なんの変哲もない。朝食後のひと時、のはずだった。
一畳分ほどの広さの長机と、その周囲の畳の上に、土色の破片が散らばるまでは。
湯のみであったはずの容器が形を失ったせいで、その中に注がれていた高温のお茶が湯気とともに周囲に広がり、正座していたマミゾウの太腿にすら降りかかる。
「――」
けれど、マミゾウは微動だにしなかった。
尻尾を振ることも、叫び声をあげることもなく。
聖に借りた経文が、黄色く染まっていくのを、ぼうっと眺めていた。まるであり得ない状況を見せつけられた子供のようで――
「わ、わたたたたっ!?」
やっと状況を把握した時は、すでに経文の半分が煎茶で染まりきった後。熱いとか熱くないとかの問題ではない。
生命の危機である。
『のう、何か暇をつぶせるような書物はないか?』
と、尋ねたら笑顔で経文を差し出す聖にも、居候の立場で強く拒否できなかったマミゾウにも問題はあったかもしれない。
とりあえず読んでみようかとしたら、退屈が悪化してしまい。睡魔がいたずらしたとかそういうのもほんのちょっとは問題かもしれないが、不慮の事故である。情状酌量の余地もあるはずだ、が。
やはり、このシミはまずい。
というか余計なことを考えている間に、文字が滲み始めて見えるのは気のせいだろうか。
いや、気のせいにしなければならない。
気のせいにして、ぷりぃず。
真っ青な顔で慌てて湯呑の破片を経文から押し退け、部屋の隅に置いてあったはずの手ぬぐいを探す。
畳んであった替えの衣服を手荒に退かせば――
真っ白な手ぬぐい発見。しかも二枚。
これは天の助けと言わんばかりに、それを片手で握りしめたマミゾウは、濡れた書物を乾いた畳の上に避難させる。ふやけ始めた紙を上下から優しく包み、子供でもあやす様に優しく。それでいて、疾風のように素早く叩く。正座しながらそんな作業を10分ほど続けてやれば、お婆ちゃんの知恵袋ならぬ、お姉さんの知恵袋的な感じで――
「わぁい、どすぐろぉいのじゃぁ……」
悪化した。
しかも救い手であったはずの手ぬぐいさんが文字の墨まで広げる有様である。白い紙に戻れば、絵も字もござれなマミゾウのこと。こっそり修繕して何事もなかったように返せたというのに。
これでは返すどころか、土に還されてしまうかもしれない。
成仏的な意味で。
とりあえずこんな状態を誰かに見られては危険だ。
そう判断したマミゾウは、黄色と黒が混ざった経文のページを開いたまま机付近を片付けようとして――
「マミゾウ! たまに人里に遊びに――」
「あっ!?」
「えっ!?」
マミゾウが腰を浮かせた姿勢で固まる。
なんと間の悪いことか。
おそらくは遊びに誘おうとやってきたのだろう。ぬえも予想だにしない光景に小さな悲鳴をあげるだけ。しかし、その声は容易にマミゾウの動揺を誘い。
「ち、違うのじゃ! ぬえ! 儂は、そういうつもりではっ!」
化かす能力を使うのすら忘れ、素直に己の罪を自白させてしまう。ぬえとて命蓮寺の一員である。その寺が管理する経文を汚したとあっては、叱責の声が飛んでくるに違いない。そう判断して、マミゾウが身を強張らせていると。
何故かぬえは、小さく首を横に振って優しく微笑みかけてくる。
「いいんだよ、マミゾウ。それはきっと仕方のないことだから」
「ぬえ……」
すべての罪を包み込んでくれるような、母性的で柔和な表情。普段のぬえからは想像できない姿に、マミゾウは仏を見た気がした。
「大切なものを台無しにしちゃった気持ち、痛いほどわかるから」
ぬえは座り込んだマミゾウと同じ目の高さまで身体を下げ、ゆっくり肩に手を置いた。昔は悪戯っ子でしかなかったぬえの成長を垣間見て目頭が熱くなったのだろうか、軽く眼鏡を上げて目元を擦りながら微笑みを返す。
「そう、じゃな。誠意を込めて謝罪する、それが第一か」
「うん、きっと聖も年を重ねた人間だから、そういうのわかってくれると思うよ」
妙な物言いに一瞬首を傾げるマミゾウであったが、年を重ねている分経験が多いという使い方だろう。
そう判断してぬえの言葉が続くのを待ち――
「お年寄りってさ、厠まで我慢できなかったりするもんね。だからマミゾウおばあちゃんが悪気なく粗相しても、それは仕方のな――いた、いたたたたたたっ!」
直後、顔を赤くしたマミゾウの連続チョップがぬえに襲いかかったのだった。
「なんだっけ、年をとった女の人って癇癪起こしやすいんだっけ……ヒステリーとかいうやつ!」
「じゃかぁしぃわ! お主が無礼を働くのが悪い!」
仲がいいのか悪いのか。
横並びになって歩きながら、肘でお互いの脇腹を小突きあう妖怪の姿を人里の人間は物珍しそうに眺めていた。しかも向かって右側の妖怪はあまり面識のない新参者の妖獣、そのため人間が警戒し、進行方向の人ごみが綺麗に分かれていく。
