日が昇ったら、死体は眠らねばならない。
道場の門から離れ、芳香は地下にこしらえた、納骨棺を模した寝床へと跳ねていく。眠りをとるのは主の言いつけである。キョンシーには地面から陰の気を吸い上げる必要があるからだが、当の本人もちろんそんなことは知らない。ただ、腹いっぱい食べて寝るのは気持ちがいいし、起きると固まった体も少し柔らかくなる気がする。だから寝るのは好きだ。睡眠不足は、お肌の大敵だしね!
ところがところが。最近、その至福の時間を見計らうように邪魔者が現れるのだ。
「芳香。ここ、失礼しますよ」
彼女は一声かけて横たわる芳香の脇に腰をかける。面倒なので寝たふりを決め込んでいると、硬直して投げ出した両腕をさすられ、撫でられ、手を握られる。たまらず目をあけると、同じく横向きになった穏やかな瞳とばっちり鉢合わせる。
「……あの。あーのー」
なでなで。すりすり。
「太子、様ー?」
神子の触り方は青娥より遠慮がちで、感覚の鈍い芳香の肌には虫が這うように伝わるから、むしろわずらわしい。それに、一応藁束が敷き詰めてあるものの、石造りの寝床では、生身の彼女にとって居心地が悪いんじゃないかと、それも気にかかる。
「太子様、おーい、おーい。大丈夫かぁ、痛くないか?」
「ふうむ。いつもながら興味深いです」
おまけに話を聞いてくれない。
髪を撫で付けられ、頬を引っ張られて、鼻をつままれても、ひとまず芳香は我慢する。主の主、みたいなものだから、よくわからないが、えらい人。たぶん。逆らっては、いけない。
「芳香。宮古……芳香」
「えーと、なんだ?」
「君は、どうして芳香なのでしょうね」
「なに、なんのことだぁ?」
呼びかけてはくるものの、神子は芳香を見ていない。ほとんど独り言の様相である。それも芳香は気に入らない。胸の奥がもやっとする。
時に神子は芳香の胸元にもぐりこむようにして、頭をぴったりくっつけてじっとしていたりする。稲穂色の柔らかな髪を見おろして、芳香は困る。どうしていいのか、彼女がどういうつもりなのか、わからない。
「うー。あー」
そうしているうちに、眠気がどっかへ行ってしまうのだ。
――千四百年の昏き帳は晴れ、聖人目覚めたり。
神子は宙を飛んで、人里の辻に降り立つ。
桜が散り、春の終わりはだらだらとむし暑く、しばらく雨が降らないおかげで土ぼこりが舞っている。
昼すぎて人々はせわしく行き交う。里でも一番大きな四辻である。かついだ鍬の先に青菜の束をぶらさげた逞しい農婦と、老人の引く炭を積んだ荷車がすれ違う。丸坊主の男の子が声をあげて、少し背丈で負けている女の子を追いかけ、その足元を黒い犬がジグザグに駆けていく。
(民は変わらない)
そろばん片手のあきんどがちらり、と神子に目礼を寄越す。すっきりした髪型の彼は、神子には馴染みのない洋装でつやつやした靴を履いている。
(人は何も変わらない)
片目をつむり、耳を澄ませる。声ならぬ声の奔流が押し寄せ、神子のもとへ殺到し、力を抜いてたゆたう彼女の身体をかけあがって噴水のようにうねる。
金がほしい。女を抱きたい。楽しい思いがしたい。長生きをしたい。もっと自分のことをわかってほしい、知ってほしい。
(何も変わらないな)
通りには人ならぬものの姿もある。人と変わらぬ様子で歩いているものもいれば、家々の隙間から隙間へひっそり忍んで、暗くなるのを待っている影そのもののような存在も紛れている。
そのうちの一人をずっと目で追っていると、神子に気づいた相手が近寄ってくる。見た目は人間の少女と大差ないその背には、鳥に似た羽が生えている。
「何見てるの?」
黙っているのを怯えととったか、妖怪娘の唇から白い歯が覗く。
「妙な風体してるね。あんた人間?」
「さあ」
妖怪は胸元にしっかと分厚い書物を抱えている。「どうでしょうね」
「なにそれ。馬鹿にしてんの? 里の中だからって油断してると、オレサマオマエ丸カジリ! って……」
神子は少し目に力を入れただけだ。羽と髪をぴょんと逆立てると、妖怪はおずおずと後ずさりする。
「つまらない」
「な、なに?」
鳥の羽先がわかりやすく震えている。
「化生のいのちを丸ごと俯瞰してみたところで、人ひとりの生の厚みに遠く及びません。君はそうね、空行くけだものの地上に落とした概観の一滴、安っぽい同情の具現化したものでしょう。実にちっぽけなものだ。そんな書を読んでみたところで、何も変わりませんよ? ほら、ほら、去りなさい」
「う。う……うわーん!」
鳥っぽい姿のくせに小走りに逃げて、妖怪は板塀の向こうに消えた。
(まったく、つまらない)
風がおこり、砂が舞い上がって、神子は髪を押さえる。人通りがしばし途絶えた路の上に、長く垂れ下がる自分の影を、彼女は長いこと見つめていた。
夜もふけて、月も出て、祀廟を移して構築した道場に松明が点々と灯る。天井の高い広間に入ってきた布都は、長椅子に乱暴に腰を落として足を投げ出した。
「これこれ。行儀の悪い」
ゆるゆると降りてきた屠自古が、指を立ててとがめる。
「これが落ち着いていられようか!」
バネ仕掛けのように顔を跳ね上げて布都が吠える。その頭の烏帽子をとりあげ、つむじに置いた指を屠自古がくるっと回すと、逆らわず布都はこちらを向いた。
「太子様の御前よ。頭が高いひかえおろー」
「おお、こ、これはしたり」
二人並んで、ぺこりと頭を下げる。屠自古のすまし顔からは、布都をからかっているのかどうかわからない。こんな物言いをする娘だったか、どうか。
「いえ、私のことはお構いなく。どうぞ続けてください」
「そういうわけにはいきません!」
「えっ」
道場についてはそれらしく古びた調度品で統一されているものの、神子たちの集う広間や食堂は青娥いわく「便利なのが一番」と、彼女がこれまでこつこつ祀廟に集めてきた家具や道具が並べられ、和洋折衷古今東西ごちゃ混ぜな有様だ。西洋風のそふぁーなるものに身をうずめ、にごり酒をちびちびやっていた神子に、えらい勢いで布都が詰め寄った。
「だって、他ならぬ太子様のことですゆえ!」
「ほう?」
「結局幻想郷のものどもも、太子様の偉業の数々をろくに知らない。理解しておらぬ。我はそれが歯がゆくて歯がゆくて」
肘掛けに置いた小皿から香の物をつまんで、神子は布都の開いた口にそっと押し込んだ。
「むぐ」
「美味いでしょう」
「は、はい」
「私の偉業。それは果たしてなんでしょう。なんたら法律とか、うんたら制度とかでしょうか。今生きる者にそれは関わりあることでしょうか」
近頃布都は熱心に里の者の間に混じって神子の徳とやらを大いに喧伝しているらしい。布都の頬は赤みを帯び、額にかかる髪が渦を巻いている。復活してから、日に日に彼女は人間らしくなる。神子はそう思った。
「いや、しかし」
空っぽになった杯を握ったままでいると、上から降りてきた屠自古が壷から注いでくれる。目をあわせると、ほほ笑みを返してくれる。
