☆
ルナティックの難易度も、私たちがナンバーワン
☆
選択可能ショット数も、私たちがナンバーワン
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道中の被弾率も、私たちがナンバーワン
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通常弾幕による事故率も、私たちがナンバーワン
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スペルカードによる致死率も、私たちがナンバーワン
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記録されたリプレイ件数も、私たちがナンバーワン
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ホイホイされた新参の既知の処刑の数も、私たちがナンバーワン
これが、私たちの主演作 ・ 東方地霊殿の真実だ
(Windows版東方project 最新10作品内比較 2011年度調査)
黒谷ヤマメ 著 『バカでマヌケな地獄烏』 ( 原題 STUPID BLACK CROW )
日本語翻訳版 帯より
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核融号事件-the stupid tale of KAKUYU‐GO-
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霊烏路 空 …… 地獄烏。本作の6ボス
火焔猫 燐 …… 火車猫。本作の5ボス
古明地 さとり …… サトリ。空と燐の飼い主
メガネの妖精 …… 不死族。ゾンビフェアリー
伊集院 光 …… 空に核融合の力を与える神。蛇みたいな目をしている。
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[第九十八季
10月26日
空と天蓋]
the world is mine.
霊烏路 空という少女にとって、世界とは薄暗い穴ぐらのことを指していた。
その日、彼女は火力の弱まってきた地霊殿のボイラーに燃料となる死体を放り込む仕事をしていた。鋳鉄製のフックで死体の胸を貫き吊るし、血が十分に抜けたことを確認するとフックとクレーンの間に噛ませた秤で体重を測って記録する。
「今日の死体は、よく肥えてるね」
「本当にね。運ぶのが大変だったよ」
リモコンを操作してクレーンを動かし作業台の上に死体を乗せながら、フォークリフト上で木天蓼入りの葉巻をくわえる同僚の火焔猫 燐に話しかける。火気厳禁だよ、と注意を添えて。
「そんなに、いちいち記録しなくても誰も咎めやしないのにさ」
「ダメだよ、お燐ってば。ルールはルールなんだから」
わざわざ死体を一体一体丁寧に裁断処理してから火にくべる空であったが、他の地霊はそんな面倒なことはしない。血抜きも記録もせず、無作法に死体を放り込むばかりだ。葉巻をもみ消しながら燐はため息をついた。
「きちんと処置しないと燃えカスがたくさんでて、燃えカスは酸化物だからとても硬くって、それで炉壁が傷んじゃうの。それに、必要以上に燃料を足すと過熱して、それでまた配管が傷む。掃除やメンテナンスで苦労するのは結局自分なんだから」
「ほかの地霊が傷めた炉体の溶接をするのは、いつもあんた一人でしょうに」
六人分の死体を放り込み、炎の温度と炉内圧力を点検し終えた空はようやく休憩場でヘルメットを脱いだ。髪を手で梳いて蒸れた頭に風を通しながらタオルでうなじの汗を拭っていると燐が戻ってくる。二本の缶コーヒーを手に持って。
「お疲れ様」
「ありがとお」
空はかしゅっ、と小気味良い音を立ててプルタブを開けると、ごくごくと半分ほど飲み干し、缶の側面についている懸賞のシールを剥がしてヘルメットに貼り付けた。細かいキズがたくさん刻まれたヘルメットには様々な技能の資格保持者であることを示すシールも無数に貼ってある。
「お燐お燐、お燐のシールもちょうだいよ」
「なあに、また集めてるの、あんた」
「うん!」
「あのねおくう、こういうのは私たちが送っても当たりゃしないんだよ」
「え、なんで? そんなことないよ? 抽選だし」
「だから、抽選って所に付け込まれてるのさ。アタイたちの周りで、誰か一人でも賞品が当たったって奴がいたことはあったかい? 小売店を初めとするメーカーとコネのあるところに賞品送りつけて、懸賞の体裁を整えてるだけさ」
「ええ!? なんでそんなことするの」
「懸賞やってます、っていえば購買数が稼げるでしょ? 個人情報も集まるし。それに不正をしたところで罰する法は、この地底では整備されていないんだから」
「そんなあ……」
しょんぼりしてアホ毛まで垂れ下がらせた空を見て、流石にいたたまれなくなった燐は「あーもー」と頭をかきむしって、自分のシールを空のヘルメットに貼り付けてやった。
「馬鹿だねえ、この子は! 冗談に決まってるだろう。集めてれば、いいことあるよ」
「ほんとに!? やったあ」
「バカ、だね……まったく」
一転してホカホカした笑顔を浮かべる同僚の翼を叩きながら、燐は次からは別のメーカーのコーヒーを買うことにしよう、と決めた。そこには、自分にできるのはそのくらいしかない、という。どうしようもない、諦めがあった。
「おいしーねー、お燐」
「スッキリ派がよく言うわ」
長くはない休憩時間を、二人はそうやって目一杯楽しんだ。
夜勤への引継ぎが終わり、制服を脱いだ二人は自宅である地霊殿宿舎へ向かうトロッコバスへ乗り込んだ。疲れ切って眠るもの、開放感の中で笑うもの、もくもくと本を読むもの、飲みに行く相談をするもの……そのなかで、空はぼーっと、頬杖ついて空を見ていた。
「なに見てるの、おくう?」
「ねえ。なんで空って黒いのかな?」
「え?」
思いもしない話題が飛び出してきて、話かけた妖精は途惑った。
「なんでもなにも、空は黒いに決まってるじゃない」
「ずっと黒かったんだから。当たり前じゃん」
「空は馬鹿だなあ」
周囲にいた妖精達はそういって笑いあった。空は、「ふーん」と言ってまた空を見上げる。その瞳がくるくると動く。
「……地上では、空って青いんだってさ」
不意に、最後列で本を読んでいたメガネの妖精が声を上げた。
「えー!? 空が青いなんて、気色悪い」
「……青だけじゃなく、赤にも橙にも紫にも、そしてもちろん黒にもなる、って、本で読んだ……」
「嘘だあ、そんなの。大体、空の色がころころ変わったら困るじゃない」
「…………」
やんややんやと、車内はにわかに盛り上がった。その中で、車窓から天を仰ぎ、空は小さく呟いた。
「私は、いいと思うな。青い空。いちど、見てみたい」
これに周囲の妖精は、まるでブロッコリーを皿に盛られた犬のような顔で、
「ないわー」
「青いワケないって」
「空はやっぱり、馬鹿だなあ」
と、口をそろえて空をこき下ろした。見かねた班長の燐が飛び回る妖精を席に着かせる。騒ぎはそれで収まった。
「………………」
空は徹頭徹尾、空だけを、彼女を取り巻く世界を観察していた。ずっと――澄んだ瞳で。
彼女が変わりはじめたのは、この日からであった。
********************
[さとりと知性]
夕食が終わり、順番ごとの入浴が終わると空は思い切って飼い主の部屋のドアをたたいた。
いち早く風呂を上がったため、ほかに人影はなかった。
「さとり様、いらっしゃいますか」
「居るわよ、空。遠慮せず入ってらっしゃいな」
執務机に広げた帳簿を覗き込んでいたさとりは、丸いメガネを外しながら空を招き入れた。空はいつも、そのメガネを見るたびキラキラして綺麗だな、と思う。さとりはぼんやり読み取れた心から、長話になりそうだと感じた。
「今日、空を見ました」
「そう」
「空が黒くて、でも、地上の空は青いって聞きました」
「うん」
「さとり様、地上ってどんなところなんですか? 遠いんですか?」
「っぷ」
さとりは読み取った思考に茶を吹いた。馬鹿だ馬鹿だ、とは思っていたが、まさかここまでとは。
「えーっとね、おくう。まず、私たちがどういうところに住んでるのか、そこから話さなければならないようね」
収支報告書の裏紙に、ボールペンでさとりは大まかな図を描いた。地球は丸い、ということ。丸いけど、とても大きいから小さい私たちからは平面に見える、ということ。この球の表面が地上であり、内側の空洞こそが私達の住む地下王国である、ということ。地下王国の通貨はさとりの顔が印刷された紙幣で、10円あたり1サトリであること。焼き鳥1パックが7000サトリであること――。
「これが地球だとするならば」
おやつの甘食を二個くっつけて球を作ったさとりは、ぱかっと二個を分離して真ん中の空洞を指差した。
「ここ、この空洞が私達の住んでる場所ってことになるわね」
「…………」
ああ、理解できてねーなこりゃ。まあそうなるだろうなー、とさとりは思考を読んで、ため息をついた。茶を口に運び、一口飲んだところで、
「っぷ」
再び茶を吹いた。モヤモヤしていた空の思考が、急にクリアーに開けたからだ。
急に?
急や。
それは、驚くほどに劇的で。
有機物の塊に過ぎないと思っていた、脳という器官。タンパク器質が可逆的に連携し、イオン交換と神経分子結合の結果、意志が生じることはさとりも無論知っていたが。
「これが、知性の芽吹きだというの――!?」
世界が生まれた。今、目の前で起こった現象。いちどに複数の神が創出されたとも、中性子の衝突で原子核が崩壊したとも、卵子と精子が出会ったとも言えるほどに――壮大で、神秘的で、破壊と創造に満ち溢れていた。
光が作られ、闇が生まれ、地と天が形成されて、海ができ大気ができ大陸ができ、そして私達の住む地底が開けた。空の頭のなかには、そんなイメッジが浮かんでいた。
「さとり様?」
「え? あ、ああ。解ってくれたようでなにより」
「はい、ありがとうございます! それで、なんですけど……地球が丸いんなら、地上の人は落っこちないように上の場所にしか住めないんですかね?」
「っぷ」
三度、茶を吹く。
「どうやら、まだまだあなたには、お勉強が必要なみたいね」
安心したような声で、空の頭をぐしぐしと撫でながらさとりは微笑んだ。
さとりの話は、空が眠気に負ける時刻まで続いた。いつの間にか思考がブラックアウトしているペットを見つけたさとりはそっと空を抱き上げ、寝室まで運んでゆく。
ガラスのアクセサリーやビール瓶の王冠が散らばる二段ベットの下。上で眠る燐を起こさないようそっと横たえるとさとりは二冊の本を枕元に置く。
一冊はブルーバックス、『高校数学でわかるプリンキピア』。もう一冊は真新しいノート。
「明日から一緒に、勉強しましょうね」
そういってさとりは静かに部屋を退出する。
はるか遠くの工場で階差エンジンのピンが落ち、こーん、こーんと甲高い音が響いている。
これはそんな夜の出来事だった――安らかな、夜であった。
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時は過ぎ、それから十年が経った。
空は相変わらず馬鹿なままだった。
さとりは八年目に、彼女に数学を教える努力を放棄した。一歩進んで三歩退がるような苦行に耐えられなくなったというよりかは、空が賢くなってゆくには座学ではなくもっと別の方法が必要だと感じたからだ。爾来さとりは空を積極的に外回りの仕事にも出すようにした。
空はというと、日々の勤めを果たしながらも移り気なその興味関心を多種多様多雑な方向へと伸ばし、毎日を楽しく過ごすことに余念がなかった。
だが、ご存知だろうか。知性は決して脳だけに宿るものではないということを。
空は考え続けていた。馬鹿なことだといわれようと、後ろ指差されようと、探求し続けていた。そしてまたさとりの投資は確実に、空の知性が飛躍的に成長するよう正しい思考プロセスを教え、鍛え上げていたのだ。
かくして空の中に芽生えた知性は、確実に肥大化し続けていたのだった――そう、さとりにも、空自身にも。誰にも、誰にも気付かれぬままに。
ただ一人、火焔猫 燐を除いては。
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[燐と発達]
飲み会をやった会計の時、誰ともなしに割り勘の金額を教えてくれるようになった。それが、皆酔っていて気付かなかったものの、空の声だということを燐は知っていた。
いつの間にか空の取り入れていた作業手順を、ほかの地霊が、自分たちでも気付かぬうちに真似するようになった。
ボイラーの熱効率が倍になった。節炭器やほかの様々な設備改造があったことも確かだが、それらも含めて空の手腕であることは間違いなかった。
「あの子、ひょっとして……?」
燐には、そう思う節が多々あった。しかし、普段から空と過ごしていると、こいつ馬鹿だなあって思うことの方が圧倒的に多く、その疑問は埋もれてしまう。
それは例えば、こんなやり取りをするときなどだ――。
「ねえお燐お燐。北の果てに、鉄鉱石を採掘する坑道があるじゃない?」
「それより、早くドレッシングちょうだいよ」
食事時のこと。燐は空に、サラダにかけるオイルドレッシングを取ってくれ、と言った。空はひょいと容器をつかみ、シャカシャカと振ってから燐に渡そうとしたが、その動きが止まる。容器の中で食用油と酢、醤油、ゴマやニンニクが混ざりあう様を凝視し始めたのだ――重いものから順に沈んでゆく、その様を。
「なぜ、あの岩床帯は縞模様を形成しているのかな」
ドレッシングをひょいと取り上げ、燐は応えた。
「それは、大昔にシアノバクテリアっていう生き物が鉄をまとめて海の底に沈めこんだからよ……あ、かけすぎた」
「そうじゃなくて、層になる理由さ。鉄は地殻の他の成分、ケイ素とかアルミより重いんだから下に行くはずじゃない。だけど、鉄は珪素の層よりも上にある、交互に連なって……」
「そうだとか、そうになるとか、なにを言ってるのか解んないよ」
同じく食卓を囲んでいた妖精達が、口々に言った。
また、わけの解らないことを言い出したよ。
まったく空は、馬鹿だなあ。
「鉄はイオン化傾向が比較的高い――錆びやすいでしょ。錆びるだけじゃなく、他のいろいろな物質とくっつきやすいのよ。くっついて、軽い化合物になる。だから珪酸層より上になるの。浮かんだあとに熟成反応が起きて今みたいな層になったのよ」
思考を読んださとりがそういって話題を締めくくった。さとりが箸を置くと、周りも箸を置かざるを得ない。そそくさと飯をかっ込む地霊のなか、空は食事の手を止めてドレッシングの層を見続けていた。
また、こんなこともあった。
「ねえお燐お燐。私すごい発明しちゃった」
「それが、その異臭を放つ白いブヨブヨのことを指しているなら、私はダッシュで逃げるけど?」
就寝前のこと。洗面所に歯を磨きに行ったところ、パジャマ姿の空が熱心に手を洗っているのを燐は見かけた。ハテ、なんぞフルメタルジャケットなことでもあったのだろうかと思ったが、空の奇行自体は珍しくもなくその時は放置したのだが。
「実はこれ、ガムなのです」
「ガム、ガムだあ? それは、あんた、チュウイング・ガムのことを言いたいのかい? 樹脂に香料と甘味料を加えたアレ」
「あ、残念ながらこれには味は付いてません」
グレープフルーツ程度の大きさをした、白いカタマリ。空はそれを千切って「あーん」と燐に食わせようとする。冗談じゃない、と燐は二段ベットの上に退避した。
「なによー、ちょっと試しに食べるくらい良いじゃないのよー」
「そんな得体の知れないもの、口に入れたくないね!」
「しょうがない、お燐が食べやすい形にしてあげる」
机の上に直でべちょっと塊を叩きつけ、こねこねして形を作る。傍から見ればまったく紙粘土をいじくっているようにしか見えない。そのうち、騒ぎを聞きつけて妖精達も集まってきた。
「できたよ! さあ召し上がれ!」
そう言って空が差し出したのは異様なほどリアルに造形されたハツカネズミであった。周囲で妖精が野次を囃し立てた。やれ、くーえ、くーえと。
「あんたら、ヒトゴトだと思って……!」
しかし燐自身、興味が沸いているのも確かだった。尻尾の部分を千切ると、ええいままよと口に放り込み咀嚼する。するとどうだろう、確かに歯にくっつく感触と、僅かな弾力があるではないか。とはいえ。
「……まっずぁ!」
吐き出しこそしなかったものの二口目は遠慮せざるを得ない味と香り。これはなんだ、これは……麩に似ている。
「代用ガムだよ、お燐」
「うえ、まっず。本気で不味い。なにこれ、どこがガムだい」
「だーかーらー、甘味料と香料が無いせいだってば! 食感を楽しんでよ食感を」
余ったガムが妖精達の手に渡る。波が水面を走るように、不味いマズイの混声合唱が広がっていった。
「うへえ、信じらんない。これがガムだってさ」
「どうかしてるよね。頭も舌も」
「空は本当に、馬鹿だなあ」
その後、空が代用ガムの作り方――つまりは小麦粉を流水で揉みグルテンを取り出す方法を妖精達に教えたことで、不味いながらに工作ブームが起こった。やんややんやと夜更かしして小麦粉を浪費する一同は、そろそろ寝んべと洗面所に現れたさとりに発見、拘束され、拳骨を食らうハメになったのだった。
さらに、こんなこともあった。
「ねえお燐お燐。そのリフトはレシプロエンジン? エレキモーター?」
「それより、早く荷下ろししてちょうだいよ」
仕事中のこと。いつものように死体を届けに来た燐はクラクションを鳴らし、机仕事をしていた空を呼んだ。ようやく図面から顔を上げた空は、くりくりした瞳で燐にそう訊いたのだ。
「今ね、スカート清掃用のロボットを改造して、燃焼室の清掃もできないか検討してたんだ」
いつものようにヘルメットを被り上方を睨むようにしてランウェイの稼動物を点検してからリモコンを操作する空は、まさに"上の空"といった体でブツクサと話し始めた。
「それが、"アダシノ三号"の動力とどう関係するのさ? エレキだよ、そりゃあ」
見れば解るでしょうに、この子馬鹿なのかな、と燐は思った。
「確認したかったの。バッテリーの予備ってストックしてる? 一個くらいこっちに回せない?」
「いいけど……どうするの?」
「ウフフ。知ってる、お燐? 燃焼室って、すっごく汚いんだよ」
熱を取り出すために人体をくべる、リアクタ――このような構造物は、果たして外の世界にも存在した試しがない。近い例としては、旧日本陸軍の満州第七三一部隊が使っていた検体用焼却炉があるものの、これは実在したかが定かではない。それゆえ空たちは、ボイラーを運用するに当って、外の世界のノウハウに解決を頼ることのできない問題をいくつも抱えていた。そのひとつが、燃えカスの清掃なのだった。
炉内は常に硫化水素・炭化水素を初めとした爆発の危険を孕むガスに満たされている。これは不完全燃焼した人体の腐敗や炉底に溜まった骨や脂が反応し生じるもので、清掃は地底でも指折りの3K仕事なのだ。
キツイことに関してはいうまでもない。腐乱死体の山を突き崩し人力で片付ける重労働である。
キタナイことに関しても他の追随を許さない。一日仕事をすれば一ヶ月は臭いが取れなくなる。
キケンに関しても比較にならない。なにせいつ爆発するか知れないのだから。
以上のように清掃は酸鼻を極める。今までは空とベテラン妖精が櫛風沐雨と働き続けていたが、昨年このベテラン妖精が定年退職して以来、妖の尊厳を粉々に打ち砕くこの仕事に定着する者がおらず、空に負担が回って来ているのだった。
「でも、機械任せにすると危ないってさとり様が言ってなかったっけ」
「あの時はほんと、参ったよ。だけど成果もあった」
さとりはいくら人を送り込んでも解決しないこの問題を見かねて、真鍮製のスコップを手にとり自ら炉に飛び込んでいた。半年ほど前のことだ。そして案の定、硫化水素の刺激により涙と鼻水で顔面を多層コートして帰ってきた。触れるだけで爛れる強アルカリ性の灰を防ぐ防護服も、マスクも、完全ではないのだ。
「空、内部の換気はできないの?」
「すいません、さとり様。風を送ると……酸素をたくさん入れると爆発の危険があるのです」
「でも、炉は冷え切ってる。火種はないんじゃない?」
「いいえ、さとり様。私たちが動くこと、それ自体が火種となるのです」
「そのための防爆仕様じゃないの? 火花が出ないスコップを使ったり」
「そうじゃありません――静電気ですよ。私も、さとり様も、電気を神経伝達に使う電磁気的マシンなのです。そのパワーは100Wの電球に相当し、動けば静電気が生じる」
「なるほど……電気が危ないというのでは、安易に機械を送り込むこともできないというわけね」
バケツに顔を突っ込み、真っ赤に腫れた目と頬に冷えピタを貼り付け、唇に軟膏を塗ってようやく人心地着いたさとりは、空と上記のような意見交換を行った。その場では新たな防護服の調達という結論しか出せなかったが、空は考え続け、そうして――閃いたのだ。
「お燐。爆発が起こるための三つの要件って、解る?」
「ええと、まず火種があること。酸素と爆発ガスがあること。それらが一定の割合で混ざること……かな」
「そう、だからそのうち、ひとつでも潰してしまえば爆発は起こらない。あとはそのハードルをクリアーしたマシンを送り込んでやれば、キツイ仕事はしなくても済むってワケさ」
「だけど、そもそもスカート清掃ロボットは内燃機関で――ああ、それでバッテリー式にしよう、って?」
「そゆこと。あとは不燃ガスでバッテリーをシールすれば、火種は消えるって寸法さ」
死体を作業台に降ろして、空は得意げに図面を見せた。
燐は感心しながらそれを眺めた。これならば上手くゆくかもしれない。清掃員が入らなくてもいいならば、酸素をシャットダウンできるからだ。
「こいつはすごい――ん? でも、あれ?」
「どしたの、お燐? 感動のあまり、私にジュースでもおごりたくなった?」
「いやさ、このマシンのフレームって18-8じゃない? 火花の危険が……」
「……あっ」
やれやれまったく。やっぱり馬鹿ね、この子は。燐と空はそれぞれ別のことで頭を抱えた。
その後、星熊 勇儀が調達したベリリウム銅でフレームを換装しロボットは完成。作業は安全に、半分の時間と十分の一の労力で行えるようになった。
かくして燐は空の知的な面と、間の抜けた地の性格、その両方を目撃する立場にあった。
しかし、それが危険性を持つということ、増して異変に繋がろうことなどは、神ならぬ燐に予測できるはずもなく……。
結局、空の危うい知性に警鐘を鳴らす者は、誰一人として現れなかったのであった。
********************
[空と地上]
そしてついに、その日が訪れた。
「ねえお燐お燐。地底のエネルギー収支を計算してみたんだけど、計算が合わないんだ、どう思う?」
その晩、さとりの発行する前年度版のエネルギー白書を抱えた空が、二段ベットの上で自身を慰めていた燐を強襲した。わたわたと道具を仕舞う燐に構わず、空はルーズリーフをばさばさと枕の上に広げる。
「ふにゃっ!? え、なに!?」
「お燐が運んでくる死体と、西の鉱脈から産出される石炭および鉱物油に、地熱エネルギー。これらが私達の使ってるエネルギーの97%を占めている。残り3%は地下水脈を使った水力発電と、IPM(インプランテッド・ペロブスカイト・マトリクス=埋設型地殻歪発電)が主なもので、前年度からの繰越をこれに含めても私達の生命維持には足りないんだ。ほら、ここ」
そういってグラフを指し示す。
「ええと、どれどれ。あーはいはい」
タオルケットで下半身を隠しこっそりパンツを穿きながら燐はなおざりな返事で誤魔化した。付き合いが長いこともあって空の言いたいことはなんとなく解った。
「昨年私達が消費した工業生産電気量は42.33GWH.民生エネルギーでは2.32GWHで、対し発電総量は102.02GHW.差分は送電ロスを含めた逸失エネルギーだって説明されてるけど、アルミ合金線でもこんなにロスが出るはずがない」
「それはお空、変電ロスや架線衝突事故のせいだよ。よく妖精が丸コゲになってるじゃない? アレよアレ。最近は埋設送電にする話も出てるけど、技術的な問題が解決できないみたいだね。なんでも八気圧のOFケーブルが必要条件なのに、肝心のオイルの質が悪くて高温時気体が混じるとか」
「ふーん……じゃあ次に、農業生産力についてなんだけど。昨年の農業生産量は大麦初めとする穀物類2万トン、ジャガイモ、カボチャ、サツマイモ、山芋等のイモ類7.4万トン、大豆、野菜、その他20トンで、おおよそ185.28GWHに上る。民生から回されるエネルギーでは、どう見積もってもこんな生産量は賄えないはずなんだ、石油資源を使った化学農法でも投入エネルギー比五〇を上回ることはないのに。桁だよ? 桁が違うんだよ?」
「それはお空、電力として消費されているのはあくまでもハロゲンランプと高圧ナトリウムランプで植物に光を当てるためだけだからだよ。実際のところ、工業生産と同会計のセントラル・ヒーティングと、人的労働力の投入も存在するんだ。だから電力だけみると、一見大幅に上回っているように見えるのさ」
「そっか、なるほどね。事故件数や公共事業投資を調べればまた疑問が出てきそうだけど、それは今はいいや」
さばさばした調子でルーズリーフを仕舞った空は、返すその手でランドセルからクリアファイルを取り出した。なぜか、燐はぞくりと背中に悪寒を感じる。
「さて――これが、わざわざお楽しみ中のお燐を起こしてでも聞きたかった本題なんだけど」
ばれてた! 燐の顔が一瞬で真っ赤に火照る。
「地底人口白書を読んでて気がついた。お燐が運んで来て、私たちが火にくべた死体は、昨年だけでも333体。対し、昨年度の出生数は67人。これじゃ百年と待たず地底は死に絶えてしまう計算だ。ねえ、お燐。
お燐は、あの死体を、いったい、いったい、どこから、どこから、運んできて、いるんだい――?」
最初は小さかった燐の悪寒は、既に総毛立つほどに強く広がっていた。こんな空を燐は見た事がなかった。知性、それも大きな知性。今にも世界に対し牙を突き立てんばかりに、剥き出しにされた知性……!
