ペットを飼うなら猫がいい。
犬は少々下品だし、兎は怯えてつまらない。
猫はいい。なにより耳の触り心地がよい。耳。そう、耳だ。
私は何より、猫の耳が大好きなのだ。
「じゃ、じゃあ、藍さまは私の耳が好きで私を式神にしてるんですか?」
「そうだね」
橙を膝の上に乗せて耳をいじくりながら、帽子に顎を乗せてぐりぐりする。私の幸せといったらそれぐらいなものである。あぁ、なんたる奥ゆかしさ。こんなに慎ましく上品な狐は二匹といまい。
「わ、私は」と橙が膝の上でむずがる。「確かに水が苦手で家事の手伝いには向きませんが、だからって、でも、その……」
「うんうん、橙の言いたいことはわかるよ」
耳、この耳だ。クニクニしてて、ずっとさすっていると堪えきれなくなってヒクヒクしだすこの耳だ。
「橙は式神としての働きで評価されたいのに、私が猫可愛がりするものだからおもしろくないのだろう? だが私の橙への愛は基本的に無償だよ。日がないちにち縁側でごろごろしてくれても一向に構わないんだ」
「そんなのって……」と橙は脱力しながら耳としっぽだけをぴくぴく動かす。
ひひひひひひひひひ。
可愛い。
「いいんだよ橙。もちろん、従順に働いてくれればより可愛いのは確かなんだ。頑張ってくれればマタタビをたくさんあげようという気にもなる。橙のおかげで助かっているよ」
――嘘である。
八雲家の用事のことごとくは私一人がいれば足りる。橙は私のストレスと愛情の発散のために式神にしたに過ぎない。
私が橙に任せる仕事は、そのことごとくが失敗しても害がない、ないしは失敗してもフォローが利くものに限られている。つまりどうでもよいものなのだ。
飼い殺し。
そう誰かに馬鹿にされたのだろう。昨日までは機嫌良く、虫や鼠を退治して暮らしていたのだから。
「なら、何か仕事をください」と橙は言う。
「撫でられるのは嫌?」
「嫌ではないです。でも、達成感がほしいです」
達成感……ねぇ。
何が仕事として成立するかは、たかだか需要と供給で決まる。達成感ならやりたいことをやれば得られる。わざわざ仕事という枠にはめる必要もないだろうに。
「なら、これをあげよう」
私は袖の中から独楽(コマ)を一つ取り出して、橙に与えた。
「独楽、ですか?」橙は渡された朱塗りの独楽を目を丸くして眺める。
「その独楽は、一度回すと止めろというまで回り続ける代物だ。あと十年もすれば付喪神になれるが、今はまだ誰かに回してもらわなければ回ることができないんだよ」
「へえ……」橙は興味があるように独楽を撫でるが、二股の尻尾がしょんぼりしている。はぐらかされて不満なのだろう。
「橙」私は橙の耳をぐりぐりする。「その独楽を元手に、その独楽よりもっといいものを手に入れてきてほしい。わらしべ長者みたいにね。それが仕事だ」
「もっといいもの?」と橙は首をかしげる。「何ですか?」
「それは橙が決めればいい」と私は答える。「期限は今日の夕方までだ。うまくやったら、明日はたっぷり魚を食べよう。紫さまを叩き起こして、外の世界から海の幸をどっさり持ってこさせるんだ。マヨヒガの連中にも分けてやるといい」
「海の幸……」と橙は目を輝かせる。
日頃はあまり食べないものは、ご褒美にはぴったりだ。
「じゃ、頼んだよ、橙」
「はい、藍さま」
橙は元気よく私の膝を飛び降りて、スキップしながら去っていった。
「――さて、と」
私は目を閉じて、視界を橙のそれに同期する。術者の力量と思い入れ次第で、式神の五感と思考は一方的に主に筒抜けになる。私はその気になれば橙の視点で世界が見えて、橙の思考を追うことができる。