上空から見るとさぞ綺麗な光景であろう。
いわゆるぷちモーゼの奇跡である。
「あ~あ~、せっかく? せぇ~っかく、私が一緒に謝ってあげたのに、謝罪もないし。恩を仇で返すなんて見損なったね! いたーい、おでこがひりひりすーるー!」
「おうおう、そうかそうか。あの程度の攻撃で参るとは天下のぬえも落ちたものよのぅ」
「なっ!?」
「おや? おやおやおや? どうした? 顔を真っ赤にしおって。ああ、そうじゃった。まだ傷が癒えておらんのじゃったなぁ、可哀想に、ほほほほほ」
「若づくりばばぁ」
「……路地裏」
「……上等」
にこやかに口元を歪めながら見詰め合う二人。火花が散るほどアツアツな二人を邪魔することなどできるはずもなく。
周囲の人の輪はどんどんと半径を広げていった。そんな中で、
「そこまでだ!」
人垣を掻き分けて、一つの陰が急接近した。
青い長髪を振り乱しながら距離を詰めた慧音は、二人の視界の中心に分厚い本を振り下ろした。
いきなりの行動に二人の視線が女性に動く、その瞬間。
こんどは女性の陰に隠れていた阿求がひょっこりと顔を出し。
「人里では人と妖、及び妖と妖の争い事は基本的に禁じられています。速やかに争いを止めることをお勧めいたしますが、いかがでしょう?」
見た目は少女、のはずなのだが見た目からは想像できないほど落ち着いた様子で二人をたしなめる。それはまるで、大人びた女性の域であり。言い得て、妙であった。
ぬえとマミゾウはしばらく少女と女性を交互に眺め続けるだけ。
それを理解していないと受け取ったのか、慧音はやれやれといった様子で両手を腰に当てる。
「ぬえは分かっているとは思うが、あまり物分かりが悪いようだと捕まえて自警団に――」
そして、軽く瞳を閉じながら、お決まりの注意を言い掛けたときだった。
砂煙が上がったかと思うと、二人の姿が地上から消える。
それとほぼ同時に遮られる、慧音に降りかかっていた日の光。
何か嫌な予感を感じながら彼女が空を仰ぎみれば、
何か、大の字になって飛んでくる影ふた――
がしっ
「はくたくげっとじゃぁぁ!」
「おっけーマミゾウ!」
「な、なぁぁぁっ!?」
組みつかれそのまま地面へと。
上に覆いかぶさった二人は、両側から抱きつき。慧音とぬえとマミゾウのくんずほぐれつ大騒ぎ。
その動きに男たちは息をのみ、阿求は耐えきれず両手で目を覆った。
「け、慧音さん、なんて破廉恥なっ! もう見てられません!」
「阿求、顔隠してないで早く助け……って、指の間から目が見えるんだがっ! 見てるだろ、おいっ!」
そうして、人里の一角は若干桃色に染まったんだそうな。
めだたし、めでた、
ゴスっ…… ドゴっ……
「……何か言うことは?」
「ハンセイシテマ~ス、みぎゃぁ!」
阿求の屋敷の中、二度目の頭突きで沈黙したぬえの横で、マミゾウは静かに震えていた。人間という生き物の残酷さに、何でも力で押し通そうとする傲慢さに……
「ああ、かよわい儂も後を追うことになるのじゃな……今逝くぞ……ぬえ」
「こらそこ、人を暴力者のように言わない!」
マミゾウはさきほどできたコブをさすり、正座した脚を擦り合わせる。とりあえず、慧音が超至近距離からの頭突きで二人を黙らせてから、場所を移してことの次第を話し合っていた。
「まぁ、なんじゃ。まさかぬえの計略がここまではまるとはおもっておらなんだのじゃて」
そう、マミゾウとぬえは本心から争っているわけではなかったのだ。
目的は阿求の横で怒り心頭中の慧音。彼女を探しに人里にやってきたはいいものの、寺子屋が休みでどこにいけばいいかわからなくなり。
『行き先がわからなければ、呼び出してしまえばいいじゃない』
という、ぬえの作戦により。わざと厄介事を演出し、人里の守護者である慧音をおびき寄せたというわけだ。
「それで? 私に用とは? もしそれがつまらない内容であれば……」
ただ、呼び出された側としてはたまったものではない。初対面の相手なら敬語を話すはずの慧音が、いきなりマミゾウに対して威圧感たっぷりなのもそのせいだろう。
それを理解している阿求も、仕事机につきながらうんうんと頷く。
「そうです。慧音さんは、大事な作業中だったのです。せっかくの休みを竹林で過ごそうと鼻歌を奏でながら、野菜を買っている姿はもう、主婦そのもので――、こ、こほんっ! と、ととと、というわけで、理由を望みます。えーっと……」
「マミゾウじゃ」
「はい、マミゾウさん!」
余計なことを口走った瞬間、ものすごい顔で慧音が振り返ったので、慌ててマミゾウに話を振る。
