「おはようございます、お嬢様」
天蓋のあるベッドで目を覚ましたレミリア・スカーレットは、馴染みのある声に顔を向けた。
「……なんでこんなに眩しいのよ、今は何時?」
メイド長であるところの十六夜咲夜が、自分の懐中時計を確認して告げる。その腕にはぐるぐると包帯が巻かれていて、おでこにも絆創膏が貼ってある。
「午前九時になります」
「なぁに、朝になったばかりじゃないの? なんで私の眠りを妨げたりするのかしら、貴女は」
「寝入ったばかりならお起こしなどしませんけど、レミリア様はもう4日ほどお眠りになられていましたので」
「……そんなに?」
「ええ、それはもう、高いびきをかいてゴロンゴロンと寝返りをうち」
「脚色は、いいのよ?」
「だといいのですけれどね」
幼い吸血鬼がベッドの上に座り、大きく伸びをして、爆発したかのような髪を何度も掻いている。半目のままで周囲を眺める。中央に設置されたベッドの他には何も置いていない、浩々とすらいえる寝室には、自分とそのメイドだけ。壁にひとつだけある窓には、フェルトのような厚いカーテンが引いてあるが、そこから僅かだけ光が漏れていて、闇に属するこの空間に視界を維持する光量をもたらしている。
もっとも、レミリアは光がなくても物が見えるのだけれど。
「ああ、もう霧がなくなってしまったのね。だからこんなに明るいのね」
「それはまあ、世の中の摂理という奴ではないのかと」
「わたしだって世の中の一部よ」
「かなり特殊な一部ですけどね」
「特殊な人間が何を言うのかしら」
レミリアはベッドを降り、目をこすりながら咲夜の横に立った。
咲夜はいつものように、レミリアのパジャマのボタンを外し、服を脱がせていく。
「夏は嫌いだわ。特に嫌い。眩しいし、暑くなるし、気化するし」
「先に住民とかにアンケートを取ったほうが良かったかもしれませんね。夏の快適な暮らしに貢献できる偉大なレミリア・スカーレットとか、書状を作って」
「めんどくさい」
「なら夏をやり過ごすために完全密閉の特製ベッドでもお使いになられますか? 地下に安置して、秋になったら起こして差し上げますが」
「それって黒い棺桶でしょう? あんなのを使うのは半端者の吸血鬼だけよ。わたしみたいな完璧な夜の住人は、退屈こそを退屈に楽しめる高位者なの」
「それは素晴らしいですね。多分ですけど」
「それに誤解をしているみたいだけど、棺桶は死人が入るものよ」
全裸になったレミリアに下着から服を着せていく咲夜。
ドロワーズ、シュミーズ、ソックス、ワンピース――
吸血鬼は鏡に映らない。だから、レミリアは自分の姿を確認しない。そんな必要があるのは魂が肉体と不可分な人間か、物好きな妖怪だけである。
レミリアは自分の外見を咲夜に一任している。だから、レミリアの姿は咲夜が見ているレミリアそのものだともいえた。
髪まで綺麗に梳き終わって身支度が済むと、帽子を手にしたレミリアが尋ねる。
「今日のわたしはかわいい? 咲夜」
「はい」
吸血鬼のためのメイドは当然のように答える。レミリアは嬉しいともいわないし、ありがとうとも答えない。
扉に向かって歩き始めると、その後を咲夜が音もなく歩き始める。
廊下に出ると、あちこちで壁や窓から光が漏れていて、まるで空中に光の線を書き散らかしているかのようだ。レミリアは少し顔をしかめた。
「パチェはどうしたの?」
「なんだか図書館がとんでもなく荒れているそうで、籠もりっきりでいらっしゃいます」
「普段から籠もりっきりじゃないの」
「中からバサバサとか、ドカドカとか、ゴホゴホとか、そういう音が聞こえてきます」
「大変そうね」
「お見舞いとかはされないのですか?」
「わたしがすると思う?」
「思いませんけど」
数多くある部屋のうち、主にレミリアが過ごしている部屋に向かうと、入り口の扉の蝶番が壊れ、ドアの片方は取れて壁に立てかけてある。彼女は呆れた顔でそれを眺めながら部屋に入る。
ここにもまた、屋根に開いた数個の穴から光が落ちてきていた。屋根まで貫通した大穴にはカーテンのような厚手の布が応急処置として掛けてある。中央の長机は三分の一が壊れ、足も折れて単なる残骸と化していた。奥に進むに従って状態は良くなっているので、一番奥、入り口と向かい合う席に腰を下ろす――一応、壊れていないかを確認して、恐る恐る。
「お茶の準備を」
「はい、お嬢様」
答えた瞬間に、至極真っ赤な紅茶が湯気を立てていた。
咲夜に動いた様子はない。レミリアもそれを当然のようにして飲み始める。半分ほど飲み干したところで一度息をつき、それから傍に控える下僕を細い瞳で見上げた。