「私の一番の偉業は民に混じって畑を開いたことですね。汗を流して、斑鳩の宮を見おろす丘で、大きな蕪がたくさんできました。あれは、いい思い出です」
「ええ、まったく。ああいうの、お好きでしたわね」
いきなり石造りの床を声がすべり、神子のつま先のすぐ前からひょっこり青い前髪があらわれる。
「おや青娥殿。お帰りなさい」
頭から肩、胸から腰と、水から抜けるようにあらわれた仙人は、一同を見おろして冷ややかに笑う。
「ただいま戻りました。思い出話ですか」
「そういうわけではありません」
もの言いたげな布都を尻目に、青娥はふわりと宙に浮かんで繊細な指を組んだ。
「そう。ああいう偽善がお好きでしたわね。私、豊聡耳様のそんなところが大嫌いでしたわ」
ふと、緑に包まれた古代の山々が、神子の脳裏にあざやかに浮かび上がった。土にまみれた自分の手を、いつかの神子は、確かに見おろしたのだ。
「そういう言い方はないのではないか」
指を突きつける布都の袖を引っ張ってなだめ、一方の手で神子は杯を差し出す。
「ふふ。やっと調子が出てきましたね、娘々」
「本当ですよ」
うやうやしく杯に口をつけ、一転して青娥は、愛敬たっぷりのしかめ面になる。
「お二方がいつまでもぐうぐう寝ているから、寂しくてわたくし性格が歪んでしまいましたわ。ねえ?」
するすると近寄られ手を握られて、布都は頭をかいてそっぽを向く。
「屠自古、さあさあ来い。今日会ったものどもの話をしてやろう」
屠自古を烏帽子につかまらせ、布都は部屋の真ん中であかあかと燃える置炉に向かって歩いていく。
「そうそう」
招かれて神子の隣に腰掛けた青娥が、ぱちりと手を打ち合わせた。
「豊聡耳様、最近あの子にご執心とか。いったいどういうおつもりで」
「ふむ」
飛仙の横顔に含むところはなさそうだった。「芳香は何か言ってましたか」
「今はいい子でおねんねですわ。このところたずねてくる者がいてよく眠れないー、肌が荒れる、と訴えていたのですが、まさか豊聡耳様だったとは」
「そうなんですよ。私なんですよね」
悠々と杯で口元を隠す神子に、しばらく黙って肩を寄せていた青娥だったが、やがて羽衣を背にかけ直すと、広間を囲む青い暗がりにひらりと消えた。
千数百年の眠りも、過ぎてしまえば刹那である。水泡のようにおびただしい夢を見た気がするが、そのほとんどは記憶からこぼれ落ち、逆巻く時間の波に呑まれた。
墓標のように、そして強烈に残っているのは、死の恐怖だった。長い眠りを何度か区切り、それは定期的に神子を襲った。そこから逆に辿ると、何処かの誰かの一生涯が、おぼろに浮かび上がってくる。異国の地の太陽や、見たことのない服に身を包んだ人々が、砂に描かれた絵のように吹き過ぎる。時に神子は男であり、僧侶であり戦士であり、病人でもあったかもしれない。
全くの夢なのか。それとも神子は、現実に他者の生を体験したのか。具体的なことは何も思い出せず、ただ死の手触りだけはいまだに生々しい。
死んで不死となる、というのはこういうことなのか。
停滞した仙界の夜気が、ほんのわずかに動いた。
「誰です」
明かりをすべて消した部屋に、光り輝く小人が現れる。
『宴会するよ』
人物はだしぬけに言った。寝床から身を起こした神子の前に、ゆらゆら遠慮なく歩いてくる。小さな頭には不釣合いな大きな角が左右に伸びている。
「宴会ですか」
胡坐をかいた膝にそいつはぽんと飛び乗り、小さな瓢箪を口にあててごくりと喉を鳴らした。
「なるほど。あなたは鬼ですね」
「そーそー」
からから笑い、神子の膝をたたく。小鬼の重みは感じないが、体の熱は伝わってくる。
「気楽に顔を出しておくれよ、聖人さん。ま、これもしきたりみたいなものさね」
寝巻きのすそを引っ張ってうながすので、手に乗せて窓際へ歩いていく。青い夜空にまばらに星が散っている。ここから見える空は、幻想郷のそれとは少し異なる。
「よく、ここに忍び込めましたね」
「忍び込んだんじゃない」小鬼はひょいと窓枠に飛び移る。「門番は木偶の案山子だし、そのまままっすぐ歩いてきただけさ。まあ、ちょっとドジ踏んじゃったけどね」
「ほう?」
戸口がさわがしい。神子がちょっと目をそちらへ向けて戻すと、小鬼の姿はすでにどこにもない。
「太子様、侵入者ですぞ!」
あわただしく駆け込んできた布都は、ランプをかざして部屋のあちこちをぐるりと見回し、寝床の下まで顔を突っ込んで、神子の横までやってくると窓から身を乗り出した。
「布都、布都。まあ落ち着きなさい。大事ありません」
「しかし、過日の巫女といい、こうも簡単に入り込まれるとは」
いらいらと足を踏み鳴らすものの、大きめの突っかけを履いているせいで、ぺたぺたと迫力のない音がするばかりだ。
「可愛い小鬼は、私を妖怪どもの宴に誘いに参ったのです」
「なんと!? なりませぬ。よからぬ計り事に相違ない。妖怪は仙境のまれびとの肉を好んで喰らい、力をつけるとも聞きます。共に酒をのむどころか気づけば彼奴らの酒肴ですぞ」
「なかなか面白いことを言いますね」
「太子様!」
「布都」
窓際の長持に腰をかけ、布都の手を握って引き寄せる。窓穴に置かれたランプが風にあおられ、ジジジと音をたてて燃える。
「見えますか」
神子の指の先で、道場を囲む幽玄の霧がすっと晴れ、夜空に猫の目が現れる。
「月読ですな」
「ええ。あれこそ、あやかしの力の源泉です。……流転するくらき力の、それは象徴。豊穣に処女性、裏切りを意味する三つの顔の女神。夜の風穴。人心を惑わし、迷わし、存在するものを隠しあり得ぬものを見せる、妖怪と夜の守護者。しかして……」
自らの噂話に興味がないとばかりに、月は春の空に縁をうるませている。
「その正体は、直径3470キロの岩塊」
「は? え、今なんと?」
大きく見開いた布都の瞳の奥で、神子は皮肉な笑みを浮かべている。
「岩の塊なのですよ。かつて熱い時代もありましたが今は冷えて固まっています。衛星としてはまあ大きい方、木星のイオに次いで太陽系五番目の大きさですが、それでも、我々の暮らすこの大地にくらべれば、直径にして四分の一、質量に至っては八十分の一しかありません。ちっぽけなものですよ。ああして輝いていても、しょせん太陽の映し鏡にすぎない。自らの光ではないのです」
「いお? たいようけい? はてさて、うーむ……」
腕組みして考えに沈んでいるのを観察していると、からかわれたと思ったのか、「神子も人が悪い」と布都はさばさばと笑った。片膝を椅子にのせ、なつかしい呼び方をする。
今ならばと神子は思った。長きにわたる尸解の眠りのことを、彼女に打ち明けてもいいかもしれない。なんといっても布都は、同じ眠りを体験した朋友なのだから。
「つまりはまあ、あれです。妖怪なぞいい加減なものなのです。そう思っておけば間違いはない」
いつしか月はふたたび靄にまぎれ、夜の鳥がほうほうと鳴く。
同じ眠り。……本当に?