「私生児が多いんだよ、地底は。さとり様が把握している出生はあくまでも納税者の記録を元に作られているんだ。そのことは最初の統計手法の項に書いてあるはずだけど……」
パンツに別の染みを作りそうになりながら燐は用意しておいた返答を返した。このようなことを訊かれるのは当然初めてではない。だがもちろん、本物の知性を持つものに誤魔化しは無意味。
「そう。じゃあこれはどう説明する? お燐とさとり様のハンコが押された遺体受領伝票のコピー、昨年分すべて……71枚。つまりは死体71体分の、死亡見舞金給付証明書。この71枚に記載された金額を合計すると7,678,621円になる。……ちなみに、私が昨年この手で火にくべた死体が71人だった……。しかし一方、昨年地霊殿で内示された決算報告書によると死体購入費用は227,112,369円で、このうち見舞金は54,597,710円と書かれている。会計監査役の星熊 勇儀にも話を聞かなきゃならないけど、当面問題なのは残り262人分の死体はどこから来て、差額の172,524,659円はなにに使われて、今どこにあるのかってことだと思うのよね――お燐。なにか知らない? いいえ、お燐がなにも、知らないはずはない」
「しっ、死体を買うにしたって、ボディだけにお金を出せばいいってワケじゃない。病原菌検査とか死体税とか保管輸送コストとか、いろいろ、ある……」
「それらすべてを合計したって! お燐のところの年間予算には及ばないでしょう。なら差額は確実に存在する……お燐が決議された予算で業務を工面していることは、私がよく知ってるんだから! さあ答えて、お燐! 262人分の死亡見舞金は、どこに支払ったの? それともどこにも支払わず、架空の死体でも運んできて、さとり様と星熊 勇儀が不正に金をプールしたの?」
「それは違うッ! さとり様は断じて裏金作りなどしていないし、私もさとり様も、死者への敬意を忘れたことはない、本当だ!」
いつの間にか、部屋の外から妖精達が様子を伺っていた。空をこのままにしてはおけない。しかし、燐には真実を告げる権限がない。
「……空、お願い。信じて」
「言われなくても、お燐のこともさとり様のことも信じてる。けど信じることと、真実を追うことは別だよ。疑うことすら、信用の証だと私は思ってる」
様子を伺っていた妖精たちは、なにを矛盾したことを言ってるンだこの鳥は、やはり空は馬鹿だな、とささやきあった。何事かわけの解らない理屈をこねて燐を困らせる、幼稚な愚か者――考えることをやめた者には、空は確実にそう映っているのだった。
空は馬鹿だなあ――
――馬鹿だなあ空は
そのとき。
不意に部屋の外のざわめきが、潮の引くように消えた。
燐と空はこのような現象をよく知っていた。
これは、そう。あの人が、現れる時に起こる静寂だ。
「みんなもう寝る時間でしょう? なにを騒いでいるのかしら」
スリッパの楚々とした足取りで現れたのは、地霊殿当主・古明地 さとり。妖精たちは散々に部屋へ帰り消灯した。燐と空が残る。
「凡そのことは解ってるわよ。二人とも、着替えてガレージに来なさい」
いつものように、粗相を咎められぶん殴られるものと覚悟していた二人はその言葉に途惑いつつ、着替えてそそくさとガレージへ向かう。
十分後。二人が乗りこみ、さとりが運転するシボレーは夜の首都高速を走っていた。空は目をキラキラさせて流れる光を追っている。一方、燐はというと脂汗をだらだら流し、助手席で固まっていた。
「さとり様、あの。空は、その……口は堅いほうだと思うんですよ、根はマジメな子ですし」
「なにを勘違いしてるのよ、お燐ったら。これから向かう先は、廃坑道じゃないわよ」
廃坑道。不都合な事実に気付いたものが行き着く場所。燐はてっきり、さとりは空をそこへ連れてゆくものだと思っていたが。
「では、一体どこへ――まさか」
時速百四十キロで、青い道路標識が頭上をすり抜けて行った。左にウィンカーを出し首都高を降りる。この道の先を、燐はよく知っていた。なにせ週七日のうち四日はここに来ているのだから。
「ここって、お燐の仕事場だよね? 久しぶりに来たなあ」
輝く夜景を飽きもせず眺めていた空がシートに顎を乗せて尋ねた。燐は別の意味で青ざめ始める。さとりが空になにを知らせ、どこへ連れてゆく気なのかを悟ったからだ。
「大丈夫よ、お燐。私はずっと前から、教えるタイミングを計っていたのだから」
「…………」
車両は旧地獄街道を進み、高架橋を走って天蓋に触れる領域へと近付いて行った。ゴツゴツした世界そのものの質感が目の前に現れる。ぽっかりとした落盤跡が上方に抜け、地底でもっとも冷たい空気が漂った。
地面が立ち塞がる――地底に住むものたちは、この場所をそう形容していた。
「橋姫さん今日はいないのかしら」
「朝のシフトだったんでしょう」
ガタゴトと鋼鉄で作られた橋の継ぎ目を踏み越え、遮断機が下りた検問所で免許証と通行証を提示する。これを通過すると、いよいよ世界の果てにたどり着いた。
外資集積センターと刻まれた石柱のそばでさとりは車を停めた。二人を伴って車を降りるとあたりをキョロキョロと見渡す。燐が訝しがる間もなく、そいつはにゅるんと頭上から現れた。
「古明地さん、お待ちしておりました」
頭上より声。
黒谷 ヤマメ――竪穴を仕事場とする地蜘蛛が、高分子ワイヤで自重を吊り下げていた。
「こんばんわ、黒谷さん。私のハマーを出してくれるかしら?」
入れ替わり立ち代りで運転席に座ったヤマメに鍵を渡しさとりは言った。ヤマメは申し訳なさそうな顔をする。
「すいません、ハマーは一週間前にこいしさんが持ってっちゃってます」
「……あの娘はっ……」
こめかみに青筋浮かべるさとりは、目元を隠したままドアを叩いてヤマメを送り出した。
「どうします、さとり様?」
「仕方ない、今回は徒歩で」
なにやら話し始めた二人の横で、空は周囲の観察に余念がなかった。置いてけぼりを食らった形だが空は気にしない。へー、ほー、と口をあけてだだっ広い駐車場を眺める。すると、向こうからなにか大きな影が近付いてくるではないか。
「ね、さとり様」
「あの娘ったら、毎度毎度勝手に私の物を持って行くんだから」
「え、ええ!? あ、はいはい、そー。そう、ですよねー」
「さーとーりーさまー。アレ、誰ですか?」
「ちゃんと返すならまだしも、しょっちゅう忘れ物するし」
「おおう、古明地じゃないか。久しぶりだなア!」
「のあ!?」
「おおっと、驚くない驚くない――上がりに、来たんだって?」
酒気を発しながら陽気に話しかけてきたのは、一本角逞しい地底の大鬼、星熊 勇儀である。
「星熊さん、ご無沙汰してます。ええ、でも今日はこっちの都合が悪くなってしまって」
「車だろ? 私のトヨタを貸してやるよ」
「よろしいので?」
「麻雀の借りも有るしなア! それに、今日はもう飲んじったから乗らないし」
「じゃあ、エレベーターにお願いします。朝になる前には戻りますから」
熊のストラップがついた鍵をポケットから取り出す勇儀と空の目が合った。主人と対等、つまりはるかに目上に当たるこの人物に対し、空はなぜか緊張も敬慕も感じなかった。かすかに右腕が疼く。それは相手も同じなのではないか、と空は思った。
「…………」
「…………」
空、勇儀の間に漂った僅かな沈黙をさとりが横からするりと破った。
「はい、確かにお借りしました。黒谷さんに、エレベータの減圧は必要ないとお伝えください。また麻雀しましょうね」
「あいよ、了解」
さとりと麻雀をやる奴がいるのか、あるいは、正直者の鬼に麻雀が出来るのか。そう思っていた時期が俺にもありました。両者の勝率は実績七三程度。心が読めようと、真っ正直だろうと、現実の複雑さの前では大した有利にも不利にもならない、という好例である。ともあれ、鬼はふらふらと立ち去った。
話はついた。鍵を受け取ったさとりは二人を引き連れエレベーターシャフトへ向かう。立ち塞がった地面を打ち抜いて鉄門扉をはめ込んだようなゲートが左右に開くと、自動的に照明が灯る。円形をした昇降機に、グレーメタリックのランドクルーザーが鎮座していた。三人は無言のまま乗りこんだ。
「シートベルト締めたわね」
さとりはペット達を正しく着座させ、自ら拘束を確認するとクラクションを軽く二回鳴らした。それを合図にして、ガタンと床が一瞬沈み込む。次いで起こる急上昇。空は事態を飲み込むより先に耐G姿勢を取った。さとりと燐は慣れた様子でシートに身を沈めている。
「ちょっと耳がつんとするけど、我慢してね」
加速度が収束し、さとりはシートベルトを外す許可を与えた。燐はさっそく車内を物色し灰皿にシケモクを発見。空はまだ身体を強張らせていた。なにかが起こる、とは思っていたが――
「さ、ささっさとり様! わたしたち、えああ、うえ、うえに!? 上にすごいたくさん!!!」
地底に住むほとんどの者にとって上昇は自由落下よりはるかに恐ろしい現象だった。地の底は深いが、天井はあまりに近く、そして厚い。昇るということはぶつかることに等しい。予備知識なしでジェットコースターに乗せられているようなものだった。
「今まで黙ってたけど、空。実はこのシャフト、地上に繋がってるのよ。ね、お燐?」
「うわーさすが鬼だなー、いい葉っぱ吸ってんなーチクショー」
「ち、ちちちちちちじょう? 地上? 地上! 地上ですか!?」
混乱していた思考が、ひとつの仮定でクリアーに澄み渡る。
もし地上に行けたとしたら。
もし地上と、自由に行き来できたとしたら――
空が常日頃から感じていた、地底生活の違和感が、すっきりすべて説明できることに彼女は気づいたのだ。食糧も、大気の循環も、需要と供給のバランスも、出自不明の死体も……。
「なるほど、そういうことだったんですね」
頭の中を透かし見てさとりは腕を伸ばし、くしゃくしゃと空の頭を撫でた。
「今まで黙っててごめんね。お燐には、ずっと前に教えてたんだけど」
「そゆこと。あのお金もね、ちゃんと地上の遺族に払ってるんだよ」
話すうち、徐々に空は大気組成が変化するのを感じ取った。嗅いだことのないにおいがする。減速が始まって、再びガタンと床が震えた。歯車の噛み合う音がしてゲートが開く。
「行くわよ空。出発進行!」
「おー!」
「バッチコイ、地上!」
SUVは勢いづけて走り出した。
空が最初に見た地上の色は、下生えに覆われて鬱屈とした夜の森、その濃い緑だった。
「これが、地上」
車内に飛び込んできた他愛もない木の葉を食みながら空は何度も息を吸ったり吐いたりした。やや肌寒い。体がふわふわする。本来自分たちを覆い、包み込む岩盤の圧迫感の不在。空はこの感覚に途惑っていた。
「無理もないわね。普通の子だったらすぐ帰ろうとするくらいだもの、この開放感は」
「ですよね。無防備な感じがして、落ち着きませんよね」
「な、なんか。あれですさとり様」
「なに、空?」
「おしっこいきたいです」
「言うと思った」
さとりと燐はカラカラと笑った。地底から地上に出た者は、みんなその感覚を味わうのだ。
トイレ休憩を挟みながらSUVは山道をひた走る。
「ところで、さとり様。私たちどこへ向かっているんです?」
轍のついた道。手馴れた運転。空は当然の疑問を投げかけた。
「すぐ解るわよ。というか、もう見えるわ――ほら」
そういって、さとりは右手側を指す。木立が途切れ、星が瞬き、遠くに黒い山脈がそびえている。崖。断崖。車を降り、その突端に立つと眼下にその光は現れた。
「あれって、もしかして」
「そう、人間よ。人間社会の、生活の灯」
「人間……ずっと昔に世界から姿を消したっていう、伝説の? 私、死体でしか見たことないです」
「私もよ。お燐もそう。私たちはただ、ここから彼らを眺めるだけ」
一歩踏み出そうとした空を、さとりが止めた。
「あ、やめて! それ以上いけない」
「こっから先は先制攻撃を受ける可能性があるんだ。ガチ危険だよ」
「うにゅ」
ずるずると引っ張られ、空はやむなく引き下がる。三人は最後の灯が消え、人間たちが寝静まるまでそこで人里と、そして、なによりも空というものを、眺め続けていた。
「そろそろ、帰りましょうか」
放っておけばいつまででも空を見上げていそうな空は、実際なにも考えていなかった。肌寒い気候に震えるさとりは空を車に放り込んで走り出す。五分ほどして、ようやく空はよろよろとシートベルトを締めた。
「さとりさまー」
「ん?」
「なんで、車で来たんですか、今日」
ちょっと遠出するだけなら空を飛べば十分である。車の方が楽だし速いのは確かだが、さとりの目的が『地上という世界の発見』にあるならば地に足をつけさせ、風に身を任させたほうが効果が高い。
「うん、いい質問ね。実を言うと、地上で空を飛ぶのは地下のそれと勝手が違うのよ」
「確かに、空気の質は違いますね」
「重力、抵抗、粘性、不純物……そしてなにより、常識。こと、地上と地下では常識が違う。これがネックね」
地底世界は今よりはるか昔、地上から隔離された。ゆえにその当時の常識から枝分かれし、地上とはまったく異なった世界を作り上げている。空を飛ぶための原動力は様々あるが、いずれにせよ常識という概念に対する摩擦は欠かせない。地下で飛べたからといって、地上でも飛べるとは限らないのだ。
「さとり様も私も、地上では飛ぶよりこうして走ったほうがやりやすいのさ」
ふうん、と空は気のない返事をして、窓から外を眺めた。燐はその顔を以前にも見た事があった。車窓から空を眺める、くりくりした瞳……。
「……ちょっと、練習してみていいですか」
言うが速いか空はシートベルトを外してドアを開け、羽を広げて外に飛び出した。
「うわああ!?」
「え、なに!?」
燐が悲鳴を上げる。さとりが事態を把握できず戸惑う。ばたんとドアが閉まって、空はどこかへと消えてしまった。この間、一秒の早業。なんということだ、燐はすぐに車を止めさせ、空の姿を探す。
果たして、月に重なるところに空はいた。
「ははっ――ちょろいちょろいっ!」
風切羽を微動させながら、空は上空二十七メートルの大気に腹を乗せていた。長い濡れ羽色の髪が風向きを教えるようにはためき、じりじりと上昇している。それは凡そ、定型な飛び方ではなかった。軽やかさというものがない、あくまでも重力に抗った、重苦しい飛び方。だがそれゆえに力強く、有り余る激情を抑え込んでいるようにも見えた。
「流石は烏、というべきなかしら」
「はじめっから飛ぶ生き物ですからね、あいつは」
二人が呆気に取られていられたのは、ほんの数秒だけだった。
降りて来い、と呼ぼうとしたまさにそのとき、一薙ぎの暴風が山を駆け抜け――はっと見上げた時、既に空の姿は跡形もなく掻き消えていた。
********************
[空と高射砲]
耳元でばたばたと鳴り続ける風の音に耳を澄ませ、喉の奥まで侵入する大気の味を噛み締める。三列風切で流体の質感を捉え、三半規管で縦横無尽の加速度を制御する。
翼を広げて空を飛ぶ。
夜を二分に真ッッッ直ぐと。
大気を圧し退け加速する。
音に寄り添いぴッッッたりと。
空は今や、文字通り空と同化しつつあった。
空。
空。
融け合う自己に満足を覚える。
右翼で叩きつけ、左翼で撫で付け、滑空とともに位置エネルギーのすべてを推進力に転換。
滞っていた速度が再び跳躍。
音すらも背後へ。
額に熱。感じ全身に衝撃。もとから質量に耐えていた肉体。ゆえに影響は軽微。
「あたま 真っ白ん なり そー 」
右に左に旋回と、黒に白に上昇下降を楽しむ。ロールしながら天と地の両方を視界に納め、すべてが自分のものに、いや自分自身になったような意識の拡大を抱く。
「 ぃ」
――とまあ、軽くイっちゃってる空は不意な圧力で姿勢を崩し、現実に引き戻された。
所は既に妖怪の山に差し掛かっていた。空が車を飛び出してまだ十五分と経ってはいない。彼女は幻想郷を一回り……実に三百キロ近い距離を一息で航行していたのだ。恐るべき出力だったが、空を我が物と思うにはまだ足りない。ここは天狗の領空である。
二度、三度と続く圧力。瞬く光。鉄の焦げる臭いがして、空は自分が何者かの制空権に挑戦している可能性にようやく気がついた。
砲撃されている――。
眼下で再び、光が瞬く。雲の上、地上三千五百メートルを飛行する空に爆風がとどく射撃を敢行する手合いとなれば、逃げる以外の選択肢はない。勘を頼りに飼い主の肩目指して空は右旋回。二秒前までの航路上で黒煙が膨れあがった。今更ながらに冷や汗を流す。
「ちょ、今出てくってば!」
酸素を吸い込み息を整えたことで、一気に疲労が襲ってきた身体に鞭打ち、空は付け根がギシギシいい始めた翼を無理やりストロークさせる。再び眼下より砲撃。直撃しないよう祈る空だったが、こと軍事というもの、敵を追い詰める術と編み出される知恵に限りは無く、これは現状空の知性で到底及ばぬ力量を誇っていた。
「うおっ、まぶしっ!?」
白燐弾が炸裂し空の視界を奪った。失明せずに済んだのは僥倖だった。有毒ガスと高熱にさらされ、羽の一部が燃焼・融解。髪の毛が嫌なにおいを立ててはらはらと抜け落ち、空は姿勢制御できず高度を落す。
その隙を逃さず、挙動を予測していた鍛鉄製の無骨な砲弾が、空の胸に吸い込まれるように直撃――貫通。
容赦なく。
間違いなく。
血肉を吹き飛ばし、肋骨と乳房を道連れにして。
大穴が開いた。
風が気管を吹きぬける。
「――――――」
頭を保護した姿勢で、無抵抗に空は墜落した。
********************
「っしゃあ、当たった! 落ちた!」
それより三千メートル下方、山岳第三対空砲座群А棟には十二人の白狼天狗。
勝ち鬨を上げたのは犬走 椛である。ここには、それぞれ砲撃を管制する三人チームが三組集まっていた。本当ならば持ち場につかねばならないのだが、単独の侵入とあって緊張感はなく、こうして誰が最初に当てられるかを競っていたのだった。
「まァた隊長の総取りっすか」
「へっへっへー。経験の差だよ、ケーケン」
部下達から賭け金を巻き上げる椛は、この基地だけでなく国境警備全体の責任者である。長年を軍隊で勤め上げ、地方天狗の反乱鎮圧と暴動制圧で数々の勲章を受けた経歴を持ち、叩き上げの将校となった後は国境警備隊に籍を移して日々武勲を高める、部下に慕われ上層部に信頼される有能な指揮官だった。
その師団統率者相当の権限を持つ少女は年季の入った剣と楯を担ぎ、チームを率いて獲物の回収へと向かう。