橙は式の力で視界も頭脳もそこそこクリアになっている。元来猫は赤色が見えず、夕焼けですらセピアに見える。彼女が式神になって一番喜んだのは、空に一つ色が増えたことだった。
さて、この仕事に深い意味はない。うまくすれば橙の交友関係が洗い出せ、そそのかした奴の面が拝めるというだけのこと。
だが、それもムキになって追うほどのことではない。橙が誰からもそそのかされずに、自発的に物足りなくなっているだけかもしれないのだから。
式によって知恵が人並みになれば、人並みなことで悩むようにもなる。
私自身の成長の証と思えば、橙の脱線も、それほど悪い気はしなかった。
○
独楽を欲しがるのは子供だろうと橙は思った。
ぱっと橙の頭に浮かんだのは紅魔館の吸血鬼姉妹だった。大きな館に住んでいて、いろいろと物を持ってそうだ。
だが、あんな危なっかしい連中と直接取り引きするのは不安だった。
しばらく木陰で悩んでいた橙は、袋小路に陥って、そのまま眠り込んでしまった。
やれやれだ。せっかくの遊びが一歩も進まず終わるのもなんなので、私は式を通じて橙に啓示を与えた。橙からすれば突如自分が閃いたように思えただろう。
わらしべ長者を少し応用すればいい。
吸血鬼姉妹たちに独楽を渡して得をする相手――下っ端と取り引きすればいいのだ。
「独楽――かぁ」
美鈴は石造りの門にもたれて、手渡された独楽を眺めた。
「ただの独楽じゃない。一度回せば、一人で勝手に回り続ける独楽なんだよ」と橙は説明する。
「ふうん、なるほど」と美鈴は感心しかけるが、「って、それって普通の独楽だよね」とお姉さん口調で突っ込む。
「あ、ちが、そういうことじゃないの」と橙の頬が赤くなる。「ずっと、止まらないの。止まれって言うまで、ずっと」
橙はあまり説明がうまくない。橙のことならなんでもわかる私に、何かを説明する必要なんてないからだ。
「セミオートなのか」と美鈴は頷いて、髪を縛っていた紐を一本、しゅるりとほどいた。
「懐かしいなぁ、独楽回し」
くるくると手早く紐を巻いて、石畳に勢い良く投げ、目にもとまらぬ速さで紐を引く。完璧な投げまわしといってよい。
「わ、うまいねぇ」と橙が尻尾を振って感心している。
「独楽と剣玉と竹馬は、修行の初歩。七歳で極めたんだ」と美鈴は威張る。
美鈴はまた門にもたれて、髪を編み直しながら独楽の様子を伺う。決して平坦ではない石畳の上を、独楽はガガガガと鋭い音を鳴らしながら回り続けている。
「うーん、力一杯投げすぎて、妖力があるか分からないなぁ」
「じゃ、言うよ。止まれ!」
と橙が独楽を指さしながら言うと、独楽は勢いを失って、石畳の上を無造作に転げまわった。
コトンと音をさせて、美鈴の足元に止まる。
「お、すごいな。……ひょっとして、飛べ、とか、相手の独楽をやっつけろ、とか。いろいろ命令できる?」
「たぶん」と橙は言葉を濁す。「試してないけど」
「もう一つあったら妹様と遊べるんだけどなぁ」と美鈴は腕を組む。「一つだけ?」
「うん……」と橙は小声で頷く。「とりあえず、一つしかないの」
藍さまがもう一つ持ってるかも、と言わない辺りが商売ベタだが、正直なのはいいことだと私は思った。獣は嘘などつかないほうがいい。つけばつくほど化けるのが加速する。
「でね、これをもっといいものと交換しないといけないの」
「ふうん、わらしべ長者か。……うーん、でも元からけっこういい独楽だしなぁ。何か上げられるものがあればいいけど」
ちょっと待っててね、と言い残し、美鈴はぴゅんと軽く門を飛び越えて、館の中へと消えていく。
橙が独楽を転がしながら待っていると、わりとすぐに戻ってきた。
両手に木製のトンファーを持っている。
「や、おまたせ」ぴゅんと軽く門を飛び越えて、美鈴は橙の隣に戻ってきた。