「お茶は、おいしいわね」
「ありがとうございます」
「でもわたしの気持ちはおいしくないの。4日も経ってこの有様はどういうことかしら。完璧にも瀟洒にも程遠いのだけれど」
「直すだけなら、私が頑張れば一瞬で直りますわ。でも一応、こういう風になったのをお知らせしたほうがいいと思いまして」
その通りだった。
十六夜咲夜がその気になれば、時の狭間を使って、己が負ったどんなに深い傷だって一瞬で消せるのだ。
「それは嫌味なのかしら」
「何も起こらなかったことにしてしまう方が、お嬢様にとっては嫌味かと」
「ブブーッ、不正解。そういう二者択一の選択肢を設定する人間が嫌なのよ、わたしはね」
「………………」
「やっぱり人間は使えないわね」
「そうですね」
「でも、咲夜は気に入っているのよ。たとえば、自分が負けて動揺することもあるのだ、と内心動揺するところとかね。そういう面倒くさくて野暮ったいところが好き。咲夜が淹れる紅茶もおいしいしね。だから許さないけど、そのままでいいわ」
「ありがとうございます」
咲夜は顔色ひとつ変えずに答えた。
「屋敷も普通に修理しなさい。窓の量は少しだけ多くするのよ」
「はい」
「それから、日傘を準備して」
「わかりましたわ」
瞬間、机の上には数十本の傘が並んでいた。
「お嬢様のお屋敷ですので、なにぶんにも傘と縁が少なく、これだけしか見当たりませんでした。私の私物も混じっていますが、お許し下さい」
「吸血鬼は晴れの日も雨の日も外に出ないものね……いいわよ。だいいち、この館にあるものはわたしのものですもの」
「そうですね」
レミリアは傘を開き、柄から傘の色、刺繍のクロッチなどを眺めて、気に入らないものは無造作に投げ捨てていく。その中の一つを眺めた時に手を止め、しばらく考えてから折り畳んだ。
「これにするわ」
「分かりました」
「これは咲夜のもの?」
「この館にある全てのものは、お嬢様のものです」
レミリアがにっこり笑う。
「あんまり物分りがいいと殺してしまいそうだわ、咲夜」
「言葉とは難しいものですわ、お嬢様」
「なんだか人間って無駄に大変よね。無駄でみっともない生き物」
「本当に、そうですわね」
咲夜には珍しく、心の底から微笑んだように見える。顔に残る傷のせいなのかもしれない。レミリアも笑って答えた。
部屋を出、廊下を再び二人で歩く。
「……でも咲夜」
「なんでしょうか、お嬢様」
「負けるっていうのも、たまには楽しいものね。たまには」
「今回はルールがありましたしね。規定される敗北というのは、人間めいたシステムだと思いますわ。おおよそ妖怪らしくない」
「人でないものがルールを設計するのは、人が関わっているからなのよね。妖怪の賢者なんて結局は人間の浅知恵を利用する、たいしたことないやつよ」
「でも、レミリア様が初めて、そのルールに則ったゲームを始められましたわ」
「わたしは咲夜と暮らしているのよ。人間におもねる方法を探す、優雅に堕落した吸血鬼。かわいいでしょう?」
「それは勿論です」
「わたしを倒しに来た巫女も、それなりに生意気でかわいかったしね。次の百年ぐらいはなんだか退屈しなくてすみそうよ」
レミリアは己の館の玄関に立った。
あちこちの壁に穿たれた穴、落ちたシャンデリアを眺めながら、帽子を被る。
レミリアは鏡を見ないが、それでなくても帽子ぐらいはかわいく被れるのである。
当然だった。
「……わたしを契機として、この小さな世界は回り始める。わたしはここでそういう吸血鬼になっていくのよ。長い百年の始まり。これはその、降り注ぐ無駄な時間をしのぐための日傘なのかもね……で、これは咲夜のなの?」
完璧で瀟洒な従者は答えずに佇んでいる。
「今日は一人でいってくるわ。フランがなんだか最近力を持て余しているみたいだから、次のゲームをふっかけてくる」
「はい。お気をつけて」
「わたしが気をつける心配なんて、どこにあるというの」
「お嬢様のことですから、うっかり太陽の光を浴びてしまって、関係ない適当な誰かを不老不死にしたりしないか、心配で心配で」
「それは大変だけれど、それっぽい人間はもう間に合っているから。そうでしょ?」
吸血鬼が微笑むが、メイドは答えずに深々と頭を下げた。
それから。
レミリア・スカーレットは、陽光降り注ぐ夏の最中に紅魔館を出て、博麗神社へと向かった。
笑顔の咲夜さん可愛い
いいレミリア&咲夜さんでした。
お嬢様と咲夜さんの会話が何とも言えません