それはよく覚えている。昨日のことのようにあざやかな記憶。
青娥とともに布都の屋敷を訪れ、引き返す夕べの空はあかあかと輝き、神子は曇りない心でいた。鉱毒に蝕まれた手足の先が時折痛むが、贖罪のあかしのように清々しくもあった。
布都はきっと、青娥の渡した毒をのむだろう。彼女の遺体が朽ちなければ永遠に至るすべがあることになり、そうでないにせよ、神子ももう長くは生きられない。孤独な死の道行きに連れを得ることができる。
合理的だと考えた。誰も損をしない。蘇我に加担した物部布都は償いの場を求めていたし、神子の周辺に疑惑の目を向け始めている馬子に対する牽制ともなる。無駄のない手だ。
ところが屋敷に戻り、日が落ちると、神子はにわかに暗い衝動に見舞われる。それはひどく感情的で、まったく秩序だっていない感傷だった。いそいで屠自古を呼び馬を用意させ、夜道を急ぐ。
(布都、布都)
(早まってはいけません)
(まだ死んではなりません。布都、お願いだから)
うわごとのようなつぶやきが、心の奥から後から後から湧き続けた。
布都の屋敷に着き、案内を待たずに奥の間へ入っていくと、簾に囲まれた床に横たわる白い顔がある。頭のすぐ上に、水差しが倒れて中身がこぼれていた。
まるで神子を待っていたかのように、天井からするりと青娥が抜けて現れた。
「……どうです?」
平静を装い、神子はたずねた。
「もちろん、これからの経過を見ねばなりません」大陸から来た仙人は抑揚のない硬い声だ。「けれど、おそらく成功でしょう。ここにあるのはただの死体ですが、天地の気とつながっているのをわずかに感じます。……豊聡耳様?」
神子は膝をつき、おそるおそる手を伸ばして、布都の額に触れた。木の肌に触るような感触が戻った。
「人に見られては厄介です。首尾は私が確かめる手筈でしたでしょう? 豊聡耳様……」
神子は返事をしなかった。
(同じではない)
千四百年後の神子はきっぱりと訂正する。
(同じ眠りであろうはずがない)
償うつもりなどではなく、ただ違うのだ、と。
+++
聖人、幻想郷に蘇りあまた衆生を救う!
そんなことを新聞に書かれ、目覚めてのちしばらくは、神子が姿を見せれば人も集った。今はその騒ぎも落ち着いているが、里に佇めば拝んで通る者がいる。土のついた大根を老婆に持たされる。
月に一、二度開かれる、隠居衆や世話役の寄り合いに顔を出しても、自然と受け入れられた。誰それの家の屋根に穴があいた、修繕をどうするかとか、そういう話題ばかりで、神子はすぐに退屈してしまったのであるが。
細く流れる川筋を跨ぐ石橋に立って、なだらかな斜面に広がる耕作地を眺め、神子は風に吹かれている。
ほとんどの田畑はまだ作物が植わっていないが、農夫たちの格好は昔とかわらないようで、手にした道具、整理された水路と、格段の進歩が感じられる。少ない労苦で多くの収獲が得られるよう、たゆまぬ工夫が積み重ねられてきたのだろう。
おびただしい時間の中で人々は、生まれて死に生まれて死に生まれて死にながら。
(私は、眠っていただけね)
川べりに少女がしゃがみこみ、砂をほじくり返している。よく見れば貝を集めているらしい。籠の中身はタニシばかりで、みすぼらしい服装といい、きれいな貝殻を探す遊びをしているわけではないらしい。
そこへ、土手を駆け上がってきた男の子たちの一団が声をかける。友好的には見えない。風にきれぎれの声を拾うと、批難されているのは少女に父親しかいないことと、その父親がろくに働きもせず酒ばかり飲んでいること。どちらも彼女の罪ではない。
一人が足元の小石を拾って女の子に投げる。石ははずれて川面に落ちた。少女が身をすくめて立ち上がる。
腰にさげた剣の柄を、神子は石の欄干で打ち鳴らした。甲高い音の出所をさがして、子供らがきょろきょろ首を回すのに、一向にこちらに気づかないのが、少々気にさわった。
「愚かしい真似はよしなさい」
橋の上を通りがかる者が振り返る。神子を見上げて目をしばたいた悪童たちは、ふてぶてしい背中で橋の下へ消える。自分の手足を見おろして神子はため息をついた。なぜ、子供らに自分の姿が見えていないのではないか、などと焦ったのだろうか。
一人残った少女が視線を送っているのも構わず、神子は橋の傾斜を下って畑の間のあぜ道をぬっていく。花の散ったばかりの花海堂の茂みの上に、急峻なシルエットがぼんやり浮かんでいる。
幻想郷随一の高峰は、「妖怪の」山である。天狗や河童がぞろりと棲みついているという。
神子たちのことを報じた新聞も、そのほとんどが天狗が書いたものだというから驚きだ。妖怪の書いた記事を人間たちが読む。そのことを、誰も不思議に思っていない。
(まったく、出鱈目な場所だわ)
天狗は、高度な社会性を持つ妖怪で、彼らの社会構図は、まつりごとの指導者もろくに定まらないこの里の人間たちに比べ、はるかに複雑だといえるだろう。
(もしも、私がこの人間たちを治めるなら)
手始めに妖怪との関係に一線を引き、代わりに定期的に使節でも派遣するか。
(また船でも送るのか? ふふ)
それなら、人間の側もきちんと法に基づいた組織が必要になるだろう。商人や工芸職人、農民たちから代表を選び、とりまとめた意見が話し合われる議会を設ける。代表を選ぶ方法をどうするか、予算の配分は。
考えているうちに愉快になる。鼻歌まじりに丘を登ると、遅れ咲きの桜が桃色の花を垂らした下にちっぽけな小屋が立っている。農具などを仕舞うものだ。扉の取っ手に指をかけるとぎしりときしむ。
ここでいいだろう。
扉をあけて歩みを進め、すぐに振り返る。すでに入り口は消失し、向き直ると祀廟の境界をしめす石塔が二本そびえている。空には黄色い霧がかかり、ゆらり、と左右に揺れながらその下から現れるのは。
「あら。君が昼間から起きているなんて、珍しいじゃないですか」
芳香は若干不満げに唇をとがらせている。
「起こしたのはあなた様だー」
「おや、そうでしたか」
行きがけに彼女の寝床に立ち寄り観察していたのだが、やはり起きていたのか。
「うう。にきびができたらどうするんだよぅ」
ぎこちなく首をかたむけて確認しているその突き出した手を、神子はそっと握る。
彼女の手はひんやりとして、けれども陶器のような温かみがあるのだ。
大祀廟の構造物は、おびただしい柱に支えられて宙に浮いている。かつての出雲の社に少し似ている。
全体の見た目はそう、人工衛星だ。外の世界の人間が飛ばした人工の星に、イガグリのような、ああいう形状のものがあったはず。
