猫が死んでいた。
日当たりの良い、いつもの場所で眠る様に丸まって死んでいた。
何時の間にやら紅魔館の庭に現れるようになって数カ月。
たまたま見つけた咲夜に懐いて、見かけるたびに擦り寄ってきていた。
咲夜の手から餌を貰い、それからずっと日向ぼっこをしていた。
そして今日も日課になった餌やりに咲夜が訪れた時には猫は動かなくなっていた。
近寄ってその体に触れるとまだ暖かい。
それは体温が残っているのか、あるいは日の光のせいなのか。
もしかしたら本当は眠っているだけなのかもしれない、と淡い期待を抱かせるほどには暖かい。
だけど沢山の死を見て来た咲夜には、見かけた時に猫が死んでいる事が分かってしまっていた。
いうなれば経験、感、あるいは猫の様子。死とは徐々に冷たくなるもので、その手前にあるのだと理解した。
外傷はない、病気の様子も無かった。
死因は結局のところ老衰。
どうにかして紅魔館に入り込んだこの年老いた猫は、悪魔に食われる事無く天寿を全うしたのだ。
「餌が無駄になってしまったわね」
咲夜はそう小さく呟いて、それからただの物体になってしまった猫を拾い上げた。
そうして溜息一つ、紅魔館へと戻って行く。
空は青い。
雲一つ無い、風一つ吹いていない穏やかな日だ。
「咲夜さん」
とそう呼ばれて、空の洗濯籠を抱えていた咲夜が振り返ると温和な笑顔があった。
腰まで届く艶やかな紅い髪。緑を基調とした大陸風の服装。
門番長である美鈴が、木陰で座り込んでいた。
業務は午後から、この時間は彼女にとって自由時間に値する。
「少し休憩しませんか?」
そんな事を言いだす。
咲夜自身はちゃんと計画通りに動き休憩も取っているので本来は必要はない。
「そうね……」
のだが、裏腹に唇はそう紡いでいた。
気まぐれである。
時を止める事の出来る咲夜にとって、少しくらいの時間のロスは十分に取り戻せる。
というか咲夜は美鈴の誘いはほとんど断ることはない。
なぜなら、かつて美鈴は咲夜にとって教育係であったからだ。
咲夜が紅魔館に召し抱えられた幼い時分より、時には厳しく、時には優しく。
目一杯の愛情を込めて接して育て上げたのであった。
それは、それまでどうしようも無いほどの孤独と猜疑の中で過ごして来て、頑なに心を閉ざした咲夜を変えてしまうほどに。
憎悪と悲哀で埋まっていた咲夜の心の扉をこじ開けて、空っぽの中身にありったけの愛を詰め込んでしまったのだ。
「それも悪くないわね」
だからこそ、彼女は美鈴の頼みを断らない。
態度こそそっけないが、咲夜は美鈴の事が好きだからだ。
親であり、仲間であり、友である。
そして咲夜自身は気が付いていないがそれ以上の想いも生まれている。
だから、彼女は無意識でこう判断したのだ。
美鈴の願いを叶えてあげたいと。
「どうぞ」
「ありがとう」
美鈴が何処からか取り出したハンカチを地面に敷いて、咲夜がそこに腰掛ける。
「では此方からも」
咲夜の手から洗濯籠が消えて代わりにティーセットが現れる。
彼女は慣れた手つきで二人分の紅茶を注ぐ。
甘いミルクティー。
昔から美鈴はこれが好きで、咲夜も好きになった。
「どうぞ」
「ありがとう」
笑顔でカップを受け取った美鈴はそのまま一口。
それを見てから咲夜もカップに口を付けた。
咲夜の視線の先には冬の花。
赤、青、紫、黄色。
満開とは言えないがそれぞれ咲き誇っていた。
美鈴の世話をする花壇は調和がとれていて、紅い館に良く合っていてとても……。
「綺麗ね」
そう咲夜は呟いた。
それと同時に咲夜は思う。
それは紅魔館の庭を一望できるこの場所の事。
今日初めて知った場所だ。