怒りとは別な要素でも顔を染め始めた慧音に対し、それでもマミゾウはどこか余裕を残して腕を組み、ひと唸り。その後、おもむろに懐から一冊の本を取り出して二人の前に静かに滑らせた。
「実はそれと同じ本を探しておってのぅ」
「本を探すのに、何故私なんだ?」
「簡単な理由じゃよ。もしこの本がどこで作られたか分かれば、大きな手掛かりになるからじゃ。裏表紙をめくったところにもそういった情報がなく、困っておったのじゃて」
幻想郷の中で作られた本かどうかわかれば、複製が可能かもしれない。もしくは、この著者がこの世界にいるのなら同じものが何冊か存在するかもしれない。
そう思って、ぬえに何か手段がないかと尋ねたら。ハクタクという存在を教えてもらったというわけだ。ハクタク状態ではない人間状態の慧音を初見で判別できたのも、事前に話を聞いたから。
「しかし、そういう理由があったのなら妙な策を使わなくてもよかったんじゃないか? 明日なら寺子屋も開いているし」
「……まあ、それもそうなのじゃが」
すると、マミゾウは気まずそうに視線を落とし。
「実はこの本は聖殿のものでな、ほれ、中が汚れてしまっておるじゃろう? 儂が手違いで汚してしまったものじゃ。それを聖殿に素直に謝罪したわけじゃが……」
「許してくれなかった、と? あのお方はそんな器量の小さい方ではない気がしますが」
阿求が不審そうに眼を細めるが、マミゾウは当然と言わんばかり首を横に振る。
「もちろん、許してくれたのじゃ」
「それでは、何故? 慧音さんの言うようにそんなに急がな――」
「許してはくれた! 気にするなとも言ってくれた!」
マミゾウはいきなり足を崩し、胡坐をかくと声を荒げた。
「しかしじゃ! その笑顔の陰に悲しげな表情があったのを見抜けぬこの儂ではない! それほど大切なものじゃった! 儂を信頼してそれを貸し与えてくれた! じゃが、儂は……、儂は……、その信頼を裏切って、それを汚した!」
「マミゾウ……」
「どこにも行くあてのないこの儂を迎え入れてくれた。その恩に報いることもできず、ならば儂にできることはもはや、悲しみの元を少しでも早く軽くしてやることだけじゃ。
見知らぬ妖獣の戯言かもしれぬが、どうか、どうか……」
言葉尻を揺らしながら、頭を下げる。
そのとき、ぽたり、ぽたり、と何かが畳の上に落ち、小さなシミを作り出した。それを見下ろしていた慧音は、溜息を吐きながら額を押さえて阿求に視線を送る。
と、二人の視線がぴったりと合って。
「さて、慧音さん? 追い返します?」
悪戯っ子のように笑う阿求に、慧音の最期の毒気まで抜かれてしまう。
「わかった、わかったから! ここで断れば私が悪者じゃないか、まったく」
「で、では、慧音殿!」
「歴史を見るだけ、それ以上は手伝わない。それでいいな?」
「うむ、恩に着るのじゃ!」
瞳を潤ませながら顔を上げるマミゾウに微笑みを向けてから、慧音は本に触れ、その記憶を探り始めた。
これでやっと、手掛かりがつかめるとマミゾウは息を吐く。
「それで、マミゾウさん?」
そんなとき、何故かすぐ隣に阿求がすり寄って来ていた。
何か用かとその小さな少女へと視線を送れば、何故か嬉々とした顔で見上げており。
「やはり、お願いごとには何かしらの対価が必要だとは思いませんか?」
「うむ、ぎぶあんどていく、というやつじゃな。それは理解できるが、儂が提供できるものはそんなにないと思うがのう。なんせ、ほぼ身一つでこの世界に来た――ひゃぅっ!?」
いつもの口調からはまるで想像もできない、可愛らしい声。
それがいきなりマミゾウの口から零れた。
それは仕方ない。なにせ、いきなり阿求が服越しに脇腹を撫でてきたのだから。
不意打ちにもほどがあるというものだ。
「ああ、申し遅れました。私、稗田阿求と申しまして、人里で幻想郷の歴史の管理を行っております」
「ほ、ほぉう、それは立派じゃなぁ、じゃが、儂にペタペタ触れておるのとそれと何の関係が……」
「マミゾウさんは、新参の妖怪なのでしょう? つまりまだ、幻想郷の中に何の歴史も刻んでいない新しい存在。
慧音さんがゆっくり本を調べている間に、こちらはこちらで、あなたを調べつくそうかと思いまして」
「……あ、あぁ、しまったぁ! 今から命蓮寺で仕事があったんじゃったぁ、すぐ終わらせて戻る故、代わりにぬえをここに置いて! ……おいて、って?」
いない。
さきほどまで気を失っていたはずのぬえの姿が、きれいさっぱりなくなっている。
そして、ぬえがいたはずの畳の上にはメモが一つ。
『後はまかせたっ!! ぬえより』
「……いやん」
マミゾウはこの時、自分の血がサーっと引いていく音を聞いた気がした。