「これでどうかな」
「これ、何?」橙はトンファーを引っ掻こうとする。
「こらこら、爪研ぎじゃないよ」美鈴はくるりとトンファーを引っ込める。「こうやって使うの」
美鈴はトンファーを用いた演武を始めた。流れるような動き。重心が動くたびにどちらかの手が繰り出され、もう片方の手が急所を防御している。さすがは専門だけあって、うまいものだ。
くるくると回すのかっこいいなと橙も思った。
「昔、修行で使ってたものなんだけどね」と美鈴は言う。「ちょっと今では軽すぎて、物足りなくなったんだ」
「軽いんだ」橙はおずおずと受け取る。子供の橙にはそこそこの重さがある。
「でも、もらっても、私には使えないよ?」
「ふっふっふ、大丈夫。ただのトンファーじゃないんだよ」
「え? うわ!」
橙は美鈴に向けて右トンファーを繰り出す。美鈴は苦もなくよけつつ間合いをとったが、橙は構わずトンファーをくるくる回している。
「なにこれ、体が勝手に動くよ」
橙はこけようが転がろうがおかまいなしに、トンファーを突き出してはくるりと回す。動きに体がついていかないのだ。
「拳法ってさ、バカ正直に修行してると時間がかかるんだ」と美鈴は転がる橙を見て微笑む。
「だから伝来の武具に師匠が気脈を組み込んで、弟子の体に強制的に型を教え込む、なんてことがよく行われるんだよ。型ができてからでないと、教えることも教わることもあんまりないしね」
「どういう意味?」と橙が転げながら尋ねる。
「大拳法家養成ギプスって意味」
「うーん?」
「頭を空っぽにして、トンファーが導くままに動き続けると、いつの間にかかっこよく動けるようになるってこと。強くなれるかはまた別だけどね」
橙はようやく理解することができた。なるほど、けっこうよい物だと思った。
「ど、どうやったら止まるの?」
「んーと、確か……あれ?」美鈴はバツが悪そうに頬を掻く。「止めるための気合い、なんだっけ。ふんせいとりゃひりゃ、だったかな」
「ふんせいとりゃひりゃ!」と橙は叫ぶ。
トンファーはさっぱり止まる様子を見せない。橙はあちこち打ち付けながら転げまわっている。
「あ、違ったね……。まずいな」
「まずいって、何が!」
「解除の気合い忘れたら、気力がなくなるまで疲れ果てるか、完璧に型を再現するかしないと止まらないんだ」
「え! やだよそんなの」
「……ごめんね」と美鈴は愛想笑いしながら手を合わせる。「気絶するまで見守っていてあげるから。なに、明日筋肉痛で辛い思いをするだけだよ」
「やだー!」
――やれやれ。間抜けな門番だ。
全身筋肉痛になったら橙がかわいそうなので、私は式を通じて橙の気脈をさぐり、両手を無理やりトンファーからひっぺがした。
「あたっ」橙はうめいてトンファーを取り落とす。痛みが走ったらしい。さすがにここまですると体にかかる負担が大きいか。
「あ、あたっ、だ。そうだったそうだった」と美鈴は勘違いをして頷く。「ブルース・リーのように短く鋭く言うのがコツだった」
「そうなの?」橙は両手をぶらぶらさせながら、石畳に落ちたトンファーを見つめる。
「けっこう、大変だね」
「そりゃ、独楽回すより大変だよ。――どうする?」
美鈴の問いに橙は考える。
ともかく一つ、交換したという実績が欲しい。
それに、藍さまがトンファーをやりたがるかは別として、なかなか楽しいアイテムだ。誰かをずーっと踊らせて、意地悪することもできる。
「いいよ」と橙は頷く。「独楽と交換ね」
「じゃ、そういうことで」と言って、美鈴は落ちていた独楽を拾い上げる。「できたらもう一つ頼むよ。この独楽だと、二人でやんないと遊びにならないから」
「うん、藍さまに話してみるね。それじゃ」
