けてうっすら明るくなった部屋で髪をブラシで梳かし、いつもと同じ三つ編みのおさげにまとめる。リボンで留めたそれらを背に追いやって、燐の朝の支度は完了した。
「……よし」
玄関脇に設置してある姿見での全身チェックも済み、ようやく出勤だ。
扉を閉める前、二段ベッドの下の方を見やった。ここのところ、意味もないのに必ずそうしてしまう。夜間の空気に冷え切ったそこはベッドカバーがかけられ、今現在誰も使っていなかった。
この手狭な部屋の中で、そこだけぽっかりと穴でも開いているかのようだ。ルームメイトが地上――間欠泉地下センターへ出向してから、燐にはずっとそんなふうに思えてならなかった。
お空。元気でやってる? 風邪なんてひいてない?
好き嫌いせず、ちゃんとごはん食べてる?
誰かに迷惑かけたり、してない? ここからじゃ、あたいはフォローできないんだよ。
心配の種がいっぱいあるのに、この身は友達の傍にいられない。
燐には経験したことがない感情が、湧き出して止まなかった。
地霊殿の職員向け食堂で朝食をとった後、燐は自身が配属されている環境整備課には寄らず、まっすぐに古明地さとりの執務室に向かった。
地霊殿で最も奥まった部屋の前に立ち、襟を正す。さとりの私室に遊びにいくときは全く感じるものではないが、地底の主が仕事をしているこちらの部屋には、すこし威圧感を覚える。
「失礼します、さとり様」
「おはよう、お燐」
入室すると柔和な笑顔を浮かべたさとりが出迎えてくれた。緊張することはなかったか、と思わず肩の力が抜けてしまった。
さとりは最近、以前の陰気っぷりが嘘のようににこやかな顔をしていることが多い。彼女が春から推し進めてきた政策――即ち地上との交流が軌道に乗り始めたのがうれしいのだろうが、それ以外の理由もちゃんとあることは、燐にはお見通しだ。嫉妬深い誰かさんとうまくいっているに違いない。公私混同は控えてほしいものである。
「な、なんですお燐。そのじっとりとした目は」
「いいええ。なんでも」
さとりが燐の心のなにを読んだかは知らないが、若干笑顔をひきつらせながら燐に着席をすすめてきた。ふたりきりのようだし、遠慮なくクッションふかふかの上等なソファに腰を落ち着ける。
「さとり様、それで、ご用とはいったい?」
釈明を聞かされるのもやぶへびな気がして、燐は話を促した。昨日は大事な用があると言われただけで、さとりは詳しいところを話してくれなかった。仕事上がりでくつろいでいるところにそんなことを言われては、なにか大きなミスでもしでかしたかと少し不安になる。
さとりも表情を引き締め、内緒話をするかのように声をひそめた。
「落ち着いて聞いてくださいね。わたしは暗殺されます」
「……なん、ですって!?」
聞きとがめたが、燐の行動は理性よりも速かった。身を沈みこませていたソファを鋭く蹴ってさとりに飛びかかり、その身を引き倒して姿勢を低くさせる。乱暴だがこれは職務だ――せわしなく周囲に視線を向け、四方から今にも襲いかかってくるかもしれない何者かに備える。
焦燥感の中、燐は歯噛みする。さとりに危害を加えようとする者に、心当たりが多数あるからだ。燐からしてみればそいつらはひっくるめて敵と言ってしまえる者たちだが、最近特に活動が激しいのは地上との交流に反対している、いわゆる鎖国論を唱える一派である。比較的古い時代から生きる妖怪に多く、かつて地底に封じられたころのことを未だに恨んでいる手合いだ。感情を剥き出しにする古い妖怪。戦う相手としては、かなりの難物になるだろう。
もし鬼などが現れたら。燐は身震いする思いで叫ぶ。
「さとり様! いったいどこの誰に襲われているのですか!」
「お、お燐。あのね」
燐の股の間に押し込められたさとりが目を回しながらうめき声をあげる。燐はそんな彼女に、護衛の矜持を力強く宣言する。
「ご安心ください。たとえ鬼が相手だろうと、あたいの命に代えてもお守り致します!」
「お燐ひとまず聞いてください」
さとりが燐の足をぽんぽんと叩いてくる。落ち着かせるように。
なんだ、あたいはなにか早とちりをしたのか?
「ご主人がこう言ってるんだ。ちょっとは落ち着きなよ、猫ちゃん」
第三の声。今の今まで確実に存在しなかった場所から、それは聞こえてきた。背筋が粟立つ感覚に、取り戻しかけていた冷静さはいずこかへ吹き飛ぶ。
ほとんど目の前、さとりの執務机の上にあぐらをかいて座る謎の女。巨大な蛇――そう、蛇のような注連縄を背負った奇妙なその女は、不遜な顔で燐を見下ろしていた。
状況を把握できないながらも、燐は指先をぴたりと女の顎先につきつけて問う。
「誰だ。返答によっては、生かして返さない」
こういうときに有効ないくつかの手順が、既に燐の脳裏に浮かんでいる。と、股から這い出てきたさとりが燐の腕を掴んだ。
「だから聞きなさいって。その方はお客様」
「まぁ、なんだ。さっきのは言い方が悪かったと思うよ、古明地さとり」
まるで談笑するような空気で、さとりと女が困ったような顔を見合わせた。燐の混乱は加速するばかりである。
「そうですね……お燐、ごめんなさい。冗談のつもりだったのだけど、どうもわたしはうまくないわね、こういうの」
「え……」
口を閉じるのを忘れたまま、うめく。
「えええ? 冗談?」
「はい。冗談です」
さとりは真顔で言う。
もし冗談なら、こういうときこそ笑えばいいのに。もちろん燐にはどうしたところで笑えなかっただろうが。
「……いったいどういうことなんですか……」
相手がさとりであるため怒ることも難しく、燐は諦めて警戒態勢を解いた。
改めてソファに座ることはせず、立ったまま話を聞くことにした。
さとりが紹介しようとしている女が、さとりを護衛する立場の燐からは信用できないからだ。
「お燐、こちらは地上の守矢神社におわす二柱の神のひとり、八坂神奈子様です」
「よろしく。去年幻想郷に越してきて、いまは妖怪の山で神様やってるよ。今回は面倒をかけるね、猫ちゃん」
「……あたいは火焔猫燐。猫ちゃん以外の好きに呼んでもらってかまいませんよ」
ちょっと硬い口調で突き返すように言う。神だかなんだか知らないが、燐には関係ない話だ。重要なのはさとりに害があるか否か。客ということなら、それなりに対応はするつもりだが。なんにしても神奈子とやらは燐のそんな態度に、むしろおもしろがるように微笑した。
「ほぉう、ふっふ。新鮮な態度だな。山じゃあ、もうみんなびびってしまって……つまらん毎日を送っている。あとで一緒に遊ばないか?」
「八坂様、いまは話を先に進めましょう」
不穏な空気を漂わせる神をさえぎり、さとりが咳払いをする。
「ああ、すまない。この猫ちゃん、おっと、燐もなかなかやるようだから、弾幕遊びをしたくなってね」
神は燐のたたずまいを見て、なにやら勝手に想像しているらしかった。それを受けて燐も神を名乗る八坂神奈子の実力を推し量ろうと、目を凝らしてみる。それで見えないものが見えるようになるわけもないが、神奈子はだらりとソファにもたれかかっているだけなのに、何故か隙が見出せなかった。隙だらけなのに隙がない……?
実際にそうなのか、それともそのように見せかけるのが得意なのか。
いま襲いかかるとするならば、燐は有効な初手を打てないだろう。
燐に観察されているのを素知らぬふりをしながら、神奈子は話し始めた。
「外で信仰が途絶えかけてたわたしらが現れちまって、幻想郷のバランスに影響が出たのは知っているかな?」
「ここ最近は、地上からの情報もたくさん入ってくるようになりましたから……」
まだ話の方向性は見えてこないが、ひとまず首肯する。詳しいところは知らないものの、そういう話があるという程度には知っている。八坂神奈子、という名前も聞いたことはあった。
「幻想郷のことをよく知りもせずに飛び込んでしまったおかげで、まぁ、方々に迷惑をかけることになった。なにせ出てきたところが権謀術数うずまく『妖怪の山』だ。あそこの天狗たちに取り込まれるのは、たぶん悪いことだろう。そう思って、いろいろと手を打ったよ。博麗神社に喧嘩をふっかけたり……地底にもな」
「はあ、それで? ……ん、地底に?」
気のないあいづちを打って、そして聞き咎める。
それは聞いたことがない話だ。
「そうだ。霊烏路空、という地獄鴉に神の力を与えた」
「……え。れいうじ……うつほ?」
さらに突拍子もない単語が出てきて、間抜けにもおうむ返しをしてしまう。
霊烏路空。それは、お空のフルネームだ。
燐は思わず椅子を蹴って立ち上がり、詰め寄っていた。もう一歩踏み込むことができていたら、胸ぐらのひとつも掴んでいただろう。
「お空に、なにをしたと言った!?」
「おっと、落ち着きなよ、猫ちゃん。今すぐ遊ぼうってのかい?」
神奈子の目が好戦的な色を灯す。未だにこの女の懐に飛び込む算段はつかないが、もう関係ない。空にあの得体の知れない力を与えただと? 空はあれが原因でとても辛い想いをすることになった。あれはこの女のせいだというのか!
「八坂様、挑発はやめてください」
怨霊を呼び出そうと決意した瞬間、さとりが冷水を浴びせるかのような声で言った。タイミングを外されて発動しかけていた弾幕が霧消する。
神奈子もさとりに第三の目を向けられて、ひとまず動きを止めていた。それがさとりの攻撃の予備動作であると心得ているらしい。
「我々がここにこうして争わずにいるのは、互いに利を見出しているから。控えていただきましょう」
その静かな圧力に、神奈子は肩をすくめて攻撃態勢を解いた。
「お燐もお客様に無礼な口の聞き方はおやめなさい。熱くなると周囲が見えなくなるの、悪い癖ですよ」
さとりの矛先は燐にも向いた。燐はまだ神奈子を問い詰めたい気持ちをまったく衰えさせていなかった――空をひどい目にあわせたなら、それと同じだけの報いを受けるべきだ。しかし、さとりの意向から外れることも燐の本意ではない。
「……すみません。説明して、いただけますか。八坂……様!」
面従腹背とさとりにはわかりきっていることだろうが、形だけでも謝った。体裁を整えることは、常に本心を吐き出すことよりも重きを置かれる。
こうした場ではなおさらだ。
神奈子はまだ口元をにやつかせていたが、はたと我に返ったように真面目な顔をしてソファに座りなおした。
「いや、こちらこそすまない。バランス取りに腐心する反面、退屈しているというのは本当なんだ。それで、そうそう、あの地獄鴉の話だったな」
無言でうなずきを返すと、神奈子は少し考え込むように腕組みをして、やがてぴんと人差し指を立てた。
「わたしたちが妖怪の山に現れて、最も窮地に立たされたのはどこだと思う?」
「……お空の話では、なかったのですか」
「まぁ、ちょっと考えてみろ。どうだ?」
「地上で妖怪の勢力が増えて困るのは人間でしょう」
「違うな。正解は、地底の君らだよ」
「え……?」
理解できず、ぽかんと大口を開けてしまう。
地底と地上の交流は、あの騒動が起こるまで断ち切られていた。地底はそれほど余裕はないとしても既に完全な自給自足を成し得ている。地底追放後しばらくは地上から援助もあったと伝えられているが、そのとき借用した資金などを全て返還した後は、もうお互いに用はないとばかりに関係は消え去ったという。少なくとも、燐がかつて授業で聞いた限りでは、ずっと昔にそういうことになっていたはずだ。
「そんな馬鹿な。なぜあたいたちが関係あるんですか?」
「地底と地上の間にある感情の溝には、まだまだ埋めることが難しい部分がある、ということよ」
さとりが口を挟んだ。窓辺に立ち、中庭を眺めている。彼女もやはり、思うところがあるということなのか。
「わたしが『妖怪の山』と極秘裏に連絡を取ったとき、先方をとても動揺させてしまいました。山を代表する天狗たちは、後に八坂様から話を聞いたところ、陣営が真っ二つに分かれるほどの激論を繰り返したそうです」
さとりの申し出を受け入れて過去のことをお互い水に流し、友好的な関係を築きなおそうという者。地底妖怪たちの恐怖が忘れられず、申し出を断固拒否する者。事態を静観し、ひとまずの保身をはかる者。様々な立場と思惑が自然と彼女らの立場を難しくさせていた。
「最終的には、試験的な様子見の期間を設けて地底地上間の交流を試みる、ということに落ち着きましたが……」
神奈子も眉をひそめて複雑そうにしている。
「わたしも門外漢なりに、そのあたりは必死に勉強したもんさ。つまり燐、妖怪の山の感情からすれば、地底妖怪たちはまだ疎まれているんだ。何百年と時を隔てても、なお……」
「そんな……」
「そして、見たところ妖怪の山とこの地霊殿の戦力は、鬼を地霊殿側に含めて考えればきわどく拮抗している。そこに、わたしたちが来てしまった」
「そうか、つまりあんたたちを取り込もうとしてるっていう天狗は」
大体の事情を察して、燐は膝を打った。
「地底を攻撃したがってる奴ら……ってことですね」
神奈子が目を伏せる。傲岸な神といえど、負い目を感じているようだ。
「わたしたちは外の世界で信仰を、言い換えれば力を失って幻想郷へ来ざるをえなかった。そんな状態で天狗と真っ向から対立するのはさすがに骨が折れる。それでまずは、博麗神社に喧嘩を売って、『妖怪の山』に牽制を入れさせた」
「目的は、時間稼ぎですか」
「うむ。その間に、手を打った。単純な話だが、『山』がわたしのせいで力をつけちまったから、地底は一方的にやられることになる。なら、地霊殿のほうにも力をくれてやればいい。それが――わたしたちが霊烏路空に与えた神霊・ヤタガラスだ」
目まいがした。燐は拳を握りしめて脱力感を堪える。友達をどうにかした奴の首を今すぐ締め上げてしまいたいのに、理性がそれを押し留めていた。さとりがじっとこちらを見ている。燐の自制心はあまり信用されていないらしい。正しい判断だと思う。燐自身がさっさとそんなものを捨てて感情のまま暴れてしまいたいと思っているのだから。
――こいつは、地底のためだと言いたいのか。
そんなお為ごかしで、空は……!