それから半刻御――
「さっきはお楽しみでしたね!」
妙に疲れた顔でマミゾウが屋敷から出ると、通りで待っていたぬえがからかいながら近づいてきて、。
「……」
「ごめん、割と本気でごめん」
呪い殺しそうなほど熱い視線をカウンターで受けて、ぬえは素直に頭を下げた。
「まったく、儂が粉骨砕身の気概で動いたというに、結局わからずじまいとはのぅ」
「え? わからなかったの?」
「わかるにはわかったのじゃがなぁ。この本は儂と同じじゃよ」
「古いってこと?」
「拳骨一発」
「え、ぇぇっ!?」
素直すぎる答えを軽く切り捨て、少しだけ力を入れた手をぬえの額にこつんっと。
「――っ!?」
「そうそう、そうやって静かに話を聞いておれ。儂と同じ、つまり外の世界で書かれた書物が流れてきたというわけじゃ。しかも比較的新しいものらしい。墨がすぐ滲んだのもそのせいということで」
「――っ!?」
「なんじゃ、何をのたうちまわっておる。大袈裟な」
「っ! お、大袈裟って! すっごい痛かったんだけど! さっきのチョップより痛かった!」
「はいはい、わかったわかった」
「こらー、人の話聞けーー!」
通路の隅でごろごろ転がるぬえを視界の端に置いて、マミゾウは軽く足に力を込めて空へと飛びあがる。すると慌ててぬえもそれについていく。
「んー、そういえば、星が聖へのプレゼント探しに森の近くの道具屋いってたから、そのときに仕入れたのかも」
まだ痛そうに額をさすっているのは、マミゾウへのアピールか。
「なるほど、仲間からの贈り物か。ならば納得がいく。では、そちらの店に向かってみるか?」
「やめといた方がいいよ。あの店って同じ品物置いてあることほとんどないから」
「妙なこだわりがある店主なのか、それとも単なる変わり者か。まあ、それはさておき、人里が駄目そうならばもう一つの手掛かりを探しに行くとするかの?」
「そうだね、あそこなら新しい本も集めたりしてるし」
会話を繰り返しながら空を飛んでいくと、眼下に白い霧に覆われた湖が見え始める。ぬえからその近くだと聞いていたマミゾウは、速度を緩めて高度を下げ。
「ふむ、ここか」
濃い妖気を肌に感じながら、大きな屋敷の門前に降り立った。全体的に赤をモチーフにした、阿求の屋敷とはまた違う雰囲気の概観。綺麗でありながら、言い知れない威圧感を与えてくる屋敷に感嘆の声を漏らしていると。
ぬえが門番に挨拶することなく、素通りしようとしていた。
門の横の壁に背を預けた門番すらスル―して。
「お、おぉ~?」
そんなぬえの首根っこをひっつかなんで、ずりずりともう一度門の外まで連れてくる。
「こら、人の家に入る時は門番に断りを入れるのが筋ではないか」
「え~、だってみんなこうやって入ってるよ」
「皆は皆、ぬえはぬえ。外見は子供でも良い歳なのじゃから、行動には気をつけれるべきであろう」
「むー、頑固者め」
おそらくぬえがここの屋敷の誰かと知り合いであるから無言で通すのだろう、と、そう判断したマミゾウはぬえと一緒に、門番に対してぺこりと頭を下げた。
ちょうど真横になる位置から。
「お邪魔してよいかのぅ?」
問いかけてみた。
しかし、門番はマミゾウの方を向かず、壁を背にして前を向くばかり。
ああ、なるほど、やはり正面からではないと失礼かとマミゾウが前に回り込んで。
「お邪魔してよいかのぅ?」
もう一度問いかけるが、反応がない。
ぬえはそんな様子を『言った通りでしょ?』と不機嫌そうに眺めている。こうなってはマミゾウにも意地がある。
反応するまで挨拶を繰り返してやろうと大きく息を吸い込んだとき、いきなり背後に気配が生まれて、
さくっ
そこから放たれたナイフが頬を掠めて、壁に深々と突き刺さる。
恐る恐る振り返ると、そこには。
「……美鈴? お客様がいらしているのだけれど?」
なんだかどす黒いオーラを放つメイドと。
周囲を覆い尽くすナイフの群れがそこにあって――
「ぴ、ぴゃーっ!」
「みゃーっ!」
美鈴とマミゾウは同時に妙な声で鳴いたのだった。
「阿求という、あのメイドといい、人間とはなんと残酷な生き物じゃ……」
「咲夜さんのことですか、まあ、大体この屋敷に関わる人間のほとんどがたくましいですけどね。昔はもうちょっと可愛かったんだけどなぁ」
咲夜の教育的指導の後、あっさり復活した美鈴に連れられ、マミゾウとぬえは紅魔館の広い廊下を歩く。
下を向けば赤い絨毯、横を見れば鏡のように輝く壁、上を見ればマミゾウの身長の倍以上ありそうな高い天井。そんな空間が淡いランプの光だけで照らされていた。窓はしっかりと締め切られ、カーテンだけでなく金属製の何かで光を遮断してある。