「外に出るわよ。侵入者を回収する。剣を持ちなさい。外は冷える。風も強いぞ」
気温は零下五度に達し、雪はまだだが凍てつく寒さに満ちていた。ここにいる連中は昨年砲科を卒業したばかりで哨戒任務に不慣れで土地勘もない。椛は誰よりも山のことを知っている。ゆえに自ら率い、夜の山を教えて周ろうという腹づもりがあった。
「寒さに慣れるまでは直接風を飲むな。舌の根まで凍るぞ……では出発!」
風を呑むというのは椛が好んで使う表現だった。白狼天狗は鼻が効く。嗅覚を最大限に活用すれば周囲数キロで起こるすべての事象を把握できる。そう、目の届かないところまで……。しかしそのためには風を読み、情報が集まる場所につかねばならない。これはその経験を積む訓練でもあるのだった。
月明かりのおかげで足運びは悪くなかった。時代遅れのゲタで岩を踏みながら跳ねるようにして現場へ向かう椛の背中を追う新米たちは、なぜそんなに迷いなく進めるのか疑問に思う。まるで、落ちた場所が見えているかのようだ、と。
「よし。身体も暖まってきたところで、諸君らには風を飲んでもらおう。落ちた侵入者は、どの方角だ?」
白狼天狗たちは顔を見合わせ意を決し、ストールを振り解いて風を飲み込んだ。鼻、舌、喉の粘膜に気体分子が次々と付着する。やがて山の環境にそぐわない異臭を感知。ほんのささやかな、数ppmの金属臭。しかし狼の本能に下支えされた嗅覚はイメッジを正確に膨らませ、落ちた侵入者の様子をありありと脳裏に描写する。その方角と距離までも。
「北北西、七百メートル。危険度は丙,まだ生きてます」
「同じく北北西、十一時の方向。六百八十メートル」
「上出来だ」
にやりと笑って太鼓判を押す。
「正確には――あそこだ。あれだよ」
剣で位置を示す。青白い岩山の間。ピンと両耳を立て侵入者へ向ける。だが山を吹き降りる風のため、なにも音は拾えなかった。
「移動する。副長の先導に続け!」
椛は殿を務め、新人達がつまづいてもすぐフォローできる体勢をとった。つたない歩調、慣れない具足。神経を張り詰め、九人の動きに集中する。強い風が吹き抜け、幾人かぐらついた。
「嫌な風」
強い山風は音と臭いを散らせる。椛は千里眼を有するがゆえ視力は天狗のなかでもピカイチだが、それでも動体視力は並だ。鼻と耳も並の白狼天狗相当である。決して優れてはいない。大部分を経験で補っている。風の加護があれば最大半径十五キロメートルの索敵範囲を得るが、風に邪魔されれば半径五〇〇メートルまで範囲は狭まる。今がちょうど、その時だった。
加えて椛は新人達のフォローに神経を削られていた。
ゆえに。
風下より哨戒ラインを突き抜けて走ってくるSUVにこの距離では気付けなかったのも、無理からぬことだったのであった。
********************
「っくしょう、当たった! 落ちた!」
ギリギリと歯噛みしながらさとりは回転数を合わせてシフトダウン、岩場をよじ登るように車両を走らせた。空に言ったことは殊さとり自身と燐に当てはまり、二人は空を飛ぶのが得意でない。グッドリッチ・オールテレインのグリップとハイオクの生み出すエネルギーに任せる他、現状取れる手段はなかった。
「さとり様! 天狗、天狗! 天狗の領域ですここ!」
「空が落ちたのもこの先よ。いまあの娘を失うわけにはいかない」
「外交取引じゃダメなんですかあー!? ここの指揮官はハト派でしょう!」
「いずれにせよ先に空を押さえないと話にならない! 降りたければ降りていいわよ」
「冗談、私は猫だけど薄情じゃないやい!」
ぎゅるん。前輪が天辺を削り、車両はようやく岩場を抜けた。空までの直線を残し、高山植物が茂る細かい砂を弾き飛ばしてさとりはアクセルを力いっぱい踏み込む。クラッチが割れるような音を立て、塗装の剥げまくった車両が加速する。
強力なサスで視界が揺れる。空が見えた。
いや。
空のような、なにかが見える。
生ゴミの入った袋が潰れているのか。はたまた黒曜石でも露出しているのか。あるいはイルカでも死んでいるのか――。
それが空だった。
同時に視界に入る、白狼天狗たちの集団。速い。しかも統率が取れている。
「とっ込――!?」
突入の衝撃に備えるよう、燐に伝えようと開いた口がぽかんと広がる。
どん。
単調な音がして、さも当然のように白狼天狗の一人がボンネットに飛び乗っていた。
「えっ」
「えっ」
予想だにしない訪問。二〇〇メートル向こうにいたはずなのに、一瞬で距離を詰められた。思考が停まる。
ぎりり、と金属のひしゃげる音。車両が不意に前傾姿勢を取った。さとりは目の前に現れた人物の顔を見上げる形となる。白い毛並みと赤い瞳、個性のない顔立ちと硬直した表情。ハンドルを振った。
横転。
滑走。
白狼天狗は巧みに車両のバランスを崩していた。運転手の心理を読み、カウンターを誘い――せいぜい五十キロそこそこの体重で、二トン半ある車両を転がしたのだ。
やられた、とさとりが意識した時には、エアバックが視界を埋めている。
空の手前で横倒しになったまま車は地面にめり込んで停まった。
タイヤの空転が響く。障害物を挟んで空と燐、そしてさとりは白狼天狗たちと睨み合う形となった。
********************
「隊長、大丈夫っすか」
「大丈夫だ、問題ない」
「それで、相手の顔は見えました?」
「ああ、やっぱり今回もダメだったよ」
四駆のパワーに吹っ飛ばされながら、着地を凌ぎきった椛は副長の手を借りて立ち上がる。埃を払うとメガホンを取り、新たな侵入者へ向け声を張り上げた。
「おおい、お前らは包囲されてるぞ。怪我人も居ろう、大人しく投降せよ。命までは奪うまいぞ」
返事はない。実際、厄介な倒れ方をしてくれたものだ。
数トンの鉄の塊で前方を守り、後方を岩壁で区切っている。そう高い壁ではないが頑丈で張り出しもあり、頭上から攻める事ができない。守りを固める体勢としては条件が整っていた。ふと崖を見上げる。中腹に崩れた箇所がある。きっと、最初の侵入者……つまり空は、あそこにぶつかって、その直下に落ちたということなのだろう。
「隊長。命までは奪わない、とは……?」
「え、なに?」
きょとんとした顔で椛はメガホンから口を離す。周囲の新人が怪訝な表情を浮かべている。直感的にマズイ、と思った。
「無駄口をたたくな、包囲していろ!」
副長が怒鳴りつける。新人たちは散って行った。椛が小声で副長にささやく。
「あー、ひょっとして、もうカンペキ殺さないとダメな流れ、これ?」
「当たり前でしょう、隊長はホント……処断が甘いです」
侵入してきただけならばまだ逮捕で済む。しかし先ほどの椛と侵入者の接近遭遇は、傍から見れば完璧に武力の交換である。椛は弾き飛ばされた。抵抗の意志ありと判断しなければならない。
妖怪の山が掲げる孤立主義、強兵思想、すなわち強硬な社会方針を、ここにいる九人の新人たちはアカデミーで教え込まれてきている。いま、こちらが一度弾き飛ばされている、という流れの中で交渉に移ろうものなら弱腰という印象を与えてしまうだろう。増して椛は彼女らにとっては英雄なのである。ここに、さらに天狗のジャーナリズムの影響力と、椛の巨大な社会的責任を鑑みると。
時間をかけて投降を促す、という選択肢は、既になくなっていたのだった。
捕らえるにせよ殺すにせよ、即断即決、断固とした行動を見せねばならない――今すぐに。
「やむを得まい」
椛は剣を掲げ、大きく振って射撃を企図する。びしっ、と迷いなく剣先が止まり、目標を指定。百二十キログラムに達する鉄塊が真っ直ぐ、倒れた車両に向けられた。
「撃ち方用意、、、はじめ!」
風を孕む弾丸が標的に降り注いだ。いくつかは実用に足る威力があったが、侵入者側にダメージがないことを椛は見抜いている。この壁は貫けないだろう、やはり白兵戦しかない。
「私が出る、お前らは包囲を緩めるな」
剣を携え、椛は前に出た。
すり足で接近。じりじりと距離が詰まる。車両の影になっていた部分に回りこむと、徐々に月に照らされた影が見えてくる。
「どこの誰かは知らんけど、今ので適当な傷を負って出てくりゃ逮捕で済んだのにさ」
「そういうことは、もっと早く思いついてくれないかしら」
「……!」
声が返ってくる。少女の声。呼気が漂う。金属とオイル、揮発性油の匂いの中に、懐かしくも恐ろしい存在を感じた。
「おまえ、まさか、鬼」
「ね、逃がしてくれない? あとでお礼はするからさ」
音がした。椛にはそれが自分の内側から響いてくる音なのか、外から聞こえてくる音なのか……判断できない。
「しかし、こっちにも立場ってもんがあってね」
音はどんどん大きくなる。椛は異常を感じる。しかし適切な判断が下せない。経験にない事態。
「さもないと、おたくの新人さん……ナゴミも、ナホミも、コーコも、シズカも、キミエもネネもミリもリョウもユタカも、死ぬよ」
「――――――」
椛は九の名を数え、そして迷いをなくした。車両の影に隠れるそいつは、どういうわけかこちらのことを知ってる。もはや躊躇うことはない。
大剣をフルスイング。数トンのトヨタ車がまるでおもちゃのようにくるくると舞った。三人の姿を確認。右に振った剣を引き寄せ、右足が生む力で返した刀は右から侵入者達を袈裟斬りに……するはずだった。短髪の少女が真正面から拳を打ち上げ、あろう事か白刃と鍔迫り合い、弾かれる。三度剣を構えようとし、今度は左足を踏みこんで、
で、
で、
椛は潰れた。側面から特大の衝撃を受けて。
「い――って」
意識はある。だが身体に加えられた力の大きさのため身動きが取れない。ほんの数秒だったろう、その時間は。しかしその間に包囲を形成していた部下たちは、みな突如として現れた暴風に蹴散らされていた。
その一撃。
まったく知覚出来なかった。
********************
「さとり様、さとり様!」
茫洋とした意識と重苦しい頭を筋肉で無理やり持ち上げるが、左半身がほとんど動かない。放置していた虫歯が口の中で転がり、目を開けることすら困難な痛みを味わいながら、しかしさとりはずりずりと手探りで運転席から這い出した。
「お燐、お空は? まだ息をしている?」
「して……してます! 息してる! うわきっつー」
「そう、じゃあ止めて。息してると邪魔だから」
燐の顔が青ざめた。手管は解っているが、勇気のいる処置だった。震える手で空の、細く白いままの首に手をかけると頚動脈を強く締め付ける。全身がびくびくと動く長い長い十秒間を隔てて、かすかに残っていた空の意識は落ちた。同時に均衡が破れ食道に血液が流れ込み、器具無しでの呼吸の回復は困難となる。
「さて。あとは後遺症が残る前に、医師の元に運ぶだけね」
「…………」
ともすればもげてしまいそうな左腕と胸を布でまとめて固定し、運び出す体勢は整った。
空は、既に死んでいる。
生き返る事が出来るうちに、生き返さねばならない。
「しかしさとり様。どうやってこの囲みを抜けるのです」
「今、考えている……私の代わりに、敵の指揮官がね」
さとりはサードアイの能力によりその場にいる全員の思考を読み取っていた。なかでもとりわけ深い判断と広い現状認識を備えている人物を特定。
「そう、私よりはるかに優れた敵が、最悪の事態を想定することで、私に抜け道を教えてくれる――」
さとりは自信満々の笑みを口元に浮かべて見せた。それは燐の不安を紛らわせるための作り笑いだった。
「さすがさとり様。私たちにできないことをいとも簡単にやってのける!」
「あ、ごめん。やっぱ無理。詰んでるわ、今の状況」
「MY GOSH!」
既に事態はのっぴきならない局面を迎えていた。椛の想定した任務失敗のシナリオ。それは『敵がはるかに戦術的優位にあり、さらに好戦的である』というものだった。それ以外にこの囲みが破ける要素は、無い――無いのである。
「撃ってくるわよ、頭下げて!」
「うううっ」
涙目になりながらも燐は空の身体を手放さなかった。敵指揮官の思考は見えている。威嚇し、恐怖に駆らせ誘い出すつもりだろう。それでダメならば危険を承知で"誘い込まれる"。剣の腕では敵うまい。
案の定、銃撃が止むとじりじりと足音が近付いてきた。呼吸の音が聞こえる。構えるエモノの先端が、陰から見えた。いよいよ死が近い。
「どこの誰かは知らんけど、今ので適当な傷を負って出てくりゃ逮捕で済んだのにさ」
「そういうことは、もっと早く思いついてくれないかしら」
遅れて出てきた名案。この方法をなぜもっと早く考え付かなかったのか。さとりは自分と相手を恨んで、用意していた言葉をぶつけた。
「ね、逃がしてくれない? さもないと、おたくの新人さん……死ぬよ」
挑発的な言動で相手を攻撃に駆り立てたのは、行動を制限するためだ。速やかな抹殺はまったく合理的な太刀筋を呼ぶ。目的を決めさせれば最適解が見える。それを読めれば――
「ッ!」
不可避の一撃からも逃れる事が出来る。
大剣が車両を叩き潰した。二撃目が来る。椛を上回る刃物使いは幻想郷に存在しない。ゆえに剣の競り合いで椛の手を読める者はいない。ただ一人、古明地 さとりを除いては。
「おうふっ!」
「ふぁいっ!」
想起したもっとも重い一打を右手に籠めて、さとりは百二十キログラム、時速九十キロメートルの白刃と拳を交えた。剣が引き下がる。幸い五指はまだついていたが、拳が血と肉になった。記憶頼りの三歩必殺が求めた代償はさとりの全身を硬直させ、切れる札がなくなった。
「…………」
空の死を覚悟したそのとき。
「ぃてぇ っ」
神風が吹き、椛が横に潰れた。まるで猫に叩き落とされる羽虫のように。その猫の手は椛のみならず、次々と白狼天狗たちを駆逐してゆく。
轍が一周し、さとりの目の前に停まる。ぱちりと瞬きをひとつ。網膜が入れ替わったかのように、突如視神経に感知されたのはさとりの妹、古明地 こいしと愛車の姿であった。
「乗って!」
「空は私が。こいし、助手席に移って。お燐!」
「にゃひ!?」
「運転席に、早く!」
三人の行動は即興でありながら素早く、迷いがなかった。急加速度が車内に加わる。白狼天狗たちが立ち上がる前に、ハマーはほとんど転げ落ちるように山を降りた。
********************
痺れる身体に鞭を打つ。アドレナリンに満たされた頭はまだまだ戦えると言っていた。そして身体も椛に剣を握らせる。気付けば戦術が出来ていた。
本当に、楽をさせてくれない身体なんだから……。
心中一人ごち椛は立ち上がった。口の中に異物感。放置していた虫歯が抜け、舌の上に乗っている。奥歯にゴムゴムした感触。剥がれた頬の内側の粘膜。それらを口をすぼめて吐き出すと、よろよろと副長が歩み寄ってきた。
「重症六名、軽症四名。皆どこかしら骨が折れてます。私も右腕が上がりません、鎖骨をやられました」
「私は無傷だ。私が追撃する」
「ご冗談を。本当は、内臓出血しているんでしょう? お腹がタポタポ言ってるはずだ」
「五分なら動ける」
「五分だけですよ」
崖の上に飛び移る。眼下に山裾が一望できた。血が止まるほどの冷気、澄んだ風が吹きすさぶ。岩山が光を反射させ、世界は青白い光に満たされていた。眺望の前、椛は千里眼を戦略稼動。通常の狼の目には映らない色が見えはじめる。近赤外線、中赤外線、遠赤外線、可視光線、真空紫外線以上の紫外線。
標的を探す。
見つからない。
意識の外から攻撃されたことを椛は覚えていた。侵入者は知覚外で逃れている。何らかの方法によって。しかしそれは感じられないだけで、実体が存在することに変わりはない。ならば。
「……あった」
一キロ先の藪の最中。夜、遠距離、見難い場所。しかし千里眼は轍を見つけ出した。大型車のタイヤ跡。その轍は途中でぱったり消えていた。いいや、消えるはずはない。きっとそこに轍はある。ただ知覚できないだけで――その先に標的がいる。
椛は崖から飛び立つ。風が、今度は味方した。
ものの三十秒で目標位置に付く。引き締まっていた椛の腹筋は、いまや内臓の損傷でぶにぶにになっていた。その胆に力を込める。椛を中心に光輪が生まれた。
「当たれよっ」
轍は一部分しか見えない。その方向から、敵の行きそうな進路を予想した。結果遠ざかるほど落す範囲は広くなった。台風の進路予測と同じである。いずれにせよ、椛は数多の弾丸を撒き散らした。さながらリーマン予想を破ろうとしたアラン・チューリングのように。
次々と地表で炸裂する白色弾。
天狗の弾幕は円形を基礎としている。"組織化と包囲戦略は、いかな敵をも打倒する"というドクトリンがあるからだ。椛は特にその影響が強い。"の"の字を描くような中型弾と無数の小型弾による高密度絨毯爆撃。
芸はない。美しさにも欠ける。
されど堅実。それは、煙を上げる車両が姿を見せたことで証明された。軍隊で数限りなく反復され、無意識に刷り込まれた99.7パーセント当たる弾幕が、手順に則り放たれた結果であった。
「TALLY HO!」
罠を警戒しつつ高度を下げ、椛は車両の攻撃に移った。
動ける残り時間は、二分十二秒――。
********************
「ヒャッハ、ザマねぇわね、お姉ちゃん」
「こいし、少し黙ってくれる」
少女四人の車内。悪路にシェイクされながら、姉妹はてきぱきと空に外科処置を施した。
「二つ目の救急箱を出して。増血剤と止血剤の顆粒がある」
「…………」
「こいし! その目やめてくれる!?」
「…………」
こいしはにやにやとしたまま、黙ってさとりの指示に従い続けた。手を血まみれにして、額に汗浮かべる姉に対しこの妹は嘲るような目を向けていた。無理もない。たかだかペット一匹に、地霊殿の主ともあろう者が手を汚すのは、ただ自分の失敗を隠し誤魔化そうという行為に等しいからだ。
はっきりいって、こいしの目に姉は浅ましく見えたのである。
「もう、喋ってもいい?」
「……好きになさい」
哀れなのは燐である。背後から突き刺さるように険悪な空気が流れ込む。
「いや、それにしても、よくきてくださいましたね、こいし様」
「ンフフ。そーでしょ、そーでしょ。今も私の力でこの車を隠してるんだからね」
「チッ」
さとりが聞こえるほどの音量で舌打ち。雰囲気最悪。燐、滝汗。
「おねぇ――」
「空が助かったら」
物欲しげなこいしの言葉をさとりは遮った。
「無事、家に帰ってからよ」
「あっそー。じゃそれまで、私は寝る」
こいしが不貞寝すべく後部座席に移動し、寝転がって空を見上げ――そして気付いた。
「……あ?」
夜空が、
いや? あれ、
は、夜空
ではなく……星?