「……あの地獄鴉は慕われていたのだな」
どきりとして顔を上げると、神妙そうな神奈子の顔が視界に入った。
神は燐の目を正面から見据え、そっと頭を下げた。
「すまん。わたしはおまえの大切な友を利用した」
「あ! い、いえ……」
神奈子の予想もしていなかった態度に燐はたじろいだ。
こんなふうに下っ端の妖獣程度に謝るような者には、燐には見えていなかった。
「理解して欲しいのは、あの空ほどの才覚がなければその身に神霊を宿すことはできなかったということだ」
「必要な犠牲、と言ってはあなたはまた怒るかもしれないけど。八坂様がヤタガラスを授け、またお空がそれを受け入れていなければ、地底はおそらく既に攻撃を受けていたでしょうね」
さとりも神奈子の言うことを補足する。やむをえなかったと納得すべきなのだろう。
「……すいません。わかっていました。お空は誰のことも恨んでない」
意気揚々と地上へ行ってしまった、空の笑顔を思い出す。空は力を得たことで増長し、地上に挑んで巫女に敗れた。そのとばっちりを受ける形となった地霊殿の皆から長いこと冷遇されていたというのに、あいつはそれをあっさり許した。燐でさえ腹に据えかねていたのに。
「……あたいだけが、理不尽に怒ってたんだ」
空はのんびりした奴で、他者の悪意に疎いところがあった。だから、空の代わりに怒ってやることは燐の役目だと思っていた。でもそんなのはきっと、ずっと余計なお世話だったのかもしれない。
さとりがなにか言いたげに身じろぎしたが、折り悪しく神奈子も同時に言葉を発した。
「話を続けよう。いいか?」
「……はい」
「空が神と同等の力を得たことで、地底と地上の力は再び拮抗したことになる。さとりがわかりやすく示威的に、空を地上へ送り出してくれたことが大きかったよ」
空は自ら望んで地上へ出たはず。もし空がそれを望まなかったら、どうなっていたのだろう。さとりはどうしてか燐と目を合わせようとしない。
「これで一件落着といけば、地上と地底のお互いにとって最良の形だっただろうが、そうはさせてくれなかった。天狗の極右過激派、飯縄(いいなわ)一派の横槍が入った」
「極右?」
「今さら地底妖怪と和睦なんてできるか、という意見を頑として変えない奴らだ。連中はとにかく地底との関係をぶち壊したくて仕方ないらしい」
神奈子は説明を続ける。
飯縄一派。曰く、彼女らは『妖怪の山』八大天狗がひとり飯綱権現の分家筋であり、そのお膝元で厳しい修業を積む天狗の集団であるという。天狗の在り方というのも多様化を極めて久しいこの時代に、純粋な山伏としての道を求め続けてきた屈強の妖怪たち。その矜持は類を見ないほどに高く、一派以外の同族でさえ見下す傾向にある。
新参者の神奈子たちを排斥すべしと声高に叫んだのも、当然のように飯縄一派だった。
「つまらん奴らさ。襲撃してきたのを何度かひねってやったら、もう直接わたしにゃ食ってかかってきやしない。大義名分もないのに大挙してわたしを襲ってこれないってのもあろうがね」
神奈子は既に、『妖怪の山』で正式に則って信仰を得ている。ヒエラルキーの頂点に位置する天狗であっても、もう戯れ以上のことはできないという。
「で、いくらか信仰の回復したわたしに勝てないことがわかったあいつらは、次の標的を思いついた」
「……さとり様が暗殺されるというのは、ようやくここで繋がるわけですね」
「察しがいいね」
「お話がいささか迂遠です」
「そいつは失礼」
神奈子は憮然と肩をすくめた。
「話をまとめると、こうだ。地底を叩くチャンスが来たと思ったら立ち消えて、いらついちまった飯縄のあほどもが無理やり地底と戦争を起こしたがってて、古明地さとりを狙い出した。さとりが死ねば地底と地上の友好関係は白紙どころか、一気に妖怪大戦争だからな。ああ、その先頭は君かもしれんぞ。これでいいか?」
「ふん。ですがどうやって? 地底にはあたいが……いや……鬼たちがいる。天狗も相当な力を持った妖怪ということは知っていますが、鬼には勝てないのでは?」
これは鬼たちの一貫した主張である。酒に酔うと我らに比肩するものなし、などと歌い出すのだ。
「ま、奴らは勝てると踏んでるんだろうが……さとり、どうかな」
「そうですね。わたしも幼いころ、山で天狗をみたことがある。天狗が鬼に勝るのはその速さのみでしょう。地底にいる限り、わたしは安全ね」
さとりが視線を逸らしたまま、含みがあるように言う。
燐は、慎重に応えた。
「つまり――地上に出れば、そうではないと?」
「三日後、わたしは『山』の首領である天魔様に呼ばれて、会談に臨むことになっています」
「さとりは、そこを狙われているんだ」
空気が重みを変えて燐の双肩にのしかかる。燐が呼ばれた理由が全て知れた。
霊烏路空と鬼を除いた、地霊殿最強の戦闘技能を持つ妖怪。それは古明地さとりの懐刀の異名を持つ地獄の輪禍、火焔猫燐に他ならない。
めまいをこらえながら、それでも燐は無言ではいられなかった。
「それは確かな情報なのですか?」
「ああ。目のいい奴と、目端のきく奴が仲間の天狗にいてな」
「敵が天狗で、味方も天狗? 信用できるのでしょうか」
「『山』は天狗の社会と言っても過言でないからな……だが飯縄一派は決して多数派じゃない。どころか、現在の主流派からは大きく外れた時代錯誤な奴らで、だいたいの天狗からは嫌われている。利害が一致してる別の一派から、そのふたりを借り受けているのさ」
「あたいたちと同じってわけですね……」
「無償の善意で助けてやるって言われるよりか、信用できるだろ」
想像してみると、たしかに不気味だ。誰もがまずは罠を、そうでなければ詐欺を疑うところだろう。
「鬼は、古の約定により地上へ出られない。地上でわたしを守れるのは、あなただけ……ついてきてくれますね、お燐」
さとりがようやく視線をあわせてくれた。燐は拒否しないだろう、と信じきった目だった。戦闘は得意だが、負ける相手には負けるのが燐だ。さとりの評価では、そんな燐が天狗と渡り合えるということになっているのか?
鬼に比肩しうるような妖怪と戦う。自信を持って勝てるとは、とても言えない。
だが、それでも燐はさとりのペットだ――さとりが信じる通り、返す言葉は決まっている。
「……はい。この命に代えても、さとり様をお守り致します」
「ありがとう。後のことは追って通達します。環境整備課の課長にはわたしから言っておきますので、明後日の出立までに準備を整えておいてください」
さとりが手振りでもう行っていいと告げる。
鬼に次ぐ妖怪、天狗と戦う。燐の背にさとりの命を背負って……
途方もない重圧を抱えたまま、さとりの執務室を出た。ふたりの密談は、まだ続くようである。
準備を整えろといっても、それほど大げさなものが必要になるわけでもない。その日の業務を終えてから寮に戻り、身の回りのものを鞄に詰め込んでそれで終わりだ。燐は幼いころから愛用している勉強机に突っ伏して、ぼんやりとした時間を過ごす。
隣にも同じ机が並んでいる。とぼけている割に変なところで几帳面だった空は、普段から机まわりはきれいに片付けていた。だから、こうして眺める分には、空がいなくなる前とそれほど印象は変わっていない。
が、よく見ると空が普段使っていたようなペンとか、こっそりのぞけば思わず笑ってしまうようなことがしたためられている日記帳とかいったものが、たしかに持ち出されている。友達がいなくなるというのは、その存在がこうして生活の中で感じ取れなくなっていくことなのだろうか。
「お空がいなくてさびしい! って感じ?」
「うわっ」
突然、部屋に大声が発生した。飛び起きてその音源を探すと、二段ベッドの上の方に黒い帽子が隠れきれずにひょこひょこと揺れていた。
「こいし様! 驚かさないでくださいよ」
名を呼ばれて、ひとりの少女が『ばぁ』と顔を見せた。
さとりの妹、古明地こいしだ。目深にかぶった帽子のつばを指で持ち上げて、燐の目の前で無邪気そうに笑っているのに、どこか存在の薄さのようなものを感じさせる。姉以上に不思議な妖怪だ。
いったいいつからこの部屋にいたのだろう。気にはなったが、こいしの奇行をいちいち真面目に考えていても仕方ないので燐は捨て置くことにした。部屋になにか燐が気づいていない異変があるのだとしたら、後でさとりに叱ってもらえばよい。
「えっへへ。ちょっと誰かと遊びたくなってさ。明日とか明後日とか暇?」
「明日はお仕事で、明後日もやはりお仕事で地上行きです」
「地上!」
こいしはぱんと胸の前で手を打ち合わせた。妙に嬉しそうに。
「お姉ちゃんの護衛で行くのって、お燐なの?」
「そんなことを、ご存知なのですか」
「わたしがいても遠慮なくお仕事の話するからさ、あの神様」
「それはこいし様がそうしようとしているからでは……」
「まあねー」
こいしは当然さとりと同じく覚(さとり)妖怪だが、『第三の目』を閉ざしてしまっているため、種族特有の読心能力を失っている。その代わりに妙な特技を持っていて、存在を悟られたくないと思えば誰にも彼女を見つけることはできない。こいしは無意識に潜んでいるのだ、などとそれを表現する。
自身の能力に対する哲学的な解釈を夜通し聞かされたこともある。一晩で忘れたが。
「ご安心くださいこいし様。お姉様はあたいが……必ずお守り致します」
「ねぇお燐さぁ、普通に喋ってよ。昔みたいにこいしちゃんって呼んでよ」
「む……」
唐突に話が変わった。これもまた、こいしとの会話ではままあることだった。
「お姉ちゃんのペットって、地霊殿で働きだすとみんなそうなっちゃうんだよね。わたし悲しいよー」
「むむむ」
「ねーえー、お燐」
「こ……」
「お燐おねえちゃん!」
「……こいしちゃん」
観念してそう呼ぶと、こいしは喜色満面といった感じでにっこり笑った。
地霊殿で働く動物たちはほとんどが皆、幼少のころさとりに拾われて、その手で育てられてきた者たちだ。歳の近かった燐や空は、幼かったこいしの遊び相手を務めることが多かった。
しかしやがて成長して職について、母も同然だったさとりが地底でどういう存在かを知ると、ちょっとは対応も変わってしまうというものだ。こいしに対しても、同様である。
「こいしちゃん、結局なにがしたいんですか」
「喋り方!」
「……なにがしたいのカナー、こいしちゃーん!」
昔の自分は果たしてこんなぎこちなくこいしと話しただろうか。そんなわけがない。
ひとまずこいしは満足そうに、にやりと笑った。滑稽な口調に失笑をこらえられなかっただけかも。
「悩み事を聞いてあげるよ。昔みたいに」
年下のこいしに、昔みたいに相談だと? と燐は訝ったが、記憶を探るうちに段々そうだったような気がしてきた。昔みたいな喋り方を強要してくるのはそういうことか。妙にすとんと腑に落ちてしまって、燐は無意識に――
「……ん!? こいしちゃん。いま、あたいになにを」
「ありゃ。効かなかった。うん、お燐の無意識を操ろうとした」
「なんてことするんですか。ていうかあたい、悩んでなんて」
「話をてっとり早くしようとしたんだ」
じろっと睨む燐の視線はどこ吹く風といったようにあっけらかんと、こいしはごめんねと両手を合わせてきた。
「でも悩んでるのはわかるよ。ほんとはお燐を驚かしたらさっさと帰ろうと思ってたんだけど。あんな顔してたらさ」
「こいしちゃん……」
やんちゃな妹のように思っていたこいしが、真面目な顔で燐を見つめていた。
この娘のこんな顔を見るのはいつ以来だろうか。第三の目を閉ざしてからというもの、こいしは情熱というものを失ったように燐には思えていた。そのこいしが燐のことを心から案じてくれているのなら、今感じていることを素直に話してみてもいい気がした。
「じゃあ、乗ってもらおうかな。相談」
「乗る乗る」
「お空がいなくて寂しいってことはないよ、別に」
「ほんとに?」
こいしがじっと目を覗き込んでくる。
まるで、そんなことないだろ、と言われているみたいだった。
見透かすようなその口ぶりは姉にとても似ている。あるいは、覚種族の悪癖じみた特徴なのかもしれない。
「……うん。もっと別のことだよ」
そう告げる。こいしは特になにも言いはしなかった。ただ、真剣な表情はそのままだ。
「……今朝、さとり様があの神様と話してるのを聞いて、なんていうのか……違和感あってさ。みんな外の世界、地上の方を見てる。さとり様も」
地底は今、激変の時代を迎えている。地底妖怪たちが地上に住む権利を回復させる第一段階としての、地底地上間交流。完全な復権は難しいと識者には言われているが、たくさんの妖怪たちが太陽のもとで暮らすことを夢に見ている。さとりはその大規模な計画の指導者で、空もそれに乗っかって地上へ行ってしまった。地霊殿全体で見ても地上関連の連絡窓口として外務課が設置されたことは記憶に新しい。
燐だけが、その熱を受け入れられないでいるのだ。
「あたい、この世は地底だけしかないんだと思ってた。地上に怨霊を送ったときだって、別に地上の心配なんてしたわけじゃなかった」
「お空暴走事件のときの話ね」
「ただあいつがおとなしくなってくれればよかっただけなのに、いつの間にかこんなことになっちゃって……わけがわかんなかった。だって、じゃああたいたちが地底でずっとやってきたことってなんだったの」
今まで地底でじゅうぶんにやってこれたのに。
地上に帰れるとなれば、あっさりとそれまでの暮らしを捨て去るのか?
声の大きい誰かがそうすると言えば、そうしてしまえるのか?