「またね。トンファー、うかつに取っ手の部分を持たないようにね」
「うん」
橙はトンファーを小脇に抱えて、スキップで紅魔館を駆け去っていった。
○
トンファーを欲しがるのは強くなりたがってる連中だろうと橙は思った。
ぱっと頭に浮かんだのはチルノだったが、チルノが何かしらのいい物を持っているとは思えない。持っていてもすぐに壊してしまうだろう。
チルノが大好きでチルノとトンファーを交換したがるような相手も思いつかない。全体的にまんべんなく嫌われていて、かわいそうな妖精だなと橙は思った。
――やれやれだ。確かに秋も深いこの頃だが、真夏のチルノ人気をすっかり忘れる程度の記憶力では、まだまだ橙に長期的な仕事は任せられそうにない。と言っても真夏ではないので、チルノを無視すること自体は正しいが。
チルノでなくても、よくよく考えれば幻想郷は好戦的な連中ばかりである。適当に歩いていればそのうち誰かに出会うだろう、と思い直した橙は、逆さに持ったトンファーを振り回しつつ野原を歩いていく。
だが、こんな日に限って誰とも出会わない。二時間ほど歩いてとうとう竹林までたどり着いてしまった橙は、疲れたのか丸くなって眠ってしまった。
――さて、私にもこなすべき家事がある。切りもついたし、しばらく放っておくことにしよう。
一通りの掃除をこなし、稲荷寿司を仕込んで茶の間に座り直す。
目をつむり、感覚を同調しなおすと、橙はなんと、竹林の外れの川原にいた。
石に座って焼いた魚を食べている。自分で釣れるわけでもなし、傍に誰かいるのだろうか。橙の思考と視界が魚で一杯になっていて、判別できない。
背骨まで丁寧に齧り尽くして、ようやく落ち着いた橙は、右斜め前から聞こえてくる砂利を踏む音に注意を向けた。
じゃりじゃりと小気味よく、赤と白のモンペ姿の少女がトンファーを振り回していた。
「妹紅さん」と橙が言う。
「ん? なんだ」と妹紅が答える。
藤原妹紅と我々八雲一家にはほとんどなんの関係もなく、この組み合わせは意外という他なかった。
「それ、タダじゃ上げられないんだけど」
「イワナやったじゃないか。釣りたての」妹紅は、たどたどしくもそれなりにトンファーと踊っている。気に入ったらしく、溌剌とした表情をしていた。
「もう食べちゃったし……」と橙は決まりが悪そうだ。すっからかんになってしまっては、わらしべ長者のやりようもない。
「いいんじゃねーの。食べちゃって。独楽よりイワナのが食える分だけ上等だ」妹紅はババババとトンファーを宙に繰り出しながら言う。
「でも、何か形に残るものじゃないと、藍さまに申し訳が立たないよ」
「じゃあ食うなよ」
「もう食べちゃったし……」
橙が目をうるうるさせて愚図ると、やがて妹紅はため息をつき、折れた。
「わぁったよ、しゃあねぇな。そこの釣竿くれてやるよ」
妹紅は顎で平たい岩を指した。橙が近寄って岩陰をまさぐると、竹と赤い糸で出来た釣竿が見つかった。
「これ、いいものなの?」と橙は首をかしげる。
「いいもんだ」とトンファーで逆立ちしながら妹紅は言う。「満月の夜に慧音が作ったもんでな。「必ず魚が釣れる歴史」が組み込まれてるんだ。赤い糸が切れない限り、思ったとおりの魚が釣れる。もっとも、垂らした場所にいる魚に限られるけどな」
「ふうん?」橙はよく分からないまま頷く。
――歴史を微分すれば細かな因果関係になる。慧音の歴史――因果関係を創る能力とはつまり、「あらゆること」から「あらゆること」への蓋然的な移行を、「あること」から「あること」へ限定すること。蓋然性を必然性に変える能力のことだ。「魚が釣れるかもしれない釣竿」が含む蓋然性を必然性に変換すれば、「必ず魚が釣れる釣竿」になる。