「爆撃ッ!」
いま正に、この時、椛は無差別爆撃を始めていた。こいしの大声とともに、前方から山肌を穿ち木々を吹き飛ばす火焔が迫る。燐は巧みなハンドルさばきで空隙に飛び込んだ。
僅かに遅い。
致命傷になる。
「――……っ!」
さとりは空の上に覆いかぶさった。
破裂音が響く。車内に肉の焦げた煙と、濃い血の匂いがただよう。
周辺で爆発。嵐が寸隙、車両に襲いかかり背後に遠ざかった。
車はバランスを崩さぬよう走り続ける。
きつく目を閉じるさとりの、背中――生暖かい感触。
「なにこれ。あ。こいしか……」
「こいしか、じゃないでしょお姉ちゃん」
それを最後に、こいしの言葉は尽きた。
下着にまで染み込んでくる大量の、真ッ黒い血液。さとりの上に覆いかぶさり、弾除けとなったこいしから流れ落ちていた。
「…………!」
「後ろについてます、さっきの天狗」
燐の底冷えした、震える声。ルームミラーを介し目が合った。
「こいし様は!? なぜ位置がばれたんですか!」
「相手は百戦錬磨の千里眼使いなのよ。こいしは……寝てるわ」
「向こうのが速いですよ。逃げられません――さとり様!」
もはや悲鳴に近い燐の声を聞いたか聞いていないのか。さとりは足をシートベルトで固定し、シートに膝立ちになった。
「お燐。少し揺らすわよ」
「なにを」
既に潰れている右の拳を無理やり固める。小さな身体を目一杯に使ったテイクバック。十分に溜めたバネを一気に解放すると、一撃でルーフが叩き落された。風に乗った板金が後方で荒れ狂う。椛、これを容易くいなし追撃。
髪とスカートをはためかせてさとりは立ち上がった。足元には血の海が広がっている。吹き込むマイナス五度の冷気に熱を失う血液は、そのまま転がっている二人の命運であった。椛を睨む。椛も睨み返す。口の中で転がしていた歯を吐き出した。
かすかに椛の思考が変わる。舞い降りた天恵をさとりは見逃さない。
「お燐。右手側に斜面を上りなさい」
「追いつかれます」
「上りなさい」
「にゃい、マム」
車両が揺れた。白狼天狗が徐々に近付く。じっと、さとりは敵の姿を観察する。側道を登りはじめた意図を察したのだろう――逃すまいと、敵の足が速まった。
「くそっ」
歯噛みする。
三秒でいい。
そう思った。
どうにかして、三秒敵の足を止めたい。
そうすれば、逃げ切れる可能性が現実味を帯びてくるのに……!
「悩んでるようだけどさ。あるんでしょ? あいつを打倒する方法が――お姉ちゃん」
はっとして足元を見る。身体をシートに固定され、うずくまる妹の声がした。しかしとても話せる状態ではないはずだ。それに、今の声は。
「そう、心で話しかけてる。私の身体はもう熱を失ってるけど、心――脳はまだ生きてるから」
こいしのサードアイが開いていた。力尽き、閉じておくことができなくなったがゆえだろう。
「お姉ちゃん、本当は気付いてる。私とお姉ちゃんがいて、そして相手が千里眼を持っているならば」
「ダメよ、ダメよ。あなたへの負荷が大きすぎる」
「選んでる場合じゃないでしょ。たとえこの脳幹が血を噴こうとも、お姉ちゃんが生きて還れるなら私は構わない」
「こいし」
僅かな沈黙。さとりはこいしに肩を貸す。
「よーし、こいし。そこまでいうならやってみよう。今更だけど、あなたは良い妹よ」
「お姉ちゃんもね。こんな無意識じゃないと、素直になれなくて、ゴメン」
「いつものあなたも、それはそれで好きだけどね」
向き直る。白狼天狗は表情が見えるほどの至近にいた。思考が読める。あと数メートルで斬りかかる絶好のタイミングを得るだろう……そこを狙う。
「怖い? お姉ちゃん」
こいしを支える手が震えていた。
「怖いときは拳を握るといいって、昔教えてくれたよね」
「そんなこともあったっけ」
「つーかなに一人でブツクサ言ってんですかさとり様。超怖いンすケド」
事情の解らない燐を差し置いて、さとりは垂れ下がっていたこいしの手を握りぎゅっと抱き寄せた。サードアイ同士がくっつかんばかりに互いの瞳を覗き込む。
やがて白狼天狗が跳躍した。
百二十キロの大剣が迫る――。
********************
椛の肛門括約筋は良く頑張った。しかし残りの活動時間が一分を切ったときから下血が止まらない。緋袴ゆえ目立たず、糞尿の類はせき止めているものの、まったく情けない体での追撃である。
実のところ。
さとり、こいし、白狼天狗たち、そして空。
一番深い傷を負っているのは椛自身だった。空が片肺を打ち抜かれたというのなら、椛は内臓のほぼすべてだ。それでも動き続けられたのはイヌ科動物特有のタフネスゆえである。
車両の後ろに付く。地を駆けて距離を詰める。
相手は実に嫌な動きを繰り返していた。まるでこちらが嫌がることを知っているかのように。椛が風を利用できない風向きを進み、椛に負担がかかる進路を選び、そして、
「……やっぱり、地底の連中か!」
最も、行って欲しくない場所へと向かっていた。
隠蔽の効果が消え、ルーフが外れ車内のタバコの匂いが椛のもとまで届いた。地底で栽培されている香草の匂い。地底の妖怪が口にする様々な匂いを、椛は飛んできた虫歯から嗅ぎ取っていた。相手が地底の手合いであることは疑いようがない。だいいち、あの車地底ナンバーだし。そして、彼女らが追いつかれるリスクを承知で登りはじめた斜面、その先にあるのは。
「この先には、廃鉱山の竪抗がある……逃げられる!」
椛は速度を上げた。
車上の少女と目が合った。
その姿が見える。容姿を目に焼き付ける。特徴を覚える。変なアクセサリーをぶら下げている。ひょっとするとアクセサリーではないのかもしれない。あれはなんだ? 目玉。なにを見ているんだ? ひょっとして、千里眼と同じ能力でもあるのか。
その少女は足元から別の少女を持ち上げてきた。荷を軽くするべく車外に投棄するのかと椛は思ったが、いずれにせよ彼女たちは逃げ切れない。なぜなら。
「ふぅ、ふっ――ウウウウッ!」
掛け声とともに椛は跳躍する。一撃で決めるつもりだった。ダンクシュートでも決めるように剣を振りかぶって、大きく振りかぶって、剣を背筋で加速して、剣を振りかぶって、剣を振りかぶって、剣を振りかぶって――振り下ろした。
百二十キログラムの鍛鉄。時速三百六十キロの剣速。
標的を眼中に。見定め、再び椛とさとりの目が合い。
「 ―― …… ……―― 。」
椛の意識はその瞬間、巨大な運動エネルギーを抱えたまま、ブレーカーが落ちるかのように……ぷっつりと途切れた。
********************
「際どい賭けだったけど」
空中で姿勢を崩した椛は、無防備な姿勢のまま地面に叩きつけられようとしていた。
「成功したみたいね」
椛の意識が飛んだ先。
それはさとりとこいしの間にあった。
正確には両者のサードアイ、その合致した視線上――
――想起である。
さとりが椛に仕掛け、見事その意識を奪い取った秘策は、想起であった。
想起とはトラウマを思い出させる術である。スペルカード戦においてはもっぱら対戦者自身のトラウマを使っているが、実のところ、決して、相手自身のトラウマしか相手に見せる事ができない、というわけではない――みせるトラウマは、誰のものでも構わないのだ。その上で、なお対戦者自身のトラウマにこだわるのは、それがもっとも効果的だからに他ならない。誰だって自分の身に起こった不幸はつらい。だが同じ目にあった人間の愚痴を聞いても、反応は淡白なものである。
さて、さとりが椛に見せつけたトラウマは、誰のどんなトラウマだったろうか。
それは、こいしが、さとりの心を読んだ、という忌まわしい過去であった――すなわち。
椛は一時的に、サトリの能力を付与されていたのである。
さらに椛には千里眼の能力がある。なまじっかさとりやこいしなどより、物事を見通すことにかけて優れている。
そんな椛が、サトリの能力を使って、さとりを、攻撃対象を覗き込んだら、一体どんな事が起きるだろう。
椛の意識はさとりの意識の深奥にまで自由落下するように潜って行った。視神経の伝達速度、脳細胞のイオン交換速度で律速された反応は僅かコンマ二秒でさとりの擬似ゴーストラインを突破し、椛の意識はさとりの意識とシンクロする。そしてさとりの意識はこの時、サードアイを通じてこいしの意識ともリンクしていた。しかし椛は自分自身の意識を使って脳潜入しているのに対し、さとりとこいしはサードアイという身代わり防壁を迂回している。
結果。
椛の意識は、思索によってサードアイの間を行き来する。
さながら。
さながら、合わせ鏡の間を、光が無限に反射するように。
椛の意識はレフラー球の迷路に閉じ込められたのだ。
「…………」
椛の目には光がない。さとりとこいしのサードアイが離れるか、思考を停めるか、異常を察知した身体が意識をリブートするまでこの呪縛は解かれない。
千里眼を持たない相手では、ゴーストラインに接近する前に機圧に潰れていただろう。
まったく、際どい賭けだったが。
「……え」
この賭けは失敗していた。
「なんで」
椛の手から鉄塊が離れる。精確な軌道をもって、車両に突き刺さるコースを落ちてくる。
「まさか」
落下していた椛の身体が受身の姿勢を取っていた。
「無意識で――!?」
さとりの意識が動揺に震えた。その機を椛の意識は見逃さなかった。サードアイが血を吹く。こいしが脳死する。椛が目を覚ます。無限に連鎖するはずのレフラー球が、椛の裂帛たる意志の前に砕け散った。
「組織人に過ぎない、飼い慣らされた天狗の中に、こんな強い意志を持ったやつがいたとはね」
「私は、生まれたときから一匹狼だ」
能力を通じ、二人は心で会話した。ほんのコンマ数秒の出来事だった。
さとりの目の前に、大剣――百二十キログラム、時速三百六十キロの鉄塊が迫る。
この運動エネルギーは、さとりたちの乗るハマーの車重を三〇〇〇キログラムとした場合、これが六十一メートルの高さから落ちてくるのと同等の破壊力を持っていた。
これまでか、と覚悟した。しかし、さとりはアテにしていなかったものの、燐の運転技術は実に優れていて。
「にゃああああああああああああああッ!!!」
ウケ狙いみたいな笑える怒声が上がり、SUVは迫り来る破壊の手から逃れるように地を踏み散らして急停止した。
大Gに車内のあれこれが暴れまわる。タイヤが煙を上げる。大剣が地に深々と突き刺さって、これを中心に地割れが起きた。
「掴まって、落ちるよ!」
直径十二メートルに及ぶ、巨大な竪抗。埋め立てられていた地の底へ続く魔窟が、椛の渾身の一撃で口を開けた。
さとりは宙に放り出された。空とこいしはシートベルトに圧し付けられ、燐はハンドルをぎゅっと握ったままシートを濡らした。
浮遊感。椛がいた。
「………………」
脇差を竪抗の淵に突き立て、落下を防ぐ。大気が違うことを本能的に察知したのだろう、この先は、自分では飛べないと。恨めしげな目で睨んでくる。さとりは自由落下で遠ざかりながら、聞こえるかどうか解らなかったものの、最後の思念を送った。
「優秀な指揮官は、前線に出てきちゃダメですよ」
「知ってるさ」
遠く、遠く、遠くに地上の星の光を見て落下しながら、さとりは狼の遠吠えを聞いた。
********************
[空と独断専行]
結論から言うと、皆命に別状なく回復を始めていた。
空の心臓は人工心臓で代替し、片方の肺は摘出された。施術は空の呼吸が止まって十二分後には開始された。素早い処置はなにものにも勝る医術であり、その甲斐で三日目にはバイタルが安定。七日後、空は意識を取戻した。
「呼吸を止めることで損傷と血液の浸水を最小限に抑えたから、片方の肺で済んだのです」
医師はそう説明した。
こいしは脳死状態に陥ったものの、脳神経に対する"電気的除細動"はさとりの十八番である。手術により血流を回復しノイズに支配された脳内の電気交換を正常な状態に戻してやれば、目覚めるまで時間はかからなかった。さとりの脳潜入を受けたこいしは三十二時間に及ぶ再構築作業の末、十日目にさとりのクライスラーとともに病院から姿を消した。
「あの子らしいわね。頭蓋骨がくっついたと思ったらまた家出ですもの」
替えの包帯と果物を持って病室を訪れたさとりは、なぜかはにかんだ様な顔でそう言っていたという。
椛を初めとする白狼天狗たちは、病院で骨折部を固定したり薬を処方されたものの、翌日の昼から勤務に戻された。そこでは、任務失敗という不名誉と軟弱の謗り、そして減給もおまけで処方されていた。春を待たず、新人の白狼天狗たちは二人を残して全員が軍学校時代の給与を返納の上、退官。椛は一晩寝たら日常生活に支障が出ない程度にまで回復した。無論、そこには強がりも多分に含まれていただろう。しばらくは、減らされた配給物資と消化可能な食事、という両方の理由から粥の生活を送ることになりそうだ。
「有能な指揮官は、現場に出てきてはいけない、か……その通りだったよ。自ら下々に混ざって采配を振るうっていうのは、尊敬を得やすいし、好かれやすいし、身体を動かすから満足感もある。だけどそれじゃいけないんだよな、上に立つ者っていうのは……私は、これから少し現場を離れようと思う」
椛はそう言って、療養生活を境に後進の指導に力を入れるようになったとか。
さとりの右手は骨がいくつかなくなっていた。そこで左手の骨を模し金型を転写造型、マグネシウムダイカスト人工骨で右手を作り直すこととなった。幾分腕は短くなるが、訓練を続ければ神経が再編成されるはずだ。この右手は十三日目に完成し、その日のうちに親指を立ててサムアップすることに成功した。
「さとり様に撫でられるの、好きだったんだけどな。しばらくは我慢だね」
ざらついた舌で真新しい右手を舐めながら、唯一怪我らしい怪我のない燐は家族の世話に奔走することになったのだった。
車を潰しちゃったことに関しては、星熊 勇儀は笑って許してくれた。なんの屈託もなく、心配だけで見舞いにも来てくれた。そういった、諸々の問題は、確実に、この二週間でだいたい片付いてしまったのだ。
そして十四日後――。
********************
額を撫でる優しい感触に空は目を覚ました。ゆっくり目を開けると二週間ぶりに拝む飼い主の姿があった。
「…………!」
空の頭に十六通りの思いが浮かぶ。それはコンマ一秒で二百五十六通りになり、一秒後には六万五千五百三十六通りになる。さとりのこと、こいしのこと。測り知れない損失を主に与えた責任にここ数日押し潰されそうな気持ちだった。
「さとり様」
「空、こっち来なさい」
有無を言わさずさとりは空をベット脇に寄らせた。右手で頬を撫でる。包帯の感触と軟膏の匂いがした。そのまま腕が回される。
ぎゅっと抱きしめられた。
「ごめんね」
どうしていいか解らなくなったので、とりあえず感情に任せ、空は泣いた。
服がずぶ濡れになるほど激しく、泣いた。
「今回のことは、全部私の責任だと思ってる」
さとりは居ずまいを整え、改めてそう宣言した。それは飼い主としての責任に基づいた見解であり、ゆえに空と燐はなんら反論することができなかった。
「だから、おくう」
「そんな。やめてください、さとり様」
空は自分の責任を訴えたが、これは却下された。"すべて許す"という、有無を言わさぬさとりの統括によって。
「お燐も。今回は、いい働きをしたわね」
「いや、私なんか、ホントなにも」
「それに免じて、私の車で勝手にストリートレースに出ていた件はチャラにしてあげる」
「にゃ!? 知ってたんですか?」
「そりゃ、私飼い主だもん」
燐の運転技術は路上で違法に磨かれたものだった。地霊殿が寝静まった深夜、密かにさとりのガレージから車を持ち出しては賭け競技に参加するのが燐の裏の顔だったのである。その筋では"猫まっしぐら"の異名で知られるレーサーなのだ。
「それじゃあ、おくう。早く良くなってね」
「はい……」
俯き加減の空の様子がおかしいことは誰の目にも明らかだった。
しかし真実として、この一件はさとりにとってもこいしとの関係を温める結果を生んでおり、地霊殿全体がひとまとまりになるきっかけになっていた。地霊殿ファミリーの結束力が鉄のスクラムと称されるようになったのは、この頃からである。
だが同時に、空の心中に後の異変を起こす下地が完成されたのも、この一件からなのであった。
左様。
空は責任を取りたかった。自分の責任と過失を訴えたかった。
しかし謝罪や弁明は許されず、ただ主人の優しさに甘えることを要求された。
そしてさとりの優しさは悲しいことに、空にとっては自意識を脅かす害悪以外の何者でもなかったのである。
そのことを、空はいやというほど噛み締めた――じっと。
圧雪の下で芽吹きを待つ、吹野等のように。
空は空を奪われた。
もはや独断専行以外に取る術なし。
********************
[ヤマメと輝石]
黒谷 ヤマメの主な仕事は、竪穴に張り付いて、地底から射出される物資を受け取るキャプチャーネットの構築と運用である。
これはなんとかご承知いただきたいのだが、地下と地上には非公式ながら物資の流通が存在する。地底からは地下資源と安い労働力という付加価値が輸出され、地上からは太陽エネルギーの一部が輸入されている。具体的に言うと地底からは原料用炭とその一次加工品が、地上からは食料品および高次加工品が拠出されるのだ。基本的に真っ暗な地底と、光に満たされた地上との間には先進国とか途上国とかいうレベルを遥かに超えて経済格差が存在する。技術力にも、生産能力にも、環境にも雲泥の差がある――が、鉱物資源量と採掘技術だけは地底も引けをとらない。よって地底は、数十年前まで『外の世界』とダイレクトに貿易を行っていた。ダイムラーや起亜などの下請工場が立ち並び、車社会ができる程度に近代産業が入り込んだのはこのころだ。しかし金本位制の廃止とともに地底は『外の世界』との貿易が不可能になった。今では、幻想入りした金本位制を採用する幻想郷相手の取引がすべてになっている。
さてここで問題になるのが流通である。どのようにして深い深い地底から高い高い地上へ物資を運んでいるのだろうか。さとりたちはエレベーターで地上に行ったけれど、大量の物資を運搬するには別の高効率システムが必要になる。
そこで古来より用いられてきたのが、カタパルトによる垂直射出方式だ。コンテナに詰まれた物資は地底で加速され、無風をいいことに地上近くまで慣性で運ばれるのである。要するに、ひょいっと放り投げてぱくっと受け取るのだ。この技術は地底で発達したもので、やはり地上には類似する技術はほとんど存在しない。ICBMなどの慣性誘導ミサイルやリニアレール・トレインが近いが、最も同類にあたるのは、ビルの十二階から落された小銭をキャッチして、ヤクルトを投げ返すヤクルト販売員のおばちゃんが持つテクニックだろう。
ここで問題になるのはコンテナに加わる加速度とそれを生み出すマシンだが、地底にはこの仕事に打ってつけの人材が山ほどいた。つまりは、怪力乱神を誇る鬼達である。鬼達が五、六人で配置に付き、一番深いところから高いところまで段階的に加速しながら受け渡すことで、最終的に紡錘形をしたコンテナは音速の三分の二程度の速度で打ち出される。すると四十五秒ほどで地上付近に到達、速度はゼロとなり、あとは高分子ワイヤーのネットでキャッチすればよいという寸法だ。それがヤマメの仕事である。
最近では蒸気カタパルトの発達で鬼は楽ができるようになったらしいが、ヤマメの苦労は相変わらずだった。
この日も末端労働者に過ぎないヤマメはエレベーターに乗ることも許されず、仕事道具を抱えて自前のワイヤーで地底に戻ろうとしていた。
「ねーねーヤマメー。帰り飲みいこうよ、飲み。今日降ろした物資の中に牡蠣があったんだ。きっとみとりさんとこのお店で、かきふらいになってるはずだよ」
「ごめーん。今日はパス。帰って勉強しなきゃ」
同僚のキスメが、となりで同じようにワイヤー降下しながら話しかけてきた。キスメの仕事はヤマメの逆、すなわち輸入品の受け降ろしの方だ。
「あ、ごめん。そうだったね」
「ううん、こっちこそ。また誘って?」
ヤマメたちへの待遇は、燐や空などよりも劣悪だった。
雇用主によって労働条件が変わるのはどこでも同じだが地底には法らしい法がなく、最低賃金や与えるべき手当ての保障すらない。さとりは過酷な労働には明確に3K手当てを支給しているが、彼女が少数派であることはいうまでもない。ゆえに自然な人材流動性に従い、キスメは同じ仕事を別の雇用主の元で探している。そしてヤマメはというと――
「医大の試験って、いつだっけ?」
「あと二ヶ月だよ」
――職を転じ医師となるべく、勉強中なのだった。ちなみに欧米では職場を変えて同じ仕事をするのはまったく良くあることで、これは転職とは言わない。欧米における転職はまったくの異業種に移ることを指している。日本では一緒くたに職場を移せば"転職"だが、こういう場合は"横転"というのが正しい。ヤマメは転職、キスメは横転、である。
もともと、自身の"病気を操る程度の能力"から医学への関心と適正はあった。しかし学費の不足ゆえにいまのいままで医大受験を控えていたのである。何十年、ひょっとしたら百年以上小金を貯め続けたか知れないが、彼女はようやく学費を揃えることに成功していた。ちなみに滑り止めには工学部の土木建築科を志望している。
「じゃあ夜にでも、差し入れ持ってってあげるよ。かきふライブだ」