「お燐、それは……」
こいしは戸惑い、口ごもった。燐が道理に合わないことを言ったからだろう。
「地底生まれのわたしやお燐みたいな妖怪は、そこまで地上に興味ないって奴も多いよ? お姉ちゃんにしたって地底拡張工事を取り止めにしようなんて言い出してないんだし」
その呼び名が示すとおり、地底で生まれた世代の妖怪たちは、当然地上のことをなにも知らない。年寄りがたまに口にする、繰り言のようにしか思っていない者さえいる。燐もどちらかと言えばそうで、昔話に聞かされてもさっぱり共感できなかったものである。
そして、地底開拓史が始まって以来の最重要関心事である地底拡張工事は、今なお地霊殿首脳陣の頭を悩ませている。住民が増加すれば、住む場所も仕事も必要になる。ふたつの問題を一挙に解決する手段として、拡張工事は地霊殿側からは重宝されてきたというわけだが――過酷な労働実態に加えて崩落に坑内火災、ガス爆発といった大きな危険を伴うため労働者たちからは忌避されている。ここを鑑みれば地上に住める土地というものは、地底住民の感情云々を抜きにしても喉から手が出るほど欲しいといったところだろう。
「理屈じゃわかってるよ。でも……」
「うーん、じゃあ、なにが気に入らないの」
「あとは、天狗と戦うから、勝てるかな、とか……うーん……ごめん、こいしちゃん。よくわからないや、やっぱり」
「……そっかぁ」
こいしは落胆したように肩を落とした。
一方で、燐は今まで自分で気づいていなかったことに気づいてしまっていた。相談していたのがこいしでなくさとりであったなら、それはもっとはやくに明らかになっていただろう。
(あたいは――足踏みをしている。もしかしたら、あたいだけが)
動き出した地底の中で燐だけが、その立ち位置を見失っていた。
それをこいしに言い出せなかったのが何故なのかは、燐でさえわからないことだ。
「でもお燐おねえちゃん、いつでも相談、乗るからね!」
「……ありがと、こいしちゃん」
健気に言うこいしの頭を、帽子ごしに撫でる。こいしは目を細めてくすぐったそうに微笑んだ。
「ところで、わたしも行くからね」
「ん? こいしちゃん……も?」
「地上だよ、お姉ちゃんが危ないんでしょ。お姉ちゃんがいなくなるなんて絶対嫌だもん」
この『お姉ちゃん』はさとりのことだろう、となんとか理解したが、またしてもの急な話題転換についていけず、燐はまばたきを繰り返す。こいしがどういうことを言ったのか気づくと、思わず背筋と声が凍りついた。
「えっ、まずいですよそれは。さとり様のかわりにこいし様が狙われたって同じことですよ!」
「ちょっとお燐、喋り方……まぁいいけど」
「なにがいいんですか。絶対だめです」
「ウフフ、いくらお燐やお姉ちゃんがだめって言っても、わたしを捕まえることはできないでしょ?」
無邪気に、飽くまでも無邪気に、こいしはそう言った。
無邪気でないとすれば、主の妹にびんたでもしてしまいそうではあった。
「さとり様には報告しますからね!」
実際は半泣きでそう返すのが関の山だ。報告すればこいしは注意を受けるだろうが、燐もたぶん怒られる。理不尽である。
「でも真面目な話、わたし役に立つよ」
「うーん……」
護衛をしていると悟られない点はたしかにそうだ。あるいは妖怪の山に逗留中、間諜として動き回れるかもしれない。スパイ活動は燐も(ついでに言えば空も)得意な分野ではあるが、四面楚歌の敵地で援護もなしには難しい。そこをこいしならば、さとりと神奈子がどういう作戦を立てていてもおそらく単独で対応できてしまうだろう。
問題は、こいしの能力の詳細をこいし自身が把握しきれていないことだ。いつどんな不具合が起きて能力が使えなくなるかわからない。さらに、『妖怪の山』にはこいしの能力が通じない、あるいは対応できる妖怪だっているかもしれない。
燐はむずかしくうなり声をあげる。姉を守りたいというこいしの純真な願いは聞き届けてやりたいが……
「……やはりまずはさとり様に相談してからです!」
「だめに決まってるでしょう、お馬鹿」
その日の夜遅く、地霊殿で姉妹喧嘩が勃発した。
燐はやれやれと思いながらその場から退散して床につき、ぐっすりと眠った。
翌日は結局通常の業務に明け暮れ、寝る前にまたしてもこいしの襲撃を受けた。本人は説得に来たつもりのようで、自分の能力がどう役に立つか長々とアピールされた。燐にはさとりの許可がない以上、どうすることもできないので『能力はともかく、その口上はいつかお仕事に就くとき面接で役に立ちますよ』とだけ言っておいた。
夜が明けて今、燐は再び、さとりの執務室で密談に参加している。
参加しているのは前回のさとり、神奈子、燐に加えてもうひとり。
「こいつは白狼天狗の犬走椛だ。おととい言った『目のいい奴』だ」
神奈子に背をばしんと叩かれながら、その犬走椛は紹介された。神奈子にわずかに迷惑そうな顔をしつつも、燐に会釈をしてくる。
一見して、想像していたような天狗である。頭巾を身につけ、狩衣のようにも法衣のようにも見えるゆったりとした衣装で色素の薄い体を包んでいる。無骨な長剣を腰に佩いていることから、それを振り回して戦う剣士なのだろう――なるほど確かに、武器を取って戦う者特有の、硬く鋭い空気をまとっている。
しかし剣士は極端に無愛想だというわけでもないらしく、そっと手を差し出してきた。
「犬走です」
「あ……火焔猫燐です。お燐と呼んでください」
握手に応じながら、燐も名乗る。それにしても犬に猫か。神奈子もまさか、そんな冗談のために連れてきたわけでもないだろうが。
「あれ? 天狗の方がもうひとりいるとおっしゃっていませんでしたか?」
「そいつは別の仕事を与えている。たしかにこの作戦は、そいつを入れたこの五名が中核となっているが……」
「思ったより少ないですね」
「『山』にも秘密の作戦だからな。では、詳細を確認しよう」
神奈子は懐から折りたたまれた羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
「地上の地図だ。そこの犬走につくらせたものでな」
「はい。妖怪の山から縦穴……最近は『橋』と呼ばれているのでしたか。山の麓から橋までの地形を中心に作成しました」
椛はさとりと燐に気を遣ってか、わかりやすく説明した。地図には他にも人里やその近くに存在する地底大使館、また山の麓で建設中の間欠泉地下センターも記されている。地上の地理は詳しくないが、最新版と言っていいものなのだろう。
「まずはさとりたちに地上まで出てきてもらう。縦穴を出るまでは安全さ」
「そうですね……縦穴を出るまでは鬼たちにも護衛をさせますし」
さとりがうなずく。鬼が移動を許されているのはそこまでだ。
「道中に野良妖怪がいないこともないが、まぁもともと地底妖怪は恐れられているんだから、襲ってくるようなのはいないだろ。襲撃が予想される地点は――」
「妖怪の山に入ってからですよね」
燐が言うと、神奈子はおとといと同じように面白そうな顔をした。出来のいい子どもを誉めるかのような態度だ。下に見られていると思うと、燐には気持ちのいいものではない。
「正解と言いたいが、惜しい。山の勢力圏はもう少し広いんだ」
神奈子は地図の一点を示す。周囲の書き込みからは、すでに山深い場所と推測できる。
「まぁこのあたりからかな。本山を『偉大なる心臓』とするなら、ここは動脈だ。道幅が広くとられていて遮蔽物がないから馬車も速度を出せる。さしずめ高速道路といったところだな」
「問題は、わたしのような能力を持っている者からすれば……この街道はとても狙いやすい地点、ということです」
「犬走さんの、能力?」
燐が問うと椛は自分の目を指さした。鋭い切れ長の目に、黄色の光彩が静かな光を湛えている。
「わたしの目は千里を見通す。白狼天狗はわたしと同じ能力を持っている者も多いのです」
「ええと……飯縄派ってのの中に、白狼天狗は……」
「もちろん、いるさ。それも武闘派のが」
「うん? 見た感じ、犬走さんもじゅうぶん武闘派ですが」
「白狼天狗はどちらかといえば哨戒役の下っ端で、戦闘そのものは得意ではないのです。わたしは――」
椛は腰の剣の柄に触れて示す。鞘はずいぶん傷だらけで、相当な時代物であることをうかがわせる。一方で、よく手入れされてもいた。戦歴は確かなようだ。
「わたしはこれが他の同族より好きですから、多少は飯縄派の白狼天狗とも、烏天狗とも戦える。そう自負していますが」
そして台詞は控えめだが、誇りを感じさせる口ぶりである。
この白狼天狗は、本当に強いのだろう。
「飯縄派の天狗はこないだも言ったが、厳しい修業を好む奴らだ。犬走が無理なら白狼天狗には無理だな」
「過分なお言葉痛み入ります」
「とにかく、白狼天狗のなかでも特に危険な奴らが潜んでいるんだと思っといてくれ」
神奈子が再び地図の一点を指で叩く。
「ここからが重要なんだが……」
「……考えていることは伝わっています。遠慮なく言ってください」
言葉を濁す神奈子を、さとりが促す。どうやらさとりには言いにくい内容であるらしい。
「……ん。本来なら山狩りでもなんでもして、こっちが先手を打ちたいんだが……あえてここは、連中に手を出させなければならない」
「何故です?」
燐は即座に反駁した。
「さとり様の命が狙われているのに、初手を許す? どういうことなんですか」
「お燐、大義名分がないのはこちらも同じなのよ」
現状では襲撃は事前に察知されただけで、まだ行われていない。さとりや燐が『妖怪の山』でたむろしている天狗に襲い掛かる理由は存在していない、ということになる。
「ではわたしたちは関わらず、八坂様や犬走さんのみで飯縄派と戦えばいいのではないですか」
「歯に衣着せぬ奴だなあ。わたしは仮にも神様なのだが」
神奈子は若干呆れて苦笑いしている。
……たしかに態度が大きすぎる気がする、と燐はすこし反省した。しかし、さとりの安全のことを考えるなら、万難を排して望みたいという思いは譲れない。
空がいればな、と燐は思う。建設中の間欠泉地下センターでは既にヤタガラスの力の解析が始まっていると聞く。空はしばらく、あそこから離れることはできない。
「いいか、燐。これもさとりの前で言うのはどうかと思うんだが……」
「構いませんよ」
「すまない……では遠慮なく。わたしとしては、面倒な飯縄派を叩ければそれでいいんだ。本来は襲撃のことを地底側に教える必要すらなかった。放っておいても襲ってきた天狗を捕らえて芋づるで飯縄派を一網打尽にするのはたやすいし、ついでに交渉相手として最高級に厄介な覚妖怪も排除される」
「過分なお言葉痛み入ります」
さとりが椛の口調を真似て言った。誰も反応はしなかったが。
神奈子の言葉は続く。
「そこを真っ正直に伝えたのは、この一連の騒動がひとえにわたしの責任であるからだ。さとりがいなくなっては地底がこれからの交渉で著しく不利になる。それはやはりバランスを欠くだろう?」
天狗は弁が立つ妖怪であるという。目の前の神奈子もそうだ。対して地底側は、強力な種族である鬼を擁するものの彼女らは組織としてのまとまりが弱く、また最新の情勢に疎いところがある。地上での活動もまったく許されておらず、このあたりは今後の交渉次第なのだが……さとりが倒れれば、不平等な条件をいくつも強いられてしまうだろう。
「感情としても実態としても、さとりを守るべき理由があるのはそちらだ。ならば我々のほうはできるだけ、禍根を残さないようにしたいのだよ。襲われる賓客、それを救うわたしたち……といったようにな」
(あたいたちにも、天狗たちにもいい顔しときたいってのか)
「心配せずとも、いざとなればわたしがさとりを守るし、さとり自身そう簡単にはやられんだろう? だが、飯縄派が言い訳できない状況はつくる。これはさとりも納得してくれていることだ」
「まぁ、こちらとしても八坂様が知らせてくれたおかげで命拾いできそうですからね」
さとりは軽い調子で肩をすくめた。
「どんな思惑があるにせよ、感謝しています。それにね、お燐。相手の要求を飲んでおくのも後々に意外な布石の伏線となるものよ」
「相手の前でそれを言うのはどうかと思うがなぁ」
神奈子が声をあげて笑った。さとりも口元をゆるませている。
本当に、さとりはずいぶんと変わった。少し前は、交渉する相手とこんなふうに微笑みあうような妖怪ではなかった。地霊殿の主として仕事をしているときはもっとクールで淡々としていて、事務的な態度を崩すことはなかったと思う。良くも悪くも、空の地上侵略騒動がきっかけとなったことは間違いない。
あの事件は地底と、地底に住むたくさんの妖怪の運命を変えたのだ。
燐は、また漠然とした不安を覚えた。胸がしめつけられるような切ないくるおしさ。
変わる世界。
そして、変われない自分。
「ずいぶん急いでましたね」
「八坂様も危険を犯してる、ということよ。わたしたち……地底側の妖怪と共謀しているのが明るみに出れば、あの方も立場を危うくします」
『妖怪の山』のふたりを見送ってから、燐とさとりもすぐに地霊殿を発った。地霊殿職員から募った妖怪やペットたち、そして鬼の護衛団を引き連れて、旧地獄街道を馬車がゆるゆると進んでいく。
スピードを抑えているのは神奈子と椛が『妖怪の山』に戻る時間を確保するためである。慌ただしいにもほどがある――作戦自体が突貫工事の代物なので、調整も直前となってしまったのだ。わずかな話し合いをする数時間足らずのために地底地上間を往復することになった神奈子たちには、燐も同情を禁じえない。
「ちょっとぐらい立場が悪くなったって、あの神様は大丈夫なんじゃないですか?」
話し合っている際にまたしつこく隙を探ってみたが、どうしてもその糸口が見つけられなかった上に、その気配を悟られて何度もいやらしい笑みを向けられてしまった。最後には幻聴まで聞こえた気がした――遊ぶのはまた今度だよ、猫ちゃん。
燐が訓練で相対する鬼でさえ、まったく歯が立たないということはない。全身あざだらけになって数日うなされはするが、戦闘そのものは成立する。だがきっと――想像に過ぎないが――神奈子が相手では遊びにもならないだろう。妖怪と神では格が違うのだろうか。あの神が『妖怪の山』の天狗にいくら囲まれたところで、物の数にもなるまいと燐は思う。
だが、さとりは首を縦には振らなかった。
「八坂様自身はそうでしょう。しかし、立場を守ることは他のいろんなものを守ることにつながっているのです」
「あの神様が守りたいもの、とは?」
「おそらくはわたしと同じ。大切なものを抱えているのでしょう」
さとりの三つの目が、燐に向けられていた。思わずどきりと胸が高鳴ったが、燐は知っている。その瞳に映っているのは、もっとずっと大きなものだ。今回は目の前にいた燐がたまたまその代表となっただけである。
燐や空といったペットだけではない。地底で受け継ぎ、培ってきた全てを、さとりは守ろうとしている。化生の中において不気味な妖怪と蔑まれながら。
守りたいもの。燐は、どうだろうか。さとりは護衛対象であり、母も同然の存在だ。さとりのためなら命だって惜しくない。空は大切な友達で、あいつが助けを求めるならどんな些細なことでもその力になりたい。揺るぎない気持ちはこれくらいで、さとりほど広い視野を到底持てそうにない。
「すごい……な。さとり様も、あの神様も」
「大切なもののために戦っているのはあなたも同じでしょう」
「あたいは、尻込みしてしまうかもしれません。たとえば鬼と本気で戦えと命じられれば……」
勝てない相手に挑むことを、燐は恐れている。自分の敗北が、背に負ったさとりの命に繋がっていると思うと、弱い自分を度し難いほどに。燐がひたすらに弾幕を練り上げてきた原点には、そんな思いがある。
だから燐は、燐の手が届く範囲だけしか守ることはできないのだと、知っていた。ほんとうに強い相手には、燐は適わない。鬼たちや神奈子、博麗霊夢。椛のような天狗とだってどうなるかわかったものではない。あとは、そう――
きっと、空にも。
今まではそれでもよかった。燐が倒れても、後ろを任せられる者がいたから。空が去った今、鬼が出られない地上での戦いを、燐は想定しておくべきだった。
さとりが窓の景色を眺めながら、ぽつりと言う。
「そんなこと、ありませんよ。あなたは自分より強い者とだって戦えるじゃないですか」
車内の断続的な振動で聞き逃してしまいそうな声だった。なのに言葉は不思議と耳に残り、燐は思わずさとりの顔を見上げた。
