Coolier - 新生・東方創想話

蛙は笑う

2011/12/06 13:00:09
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 ――神社には、人が多くいた。だけれども、誰もいないより静かだった。
 誰も彼もが、暗くて重たい表情で、黒っぽい服で静々とやってくる。陽気な河童も、ゴシップ好きの天狗も、皆が皆、沈んでた。……うん、ちょっとだけ、嬉しいかな。
 今日が何の日か、といえば、今日は早苗のお通夜の日だ。神社、私たちに一生涯を尽くしてからの大往生。息を引き取る時でさえ私たちのこと、神社のことを考えてて。……いやまあ、嬉しかったんだけどさあ。
 辺りはすっかり夜の闇。棺の置かれた大部屋で夜を通す間は、皆が思い出話に浸ってる。この大部屋からも溢れ返っちゃいそうな、山の妖怪神様勢揃いだ。これじゃあ流石に、火車猫も死体を持ってくなんてできないでしょ。まったく、早苗は幸せ者だなあ。
 部屋の端のほうで、ちょっと離れた所から聞こえる思い出話に耳を傾ける。……うん、今日の月は綺麗だ。手を伸ばしたら、遠くなりそうなくらいに。
「独酌ですか? 諏訪子さん」
「ん? ああ、文か。いやまあねえ」
 お酒の瓶を持った文が声をかけてきたので、まあ座りなよと隣の畳を叩く。へらへら笑ってると、文が酌をしてくれた。今回は皆、比較的しんみりと飲んでるから、お酒の減りは少し遅めだね。用意したお酒、まだ半分も終わってない。
「諏訪子さんは、だいぶ落ち着いてますね」
「うん?」
「神奈子さんはもう、ボロ泣きじゃないですか」
 杯を傾けながら神奈子を見る。うへあ、ボロボロ泣いてるね、ほんと。泣きながら皆と話をしてて、周りには結構賑わいがあった。
「……ま、神奈子ってば案外涙もろいからねえ」
 随分と人間チック。だから、結構人望とかもあるんだろうね。……まったく、らしいなあ。
「……して、つかぬ事をお聞きしますが」
「ん?」
 らしくもなく、改まった表情をしてた。
「どかした? いつもは何にも言わずに聞いてくるのに」
「私にも、当然ながら分別はありまして」
「あったんだ」
「ありますよ」
「……ま、いいや。で、何?」
 私の杯にお酒を注いで、自分の杯にもお酒を注いで、神妙な顔でそれを持ち上げてから、
「……貴女、悲しんでます、よね?」
 なんてことを聞いてきた。
「……喜んで見える? 『ひゃっほう! 小うるさい奴がようやくいなくなったぜ! こっからは私の天下だひゃっはー!』みたいな」
「いえ、別にそういうわけでは……ないんです、けど」
 なんていうか、今日の文はらしくないねえ。いつものズバズバ感はどこに行っちゃったのやら。言葉を選んでるみたいに黙っちゃったから、くい、と杯を傾けた。
 で、少ししてから、たどたどしい口調で言う。
「なんというか……その……悲しんでいないように、思えたんです」
 ……言葉。選んでたんだとしたら、無駄だったくらいシンプルだね。
「神奈子さんはもう、見れば明らかに悲しんでますよね。さっきからずっと感極まりっぱなしで、おいおい泣いてますもん。けれど、貴女は……そうは、見えないんですよね。表面上とか内面的とかそういうことじゃなくて。いえ、表面的には笑っていますが、それでもなんと言いますか……喜怒哀楽とかそういうものを、根本的に何も感じてないんじゃないか、と」
 ……失礼だよねえ。
「失礼だよねえ」
「私の見当違いでしたら謝ります。すみません」
「悲しいに決まってるじゃん。悲しいよ、そりゃ悲しいよ」
 残りのお酒を飲み干して、小さく息を吐く。注ごうとしてきた文を止めて、外の月を見上げた。
「……まあ要するに、私が私ってことだよね」
「……はい?」
 理解は、できなかったみたいだ。

   ◆   ◆   ◆

「――洩矢様! 出雲の地より、八坂神奈子がこの地を獲らんと侵攻しております!」
 御殿の広間は、普段では考えられないほどざわめいていた。この広間に集まった臣下たちは、八坂神奈子の侵攻という報告に多少なりの衝撃を受けている。無理もなかろう、軍神としての信仰も受ける者の侵攻だ。しかし、衝撃を受けこそすれ、怖気づいている者がいないのは流石、と言いたいところだ。
「八坂神奈子、か。中央では小国を呑み、すべて一つの国として統一するということを考えていると聞いたことがあるな」
「血気に逸る彼奴のこと、言葉を交わすなど望むべくもありませぬ。恐らく、すぐに戦となりましょう。いかがいたしますか?」
 悩みも逡巡も、抱く理由がなかった。
「無論、応ずる。この諏訪の地は我らが城、我らが国。いかな軍神といえども、呑むには過ぎた地であること、教えてやらねばなるまい」
 ……小さな窓から覗く空。
 重苦しいほどの、曇天だった。



 ――御殿に集まった臣下たちの空気は、曇天のように重苦しかった。
 血気盛んで、臣下の中でも高い力を持っていた者が、奴に挑んで敗れた。彼の者ならば打ち倒すだろうと、どこか楽観的な空気の漂っていた臣下たちは、敗北の知らせに士気を奪われる。
 沈鬱とした空気の沈殿した広間の中で、私は別の報告を聞いていた。……想像に難くない出来事ではあったが、深刻なことだった。広間を見渡す。臣下の大半は土着神。土着神とは、宿るその地の象徴だ。仮に彼奴を打ち倒したとしても、その時に皆が敗れ、死んでいたなら。
 ……考えなければならない。瞑目する、そして考える。勝つための方法を、奴を打ち倒す方法を。……そして、
「……私が出ねばなるまい」
 そして――理想の、敗れ方を。
 さっきまで沈んでいた臣下たちがざわめきだす。
「洩矢様が!?」
「それには及びませぬ! 一人が敗れたとて、彼の者など我らが――」
 当然ながら、狼狽える臣下たち。
「静まれ」
 それを抑え付け、睨み据えた。
「っ……」
 一応は静まる。が、ざわめきが完全に収まったわけではない。表だって何かを言ったりはしてこないが、それでもまだ何かしら話し足りないところがあるらしい。叫びはしない。が、そのざわめきに重ねるように言う。
「軍神の名は伊達ではないということだ。彼の者が打倒された以上、これ以上の敗北は避けねばならん」
 シン、と、空気が静まった。
「……私が出る。異議ある者は、高く声を張り上げろ」
 ……シン、と、空気は静まっていた。