「それは嬉しいな、かきふライブ」
ワイヤーの表示が六百メートルを超えそろそろ地面が見えるかと思った頃、なにかが羽ばたく音がした。
「なにか、近付いてくる……?」
赤い光が瞬きながら近付いてきた。ランタンの灯りにひかれたコウモリかなにかか。いやもっと大きい。
「こんばんわ、黒谷さん」
「ええっと、あなたは?」
「霊烏路 空といいます。以前、お目にかかったこともありますが……火焔猫 燐は私の同期でして」
「ああ! さとりさんところの!」
闇を裂いて現れたのは空であった。その胸で、真っ赤な宝石にも似た人工心臓の表層部が鼓動にあわせて明滅している。
「すいません、本当は落ち着いてお話したかったんですが。私はこの高度までしか上がれないんです」
片肺の代償が、それだった。ヤマメは空を励まし、用件を尋ねる。わざわざ空中での逢引である。人目に触れたくないことは察せた。
「実は、地上に最も近い場所で働くお二人にお願いしたい事があるのです」
「?」
かしこまった調子で空は打ち明けた。真ん丸い瞳。
「どんなものでもいいのです。地上の書物、文章、情報を、入手していただけませんか」
「――!?」
ヤマメとキスメは目を見張った。地底に住むものたちにとって、地上は架空の存在とすら思われている場所なのだ。
「嬢ちゃん。検閲を知ってのことかい」
「はい、無理なお願いをしていることは百も承知です」
情報封鎖。
地底世界において、地上の情報はそのほとんどが検閲によって断たれていた。
もともと地底とは、忌み嫌われて移住したものたちが切り開いた国土だ。とはいえ時の流れとともに世代が交代すれば次第にその記憶も薄れてゆく。しかし両者が再び接近するような事が起これば、どちらも性根は変わっていないのだ、水が低きに流れるが如く衝突が起こるのは必定である。それを避けるための先人の知恵が、検閲の根拠だった。
一部の妖怪を除き、地上の存在を忘れ去っているのも無理はない。そう仕向けているものが存在するのだから。
「嬢ちゃん、検閲をすり抜けて地上の情報を得ようとすることは、検閲を敵に回すってことはだな、誰を敵に回すってことだか解っているのかい」
「ええ――星熊 勇儀。彼女が検閲の中心人物でしょう」
その名を口にしてなお、目の前の地獄烏には怯えた様子がまったくない。ヤマメはぶら下がりながら、立ちくらみを覚えた。こいつは、この烏は。
「よっぽどの馬鹿か、どうしようもない馬鹿だよ、嬢ちゃんは」
「よく言われます」
にこりと笑って、空は答えた。
「……なにがあっても、私の名前は出さないでね?」
「はい。もちろんです」
根負けした様子で、ヤマメは空の差し出した封筒を受け取った。足のつきにくい宝石類が詰まっていた。
空が飛び去る。闇に紛れてその姿は消えた。鳥目の彼女がここまで来るのは、さぞかし大変だったことだろう。
「ちょっと、ヤマメ! 本気なの?」
「なんつーか、ね……負けたわ」
手のひらに宝石の粒を広げ、きらきら光るルビーをキスメに渡しながらヤマメはため息をついた。
「私だって、曲がりなりにも学究の徒を志してきた。だからあの子の願いっていうか、思いっていうか。とにかく熱意は解っちゃうんだよね」
キスメは受け取りを拒否した。ヤマメが本気ならば、キスメも友を裏切るつもりはない。
「こんな、鬼に使われるばかりの、無力な身の上でもさ。なにかに抗って生きようってやつの手助けが出来るなら、それは痛快ってものじゃないか」
「かきふらいでも、食べに行こうか?」
封筒に玉石を戻し、二度と開く事がないようぴっちり封をして仕舞いこむ。ヤマメは頷いて、ワイヤーから手を離し地に足を着けた。
懐で宝石が鳴る。
……地獄烏は光物が大好きだと聞く。
これだけの量。集めるのは大変だったはずだ。差し出すのは、もっと。
「十分な物を、もらったね」
「うん」
二人は歩き出した。地底は相変わらず、どこまでもどこまでも暗い。
だが二人は、この真っ暗な地底が少し明るくなったような気がした。
どんな煌びやかな宝石よりも輝く人工心臓の星明りが、いまもどこかで瞬いているのだから。
********************
[GIRL's SURFACE]
いつものトロッコバスの帰り道。燐はくたくたに疲れ果て、小さくいびきをかきながら心地よい振動に身を任せていた。その耳にふと引っかかる音が滑り込む。無視して眠ろうとするが、どうにも気になって仕方がない。致し方なく燐は目を開けた。猫あくびをかまして周囲をうかがう。
空の姿が見えなかった。
「……?」
よくよく探すと最後尾の席に空はいた。いつもそこを指定席として、本を読んでいる妖精のすぐ隣。
何事か、話す声が聞こえる。
珍しいこともあるものだ、と燐は思った。いちばん接点の無さそうな二人だった。
「太陽っていうのは水素とヘリウムの塊で、強大な重力で核融合反応を起こして熱と電磁波を太陽系全体に届けているの。私たちが利用するエネルギーのほとんどは、もとをただせば太陽に由来している。例外といえばIPMくらいね」
「うにゅ。プリンキピアで読んだけど、公転も太陽の重力で起きてる現象でしょ? IPMはその意味で、太陽の重力ひずみ転換炉とも言えると思うンだけど」
「重力だけじゃ役に立たないでしょ。地球っていう、地殻っていうハードウェアがあって初めて起こる現象なんだから。あー、でも、うーん」
「でしょでしょ? 発電といえば化学エネルギーを転換するものだ、っていう常識があるから、今まで圧電素子にばかり注目してたけど、見方を変えれば重力を利用した発電、という新しい技術体系に行き着くんじゃないかなあ」
「別に新しくはないんじゃない? 潮力発電ってものがあるらしいわよ、地上には」
「え? それってコリオリ力を利用してるんじゃないの? だったら地球の自転に依存してるから……」
「違う違う。使ってるのは月の重力による潮の満ち干きなんだよ、あれは。いずれにせよ、幻想郷に海はないけどネ」
止める者なきゆえ勘違いも甚だしい会話を広げる二人は、水力発電をスルーしたまま周囲から浮いていた。しかし存外にも背景と同化しており、存在を意識されることはないらしい。そういえば、と燐は思い当たる。
「私、最近空とあんまり話してないな」
同室なので、嫌でも朝は顔を合わす。夜も、空の気配を身近に感じて眠っている。今日も仕事中は一緒にいたし、同じベンチで弁当も食った。しかし……。
「なあんか、つまんない、かも」
また飲みにでも誘おうかな。燐は再び目を瞑り、空の声を楽しむように耳をぴくぴく動かしながら再び浅い眠りについた。
その晩、食事と入浴が終わり、二連休に入る燐は同じく暇を持て余すはずの空を酒に誘った。
「んー? どこのお店?」
「みとりさんとこだよ。かきふらいがあるんだってさ」
「あ、それ私こないだ食べてきたから、いいや」
「え? このあいだって……いつ?」
「こないだはこないだ、だよ。あ、私ちょっと出かけるところ、あるから」
空はスクールバックに分厚い本を詰め込み、そそくさと部屋を出て行く。外には例の、メガネの妖精が待っていた。
「じゃね! あんまり遅くならないようにねー」
「あ、うん……」
燐は一人、取り残された。
その晩、燐はらしくもない深酒を喫した。道端で五回ほど嘔吐し、せっかくのかきふらいは衣すら胃に残らぬ有様であった。
「くそっ……なんだよ、くそっ……」
顔を洗って部屋に戻ると、暗い部屋は冷え切っていた。遅くならないように、と言っていた空自身がまだ戻っていないのだ。
「なんんーあよ、あっ娘は!」
怒りに任せて空の机で爪を研ぐ。勢い余って、空のノートの表紙が破けた。ぴたりと手が止む。重苦しい気分になった。悪酔い、ストレス、罪悪感。不満、怒り、孤独感。わけが解らなくなってきたので、燐はさっさと寝ることにした。ベットを登るのもおっくうだ。
「…………あの馬鹿」
空の布団、空の匂いに包まりながら、燐は彼女の夢を見るべく、さっさと眠りについたのだった。
********************
[燐とシュレーディンガー]
my mathematical romance.
そう悪くは無い目覚めを経て、水風呂とサウナを三往復し心と身体をようやっと落ち着かせた燐は朝食代わりのヨーグルトを持ち自室に戻る。すると空が入れ替わりで帰ってきていたらしく、大いびきをかいて眠っていた。ちら、と机の上のセロテープでとめられたノートを見る。殴り書きが増えている。
「……なに、これ」
「あ、お燐おはよう。空もう寝てた?」
ヨーグルトを食べながらノートを手繰っているとメガネの妖精が現れた。彼女もまた目の下にくまを作っている。そう厚くはないが、ハードカバーでいかにも学部生が教科書に使っていそうな本を数冊抱えていた。
「聞いての通りさ。あんたらどこでなにしてたの?」
大いびきをかく空を指差し、燐はノートを閉じた。その上に妖精がどさどさと本を置く。
「ネカフェで夜遊びしてたの。ドリンクバーだけだったから、お腹空いちゃった。まだご飯残ってるかな?」
「残念、もうないよ」
「そか。じゃあ私も寝るね。おやすみ」
「おやすみー」
妖精が置いていった本はどれもラテン語で、タイトルすら読めなかった。しかし付箋の貼られた場所を開くといくつか日本語のメモが挟まれており――いずれにせよ燐には不可能だったものの――ラテン語の基礎訓練を修了していれば、読み解く事も出来るらしかった。おそらくあのメガネ妖精が、空のために苦労したのだろう。
「……洗濯しようっと」
空が脱ぎ散らかした衣類もまとめて、洗濯室へ持ってゆく。心地の良い朝、洗濯日和の黒い空。
「私に出来ることって、この程度なのかな」
踏み込むことを躊躇いつつも、燐の心にはいつしかそんな感情が芽生え始めていた。
そう――空は隠し事をしている。
謀をしている。
なにかを、たくらんでいる――。
洗濯物を干して部屋の掃除をしているとき、燐は妖精の持って来た本の背表紙に見覚えのある印を発見した。
「地底市立、中央図書館、か……」
サングラス、あったかな。
********************
「アレって、ヤマメにキスメじゃん?」
市立中央図書館、エントランスを見下ろす閲覧室のソファに腹ばいになって、燐はハンドスコープを覗き込んでいた。周囲の妖怪が奇異な視線を向けるが、猫が仰向けになって寝ているよりかはずいぶん自然に見えたので特に注意されることはない。
顔には、ごつい印象を与える大き目のサングラスをはめていた。昔の仕事道具で、紫外線防護ではなく純然たる遮光用グラスである。主として溶湯を観察するとき――すなわち鋳造作業をするとき――に使っていたものだ。であればもちろん、ハンドスコープの視界にフィラメントが走っていることはいうまでもない。
いずれにせよ身元を隠し、覗き見るには十分だった。ヤマメ、キスメ、メガネの妖精、そして空。四人は受付のお姉さんと挨拶を交わし、習慣付いた動作で二階の一室へ入った。図書館の勉強室。ガラス張りなので問題なく様子は伺えた。各々、ノートと筆記用具を取り出し、所蔵の本棚から持って来た本を、見比べたり辞書を引いたり相談したりしながら――……。
「勉強、してる……」
まるで模試を前にした学生そのものだ。なんら疑わしいところも、やましいところも、咎められるような企みも、ともかく責められる謂れのあることは一切ない。そう、燐は感じた。
耳を立てる。声が聞こえる。
「だーかーらー、∇の書き順は、こうだってば! こう! こう、こう、こう、こう! ほら書けた」
「んなアホな! ∇はこう、こう、こうやって書くんだよ! 下から書くやつがあるか!」
「あんたのそれって、音楽の四拍子と同じじゃん! ビックスのど飴みたいになるんだよ、それだと」
「だって、ここの二重線ってあとから付け足すのが正しいんじゃないの? ベクトルとかそうじゃんアルファベットに線を引いてイタリックにするの」
「え? ボールドじゃなくて?」
「イタリックだよ」
「しかしなにか、あんたベンゼン環も変に書くよね」
「読めりゃいいのよ。だいたい――」
「まーまー、そのへんでいいでしょ、二人とも。ΧとXの書き方なら区別が必要だけど、∇なら別にいいじゃん」
「あー! そういえばキスメ! このあいだのノート、ガウスで計算してたでしょ! クーロン統一するって決めたのにさ」
「そうだそうだ! σでやれっつってんのに、いっつもρの方で解くし。逆数直すのめんどくさかったよ!」
「え、だってそのほうが解りやすいじゃん」
「ないわーまだテスラのほうがいいわー標準試料のスケールにあってるしー」
「ないわーまだIACS値のほうがいいわー直感的にどの位かぴんと来るしー」
「図書館では静かにしなさいよ、三人とも……」
メガネ妖精による"鶴の一声(ザ・ラストワード)"。四人のあいだで、四冊のノートがぐるぐる回る。一体なにを言ってるのかさっぱり解らないが、やっていることは解った――宿題結果の、統合だ。おそらく取り組むべき問題を分割して、各々式を持ち寄り考えよう、ということらしい。意外にも中心となっているのは空だった。
「ここと、ここ。おんなじ数式だね、代入するよ」
キャラ物のシャーペンがさらさらと紙面を走る。瞬く間にA3の大きな用紙が式とグラフで埋もれた。二枚目に突入。計算に詰まると、キスメが算盤を弾いて数字を出す。一枚目の用紙を、メガネ妖精とヤマメが二人がかりで検算。三十分、燐はそれを、なぜかすごくドキドキしながら眺めていた。
「……できた!」
「こっちも確認終わったよ、オールクリアーだ」
「やった! シュレディンガー方程式、完!」
「これで次に進めるわね」
ぱしぱしと手を叩きあって、A3の紙を掲げて喜び合う。空はペンをくるくる回していた。ヤマメ、キスメもイスに寄りかかって背伸びをしている。いつも無表情なメガネの妖精も笑っている。燐は目を逸らした。サングラスを外す。
「……帰ろっと」
これ以上、そこに居たくなかった。
「しかし、あいつらなんで……?」
ただの勉強会にしては不自然。やっていることに具体性がなさ過ぎる。目的が解らない。席を立とうとしたが、不意にドアが開いて燐は新聞紙で顔を隠した。目の前を空が通り過ぎて行く。気付かれなかったことにほっとしつつ、不満もまた拭えない。ひとつ、確かめてから帰ることにしよう……燐は立ち上がり、書架から本を抜き出す空と軽く接触した。
「あ、ごめんなさい」
「こちらこそ」
すれ違い、すぐ隣の書架へ向かう。本の壁に阻まれて、寝食を共にする燐と空はまるで他人の如く隔たった。ぶつかった時にかすめとった貸し出しカードを覗き込む。借りた本の履歴を見れば、少しはなにをやっているのか解るかもしれない、と思ったのだが。
――ヤン・ファン・ヘルモント『Ortus Medicinae』,醍醐天皇編『古今和歌集』,源順『宇津保物語』,ジョン・ドルトン『Experimental Essay』,八雲 紫『本当は近い月の裏側』,マイケル・ファラデー『The Chemical History of a Candle』,ウィラード・ギブズ『on the Equilibrium of Heterogeneous Substances』,ハドソン『桃太郎伝説』,ラフカディオ・ハーン『日本の面影』,エドワード・S・モース『大森貝塚』,コロナ社『量子電磁気学』,稗田阿弥『幻想郷縁起 第八版』,大天狗社『一刻で判る山川文化』,D.K.フェリー『デバイス物理のための量子力学』,伊集院光『D.T.』――
「……なにがなんだか解らない……」
無い頭を絞って考えてはみたものの、燐にはそれらがどんな本なのかすらサパーリ解らなかった。案外目的などないのかも知れない。とりあえず、なんの本か解るのは桃太郎伝説やら、幻想郷縁起やらくらいで。
「ひょうっとして、鬼退治でもしようってのかね」
ばさり。
背後で本の落ちる音がした。
「まさかそこまでバレているとはね……!」
はっと振り返る。戦慄を隠せない様子のヤマメが書架と書架の間に立ち塞がり、道を塞いでいた。
「ッ!?」
百八十度回頭。回れ右して走り出そうとするも、反対側にはメガネの妖精。
「ッ!!」
ならば跳躍。猫なれば容易いと思ったが、天井にはキスメがいた。
「……!」
「逃げ場ないよ、お燐」
書架、目の高さの本が抜き取られ、向こう側の空と目が合った。
あたかもダンボール箱に突っ込む猫のように、燐は状況にはめられ、捕らえられていたのだった。
********************
エントランスに連行された燐は、そこで紙パックのミルクティーを飲みながら事情聴取を受けた。休日とあって人の出入りはそこそこある。周りから見れば女子が集まって茶をしばいているようにしか見えないし、実際その通りであった。
「つーかあんたらなにしてんの?」
「わるだくみ」
空は杏仁シェイクをずぞずぞ吸いながら応えた。
「それでね、今日はお燐にもこのわるだくみに参加してもらいたくってね」
「あぁ? なにかい、私はまんまとおびき出されたってワケなのか」
「まんまと、ってほど上手くいったわけじゃない。一の成功の裏には百の失敗がある。正直、お燐のほうが上手で、私らが気付かないうちに監視されているんじゃないかと何度も疑ったよ」
「あんたらをつけてきたのは、今日が最初だよ。ふん。手玉に取ったつもりかい?」
紙パックを握りつぶして燐は凄んだ。ヤマメが肩をすくめる。脅しが通じる地底ではない。
「まさか。……私達の計画を、ここまで看破されるとは到底考えていなかった。鼻を明かされたのはこっちのほうさ」
「そう、それなんだけど。なあに、鬼と戦うとか?」
「地上にね」
「あ?」
「地上にね。行こうと思うんだ。わたし」
「……え?」
燐、理解するまでややかかる。
「ねえねえお燐お燐。地上と地底を別けている、最も巨大な障壁はなんだと思う?」
「厚さ七〇〇メートルを越す地盤でしょ」
「私の考えは違う。情報の欠如だよ。地上に対する知識の不足と相互情報交換の不全こそが原因なんだ。仮に地底に住むすべての妖怪に、地上が確実に存在し、どのような世界が広がっているのかを教えたら、皆、そこを目指さずにはいられないだろうと私は思う――私は、そうだった。しかし、なぜ物流さえあるというのに、地底の民は地上の情報をろくすっぽ知らないままなのだろうね? 地上と隔離されて、優に千年は経とうというのに。いや、だからこそなのだろうか。それを私は考え、調べてきた。そして以下の事が解ったんだ。
例えば、情報の伝達と継承にはいくつかの手段がある。教育や、日常からの再発見が挙げられるだろうね。物の成り立ちを考えてゆけば、どうしても"我々はかつて地上という環境にあった"という当然の解にたどり着かざるを得なくなる。しかし、これを最初の世代……地底に移り住んだ私達の前の世代はどういうわけか伝えなかったんだ。地上のことを知りつつ、これを忘れ去り自らの世界を構築するため口を噤むこともあっただろう。しかしそれでも口伝え・伝承まで絶えてしまうとは考えにくい。世代交代による情報の頽廃だけでは説明できない、なんらかの作用が、私たちと地上を引き離したんだ。それはなにか? そんなの、とっくに解ってる。いま、現在、検閲を敷き、輸入物のラベルを張り替え、思想警察として機能する、鎖国の主犯。それは同時に、輸入業の雇用主として、従業員に守秘義務を課せられなければならず、そいつはすなわち――星熊 勇儀。
そうとも。鬼が、鬼こそが、地底と地上とを別ける、最強の結界だったんだ。
実際大したもんだよ。お燐が言ったような地理的優位があるとはいえ、千年以上も水際で文化侵略を防ぎ続けているんだからね。ではなぜ、鬼はそうまでして私たちを地底に縛り付けておきたがるのだろうか? それはね、彼らの生存を支えるためさ。まったくお笑い種だがね? まったく、お笑い種、なんだがね……酒類、アルコール、要するに、お酒を購入するための経済力を、私たちで! 賄っているからなのさ! ハハハ! 笑っちまうねまったく! だがこれは笑い事じゃあないんだ。地上と完全に繋がりを絶ったら地底は死ぬ。なぜならお酒以外にも、太陽光から合成されるビタミン類や、地底の土壌では栽培できない作物の輸入、空気清浄機のフィルターや医薬医療品といった、既に生活には必要不可欠となっていながら生産することのできない物品を輸入に頼っているという現実があるからさ。それらを得るためには地底は"地底総生産(GDP)"をプラスにしなくちゃならない。これは鬼にはできない。そこで、私たちが使われている。いいかい? 地底は、こういう構図で成り立っていたんだよ。
もともと、鬼を頼って地底に移り住んだ、食い詰め者の集まりこそが私たちなんだ。地底はそういう、社会不適合者からスタートしている……それを救済した鬼なのだから、経済的搾取を糾弾することはできない。だが時が経てば人も変わる。妖怪だって、当然変化する。今生きてる私たちには借金など無いんだ。どこへでもいける。行ってはならぬ道理など、あるものか。
であれば私は外に出たい。地上に行きたい。風を浴びたい。大気に包まれたい……!
きっと、ね。私みたいな輩はこれまでもたくさん居たはずさ。平穏無事に統制された平和な地底。この社会を保つための鬼の努力は測り知れない。そのために、国体を維持するためにどれほどの賢者が暗殺されたことか。だけどそれも終わりだ。私が、終わらせてやる……!