大げさに例えれば、「約束された勝利の剣」と同じ類だ。洋の東西を問わず、魔法で再現する難易度は計り知れない。
白澤――白牛がシヴァ(因果の破壊者)の乗り物、ヴィシュヌ(現在の調停者)の化身とされる理由がここにある。幻想郷で釣り勝負をしてこの釣竿に敵うのは、同じく運命に干渉できるレミリア(吸血鬼は流水が苦手なので釣り堀限定)と、霊夢(恵比寿さん憑依時)ぐらいなものだろうか。紫さまなら「蓋然」「必然」の論理の境界、あるいは「釣れる」「釣れない」の意味内容の境界を弄って術式をめちゃくちゃにすることで勝てるだろうが、いくらなんでも下品に過ぎる。
つまりはとても良いものなのだ。セミオートの独楽や拳法家養成ギプスとは雲泥である。
「でも私、釣りってやったことないし」
「必ず釣れるって言ったろ」妹紅は虚空にトンファーを振り下ろす。「だから、つまんねーんだよ。やる前からできるって分かったら、やる意味ないだろ?」
「ないかなぁ?」
「ねぇよ。釣りってのはなんていうか、もっと孤独で救われてなきゃいけねーの」
「へえ?」
「いいからさっさと持ってけよ」
――あまり会話が噛み合っていないが、ともかく橙は物々交換が出来てほっとした。
「ありがとう」
「ああ……」妹紅は息も荒らげずトンファーを振り回し続ける。不死身のタフネスだ。無駄な元気とも言う。
「そうだ、釣り糸は絶対切るなよ。大事にしたいなら、力入れずにそーっと引っ張りあげるんだ。どうせ何したって釣れるんだからな。一度切れたらただの釣竿に戻っちまう」
「うん、分かった」と橙は頷く。
なるほど、術式の強度のなさは、半妖(ワーハクタク)の身では致し方ないところだろうか。
橙はぺこりとお辞儀をして、川沿いを駆け去っていく。妹紅はトンファーの止め方を知っているのだろうか? あの体力からして、完璧に型を身につけるまで止まらなくても何の支障もないだろうが。
洗濯物を取り込んでから、急須にお茶を入れ直して、一口すする。
橙の交友関係も、そう馬鹿にできるものではないらしい。てっきり人見知りをするおとなしい猫かと思っていたのだが。
不満はないが、手広く出歩いているのなら、今の式では少々危うい。帰ったらいくらか式を足してやらねばなるまい。
目をつむって、橙の視界に入る。――高い。空の上だ。下には竹林ではなく魔法の森が広がっている。
大きな黒い帽子の下に、金色の髪が輝いている。橙はその細い肩におぶさって、脚をぶらぶらさせている。
「魔理沙」と橙は声のトーンを上げる。
「なんだ?」
霧雨魔理沙は振り向きもせず箒を飛ばす。
「釣竿で藍さま喜んでくれるかな?」
「喜ぶだろうぜ」と魔理沙は答える。「狐だし」
「狐は魚が好きなの?」
「狐は魚が大好きだ」と魔理沙は適当なことを言う。
「魔理沙も好き?」
「ああ、好きだぜ」
「……そう、好きなんだ」
……なんか、雰囲気が甘くないか?
私は違和感を覚えた。この二人はこんなに仲が良かったろうか。少なくとも橙は、しばしば手ひどくやられて敵意を燃やしていたはずだが。
「ともかく、ほんとに魔法の釣竿なのか、試してみようぜ」
「うん」
二人乗りの箒は、妖怪の山の麓の川べりに降り立った。少し遡ると滝壺があり、ドドドドと重たい音が響いてくる。
魔理沙は橙から釣竿を受け取る。リールのない原始的な和竿で、赤い糸が既に張られているので、調節のしようもない。必ず釣れるから必要ないのだろうか。
針の先には木で出来た、大きめの浮きがついている。明るい橙色なので、水の中でも目立つだろう。
「思った通りの魚が釣れるんだよな」と魔理沙は橙に確認する。