 ――平原に影はなく、ただただ草木が揺れていた。
 彼方に一人。こちらに向けて歩いてくる。書状に対し、応と答えた彼奴だろう。空を見上げた。夏の初めの、清々しさすら感じる陽射し。思わず目を細める。
「貴様が、洩矢神か?」
 胸元の鏡が、初夏の光を反射した。ひどく眩しい。何を意図して、そんな所に鏡など据えているのだろうか。些か理解に苦しむ。
 彼奴が移動し、反射の光が落ち着いた。細めていた目を開き、その姿を見る。……成る程、見た目はそうとも感じないが、溢れる神力は確かに、軍神であることを理解させる。
 問い掛けの言葉に頷いた。
「如何にも。そちらも、八坂神奈子と見受けるが?」
「応とも。書状に偽りなく、臆病者でもなかったか。国主自らが戦場に出る気概、まことに好ましい」
 洩矢の神具たる鉄の輪を持つ。背後に現れる無数の鉄の輪。言葉は不要の意を感じ取った奴は、さも楽しみであるかのように笑った。
「ふ……純粋に神力で争うというわけか。上等」
 するすると伸びる藤の蔓。一触即発、その張り詰めた風の中で、もう一度空を見上げた。……その空は、どこまでも青く。
 言葉もなしに、私は鉄の輪を射出した。
「ふん!」
 奴が右腕を突出し、藤蔓が鉄の輪を阻むように伸びた。
 私の神力が勝っていれば、鉄の輪は蔓を切り裂くだろう。
 奴の神力が勝っていれば、鉄の輪は脆く朽ち錆びるだろう。
 ――果たして、鉄の輪は朽ち錆びて。
 そこで私は、道化になることを決めた。



 ――御殿の奥まった部屋で、壁に凭れながらぼんやりと座る。元々何にも使われていなかったこの部屋には何もなく、埃っぽい。何も拘束の類いをされていないように見えて、けれども入り口を神力で塞がれているために部屋から出ることもできない。とはいえ手足を縛られているわけでもなく、囚人の身の上としてはひどく気楽だ。
 神奈子は今頃、ミシャグジ様の説得にでも行っているのだろう。今の時点では、無駄であることを祈るしかない。とりあえず、現時点では臣下も皆無事であるようだが、ミシャグジ様が私の統率下から離れるのは困る。
 小さな窓、空は青い。雲はなく、春を別れる眩しい光が、部屋の暗闇を照らし出していた。目を閉じる。この光は少し、眩しすぎるようだ。
 ……ゴト、と、音がした。振り返り、平伏する。
 神奈子が、逆光に影となっていた。
 床の木目に闇を見ながら、恭しく出迎える。
「斯様な所にまで、ようこそいらっしゃいました。神奈子様」
 表情は見えず。しかし見えずとも、不機嫌であるのは雰囲気だけでも理解できた。愉快なようで、けれどそれをおくびにも出さず、表情を作らずに床を見つめ続ける。苦々しさを吐き出すかのように、神奈子は重々しく言った。
「……喜べ。当分の間は貴様の命、長らえさせてやる」
 ……内心、安心した。やはり、ミシャグジ様の説得には失敗した様子。ひとまず、先の憂いはなくなったか。
「寛大なる慈悲の御心、真に恐悦の至り。感謝致します」
 みっともないほどの転換。軋みかける。何も感じないように、凍り付かせて殻に包んだ。神奈子はふん、と、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あの白蛇ども、なかなかどうして貴様に懐いているようだ。殺すにも放逐するにも、あれだけの力は手に余る。生かしてやるのだ、然るべく御せ」
「は、承知してございます」
 額が床につきそうなほど、一層深く頭を垂れる。ギシ、ギシ、と、やがて軋む音がした。光が減り、音が遠ざかり、完全に聞こえなくなり、ようやく頭を上げた。深く、息を吐く。……大丈夫だ。軋んではいない。
 壁に寄りかかり、天井を見上げる。そうしてゆっくり目を閉じて、今は眠ることにした。



 ――目を覚ましたのは、声が聞こえたからだった。
 誰かと思っていると、聞き慣れた臣下のそれで。なぜすぐにわからなかったのかと言えば、それがみっともないほどに震えていたからだった。
「……洩矢、様。……八坂が、御殿の広間に来るようにと……」
 八坂様、とは、言いたくなかったのだろう。
 小さな空を見上げる。今日もまた、綺麗な空だった。
「わかった。……では、行こう」
 部屋の暗闇に慣れていたからか、遮るもの無き陽光が少し眩しかった。小さく目を細めて、ギシリ、ギシリと廊下を歩く。ただ一日で、こうも感じが変わるものか。
 御殿の広間には、ただ神奈子だけがいた。かつては私が座していた席に尊大に腰を下ろし、その後ろには私の腕よりも太いであろうしめ縄がかけられている。思わず漏れそうになった笑みを押し隠す。
「来たか」
 神奈子は立ち上がり、顎で広間の大扉を示す。外に通ずる意図するところを理解し、私は初めて、この大扉を自分で開いた。
 ――ズラリ、と、臣下たちがいた。整然、とは言い難いものの、ある程度の規律を以って並べられた皆。その皆が、私の姿に目を見開いた。……ああ、趣味が悪い。
 臣下たちのざわめきを無視して、高床の御殿から地に降りる。あとから出てきた神奈子を見上げるような位置。高さとは元来、身分や位の差を示す。神奈子は尊大に腕を組み、私を見下していた。私の背後には収まらないざわめき。右手を上げると、嘘かのように収まった。張り詰めた空気。数多の視線を背中に感じる。
 ――その中で、私は神奈子に平伏した。
 ……静寂、そして蘇るざわめき。私はもう関わらない、というより、関われない。このざわめきを打ち消したのは、轟くような神奈子の声だった。
「この諏訪の国、八坂神奈子の奪る所となった! 不服ある者、矛を以って我に打ち掛かるがいい!」
 ……静寂。
 反発の意はあろう。しかし反抗する者はいるまい。かつての頂点たるこの私が、こうして平伏しているのだから。
 やがて、後ろで沈んだ音が蘇る。空気が沈んだ。天にあったものが地の底に沈着していくような、していったような。そんな感覚の中、私は安らかに安堵していた。
 これだけの者、これだけの臣下の前でも、苦も無く演じることができたのだ。これからもきっと、私は道化としていられるだろう――。