「ああ、確かに気になりますよね。先ほども説明しましたがここは吸血鬼の住むお屋敷なので、太陽の光は厳禁なのですよ」
気を読むというのだろうか。マミゾウが興味を持って視線を動かす度、美鈴は嬉しそうに館の説明を始める。そして、地下までおりてきたところでマミゾウが美鈴へと視線を移す。すると、さすがにわからないのか首を傾げて見つめ返した。
「おぬし、門番の業務はいいのかのぅ?」
「妖精メイドの誰かが代わりにやると思いますよ。遊び感覚で」
「遊びっ!?」
「たぶん30分ほど経てば、じっとしているのが我慢できなくなるだろうし。侵入者側と防衛側に分かれてごっこ遊びが始まるから。まあ、妖精の行動なんてそんなものですって」
外の人間がいう妖精というイメージはこう、神秘的で、知性が高く、森の中で独自の文化を持ってて、引っ込み思案。
自然界に住む精霊と似たようなものか、と思っていたマミゾウの想像を斜め上に裏切る状況である。そもそも一部の人間が空を飛んでいる時点で、マミゾウの常識の範囲外だ。
「咲夜というさきほどのメイドは、何を?」
「普段ならこういう仕事は咲夜さんが担当するんですけど、このお屋敷のお嬢様はとても好奇心が旺盛であられるので……、知らない妖怪が屋敷に入ったと知ったら大騒ぎするのは間違いないわけで……」
「なんじゃ、子供が元気なことくらいよいではな――」
「しにますよ?」
「えっ?」
「不用意に接近したらしんじゃいます。
というわけで、咲夜さんはお嬢様を抑え込む役割ですね」
とりあえず凶暴。
吸血鬼を見たことのないマミゾウも、知識だけを組み合わせればそんなイメージが浮かび上がる。が、出会ったら死ぬとまでは想像していなかった。
あごに手を当ててうーんっとマミゾウが唸っていると、少し後ろを歩いていたぬえが何かを思い出したように口を開いた。
「あ、お嬢様って人は抑えられるとして、フランドールの方は?」
「……あー妹様ですか、少し前に妖精を自室に入れたので、おそらくは『遊んでいる』最中だと思うので」
「なんじゃ? ぬえ、知り合いがおるのか?」
しかも吸血鬼に。外のいたときはお世辞にも友好関係が広くなかったぬえの意外な接点にマミゾウは目を丸くする。
「そうそう、弾幕仲間ってところかな。私の弾幕癖があるみたいで、フランドールくらいの妖怪じゃないとまともな相手にならないのよ。まあ、巫女とかは別として。でも、『お人形遊び』中なら邪魔できないなー」
「ほほう、人形か。姉とは違ってなかなかおしとやかなようじゃな。そのフランドールとかいうほうなら、危険はなさそ――」
「死ぬよ?」
「えっ」
「油断しなくても死ぬ」
もうやだその姉妹。
マミゾウは絶対にその吸血鬼とは出会うまいと心に決め、
「こちらが図書館になります」
美鈴に促されるまま、マミゾウは大きな扉の中にと足を踏み入れた。
「人里からの紹介状、ね。なら、信用できる妖怪と思いたいのだけれど」
マミゾウから預かった文書を読み終えた後、パチュリーはそこで言葉を切り、
「化かす妖怪セットを信用してもいいものか」
確かに、と。マミゾウは自分のことながら心の中で肯定した。
概念を捻じ曲げるぬえと、変化を司る狸の妖獣。
どちらも騙しに関しては一流どころではないのだから。小悪魔に運ばれた紅茶を口にしながら、困った様子でマミゾウは片目を瞑る。
「さきほどの内容から言えば、テーブルの上の本をなんとかしたいだけみたいですし。ほら、何かあれば私がついてます」
が、背後を守るように立つ美鈴の声を受け、パチュリーは表情を緩めた。
「それもそうね。余計な心配ほどしなくていいものはないわ。では、見せていただいても構わないわね?」
マミゾウが頷くのも待たず、パチュリーは魔法で本を引き寄せると空中で停止させる。そして読みやすいように角度を変えてから、何もない空間で指と横にすべらせた。
するとどうだろうか。まるで、本の方から望むように、パチュリーに眼前でページが勝手に開いていく。そのまま最後まで開き終えた本は、ぱたりっと、小さな音を残してテーブルの上に落ちる。
問題の汚れたページを出した状態で。
と、そのとき。
「あっ!?」
パチュリーでもなく、マミゾウでもぬえでもなく。
紅茶セットの横で立っていた小悪魔が真っ先に反応した。口元に手を当て何か言いたそうに、そわそわし始めたのだ。
それを感じ取ったのか、パチュリーは頬杖をつきながら小悪魔に視線を送る。
『話しなさい』と、指示するように。
「え、えーっと、たぶんその汚れ、取れちゃうと思いますです、はい……」
「おお!」
「しかも、あっというまに」
「おおおっ!」
マミゾウが期待の視線をパチュリーと小悪魔に送る。