少しだけさびしそうな、しかし確かな微笑みを湛えて、さとりは遠くを見つめていた。
その視線の先で、旧都の街並みがゆるやかに流れる。地霊殿から離れるに連れて、風景は少しずつ変わっていく。街の中心よりも背の低い建物が立ち並ぶその間隔も開いていき、綺麗に舗装されていた石畳は途切れる。平地から縦穴に向かうなだらかな斜面では、休耕中の田園を放牧された牛が闊歩している。田園の端から地底外壁までを埋める人工樹林は地上から持ってきた苗を植えたもので、長年の徹底した管理によって力強く育ち、縦穴からの鉄砲水を何度も防いできた。
ただの空洞をいちから開拓してきたこの地底は、どこを見てもその歴史が潜んでいる。自然そのままの場所など残っていない。いや、自然など存在しなかったとさえ言える。
自然も最初はただ外殻だけを与えられて、積み上げたものがやがてその形になっていくのだろう。
その様を妖怪の一生のようだ、と燐は思った。そうして堆積した全てが、ふとしたことで台無しになってしまいかねないところが。
「あたいは、そういう相手に勝ったことなんてありませんよ」
「わたしを負かしました。お空を守るために」
古妖に分類される種族のさとりは、普段は内政的な活躍が専らであるため先ほどは数えなかったが、もちろん紛れもない強者だ。
燐とは直接戦ったことがあるわけではない。
「それは……」
さとりが言っているのは、空の地上侵略事件のことだ。さとりが事態の収拾に動いたとき、燐はさとりに空の助命を嘆願したことを言っているのだろう。
たしかにあのときは、それが受け入れられねばさとりを倒してでもと、矛盾した思いを抱えていた。
「やっぱり、勝ってなんかいないと思いますが」
「あなたの目的は空をたすけることだった。それが達成されたのならば、勝ちでしょう」
「そういう――」
さとりに対して、頭に血が上りかける。それは温情をかけられたのと同じだ。
そして、実際にその通りだ。さとりは地霊殿の長として空を処断しなければならなかったが、その罪を燐が半分受け持つことで許し、この一件を解決としてくれた。燐はそのことに腹を立てる筋合いなどないと気づくと、それ以上なにもいえなかった。
「そういう解決が望めないときは」
途切れた燐の言葉をさとりが継ぎとった。
「それに近い解決を探すしかありません。重要なのは、目的を見失わないこと」
「妥協ですか」
「わたしは日々、妥協だらけよ。交渉ごとなんてそんなものだけど」
さとりは嘆息交じりに目をすがめる。『妖怪の山』に到着したあと、話し合いの席につくことを想像しているのだろう。会議は往々にして長時間に及ぶから、たまにはさとりも愚痴を漏らすことがある。が、すぐに肩をすくめて疲れを彼方に追いやる仕草をした。
「どんなにこちらが強気に出る備えがあっても、相手の感情がある。お互いにとって一番いい形を探すの。妥協とはそういうものよ……わたしたちは侵略者じゃないんだから」
妥協とは、お互いに歩み寄った証。譲り合い、理解し合った結果なのだと、さとりはそう言った。悪い意味ばかりではないはずの、そんな言葉。
しかし、燐が言いたいのはもっと差し迫った問題についてだ。
「でも八坂様の情報が確かなら、天狗との戦いは避けられませんよ」
「あなたはひとりでもなかなか強いと思いますがねぇ……」
さとりはどうして燐が不安がるのかわからない、といったような顔だ。
いつの間にか燐は、自分を信じることができなくなっていることに気づく。さとりの信頼が反転し、重圧となって燐の背にのしかかる。
「まぁ、この場合もやはり、あなたの悪い癖が出てるといったところでしょうか」
「え……?」
「あなたはひとりじゃないでしょう。他の護衛たちもいるし、『山』からは犬走さんたちも協力してくれます。なんでも勝手に背負い込まないで周りを見なさい、お燐」
言われて、ぎくりとした。馬車のまわりには、騎馬に乗った妖怪が多数随伴している。地底を抜けるまでは鬼だっている。ざっとメンバーを見渡せば、空ほどではないにせよ地霊殿でも頼りになる者で固められていることに気づいた。
彼女らはきっと、同じ想いでここにいる。
「あたいの目的は……」
さとりを守り通し、交渉の場へと連れていくこと。
「それは、天狗に勝つことじゃ、ない」
「そうね」
燐の呟きにさとりが律儀に応える。
「あなたもずいぶん大きくなったけど、まだまだ子供ね」
「す、いません……」
くすくすと笑われて燐は赤面を隠すためにうつむいた。その頭に触れるものがあった。
さとりの手。燐が幼かったときと変わらない、優しさのこもった手のひら。
自分だけこんなふうに甘えてはいけない、とは思うが。まさかその手を自分から振り払えるはずもない。だが――そうか。
空は。
まさにそれをやってみせた、ということになる。
燐にさえ、べったり甘えていたあの空が。
「ああ、やっとわかった。あたいは……」
「お燐?」
「こいし様に、聞かれたんです。なにか悩んでるのかって……あたいは」
一昨日、こいしに聞かれてはぐらかしてしまったこと。認めることができなかった曖昧なイメージが形となり、思考を形成する。さとりが読むよりはやく、燐はそれを言葉にしてみせた。
「単純なことだった。あたいはお空に置いてかれたのが、悲しかったんだ。だって――なんにも言えないよ。お空が自分から地上に行きたいって言ったんだもん」
目を輝かせて自分の夢を語る、空のことを思い出す。やることなすこと大雑把で、燐が世話を焼いてやらなければ目玉焼きひとつ作れない。そんな空はいつだって燐にくっついて幸せそうに笑っていたし、燐もそうしてやるのが面倒なはずなのにどうしてか嬉しかった。幼い頃からそうだったし、これからもずっとそうだと思っていた。
地上へ行くと、空は背を向けたまま言った。
あのときあいつは、なにを考えていたのだろう。燐にはわからない。こんなことは初めてだった。
ただ、燐と一緒にいたいのだと、思っていて欲しかった。
……空に願望を押し付けていただけだ。そう気づいたのは、空がもう地上へ行ったあとのこと。
「行かないでって言いたかった。言えばよかった! でもお空があたいから離れてまでやりたいこと見つけられたんなら、応援してあげなきゃって思ったの! だって」
壊れた蛇口から水がほとばしるように無理やり押し込めてきた言葉が、あふれ出した。ずっと無意識に封印していた悔恨の数々。こいしは知っていたのかもしれない。今にしてそう思った。だからあんなふうに、らしくもなく他者の心を突つくようなことを言ってきたのかもしれない。
激情は思ったよりも持続してくれなかった。不意に力を失い、さとりがこちらをじっと見ていることに気づく。混乱した顔を見られたくなくて手のひらをまぶたに押しつけた。
「だって、それが……友達じゃん……あたい、間違ってないよね、さとり様」
そうだと言ってくれれば、救われるのだと。せめてそれを与えて欲しくて、燐はか細くうめいた。
さとりは長らく黙ったままでいた。
やがて、ぽつりと呟く。
「あなたがもっと幼いころだったら、そう言ってあげてもよかった。でも、もう自分でちゃんと考えないとね。あなたが、空とどういう関係でいたいのか」
子供だなんて、笑ったくせに。
でも、きっと。
その考えるということが、空にできて、燐ができないでいることなのだろう。
すぐに浮かんでくる答えなら、ある。昔からずっと同じ、友達でいたい。
素直なまま、言いたいことを言い合えるふたりでいたい。
燐は、空をちゃんと送り出してやれなかったことを、今さらながら後悔した。
馬車が縦穴を抜けて地上へ到達し、鬼の護衛団が引き返したころには、燐も落ち着いて普段どおりの振る舞いを取り戻していた。
「すいません。取り乱してしまいました」
「本来なら叱るべきなんでしょうけど」
さとりは至って真面目な顔をしていた。さとりの冗談はまったく笑えないのに、こういう何気ない一言には不意を突かれて笑いそうになる。なによりもその、わたしは何も見ていませんでしたよとでも言いたげな、得意そうな顔には。
燐は揺れる馬車の中、慎重にバランスを取りながら立ち上がる。
「さとり様、鬼もいなくなったことですし、あたいも御者台で周囲を警戒します。なにかあれば呼んでください」
「はい。お燐、気をつけて」
さとりに見送られて、馬車の扉を開ける。護衛の都合でいちいち停車することはないので、タラップに足をかけて軽く跳び、一息に御者台に上がる。
内からさとりが扉を閉めるのを確認し、燐は進行方向を見つめた。
どこを見渡しても地底とは違う風景だ。まず先に立つのはそういう思い、つまり違和感である。地上に出てくるのは初めてではないが、見上げた先にある真っ青な天井の不気味な印象はまだまだ拭えそうにない。逆さに開いた果てしない底なし沼のようだ。
違和感はもうひとつある。燐は暇つぶしにと、御者の妖怪にその話題を振った。
「ああ、まぶしいな。あの太陽、もうちょっと明度が下がらないもんかね」
「ええ? あーそりゃ無理でしょ。あれは実は、ものすっごく遠くにあるらしいから」
見上げた先にある、もうひとつの地底との差異。地上最大の光源、太陽の遠慮会釈のない輝きには地底生まれの妖怪は辟易としていた。人工太陽はあれを模してつくられたものらしいが、光量を調節できないオリジナルは不便に思える。日照りなる現象で作物が枯れたりもすると聞くから恐ろしい。
「それよりお燐さー」
「……なに」
御者が二頭の牝馬に均等に鞭を入れながら、からかう調子で言った。
「なかなか激しい思いを抱えてたんだね」
「……聞こえるよね、そりゃあ」
燐は頭を抱えて御者台にうずくまった。ひとさまには見せられない顔を隠すためだ。
「安心しなよ、別に言いふらしゃーしないから」
「当然じゃね? 常識的に考えて」
「まぁまぁ。この任務が終わったら会いに行きなよ。お空って大使館勤めでしょ?」
「いや……今はたしか間欠泉地下センターってとこだよ」
「知ってんじゃん。別に絶交してんじゃないんだからさ、どーんと伝えちゃいなよ、愛」
「愛……?」
こういう意味不明なことを言う手合いが、実は地霊殿には多いらしい。
「でも、そうだな。あたいのことどう思ってるかは、聞きたい」
もし空を失望させたのでないのなら、ちょっとは気が楽だ。
ふと、思いつきを尋ねてみたくなった。
燐と空のふたりでいて、寄りかかっていたのはどちらだったか。周囲からみて、どうだったか。はっきり言われたらまたショックを受けてしまいそうなので、口にはしなかったけれど。
「聞け聞け……でも、今は集中したほうがいいよ。わかってると思うけど」
「ああ」
燐は短く答える。御者の注意は、確かにありがたくはあった。なんだかんだ言わずとも基本的にさとりは部下に大甘だから。
会う……か。燐は少しの間、思索に没頭した。たしかに、いま燐と空はふたりとも地上にいることになる。実に一ヶ月ぶりの大接近だ。今後のことも考えると、またとない機会なのかもしれない。さとりも任務が終わった後ならたぶん許してくれる。だが、こんな気もそぞろな調子では『妖怪の山』から生きて帰れまい。
その後しばらくは、何事もなく時間が過ぎた。徐々に位置を変えていく太陽を御者と不気味がったり、無為にしりとりなどして過ごしていた。話しかけてくるのは御者の方なのでさきほどの注意はなんだったのかと思ったが、たぶん気を遣われているのだろう。燐はそのように納得してやることにした。
神奈子が漏洩した襲撃地点に近づくと、さすがに御者も黙って手綱を握るのみになった。
燐は周囲を走る騎馬妖怪たちにそれとなく視線を送る。そろそろ本格的に警戒、という含意に仲間たちはわずかな首肯で答えた。
緊迫したまま、ただ馬の足音が響く。
まだ、なにかが起きる気配もない。もう十分に襲撃地点と言える場所を走っている。天狗たちはいったいどこから来るのか。
燐は、今度は周囲の地形に目を凝らす。神奈子が言っていた通り、開けた道だ。地底から乗ってきたこの馬車は二頭立ての立派なものだが、向かいから同じものが通りかかったとしても余裕を持ってすれ違うことができるだろう。
前後は見晴らしがよい。ならば、左右それぞれに広がる薄暗い山林からか? 御者も同じことを考えたようで、手綱を操って道の中央へ馬車を走らせる。
強い風が吹いた。一瞬ほど目を開けていることができなかった、横殴りの突風。とはいえ、この程度で横転するような軽い馬車ではない。妖獣一歩手前の馬たちもなんの痛痒を覚えることもなく、力強く大地を踏みしめ――
感心しかけていると、地に大きな影が落ちた。馬が悲鳴のように高く嘶く。
焦燥が瞬時に背筋を這い上がる。
「上だっ!」
叫ぶと同時、それは燐の視界に入った。
樹齢でゆうに数百年を越すような巨木が――空から落ちてきていた。
ほとんど冗談のような光景だった。隣の御者もあんぐりと大口を開けて言葉を失っている。
(まずい――)
これほどの大きさは、破壊できない!
普段はまず撃たないような大粒の弾幕を放とうとしながら、それでもなお足りないであろうという自身の予測に戦慄する。燐だけなら避わすのはもちろん容易いのだが。
(さとり様……!)
巨木が、迫る。
と、背後で扉が蹴り破られる音がした。どこにそんな余裕があったのか燐が振り向くと、決死の形相のさとりが飛び出してくるところだった。
破壊の音が轟き、巨木が馬車を砕く。辛うじてその一撃を脱した燐と御者は、その様をさとりに抱き抱えられたまま見ることができた。
全ては一瞬のことだ。さとりが着地してふたりを降ろしていると、周囲を駆けていた騎馬たちが急旋回して置き去りになった燐たちのもとへ戻ってくる。
「ご無事ですか、さとり様!」
「ええ、なんとか。お燐、よく知らせてくれました」
さとりは燐の念じた思考を、しっかり読み取って動いてくれたようだった。さとりの命を守るためなら、さとりの手をも借りる。それ自体は恥じることではない。が、力不足を否応なく痛感する。
「いいえ。お手をわずらわせてしまい……」
「命があるだけでもうけたものです」
さとりは落ち着き払って言う。その目は難を逃れられなかった牝馬の姿を映していた。
「それよりも」
その声は必要以上に低く抑えられていた。さとりが牝馬たちから視線を引き剥がすように、遠くを見つめる。進行方向、砂埃にかすむその先に、雲を貫くような『妖怪の山』がその姿を現していた。
「ここまで強引な手段で来るとは、ね。火炎瓶程度を想像していました」
「さとり様、やはり……」
「ええ、天狗の仕業ね」
それも、強大なる種族の中で武闘派の名を冠する飯縄一味の。
「周囲を警戒しろ! もういつ来てもおかしくないぞ!」
燐は声を張り上げる。千里眼の能力を持つ白狼天狗が敵方にいるのなら、巨木の一撃が回避されたことはとうに知られているはず。風よりも速いと謳われるその飛翔なら、ここまで来るのにもう幾許もない。
「お燐……!」
今まで目を回していた御者が怯えたような声を出す。彼女は非戦闘員だった。
「さとり様にくっついてろ。もしものときは盾になりなよ」
「わかってるよ、そうじゃなくてもう来てる!」
指をさそうとしているが、目が追いつかないようだった。
羽ばたく音が幾重にも折り重なるように聞こえてくる。御者は燐よりも鋭敏な聴覚でこれを聴き取っていたのだろう。
多数の天狗たちが降り立つ。皆一様に黒い布で顔を隠して、おもちゃのような短刀を構えている。暗殺者たちはその身に暗い殺気をみなぎらせていた。
燐たち護衛はさとりを中心に背を向けて、円陣に構える。
「我々は忌み妖怪どもの帰還を許さない。これは『妖怪の山』の総意である」
先頭に立つ天狗が高下駄を踏み鳴らして、見え透いた嘘を叫ぶ。地底と地上の仲違い工作――突然襲撃されてこれを言われては、頭に血が上っていただろう。
故に、まずはその演技をする。
「裏切ったか! 腐れ山の天狗どもめ!」
挑発するように口汚く罵りながらも後退り、気圧されたようにさとりへの包囲を狭める。焦っているように見えていればいいが。
「吠えるなよ、穴もぐら――」
おそらくは『山』の立場を見せかけた後は、問答無用で始末しろとでも命じられているのだろう。ほとんど間髪入れずに、天狗は再び飛び立った。単純にまっすぐ飛び込んでくる者、かく乱するように縦横無尽に宙を駆け巡る者、それぞれがまるで暴風のようだ。目視では到底追いつけない。
天狗の最大の狙いはさとりだ。ならば、さとりを狙う者だけを防ぐ!