 ――侵略。
 そう聞くと不快な響きではあるが、今回のみにおいては、もたらされたのは不快なものばかりではない。技術の中心は中央、つまり西だ。西の神である神奈子の侵略は得てして、西の技術の流入を招くこととなる。必然、諏訪はかつてより大きく発展した。
 さらに言えば私自身も、かつての国主という割には悪い扱いを受けているわけではない。従順にしているからだろうか、多少の行動の不自由こそあれ、それ以上はなかった。私はただ、国を治めることをやめて、ミシャグジ様を宥めながらのんびりとしているだけだ。重いものがすべて神奈子に放り投げられたわけだから、ともすればかつてより気楽な暮らしである。
 ゆえに、臣下たちが密かに直訴してきた今も、暗い部屋の中で和やかに聞いていた。
「洩矢様! 民草は侵略者たる彼奴ではなく、貴女様による統治を望んでいるのですぞ!」
 小さな空から差す光は、少し強い。少々雨の少ない感もある。とはいえ例年の域を出るわけではなく、このままであれば特に問題なく夏も越せるだろう。
「洩矢様!」
 押し殺された訴え。答えねば、いつまでも続くようだ。
「良君は明君に非ず。諏訪はこうも発展した。侵略者とはいえ、神奈子さまは立派な明君であろう」
 侵略してきたと言っても、神奈子は別に殺戮や略取をしているわけではない。むしろ技術をはじめとして様々なものを与えている。侵略された私が色眼鏡で見たとしても、神奈子が暴君暗君の類いとは思えない。今ではもう、この侵略は発展のためにあったのではないかと思っているほどだ。
 しかし、臣下たちは不服のようだった。
「洩矢様……かつてこの国の頂点にあった、その誇りをお忘れになったか!」
「土着神は自然の権化。自然の断りは即ち、弱肉強食。ちょうど、蛙が蛇に呑まれるように」
 自然は決して穏やかではない。常に弱肉強食の世界であるだけに、私はむしろ呑まれなかったことに感謝しなければならないだろう。
 ……しかめた顔で、臣下たちは辞していった。ミシャグジ様に頼み、少し遅らせて勘付かれないように後を追わせる。滅多なことをされては困るからな。
 戸を閉める直前に、誰かの視線を感じたような気がした。誰の視線かなど、おおよその見当はついているのだが。



「――飽いた」
 唐突に。
 部屋に押し入ってきた神奈子は、慌てて平伏する私にそう吐き捨てた。
「……飽いた、と申されますのは?」
「お前のことだ、洩矢」
 吐き捨てるような言葉。それはまさしく、罵声の響きだった。
「いつまで道化を演じるつもりだ? てっきり臣下と共謀して私を討ちに来るものとばかり思っていたのに、先日の臣下すらもすげなく返すからに。これまでは道化の芝居に付き合ってやるのも一興かと流していたが、流石に飽いた。不快ですらある」
 平伏したまま言葉を返す。
「私は、神奈子様の足元に及ぶべくもない愚蒙の輩にございます。どうして貴女様を欺くような真似が出来ましょうか」
「今に至ってもなお、その仮面を剥がさぬか。面の下には、既に誇りなぞないと見える」
「私は土着神、土着神とは自然の権化にございます。自然とは即ち弱肉強食。本来ならば喰らわれて然るべきであった私は、貴女様の寛大なる慈悲に咽びながら従うのみ」
 ……不思議なほどに、軋むことはなかった。
 背中で感じる神奈子の視線が、どこまでも深い侮蔑に変わる。不機嫌そうに響く床板の軋みを、いつもと変わらぬ心持ちで聞いていた。



 ――ひどく、乾燥している。空気に水気は皆無、蒸発するものも欠いたというのに、太陽は些かも活動を緩める気はないようだ。
 旱魃だった。人も草も土も、すべてを焦がす焦熱地獄の顕現。窓から差し込む光は白く、部屋の中にもかかわらず、私は笠を深く被った。途方もなく、熱い。草木もどれほど参っているだろうかと、小さな窓によじ登った。
 窓枠に肘をかけ、乾燥の大地を見やる。罅割れた土、水をなくして渇きに苦しむ稲の青。遥かに見える、水を求める人の陽炎。ぼんやりとした蜃気楼、揺らぐ景色、床に降りると、ふらりと小さくよろめいた。
「……少し、信仰が減ってきているか」
 道理。この大規模な旱魃で、何もしない神を誰が信仰し続ける?
 とはいえ、私は所詮敗残の身。できることなど限られていて、下手なことをすれば神奈子に目をつけられる。今は神奈子に期待したいところではあるが。……いや、無理だろう。旱魃は既に三日を数えている。神奈子にどうにかできるというのならば、既に旱魃は終わっていよう。
「と、いうことは、神奈子にはできなかったか……」
 これは神力の量の問題ではなく、質の問題。軍神、風神の誉れ高い神奈子でも、龍神の真似事はできなかったらしい。
 かつては、諏訪の国に旱魃はそうなかった。ミシャグジ様の神徳は天候をも御す。旱魃の兆候が見受けられれば、その前に雨を降らして防いでいた。しかし今は神奈子の傘下。滅多な行動を起こしてしまえば、今後の私の行動に影響が出る。願うとすれば、神奈子が私に「雨を降らせ」と促すことだが……。
 ――果たしてその後、神奈子は部屋にやってきた。私は平伏し、言葉を待つ。神奈子は長く、無言で佇立していた。
 長く、永く、静寂を熱が灼いた頃に。
 板戸が落ち、戸が閉まり、部屋から光が絶えた。動揺を表現するように頭を跳ね上げ、戸惑う。
「か、神奈子様、一体何を!?」
 震えた声を出すと、ぼんやりと赤い光が灯った。互いに、顔が辛うじて認識できる程度の光。その光は私を照らし、神奈子を照らし、そして怯えた男児を照らした。……だん、じ?
 歯の根が噛み合わず、ガチガチと音が鳴っている。震えを必死に押しとどめようとしているようであったが、押さえきれていない。明らかに、その男児は恐怖していた。
「神奈子様、このだ――」
 問い掛けようとして、その瞳を見て。
 ――神奈子の瞳は、冷えていた。
「――あ」
 紅い。
 灯った赤色を塗り潰す紅。表情を凍らせた男児、表情を凍らせた神奈子。べちゃりと、頬に張り付く生温い感触。頬を伝う。それはひどく、ゆっくりとした流れで。
 神奈子が、男児の首を掻き切ったのだ。
「あ……」
 ばたり、と、冗談のように倒れた。足取りは覚束ない。倒れ込むように、否、事実倒れ込んで、男児の傍に。
 ……何故?
 何故、この男児は死んだ? 殺された? 気まぐれ? 深慮? 遠謀? 何故? どうして? 私は何をしていた? どうしていた? なんで今までこうしていた? 私は何をしたかった? 嫌だったんじゃないの? こういうのが嫌だったんじゃないの? 守りたかったんじゃないの? だからこうして、皆のために、自分を貶めたんじゃないの? どうして? どうして? どうして、この子は死んだの? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして……。
「……あ、ああ……あ…………」
 どうして……どうして……どうして……!
「あああああぁぁぁっ――!!」
 ――ごめんなさい。
 許しを請うみたいに。
 もう、それしかできなかった。