だからお燐、力を貸して。私に。私たちに」
「んっ? え、あ。なに? あ、ああ。ええーっと、ドウシヨッカナー」
涎を垂らして眠っていた燐がはっと目を覚ます。袖で顔をぐしぐし洗いながら周りをみると、空以外全員寝ていた。そろそろお昼時で、柔かな灯りがソファに深く座る一同を安らかに包み込んでいる。
やがて各々目を覚ます。メガネの妖精がタイミングを見計らって口を開いた。
「お燐。私たちはお燐に協力を仰ぎたい。地底を封鎖する鬼を打ち倒し、地上に出ようとする、この徒党の仲間に入ってくれないかしら」
メガネの妖精が空の話を要約した。燐は顔を洗いながら控えめな声で。
「おうち帰って、さとりさまに相談するー」
「ちょっと、お燐! ふざけないでよ」
「ふざけてなんかないわよ」
いつの間にか声のトーンが高くなっていた。澄ました顔で燐が立ち上がる。メガネの妖精は呼び止めるが燐は振り返らない。
「お燐、さとり様は……ダメだよ。反対されるに決まってる。それに、これは誰に許可を求める必要のある話ではない。ひたすら自由意志に基づいている」
「必要がなくたって、そうしたいと私は思うの」
けんもほろろに空を退ける。ヤマメがいた。
「待ちなよお燐。空は真剣なんだ」
「真剣だったらなお悪いっつーの。どいてちょうだい」
軽い剣幕の張り合いが起きる。常ならぬ緊張感に、周囲の視線が集まっていた。
「どうせ帰ってもナニくらいしかすることないでしょ、もう少し聞いてってよ」
「知るか馬鹿! そんなことよりオナニーだ!」
ついに燐は怒鳴り声を上げ、一同を制した。コミュニケーションの続行が不可能になる。
図書館の自動ドアが開くや否や、燐は走り去る。つかみどころのない猫の天性を全開にし、手の届かぬいずこかへ。
もはやその背を追える者は、誰一人としていなかった。
ただ一人、霊烏路 空を除いては。
********************
地底湖へ流れ込む小川のせせらぎは、地底にあっても心地よい音を立てる。地下水脈の水溜に過ぎないこの場所は、近くに農場があるため富栄養状態となり自然に魚が住み着くようになっていた。
「釣れる?」
「……まだ、十五分くらいなのに。釣れるわけないでしょ」
「そっか。お昼時だもんねー、釣らないとお昼ナシだねー」
湖の桟橋にて釣り糸を垂れる燐の元に空がたどり着くまでは、まったく速やかであった。燐は若干落ち着きを取戻している。落ち着きを取戻し、静かに、ゆえに深く――怒っていた。
「あんたさあ、おくう。マジ言ってんの? 地上であれだけコテンパンにやられて、さとり様とこいし様に怪我までさせて。それでも、まだ」
「それでも、まだ」
「それでも、まだ。これ以上、まだ私に、こんな、こんな思いをさせようっていうの」
燐の腕が震えだす。魚が掛かったのではない。釣竿を握り締めていた。強く。強く……。ぼくの釣竿も握り締めて欲しいです。
「ああ、もう我慢ならねえ――」
釣竿を全力で湖に打ち捨てる。
燐は踵を返し、桟橋を走って空に突進した……拳を振り上げて。
「やいこら、テメエ空ッ! このッ、このやろうッ! どういう了見だコラぁッ!」
どん、ぶつかると同時に、片肺をノックするかのごとく小さな拳が空の胸を叩いた。
「テメエふざけやがってよ! ざけんじゃねえよ! クソがッ!!」
叩く。叩き続ける。燐はいつの間にか泣いていた。激情に任せ、涙と鼻水を撒き散らしながら。空は黙って受け入れる。
「コノヤロウ! この、このこのこのッ!! 馬鹿! 馬鹿!! 馬ァ鹿ッ!!!」
次第に声は小さくなり、ずるずると燐は力なくくずおれた。馬鹿、馬鹿、と呟きながら。
「ごめんね、お燐。やっぱり私は地上へ行くよ」
「なんで、なんでなのさ。馬鹿なの? 死ぬの? なにが不満なの」
「飛び足りない。私は、まだまだ飛びたかった」
「私が、私は――ちくしょう、くそっ。あんた解ってるの? 私が、どんな思いをしてきたか」
「お燐」
「未だに思い出すんだ。あの夜のことを。とても恐ろしかった。攻撃されたとか、敵に囲まれたとか。そんなことはどうだっていい。私は怖かったんだ。
空。
私はアンタの首を絞めた。
殺したんだ。
必要な処置だってことは解ってた。だけど、だけどッ……! こんなひどい話がある!?
思い出すんだ! アンタを殺した、感触を!
いまでも!
何度も!
夜中に目を覚まして、怖くて怖くてしようがなくなるたび、私は……ッ、私は……ッ!」
「ごめん、ごめんね。ごめん。けれど。私は空を奪われた。これを取り返さないことにはもう、生きてはゆけないと。そう思っているんだ」
志を語る空の胸の内。
人工心臓の瞬きを感じながら、燐は空とともに桟橋の上でうずくまった。
猫どころか魚も食わないような、痴話喧嘩であった。
********************
類別は霊鳥、名は融合――。
********************
[橋姫と検閲]
from her cold dead hands.
「……妬ましいわね」
同時刻。
水橋パルスィはどこからか飛んでくる強烈な"妬まし波動"を頭の隅で感じ、反射的にそう呟いた。その呟きを聞き取れるものはいない。彼女以外は皆力尽き、床に突っ伏して昏倒、もとい眠っていたからだ。納期が近い。作業の最終段階に至り、ついにパルスィ一人を残して全員がダウンしていた。その後もパルスィは一時間ほど戦い続け、ついにすべての木箱にラベルを貼り終えた。
彼女の仕事は輸入品の分配と梱包、出荷であり、日々膨大な品々を管理記録し物流のコントロールを行っている。デスクに足を開いて座り卓上の電話で方々に出荷の準備ができたことを伝えると、トラックが来るまで三十分ほどの余裕を頼り、イスの背もたれに身を預け、彼女は少しの間だけ眠ることにした。
クラクションで目を覚ます。窓から外をみると黒い排気ガスが立ち込めていた。少し眠りすぎたらしい、トラックが外資集積センターの前に列を作り、門が開くのを待っていた。ふらふらと歩みシャッターを開ける。あとの手順はドライバーも了解していた。パルスィは階段を降り、橋の検問所へ向かった。二十トントラックが一メートルの脇を何台も通り過ぎてゆく。検問所に入ると身支度を整え、パリっと糊の効いた帽子を被り受付に立った。一台目のトラックが積み込みを終えて走ってくる。差し出される書類を受け取り、判を押してゲートを開放。そんな作業は、機械的に四時間続いた。
「あ、ちょっと待って」
受け取った伝票が黄緑色をしているのを危うく見落とすところだった。あと数台通過させれば連休に入れる。油断と疲労が彼女からあらゆる注意力を削いでいた。黄緑色は、放射性物質を意味している。ガイガーカウンターを手にしてトラックの荷台周辺をぐるぐると回り、放射能漏れが無いことを確認するとゲートを開放。あとの仕事は、順調に過ぎた。
「あー。終わった!」
「お疲れさま」
交代要員に引き継いで、パルスィは三十六時間に及ぶ勤務シフトを完遂した。忙しい時期だったとはいえ無茶振りもいいところである。しかし現職で、かつ本職でもある橋姫はいまやパルスィ以外にいないのだ。
「まったく、妬む暇もありゃしない」
制服のジャケットを脱ぐ。足の裏が痛い。筋肉が強張っている。風呂と食事だけ済ませて、さっさと帰ることにしよう。外資集積センターの労働者向けロッカールームの一角に、パルスィを含む数人の雇用主が借り切っているスペースがあった。多数の業者が共同利用する多目的ステーションとして設計・敷設されたこのセンターは、専属の従業員によって維持されている。パルスィらは金で施設の使用権を買い、間借りしているに過ぎない。ロッカーから入浴用品と着替えを取り出し浴場へ向かった。
「……なんか。妬まし波動が絶えないわね」
身体を清め、髪を解き、湯に浸かりながら開いた窓から地底を一望する。さてはて、自分の知っている人間になにかオメデタイことでもあったのだろうか。風呂を上がって髪をドライヤーで乾かし、清潔な衣類を着用したパルスィは食堂へ向かいながら思い当たる節を探った。なにも思いつかないまま空いている食堂でメニューを眺める。
「この煮込み雑炊をください」
「ごめんなさいね、それ来月からなのよ」
ぶー、とふてくされながらも、他に食えそうなメニューを探す。
「おっ……この"アナゴ天ぷらそば"をください」
先ほど荷解きした物資が早速食堂に並んでいるらしく、メニューは豊富だった。ひときわ安く、目を引くアナゴ天ぷらそばを注文。二百八十円の食券を買って数分後、プラスチックのどんぶりに大きな天ぷらが二本乗ったそばが出てくる。心持ウキウキしながら七味をふりかけ、めんつゆを染ませてぱくりと一口。
「………………」
黙って緑茶を口に運ぶ。気を取り直してそばを食べることにした。
「アナゴじゃなくて、アナゴさんだ、これ……」
いやに肉に臭みがあり、食感もゴムゴムしている。ジューシーな風味など欠片もない。そりゃ、そうだよな。二百八十円のそばだもん。本物のアナゴなんて、使ってるわけないよな。
「ぶるぁ」
完食。どうにも不満足で、もう少しなにか食べようかと迷う。そのとき、パルスィの隣にトレイを置く者がいた。昼時を過ぎた食堂は、空いているというのに。
「となり、いいですか」
「お燐ちゃんじゃないの。それにヤマメ、キスメも」
気付けばパルスィを包囲するように五人の少女が席を取っていた。カレーの匂い。五人はみなカレーの、しかも大盛りを注文したらしかった。この食堂でいちばん安く、いちばん美味いのがカレーだ。
「紹介しますね。私の同僚の空と――」
大きな羽根を持ち人工心臓を明滅させる地獄烏とメガネをかけた妖精を紹介される。なにか、よくないことが起こっている気がした。
「あなたが水橋 パルスィさんですか」
「ええ、そうだけど」
「外から持ち込まれる文献のすべてを検閲している、思想警察の仕事をなさっているそうですね?」
「それがなにか?」
――パルスィの仕事は、決して太平楽な肉体労働のみではない。
『橋姫』
橋というのはもともと結界や境界に作られる。それは古来、地理的な障害こそが人間活動の限界を定めており、橋はその限界を突破するための手段だったからだ。そして隔たりを埋め交通を可能とする橋を渡るものは必ずしも益ばかりではない。伝染病、異文化、犯罪者……平穏に保たれていた内地へと、大陸で鍛えられた選りすぐりの害悪が流れ込む、その源泉でもあるのだ。ゆえに昔の人間は橋姫という概念を創造し、神として切り出した。都合の悪い諸々を一個の"神"として纏め上げ、一気に鎮護してしまおうという、日本の神によくあるパターンから橋姫は生まれたのだ。
そしていま、この地底においては橋姫は外界の情報を遮断し、平穏無事に統制された社会を維持するためのフィルターとして機能していた。水橋 パルスィ。彼女のもとには、そう、彼女のもとには――
「そう、あなたのもとには、私が喉から手が出るほど欲しがってる、外界の情報が集まっている」
空の狙いが、それだった。
燐の協力を取り付け、橋守を勤める妖怪のうち最も"有望"な人物を紹介してもらう。
「ちょっと、お燐ちゃん。この娘なに?」
「すいませんね水橋さん。この娘、馬鹿でさ。外の情報が、地上の情報がどうしても要るっていうンだ」
「そんなのに、なぜ付き合っているのかしら、あなたたちは」
「そりゃもちろん。私らも、同じくらい馬鹿だからでして」
「なに、あんたたち……揃いも揃って」
いやに真剣な眼差しが、人数分。
パルスィに殺到していた。
「申し訳ないけど、他を」
「当たりません。水橋 パルスィさん。あなたも私達の仲間に加わりませんか?」
「なっ……なにをォ!?」
空の言葉はまったく真摯で、それゆえにパルスィの心を揺さぶった。真正面から穿ってくる空の視線は、パルスィにとっては長い長い人生においても早々向けられることのない輝きを放っている。ああ、なるほど。稀有な人物だな、とパルスィは思った。空の懐の深さというものを、橋姫は見抜いたのだ。だが、しかし。
「やっぱり、他を当たってちょうだい」
救えない嫉妬深さを備えた自分自身を、パルスィは知っていた。橋姫である以上、まっとうな人間関係を築けないことを数百年も前から了承しているのである。どれほど相手の懐が深かろうと、情に厚かろうと無駄なのだ。残酷だがそれは事実だった。無論、それでも上っ面の付き合いならば出来る。だがいずれにせよ、パルスィにとっては飽いてることだった。悲しいことに。
「じゃ、私疲れてるし、帰っても」
「待ってくださいよ、じゃあビジネスの話をしませんか」
空を押しのけ帰路につこうとしたパルスィを呼び止めたのは、猫舌らしくカレーをふーふーと冷ましていた燐だった。
「橋姫さんは、今の地底をどう思います? 歪だとは思いませんか。物資の流入を許しているくせに情報だけを遮断して、それと気付かせぬまま民生を成り立たせている。この状況そのものこそが、害悪になっている、そうは思いませんか」
「私の仕事が――外圧に抗し、俗悪文化を防いで、害悪の流入を防ぐことが、害悪になっていると言いたいの?」
「ええ、そうです! あなたの一存でやっていることではないでしょう。しかし、いまの地底はあまりに無知だ。無力だ。これではなにかが起きたとき……果たして地底の民は生き残れるのか、私は不安を抱かずにいられません」
さながら無菌室で育てられた細胞が、自然界に存在する病魔に耐えられないように。
さながら超大国の間で六十年を安穏に過ごした民族が、国際的地位を転落させるように。
世代が交代し、新たな時代を迎え始めた地底は、外にも世界があることを知らない。生卵の黄身ほどに脆弱だといえた。
時代は変わる。
空のような革命家が現れるのは必然だった。
であれば、橋姫もまた変わらねばならない。変化できぬ者を待つのは滅びである。
「それに、ですよ。外との交流が頻繁になれば、刺激も増えるでしょう。橋姫さんの権限も拡大されるはずです。いまみたいに、クソつまらない検閲も不要になります。より実際的な、軍事力を任される可能性が高い。妖怪の山にいる、往時の犬走 椛のようにね」
燐は蟲惑的な笑みを浮かべ、まったく悪魔のようなことを言った。口の端っこにカレーついてたけど。
「……どーやら、乗らない手はないみたいね」
「さすが、パルスィさんだ」
水橋 パルスィは空の一味に加わることをここで決めた。
燐の見込みは正しかった。
「私もさ。刺激の少ない世の中に飽き飽きしてるところ、あったしね」
みすぼらしい食堂の、薄暗い隅の席。いちばん安いカレーを囲んで、後に地底をひっくり返すことになる異変の中核メンバーは、このようにして空の意志のもと集ったのだった。
********************
[空と基礎教育]
the rock bottom.
「まずは、基礎を修める。物理と数学を修めそれを応用すれば、この世で起こるどんな事態に直面しても現象の本質を見抜き理解し対処する事ができるようになる。それが私の思想だった」
道すがら空はそんなことを話した。燐は納得したような、しきれないような複雑な気分になる。
「それで、わざわざ図書館で勉強してたっての? 革命家が地道なことね……」
「まあ、半分私の勉強に付き合ってもらってたようなものだよ」
そう言ってヤマメがフォローした。
「この辺でいいかしら」
一同は食堂を出た足で、地底世界に無数と存在する横穴に入った。体育館ほどの大きさを持った空洞が広がっている。氷柱石が垂れ下がっているところをみると、頑丈な地盤の中に位置するらしい。
「じゃあみんな、向こう側に立ってちょうだい」
パルスィの指示に従い、五人はぞろぞろと奥へと入って行った。真っ暗になるかならないかといったところで立ち止まる。五メートルほどの間隔を開けて並んだ。
「これからちょっとした"弾幕"を張るわ」
「――は?」
「避けてみて」
「え、ちょ、ちょっと!」
「妬符『グリーンアイドモンスター』ッ!」
宣言と同時に、真っ暗だった横穴の中に緑色光が灯る。それは球状をしており、パルスィの指さした場所に点が現れたように見えた。指が宙をなぞる。トメ、ハネ、ハライ。
「なっ なん だこりゃ あ!?」
いちばん端にいたヤマメが光に飲まれる。
不規則に螺旋を描く、弾のカタマリ。
のた打ち回る蛇にも似た弾幕の河。
「うわあー」
間抜けな声だけ置いて隣のメガネ妖精も弾に埋もれる。キスメがようやく反応し、位置を変えた。すぐ脇にサイリウムのような光が残留。燐と空は距離を取った。キスメを囮にして様子を見る。
「ちょ、ま、まままー!?」
「あはははは! キスメキスメ、前行け前ー!」
「前だってば、そっちは後ろー!」
わたわたと緑色の弾に追い回されるキスメは、見ていてなかなか楽しかった。ゲラゲラ笑いながら空は適当なことを言ってみる。燐も、この弾幕に危険がないことを確かめ観戦に移った。
「ぎゃー! ぎゃーぎゃー! ぎょえー!」
焦って同じ所を回り始めたキスメは、ついに逃げ場をなくして河に飲まれた。同時に緑の光がぱたりと消える。パルスィの指が燐と空を向く。無言で二人はまったく反対方向へ飛んだ。燐を追って、再び河が滝の如く流れ始める。
「ほいさー!」
身軽な燐は足だけでその大河と渡り合った。弾のほうが速いが、ところどころに停滞がある。不意さえ突かれなければどうということはなかった。
「よーし、避けきったわね。じゃあもう一個! 恨符『丑の刻参り』ッ!」
再び、パルスィが何事か宣言する。最初見た時はアホかと思ったが、空間に末広がりする弾幕という実体が伴えば、これはなかなか趣があるかもしれない。二枚目の札が爆ぜる。パルスィを中心として、低速弾が燐に向け降り注いだ。
「およ……どうしたことだい」
初速が遅い。まるで重い物をじりじりと加速するように速度は上がって行くものの、軌道が丸見えである。
「テレフォン・バレットってか、欠伸が出ちゃうよ」
「あー、お燐。言い難いんだけど」
「え?」
「後ろ後ろー」
「のあっ!」
暢気に毛繕いなどしていた燐は背後から弾け飛んできた淡い破片に被弾した。残るは空のみとなる。
「いや、実に様々な手法があるものだね」
「でしょう? これ。スペルカードっていうんだけど」
空は五寸釘の低速弾を、一メートルほど左手に置いてかわしていた。弾速はやはり遅い。右手へじりじりと動けば、パルスィもそれにあわせ射線を動かす。だんだん、ルールが解ってきた。
「遅いのに、かわせない。狙っているのに、外れている」
ブツクサ言いながら空は背後から迫る淡い拡散弾をかわす。こちらの軌道は読む事ができないが、その分速度はいっそう遅い。しかし、拡散弾から逃れようとすれば元凶となる低速弾が辺り一面にばら撒かれることになり、結局包囲されてしまう。空は初見でそれを見抜いた。
「……!」
空は思い切って、拡散弾のただ中に飛び込んでみた。勇気ある決断。まともな思考では考えられない。しかし、スペルカード戦ではありふれた避け方。案の定空はすぐには弾に飲まれなかった。
「やっぱり、偏りがある……」
拡散してゆく弾を内側から眺めることで、空はその傾向をはっきりと掴んだ。弾幕の薄い場所、厚い場所。弾の多いところ、少ないところ。落ち着いて取捨選択してゆけば、どうということは――
「しっかし、なんだろこの音。良くわかんないけど、気持ちイイね」
「グレイズっていうそうよ」
弾が掠めるたびカリカリと小気味の良い音が鳴った。パルスィの低速弾が目前に迫る。空は弾幕の河から、間隙を縫い、縫い――
「お。おおおっ、おおーーッ」
抜けんとす。
淡い弾。あるかどうかのスキマ。まだ大丈夫、まだいける、まだ。当たり判定を確かめるように漸近。近付き、寄り添い、密着し、熱が迫り、半身が弾を抜け、空に人工心臓がさながら、否、そのまま当たり判定として――被弾した。
「 っぁだ 」
弾幕の霧が晴れる。僅かな熱を胸に残して、空の弾幕初体験はこのように完了した。
********************
[燐と休日]
blaze up.