「うん、そうだよ」と言って、橙は岩の上に座る。「ちゃんと泳いでる魚ならね」
魔理沙は岸に立って、釣竿を思い切り振りかぶり、針をうまいこと川の真ん中に投げ入れた。
「お」
二秒もしないうちに、浮きが大きく下に沈んだ。
「釣れた釣れた……う、重いな」魔理沙は竿を両手で握るが、少しずつ引っ張られていく。いったいどんな魚を想像したのだろう。
「私も手伝う!」と橙が魔理沙の腰を掴んで引っ張る。大きな株じゃあるまいし、あまり役には立ってないが、とにかく可愛い。
竿がぎしぎしと軋み、糸がピンと張る。――まずい、切れそうだ。と思った時には、遅かった。
「うわ!」「きゃあ!」
魔理沙と橙は勢いよく尻餅をつき、釣竿は重みを失い、魔理沙の手の中でまっすぐに棒立ちになった。
「あ、切れちゃった」
橙は魔理沙から竿を奪うと、涙目になって、切れた赤い糸の断面を見つめた。
「悪い、橙」魔理沙はバツが悪そうに頬を掻いた。「あんなに重いとは思わなくて」
「ばか! 魔理沙のばか!」と橙は魔理沙の胸にとりすがる。「糸、切れちゃったら、魔法が解けちゃうんだよ! これじゃ誰とも交換してもらえないよぉ……」
「気にすんなよ。私と橙の赤い糸は切れないさ」と魔理沙は橙の肩を抱く。
「ご、ごまかさないで!」とむずがる橙の顎を掴んだ魔理沙はそのまま唇を――
「って、おかしいだろ!」
私は思わず茶碗を握りつぶしてしまった。
「なんだこれ! なんでいい雰囲気なの! 橙! 私の愛しい橙!」
橙は魔理沙に耳を撫でられながら、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「絶対、許さないからね、魔理沙」
「悪かったぜ」
「せっかく藍さまにまともな仕事貰えたのに。早く一人前の式神になって、魔理沙もちゃんとした魔法使いになって、そしたら一緒に暮らそうって言ってくれたの、嘘だったの?」
え?
嘘だろ?
「嘘じゃないぜ。私は本気だ」と魔理沙は橙をいらやしい手つきで撫でつける。あと一回撫でたら殺すと私は心に決める。あ、撫でた。はい殺す。
「藍みたいな下品な奴に、いつまでも橙を好きにさせたくないからな」
「魔理沙……」え、橙。橙! おかしくないかな? そのうるうるした目は。私と魔理沙の評価が反対じゃないかな?
「いったい魔理沙は何を釣ろうとしてたの?」
「あぁ、あれだぜ」
魔理沙が指さした先には、所在無さげに水面から頭を出した河城にとりがいた。
ぶくぶくぶくと息を吐きつつ、魔理沙と橙を冷めた目付きで眺めている。
「普通は釣れない河童が思っただけで釣れたら、完璧に魔法の竿って言い切れるだろ?」
「もう、河童なんてバカ力のお相撲野郎を狙ったら、こうなるに決まってるよ!」
「悪かったぜ。釣られないにとりが悪かったんだ」
「えー私かよ」
にとりは平泳ぎで岸まで泳ぐと、水滴を滴らせながら二人の傍によってきた。水が苦手な橙は、魔理沙の腕の中で身を竦ませる。
「ってかお二人さん、いつからそんなに仲良くなってんの?」にとりが的を得た質問をする。
「何言ってるんだにとり、ずっと前からだぜ?」
「えー、そうだった?」
「そうだよ」と今度は橙が答えて、にとりを睨みつける。「濡れた体で近寄らないでよ」
「人のこと釣ろうとしといてよくもまあ」とにとりは呆れる。「ってかあの赤い糸、私の体に絡みついてきたんだけど。なんか変なアイテムだったよね?」
「実はな――」と魔理沙が説明し始める。
っち、使えない河童だ。今聞くべきは魔理沙と橙の関係だろ! 釣竿なんてどうでもいいだろ! 頭の皿かち割ってぼりぼり喰ってやろうか……。
「ほう、そりゃ凄いものだったんだなぁ」にとりは服の裾を絞りながら感心している。「狙った魚が必ず釣れるかぁ。科学で再現するのも難しいかも」