(初対決だが、初手さえ防げば!)
出し惜しみはしない。さとりの背後を突こうとする最も素早く忍び寄ってきた天狗に向けて、燐は必殺の弾幕を展開する。
贖えぬ罪の怨霊怨嗟、『旧地獄の針山』。天狗のトップスピードでは正面衝突を避けられないタイミングで、針の群れと怨みのこもった霊魂を同時に炸裂させる!
十分に、引きつけた――はずだったが。
燃えるような瞳で燐を睨みつけた天狗が、急激な機動を見せて弾幕の隙間を縫うようにすり抜けていく。
(くそ……鬼とは、違う意味での――化け物だ!)
追いすがり、背後に手を伸ばす。爪だけが天狗の衣服をかすめ、しかし天狗は意に介さぬとばかりに短刀を振り上げていた。
たったの一手さえ、届かないのか。
引き伸ばされたような時間の中で、暗殺者が短刀をさとりの背に振るう。燐は目を閉じることさえできなかった。さとりの第三の目が、するりと動いて暗殺者をその視界に収めるのが見えた。
わずかな光が、既に放たれている。
「想起、『エクスパンデッドオンバシラ』」
巨大な柱が虚空から現れ、天狗をあっさりと叩き落した。その再現は一瞬で終わったが他に類を見ないほど強大な弾幕だった。元となった弾幕の使い手も相当だが、さとりにしてもそれは同じだ。その精緻な再現度は言うに及ばず、たとえば鬼の弾幕を再現したとしてその威力を衰えさせることもない。トラウマを探り出す手際は相変わらずというか、さとりにとっても会心の出来だろう。
「誰の弾幕かしら。もう聞けないけど」
さとりは地に伏した天狗に冷たい一瞥をくれ、そう言い捨てた。
「怯むな! 古明地さとりを殺せっ!」
先頭に立っていた天狗が苛立ったように叫ぶ。新たに二羽の天狗がさとり目がけて飛翔した。多少は慣れたが――速い! 初速も加速も、どんな妖怪よりも段違いだ。せめて一羽の進路を塞ごうとする自分が、まるで違う時間の中を動いているかのようだ。
なんとか滑り込む。が、弾幕を張る余裕もない。天狗の喉元を狙った乾坤一擲の手刀を放つ。ほぼ賭けだったが、指先にはざくりと手応えが帰った。致命傷は与えられなかったようだが、その進路を逸らすことには成功する。
もう一羽は、さとりがまた見たことのない弾幕で吹き飛ばしていた。さとりの的確なタイミングで、常にトラウマを攻撃され続けるのだ。思うように戦える妖怪などいない。
まだ凌げる。燐だって次はもっと的確に天狗を捉えてみせる。仲間はどれだけ耐えていられるだろう? 事態が好転するまでは、なんとかこのまま持たせるしかなかった。
ひゅん、と黒い影が視界を横切った。燐は愕然とする――時間差でもう一羽、天狗がさとりに迫っていた。さとりさえも気づいていなかったらしく、驚きにひび割れた、珍しい顔をさらけ出していた。
(くそ!)
胸中で毒づく。間に合うかもしれない。が、天狗たちは集団戦術にも精通しているのか、燐にさえ新手が迫っていた。さとりを守るか、自分を守るか。これは燐にしかけられた二択の罠。
甘く見られたものだ。それとも天狗はこういう状況で護衛対象より自分を優先するのか? 燐は迷いなくさとりの前に躍り出て、天狗の短刀を持つ手を逆にとって捻じりあげる。すかさずさとりが光線を放ち、悶絶する天狗を無力化した。
その代償、波状攻撃の最後の波が、燐の背に迫っている。見なくてもわかった。いつ刃を突き入れられてもいいように、覚悟を固める。万一でも天狗が狙いを外して骨にでもひっかければ、刃が滑って軽傷で済むかもしれない――などと、それこそ相手を甘く見ているか。
刺してみろ。次の瞬間に、目が覚めるような反撃を食らわしてやる。
ぎん、と硬いもの同士がぶつかりあう音がした。
本当に骨にひっかけたのか? と思ったが痛みはなく、そもそも体になんの衝撃も伝わってこなかった。訝って、背後をそろりと見やる。と――
最初は、突然天狗たちが仲間割れをしたのかと思った。
燐と暗殺者の間に割り込んだ白狼天狗が、その長剣で短刀をしっかりと受け止めているのだ。混乱しかけるが、剣を構えたその天狗が誰か、不意に気づく。
「あんたは――」
「すみません。足止めを食って、遅くなりました」
場違いなほど静かな声。声の主はそれを言い終わるや否や、一転して苛烈な動きで剣をひるがえし、暗殺者の胴をなぎ払った。
犬走椛が濡れた剣を振って血をはらい、遠吠えのような叫びを発した。
椛と似たような格好をした白狼天狗たちが駆けつけてくる。彼女らは空間を引っ掻き回している暗殺者たちにそれぞれ飛びついて応戦を始めた。
「既におまえたちが飯縄派の手の者ということは知れている。おとなしくしなければ、その首と胴が泣き別れの目を見るが?」
椛が一刀を浴びせた天狗に鋭く言い放つ。
「そういう貴様は、どこの木っ端天狗か!」
「『山』の賓客を襲う輩を始末せよとは、風の神、八坂様が仰せになったことだ。お覚悟を」
「よそ者め、偉大なる山の顔気取りをしおって!」
それなりに深手を負っているはずの天狗が目を血走らせ、声を震わせる。どうやらよほど神奈子のことが気に食わないのか、その怒り心頭ぶりは尋常ではない。
「犬走さん!」
燐が呼ぶと、背中を向けたまま椛は片手を挙げて答えた。その腕には小ぶりな盾が装着されている。地底に来たときはつけていなかったから、戦うことがわかっているときだけ装備するのだろう。よく見ると脚絆や手甲といった部分にも鎧じみた装甲が追加されている。ゆったりした狩衣の下も、もしかしたら同じようなものが仕込まれているのかもしれなかった。
完全装備の椛に、暗殺者は怯む。天狗同士の戦いは想定していなかったのか、目に見えて困惑している。
椛はその隙を逃さず、打ちかかった。どん、と地響きを鳴らして踏み込み、工夫なく真上から剣を振り下ろす。シンプルな動きは、逆に速ければ速いほど回避を難しくさせるものだ。天狗の手から短刀が弾き飛ばされて宙を舞った。天狗が体勢を崩したところを、椛はさらに追撃する――肩口から体当たり、そして裏拳を打つように盾で殴りつけて仕留める。流れるようで、そして強力な攻撃だった。何千何万回と練りこまれた型なのだろう。
「……弾幕を使わないのですか? 繰り返すが、既に正体を隠す意味はない。音に聞こえた飯綱の法に挑むまたとない機会、なのですが」
椛が挑発するように切っ先を下げる。また別の天狗がそれにつられて弾幕を撃とうとする――その様子を見せた刹那、間合いを詰めた椛の刺突が、天狗の肩を貫いていた。生真面目そうな椛が悪辣とさえ言える手を使うことに燐は驚く。
「ああ、失礼。隙だらけでしたので」
「犬走さん!」
苦悶にくずおれる天狗が椛の剣を掴むのを見て、燐は叫んだ。別の天狗が動きを縫い付けられた椛に襲い掛かる。
椛はそれを見もせずに盾で殴って退け、剣を力任せに引き抜く。これは、千里眼の能力ゆえの芸当か。
「お燐さん、行ってください。ここはわたしたちにお任せを」
戦いながら、椛が言う。その声に含まれたわずかな焦燥に気づき、燐は周囲を見る。黒布を巻いた飯縄派が、落ち着きを取り戻しかけている。その統率は、さすがと表現すべきなのだろう。一時は押していた椛の仲間も劣勢に追い込まれ始めていた。
離れたところでは、護衛も何名かが倒れている。生きているのか、それとも死んでいるのか。燐は頭に血が上りかけているのを自覚した。今すぐ天狗どもの顔に爪を立てて、仲間の報いを食らわしてやりたい。だが、さとりが燐の肩を強く掴んだ。
「お燐、わかっているわね? あなたの目的は」
「く……っ、わかり、ました」
椛は飯縄派天狗の初手をやり過ごしたあとの役割分担に従っている。
さとりと神奈子の作戦通りに、燐もそうすべきだ。
「あたいに続けっ! 囲みを突破する!」
天狗への意趣はやむなく飲み込み、さとりの手を引き走り出す。
他の護衛たちも後ろを警戒しながら続く。
「お燐、馬が全部やられた。あたし役立たずー」
「盾のお役目、期待しています」
「さとり……様……? 冗談ですよね?」
相変わらずのくだらなさに必死に走る御者がさらに顔を真っ青にする。くだらないというよりも、さとりが言ってしまうと冗談と受け取りにくかった。
足は失ったものの、まだ概ね予定通りだ。まだ追い詰められたわけではない。
だが、今の急場を凌げたのは椛たちのおかげだ。次に襲われたとき、燐は天狗をどう退けられるのか。
剣戟の音が遠ざかる。振り向こうかとも思ったが、やめた。倒れた仲間や椛たちを気にしたところで『妖怪の山』までの距離が縮まるわけでもないと、燐は歯を食いしばる。
ぎりり、となにか硬いものがこすれる音が、した。
全力で敵を引き離す。少なくとも燐たちにとってはそうしたつもりだが、天狗相手にどれほど距離を稼いだところで安心すべきではないのもわかっていた。
それでもどこかで一度足を止めて、現状を把握しなければならない。
「どれだけやられた?」
「馬は全部」
「半減はしてないな。えーと……」
仲間が指折り数えて告げた数字は燐を歯噛みさせるのに十分なものだ。脱落した者は、椛たちに保護されていることを祈るしかない。
脳裏に叩き込んだ地図を思い起こす。『妖怪の山』までたどり着けば、正式な迎えを寄越すと神奈子は言っていた。麓まではまだしばらくかかる。その予想さえ見知らぬ土地を警戒しながら徒歩でという想定では甘いはずだ。
先ほどの奇襲は、考えれば考えるほど見事だった。道幅いっぱいの太さを持つ巨木による問答無用の一撃。こちらを殲滅しないまでも、馬車は確実に破壊できる。いや、殲滅しては『妖怪の山』の偽りの立場を示せない。飯縄派の天狗たちはまさに最適の選択をした、と言えるのだろう。
だが、徒歩なら徒歩で選べる道というものがある。
燐は薄暗い山道を見通すように目をすがめる。あのだだっ広い道を行くよりは見つかりにくいはずだが、伏兵が潜んでいる可能性はある。固まっていては一網打尽にされるか、また囲まれるか。とにかく望ましくない結果が待っている。
「……あたいが先行して、道を確保する」
ぞくりと体が震えた。どれだけの天狗と戦えるつもりでいるのだ、と冷静な自分自身が叫ぶ。仲間も心配そうに燐を見ている。おそらく燐は、顔面を絶望的なまでに青褪めさせているのだろう。この場に鏡がなくてよかった。怯えた自分を自覚すれば、もう動けないかもしれなかった。
「大丈夫なのか、お燐」
「やるしかないだろ。この中であたい以上に戦えるのはさとり様だけなんだから」
「気負うなって話だよ。あたしたちは究極引き返したっていい。さとり様の無事を確保するためならそうもするよ」
さとりがすぐ近くで聞いているにも関わらず、仲間のひとりは言った。その選択肢はありえない、という顔をしているが、護衛の判断を尊重してか黙ったまま看過してくれた。
「確実に進めるなら、それを選ぶべきさ。先行したあたいが天狗に襲われてるうちに、『山』まで一気に行っちまってくれ」
「お燐がやられたら次はあたしがそれをやるのか? ぞっとしないな」
「もともとそれが仕事だろ」
「ああ、たしかに」
燐を含めた護衛たちは声を潜めて笑いあった。さとりには通じなかったのか、場違いな笑いに困惑している。
「なあ、もう勝ちは確定してるんだ。あたいらがどうなろうと、『山』から帰るころには八坂様が飯縄派を掌握できる立場にいるはずさ。こっちだってさとり様さえ無事なら、その機に乗じることができる」
神奈子は秘密の作戦と言っていた。それはつまり、『妖怪の山』の頭領とされる天魔も、飯縄派の暴走を知らないということだ。さとりと神奈子は天狗たちの失態を、交渉を有利に進めるためのカードとして使おうとしている。ならば、燐たち護衛はその最適な切りどきを用意してやるべきだ。
「これからの……地底のことを思うなら、進むべきだよ。じゃ、あと頼むね」
仲間の肩を叩き、燐はさとりに会釈する。
主は、変わらずに信頼しきった目だ。自分自身を信じきれない妖怪を……
「気をつけて。わたしはそれでも……他の皆と同じように、あなたがいなくなったら寂しいですから」
さとりは優しすぎる、と思った。本来ならこんな血なまぐさい政争になど関わらず安穏とした日々を過ごしているべきなのだ。だが他ならぬ彼女がそれを受け入れて地底と幻想郷の暗部に関わっているのだから、燐がどうこう口出しすることはできない。
せめてその笑顔が曇らぬよう、各々のやり方で戦うこと。
それが燐たちペットにできる、全て。
「ええ、必ず生きて還ります、さとり様」
燐は答え、疾走を開始する。
森の中、不穏な気配を既に感じていた。飯縄派の戦力があの襲撃の場にどれだけ投入されたかを、燐は推し測る。全部で二〇名の護衛を上回る数ではなかった。その中で燐と相対したのは、おそらくは先頭に立っていた天狗だろう。
あの天狗に打ち込んだ贖罪『旧地獄の針山』は燐の弾幕の中では、攻撃力と擬似的な速度に重点を置いたものだ。無数の針が敵の進路を塞いで足を鈍らせたところを、強力な怨霊で仕留める。天狗にも通用するのではないかと期待したが、避けられてしまった。
燐の最大の威力と速度が通じなかった。
では、単独で戦う燐にもう手は残されていないのかといえば、違う。
パワーとスピードで燐を上回る妖怪など、地底には腐るほどいる。そんな中で真正面からのみ戦うのは能無しだ。
策を弄し、敵を死地に追い込む。燐の本領は、そういう戦い方にある。
(たぶん、お空ならやったんだろうけどな。正面勝負)
あいつはそれができるだけの力があった。神の力を得る前ですら、あの地獄鴉は戦うことにかけては天才的だった。さらには馬鹿げた計画をあっさり実行に移す意志の強さがあり、恵まれた体格があった。小心で小柄で、小細工尽くしの燐とは違う。そんなことはわかっていたのに。
仮想の空に、つい張り合ってしまった。
空。物心ついたときから一緒の、大切な友達……そして、競い合うように弾幕の腕を磨いてきたライバル。
同じ施設で育ち、同じものを見て、さとりを守るという同じ戦いに身を投じた。
空はなにを想い、地上へ行ったのだろう。想像してみるならば――あいつは地上侵略の失敗を経て、戦いを一義的に捉える燐よりも、よほど多くのことを考えなければならなくなったのだ。
そして、その果てに空だけの答えを見出した。空は幻想郷という広い世界での地底妖怪の立場を作り出そうとしている。それは地底を、ひいてはさとりを守る戦いだ。
だとすれば、空の想いはなにも変わっていない。置いていかれたなどというのは、燐が勝手に足を止めていただけだ。躓いて倒れたまま、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていただけだ。
空に会いたい。直接、声が聞きたい。あいつの背中、地底の夜みたいに真っ黒な翼に顔をうずめて、あたいの話を聞いて欲しい。あのとき誤魔化した本音をぶちまけて、その返事をして欲しい。その結果どうなろうと、空に失望されたって、泣き喚くことになったって、かまいやしない。かまうものか。そうしなければ、燐はもう一歩たりとも進めやしないんだから!