 ――ザアァ、と、音がした。部屋の外は薄暗く、霞み、遠くの山を見ることもできない。
 歓喜と慟哭が聞こえた。膝を抱えて、耳を塞ぐ。ひたすらに、ただ独りに、闇の中に閉じ籠もる。
 一人の男児で、旱魃が終わったのだ。犠牲は実益を大きく下回る。犠牲を払う側からすれば、願ってもない話だろう。けれど――。
「…………」
 けれど、違う。私は、何をしたかった? どうして、矜持も誇りも捨てて、神奈子に従順に従っていた? こういうのが、嫌だったからだ。こういうふうに、我が民草が死んでいくのが、嫌だったからだ。なのに……なのに、こうして従っているうちに、演技していることを、道化て振る舞っていることを、神奈子に見破られないことを重んじていた。なんて……なんて、堕落。
 雨音さえも打ち消す歓声。それを拒絶しながら、膝を抱えて眠った。
 願わくは、夢も見ないほどに深く、深く――。



 ――湿った大地を歩く。何故だか、へらへら笑っていた。人目につかないように陰を歩きながら、人々の姿を見る。
 へらへらと、へらへらと、腑抜けたように、笑いながら。
 雨に濡れた土を触る老翁は、嬉しそうだった。
 静かに麻を摘む老婆は、穏やかに笑っていた。
 鉄を打つ青年は、活き活きと励んでいた。
 布を織る女性は、儚い喜びに悲しみを湛えていた。
 ……笑っていた。
 機織り女の傍には、男児と女児がいた。
「ねえかかさまー、お兄はー?」
「にいに、今日も遊んでくれないのー?」
 無邪気で無垢な、幼子の問い。母親らしき女は悲しげに、それを隠すように微笑んだ。
「にいはね、雨になったのよ。そうして、皆を助けてくれたの」
 ……とんだ、血の雨だ。
「お兄、もう会えないの?」
「……ほら二人とも。私は機織りしてて構えないよ。外に行って遊んでらっしゃい、日暮れまでには帰るんだよ」
 誤魔化すようにそう言って、女は子供を外に追い出した。二人は顔を見合わせて、にこっと笑って走り出す。雨に濡れた、木立のほうへ。ちょうど、私がいるほうへ。
 元気のいい二人が目の前を通り過ぎようとした時に。
「……おーい」
 笠を脱いで、何の気なしに声をかけた。驚いたようにこっちを見る子供たち。安心させるように微笑んで。
「お二人さん……私と一緒に、遊ばない?」
 笑って頷いてくれたのに、あんまり感じるものはなく。
 ただへらへらと、へらへらと、腑抜けたみたいに笑っていた。



 ――御殿の屋根の上で、雲に隠れた月明かりを眺める。
 結局、子どもたちとは日暮れまで遊んで、どちらともない「またね」で別れた。無邪気で、痛い。……忘れるまでは、行ってあげようかな。
 月、星明りだけが灯る夜。彼方に見える、空を突いた黒い山々。
 ……こうして、何がしたいんだろう、私は。降り注ぐ光は、何かを祝福するかのようで。あんまり痛くて、目を伏せた。でも、そうしたらそうしたで紅い情景が蘇ってきて、じゃあどうすりゃいいのかと目を開ける。
 月と星は、雲に隠されていた。……ああ、こりゃ嬉しい。そうだよね。道化に、明るい世界なんて似合わない。笑ってない道化に、光なんてない。
 それじゃあ、もっと深い闇に還ろう。そこでいっぱい、練習しないと。
 暗きを隠して笑むことを。
 暗きを抱いた子を笑わせることを。
 おどけたようにピョン、と跳ねて、私は御殿の部屋に戻った。



 ――どうも私は、子どもたちの間で有名になっているようだった。
 何度かあの子たちの所に行っているうちにだんだんと人数が増えてきて、いつしか集落の子のほとんどが集まっていて。さて困ったなーとは思いつつも、だからといって無下になんかできないわけで、私は固めた泥団子でお手玉したり、かくれんぼや鬼ごっこをしたりして一緒に遊んでいた。
 子供は無垢ゆえに、感情の機微に敏感だ。そんな子どもたちと長らく接してはいるけれど、特に不審がられてはいないようなので一安心。ひとまず、そこそこに演技はできているみたいだ。
 季節は既に秋。山並みは赤らみ、実りは黄金の穂をつけて。旱魃はあったけれども、今年の実りも悪くない。このぶんであれば、冬を越すにも問題はあるまい。嫌な記憶を植え付けてくれたとはいえ、強硬策に出た神奈子にも、少しは感謝しないとかな。
 秋の夜長、日暮れは早い。夏よりも早く子どもたちと別れて、人目につかないように御殿に戻る。遊んでる「お姉ちゃん」がここの神様なんて、知らないほうがいいものね。
 足取りを軽く弾ませながら部屋に戻る。――と、
「ご機嫌だな。何か、良いことでもあったか?」
 部屋の前に、神奈子がいた。壁に寄りかかり、尊大に腕を組みながら。
 慌てて平伏しようとすると、神奈子は面倒臭そうにそれを止めた。
「平伏などしてくれるなよ? そのような用件ではないからな」
「……それでは、どのようなご用件で?」
 ……ふ、と、小さく笑って。神奈子はゆったりと空を見上げた。
「……今宵はいい月だ。一つ、酌に付き合え。諏訪子」
 遥かな過去に消えた名で、神奈子は私を呼んだ。