「責任とってよね」と、しつこく魔理沙に抱きついている橙が言う。「にとりのせいで、釣竿ダメにしたんだから」
「実質タダでなんか上げんの?」にとりは渋い顔をする。「責任なら魔理沙にとって貰えよー」
「ま、魔理沙には別の責任を取ってもらうからいいの」と橙は顔を赤らめる。
――もう握りつぶすべき茶碗はないのに、私の右手が何かを求めてずっとグーパーを繰り返してる。
もっともっと、気が狂うほど怒りたいのに、その方法が見つからない。激情に任せて妖怪の山に飛んでいくには、少し距離がありすぎる。
何よりそんなの間抜けすぎる。
私のプライドが……プライドが、許さない。
○
布団の中でまどろみながら藍の意識を覗いていたら、おもしろそうな催しが始まった。橙にわらしべ長者ごっこをさせてその様子を見物しようというのだ。初めてのお使いならぬ、初めてのわらしべ。橙が大好きな藍にとっては、素材そのままでもおもしろいだろう。
だが、私こと八雲紫は、その程度では楽しめない。仮に橙が幻想郷の全ての財宝を握って、上がりを迎えたとしてもだ。それでは藍の用意した物語の枠から一歩もはみ出ず、何らの境界も揺るぎはしない。
というわけで、私は魔理沙の帽子に仕込んでおいた「隙間」を使った。魔理沙は博麗神社の縁側で昼寝をしていたから、魂の境界をいじくるのは容易かった。大したことはしていない。魔理沙の中の女好きな部分をかき集めて、丸ごと橙という知識の内側に注ぎ込んだだけである。
橙の帽子にも、もちろん隙間は仕込んである。同様に、橙の好意の対象を、藍から魔理沙に置き換えたのだ。
急ごしらえの両想いでは藍にバレる可能性があったので、念には念を入れた。交際は去年の十二月十二日、冷たい川に落ちた橙を助けた魔理沙が家に連れ込んでそのまま――という嘘の記憶をすり込んだ。
「どっちから告ったんだよー」とにとりがいい質問をする。
「ま、魔理沙が無理やり」と橙が言い、藍の顔面が蒼白さを増していく。
くくく、それそれ。その顔が見たかったのだ。
私は藍が家事をしている間に、あらん限りの演算能力を使って魔理沙と橙のラブラブな歴史を捏造し続けた。虚構の記憶だろうと、脳に植え付けて虚実の境界をいじくれば、過去なんて簡単に置き換わる。今や二人の脳みそはお互いのことで一杯である。
ただもちろん、「わらしべごっこが終わるまで」という期間限定のいじくりだ。私は人格者なので、日頃は人を洗脳したりはしないのだけれど。その分たまにやると、藍ですら綺麗に引っかかってくれる。
藍は両目を覆って「おうおう」とマジ泣きしている。くくく、かわいそう。
藍の慟哭がもっと前向きな怒りになるまで後一時間二十分三十二秒というところだろうか。橙は夕刻には帰ってくるだろうから、それまでたっぷりと用意をする時間はある。
調教の用意をする時間が、ある。
寝取られた恨みの末の調教によって――二人の関係は変わってしまうだろう。
「私は無実です、信じてください藍しゃま」と泣き叫ぶ橙を信じることができずに、あらん限りの愛憎をもっていじめ抜く藍――全てに気付いた時にはもう遅い。そこにはきっと、変わり果てた橙の姿があるのだ。
あぁ、胸がときめく。
決して揺らがなかった主従関係の境界が揺れる。
「これこそが私の求める萌えの極地。藍をこれほどまでに傷つけるなんて、いったい何年ぶりだろう。二年ぶりぐらいかな? あぁ、かわいそうな橙、かわいそうな藍。恨むなら、互いを信じることができなかった己が性根を恨んでね」
……あれ?
肺が重い。
手足がうまく動かせない。
これ、布団の上から結界張られてる?