神子は眠っていても、時代ごとの最新の知識が自分に流れ込んでいることを知っていた。真偽のほどは、この目で確かめないとわからないけれども。
イガグリの「イガ」が突き刺さる地面は分厚い苔が覆い、いたるところに泉がこんこんと湧いている。仙境の浄気を循環するその水は甘く、肌触りが優しい。
芳香をつれて道場の最下層というべきこの場に下りた神子は、肌着一枚残して着衣を乾いた苔にあずけ、突っ立っている彼女の服を脱がせにかかる。
「ほら、芳香。じっとしていて」
「うー。で、でも」
「娘々でないから恥ずかしいですか? 私の手で、あなたをいたわってあげたいのです」
「おおーぅ」
服に隠されていた彼女の肌は驚くほどになめらかに整っている。正直、凄惨なものを見る覚悟すらしていた神子は内心舌を巻いた。
『あの子の手入れは手がかかるのです』とは青娥の弁だが、意外とずぼらな彼女のこと、もう少し手を抜いているのではと思っていたのである。
一糸まとわぬ姿に剥いた芳香を横抱きにして泉につかる。腰を落とすと、乳房の下まで水位がくる。
右の脇下あたりに泉の湧出口があるようで、吹き出る水流が少しくすぐったい。仰向けに膝の上に横たえた芳香の肩に、水をすくってかけてやる。
別に汚れてはいないが、首筋や耳の裏、脇から丹田へと指を送り撫でこする。神子からずっと離さずにいた芳香の目が猫のように細くなる。
「気持ちいいですか?」
「……うん」
「芳香は、胸が大きいのですね」
「そういうことは、胸にしまっておけぇ」
静かだ。
水の音以外、何も聞こえない。
見上げると、杉林のような柱が天に向かって収束し、隙間からはオレンジ色の日差しが粒子となってゆっくり下ってくる。
ひととおり芳香の身体の隅々を清めて、神子は自分も横になり泉の中に足を伸ばす。沈まないよう芳香の肩に手を回して、身体の側線をぴたりと合わせた。筋肉がほぐれたのか芳香の両腕は頭の上に投げ出されているから、隙間なくぴったり二人の上体がくっつく感じになる。
泉の水はゆらゆら揺れて、神子の腹の起伏に寄せては返す。
額に貼られた札の下で、芳香は目を閉じている。まぶたの輪郭にそって伸びた睫毛の先端が細かく震えている。彼女の身体をめぐる気の流れが余って発散しているのかもしれない。
(君は、生きているのですか?)
心の中でそっと呟く。
こうやって密着していても、鼓動も脈拍も伝わらない。当然だ。彼女は死んでいるのだから。
けれど呼べば応える。触れば反応する。そのたび神子は安堵し、同時に不安となる。
ならば生きている、とはどういうことなのか?
人間の臓器を取り出し、そこに電流を流せば筋肉は伸びたり縮んだりする。そういう知識がある。肉体という個人から切り離されていても、おかまいなくそうなる。
耳あてを外した耳を、芳香の二の腕の裏に当てた。血流ではないが、皮膚の下で何かが素早く走り抜けていく気配を神子は感じている。屠自古の雷矢のような、電気の信号をイメージする。
芳香も同じ、切り離された臓器なのではないか。あるとき、そう思ってしまった。意識や思考があるのは見せかけに過ぎず、青娥の送り込んだ電気の矢に反応し、筋肉を伸ばして縮めているだけの存在なのではないか。
そして生きているはずの神子は、それと何が違うのか。
かつて仙丹の毒に侵された神子は青娥を疑った。自分は唆され、つまらない策略にはめられただけなのではないかと。しかし神子の才を愛する彼女の、揺るぎない欲を信じることにした。長い眠りののち目覚めた神子は別の疑念を確かめられずにいる。芳香のように、死体の神子をあやつる選択も青娥にはあったろう。そうしなかったのは何故なのか、そして。
(私は、本当に生きているのだろうか)
頭上に気配を感じて、神子は小さく動揺する。光の階段を下るようにして近づいてくるのは屠自古だ。
身体を拭くための幅広の布を手にしている。
「太子様、冷たくありませぬか」
ざぶりと水から身を起こすと空気がほのかに暖かく感じられる。「おーう」と跳ね起きた芳香は泉から飛び出して、上機嫌にあたりを跳ね回る。
「これこれ、芳香殿。これは目の毒じゃ。何か着て、ほら早う」
赤面して袖に顔をうずめる屠自古はぶるぶる震えて、電気の矢がめまぐるしく周囲を走る。近づけばぴりぴりと肌に刺激が走る。
あやかしと一線を引いた生き方なぞ、この地では無理なのかもしれない。神子は先だっての考えにおもむろに斜線をひいた。
「あ、裸。だった。うぅ。これは、申し訳ない、ごめん」
こちらは赤面できずに棒立ちしてがくりうな垂れた芳香に、神子は笑って、大きな敷布を頭からかけてやる。
夜半から雨が落ち出した。
風はなく、濡れ始めた土が年寄りの布団じみて匂いはじめる。
木陰に入り込んだ神子は、屠自古の持たせてくれた唐傘をたたんで空を見上げる。
神子のすぐ前には小さな地蔵堂が立ち、そこから道がやや下って、細い側溝をまたいで農家の庭になる。その先には黒い屋根の長屋、通りに面してぼうっと燈るのは里でも一番はずれの赤提灯だ。
神子のところまで届く下卑た笑い声。しばらく見ていると、暖簾を跳ね上げた影が一人、こちらへ向かって歩いてくる。ふらふらとおぼつかない足取りで、案の定、神子の目の前で側溝の蓋につまづいてひっくり返る。
はずみで転がった提灯が消える。聞き取れない悪罵をつぶやきながら立ち上がったところを見るに、初老の男である。しゃくるように首を振り、火の消えた提灯を拾い上げて、低い笑いをこぼしながら歩きはじめる。
神子は首をかしげた。男の歩く先は里の外になる。一部の猟師などは山の近くに住んでいるらしいが、身なりと腰にさげた巾着からして男は大工か左官である。帰る家がある方向とは思えない。
男の行く手を雑木林が待ち構えている。雨とともに夜明かりも木の葉にさえぎられ、一寸先も見えない闇が幕を下ろしている。男はそこへ、ためらいなく踏み込んでいく。神子はなるほどと得心する。
枝に溜まった夜露がぽたりと男の肩に落ちた。にやけた男の横顔が肩口に向いて、破れて汚れた提灯を持ち上げると、びくりとその身体が震えた。
ぎゃあああああぁぁ
いがらっぽい悲鳴を叫び、尻餅をついた男が地面を足でかく。左手を狂ったように振り回し、熱で溶けたガラスのように身をよじって、提灯からできるだけ遠ざかろうとする。
「怖れることはありません」
神子は声を張り上げ、すばやく印を結んであたりの梢の先に火の球をむすぶ。突如昼日中のように白く照らされた道の上で、汗だくの男がぶるぶると首を振る。