 ――確かに、今日はいい月だ。皓皓とした満月が夜空にぽっかりと浮かび、地上では薄がさわざわと揺れている。さきに御殿の屋根に上がっていた神奈子は、月を仰ぎ見るようにして胡坐をかいていた。促され、その横に腰を下ろす。
「畏まるな、足を崩すといい」
 杯を渡してくる。それを受け取って、少しだけ足を崩した。盃に酒が注がれる。ふわ、と、仄かな香りが漂った。
 神奈子が杯を呷る。そのあとに私も酒を飲んだ。粗削りな味わい、生の活力を感じさせるような、そんな味だった。それを飲み干し、杯を下ろした頃、神奈子がぽつりと、呟くように言った。
「……すまなかった」
 ……一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
 そして、それが謝罪の言葉だと理解してなお、何を言いたいのか理解できなかった。
 何の言葉も発せないでいると、神奈子がぽつぽつと言葉を続ける。
「お前の演技する理由を少し、考えていた」
「私は、演技など……」
「否定するならそれでもいい。私の想像を語るだけだ。まあ、酒肴にと思って聞くといい」
 空の杯に酒を注ぎながら、神奈子の話は続く。私は逃げるわけにもいかず、仕方ないかと杯を呷った。
「……旱魃の時、私が男児を殺した時、その理由が知れた気がする」
 …………。
「諏訪子。……お前は、この地、民草を守りたかったのだろう?」
 言葉は、なかった。
 ただ、新たに注がれた酒を、変わらぬ身体で飲み干した。
「最初は、私を欺き、殺すためと思っていた。が、にしては動きがない。どころか、動きを自ら沈静しようとすらしていた。完全に捨てはしないものの、この方向の考えはだいぶ前に切っていた。そして、旱魃が終わってよりの、お前の行動を見ていた」
「……見ておられたのですか」
「あの家、旱魃の生贄として捧げられた男児の生家だろう? 喪失の悲しみを癒す、いや、忘却させるために共に遊んでいる。優しいじゃないか」
 答えずに、ただ盃を差し出した。
「……いただけますでしょうか?」
 なみなみと注がれる透明な酒。その水面に、白い月が揺らいでいる。
「土着神は地の象徴。その土着神が死んだのならば、それが司る地は枯れる。私はお前との戦の前に一柱を殺した。その地はきっと、枯れたのだろう。これ以上の荒廃を避けるため、お前は自ら戦場に出た。勝てば僥倖、負けれども大きな害はなし。お前はミシャグジ神を束ねるという都合上、『諏訪』という大枠と結び付いているのみだと聞いたぞ? 『諏訪』に内包される地の土着神たちが生きていれば、たとえお前が死んでも壊滅的に枯れはしない。よく考えていることだ」
 私が話すことなど、何もない。ただぼんやりと、皓皓の月を見上げ、酒を飲む。じわりと腹に広がる温かさが心地いい。
「……侵略し、目の前で男児を殺した私が言うのもおかしな話ではあるが……私は別に、殺戮を行なうつもりはない。地を枯らし、国を荒廃させるつもりもない。だから……国を守るための演技は、ここで仕舞いにしろ」
 ……あーあ。なんか、酒肴が断定になっちゃったけど。
 杯を置いて、屋根に寝転がる。白い満月は、神奈子の胸の鏡みたいだった。……うん、手を伸ばしたら、遠くなっちゃいそうなくらい、綺麗だ。
「わかったよ、神奈子。演技するのはこれでおしまい。私も別に、覇権を取り戻そうとか、そんなことは考えてない。神奈子が今までみたいに、ちゃんと国を治めてくれるなら、私は何も言わないよ」
 神奈子は笑って、久方ぶりに酒を呷った。まるで、背負ったものを肩から下ろせて、安心してるみたいな表情。
 ……でもまあ、演技をやめさせたいって言うなら、少し遅かったかもしれないけどね。

   ◆   ◆   ◆

 あー……身体が重いなあ。
 無機質に角ばった世界。灰色の空を通う飛行機、唸るエンジン音と一緒に走る鉄の塊。いやはやもうなんというか……世も末、だねえ。カチカチになった地面、雑多整然をごちゃまぜにした街並み。うーん……親しめないかなあ。
 ちりちりと音がしそうな陽射し。何日かこのくらいの陽射しが続いて、しばらく雨はないけど、いつぞやみたいな旱魃の気配はない。それはそれでいいことだけど、代わりに地面がいつぞや以上に灼熱してて、あんまり出歩く気はしない。砂浜だったらまだしも、ねえ。
 ぱしゃん、と、水を打つ音がした。石畳に水を撒く巫女の姿。この暑さなのに、早苗は相変わらず献身的で、勤めを忠実にこなしていた。神として、先祖として、嬉しくないなんてことはこれっぽっちもないんだけど……考えすぎか。毎日のお勤めなんて、変哲もない企業戦士もやってるんだし。
 キシ、と床板が音を立てた。振り返って、笑いかける。
「や、神奈子」
 私の後ろに立って、早苗の様子を見ていた神奈子が、なんだか呆けた調子で返してきた。
「ん? ああ」
「どうかした? 心ここにあらず、っていうか、ちょっと呆けた感じだったけど」
「いや、別に何も」
 ……神奈子って、昔から嘘つくのが下手だよねえ。
 笑いながら、打ち水をする早苗を見る。……折角暑いんだもんね、よーし。
「えやっ! さっなえーっ!」
「えっ!? あ、諏訪子様!?」
「打ち水ついでに水浴びしようよ! こんなにあっついんだしさ!」
 勿論、冗談。慌てふためく早苗の反応を楽しむみたいに、周りでピョンピョンはしゃぎ回る。
 ……痛々しそうな神奈子の視線。別に、怪我なんかしませんよ? ケロッ。



「……ありゃ」
 ふと感じた、他人事めいた喪失感。というか、まさしく他人事。……って言っちゃうにはちょっとあれかな。
「どうかしたか?」
 耳聡く聞いてたらしい神奈子が聞いてくる。早苗は夕ご飯作ってるし、まあ今言うのは問題ないかな。んー、と少し空を見上げて、
「うん。なんか、消えちゃったみたい。手長足長さま」
 って、なんでもない口調で言った。ゆったりと構えてた神奈子の身体が、凍ったみたいにピシッとなる。
「……諏訪子、お前……」
 ……ふふっ。
「言ってくれればいいのにねえ、水臭いなあ」
 また、神奈子が痛々しそうな顔。なんでそんな顔してるんだろうねえ、よくわかんない。
「お二人とも、夕食できましたよー!」
「ほーい!」
 さてさて、今日の夕ご飯はなにかなー? 匂い的にはカレーだよね、その他に……ん?
「神奈子ー? 聞こえてた?」
「ん、……ああ、今行く」
 ? どうしたのかねえ。
 しっかしまあ、あの二人? まで消えちゃう時代なんだねえ。まったく、世も末だよ。ケロッ。