木陰の先では柔らかな光が降り注いでいて、酷く静かで、どこか幻想的で。
まるでこの世で無いみたいで、だからあの猫が何時もの様に現れる様な気がして。
「何かありましたか?」
不意に、美鈴がそんな事を言った。
咲夜はしばし無言。それから小さく、呆れたように溜息。
「美鈴は何でもお見通しなのね」
おそらく、咲夜に声をかけた理由はこれなのだろう。
美鈴は鋭い。それは長く生きて来た経験か、あるいは咲夜に対する親心か。
ここで言葉を濁しても構わない。
美鈴はそうですかと笑って、それでおしまいだろう。
彼女はしつこくはしない。
ただ、何か感じた時に大丈夫かと声をかけてくれるだけ。
一人で大丈夫かと、助けはいるのかと。
誰よりもそれを察知して彼女は声をかけてくれるだけなのだ。
「猫がね、死んだの」
美鈴の質問に咲夜は素直に応じた。
「ここ最近、紅魔館に来るようになった猫でね」
「はい、知っていますよ。随分とおばあちゃんでしたね」
「美鈴も知っていたのね」
「はい、まあ、お客さんでしたから」
何処から入り込んでいるのかと思ったら堂々と正門から入りこんでいたようだ。
一つ謎が解けたが別にどうでも良い事である。
「そう、その猫がね。いつもの場所で死んでいたの」
眠る様に、穏やかに。
「そうですか」
美鈴はそう言って、咲夜へと笑みを向けた。
それから崩して座る自分の膝をぽんぽん叩いて見せた。
笑顔だ。咲夜が子供の頃から変わらない穏やかな笑顔。
普段、彼女が必死で保っている完全で瀟洒の仮面をあっさりと砕いてしまう笑顔。
「もう、子供じゃないんだから」
「たまにはいいじゃないですか、最近甘えてくれなくて寂しいんですよ」
呆れたように眉を下げる咲夜。
確かに昔は、ことさら心を開いてから良く甘えていた。
でも今の状況を考えて欲しいと咲夜は思う。
完全で瀟洒なメイド長が子供の様に素直に甘えられるかと。
「それでもね……」
「お嫌ですか?」
「う……」
縋る様な視線。悲しそうな笑顔。
ずるいと咲夜は思う。
昔からそうだ。
咲夜がなにか悪さをした時や間違えた事をした時はこの顔になるのだ。
普段笑顔の美鈴がこんな表情を見せると、いやがおうにでも罪悪感が湧いてくる。
ああ、自分が間違えていたんだなと、ある意味で子供のころから続いた故の刷り込みに近い物があった。
「嫌いになったんですか?」
「うう……」
悲しそうに、本当に悲しそうに笑顔で迫る美鈴に、咲夜はもうなすすべがないのだった。
現金なもので、恥ずかしさは美鈴のぬくもりであっさりと中和された。
昔は良くこうしていた事を思い出して、そういえば彼女に甘えたのは何年振りだろうとふと考える。
「咲夜さん」
美鈴の手が咲夜の髪を撫でる。
優しくて大きな手。
「猫が死んで、悲しいですか?」
「ん……」
言葉に咲夜は思案する。
それからこう言葉を紡いだ。
「餌が無駄になってしまったわ」
「そうですか」
くすくすと美鈴は笑う。
つられて咲夜も笑みを浮かべる。
一通り笑ってから咲夜が口を開く。
「悲しい、とかそういうのじゃないの。良く分からないわ」
咲夜はただ、あの時の様子を思い出す。
悲しい、ではない。
だって猫は安らかだったから。
精一杯生きて、猫としての一生を終えたのだから。
それは誇らしいものであって、悲しむべきものではないとそう感じたから。
でも、胸には僅かに隙間が空いてしまって、それが何なのか分からない。
「あの老猫は、猫として最後まで生きたの。
だから死んだのは仕方ないと思うの。でも胸が苦しい」
心は穏やかで、冷静で、でも空虚だ。
日差しは暖かくて、頭に感じるぬくもりは暖かい。
ずっと変わらない、太陽の光も、美鈴のぬくもりも。