パルスィの放った弾幕に、一同はすっかり心を奪われた。弾幕構築の基礎を教わると、その日のうちにヤマメはスパイダーネットなる弾幕を生み出し、これがまた一同の弾幕魂に火をつけた。燐も空も、われ先を競って自分のスペルカードを見せてやろうと腹を決め、練習と研鑽に励む。ゆえに帰宅は深夜に至り、かつ誰の手にも帰り道に買った新しいノートと、カラフルな蛍光ペンがあった。
「あのさ、お燐」
「ああ、おくう。パルスィって、たぶん……」
「自分のパイを増やそうって野心とか、地底を啓蒙しようって志からじゃなくて」
「これが、やりたかっただけだろうね」
そう言って燐は指先に真っ白い光球を浮かべた。これをどう自分流にアレンジしてゆくか。組み合わせは無数に存在する。複数での構築となればどんなスポーツも及ばない自由度になろう。しかも、死なない程度に痛い。痛みは大事だ。痛みはリアルだ。
「"怪我と弁当は自分持ち"、か。何年前だったかな、この言葉を、さとり様が禁止したのは」
「十年くらい前じゃない? あの時は私らも反発したよね。リスクアセスメントなにするものぞ、って」
「そーそー。そしたらさとり様ったら鉄板持ち上げて、私らを叩きのめしたっけ」
二人はふらふらと地霊殿の門をくぐり帰宅を告げた。真っ暗な屋内。床の窓にも光がない。みな寝静まっているのだ。二人は抜き足差し足で自室へ戻り、風呂場の冷えた水で身体を清めると買い置きのカップ麺を夕食とした。明日は"仕事"は休みだが、家の中の"おしごと"が山積みになっている。起きる時間から逆算すると実質二時間しか眠れない。だが。
「お休み、おくう」
「おやすみ」
久しぶりに安心して眠れる、燐はそんな気がした。
翌日、案の定寝坊した。顔を洗って庭に出ると、シーツやカーペットといった大量の洗濯物が二人を待ち受けていた。中性洗剤を使い大きなタライの中で足踏みして汚れをたたき出す。地霊殿に住まう動物達があっちこっち走り回って、自由奔放に遊んでいた。
「お燐ー! 乾いたヤツ、取り込んでー! 次いくからー!」
空は水を吸い重たくなったカーペットを持ち上げ、忙しなく干して周った。これが終わったら教育期間中の妖怪・妖精達を風呂に入れなければならない。相手は獣のくせが抜けてない連中であり、下手を打つと文字通り骨が折れる。それが終わったら今度は暴れる子供たちを押さえつけ予防接種を受けさせなければならない。昼を待たずに二人はバテバテの体となった。
「どーしたの、情けないわね」
「つか、なんでおまえは平気なツラしてんだよ……」
メガネの妖精が昼食のおにぎりと豚汁を持ってきてくれた。
「平気じゃないわよ、私だって疲れてる」
「そうは見えないけどな……って、寝てるし」
メガネの妖精は豚汁と握り飯を三十秒で胃に押し込み、そのまま横になっていびきをかき出した。意外な特技を発見。
「私たちも、さっさと食べて昼寝しましょ」
「あーつれーわー、マジつれー。二時間しか寝てないからなー。実質二時間しか寝てないからなー」
空はメガネの妖精に寄り添うようにしてさっさと寝てしまったが、猫舌の燐はふーふーと豚汁を冷まし、それだけで昼休みを使いきってしまいろくすっぽ休むこともできなかった。
午後は教室の清掃と、宿舎の修繕に費やされた。自動車と内燃機関に強い燐はガレージとセントラルヒーティングにかかりきり、電気工事に強いメガネは天井裏を這い、馬鹿だと思われてる空は壊れた柵や割れた窓を交換し、日曜大工に精を出す。
午後五時。すべての予定が消化されたことを確認し、さとりは作業に当たった地霊殿住人を庭に呼び集め、終了の挨拶を打つ。
「みなさん、今日はお休みの日にありがとうございました。これからも、就学中の子供たちに正しく範を示せる行動を心掛けてくださいね。お風呂沸かしてますから、よく疲れを取ってください。お疲れ様でした!」
……たびたび無茶を言って申し訳ないのだが、地霊殿という組織は以下のようなものであることをご了解いただきたい。まず保護下に置かれた妖精・妖怪・動物が存在し、このうちヒトガタを取り就学過程に入るものが一割程度現れる。これらは教育を修了後、さとりの経営するコングロマリットに就職し、これが地霊殿を維持し後続を食わせる地盤となる。とはいえ、空たちは強いられて働いているわけではなく、機能体集団であると同時に、共同体集団でもある地霊殿に一時的な帰依をしているに過ぎない。辞めたければいつでも辞められるし、その際には積み立てた分の退職金も出る。ただ、個人としてよりも、共同体の一員という意識が遥かに強い、そういう性向が地霊殿の住人には育まれているのだった。
ぞろぞろと宿舎へ戻る。空たちは寝不足も相俟って、まったく泥のような有様で入浴。その後、示し合わせるまでもなく、宿舎から少し離れた場所にある横穴に集合した。
「なんとかさとり様にはバレずに済んだネ」
「ま、私らも付き合い長いことだし」
さとりに対して隠し事はできない。そんな風に考えていた時期が俺にもありました。が、実のところ眉唾である。長年をともに過ごした彼女達のあいだには、秘密を保つノウハウがごく普通に存在していた。なんということはない。いかにさとりがサトリの能力を持っていようとも、"生活"の中においてはただの少女に過ぎないのである。最も、そう思わせたい演技かもしれないが。
「よーし、先ずは、私の弾幕を見てもらおうかな――」
空が一番槍をとる。
その日も、夕食はカップ麺になった。
********************
[こいしとニアミス]
「だからー、本当にいませんってばー」
「やいやい、ややい。隠してもためにならねぇぞー」
空たちが、地底世界にはありふれた横穴に隠れ、弾幕研究をしてしていたそのとき。
さとりは執務室で来客を迎えていた。
酒を注いだ盃を片手に持ち、長身をくぐらせ現れたのは誰であろう星熊 勇儀であった。
「それに、なにが言いたいっていうンですかー? ただの猫と烏ですよ」
「そりゃーおまえ、ぬこなら喉をゴロゴロしたいし、烏ならハネをむしりたくなるだろ」
「だめです。やっぱ会わせられません」
「ジョーダンだよー、なー?」
星熊 勇儀の用件は、的を射ない言葉と呂律の周らない口調でさっぱり見えてこなかった。思考を読もうにもアルコールでぐしゃぐしゃになっている。どうやら、空と燐に会いたい、ということらしい。
「昨日、私のシマでウロチョロしてったっていうからさー?」
「そんな……それだけのことで?」
「なぁんか、嫌ァな予感がすンだよーなー? な? しねえ? するべし」
「知りませんよ……」
この状態の勇儀に会わせたら、なにが起こるか解らない。さとりはとっておきのブランデーを饗し、さっさと酔い潰して追い返した。ブランデー2にエチルアルコール4,メタノール4のスペシャルブレンドは鬼さえ容易く潰してみせる。
「んっんー、あの二人、ねえ」
タクシーの運転手にチケットを渡し潰れた勇儀を送り出す。さとりは自らも酒で上気した頬に両手を当てて天蓋を見上げた。
燐に、空か。
前々から仲がいいとは思っていたが、最近はとみにただならぬ雰囲気を纏わせている。
「あんまり深入りしないようにしようっと」
野次馬根性で覗き込むのも趣味が悪い。さとりはそう思い、二人の仲が落ち着くのを待つことにした。この邪推、勘違いは、燐と空にとっての天の配剤となった。
「あ、お姉ちゃん?」
「こいし」
門に背を預けしばし物思いに耽っているうち、午前様の帰宅となったこいしがふらふらと現れた。顔を合わせるのは二週間ぶりになる。
「ひょっとして、出迎えてくれたの?」
「ん――おかえりなさい」
「あは……怒られるかと思った」
ばつの悪そうな顔をして、こいしは一歩後ずさった。地霊殿の棚卸し日を避けて帰宅し、面倒な仕事から逃げたのだから。これに対しさとりは特に取り合うこともせず、ただ
「お腹空いてるでしょ、なにか作るわ」
そう言って、無言の背中でこいしを引っ張った。
「お姉ちゃんにゃ、敵わないね」
引かれるままに背を追い、門をくぐる。
「これじゃあ、なんのために目を閉じたのか解んないや」
********************
[勇儀と死体]
without remorse.
「液体窒素、買うから高くつくンだよ」
「だからって自分で作るっつーのは手間がかかりすぎでしょ」
地底、首都高。
渋滞の列に並ぶトラックの助手席に空が、運転席に燐がいた。
遅々として進まない貨車と火車の列。ただでさえ寝不足の二人のまぶたは独身サラリーマンの税負担並みに重く、たびたび後続のクラクションで起こされる有様だった。
空はつらつらと思考をめぐらせる。
なにか話題はないものか。
まぶたを閉じると眼花が現れる。弾幕による後遺症。はあー、と大きく息をつき、僅かに前進したトラックの荷台でガタゴトと音を立てるボンベに思い当たった。液体窒素のタンクだ。これから外資集積センターで死体を受領し、その場でフリージングするために持ってきていた。そこで空は言ったのだ。わざわざ運んでこなくても、外資集積センターの脇に土地でも借りてそこに貯蔵すればいいのではないか、と。もともと液体窒素は輸入品である。外資集積センターで購入した一本八〇キログラムのボンベ八本をいちど地霊殿に持ち帰り、必要に応じて持ち出すというのではあまりに効率が悪い。しかし燐によると、カラにしたタンクをその場で返却するからいいのだ、という。その理屈はおかしい。なんやかんやと話すうち、なぜか地底で液体窒素を作れないか、という話になったのだった。
「手間っつーけどハーバー・ボッシュ法でアンモニア作ったらあとは焼くだけじゃん(2NH3+3/2O2→N2+3H2O)」
「じゃあ仮に。ハーバー・ボッシュ法のリアクタは私が設計・施工するとしよう。触媒も鉄の焼結体としてあんたが作れるだろう。窒素は大気中にいくらでもある。さて、水素は?」
「一、水を電気分解する(Aq→H2+O2)」
「ダウト。投入エネルギーでお金がかかりすぎる」
「二、炭素と水を高温反応させた水性ガスを分離する(C+H2O→CO+H2)」
「ダウト。触媒に使うレアメタルがない」
「三、水と鉄による高温脱酸反応。三酸化二鉄も作れて一石二鳥(H2O+3/4Fe→H2+1/4Fe3O4)」
「黒さびでいたずらに鉄資源をだめにするだけじゃない? 結局、採算は合わないと思うよ」
「だねえ。そもそも、窒素を取り出すためにより高級な水素を取り出そうって時点で、どうあがいてもマイナスだった気がする。亜硝酸化合物があれば、そこから合成できるけどー」
「地底資源は無機物ベースだからなあ」
と、渋滞の終わりが見えてきた。どうやら事故が原因だったらしい。レッカー移動された事故車両の脇を通る。濃い血がなおとどまることなくどくどくと車両から車道へと流れ込んでいた。タイヤの跡が次々と血を押し広げてゆく。避けようもなく二人も同じように血を轢いて走る。燐は目を伏せ、空は手を合わせた。
血が途切れるころ、ようやくセンターに着いた。パルスィと軽く目配せをしあいながら、形式的な書類のやり取りを行いシャフトサークルと呼ばれる定位置につく。すると真っ暗に抜ける地底の空からコンテナがするすると降りてきて、荷台を開放したトラック上にぴたりと収まった。
「キスメのワイヤだね、これ」
「信号送ってみよっか」
ワイヤを弾いてメッセージを伝える。数秒間を置いて返事が来た。
空が専用のコンテナを開き中身を確かめる。燐はその間に窒素タンクとコンテナを連結しガスを流入させる準備を終えた。
「空、ガス入れるから早く閉めて」
「ん、ちょっと待って? 死体の数が少ないよ」
「え? 全部で九人分だろう」
「八人しかいない」
書類上の記載ミスだろうか。二人は顔を見合わせる。
その時、ワイヤが急にビリビリと振動した。視線をそちらに、そしてまた顔を見合わせ、同時に上を向き、星が降るのを目撃した。
「 ぅ わ あ あ っ !?」
次の瞬間起こることを予測し、燐が声を上げて逃げ出そうとする。空がこれを止めた。抱きしめられ、ムカつくほどでかい胸を押し付けられる。黒い羽根がばさりと広がって二人を包み、星が車両のすぐ横に落っこちた。
鈍い音が衝撃を伴って響き渡り、土煙が上がる。
羽根に当たる飛散した砂利。
「……もう、大丈夫だよ。お燐」
「ふぐー、もぐー」
むにょむにょした膨らみから顔を引き剥がし地面を覗き込む。星が蹲っていた。
「えーと、その。星熊さん?」
がばっ、と星がその顔を上げた。
「どやっ!」
「どやっていわれても。大丈夫っすか」
「大丈夫だ、問題ない」
誰も期待していなかった出オチなどしてくれた鬼は平然と立ち上がり、地面にブルーシートの包みを投げた。大きさといい形といい、その中身が人間の死体であることは想像に難くない。何度目か二人が顔を見合わせる。その頭上から声。
「おおーい、二人とも! 星熊さんが落ちて……」
「だいじょーぶー?」
黒谷ヤマメとキスメだった。ほとんどバンジージャンプでもするような速度で駆けつけたらしい。
「あっ! 星熊さん! いきなり落ちるからびっくりしましたよ!」
「いやぁすいませーん。それより、ちょうどいい。こいつを見てみな?」
言うが早いか勇儀は包みのガムテープを千切りとってごろりと中身を転がした。まるで石のように固いその中身は、案の定死後硬直した死体である。
「おい、火焔猫。この死体の死因はなんだ?」
「成人男性、身長百六十八センチ体重六十キロ、死後二十二時間。深い裂傷が上半身全体に見られるが他は綺麗。裂傷のほか外傷は無し。口腔内の状態から見て病気等も無し。傷による失血死でしょう」
「よし。次、霊烏路。この裂傷の原因はなにが考えられる?」
「一、獣害。二、重量落下物による事故。三、高所落下による事故。四、感電による皮膚破壊……です」
「それだけか? まあいい。ではキスメ。このなかに正解はあるか?」
「獣害ではなさそうですね。歯形とは違うし齧り取られてもいないですから。感電も違いそうです。焦げていないし内部損傷がない」
「うん、うん。いいだろう。次にヤマメ。残りの二つに正解はあるか?」
「服に血がべったりついています。なのに土汚れがない。高所からの落下ではないでしょう。また、落下物による事故というには不可解な傷が多い、腕の辺りに線状の浅いキリキズがたくさんある」
「よし、そこまで!」
ぱん、ぱんと手を叩き勇儀はしゃがみこんで男の死体、その傷を広げて見せた。指を突っ込み肉と脂肪をぶちぶち抉って、取り出されたのは金属片。
「こいつの死因は失血死だが。その傷をつけたのはこいつだ……長ドスの、先端が折れた部分だよ」
「長ドス?」
「そうだ――霊烏路! 解るか。こいつは殺されたんだ」
「えっ……いや、しかし。妖怪はドスなど使いません」
「妖怪じゃない。人間だ」
空には、勇儀がなにを言っているのか解らなかった。
「しかし、ドスを使うのは人間で……すると」
燐も、ヤマメも、キスメも。なにがなんだか解らないという表情で勇儀を見返した。勇儀は空の目を見ていた。空の目は恐怖に染まっている。
「人間が、人間を殺した。殺意を持って、逃げようとするこの人を追い詰め、刃物を振るい。血が飛ぶのも構わず、悲鳴にも耳を貸さず……何度も、何度も刺して、あがく腕を切りつけて……殺した。そういうことですか」
「正解だ。人間は、人間を殺すんだよ」
ぞっする笑みを浮かべて勇儀はドスのかけらを仕舞った。燐も、ヤマメも、キスメも一様に青ざめていた。
おそろしい、おそろしい――。
「信じられないかもしれないが、地上はそういうところだ。騙し、騙され、裏切り、裏切られ。同胞同士が、身内同士が殺し合い、殺意を向け合っている。軽蔑、侮蔑を交換し、早く世界ごと自分も滅んでしまえと思いながら生きている……誰もが。」
死体をコンテナに詰める。
ばたん。コンテナが閉まって凄惨な死体が姿を隠す。燐の手に勇儀が何かを握らせた。血まみれ・脂まみれの死体提供意思表示カードだった。名前が書いてある。それを読んでしまったら、もう死体とは割り切れない。
「恐ろしいところだねえ。地上」
呪いのように、勇儀の言葉が響く。
「だから」
脳裏に死が、恐怖が刻まれる。
「だから――地上に行こうなんて、思ってはいけない」
その言葉を介して睨み合う空と勇儀。
それが、星熊 勇儀の忠告だった。
********************
類別は霊鳥、名は融合――。
********************
[空と食卓]
帰りの車内は無言だった。コンテナを冷蔵庫へ運ぶ。新しく死体が入り、押し出された死体たちは放置され悪臭を放った。いったいこの有様はなんなんだ、と交代に来た地霊は頭を抱える。それを尻目に、燐も空もそそくさとトロッコバスへ逃げ込んだ。
見たくない現実。
やりたくない仕事。
それらを次のシフトに押し付けて、逃げた。
ガタゴトと揺れる車内。
二人はじっと、空だけを見ていた。
真っ黒い、地底の空を。
「ねえおくう。……アレって、空なのかな」
「定義によるよ。地底の住人にとっては、アレこそが空だ。けれど、……私にとっては違う」
落ち込んでいるでもなく、険悪でもない。消沈してはいるが、憂鬱にも似ている。
そんな二人の様子を、事情を知らないメガネの妖精が不思議そうに見ていた。
入浴を済ませ部屋に戻る。二人してベッドに寝転ぶとそのままぼぅっと無気力で非生産的な時間が流れた。一時間ばかりすると夕食の時間になる。メガネの妖精が呼びに来た。
「ごはんだよ。今日はさとり様、仕事で遅くなるからさき食べててってさ」
墓から這い出す死体のように燐と空は起き上がる。
食欲はなかった。それでも食堂へ向かった。
二人はなにごとかの悩みに精神を冒されている。
メガネの妖精は二人のおかしな態度に気づきつつも、それを重要な変化とは見極められなかった。同じ志のもと集ったメガネは、このとき、二人が抱える悩みを受け止めるべき立場にいたのだが……。
彼女にもまた、その悩みに、気づいてやるだけの余裕がなかった。
メガネの妖精はスペルカード戦で大きく遅れをとっていた。複雑で難しいだけの弾幕ならばいくらでも構築できるのだが、そこに難度はあっても技術や個性はない。避ける楽しみがない。そういうスペルカードばかり作っては破棄する毎日を送っていた。燐やヤマメがいち早く誰が見ても彼女のものだと解るような弾幕を編み出している横で、自らは一歩も前に進めずにいる。焦りが募る。心苦しくもある。悔しくもあった。向いてないんじゃないか、と、何度も思った……思いながらも、弾幕がやりたかった。スペルカードを持ちたかった。
個性で、自分の価値観で、社会の横っ面をひっぱたいてやりたかった。
しかして、彼女はスペルカードを諦めゾンビフェアリーとしてゲームに挑むことを決意することになるのだが、それは未だ少し先のことで。いずれにせよ、かのような事情から、燐と空はたった二人で食堂に取り残された。鉛のような飯と食品サンプルのような皿を前にして、一向に箸を進めることができぬままに。
「食べないの? おくう」
「お燐こそ。コロッケ、冷めちゃうよ」
「おくうも、コロッケの衣がソースでべちゃべちゃになってるじゃない」
「食べる気は、あったんだけどね……」
かぴかぴになったご飯を箸でつまみ口に運ぶ。唾液でふやかすと甘みが出てくる。それでも食欲は沸かなかった。箸でコロッケを割ってなかのジャガイモをほぐし、潰しきれていない芋のかけらを噛んだ。なにをやっているんだろう。出るのはため息ばかりだ。
「お燐さ……地上、行きたい? まだ……」
「……はぁっ! 歯切れが悪いのは気に食わないからはっきり言おう。解んない、正直なところ」
「そっか。私は行きたい。確かに今日のことはショックだったけどね、でも、やっぱり行きたいんだ」
空はそういって、ようやくまともにコロッケを口に運んだ。衣の食感はべたべたしていたし、冷めたソースの酸味が鼻をついたが、それでも美味いと思った。
椀を持つ。米を食う。
ざくざくとコロッケを噛み、メリモニュとキャベツを咀嚼する。パリポリと漬物を齧り、ウーロン茶で口をゆすぐ。再びはぐはぐと飯を食むや、椀が空になる。注ぎに立とうとする空の椀に、燐が自分の飯を差し出した。冷める前に食ってくれ。空は飯を移し食事を続ける――その箸がぴたりと止まった。
足音が聞こえたからだった。
よく知った、スリッパの音。
「あれ――まだ食べてたの」
古明地 さとりが、薄手のカーディガンを羽織り、仕事用のメガネをかけたまま、食堂に現れたのだった。
ラップをかけられた皿を冷蔵庫から出し電子レンジにかける。小さめの椀に飯を盛って、いただきます、と言ってからさとりはモクモクと飯を食い始めた。燐は目を伏せる。空は知らん顔で食い続ける。
「三人で」
さとりが味噌汁をすすり、思い出したように声を上げた。
「三人で座って食べるの、久しぶりね」
「そう、でしたっけ」
「覚えてないかしら。昔はよくあったわよ。私が遅れてご飯に来ると、だいたい二人がいた。待ってくれてるのかな、って思ったけど」
チン、と電子レンジが鳴った。ワンカップのぬる燗がさとりの夕食に加わる。二人はその音で思い出した。
ある時は、食わず嫌いをする空にどうにかメカブを食わせようとして。またある時は、だらだらとしゃべっているうちに。理由はさまざまだったが、背景は同じ――燐と空は、いつもそうやって、一緒にいた。
さとりの視線が燐を捉えた。
「食欲ない?」
「……はい」
「そう。じゃあ――食べなさい」
面食らった燐が返事をする間もなく、さとりはニッコリと笑って自分のコロッケを燐の皿に放り込んだ。
「お燐。なにか悩みがあるわね」
「え、いや」
「別に話せなんていわないし、話す気がないなら覗き込む気もない。あなたたちは強い子よ。どんな悩みか知らないけれど、自分の問題は自分で解決できる。だったら私がすべきことは、悩んでいるぶん、もっとたくさん食べさせることだわ。さあ、食べた食べた」
おずおずと箸を取る。中身をこぼしながら、ぱくりとコロッケを口に含む……不味い、わけがなかった。
「ごめんなさい」
「ん」
「さとりさま。ごめんなさい」
「うん」
涙をこらえながら飯を食う燐は、さとりには脈絡の読めないこととは知りつつ、そう言わずにはいられなかった。さとりもさとりでとりあえず頷いておく。その横で、空は黙ったまま飯を食い続けた。
「おくうも、ほら」
「ごちそうさまでした」
コロッケをもう一個。空の皿に伸ばしたが、その前に空は立ち上がった。がたん、という椅子の音が妙に響く。がちゃがちゃと食器をまとめ、空は食堂をあとにする。
逃げるように。
「コロッケ、美味しくなかったかしら」
「…………」
その後空は洗面器に走り、食べたものをすべて戻した。
そして部屋には帰らなかった。
********************
[ヤマメと殺意]
同時刻。
旧地獄街道から二ブロック離れた地底繁華街は毎夜の喧騒に包まれていた。
仄暗い鉱物油の灯りはすれ違う人物の表情さえ伺わせない。道端で客引きをする妖精は少しでも目立とうと羽根を光らせそれぞれの営業に精を出している。不健康な煙とすっぱいにおいが鼻を突く。文字通り、いつ足元をすくわれてもおかしくないような雰囲気が、そこにはあった。
ヤマメ、キスメ、そしてパルスィ。三人が裸電球の下で酒を酌み交わす酒場も例外なく暗かった。互いの顔と、手元しか見えない。それゆえこの店には、身分や身なりを問わずまた問われることもないという、不便を補って余りある安心感があった。
「そんなことがねえ、あったのねえ」
頬杖をついたパルスィの瞳だけが、闇の中で、緑色に爛々と光っていた。
「星熊 勇儀もたいがい、パフォーマンスを身につけてきたのね。鬼に凄まれちゃビビるのも無理ないわ」
「悔しいけど。なにも言い返さなかったよ」
「ねえー、おっかなかったもんねえ」
ほっけを開きながらキスメがでも、と前置きをして続けた。
「私も時々忘れちゃうんだけど……同属を殺す、ということは、人間特有の属性でもなんでもない、んだよね」
「そう。妖怪も妖怪を殺す。それが難しいというだけで。すべては同一直線上にある」
事実だった。
人間はしぶとい。簡単には殺せない。けれどちょいと頭を鈍器で殴ったり、うっかり胸をナイフで刺したりするだけで案外死んでしまうのも確かだ。その点、妖怪は死に難い。これが、人間が人間を殺せて、妖怪が妖怪を殺せない理由だ。
実際に殺される現場を考えてみよう。
金属バットのフルスイングで頭を殴ったとする。人間は、相当に運が悪ければ一発でも死ぬ。妖怪は同様の条件でも二、三発追い討ちをかけない限りまず死ぬことはない。この、一発と二、三発の差は大きい。前者は"衝動的"だが、後者は"もっと衝動的"だ。妖怪は残忍だが同属には寛容であり、それゆえ"もっと衝動的"な状態に陥ることは、妖怪同士ではまず発生しない。
だから、妖怪は妖怪を殺せない。
殺す前にストップがかかる。
二発目を振り上げるストレスに耐えられない。
これが人間ならば。これが人間ならば、同属を殺したその手で翌日には普通に飯を食える。人間の精神は妖怪より遥かに強靭に、悪質に作られているから。しかし妖怪はそうは行かない。物理的身体ではなく、より精神に依存して存在を保っている妖怪は人間よりも遥かにか弱いのである。
「けど、それって普通の妖怪ならば、だよね」
ヤマメがザーサイを噛みながら付け加える。ナスの浅漬けをヘタごと飲み込み、パルスィが答えた。
「そう。鬼は違う。鬼は殺せる。鬼は妖怪でありながら、いともたやすく同属を殺す」
「たぶん、簡単すぎるからだね。私たちだったら殺す"感触"……ってのかな、"手ごたえ"で、もうダメだけど、鬼はペットボトル開ける程度のチカラで首をねじることができるから」
実に、聞かれたくない話だった。鬼に対する批判など。三人は周囲を見渡す。こちらに注意を払っているものはいなかった。胸をなでおろす。
三人とも、ずいと顔を寄せ合う。各々の意見を確認し合った。
「星熊 勇儀は、地上をここ以上の地獄だ、って言ったようだけど」
「私たちは、星熊 勇儀の言った事が必ずしも地上のすべてではないことを知っている」
「その通り。この世に地獄でないところなんて、どこにもない。地底も地上も同じくらいには、クソみたいなところだよ」
ヤマメもキスメも、パルスィも。地上と地底の境目で働いている。地底を俯瞰し、地上を見上げて、そのどちらにも絶望を程よく譲歩していた。
幻想を抱くでもなく、諦観を決め込むでもなく。
二つの世界を知る三人は、おそらく幻想郷でもっとも冷静な態度で生きている妖怪だった。
「私たちはこんなだからさ。地上が楽園だなんて思ったことはない。けれど」
「そう。だけど……空は、大丈夫かな」
ヤマメとキスメはそういって、不安げに顔を見合わせた。
……別に。
彼女たちは地上に行きたいとは思っていなかった。
ただ弾幕ができればそれでよかった。
パルスィにしてもそう、彼女には彼女の目的があり、目標を達成するためのステップを空と共有しているに過ぎない。それゆえに空の脱落は本質的に彼女たちのライフを損なうものではない、ないが……強力な動機を持った空を欠いては、弾幕も、パルスィのプランも、大幅に遅滞することは確実だった。
空がイヤになって抜けても問題はない。
しかし、仲間を失うことにも変わりはない。
「まあ、大丈夫だと思うよ」
パルスィはぐいと盃を空にして、雫を切って立ち上がる。
「地霊殿は、私らが思ってるよりはるかにタフな組織だからね」
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[メガネと陽動]
frare
燐と空のシフトがずれた。
地底には昼も夜もない。ゆえに稼動状態に応じてさとりは柔軟にシフトを組むことができる。一般に地霊殿は三交代制から六交代制のあいだで操業しており、この度、燐と空の生活サイクルが決定的に分断された。そこになんらかの作為を燐は感じ取ったが、シフトに異を唱える合理的理由もない。粛々と働くほかなかった。
空を見たのは、あの食堂が最後だった。
仕事場でも、部屋に帰っても。空には会えなかった。
「おくう……」
現場に置かれているホワイトボードに、空の筆跡が残っている。今の燐にとってはそれが、確かに空が存在しているという、観測できる証明だった。
ボードに缶コーヒーの懸賞シールを貼って、燐は仕事を上がりいつもの横穴へ向かう。
そこでは今日もスペルカード戦の訓練が行われていた。
「ねえ、最近、おくうはちゃんと来てる?」
「え、なんだって!? よく聞こえない!」
パルスィの弾幕をすり抜けて走るヤマメは、右手に圧縮していたスペルカードをあたり一面に展開する。白と緑の光が飛び交い、弾けて混ざって瞬いた。
「おくうだよ! あの娘、ちゃんとやってるの」
ヤマメの弾がパルスィを撃ち抜く。偽者だった。パルスィの撃ち返しがヤマメに当たる。燐はなにも言わず立ち去った。ここにいても、仲間たちのところにいても空には会えない。
「……行ったよ、空」
燐が去ったことを確認し、メガネの妖精が腰をどかした。ゆったりと座れるサイズの、ソファに見えたそれは、羽毛100パーセントの空だった。
「これでよかったの?」
燐が会えないのも無理はない。空は徹底して燐を避けていたのだから。
「不義理を強いて、ごめんね。けれど、もう少しだけ甘えさせて」
「空のことだ。考えがあってのことでしょ――いや、話してくれなくてもいい」
「……いいの?」
メガネの妖精は笑っていた。満足そうに、寂しそうに。
「面倒は負うさ。なにせあんたは、私に勝った」
「ばぁーん。」メガネは自分のわき腹を指差して、引き金を引く仕草をした。
焦げていた。
「じゃあ、ついでに頼まれてくんないかな。仕事のことだ」
「いいよぉ。なんでも言ってえ」
空がビジネスバッグから書類の束を取り出し、あれやこれやと説明を始める。
メガネの妖精の目つきが、次第に別種の光を帯びてゆくことに、空は気づかなかった。
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[早苗と過保護]
born to be hafurist.