「貴方の手にしているのは人間の生首ではないし、髪が絡んで手が離せないというのも錯覚です。ついでに、手招いている裸の女など存在しません。さあ早く、私の背後に向かって落ち着いて、進みなさい」
提灯を投げ捨て、転がるように男は神子の横をすりぬけ、林の出口へ駆けていく。火球を手のひらに集め、神子はふっと吹いて消す。
ごうん、とほど近いところで寺の鐘が鳴り、遠ざかる人間の足音を完全にかき消した。
「つまんないのー」
闇の底から声がかかる。勢力を取り戻した暗闇は、神子といえど見透かせない。
「余計なことしてくれちゃってさ」
同じ声が、先ほどとはまるで違う梢の高みから降りかかる。その声はあきらかに少女のものでありながら、どこか金物を擦り合わせるような耳障りな反響をはらんでいた。
「くーき読まない石頭は嫌われるよ? 妖怪にも、そして人間にもね」
くくく、ふふふ、あはは。
横から前から下から、声は縦横に走りぬける。大勢の悪意に囲まれているかのように。
「私は、そう、あるべきものはあるべき姿をしている必要がある。すべての本質は知られるべきである。そう思っているだけなのです」
神子はかがみこんで、置き去られた提灯を拾い上げ、破れた風防を指でつつく。ぼんやりと明かりが灯った。
「提灯なら提灯に見えるべきです。他のものに見えてはならない」
炎は、風防をはみだして燃え上がり、神子が手を離すと地面に落ちる前に提灯を燃やし尽くして、消えた。
「それがつまんないって言ってんの!」
語気の荒さと裏腹に、今度の声はすっかり一人分の少女のサイズに縮んでしまっている。
「封獣ぬえ」
呼びかけられた闇がぎくりと凝固する。がさがさと下草が落ち着かなく踏みしめられる。
「さしずめ、君もまた本質を隠したいあやかしなのでしょう。それとも、あまりに正体がみすぼらしいから知られたくない、とかですか?」
「……おい。そのくらいにしとけよ。そうじゃないと――」
「鼬? 穴熊? 鼠? 獣なら何でしょうかね、君の大元は。それとも物だったりしますか。茶釜? 鏡? 洟をかんだ紙、とかね」
「お前っ!」
闇がぐっと膨れ上がる気配。はじき出された影の一部が矢のように飛び過ぎて、神子の頬や二の腕に小さな痛みがはしる。
もう一度、鐘の音が響いた。
いったん腹にたまる振動が、胃壁をひろげて手足へつたっていく。
「……ふん」
運がよかったな。そんな捨て台詞が聞こえた気がした。雑木林に雨音が戻り、神子は唐傘を広げて歩き出す。
ほどなく林が途切れ、水を抜いた田んぼの先に明かりが見えてくる。色あせた土塀を囲んで道には草が生い茂り、門構えからして年季を感じさせるが、この命蓮寺はごく最近にできたばかりのはずだ。
神子たちの眠っていた、大祀廟の真上に。
塀の上に飛び上がり、山門の屋根に手をかけて神子は睥睨する。
右手に墓地を眺めて参道が伸び、中門をくぐった先に大きな鐘の吊られた鐘楼が立つ。その向こうの本堂は少しばかり奇抜な形状をしている。空ゆく船に姿を変える、というのはあながち嘘ではなさそうだ。正門のほか三方にも小さな門、境内の対角の四隅には小塔らしきものも見える。その下に眠るものを封じ込める、普遍的な術式と神子は見る。
「とはいえ、もう出てきちゃいましたからね。この配置ももはや無意味ですね」
鐘楼から、明かりを手に降りてくる人影がある。かなり離れているのではっきり見えないが、神子はその人物がこちらを見ていると確信していた。
人影は立ち止まらず、ひときわ明るい窓の庫裏に入っていく。
妖怪寺、と人は呼んでも静かなものだ。神子は境内に飛び降り、参道を折れて墓地へ入っていく。仙界へ移す前の祀廟に通じる道の入り口がこの墓地の奥にあり、芳香がそこを守っていた。
雨の勢いが若干強まる。石畳に雨粒がはじけて神子の足首まで濡らす。墓石の群れは暗がりに白く光り、いつかの布都の、息絶えた横顔を思い起こさせる。
(思えば)
すべて遠くなったものだ。なつかしい時代も故郷も、あらゆるものがかけ離れている。神子はあらためてそう実感した。
(命蓮寺、幻想郷の仏教の拠点、妖怪の味方か)
「奴らは敵、まぎれもない事実ですぞ!」と息巻いたのは布都だが、神子は迷っている。霊廟が命蓮寺によって抑えられていたのはほんのわずかの期間でしかない。差し引き千数百年の眠りには遠く及ばないのだ。
たいして関係のない相手。そう思ってもいいのではないか。
「太子様」
柿の木の枝の影をひょいとくぐって現れたのは屠自古だ。
「お帰りが遅いので、気になって」
「おや珍しい」
亡霊となった彼女は、あまり仙界から外へ出たがらないのだ。
「でも私には、ぴったりの場所でありましょ?」
墓石に手をついて、屠自古はたなびく霊魂の尾を波打たせる。
神子はそっと傘をさしかけた。
+++
雲にとどく山の頂にはまだ白いものが残っている。
布都を伴い、神子は中腹にある守矢の社にやってきた。小鬼の伝えた宴会の日である。
屠自古は来たがらず、青娥は朝から姿が見えなかった。寝床の芳香は呼びかけに応えなかった。また、神子が嫌がらせに来たと思ったのだろう。
博麗の神社でもなく寺でもなく、わざわざ「妖怪の」山の奥で行うところに意図を感じないでもなかったが、布都は「望むところじゃ!」と勇んで支度にずいぶん時間をかけていた。たぶん袖の内には弾幕の勝負で使うような小道具でいっぱいだろう。
神子たちは守矢神社へ直接道をつくらず、あえて麓から山肌を見おろして上がってきた。こちらが山へ立ち入るぞ、という意思表示でもあるが、幻想郷の実態をたしかめるためでもあった。
布都は始終、
「太子様は我が守る!」
と意気込むのだが、片手はしっかり神子の腰布を握って離さない。連れ立った天狗などとすれ違えば身を摺り寄せて、
「こ、これほどまでに妖怪どもの勢力が圧倒的だとは……」
心細げにつぶやく。
そんな彼女も、いざ神社に着いてしばらくすると調子を取り戻す。もともと度胸があって社交的なのである。妖怪を呼びつけて酌をさせるし、芋の煮付けの味付けに文句をつける。しまいに、「我が手本をみせてやろうぞ」と守矢の巫女について煮炊き場へ入ってしまった。なにげに彼女は料理もうまい。
「山はどうだい。聖人さん」
森の向こうの湖のきらめきを眺めて酒を舐めていると、先日の小鬼がちょこちょこと歩いて神子の傍へやってくる。
「少々、肌寒いですね」
「だろうね」
どんぐりぐらいの、小さな瓢箪からぐびぐび呑んでいる。
「貴方の本体に会えるかと思っていたのですが」