「――紫さま」耳元で藍の声がする。
「お声が、漏れてらっしゃいますよ。紫さま」
「っひ」しまった。想像するだけで楽しすぎて、つい……。
でも、どうして。どうして抜け出せないの? 術式の演算能力なら私の方が圧倒的に上なはず――。
「上から物理的に押さえつけてるんですよぉ、紫さま。反撃されないうちにぺしゃんこにしてあげますね」
重い、重い、九本の尻尾が重い。潰れてしまう。背骨がミシミシいってる。
「何か言い残すことがありますか?」
「わ……私のせいだと……言い切れるの……」なんとか、なんとか突破口を開かないと。
「……猫かわいがり……するばかりで……橙のこと……ちゃんと思いやってあげたって……言い切れるの?」
「いい教訓になりました」と、藍は答えた。
「猫可愛がりするだけではなく、これからはきちんと橙の内面を踏まえて、橙が万に一つも私を裏切らないように、徹底的に理想の主兼想い人として、虜にしてみせましょう。……ふふふ。私そういうの得意ですから。九尾の狐ですからね。下品な玉藻なんかと一緒にされたくなかったから橙には素で接していたけれど。ぬるいぬるい。魔理沙に抱かれる橙を見て気が狂いそうになりました」
あ……が……手足が……潰れて……
「愛する時は徹底的に。そうでしょうとも。ねえ紫さま。とりあえず、橙に手を出した悪い妖怪を始末しないといけませんよね?」
「……しゅ、主従の……理を……違えるとは……」
「幽々子さまによろしく」
ペシ……ゴリ、バキバキペキペキ。
――最後に私は、頭蓋の砕ける音を聞いた。
○
夕刻になって。
「ただいまでーす」
橙は袋に山盛りの野菜をしょって戻ってきた。
「おかえり、橙」
私はにっこりと笑顔を作って出迎える。よかった、魔理沙はついて来ていない。今、目の前に魔理沙がいたら、自分を抑え切れるとは思えない。
「いろいろ大変だったんですよ」と経緯を説明しながら、橙は縁側に店を広げる。茄子にきゅうりにほうれん草、大根人参さつま芋。河童特製の、夏でも冬でも育つ遺伝子組み換え作物だ。
「――というわけで、木っ端天狗との死闘を制し、見事「一年中いつでも育つ野菜」を手に入れたのです」
「凄いぞ橙」
私は穏やかな気持ちで橙を膝に座らせる。
「独楽は食べられないからね。食費も浮くし、素晴らしい働きだよ」
「えへへ、ありがとうございます」
橙は肩越しに私を仰ぎ見る。見慣れた猫耳が、今はこんなにも可愛く、新鮮に思える。この耳を魔理沙のいやらしい手が這ったのかと思うと笑顔が崩れそうになるが、そこは我慢だ。いずれ魔理沙にもなんらかの仕置きをしようとだけ、心に決める。
「それでですね、藍さま。この野菜の種、私にあずけてくれませんか?」
「いいけど。橙が育てるのかい?」
「はい」
橙は私の膝から降りると、手を後ろに組んで、夕日を背にして私に向き直った。
「私、藍さまの役に立ちたいんです。どんな事でもいいから、いろいろ命令してほしいなって、思ってました」
「橙……」
「でも、言われたことをただやるだけじゃ、芸がないですよね。これからはもっと、積極的にこう、なんていうか、お役にその、立てたらなぁ……って」
「橙!」
伝わってくる。
差し出がましいことを言って、怒られるんじゃないかなという橙の想い。
いつの間にか、私は橙を、こんなにも萎縮させてしまっていたのか……。
「嬉しいよ、橙。ありがとう」
私は橙の手の甲を取って、キスをした。
「これから、改めて、よろしくね」
と冒頭でツッコんだが、後の展開でどうでも良くなった
まりさスケコマシすぎる、と思ってたら、
紫ひどすぎるw
>しまった。想像するだけで楽しすぎて、つい……。
これは同意するが
驚異の能力の使用先が妹紅の釣竿で魔理沙と橙のしょうもないやり取りの果てに河童を釣りあげて散るとか
この歯がゆさが幻想郷なのか
式の視界ジャックとか演算能力の優劣とか、設定そのままに別のお話も出来そうですね。
布団に潜る紫さんが出てきた辺りで噴き出しました。面白かったです。
橙は頑ななまでに懸命でうぶなところがかわいい。
あ、藍さま、橙を誑かしたら私も尻尾で潰してくれますか?(
式も大概なら、主も大概。
このSSは着想や設定が細部まで
きちんと考えられていて素晴らしいですね。
良いSSでした。