「これが早苗の、生まれた時の写真さ」
八坂 神奈子は古ぼけたアルバムを開き、一枚を指差した。普段の威厳が微塵もうかがえないゆるい表情と、往時を懐かしむ声であった。
「驚きましたな、この頃から、二柱に輪郭が似てらっしゃる」
「またまたあ、でも、解っちゃうかなあやっぱり!」
アルバムはタウンページサイズで十六冊に及んでいた。DVDとブルーレイディスク、フォトCDもダンボールいっぱいに用意されている。早苗が初めて家に来た時の写真。早苗が初めて神奈子に抱かれた時の写真。夜泣き、授乳、立ち歩き……。
射命丸 文はうんざりしながらおくびにも出さず、ほどよく相槌を打ちながらページをさくさくと進めた。
「いかにも、利発っけがありますな」
「そー思うでしょう? でしょう? でもねー、毎度毎度大事なところで失敗しちゃう子でねえ。なんていうのかしら、運が悪いというか、詰めが甘いというか」
「いかにも人間くさいですな」
「そうなのよ! 話解るわねえあなた」
境内にクレヨンで落書きをする早苗。風を操り空に雲で落書きをする早苗。叱られて泣き出し、雷雲を呼ぶ早苗。飴玉で泣き止み、さわやかな雨を降らせる早苗……。八坂 神奈子の相手をするのは確かにウザかったが、神奈子がこうなるのも無理はない。素直にそう納得できる成長記録だった。
「八坂様。中学校入学の時の写真はありますか」
「写真どころかDVDも、当時の制服や靴下も取っておいてるわよ」
「いやそういうのはいらねーっす」
一際大きく引き伸ばされた集合写真。この頃の早苗は、まだまだ純粋無垢な眼をしていた。射命丸 文にはそれが解った。その一年後、取るに足らないスナップ写真と見比べても早苗の変化は明らかであったからだ。
「目つきが、変わりましたね。早苗さん」
「あー……うん。この頃のあの子は、自分にも他人にも噛み付きまくる、若くて過激な思想に走ってたから」
目の端が釣りあがっている。口元は笑っているし、まったく友人たちとじゃれあっているようにしか見えないが、眼光は油断なく視界にあるものすべての脅威と可能性を探っている。考えている者の目をしていた。
「致し方ありませんな、反抗期というのはそういうものですし。今は違う?」
「そりゃ、まあね。あの子も大人になったし」
「そうでしょうか? 知識と経験が増えて機転が利くようになったとしても、まだまだ十六・七でしょう。どう転ぶかは解らない」
「あはは……そうなったら、今度こそ誰にも止められないよ」
神奈子はそういって笑ったが、僅かに震えていることは……この軍神が恐怖していることは、誰の目にも明らかであった。普通ならばナメられるところだが、射命丸 文は事情を知っている。同じように冷や汗が流れていた。
「ではお約束どおり。早苗さんがこんなになってしまった、あの事件の記事を見せていただきましょうか」
「……よしきた。いいだろう」
ダンボールの底からスクラップ・ブックを掘り起こす。分厚く膨れ上がったページには新聞記事のコピーが貼られている。
「わが巫女・東風谷 早苗。当時十三歳。初めて国民の前に奇跡を示した、歴史的瞬間だ」
記事は大きな写真が一枚と、72ptのゴシックで構成されていた。
見出しはこうだ――『第二次臨界終息 磐木軽水原子力発電所』
頭に血のにじむ包帯を巻き、折れた大幣を構え。
鉄塔の頂で強力な気団の風上に立ち続ける、少女の写真。
それが東風谷 早苗であった。
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[空と孤立]
STAND ALONE.
「空、仕事やめるってさ」
燐がその話を聞いたのは、かの食堂の一件から……つまりは、星熊 勇儀が二人に牽制を加えた日から一週間後のことであった。どこで聞いた話だ。空が言っていたのか。地霊の首根っこを掴んで燐は問い詰めたが、答えは明確かつ確実なものであった。
第百二十七季 皐月の一
公示文書No.890018
人事通達
掲示
下記の者を六月一日付けで退職処遇とする
一.
株式会社地霊殿 第三工廠 統括
エネルギー事業部 部長
パワーグリッド 局長
全温水管理責任者
火力発電課
霊烏路 空
以上
古明地 さとり
地霊殿の公式文書が、ロッカールームの掲示板に貼り付けられていたのだ。
「どういうこっちゃ、兄弟……」
燐は頭を抱えてその場にへたり込んだ。
目が回る。
頭が痛い。
時間の感覚が無くなる。
やがて息が苦しくなってきて、あわてて大きく深呼吸。
すると汗が溢れてきた。
「はあっ、はあっ、はあ……はーーっ」
必死に呼吸を整えながら、わけも解らず、体中から汗ばかりが溢れ出す。
「ええー、ちょ、ええー……?」
周囲の地霊や妖精は、まるで腫れ物でも扱うような態度で、遠巻きに燐を見るばかりであった。
「さとりさまあッ! こりゃどういうこっでスかア!」
燐がさとりの部屋に向かうと、そこにはすでにメガネ妖精の姿があった。
「どうもこうもみての通りなのだけど」
「空がおらなんだら、仕事になりゃアせんでしょうが仕事に!」
「しかし、空自身の希望だもの。私だって止めたわ」
「そんだら、そった、……こないなアホな話がありまっか!?」
「いや、っていうか興奮しすぎよあなた」
ドアを軽く叩いた。二人が燐に気づく。
「さとりさま。失礼します。空が自分で辞めたいといったのですか」
「お燐」
さとりはモノクルをはずして椅子に深く背を預けた。
ため息をつく。
「空は私にとっても大事な子よ。仕事の面でも、あの子ほど頼れる存在はなかった。だけど、二人とも、よく聞いて――あの子のことは、そうっとしておきなさい。少なくとも空は、あなたたちに引き止められることを望んではいない」
「そんなはずはない」
「事実よ。空は辞意を告げに来たその口で、同時に私に言伝てた。燐とメガネがやがて来るけど、私は地霊殿を出るまで会いたくない……ってね。それで私も悟ったわ。慰留は不可能だ、って」
燐とメガネは立ち尽くした。
ずっしりと足元に、自身の心が圧し掛かる。
その重量感。圧迫感。内臓から打ちのめされた。
さとりがデスクの上に積み上げられた、くしゃくしゃの紙を見てつぶやく。
「空が地霊殿を出るまで、まだひと月あるわ。仕事のことは、あの子がきっちり型を作って行ってくれるそうだから、心配はいらない――あの子は、やめる! 私たちは、受け入れなければならない。いいわね?」
さとりが正面から二人を見据える。二人は目を伏せた。
沈黙の幕が下りる……。
「あはは、各事業所に張り出してた掲示、全部剥がしてきちゃったのね」
メガネの妖精の仕業だった。
「厳しいことを言うわ。これ、貼りなおして来なさい」
「さとり様」
「うん?」
「そうはさせません。この紙、捨てます」
燐が拳を握り締め、さとりに向け腹から声を絞り出した。
血を吐き肉を削ぐような、言葉と声であった。
********************
[燐と独立]
independence day
「お世話になりました」
霊烏路 空はそういって、深々と頭を下げた。
「いつでも、戻っておいでなさい。困ったことがあったら頼ってくれていいからね」
「お断りします」
「おくう……」
さとりは僅かに悲しげな声を出した。ぐっと息を飲み、鉄面皮を作る。
「これからどうするの?」
「…………」
さとりは打って変わって、冷徹な口調で話した。そうしなければ、すぐにでも泣き出してしまいそうだったからだ。
嫌われることには慣れている。しかし家族にまで嫌われてしまったという認識は、深くさとりの心に傷をつけた。自分を嫌う相手に接するように空に接しなければならない己の立場に、強いストレスを感じる。自分は空のことが好きなのに。どうしようもない悲しみがそこにはあった。
「さようなら、さとり様」
空は一度だけ地霊殿のほうを向き、しっかりとした足取りで闇に消えた。
「……寂しくなるわね」
さとりはしみじみと呟いた。
本当は寂しさなど感じていない。
ただ、寂しいふりをした。
言葉で自分自身をごまかして。ちょっと悲しいけれど、平気だ――そんな風に装って、さとりは地霊殿へ戻る。
回れ右。
歩き出す。
右のつま先が左のかかとを蹴った。
すっ転ぶ――抱きとめられる。
「お姉ちゃん。私も寂しい。すごく悲しい」
「…………」
いつの間にか、あるいは最初からか。背後にいたこいしの腕の中で。
「大丈夫。誰も気づかないから」
「う――――――ぁ」
大粒で、灼熱で、とめどない、涙が落ちる。
さとりの泣き様はまったく年甲斐のない惨めそのものだった。
ああ、本当は。
少し寂しいなんてもんじゃない。むちゃくちゃ悲しいなんてもんでもない。泣いて思考を止めることでしか、対処できないくらいに、さとりの心は窒息していた。
「大丈夫……お姉ちゃんが悲しいときくらいは。私がそばにいてあげるから」
********************
「さて……これからどうしようかな」
鞄ひとつを肩にかけ、真っ黒い天蓋を見上げ、空は大きく伸びをした。
晴れ晴れとした気分だった。
さえぎるものなど、一切ない。
縛り付けるものなど、なにもない。
体を風が抜けてゆくような開放感。
今までの空はもういない。
ここにいる空は、自由だった。
主を捨て、使命を捨て、友すらなくし、罪も負い目も感じない。
大事にしてきたものすべてに無価値をつけて。
誰からも価値を認められない存在になってこそ。
「さあ、はじめようか」
いまや空は己で価値を定めることができた。なにが大事で、なにを大事にするかを。
すべての価値は自由から生まれる。なにに自分を縛り付けるか。持てる自由をどこにどれだけ割くか。それが価値の本質であり、それゆえ、それゆえに――
――孤立してこそ、初めて友を得、志を貫けるようになる。
「お腹減ったなあ」
腹をさすりながら、ぼちぼちと歩く。
「そうだね、私もお腹減ったよ。街道沿いの定食屋でご飯でも食べようか」
「いいね。そうしようか。食べたらちょうど、職安の開く時間になってるだろうし」
朝の道は空いている。ひんやりした空気が心地いい。
「空はどんな仕事がいい? 事務仕事なら時間も取れるし、スペルカード訓練と両立できるけど」
「ああ、無理無理、私に事務はできないよ。どっかのボイラーでも世話するさ」
やがて大通りに出ると、人が増えてくる。通勤、通学者に混ざって、無頼者が歩く。
食堂は朝の六時からやっている。すでに人がまばらに入っていた。席に座るが、お冷など持って来る店員はいない。そういう店だった。労働者向けの、空にはお似合いの。
「なににする? あ、私カレーにしようっと。朝カレー」
「じゃあ、私もカレー。これが一番早いしね」
店員を呼ぶ。ご注文は、と大声で聞かれた。注文を取りにも来ない。怒鳴って注文する、そういう店なのだ。
「カレー大盛り! 温泉卵も乗っけてね! 二人分! ……?」
「どしたの。おくう?」
「二人分?」
「うん」
「私と……」
「うん」
「お燐?」
「うん」
「なんでお燐がいるの?」
「私も地霊殿、やめたから。新しく張り出された紙、見てなかったの?」
「え――」
「今頃気づいたのかい。あんたは」
燐がいた。
空が独りになったときから。
空の隣には、等しく独りの燐がいた。
並び立つ燐は笑う。
ぽかんと口を開けていた空も、なんだか楽しくなって……燐といるのが楽しくなって、笑った。
そうして、ふたりは。
心の底から笑いあった。
「ご飯にしよう」
「いただきます」
光の射さぬ地底に、いま、朝が訪れようとしていた。
おもしろかったので2を読みに行くよ(ガショーンガショーン
秘境の原住民みたいになりながら2へ行きます。
少しでも時間が惜しいので、次にいかせてもらいます。
ともあれ、2を読みます
そんなことよりも!
>さとりが運転するシボレーは夜の首都高速
>白狼天狗たちは顔を見合わせ意を決し、ストールを振り解いて風を飲み込んだ。
>その晩、燐はらしくもない深酒を喫した。道端で五回ほど嘔吐し、せっかくのかきふらいは衣すら胃に残らぬ有様であった。
このssでは、登場人物をとてもじゃないけど、10代のあどけない少女には思い浮かべられない。
30,40代ぐらいの武骨で手練な女性を想像しながら読んでいました。こんなにアクティブに、たくましく生きている
地底妖怪達は全然かわいくない。でもかっこいい!
車はよく知らないのですが、はじめにシボレーが出て、そのあとクライスラーとか…。
なんか登場する車はどれもごっつい車ですね。
高速道路などが登場する現代的な世界観と働き盛りな熟年の登場人物に魅かれました!お空のこの後も気になるけど、
もっとこの設定を楽しみたい気持ちもあります。次行きます!
お空が腕と乳房をもってかれるとか、椛が車に轢かれてお腹がタポタポだとか、高速で大量の血が車道に流れるところとか、
そういう描写を読んでいると、自分は怪我をしていないのに気持ち悪くなってきました。かなり描写が生々しいね!流石ですね!
>さとりが聞こえるほどの音量で舌打ち。雰囲気最悪。燐、滝汗。
こいしが聞こえるほどの音量で舌打ち。雰囲気最悪。燐、滝汗。 ではないでしょうか。
>百二十キロの大剣
これは椛がラオウなみにでかくないと、持てないのではないですか…?ネットで調べると、グレートソードや
バスタードソードは3kg程度とありますが…。どうなんでしょう。
ゴーストライン。攻殻機動隊を最近TVで見ていなければ、よくわからなかった。ラッキー。
陰陽弾や天界の書記官、みとり、カチコミ!、ヤクルト販売員など数々の小ネタ・名言、珍言をふんだんに盛り込んでいるのは、保冷剤さんが読者を暇にさせないようとの配慮がうかがわれます。でも、私は一切なくても読み終えられたかも。
IPMとは一体なんの略称なのか!?そして、鬼が音速の2/3で打ち上げて45秒後に到達することから、
つい計算してしまって、この地底都市は地下20km以下に存在すると出たんですが、これはなにかの伏線なのか…。
いや、まぁ本当にどうでもいいっすね。すみません。
お空が図書館で借りていた本の中で伊集院光『D.T.』だけ異色な件について。
伏線かと疑わざる負えない。ギャグネタなのか、伏線なのか。もう気になる!
>「アナゴじゃなくて、アナゴさんだ、これ……」
想像できない(迫真)。
なぜ伊集院光なのか。なぜ核融合ではなく核融号なのか。2/3や3/3ではタグにもう「霊烏路空」は出てこない…。
いろいろと気になります。残り370KBで一体、何がどうひっくり返るのか楽しみです。
ネコロビヤオキ氏のBARで一服してからいきます。まだ結末がわからないのでこの点数で!
>メリモニュとキャベツを咀嚼する。
どうでもいいですけど、このオノマトペはすごい適格だと思いました。
あるいは天然の大馬鹿者のどちらかだ
工業都市の地底。幻想郷なのに近代的なのに、全然違和感がない。
次にいかせていただきますっ
さて、次を読みに行くか
感想は最後につけさせてもらうぜ
次が気になる!!けど、明日も学校が・・・
くそおおおおつぎだあああああああああ
いや、ゴメン。会社で読んでたら、手許に電卓があって・・・
円城塔、わたしも大好きです
うん、無理だ、熱意が足りなさすぎる。
ところで、液体窒素、空気の分流でぱぱっと作れませんかね。
こう、圧力をかけて酸素さえ取り除ければ、あとはほぼ窒素じゃないですか。