「私は、山の連中から煙たがられているからね。まあ、今日はあんたも来てるし、文句は言われなかっただろうがね」
「なるほど。妖怪といえど、いろいろあるのですね」
「そういうこった」
小鬼はうなずき、お客さんだよ、と神子の膝をつつくと霧のように消え失せる。
神子は振り向いた。神楽殿の横の石段をゆっくり上がってきた女は、一礼して神子が肘掛けによりかかっている、葡萄色の敷物に膝をつき、もう一度深く頭をさげた。
「命蓮寺をあずかります、白蓮と申します」
神子の驚いたのは女のなまめかしさである。それは彼女の身中から光のように発している。生きて求め続ける欲望が奔流となり穏やかな皮膚の下を駆け抜け、すべてが融和している。圧倒的に女なのである。その熱量のほんの一部は神子の内にもあり、ほんの一部しかないことが、無性に恥ずかしい。
これはかなわない、と思った。
「お目にかかれて、嬉しいですわ」
神子は黙ってにこやかに酒をすすめる。断るかと思ったが、にじり寄った白蓮は髪をかきあげ勢いよく杯を傾けた。
「尼公はなかなか解脱していますね」
「お恥ずかしい。けれど、妖怪と生きればこれは水のようなものです」
桜色の唇の先端が、濡れて光っている。
参道をはさんで、すのこ状に並べた板敷きに茣蓙を敷き、妖怪たちがてんでに群れている。ある集団が食い入るようにこちらに見入っていることに、神子は気づいていた。凛々しく立って正対する妖怪は、なんというか全身虎っぽい。白蓮を慕うものたちだろう。
「君は――」
居住まいを正し、何か言いかけた白蓮に、神子はびしりと勺をつきつけた。とたんに、四方八方からの視線が加わる。見て見ぬふりの天狗たちも、やはり神子たちのやりとりに注目しているのだろう。
「次にこう言うでしょう。聖徳道士、貴方ももはや人間ではない、と」
意識の底で手繰った言葉は、つるりと口から出たところで、神子自身をおだやかに納得させた。
(なるほど。いやまあ、そりゃそうよね)
こんな人間はいない。
一方、白蓮は慌てている。口を手で押さえて、おどおどと目線の行き場を探している。
「そういうことが言いたかったのでしょう」
「え、あ、いえ、そうですね。……そうかもしれません」
神子よりも肉の厚い腕と肩をすぼめて、「嫌ですわ」と彼女は呟く。
「私、道士様に、何か伝えることがあるような気がしていたのです。助けられることがあるのかもしれないと、そんな気がしていたのです」
「助ける?」
雲間から日差しが下りて、背にかかる白蓮の髪が山吹色に輝く。
「寺へ来るものたちからの又聞きで、あなた様のご様子などうかがうにつれ、そのお心に少なからぬ煩悶があるのではと思えてなりませんでした。長きにわたる現世との断絶が、癒しきれない残酷な分裂を道士様に強いているのではありませんか? さきほど、お姿を遠目から拝見して、確信したのです。私には果たすべき役割があり、それをためらうべきではないと」
すでに彼女は、若き詩人に天啓をあたえる女神のように落ち着き払っている。
「それなのに私、肝心のその中身をわかっておりませんでしたの。何を伝えるか考えもせず、のこのこやってきたのですわ」
浅はかですわね、と笑う。
神子は薄暗い感情をどうにか抑えている。神子たちの復活を阻もうとした張本人のくせに、というのはしかし苛立ちの理由ではなかった。目覚めてしまったのなら仕方がない、こちらにもあちらにも思惑というものがあるだろう。
「尼公は、強欲だな」
ようやく搾り出すように言った。
「はい」
膝の上に置いた手を柔らかく握って、白蓮はうなずいた。二人ははじめて、正面から見詰め合った。
「大きすぎる君自身の我欲に足らず、私のあり様にも口を出すというの?」
「そうなりますね。お恥ずかしいことです。私は私自身の欲をも、持て余しているのかもしれない」
「いえ、それは良いことです。み仏の教えは、人の欲に寛容でないところが間違っている」
「そうでしょうか」
「ええ。人の欲は、可能なかぎり叶えるべきです。それがまつりごとの基本だ。けれど、私には」
声が熱をおびた。神子が踏みとどまったのは、石段の下から見上げる視線に気づいたからだ。布都は手に揚げ物を山と積んだ皿を持ち、剣呑な目つきを白蓮の背に向けている。神子は勺をもたげてこちらへ気づかせ、案ずるなと首を振ってみせた。
(聞こえないのですよ。私自身が欲するところ、それが)
「道士様」
白蓮の前には神子と同じ杯が置かれている。二つならべた杯に酒を注ぎ終え、白蓮は徳利を置いて笑みを浮かべる。
「ひとつ私と、勝負しませんか?」
ふと、妖怪たちに混じって青娥の気配を感じた。上手く隠しているが、あきらかな関心をこちらに向けているために、神子にはわかってしまう。
「勝負ですって?」
「はい」
白蓮のこすりあわせた手のひらから、手品のように垂れ下がったのは小ぶりの数珠だ。大きめの珠のひとつを摘んでひねると、ぱかりと二つに割れて内側に空洞がのぞく。
「魔界に封印されるとき、私はひとつの覚悟としてこの中に毒を封じて持ってゆきました。さいわいにして使うことはなかったのですが、今、その毒をこのどちらかの杯に入れたと言ったら、いかが?」
にこにこと白蓮は、うやうやしい手つきで二つの杯を神子に向かって押し出す。
「ほう」
勺で口を隠して、神子も身を乗り出した。
(なるほど。こっちはたぶん、妖怪が化けているわね)
神子はすぐに見抜いた。向かって右の杯からかすかな妖気を感じる。どちらに毒が入っているかまではわからないが、酒を注ぐところをしっかり見ていたわけではない。そもそも白蓮のハッタリで、毒など入っていない可能性もある。
「附子を練って成したものですから、もうとっくに毒ではなくなっているかもしれません……」
そう言いながら、白蓮は目を閉じてさらに手で顔を覆う。杯を入れ替えろ、ということだろう。神子は身じろぎひとつしなかった。
「同時に飲み干しますの。どう?」
神子は深くため息をついた。
「そんなことをして、君に何の得があるのです」
「私に得はありません」ゆっくりと膝に手を置いた白蓮の両目が開く。「でも、聖徳道士様は人とあやかしの完全な融和をめざす我らにとって障害となるであろうお方。うまくすればここで亡き者にできるかもしれませんもの」
上目づかいの瞳がきらりと光る。腹腔を内側からくすぐられるようなむず痒さを神子は覚える。
「たわむれを……」
神子と白蓮は、いまや注目の的だ。山の妖怪たちは遠巻きに、けれどどうにか二人のやりとりが聞こえないものかと輪をつくって距離を保っている。「どかぬか、通せ!」と布都が小さな身体をひねって天狗を押しのけ、肩から割り込んでその輪を突破しようとしていた。