「ごちそうさまーっ! 美味しかったよー、早苗」
「お粗末様です。諏訪子様ったら気持ちいいくらいの食べっぷりで、作る私としても楽しいです」
 具沢山の夏野菜カレー。レトルトのルーとかは使ってないとかなんとか。いやあ、早苗はほんとに料理が上手くなったよねえ。さすがは私の子孫。
 ……ん、と。
「ふ、あ、ふぁ……」
「諏訪子様、はしゃぎすぎました?」
 欠伸すると、食器を下げながら早苗が聞いてきた。
「んー、そうかも」
「まあ、諏訪子様は子供っぽいですからね」
 あら、言うようになっちゃってこの子は。
「それじゃ、はしゃぎすぎた子供は早めに寝るねー」
「食べてからすぐ寝ると、牛になっちゃいますよ?」
「なったら可愛がってあげてね?」
 蛙が牛ってことは、ウシガエルだね。
「それじゃ、おやすみー」
「はい、おやすみなさい」
 もう一度欠伸して、笑って軽く手を振りながら自分の部屋へ。……そういや、遥かな昔は薄暗い小部屋で寝起きしてたんだっけ。……ちょっと、懐かしいかもなあ。別に戻りたいとか、そんな風には考えないけど。
「ん、ふう……」
 部屋の前、障子戸に手をついて息を吐く。あー……ちょっとだけだるいかも。まあ、とりあえず布団引こう。それからバッタリそこに倒れ込んで……布団じゃちょっと無茶だったか。痛い。
 そんな痛みすら虚ろと化すような、落下にも浮遊にも似た、夢のような虚脱感。意識は微睡に沈むことなく、その遥か果ての空白に呑まれゆく。
「……まったく、世も末だねえ……」
 口元に笑みを浮かべて、夜より深く、闇の中へ。さあ、眠ろう……。
「布団をかけないと、風邪ひくぞ」
 ……不意に、神奈子の声。部屋に入り込むシルエット。そういや、戸を閉めるのを忘れてたっけ。
「……夏なのに?」
「夏風邪は、莫迦しかひかないんだ」
「ありゃ、困った。それじゃ、私はひいちゃうんだね。気を付けないと」
 もそもそと布団に潜る。神奈子は、まだ立ってるみたいだ。何か、用でもあるのかな? 早くしないと、私は寝ちゃうよ? 目を閉じてぼんやり考えてると、ようやく神奈子が口を開いた。
「諏訪子、一つ聞く」
「んー?」
「この地の土着神、あと何柱残っている?」
 ……んー。
「私の他に、あと二柱ってとこ。でも危ないね、一週間が限度じゃない?」
「……そうか」
 話は、それで終わりみたいだった。
「……お休み、諏訪子」
「うん、お休み。あ、戸は閉めてってね」
「わかってるさ」
 ス、と、戸が閉まる音。ギシ、と、板の軋む音。キリ、と何かが痛む音。
 ……さ、寝よう。そろそろ、大変だ。



 ――消えた、か。
 目を開く。薄ぼんやりとした、頼りない天井。重い身体。他人事の喪失感。
 一週間、なんて悠長な長さではなく、たったの一晩で二柱が消えてしまった。これで、諏訪土着の神は、もう私だけ。……結局、誰も、何も言わないで消えていったな。
 ひどい脱力感。起き上がるのも億劫で、首だけを回して外を見た。空に浮かぶ十三夜。確か、昨日の月は上弦だったか。綺麗な月だったから、印象に残っている。まるで、手を伸ばすと、どんどん遠くなるような。
 ……少し、眠りすぎたのだろうか。信仰の力の欠乏が進んできている。これでは遠からず、私も消滅してしまうだろう。そして、恐らくは神奈子も。
「ん……」
 小さな吐息。首を逆に廻らす。その動きすら、ひどくスローだ。
 横で、早苗が眠っていた。寝巻ではなく、いつもの巫女服で。その傍らには洗面器や、盆や、器が置いてある。夏風邪でも引いたのだろうか。早苗は賢いから、そんなことはないと思うのだけれど。
 ギシ、と、音がした。
「……諏訪子、起きているか?」
 案の定、神奈子だった。
「……ああ」
「話がある。入らせてもらうぞ」
 許可もなく、神奈子は静かに入ってきた。
「……話の前に、早苗を床に運んでやれ」
「…………」
 神奈子が早苗を抱き上げる。また一つ、吐息の声がして、早苗は目を覚まさない。随分としっかり寝入っているようだった。
 一人になって、再び天井を見上げる。頼りなげだった天井が、ようやく板目を見せてきた。
 全身が重い。腕を上げようかとも思ったが、実行には移せなかった。自分の身体も満足に扱えないほど、今の私は非力らしい。笑えるような話だったが、唇の端が歪むこともなかった。
 やがて、神奈子が部屋に戻ってきた。障子戸が閉じられ、私の横に胡坐をかく。そうしてじっと見つめてくる目を、逸らす気力もつもりもないまま、茫とした目で見返した。神奈子はひどく、神妙な顔をしている。
 重々しく、口が開かれた。
「諏訪子……幻想郷に移る気はないか?」
 ……何のことはない。ただ、引っ越ししないかという話だった。
「……なぜ?」
「理解しているだろう?」
 何も言わないでいると、神奈子は勝手に説明を始めた。
「この世界、科学の発展に即して我々への侵攻は減少……いや、皆無と言っていいほどになっている。土着神たちが次々と消えていること、そして自分への信仰がほぼないことからも、それは分かるだろう?」
「……そうだな」
「現にお前は五日間、眠り続けて目を覚まさなかった」
 ……ああ。道理で、上弦の次が十三夜なわけだ。それに、早苗が隣にいたのも、それが理由だろう。そして、私が目覚めたのも、それが理由だろう。
 歪んでいると、思うべきではないのだろうが。
 ぼんやりと耽っていると、神奈子はさらに言葉を続けた。
「幻想郷。そこはこの世で忘れ去られたものが行き着く最後の楽園だという。ただのうのうと消え果てるより、私は残された糸を掴みたい」
 うっすらと、神奈子の鏡に私が映る。
「……諏訪子。お前は、どうだ?」
 ――どこまでも、無表情だった。
「……どうでも」
「…………」
「どうでも、いいよ」
 空に消えていくように。私の声は、どこまでも虚ろだった。
「……どうでもいい、だと?」
 神奈子の声が震えている。ああ、何を怒っているのだろう。琴線に触れることを言っただろうか。理解ができない。
「――どうでもいいだと!?」
 不意に。
 私は胸倉を掴まれ、燃えるような瞳に刺されていた。
「どうでもいいだと!? お前の生だろう? お前の命だろう? それが、それがどうでもいいだと!? いつからお前はそこまで無為になった!」
 ガクガクと揺さぶられるまま。首は締まるし、頭もグラグラと揺れている。けれど、欠片の苦しみもない。ああ、これが無為ということか。いつからなんて、問われても困る。強いて言うなら――
「無為へと消えた同胞はどうする? お前の子孫の、早苗はどうする? それすらも……それさえもどうでもいいというのか!? 諏訪子!」
 ――ああ、そうか。そうなのか。
 うん、わかったよ、神奈子。
「……ふっ、ふふっ……」
「……諏訪子?」
 私が、いけなかったんだよね。
「ふふっ……あははっ」
「すわ……こ……?」
「ごめんね神奈子。そうだよね、そうだったよね」
 嬉しい? 全然。
 愉快? 全然!
 これっぽっちも嬉しくないし、これっぽっちも愉快じゃない。なのになんでかなあ、明るい笑いが止まんないよ?
「うん、神奈子は幻想郷に賭けるんだもんね。私も乗るよ、その賭けに。早苗のために、神奈子のために、皆のために」
「あ……あ……」
 掴まれてた手が離れる。ボテッと布団に落ちて、起き上がるにはちょっと大変だな。でも、笑いは全然止まんない。
「あはっ、ふふ、ふっ、うふっ、あははっ」
「あ……ちが、私、は……」
 ふら、って神奈子が揺らいで、どうしてかなあ、逃げるみたいに部屋を出てった。
「あははっ、はは、くふふっ、くふっ、ふふふ……」
 笑う、笑う。止まらない。
「きゃは、はははっ、あはっ、はははっ、はははははっ」
 笑え、笑え、仮面を被っておどけて笑え。お前はそういう奴だろう?
「あははははっ! あははっ、はははははっ! あはっ!」
 道化は笑え、いつでも笑え、死んでも笑え――。