パチュリーは平然とそれを受け止めるが、小悪魔は難しそうな顔をしながら消え入りそうな声でつぶやいた。
「……私も、よくやりますから」
パチュリーが視線を送った理由がこれだったのだ。
『あなたならわかるでしょう?』と、若干皮肉を込めたつもりなのだろう。恥ずかしそうに頭を下げる小悪魔がテーブルから離れていくのを見て、パチュリーは軽く息を吐き。
「よい関係ではないか、かわいげがあって」
「そうね、可愛いというところは肯定させていただこうかしら。まあ、この程度の汚れなら水や地の属性に干渉するだけで元に戻るとは思うのだけれど、少々問題があるの。それさえ解決していただけたら、すぐにでも作業に取り掛かるわ」
「ほ、本当か!」
「ええ、いつもあの子が紅茶を零した後、復元しているもの」
願ったり叶ったり。
マミゾウは腰をいすから浮かし尻尾を小さく揺らしながら、瞳を輝かせる。
「それで、あなたにお願いしたいことなんだけれど」
言いながら、パチュリーはマミゾウが来てから向けていなかった方へと、視線を動かした。
「……ふむ」
そしてマミゾウも、部屋に入ってから見ていなかった左側。
ぬえの方へと視線を動かす。
図書館用の四角いテーブルの、線の一つ。
少しはなれたところにぬえがいるのは間違いない、間違いないのではあるが。問題は、その横。
金色の髪を横でまとめた愛らしい少女が、ちょこんっと座っていて。
「ねえ? パチュリー? 耳と尻尾があるってことは、妖獣よね? 妖獣って……『頑丈』なのよね?」
紅の瞳を好奇心に燃やしていた。
結晶つきのいびつな羽根は楽しそうに揺れ、飛び上がる瞬間を待ち望んでいるようだ。
「のぅ、パチュリー殿?」
「何かしら?」
ただ、何だろうか。
視線を向けられる度、マミゾウの背筋あたりをぞわぞわ、と何かが走り抜けるようなこの感覚は。寒気、と単純に言い表していいのだろうか。
「えーっと、ぬえと仲よさそうにすわっておるあの童は?」
「妹様」
「名は?」
「フランドール・スカーレット」
「種族は?」
「吸血鬼」
確か、妖精とお人形遊びをしているとか言う話だったのに。
何故ここにいるのだろうか。
どうして、服のところどころが紅く染まっているのだろう。
マミゾウの首筋につーっと、冷たいものが伝っていく。
「……というわけで、私が本を修復する間、あなたには妹様の遊び相手をお願いするわね」
「え、あ、いや、ちょっ!? 待て、そのような話は聞いておら――」
本能が警鐘を鳴らし続ける中で条件を飲めばどうなるかわからない。
マミゾウは慌てて拒否しようとするが、フランドールは椅子に座ったまま。楽しそうに笑っていて。
「ねえ、遊びましょう?」
「っ!?」
直後、真後ろから上がった声に反応できたのは奇跡かもしれない。
風を切る音と妖力から速度、威力、角度を瞬時に判断し闇雲に手を伸ばせば、
続いて来るのは、手の平を襲う激しい痛み。
「きゃはっ!」
そして、襲撃者の楽しそうな声。
フランドールとまったく同じ姿の少女が放った拳を、受け止め。
いすに座った状態で吹き飛ばされながら、
「こ、この、馬鹿者がっ!」
横に流す。
「あれ?」
と、力を利用されたもう一人のフランドールは、マミゾウの横を素通りして本棚の一つに激突。
盛大に飛び出した本の下敷きとなってしまう。
さすがにやりすぎたかと、地に足をつけて冷や汗を流すマミゾウであったが。
「ぬえ! このお姉さん面白いよ! いきなり私の攻撃受け止めちゃった!」
本の中から赤い霧が生まれ、それが座っているフランドールへと収束していくのを見て、要らぬ心配と悟った。
それよりも、遊びとかそういう問題ではなく。本気で対処せねば生命の危機であることに違いない。
さらに、派手にやりすぎると……
「ああ、そうそう。あんまりドタバタやると、後で片付ける小悪魔が大変なのに加えて。レミィが動くわよ?」
「やだ! こんな遊び、お姉様になんか! あいつなんかに渡さない!」
「あー、興奮しちゃった」
「ぱ、ぱちゅりぃどのぉ!」
派手にやりすぎるともう一人の吸血鬼まで呼び寄せかねないのだから、そんな状況で火に油を注ぐなとか、『マミゾウならできる』とか無茶なこと言うなとか、傍観者に対して言いたいのは山々だが。
相手のテリトリーで怪我を負わせることなく、適度に遊ばせるという難問を突破することが第一。
マミゾウはさきほどのように、攻撃に合わせて動くことだけに集中する。
あの重い一撃よりも、さらに重い攻撃の避け方、受け止め方を頭の中に思い浮かべ。
「……そうじゃ、全盛期の儂であれば」
あの重い一撃を受け、流す。
それはそんなに難しいことではない。
だから、今の自分にもでき――
――でき、る?