白蓮の頭上高くには、黒い服の少女があぐらをかいて浮かんでいる。禍々しい形状の翼を広げ、にやにやと神子を見おろしている。先日、寺の近くで出会った闇の中の存在だろうと神子は当たりをつける。
ぐるり見回して戻ってくると、白蓮がじっと待ち構えている。目が合うと首をかしげ、まるで年端もいかぬ少女のようだ。
「面白い。受けて立ちましょう」
大勢の者どもが立ち会っている。人も妖怪も、守矢の神も、同席している。布都と青娥、かつて神子のため命を落とした者と神子を仙道にいざなった者、彼女らも見ている。
毒の効力は疑問で、それ自体嘘かもしれない。
すべて曖昧で、流動的な状況。
神子はそこに賭けてみたくなる。人を捨てた身で、おそらく死ぬことはないけれど、万が一ということもある。命を拾うならよし、もし捨てることになっても、間違いなく自分は生きていた、そのあかしとなるのだ。
確かめたい。強烈に湧き上がった欲望を、神子は抑えることができない。
「私は、こちらで」
左側の杯を手にとる。白蓮の表情は変わらない。ゆっくりと右の、おそらく妖怪の姿を変えた杯に手を伸ばした。
毒が入っているならこちらの可能性が高いと、神子は左を選んだのである。右を選んで口に運べば、寸前で変化をといた妖怪に、恥をかかされる結末となるだろう。そういう二段構えの仕掛けと読んだのだ。
「では――」
ぴったりと目を離さず、お互いゆっくりと杯を口に近づけていく。おかしな気配を察したか、「た、太子様!」と布都が叫んだ。
まさに唇が杯のふちに触れる、その間際である。
二人の横合いの敷物が、派手に捲れ上がった。その下の地面で爆発でも起きたかのようだ。土ぼこりが舞い、枯れ枝と枯れ葉がぱらぱらと降ってくる。
その中から、ぐいと二本の腕が伸びる。青白い腕は力強く、躊躇なく神子の手から杯を奪い取り、宙へと放り投げる。
ぱくり。
顔にかかったしずくも気にする様子はなく、芳香はくわえた杯に残った酒を頭をかたむけて飲み干した。
黙ったまま、うつろな瞳を神子に向ける。
「よ、芳香? 君は……」
ばきっ!
芳香は歯をむき出し、音を立てて杯を噛み割った。
「……死ぬ気だったか?」
「え?」
「太子様、おまえ、死にたかったのか?」
額に垂れた札の両側で、二つの目が見開かれる。それ自体が闇に通じる洞穴のようで、噴出する凍てついた感情に、神子は息を呑み硬直する。
「太子様、これはいったい」
布都がかけつけてくる。背中に縋った彼女の体温が、なにより有難かった。
「大事ありません。それより、布都」
「それより?」
「芳香をとめてください」
「え、芳香?」
「ちょ、ちょっと待たんか!」
あっけにとられていた白蓮の杯も奪い、同じように芳香が咥えようとした寸前、化けていたあやかしが姿をあらわす。見れば立派な女狸である。おかまいなく迫るキョンシーの口から尻尾を守ったものの、腰にさげた通い帳に噛み付かれて綱引きとなる。
「ええい、離せ、おぬしなんという馬鹿力じゃ!」
我に返った白蓮と、布都、空から降りてきたぬえも加わりひと騒動。天狗たちも混じっててんやわんやの最中に、遠くそびえる御柱の上に腰掛けた青い衣の姿を、神子はちらりと見た気がした。
「覚えていませんか?」
宴の次の日、今度はちゃんと門番をやっている時間に訪ねてみても、芳香は「うん、昨日?」と首をかしげるばかりだった。
「あ、いや、覚えてるぞ! たのしい宴会だったなー」
「……」
「ごめん、その、酔うと忘れてしまうのだ。私、お酒はからきし駄目なんだ、『とりあえずビール』で私の宴会は終わってしまうのだ……」
両腕とついでに額の札まで申し訳なさげに垂れ下がる。
仙界への出入り口を自由に開く術は、芳香には使えない。仕向けた者がいる。
彼女と別れ、自室に戻ると部屋の真ん中にその張本人が浮いていた。神子を見ると「これは失礼」と羽衣を翻し下りてくる。
「娘々」
窓際へ歩いた青娥が訝しげに振り向く。先ほどの芳香とよく似ている。
「私に、失望しましたか?」
伝えようとしていたことがうまく出てこない。神子はみじめな気分だった。
「何のことですの?」
窓の外に目をそらした仙人は「そうそう、用があってお邪魔していたのです」と身を乗り出して手を打った。
「芳香のことですけれど。豊聡耳様、あの子に水浴びをさせました?」
「は? あ、ええ、この間ね」
「石鹸を使いましたか?」
「ああ、あの泡の立つ……。いえ、何も」
「そう。ならいいのですけれど」
青娥は手を広げて盛大にため息をつく。
「いけませんでしたか、水浴びは?」
「いえ、そういうことじゃないんです。そうじゃないんですけど……。豊聡耳様、私があの子のためどれだけ心を砕いているかご存知? 芳香はね、天然ミネラルでしかも竹炭を混ぜ込んだ無添加石鹸じゃないと駄目なの! すぐ肌が荒れちゃうんです。肌が荒れるとあの子すっごく落ち込むし、ほんと大変なの。里の道具屋を何軒も回って原料を仕入れてる農家まで調べて、ようやくぴったり芳香に合うものを見つけたところなんです。だから、軽はずみなことをされては困るんですの……って、豊聡耳様、豊聡耳様ったら、ちゃんと聞いてくれてます?」
「あ、はい。はい?」
ぐいぐい詰め寄られ、神子はたまらず寝台に座り込んでしまう。腰の剣ががしゃりと音をたてる。
青娥は腕を組んで見おろし、まだまだ鼻息が荒い。
「それは、すみません」
神子は素直に頭を下げた。
「わかってくだされば結構です」
(こんな風に怒られたことがあったなあ)
神子は思い出す。道術を彼女に学び始めたはるか昔のことだ。心の正しさや仙人として在るべき生き方には青娥は無頓着だったが、覚えたてで成功おぼつかない術で人助けなどしようとすれば、容赦がなかった。
顔を上げると、戸口が開けっ放しのままで女仙の姿は消えている。やれやれと立ち上がり木戸を閉めていると、不意にその向こうから声がかかった。
「千四百年。私にとっても、本当に長かったですわ」
神子は扉を開けて首を突き出したが、廊下には誰の姿もなかった。
白蓮と神子の「勝負」について、新聞を作る山の天狗たちにも、さいわい詳細は伝わっていないようだった。そのうち見当違いな記事が出るかもしれないが、喧嘩になった、という程度の話ならば別に構わないだろうと神子は思う。白蓮も取り合うまい。