ああ、咲き誇る花々も、紅魔館の景色も。
吸血鬼である主も、その妹も。
客人である魔女も、その使い魔も。
目の前のこの妖怪も変わらない。
「ああ、そうか……」
そこまで考えて、咲夜は気が付いた。
変わらない世界の中で、変わってしまったもの。
昨日と今日で違うもの。
今日は、あの人懐こい老猫がもう居ない。
天寿を全うして、旅立って逝った。
いずれ、咲夜もそうなるように。
今日と同じ景色の中、いつか咲夜だけがいなくなる様に。
「羨ましかったんだ」
「咲夜さん?」
猫として生きて、猫として死んだ。
変わることなく、あたりまえの様に。
それが羨ましい。
なぜなら。
「美鈴は変わらないよね?」
突拍子もない問いに、美鈴はそれでも笑顔ではい、と応じた。
だから、思ってしまうのだ。
いつかこのぬくもりと、優しい時間とお別れしてしまわなければいけない時が来るのだと。
人である限りそれは避けられない。
でも、咲夜は人をやめるつもりは無くて、だけど……。
あまりにも幸せだから、その決心が簡単に揺らいでしまいそうだから。
だからこそ何の迷いもなく、猫として疑問も持たずに生き抜いたあの老猫を羨ましいと、そう思ってしまった。
それは空虚。もう変えられないものへの憧憬。
理解してしまえばもう解決するのは簡単だ。
その空虚を埋めてしまえばいい。
いつものように……そう。
幸せな美鈴の傍で、いつものように。
「美鈴、少しだけ眠いの……」
あまりにも暖かくて、あまりにも静かで。
何よりも安心できるから、彼女は襲ってきた眠気に抵抗しない。
「おやすみなさい」
美鈴の声が聞こえる。
うん、と子供の様に短く返事をして咲夜は瞳を閉じた。
私は、あとどれ位、美鈴に甘える事が出来るのだろう、と。
あとどれくらい、皆の傍に居られるのだろうと、そんな事を考えながら。
穏やかで深い闇の中へとどこまでも落ちていく。
美鈴は膝の上の咲夜の寝顔をただ見つめる。
それはただの幼い少女の様で、とても完全で瀟洒からは想像が付かない程に安らかだ。
でも美鈴は知っているのだ。
彼女は本当は寂しがりやで、頑張りやで、そして無茶をしてしまう事も。
成長して、立派になって、でもそれだけは変わらない。
なぜなら彼女も愛しい娘。
本当に手間のかかる子だった。
館に召し抱えられたときは猜疑心の塊で、誰も信用しなかった。
怯えた犬みたいに美鈴を威嚇して、時には襲いかかることもあった。
でも、心を許してくれて、甘えてくれて。
それからはあっという間に自分を追い抜いて、背丈も同じ位になって。
「本当に、人間は……」
呟いた声は寂しそうで、でも嬉しそうでもあり。
「早すぎる」
ああ咲夜、と美鈴は眠っている少女に小さく語りかける。
貴方は何時まで私に甘えてくれるのかな、と。
貴方は何時まで皆と共に過ごしてくれるのかなと。
いずれ来るその時になったら貴方はどう思うのかと。
そう考えて、美鈴は誤魔化す様に頭を振った。
考えても栓無き事だと。
そしておそらくはあの猫が死んで、少しだけ自分も思う事があったのだと。
だからこんな事を考えてしまったのかと。
日差しは暖かく、辺りは静かで、願わくばこんな日がいつまでも続いてゆけばいいと。
それは永遠には叶わないと分かっていても美鈴は思わざるを得ないのだ。
-終-
皆優しいですね
誤字です。
>>昔からそうだ。
>>咲夜がなにか悪さをした時や間違えた事をした時はこの顔のなるのだ。
顔のなるのだ→顔になるのだ、ですよね多分おそらく。
そしてれみりゃ様の最後の一言に萌え転がりましたよっと
どちらも思うことがあるんでしょうね
タイトル通りの雰囲気でした。