(そうしよう。この状況をくぐり抜けることができたら、お空に会おう。だから……そのために、あたいもできることをするよ、お空。さとり様を守り、地底を守る……!)
木の根を蹴り、軽く飛翔する。わずかな浮遊感に身を任せると、体がそれまでよりも自由に動いていると意識する。迷いが晴れたわけではない、むしろ後回しに丸投げしたようなものだが、そんなことでも心が楽になってしまった。侮っていた空などより、自分のほうがよほど単純だ。
今はそのほうが都合がいい――燐は冴え冴えとしていく頭で思う。木の裏にあるかないかの幽かな違和感を見抜き、燐はそこへ怨霊を放った。爆発が樹木ごと、そこに潜んでいた天狗を吹き飛ばす。不意討ちに一羽を倒すと、すぐさま四方から弾幕が降り注いだ。やはり、後詰めが控えていた。
燐は地を蹴り、跳んだ。さきほどのように軽くではなく高い枝に乗ると、そこらの木々に潜んでいる天狗たちの姿が明らかになった。一〇羽ほどの天狗が、皆一様に驚きを顔一杯に浮かべていた。見つからないとでも、思っていたのか。
気配を消すのは、猫の十八番だ。
「さあ、かかってきなよ。お姉さんたち!」
不敵に言い放ち、『妖怪の山』に息づく妖精を召喚する。地底ほど付き合いのよい妖精ではないらしく、多少反応が鈍い。急に見知らぬ妖怪に引っ張り出されて不機嫌なのかもしれなかった。つきあってくれるだけで僥倖だが。
それら全てに怨霊を宿らせ、燐は声高らかに叫ぶ。
「呪精――」
スペルの宣言の最中にも、天狗たちの攻撃が集中した。それぞれが凄まじい威力を持つであろう風刃、木の葉、狐火が殺到する。枝から降り、自由落下だけでそれを避ける。接地するころにはスペルは完成していた。天狗たちの弾幕が大木をへし折るのを余裕を持って眺めながら、燐は弾幕を編み上げた。
「――『ゾンビフェアリー』!」
これは燐の最も得意とする、妖精との連携弾幕だ。ちょうど一羽が突撃してきている。相も変わらずとんでもない速さだが、燐の弾幕はそんな相手と戦うために練り上げた弾幕だ。まずは勇み足のこの天狗に、見せしめになってもらおう。
タイミングをあわせて最も近くにいる妖精を数匹、天狗にぶつける。天狗は短刀を振り回し、難なく妖精を切り裂いた――同時に、妖精に潜んでいた怨霊が爆発する。予期せぬ衝撃に、天狗は顔を歪ませて絶叫した。意識の外から攻撃されれば、どんな妖怪であれ怯む。こいしに延々と苛まれて覚えたことだ。
燐は目前で倒れまいと踏みとどまった天狗の腹に膝を埋め込み、首筋に手刀を落とす。力を失った天狗が、地に倒れた。
やれると実感する間もなく、天狗が不思議な印を組みながら接近してきていた。
弾幕が、来る。
「飯綱法、『小蝦夷鎌鼬』!」
それまで散発的に撃ち込まれてきたよりも、圧倒的に大きな風刃が発生する。風はみっつに引き裂かれて荒れ狂う竜巻のようにうねり、螺旋を描いて破壊が迫る。これを受けたら、おそらくひとたまりもない。内向きに吸い込むような回転にひきずりこまれれば、全身がズタズタに切り刻まれてしまう。
しかし、燐は看破していた。自身の性能に頼りきった、工夫のない弾幕だ。威力も速度も申し分ない。だが、鬼や空、さとりといった実力者たちの弾幕を見たことがある燐には、たやすく避わせる。そんなものでしかない。
みっつの竜巻の、敢えて中央を突き進み、天狗の正面へ出る。
「馬鹿な……!」
スペルをあっさりと攻略された天狗はうろたえながらもその豪腕をふるった。しかし、燐はそのころにはゾンビフェアリーを一体その場に残し、離脱している。背後の爆発をもう見向きもせず、次の敵に向かう。
三番手は、仲間が次々と打倒されたことに目を白黒とさせている。卑怯でもなんでも、倒せるうちに倒す――及び腰になって回避の気配を見せたが、既にゾンビフェアリーが回り込んでいる。とん、と胸を突いて数体分の爆発に押し込んだ。
後ろから、不吉な気配がした。総毛立つ思いで身を翻し、再び高枝に飛びつく。赤いなにかが着弾すると、今までいた場所がえぐれるほどに融解し、ガラス化した面をどろりと覗かせる。火の手が上がっていた。
「飯綱法、『嫁入り狐火』……!」
天狗が薄暗い笑みを浮かべて炎弾をさらに放ってくると同時、燐の左右の木が列を成して燃え上がった。火球と火柱で敵を追い詰める弾幕。これまた燐にはミスマッチだ。旧地獄付近で生まれた妖怪は、もともと火の弾幕を得意とする。その最たる例は火車。即ち。
地獄の輪禍、火焔猫――燐。
「妖怪『火焔の車輪』!」
ゾンビフェアリーを一旦引っ込めて、お手本でも見せてやるつもりで炎の渦を呼び出す。自分自身の名と存在を示すこの弾幕は、自身を中心とした全方位を焼き払う大技だ。天狗の狐火をも吞み込んで火勢を増し、天狗が炎に巻かれて倒れるのが見えた。
ぱちんと音を立てて火の粉が飛び散る。山火事が起きていた。まずい、と焦りかけるが、そもそも最初に木を焼いたのは天狗の方だ。地上では森林を破壊しても罰金をとられないのだろうか?
続く寄せ手は、真上からだった。反応が遅れ、風の刃が肩と足を裂いた。痛恨のミスだ。さきほどから幸運が味方してくれているが、わずかでも機動力が削がれれば天狗の攻撃は避けられるものではない。
(なんとしても、持たせる……!)
唇を噛んで痛みに耐えつつ、最善手を探る――と、真下からも鋭い木の葉が吹き散らされる。中途半端な位置を飛んでいるからだ、と自分を叱咤する。疲労が判断力を鈍らせているのか。天地から攻められた燐は、降下を選んで木の葉をかいくぐる。地に構えた天狗が、落下してくる燐に短刀を突き上げてきた。手のひらで刃を持つ腕を逸らし、落下の勢いを込めた頭突きを天狗の鎖骨に叩き込む。硬いものが砕ける感触を額に感じる。
続いて上から襲い来る風刃を、悶絶する天狗を盾にして受ける。図らずも同士討ちをさせられた天狗が怒りの声をあげていた。その天狗についてもうひとつ言えば、背後に配置されたゾンビフェアリーに気づいていなかった。指を鳴らして自壊させ、その爆発を受けて落ちてくる天狗に駄目押しの弾幕を叩き込み、燐は膝をつく。
これで六羽。折り返し地点は過ぎた。しかし、燐も度重なるスペルの行使にかなりの体力を持っていかれている。最大狂度で仕込んだゾンビフェアリーも、あと撃発させられるのは二度が限界といったところだ。
「うおおっ!」
怒り狂った七羽目が叫び、ランダムに暴れるような軌道の木の葉を投げつけてくる。燐は残った体力を総動員して立ち上がり、狙いの甘いそれらを転がるようにして避ける。炎を背にして、八羽目が同時に迫ってきていた。這うようにして逃げる燐に、短刀を連続で突き出す。近づいて始末しようという魂胆か。燐は八羽目の足に絡み付いて引き倒し、頭に肘を入れて沈黙させた。もみ合ううちに刃が体のどこかに傷をつけた。どこかさえ、もうわからない。漠然と胴体のあたりが痛むような気がする。
火勢がさらに増していた。このあたりに自生している大木がいきなり焼け落ちてくるほどでもないが、その光景は故郷である旧地獄を思い出させる。干からびた空気と、なにかが焦げるにおい。赤く照らし出された視界。熱のおかげか、天狗の動きも鈍っている。あのような黒布を顔に巻いていては、さぞ息苦しいだろう。
あたいの方は、こんな環境は慣れている。まだ動ける! 自分に暗示をかけるように胸中で唱え、燐は走った。順番はあべこべになったが、七羽目に突進し、巨弾を放出する。天狗が動ける範囲を狭めさせ、その進路上に置いたゾンビフェアリーを自壊させた。怨霊の呪詛をたっぷりと身に受けながらも七羽目は数歩ほど燐に向かってきたが、その手が届くことはなかった。
いつの間にか、九羽目と十羽目が、並び立って燐を見つめていた。手前にいるほうはそれまでと同じ黒布を顔に巻いているが、奥にいるほうは顔を露わにしていた。
あの一羽だけ漂わせている空気が違う。否、もっとわかりやすい特徴がある。あの一羽だけ体毛が――黒い。
烏天狗……!
燐が凄絶に二羽を睨みつけると、手前の天狗が突然悲鳴をあげ、逃亡しようとした。
そして、烏天狗の一撃に屠られ、激しく燃える炎の中に突き入れられる。
「……仲間じゃ、ないの?」
どうという目論見があったわけでもないが、燐はぽつりとそんな言葉を漏らしていた。
「敵を前に逃げ出すような輩はな。たとえ、おまえのような不吉な猫が相手でも」
低い声で、烏天狗が答える。
「まるで死神だ。地の底がふさわしい忌み妖怪だ。怨霊をまとい、天狗さえその手にかける化け物め……!」
「恐がってるのはお互い様だろ、くそったれ」
熱に浮かされたような調子で一方的になじられるのが気に食わず、燐は吐き捨てる。
彼我の距離は、燐ですら一息で飛びかかれる程度。一触即発の中、烏天狗はうつろに言葉を紡ぐ。
「……まさか襲撃が読まれていたとはな。今さらどうしようと、我々の偽装工作は天魔の知るところになる……か」
「お姉さんは、飯縄派のリーダーさん?」
「いいや。ただ実行部隊を任されている程度の者だ。鬼すら出てこないうちに負けようなどとは、思いもしなかったがな」
「負け、だと?」
「いま逃げ出した愚か者が観測していた。古明地さとりは、射命丸文に守られて『妖怪の山』に迎え入れられたと。これは偶然か? それとも内通者か……?」
「しゃめいまる……?」
聞いたことのない名前だ、と脳裏に疑問符が浮かぶ。だが、内通者と言われれば心当たりもあった。作戦の中核のひとり、八坂神奈子が言う『目端のきく奴』。未だに姿を現さないその者こそ、射命丸なにがしなのではないか。
烏天狗は勝手に喋り続けている。
「先遣隊もあの白狼天狗とほぼ相討ち。これで飯縄派にもう戦力は残されていないも同然だ。後生大事に前線に出ない烏天狗などに、おまえの相手は務まるまい」
飯縄派の内情が透けて見える一言だった。
厳しい修験者の道を歩もうとする天狗と、それを利用する天狗。天狗たちは厳しい縦社会を持つ妖怪だというが、この烏天狗は堕落した同族よりも白狼天狗たちのほうが近しく思えているのかもしれない。
「……お姉さんが引いてくれれば、そのへんに倒れてるお姉さんの部下くらい見逃すよう、進言してあげるよ。どうだい?」
「馬鹿を言うな。見逃されて生きながらえるくらいなら死んだほうがましだ。忌み妖怪が地上に出てくるのを座視するのもだ」
「いいように使われても、思想は同じってわけか」
歩み寄れない、のだろうか。さとりがこの場にいればなんと言うだろう。どうにかして妥協点を見出してくれるのだろうか。たったふたりでさえ、わかりあうことができない。さとりは本当に無理難題に向き合っているのだ、と燐は思った。地底と地上の、巨大な妥協点を探るという難題に。
燐は空しさを覚えながら、手足に力を入れる。油断なく構え、烏天狗を睨み据える。
「いいよ、だったら逃がさない。あたいはそれでも、さとり様を殺されたくないからね」
「あの悪魔のような戦いぶりを見ては、おまえを殺すほうが優先だ。いま手負いのおまえを始末せねば、さとりの身辺におまえが戻るのだろう。そうなれば、もう手はない」
「過分なお言葉、痛み入るよ」
「飯縄派は壊滅するだろうが、おまえをなんとかして、さとりさえ殺すことができれば、今度は日和見どもが地底を攻めたがる。地底の魔の手から、地上を守ってくれる」
「……あたいたちは、侵略者じゃない」
「信じられるか」
無償の善意など、不気味なだけだ。燐は知っていたはずだ。なにもしないと言いながら、懐にはなんだって隠せるということを。だからこういう場面では、相手の利となるものを提示しなければいけない。交渉の基本だ。燐はそれを見せかけですら用意できない。
無知でいたことの罪は、こうして血と肉で贖うことになる。
炎に炙られた、熱風が吹きすさぶ。相手の懐に飛び込む機を、お互いに探していた。
見れば、相対する烏天狗も無傷ではない。最初の襲撃の場にいて、そして椛の率いてきた誰かと戦ったのだろう。
対して燐は、まさに満身創痍だ。胴、肩、手、足。頭突きをしてから頭の奥がぐらぐらしている。多少は火傷だって負っている。なにより限界を超えての弾幕術の数々は、燐の圧倒的なスタミナをも食いつぶしてしまった。ほとんど奇跡と言っていい戦いぶりだった。
これ以上の奇跡があるとするなら。燐は夢想する。目の前の烏天狗をひとひねりしてさとりの元に帰還し、お褒めの言葉をいただく。その功績で地底の大妖怪として名を馳せ、大手を振って空に会いに行く。
(我ながら考えることが小さいな。これは、今したいことって程度じゃん)
自分の手で、まかなえる範囲のことだ。
燐は、機を待たずして先手を打った。遅い、と自分でも感じた。烏天狗に放った火球は葉団扇で逸らされ、同時に打ち出された弾――おそらく圧縮された空気塊――が燐の膝を打ち据える。重い一撃だった。打たれた足から感覚だけが抜け落ち、燐は顔面から倒れ込んだ。烏天狗は無様な燐を笑いもせず、まるで剣かなにかのように葉団扇を構えている。修験者というよりも、ほとんど武者だ。
これが飯縄派の天狗なのだと、びりびりと気迫が伝わってくる。
どこからどう攻めようが、油断などない。
「覚悟しろ」
自分からは一切近づこうとはせず、烏天狗が言う。燐は四つん這いになって立ち上がろうと手足を突っ張った。思ったように力が入らない。逃げられない。
烏天狗が印を組み、呪文じみた呟きを発する。白狼天狗たちの飯綱法とは修業の深さが違うと弾幕の発動前からわかる。
「飯綱法、『高尾山真言』――」
六つの梵字が、煙が立ち上るように現れた。ひとつひとつが、途方もない退魔の力を秘めた爆弾のようだ。ゾンビフェアリーいくつ分に相当するかわかったものではない。押せば倒れてしまいそうな燐に、ずいぶんな念の入れようである。
だが。
(お空……)
生き残るためには、やるしかない。相殺を狙い、持てる妖精と怨霊全てを使役して放つ燐の極大弾幕、『死体繁華街』。こんな疲弊しきった状態で、できるわけがなかった。
だが、やるしかない!