布都は屠自古に相当絞られたらしい。あなたがついていてどうしてそんな騒ぎになったの、と文字通り髪が逆立っていたと、後日神子と酒を交わしつつ彼女は苦笑いをした。神子はやはり何も言えなかった。伏し目に布都のきれいな銀髪を眺めて、杯をたくさん空けた。
月なかばを過ぎて、川べりに沿って杜若が紫の花を並べた。神子は日々積極的に仙界から出て幻想郷の方々に足を運んだ。
ある日差しの強い午後、神子は白壁のつづく里の裏道を歩いていた。手には口に縄を通した岩魚を数匹ぶら下げている。年老いた漁師に道すがら押し付けられたものである。まるで孫に小遣いを与えるかのようにして、断っても断っても素朴な笑顔が迫ってくるのだ。
(はるかに歳が上だというのに、ね)
悪い気分ではなかった。
そこへ後ろから、甲高い足音が近づいてくる。底の擦り切れた草履の音だ。振り向いた神子の前で急停止した女児が、いきなり深く頭を下げると、前に出した手のひらを猛烈に上下に擦りあわせる。
「どうかっ! お父ちゃんがうまくいきますように! お願いします、お願いします!」
「あの?」
コメツキムシのように跳ね上がった顔を見るに、いつか神子が、橋の上から見おろした少女である。赤らんだ頬に、伸びすぎた髪が肩口でめちゃくちゃに跳ねている。
また一礼して走り去ろうとするので、呼び止めて事情を聞く。はじめは恥ずかしがって身をくねらせ逃げようとしていたが、しゃがんで目線を合わせるとおずおず語りだす。
ろくでなしの父親が働く気になって、知人のつてで雇ってもらえるよう、とある商家に頼み込みに行ったらしい。一週間前から酒を断ち、一張羅に着替えて、張り切って出かけていったという。
「お父ちゃん、やればできるんだ。ちょっと気が弱いけど、もともと商売に向いてるんだ。景気が悪いからって相手も渋ってるらしいけど、だから私、いっぱいお願いしたんだ」
彼女の汚れたつむじ越しに背負った籠をのぞくと、そのあたりで摘んだらしい芹が泥つきの根のまま投げ込まれている。
「朝一番で私、博麗の神社にも行って拝んだし、山の神社に向かってお願いしたし、龍神様にも、さっきお寺にも行ってきた! それで、聖人さまを見かけたから、ついでに」
「なるほど」
神子は頷いた。
この地で、やるべきことはある。まだまだ漠然とはしているが、確信めいた思いが神子の中に芽生える。
「君にはこれをあげましょう」
岩魚の束を籠に入れてやると、少女は「わあ」と目を輝かせた。
「ありがとう!」
何度も振り向いて頭を下げる彼女が、辻の角を曲がって消えるまで、神子は立ち止まって手を振っていた。
(ついで、ね)
たぶん今は、それでいい。
-------------------------
朝がきた。
世界は色を取り戻し、小鳥は梢で歌い、そしていい子は寝る時間。
なのだが。
「ねむれなーい」
石の寝床に横たわって、もうずいぶん長いこと、芳香は呻吟していた。
「ねむくならない……」
どうしてだろう?
しばらく芳香を悩ませた、眠りを妨害する闖入者は、このところすっかり現れなくなっていた。
地下の石室は静まり返り、暗さも冷たさも、彼女の眠りを援けこそすれ、妨げることはない。
まして、一人でいることも。
「あうぅ」
よくわからない。伸ばして固まった両手の間が、なんだか物足りなくって仕方ないのだ。
そこに顔をうずめていたのは神子である。持ち上がった髪は彼女の身体から立ちのぼる体温で、芳香の鼻先でゆらゆら揺れていた。神子の手足からも容赦なく熱は芳香の冷えた肉に伝わり、骨をあたため、腹の底に溜まった。神子が立ち去ってもその熱は残り、眠ろうとする意識を引き止めたものだ。
そしてそれ以上にいつまでも残る、さわやかな匂い。日にたっぷり当てた藁束のように、かぐわしい香りを神子はまとっていた。
「もう来ないのか。なあ……」
ごろり寝返りをうつ。
さんざんそれを繰り返し、もはや寝返りの回数も数え切れなくなったころ、芳香は思い切って身を起こした。全身をバネにして跳ね上がり、石の通路へ出て、道場につながる階段をめざす。
会いにいってみよう。
青娥に見つかれば「悪い子!」と叱られるかもしれないし、布都は芳香が道場に立ち入るのにいい顔をしない。
それでも、どうせ眠れないなら、こうしていても退屈なばかりだ。
神子が寝ていれば好都合だ。寝床に飛び込んで邪魔してやろう。そう、これは仕返しだ。
「責任、とってもらうぞ」
ぴょん、ともうひと跳ね。
長い階段の上からぼんやり光がさしてくる。明るいところは正直苦手だけれど、今の芳香にはそれが、やわらかくて暖かい、まるで彼女そのもののように思えるのだ。
あれ、彼女って誰だっけ?
<了>
とても良いお話でした
参りました。
静かなうちに見えた光、重ねられた魅力ただようエピソード、
神子に接した寂寥感ただよう視点の描写といい、どれもこれも素敵でした。
また読ませてください。
読み進めるのがもったいなくて、じっくり読ませていただきました。
語りきらないお話、素敵です。
あ、神子様と芳香の絡み最高でした
今ひとつつかみどころのないキャラクターというのが太子の印象でしたが
こういうキャラ付けはいいですね
いいもの読みました
特に神子と聖のシーンはもっと見てみたかったという欲が出てしまうほど
あと芳香ちゃん可愛いよ!
どれも本当に面白いものでした。
幻想郷はこう体験されるんだなぁ、となんだかしみじみ感じ入ってしまいました。
田舎の情景に、草をふむ音、泉の水音、鐘の音など微かなSEがのった静けさは幻想郷には珍しい味に感じました。
後半に入ると少し神子の心境に変化があらわれはじめた気配がするので、
これからどんどん騒がしくなっていくのかもしれませんが・・・。
白蓮と芳香がカッコいいなあ。
芳香と神子の関係を書いた作品はまだ少ないけど、
神子に対しては強気な芳香はいいかもしれませんね。
確かにこれはグッドモーニングと言いたくなります
ラスボス勢でも若い部類なんだなぁ、まだ。
レミリアの500歳ですら神や宇宙人に比べたら餓鬼のようなもんですしね。
どこまで本気だったんだろうか。
本読み妖怪さんごめん! とは思ってました。本好きの妖怪なんて、可愛いですよね。
こんな神子さん、芳香ちゃんはどうでしょ……と、いつもより緊張して投稿したもので、コメントひとつひとつ、とても嬉しく感じています。
布団から出たくない季節になってきましたね。優しい「おはよう」が恋しいです。
自機4人娘にどつかれて起きる、というのもそれはそれで悪くアリマセンが。
登場キャラ全員がそれぞれに味があってとても楽しく読めました。