「なんじゃ、これは……」
マミゾウは、声を震わせながら。
戸惑いながら。
それでも、確かに、
「すごい! すごーい!!」
フランドールの攻撃を、避け続けていた。
「やったねマミゾウ! 本が元に戻ったよ! これで聖も星だって喜んでくれるよ!」
「あ、あぁ、そう、じゃな」
館を出れば、もう夕暮れ。
綺麗になった経文を手にぬえが飛び跳ねるのを横目で見ながら、マミゾウは自らの手を握っては広げ、握っては広げ。そんな単純作業を繰り返していた。
おそるおそる、何かを確かめているような。
そんな動作だった。
「あー、フランドールの相手一人でさせたのは悪かったとはおもうけど。マミゾウなら一人でも大丈夫だって最初からわかってたし」
気のない返事を不機嫌さによるものと勘違いしたのか、ぬえが軽く頭を下げてくる。しかし、マミゾウの心は別な事象で揺れ動く。
「なあ、ぬえ?」
「何? マミゾウ」
だから、聞いておかねばならない。
そう思ったのだろう。
「おぬし、この世界でもう一度自由を得たとき、昔と何か変わったことはなかったか?」
「え? 変わったこと?」
「ああ、何か調子が悪いとかそういうやつじゃ。なんでもよい、なにかあったのならば教えてはくれまいか」
「ん~? 変なマミゾウ、まあ、答えてあげるけどさ」
ぬえは夕日に横顔を照らされながら、ぐるりっとマミゾウの前に回りこんで、自慢気に胸を張って見せた。
「ふふーん、このぬえ様をなんだと思ってるのかなぁ。封印されてたくらいでどうにかなると? 全然かわらないって、むしろ調子よくなった感じ」
えっへん、と言葉にするくらい偉そうに答えるものだから。
マミゾウはくすくすと笑い声を上げる。
「ははは、そうか、変わらぬ、か」
「そうだよ。変わるわけがないよ」
「儂を迎えに、この世界の外に出たときもかのぅ?」
「うん、ちょっと体が重くなったくらいかなぁ?」
そう答えてから、もう一度『変なマミゾウ』で締めくくる。
その言葉には妙な色合いなど含まれていない。
ただ、純粋に答えを返しているようにしか見えない。
だから、マミゾウは――
「ぬえや、少々よりたいところがあってのぅ。先に戻ってはくれまいか」
「え、いいけど、夕飯までには戻る?」
「いや、今日は外で食べるとするのじゃて。外食もたまにはのぅ」
「わかった、聖にはそう伝えておくね、じゃあ」
少し寂しそうに離れていくぬえを見送ると、マミゾウは体の向きを変える。
館とも、命蓮寺とも違う、太陽が沈んでいく方角へ。
昼と夜の境界へ向かって、進んだ。
霧の湖は、夜になるとその姿を一変させる。
透明度の高い湖面の上で、星や月の光を反射させ、それはまるで一枚の絵画のよう。
そんな湖の畔で、マミゾウは空を見上げていた。
程よい夜風に身を任せ、草木の香りを胸いっぱいに吸い込み。
夜空を肴に、過去を視る。
いつの時代からだろうか、このような当たり前の風景を眺められなくなったのは、
ずきり、と痛む、傷だらけの右手を目の前に持ってきて、自嘲気味に笑い。
「覗き見とは、よい趣味をしておる」
風が変わったのを肌で感じて、ゆっくりその身を起こした。
よっこいしょ、と。掛け声を入れるのを忘れずに。
すると、大人びた女性の笑い声がどこかから響き、
「妖怪の楽園、堪能していただいたかしら?」
目の前の湖面、その中央で、空間が縦に割れる。
そこから声質に見合った容姿の妖怪が姿を見せた。月の光でその身を長い金髪を飾り、水面につま先を触れさせ波紋を作り出しながら。
「ああ、実に面白い世界じゃ。この雰囲気も実によい。昔を思い出させてくれおる」
見上げる先には何があるのか。
マミゾウは星の輝きを数えながら、言葉を繋ぐ。
「あの頃は良かった。人間たちも儂を恐れ、崇め、共に生きておった。儂部下たちも中々ひょうきんでな、実に馬鹿馬鹿しい思い出がこの胸に詰まっておる。じゃが、それは確かに、失われたものじゃ。
変わらなかったのではない。
変わりたかったわけでもない。