強く念じると、震えて言うことを聞かなかった手足が、まるで機械仕掛けのものに取り替えたかのように滑らかに動き、まっすぐ立ち上がる。ほとんど幻覚にも等しい。どこにもない体力によって立つなどと。
それでもたしかに、自分の足で立っている。
指を、烏天狗に向ける。無数のゾンビフェアリーが集う。ここまで妖精たちを酷使したのは初めてだった。初対面であつかましい妖怪だと呆れているに違いない。愛想を尽かされたわけではないようで、まだまだ付き合ってくれるようだが(いい妖精たちだ)、燐の方が次で限界だ。
ふたりでにらみ合い、今度こそ機を計りあう。お互いが必殺の不吉さを備えた弾幕を、喉元に突きつけ合っている。しくじれば、待っているのは一方的な死だ。まばたきでも、言葉でも、なんでもいい。相手の気配が淀む瞬間を、ただ、待ち続ける。
――音を立てて火の粉が、弾ける。まだ、揺らがない。
――烏天狗が、地を踏みなおす。燐もまた、気配を一定に保つべく努める。顔や首筋を汗が滑り落ちていく。その滴の音は、周囲で燃え盛る火の音にかき消され、両者の耳には届かなかった。
ポーカー・フェイスを保ったまま、燐は思考する。長引けば、体力がとうに底をついているこちらが不利だ。先手を、とるべきか。否。烏天狗の反射速度は、既に身を持って知っている。では、後手をとるか。その場合、もし燐の『死体繁華街』が烏天狗の『高尾山真言』を相殺しきれない場合、離脱の隙をなくす。いくらかは相殺しうるだろうから即死は免れるかもしれないが、どの道弾幕を避わすほどの足は残っていない。
いや、どの道、というのであれば。先に撃とうが後に撃とうが、良くて相殺しかできない。燐にはその後まったく打つ手がなくなるが、烏天狗はそうではないだろう。どうしたところで負けだ。時間稼ぎ以上の意味はない。
だが、意味がないからというだけで、潔く死ねるか? あいにく燐は、そこまで妖怪ができていない。
燐が烏天狗を恐れているのと同様、烏天狗も燐を恐れている。なにを勘違いしているか知らないが、ほとんど死に体の燐を恐れるなど、この烏天狗は相当の骨なしだ。用心深さの皮を被った臆病者だ。そう決め付けて烏天狗の眉間を睨む。
恐れているならば――決着がつくまでの間、その恐怖の気分をたっぷりと味わってもらう。そして、ただ一秒でも長く、さとりから脅威を遠ざける。選ぶは後手だ。
燐は、無表情を引き裂くように、笑みを浮かべた。徹底的に烏天狗を拷問する想像をして、冥土の土産にする。まったく、後ろ向きな発想で前向きになるってのは、ほんと笑い飛ばさなきゃやってられない気分だ!
烏天狗が、唾液を嚥下するのが見えた。顔色は、何故だか真っ青で。
気配が。
淀んだ。
「――『死体繁華街』!」
瞬時に、先手をとって弾幕を解き放つ。通常はばらまいておくだけのゾンビフェアリーを一点に集中させ、烏天狗に遮二無二ぶつける。どうしてかは知らない――もう知ったことではない――が、烏天狗は気圧されたまま『高尾山真言』を発動させもしなかった。
勝ちだ。一方的な勝ちが見えた。
「――つぶれろ!」
絶叫。これだけのゾンビフェアリーが爆発すればいかな烏天狗といえど立っていられるわけがない。妖精たちに自壊の命令を送った。あとは勝手に、ゾンビフェアリーが燐からエネルギーを吸い上げて爆発する。
そのはずだったが。妖精たちが、首を振る気配を伝えてくる。燐は泡をくって何度も何度も自壊の命令を送る。しかし、その都度無反応が返ってきた。爆発どころか、火花ひとつ発生しそうになかった。
妖精に宿らせた怨霊が維持できず、霧散する。妖精たちも困ったようにあたりをさまよったが、やがて消えた。
我に返った烏天狗が、すっかり落ち着いた声で言ってくる。
「……もう、限界のようだな」
ただ、それだけが全てなのだというように、たった一言だけ。あとは無言で、葉団扇を持ち上げる。
「く……そ……」
そんな馬鹿な。あと一度くらいは、余裕があったはずだ。だがいくら言い訳しても自身の体力を読み違えた、という事実は覆らない。最後の最後で、否、戦っている間のどこかで、既にしくじっていた。
燐は膝をついた。今度こそ、もう動けない。掴みかけた勝ちが、あっさりとこの手をすり抜けていく。燐は亡羊とした呟きを漏らし、それを自分ではない誰かが発したものであるかのように聞いた。
「あたいの――」
不思議とここまでやれば、潔さなどという殊勝なものが発生する隙間が、ようやく燐の中にも生じていた。あれほど苛まれていた無力感がどこかへ行ってしまっていた。
やれるだけのことはやった。この烏天狗は勘違いしているが、いくらなんでも燐がいるかいないかでさとりの生死は決まるまい。地底には鬼が、地上には空がいる。どうにも信頼しきれないが、あの得体の知れない神もいる。
さとりを守るという目的は、とうに達成しているのだ。こんな局地的な戦いで勝ちを譲るくらい、なんてことはない。負けだと言い切って、せいぜい勘違いさせたまま返り討ちにあってもらうとしよう。鬼でも誰でも、燐より危なげなく対処してくれるだろう。
勝つのは、自分でなくていい。
烏天狗が葉団扇を閃かせる。燐は水面のような心持ちで、その洗練された動作を見ていた。
「負け――」
「いいや、燐。立派だよ。この勝負、おまえの勝ちさ」
だ、と言いかけた間抜けな口の形のまま、燐は顔を上げた。
大蛇のような注連縄を背負った奇妙な女がそこにいた。ふわふわ浮遊しながらあぐらをかいて、なにが楽しいのか口元をほころばせながら、全身ぼろぼろの燐の顔を覗き込んでいた。
「八坂神奈子……どうしてここに……」
思わず漏れた声が、烏天狗とほとんど重なった。上機嫌だった神奈子はそれを聞いて、大げさにため息をついた。
「こらこら、神様を呼び捨てか。天狗はともかく……燐、おまえのようなやつも内心そんな感じなのだなぁ」
神奈子はひとりで勝手に得心したようにうなずいている。葉団扇で自身を扇ぎながら。
「貴様、わたしの葉団扇を――いつの間に」
烏天狗が我に返って叫んだ。
「おまえたちが焚いた篝火が熱くてかなわんので、借りたよ? 大火事にならんうちに消させてもらう」
言うが同時、神の力の一端が顕わになる。
雲ひとつない天から――雨が降り注ぐ。大粒の雨はざあざあと火を叩き、戦場となった山の延焼を鎮めていく。
「さて、しばらくだな、烏天狗。以前はわたしの閨で粗相をしてくれた」
神が烏天狗に向き直った。烏天狗は、燐と弾幕を突きつけてにらみ合っていたときと同じ表情をしている。傍から見るとわかった。あれは、心の底から恐怖した顔だ。
神奈子がやっていることも、燐と同様のようだった。本題の前に間をとって、相手を萎縮させる。燐は機と見て神奈子に話しかけた。
「あの、八坂様、ご助力感謝します。しかしなぜ、わざわざあたいのような……」
神奈子は皆まで言わせなかった。
「わたしの甘い見通しのせいでさとりは必要以上の危機を被るところだった。それを挽回してくれたおまえを死なせては、神の名折れだよ」
「そんな、あたいはそれが仕事で」
「貴様、地底と通じていたのか!?」
それを聞いて、烏天狗は燐と神奈子の関係を察したようだった。排斥すべき新参がさらに忌むべき地底妖怪と手を結んでいたとは、飯縄派にとっては天地がひっくり返ったところで許せない事態だろう。
敵意で恐怖をはねのけた烏天狗の糾弾を受けても、神奈子はどこ吹く風で自慢げに言うだけである。
「全てはわたしの手のひらの上だ」
「いま見通しが甘かったって自分で言いませんでしたか?」
「さて、では本題だが」
都合のいい耳だった。
「これ以上、まだ続けるか? ここからは燐の代わりに、わたしが相手をする。ああ、おまえに命令を下した飯縄派のリーダー、飯縄さねみは既に射命丸が捕らえたぞ。残っているのはおまえだけだ。ひとりでできることがあるか?」
烏天狗は、目をつむって天を仰いだ。雨はまだ降り続けている。もうほとんど鎮火しかかっていた。くすぶり続ける火種もあるが、この雨足に晒されてはもう燃え上がることはないだろう。
そんな中において唯一、烏天狗の瞳に火が灯る。
「あるぞ……」
他の飯縄派天狗と同じように、短刀を取り出す。その刃を神に向け、烏天狗が叫んだ。
「貴様を殺せば、また『山』の勢力図が塗り変わる。まだ勝機はある!」
「ほう……見上げた克己心だ。たったひとりでわたしを倒すとな。あの腰抜けよりもおまえがリーダーやってたほうがよかったんじゃないか?」
神奈子は動じず浮かんだままだ。だが、いつの間にか眼光鋭く烏天狗の動きを見つめていた。
さきほど不発だった六文字の梵字が、また現れる。烏天狗が飯綱の法『高尾山真言』を構えた。燐は半ば倒れたまま、それ以外になにもできず、固唾を呑んでふたりを見守っている。燐の全力を上回るであろうあの弾幕は、神の力に通じるのか。
対して神奈子も、神徳の開放を始める。ふわりと、肌を撫でる一陣の風が吹き渡った。そして――
「では、神遊びを始めようか」
巨大な、どこまでも巨大な神紋が浮かび上がる。梶の葉を蛇の体で模したような、禍々しくありつつも清浄な力を感じた。よく見ればそれは神紋の形に隙間なく並べられた符で、一枚一枚に秘められた神徳の深さは、もう燐には推し量ることすらできない。その符が自分に向けられたものでないことに、心底安堵してしまった。燐はおろか、天狗でも一撃たりと受けられないかもしれない。
烏天狗は、しかし、もはや無謀以外のなにものでもない突進とともに、弾幕を発動させた。梵字がゆらりと揺らめいて、天狗に追随していく。符をかいくぐって、直接ぶつける狙いだ。
「『マウンテン・オブ・フェイス』――」
スペルの宣言がされると、梶の葉の形がばらりと解け、符の投射が始まった。唸りをあげて殺到する符を、果たして天狗は回避した。しかし、次の瞬間には絶望したかもしれない。神紋が再び形成され、そして再び解けていく様を目の当たりにしたはず。何度も何度も同じことが繰り返される。蛇がその皮を脱ぎ、新たに生まれ変わるように。激しい爆風が吹きつけてきて、燐はつい目をつむってしまった。
目が開くようになるころには、燐と同じ程度にぼろぼろになった烏天狗が、神奈子の前に倒れていた。何度かは避わしたようだが、余波だけでこの有様なのか。
ふと、思う。この烏天狗は……燐がついに見つけられなかった、神奈子に飛びかかる機を見出していたのだろうか。それとも見たまま、運否天賦に身を任せたのか……
「……まぁ、こんなものか。ここまで詰められるとは思わなかったよ」
神奈子がひとまず満足したように言い、なにかの合図を燐の後ろに送った。
すると今までどこに控えていたのか椛が現れて、もう動かない烏天狗を縛り始める。
「我々は……」
不明瞭なうめき声。意識があるのかないのかも曖昧に、烏天狗が言う。
「なにもできずに、貴様らの台頭を許して、ただ終わるのか……」
烏天狗は、燐も神奈子もいっしょくたに批難していた。飯縄派にとっては地底の忌み妖怪も外界からやってきた神も等しく敵で、打倒すべき存在でしかなかったのだろう。その妥協点を見出せない限り。
さとりだけに、任せていてはいけない。燐はそう思った。燐は直接政治に関わる立場にはない。それでもこんなとき、この烏天狗みたいなかわいそうな奴をなだめることくらいはできるようになりたいと思った。
だから、返答はわかりきっていたが、燐は言わずにいられなかった。
「少なくとも……あたいたちは、侵略者じゃない。それはこれからを見て判断してよ。悪いことは起きない。今のあたいには、これくらいしか……言えない」
信じられるものか。そう吐き捨てたきり、烏天狗はもう動かなかった。そして、椛に引き立てられて、どこかへ運ばれていった。
あとには燐と神奈子がふたり、雨の中、戦場跡に残される。
詰め寄るような気力も体力もなかったが、燐はなんとか身を起こした。
「なんだか、釈然としませんよ。最後は八坂様にいいとこ持ってかれて、あたいの勝ち? 全然、勝った気がしない」
「天狗十羽相手にひとりであそこまでやって、まだおまえの勝ちと言わんのか? おまえは自分に厳しすぎるな」
「む……」
その指摘は、真面目に受け取るべきかもしれなかった。どう繕ったところで神奈子のおかげで九死に一生を得た身なのだから。
なんとも答えられずにいると、神奈子が諭すように言った。
「そう思えないなら、わたしとふたりで勝ったことにすればいいさ」
「うーん……そうです、ね」
これ以上噛みつくのも馬鹿らしい気がしてきて、燐はふっと微笑んだ。
「八坂様、犬走さん、さとり様、護衛のみんな……みんなで勝ったと、思うようにしておきます」
言葉にすると、事実その通りである気がしてきた。それぞれが役割を果たすべく動き、最善を尽くした。さとりは無事に『山』までたどり着き、神奈子との共謀もどうやら成功しそうだ。ついでに燐も生還できた。
これ以上を望むのは、もう贅沢だ。
「そうだそうだ。ひとりで勝つより楽しいぞ。戦というのはそういうもんだ」
神奈子もにやりと剣呑な笑みを浮かべた。好戦的だけど、その中にもどこか親しみやすい部分があるかもしれない。燐は神奈子のことを初めてそう思った。
「さあ、『山』に行くぞ。さとりたちが首を長くして待ってるころだ」
「あ……八坂様、ひとつ聞いていいですか」
「なにかな」
「八坂様は、飯縄派をどうするつもりなんです?」
問うと、神奈子は笑みを引っ込めた。真面目な顔をすると、途端に『神様』という印象そのものの雰囲気になる。
「わたしは降りかかった火の粉をはらっただけだ。飯縄派をかばうのか?」
「さとり様の敵をかばうわけじゃ、ありません。ですが飯縄派が危惧しているようなことになれば、天狗たちがずっと反発したまま、また今回みたいなことが起きるんじゃないですか」
燐は戦いの根、とでも言うべきものを想像する。それがある限り、たぶん妖怪も神も人間も、小競り合いのような戦いをやめることはできない。そこが地底でも幻想郷でも、変わらない。
それはずっと、さとりが戦い続けてきたもの。
そしておそらく、空が戦うべきと決めたはずのもの。
燐も挑むべきだと思った。燐も自分に最適の方法で、それと戦いたかった。自分が尊敬する者、友達だと思う者と、並び立つために。
「それこそ、これからを見て判断してもらうさ」
神奈子は肩をすくめる。どうであれ、納得するのは飯縄派たちだ。神奈子のもたらすものをどう受け取り、どう行動するのか。神奈子にも誰にもわからないことだ。
全ては、これから。この世に生きる誰もが未来を知らぬ身だ。未知の行く末に希望があることを願うのは、自由だろう。
雨はいつしか止んでいた。