   ◆   ◆   ◆

 ――兎追いしかの山、小ブナ釣りしかの川。
 ……いやはや、もう二度とは見れない幻想だと思ってたけどねえ。
 彼方に聳える頂き、秋風に波立つ紅や黄色、穏やかで優しい空気。失われた日本の原風景。
 忘却の箱庭――幻想郷。
「はっはー。想像以上だねえ、神奈子」
 まさか、ここまで郷愁に近い何かを感じることになるなんてねえ、思ってもみなかったや。これはすごい、いい気分だね。
 ……それなのに神奈子ったら、いつぞやからずっと辛気臭い顔でまあ。
「……ここは、外で忘れられたものの終着点だからな。案外、消えた土着神たちもいるかもしれないぞ?」
「お、そりゃ嬉しいね。幻想郷の楽しみがまた増えたや」
 ギリ、と、奥歯の軋む音が聞こえた。
「……諏訪子、お前は……」
「ん?」
 ……ぽくぽくぽくぽくぽくぽく、ちーん。
「……いや、いい」
 神奈子は一方的に話を切って、御殿の奥のほうに消えてった。……うーん、相変わらず、神奈子は何がしたいのかなあ。
 ま、いいや。今はこの、なんかちょっと怖いくらいの清々しさを満喫するとしましょう。慣れちゃったらもう味わえないものね。



 ……ん、今日の夕ご飯は鍋かな。まだ秋だし、時期っていうには早い気もするけど。
「早苗―、今日は何鍋?」
「諏訪子様、相変わらず鼻が利きますね。いつもの感じの味噌鍋ですよ、つみれとかお魚とかを入れた」
「おおう、いいねいいね!」
「ガスも電気も止まっちゃって、普通に料理は流石に無理でした。ので、仕方なくですけど、カセットコンロでできてたくさん具材を使える鍋にしちゃいました」
 およよ、そうかそうか。外の世界のライフラインとはもう縁切ったんだもんね。
「それじゃ、この間の野沢菜と沢庵も出そうよ。今じゃ冷蔵庫もただの箱だし」
「あ、そうでした! それじゃあ、ちょっと危なそうなのはみんな出しちゃいますね」
「それがいいよ。じゃ、その間に神奈子呼んでくるねー」
 はてさて、神奈子はどこにいらっしゃいましょうかねえ。
 神奈子の部屋。
「ふうん、いない」
 トイレ。
「いないねえ」
 神奈子お気に入りの縁側。
「いない」
 御柱。
「いないなあ」
 御殿の広間。
「いない。……けど」
 近い、かな。
 果たして、神奈子は御殿の奥に。あれまってかよく見たら、いつぞやの私の部屋じゃないの。
「こんなとこで、何してるの?」
 神奈子は暗い部屋の隅で、片膝を立てて座ってた。視線は小さな窓の外の。星の海へと向いてる。その佇まいだけなら、いつもの神奈子と変わんないんだけどさあ。……なんでだろうね。気のせいかなあ、神奈子の瞳が潤んで見えるよ?
「……どうかした?」
 見間違いじゃあ、なかったね。
 つう、と、神奈子の頬を雫が伝った。
「……なんで、泣いてるの?」
 きっと、お前には関係ないとか、なんでもないとかでヘタクソに誤魔化されるんだろうなあって、そんな風に思ってたら、
「……なんで、お前は泣かないんだ」
 なんて、よくわからない質問で返されてちょっと戸惑う。予想外。
「なんでって、別に泣く理由ないじゃない? え? もしかして、幻想郷に来たら感動でボロ泣きするだろうなって思ってたりした?」
「違う」
 濡れた瞳が、私を見つめて。
「地を分けた同胞の消滅、守りたいと願った民草からの忘却。……何故、お前はそれに涙しない。涙しなかった」
 うっすらと、神奈子の鏡に私が映る。
「何故……お前は、そうして笑うことをやめない……!」
 ――どこまでも、笑っていた。
 少しの、沈黙。
「……何故、って」
「…………」
 鏡の笑顔が、一層深まる。
「私が、私だからだよ?」
 決定的な何か、だったのかな。
 この上ないものを見せつけられたみたいに、神奈子は静かに、糸が切れたように俯いた。
 …………。
「夕ご飯、できたってさ。今日は味噌鍋だよー、他にも漬物とかいっぱい並んだりね。早く行こ? カセットコンロ使ってるけど、ガスが切れたら冷めちゃうからさ」
 私が急かすと、神奈子は明らかにご飯に行くのと違う雰囲気で、柳の下みたいにゆらりと立った。
「……私は、いい。残しておくこともない。二人で存分に食べてくれ」
「? なんで? 風邪でもひいた?」
「……すまない。早苗にも、謝っておいてくれ」
 今にも転びそうな足取りだけど、目に見えるくらい明らかなついてくるなオーラが出てるので、追いかけるのはやめにした。
 空を見上げる。……いつかみたいな、見事な満月。今回はお酒、飲まないのかな? ぼんやりそんなことを考えてたけど、とりあえず夕ご飯食べよーっと。
「わあお、盛大に並べたねえ」
「はい。見てみたらなんかいっぱいあったので。また食べ物の保管とか調達とか、考えないと駄目ですね」
「ま、餅は餅屋ってことで。それは先人に聞くのが一番でしょ。あ、神奈子は夕ご飯いらないってさ」
「あら、そうなんですか? 体調が悪い、とか……」
「そんな感じでもなさそうだったけどねえ。ま、なんなら後で夜食でも持ってってあげなー」
「そうします。……っと、そろそろですかね」
「おっほう、いい匂い! いっただきまーす!」

   ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

 ――前が、見えない。
 虚ろな感覚で境内を歩く。視界はほぼ皆無。壁に手を付き、空を手繰るようにして、どこへとも言えずにただ歩いた。向かう所、目的地は、ない。ただ今は、今だけは、少しでも諏訪子から離れていたい。
 ……やがて、探っていた手が違う感触に触れる。平らな板の感触、手にかかる出っ張り。目元を拭い、視界が戻って――
「……は、はは……そうか、そうだな……」
 彷徨の末に到ったのは……いや、戻ったのは、御殿の奥の小さな部屋。私がかつて、諏訪子を閉じ込めていた、その部屋。何もない、ただただ空虚な、部屋の中。
 月光は冴えている。それは、残酷さを感じるくらいに明るく、床板に染みついた、二度とは落ちない血の黒すらも、その血の香すらも蘇るかのように、鮮やかに照らし出していた。
 思えば、ここに到るのは当然のことだった。何故なら――
「……懺悔はここでしか、できないものな」
 膝が折れる。倒れ込むように部屋の中に入って、戸を閉めた。闇の中、月光のみが差し込むその中で、視界が再び屈曲し、消失する。……莫迦らしい。どうして、私が泣いている? 泣くのは私じゃない。私が泣く時じゃない。私は何度も、今まで何度も涙を流してきただろう? 喜びに、悲しみに、苦しみに、私は幾度も涙した。
 けれど、諏訪子は。
「すまない……」
 諏訪子は、一度も泣いていない――。
 私が涙を流す時、諏訪子はいつも横にいた。
 喜びに涙した時は、隣でいつも笑っていた。
 悲しみに涙した時も、隣でいつも笑っていた。
 苦しみに涙した時も、隣でいつも笑っていた。
 笑っていた、笑っていた、笑っていた。ずっと、いつでも、その身に悲哀が迫ろうとも、その身に苦痛が降りかかろうとも、いつも、いつでも、諏訪子はずっと、笑っていた。
 ああ――そうだ。
 私は、諏訪子の涙どころか、笑顔以外の表情を、あの時以来、見ていない。
 演技をやめろと言ったあの日以来、諏訪子はいつでも笑っていた。道化の被った仮面のように、笑む皮を顔に貼り付けたように、諏訪子の顔は笑んでいた。そう、まだ外の世界にいて、神が人間に排斥された時も、同胞が次々に消えていった時にすらも、諏訪子の面は笑んでいて。
 ……いや。唯一、あの時だけ。
 幻想郷に移ることを提案した、あの時だけは、諏訪子は無表情だった。笑みを繕うことなく、空虚だった。……後悔するしかない。あの、空虚で無為なあの表情が、諏訪子の本当の顔だったはずなのに。あの時以来、初めて見せた素顔だったのに……。
 私は一時の激昂で、諏訪子に無理やり仮面を被せた。これ以降もずっと演技し続けろ、道化であり続けろと、強要した。
 諏訪子はきっと、苦になど感じていないだろう。変わらず笑顔を顔に貼り付け、道化の面をすっぽり被って、おどけてそして、はしゃいで笑うのだ。そうすることを強要したのは、私だ。それなのに……。
「……すまない、諏訪子」
 なのに、私は――。
「私は……お前が、理解できない……」
 これから先、諏訪子を理解してやれるとしたら、それは唯一、私しかいない。だというのに……私にも、諏訪子が理解できない。できる自信がない。私だけが理解してやれるのに、私が理解してやらなければいけないのに、その私が、こうでは。
 なんて……孤独だろう。
 隣にいても、その間は決定的に断絶していて、手を伸ばしても、掴める手は白い。道化の手袋に覆われた、薄ら寒いほど白い手だ。諏訪子のそれには、届かない。
 そんな深い、深い孤独の中でも、諏訪子はきっと笑い続けるだろう。守ろうとした土着の神々、民草からも理解されず、見放されて、幾星霜の孤独の闇に包まれながら、それでも笑い続けていた諏訪子はきっと、ずっと、笑っているだろう。そしてそれを、私は見ることしかできない。苦しくとも、目を逸らすことはできない。……いや、してはいけない。
 諏訪子の笑顔が演技だと知っているのは、私だけだ。私がそれを強要したのだから。何よりまず演技を始めたのも、笑い続けるようになったのも、すべては私が原因だから。だから、目を逸らしてはいけない。それだけが、私にできる贖いだから。
 月が、綺麗だった。いつかのような、見事な満月。手を伸ばせば遠くなりそうな、その月明かりは、透けるような白い光で、なぜだかひどく、涙が出た。





 
金之助です。
ちょっと長めの話を書くと言って、投稿まで約一か月。だいぶ筆が遅いものだと自分でも驚いてます。そのちょっと長めも、他の方々にとっては短めになるのかもしれませんが。

今回は諏訪子と神奈子の過去にも絡んだ話になります。
個人的な諏訪子像はここの中に表現したものがほとんどになりますね。もっとも、即売会で頒布した作品の諏訪子像もまた、自分の中のイメージではあるのですが。諏訪子が泣いたりするイメージがどうしても浮かばなかったもので、ならいっそずっと笑わせてやろうと。そう考えてのお話です。

全体的に暗い雰囲気で進んでいき、神奈子が全面的に悲しくなる感じになりました。守谷神社で不幸な立ち回りをするのは神奈子というイメージがあるので、そのうち早苗と絡めた話も書いていきたいなあ、と思っています。


感想批評、大歓迎です。厳しいものもぜひ、忌憚なくお寄せください。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
過去作、そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします。
金之助
http://david490alf.blog97.fc2.com/
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コメント



0.920簡易評価
1.80名前が無い程度の能力削除
こういった諏訪子のキャラは大好き、なのですが最後がちょっと物足りないかな
2.80奇声を発する程度の能力削除
やや暗めの雰囲気が良かったです
4.80名前が無い程度の能力削除
今の諏訪子いかにして生まれたのかその過程は割と納得できて面白かったが、
冒頭から過去に飛んだ時間がそのまま過去で終わってるんでちょっと投げっぱなしな感じがしたのが残念。
7.100名前が正体不明である程度の能力削除
あ~う~。
11.80名無し削除
面白かったけど最後がぶつ切り感があった。前後編かと思った。またこの諏訪子がみたいです
14.100名前が無い程度の能力削除
いいねえ。この虚無感が諏訪子のイメージにぴったりです。
16.50漢検四級程度の能力削除
少し読みづらいです。
いつもより文章に無駄を感じました。
この話は何の話なのか、ということを
もっと軸に置いたらいかがかと。
イメージされてる世界観はとても面白いので。
17.60名前が無い程度の能力削除
この諏訪子、面白いですね