燐は神奈子と連れ立って山道を行く。が、ほどなくして体力の限界が訪れ、気絶して倒れた。大慌てになっただろう神奈子の様子を見られないことだけは惜しい、と薄れる意識の中で思ったのが、その日の最後の記憶だった。
エピローグ
『妖怪の山』八合目、守矢神社にて。
燐は縁側から青空がよく見える部屋に寝かされて、顔色を悪くしていた。
「あの巫女さん、善意でやってるんだろうけどなー……」
うんざりと声に出してみて、余計にうんざりする。昼食後しばらく放っておかれて退屈の極みにあることを思い出してしまった。
『山』にほど近い山道で飯縄派と激しい戦いを繰り広げてから二日経ち、燐は神奈子の神社にかくまわれていた。体中の力と呼べそうなものを徹底的に使い尽くした燐は身じろぎどころか指一本動かせず、さとりから『山』で静養するように申し付けられてしまった。衰弱から回復しないうちは帰ってくるな、とも言われた。
さとりも護衛たちも会談が終わってから改めて見舞いに来てはくれたが、今朝方地底に帰ってしまった。おかげで燐は未だ敵地のような地上に独り残され、心細い気分を味わっているというわけだ。
天狗だらけの『山』の診療所に入れられるよりはましだ、と最初は思った。
しかし、看病をしてくれている巫女――巫女と聞いていやなものを連想したが、別人だった――がまた厄介な人間で、あれこれ世話を焼きながら時たま致命的な失敗をして燐を怯えさせるのだ。今日はまだいい。青空を嫌がるものは一般的に少ないということになっているから。だが昨日は滋養のためと大蒜を食べさせられそうになった。嫌がって猫の姿を現してみれば、夜半に寝ぼけて現れ、自分の布団へ連れ帰ろうとする始末。
そういうときは決まって神奈子と、もうひとりいる子供が揃って爆笑していて、気分が悪いといったらない。
「……はぁ」
だが、それも体が自由に動くようになるまでの話だ。明日にはたぶん、まぁぎりぎり地底に帰るくらいはできそうである。願望を込めてそう思っている。
「あ……猫になってれば、さとり様に抱きかかえてもらって、昨日帰れたんじゃ……」
後の祭りだ。
燐が布団の上でじたばたしていると、静々とした足音が聞こえてきた。
「お燐さん」
「あ、犬走さん。お見舞いにきてくれたの?」
白狼天狗の犬走椛だった。天狗とはいえ一筋縄ではいかない『山』の面々の中では相当つきあいやすい妖怪である。神奈子に用事があるのか、今みたいに神社で顔を合わせることが度々あった。
よく差し入れを持ってきてくれるのだが、今回は手ぶらだ。
「いえ、今日は案内ついでです。お燐さんを訪ねてきたようですが、今はあちらで八坂様と話していますね。あ、お加減はいかがですか?」
「え、ああ、まぁ、そろそろ元気かな。ただちょっと、日差しが」
「ああ、たしかに今日はいい天気ですね。わたしも哨戒など放り出して、お燐さんと一緒に日向ぼっこしたいものです」
「いやそうじゃなくて」
できれば障子を閉めてもらいたかったのが本音だ。椛もやはりご多分に漏れず、青空が好きらしい。
「まぁいいか。ね、犬走さん」
「すみません。ここには案内で来ただけで、すぐ戻らなければなりません。申し訳ないのですが」
話しかけようとすると、ものすごく恐縮した感じで頭を下げられてしまった。
「ううん、こっちこそごめんね、引き止めちゃって。お仕事がんばって」
送り出すように言うと、椛は一礼して去っていった。暇つぶしになにか楽しい話でも、と思ったが空振りに終わってしまった。うるさいくらいに構ってくるあの巫女もどこでなにをやっているのか、今朝から姿が見当たらない。あの子供を連れて散歩にでも行っているのだろうか。
まったく、いてほしいときにいないのだ、どいつもこいつも。
あいつも。
気を抜くとついつい、その名を呼んでしまいそうになる。衰弱のせいで弱気になってしまっているのだ。だがそれにも増してまずいのは、あの日やけっぱちのように固めた決意がどこかへ行ってしまったことだ。
あのときは戦闘前で気が昂ぶってナチュラルハイだったのだ。一息入れてみると、思っていること全てを話すなどという恥ずかしいことを、あいつを前にしてできるわけがなかった。そんな考えを抱いたという時点で既に羞恥心がむくむくと膨れ上がってくる。
変わるのは、簡単ではない。あいつに会いに行くのはまた今度、もう少し落ち着いてからにしよう。傷が癒え次第、地底に帰らなければならないことだし――
逃げる算段を固めていると、廊下から今度はどたどたと騒がしい足音が聞こえてきた。あの人間が帰ってきたか、と肩を震わせる。いや、そういえば自分のことに気をとられていたが、椛が誰かを案内したと言っていたような。
扉が乱暴に開け放たれた。
「お燐っ!」
「え――」
その声には、懐かしい響きがあった。が、それを誰かも確かめないうちに、ほとんど瞬間移動でもしたかのような速度で体当たりを食らわされた。
「お燐お燐お燐――」
その何者かの両腕に胴を締め上げられながら、壊れたラジオかなにかのように名を呼ばれる。窒息しかけるも、もう襲撃者の見当はついていた。燐は目の前を埋め尽くしている長く伸びた黒髪を掴んで引っ張り、その顔を自分の胸から引き剥がした。
「いだだだっ、お燐っ、いたい!」
「あたいのほうがもっと痛いよ、この馬鹿鴉」
予想を違えず、霊烏路空がそこにいた。しばらくぶりに見る空の顔は、すこし日に焼けたように見える。落ち着いていれば以前との差異をもっと見て取れるかもしれないが、こんなふうに涙目で燐を見上げてくるその顔はなにも変わらない。
そんなことに、燐は微笑を浮かべかけている。
「あれ……なに、泣いてんのさ」
空は滂沱の涙を流しながらこちらを見つめていた。髪を引っ張ったくらいで泣き出すほど敏感な神経はしていないはずだが。
「お燐が大怪我したって、八坂様が……さとり様そんなことなんにも言ってなかったのにぃぃ……」
「はぁー?」
「……あれ、そうでもないね」
空が寝間着の上からぺたぺたと体のあちこちを触ってくる。燐の問題は怪我よりもむしろ体力の喪失だった。怪我ということであれば、さっき締め上げられた胴の切り傷が開いたかもしれないのが最も重い。
ため息をつき、開いたままの扉を睨む。神奈子がさっと扉の影に身を隠した。燐にははっきり見えていた。
「へたな冗談がさとり様から移りましたか?」
「いや、すまん。涙の再会を演出すれば、地底の悪魔の泣き顔が見られると思って」
ばつが悪そうに神奈子が姿を現す。
「まったくもう、暇そうに。向こう行っててください」
「本当に不敬だな、この猫ちゃんは……地獄に落ちるぞ」
「あいにく、そりゃ故郷ですよ」
ふんと鼻を鳴らして、神奈子は去っていった。『山』まで背負わせたことの仕返しも含まれていたと見える。不発に終わっていい気味だ。
「ねえ、お燐」
神奈子を追い払っているうちに、空はすっかり平静を取り戻していた。
「地底の悪魔ってお燐のこと?」
「ああ……あたいと戦った天狗が、牢でそんなこと言って騒いでるらしくて」
「あは、かっこいい!」
「そっ、そうかなぁ?」
燐からすればひどい中傷の類にしか思っていなかったものだから、そんな賞賛も素直には受け取れなかった。牢に出向いてもう一度決闘でもしてやるかという衝動にも駆られたが、よく考えればさとりを守るわけでもないのに天狗と戦いたくない。
「お燐、すごいね」
「え――」
「さとり様を守って天狗の大軍をちぎっては投げちぎっては投げしたんだよね。そこは今朝、さとり様に聞いたんだ」
どうやら空が守矢神社に来たのは、帰りがけのさとりに教えられたかららしい。わざわざ間欠泉地下センターに寄ったのか。
本当に、さとりは部下に甘い。
「って、いやいや、そこまではしてないよ。せいぜい数羽だよ」
「そうなの? でもすごいよ。わたし天狗と弾幕遊びで勝ったことないもん」
「え、うそだ。だってあんた鬼と普通に殴りあうじゃん……」
「それはさー、あいつら殴りあいにつきあってくれるでしょ。天狗は飛び回るのを頑張ってついていっても目がまわっちゃうんだよね」
もちろんそれは、言う通りに遊びの範疇なのだろう。空だってそうせざるをえない状況ならそれなりの手段をとるはずだ。しかし空は、すごく感心したような尊敬したような目で燐を見ている。
素直な奴なのだ。燐の友達、霊烏路空は。
対して自分は、友達と向き合うことから逃げようとしていた愚か者だ。燐は空の視線から隠れるように、頭から布団をかぶった。
「お空、あのね……急になにって思うかもしんないけど」
「ああ、今まさに思ってるよ。どうしたの急に」
素直な空にこんなふうに言われると、本当に奇行に走ってしまったのだと否応なく自覚してしまう。
だが、もう自分を偽ったままで友達の前にいることに耐えられないのだ。
布団から顔半分、目だけを出して空を盗み見る。空の無垢な目が、変わらず燐を捉えて離さなかった。
「ううう……とにかく聞いて、お空」
仕方ない。やけになって覚悟を固められるというならば、今だって十分そんな状況だ。燐は再び布団で顔を隠し、ぽつりぽつりと言葉を搾り出していく。
「あたい、ほんとはね。あのとき、お空と離れたくなかったよ。ずっと一緒にいたい。あたいと一緒に、地底に戻って」
「んー……」
空は、困ったように微笑んだ。幼いころ燐にわがままを言われたときのさとりにそっくりの表情で、少しの間だけ考えるふりをしている。
ああ、変わったな、お空。そんな実感が湧いてきた。とてもおとなびた友達の仕草を、しかし燐は知っていた。あの別離の日の空が、今この目に映る空と重なるようだ。
「ごめんね。できない」
その言葉も、あの日言われなければならなかったはずのもの。
わかっていたのに、すこし胸が痛い。
でも。
「……だよね!」
これでいい。最初の間違いがようやく正されただけのことだ。
「ようやくスタートラインだ。困らせてごめん」
「ううん。嬉しい」
燐は布団から這い出し、立ち上がってみた。体が衰えるほど長い間臥せていたわけではないが、少しふらつく。調子を確かめながら少し歩いて、縁側へ出た。外の景色は、先刻までと随分様相を変えていた。
太陽が山間へ溶けるように沈んでいくほど、その色彩は赤みを増していく。
地底にはない『夕焼け』という現象だ。ほおずきのように赤く染まった幻想郷の中で、燐は目を閉じた。
「すぐに追いつくよ、お空」
「うん。待ってる」
目蓋の裏には、思い出ばかり見てしまう。だから大切なそれらは胸の奥にしまい込み、しっかり前を見て生きていかなければならない。
いまの燐の背中は、空の目にどのように映っているのだろう。
昔からの頼れる相棒だと思ってくれているだろうか。
(そうでなくったって、嫌でもそんなふうに見せてやるさ)
最初の一歩は、どうやら踏み出せた。
ならば、あとは変わっていくだけだろう。
自分がそう思えるなら、本当はいつだって変わることができる。躊躇するようなことはなにもない。一生をかけてずっと目指していく道に、ようやくたどり着いた。故郷から遠く遠く離れた霊山にて、燐は今、静かな心地でそう感じている。
読了感謝します。
空が『非想天則』で地霊殿を出て行って、果たして燐の反応は?
なにかドラマがあったとするならこんな感じでは?
そう思って書かせていただきました。
前回の反省を生かし、この作品は単体で見ても問題ないように気をつけていますが
実は『市役所のような地霊殿』というコンセプトから出発したシリーズ物となっております。
そちらともあわせてお読みいただけると幸いです。
①『パルスィファンタズム』
②『霊知の虚名』
③『パルスィとさとりの特に秘密でもない関係』
それでは、ご意見ご感想をお待ちしています。
エムアンドエム(M&M)空が『非想天則』で地霊殿を出て行って、果たして燐の反応は?
なにかドラマがあったとするならこんな感じでは?
そう思って書かせていただきました。
前回の反省を生かし、この作品は単体で見ても問題ないように気をつけていますが
実は『市役所のような地霊殿』というコンセプトから出発したシリーズ物となっております。
そちらともあわせてお読みいただけると幸いです。
①『パルスィファンタズム』
②『霊知の虚名』
③『パルスィとさとりの特に秘密でもない関係』
それでは、ご意見ご感想をお待ちしています。
昔の日々には戻れないかも知れないけど、前を向いて歩けば、きっと前みたいに、いや前よりもっと幸せな日がいつか訪れるにちがいありません。
一匹と一羽の妖怪に幸あれ。
>>空はしばらく、あそこから離れられないことはできない。
離れることはできない?
二人が一緒に歩ける日が来るといいですね。
欲を言えばもう少しバトルに盛り上がりというか燃え要素が欲しかったですが、
幻想郷のややこしい問題にも触れた内容で面白かったです。
とても面白く引き込まれていきました
幸せであって欲しいです
次の作品も楽しみにしてます。
ちょっと変わった地霊殿一家でとても面白かったです
シリーズ物だったのですね。楽しく読ませていただきました
お燐が好きになる、良いお話でした
ご指摘ありがとうございました。
恥ずかしい部類の間違いだったのではやめに直せて助かりました。
>>2 さん
ありがとうございます。
燐と空の間にある感情については、もう少し書いてみたいところでもあります。
>>4 さん
ご指摘の点、たしかにちゃんと考えるべきかと思いました。
幻想郷の素晴らしい世界を維持するためにがんばっている妖怪や人間たち、というのは
ずっと意識したいテーマです。
>>6 さん
ありがとうございます。
同じものを目指せる仲間がいる、ということが燐と空にとって救いとなっていればいいのですが。
>>7 さん
ご贔屓にしてもらってありがたい限りです。
その期待を裏切らないよう努力します。
>>9 さん
ペットの飼い主というのはお母さんの気分ですよね。
ペットを飼ったことはないんですがなんとなくそう思っていました。
>>11 さん
ありがとうございます。
こんな地底もおもしろいと思っていただけるのは本当にうれしいです。
>>13 さん
今作を?として概ね時系列順に並んでいます。
最初はさとパルを書ければいいかなと思っていた程度なのに
書けば書くほど地底全体のことが好きになって自分自身で驚きでした。
>>匿名評価してくれた皆様
たくさんの評価、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
面白かったです。
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