変わらなければ、ならなかった。儂が暮らしておった世界は、過去の己を偽らねば存在すらできぬ地獄となってしもうた。じゃが、それを拒んだのじゃな、おぬしは」
何もないところから扇子を取り出し、紫は口元を隠して微笑む。
久しぶりに話しのできる相手だと感じ取ったのかもしれない。
「忘れられたものの楽園を創造しました。この世界での常識は、外の世界の非常識、その境界を明確にすることで私たちは生き続けることができます」
「ふむ、それは確かにありがたいことじゃな」
「あら、ならば何故」
紫が、不意に扇子を閉じ、また新たな空間を開いた。
するとそこから、九本の尻尾をくねらせてもう一つの影が現れ――
「何故、紫様に薄汚い殺気を放ち続けている?」
金色の目でマミゾウを睨み付ける。
この場に紫が現れてから、いや、現れる前から湖が静寂の中にあったのは、そのせい。
マミゾウがどす黒い妖気を放ち続けていたから、妖精すら逃げ出していたのだ。
「わからんか?」
「ええ、わかりません。こちらは妖怪が暮らしやすい環境を提供しているだけ、あなたも実感しているでしょう? 外の世界の常識という足枷が外され、自由になり始めた肉体を」
その足枷が砕け始めたのが、今日という日なのだろう
湯飲みを軽く握り締めただけなのに、砕けてしまったのも。
ぬえを強めに叩いただけなのに、大袈裟に痛がったのも。
吸血鬼の一撃をまともに受け止めることができたのも。
その変化による産物。
「加えて、妖怪等を代表とする幻想の生き物は、信仰を受ける、つまり、存在を強くイメージされることによって力をさらに強めることができる。ですから、時が経てば昔より遥かに強い力を持つことも夢ではありません」
妖怪にとって、永遠に忘れられる心配のない世界。
存在し続けられる世界。
その素晴らしさを紫が語るたび、マミゾウは奥歯を噛み締める。
「……では、これはなんじゃ?」
そして、紫の声が途切れるのを見計らい。
右手を掲げる。
傷ついて間もない、血が滴り落ちる右手を。
「これは、フランドールとやらにつけられた傷ではない。おぬしの言う、『楽園』から抜け出そうとして受けた傷じゃ。これはどう説明する!」
「簡単なことですわ」
声を荒げ、怒気を高める。
それでも紫は、平然と微笑み続け。
「外の世界での貴女の常識とこちらの世界での貴女の常識、それが短期間で大きくずれた。いえ、破綻したのですから。外の世界の常識に押しつぶされる力も幾分か強まるでしょう? つまり、この世界の恩恵を大きく受けた妖怪ほど、外の世界に戻ることはできなくなる。それを軽減する力が備わっているか、人間のように認められている生き物であればまだ救いはあるかもしれませんけれど。
すぐ出て行かなかったところを見れば、あまり外の世界に未練もなかったのではないかしら?」
「――」
確かにそうかもしれない。マミゾウが外の世界を大切に感じているのなら、異変が終わってすぐ外に戻ればよかった。
それならばまだ影響が小さかったはず。
ただ、マミゾウは戻ることができなかった。
彼女を頼り、妖怪の切り札として祭り上げたぬえの立場があったからだ。もし、そそくさと佐渡に帰ろうものなら、命蓮寺でやっと受け入れられたぬえが、一人になってしまいそうだったから。
また、昔のように。
マミゾウと出会う前のぬえに戻ってしまいそうで――
「――ぬえは」
だから、マミゾウは殺気を向ける。
自分が帰れないからではない。
それを悟れなかった自分のおろかさをぶつけているわけでもない。
「ぬえはそのことを知っておるのか?」
「知らないでしょうね。あの子は封印されていたおかげで、過去とあまり力の差がない。だからこそ、あちらの世界とこちらをそれほど苦無く行き来することができた。
ですから……ああ、そういうわけでしたか」
その本心を知られ、マミゾウは殺気をさらに強める。
「滑稽ですものね? 妖怪の切り札として呼び寄せたあなたが、思ったほどの活躍ができず。今は命蓮寺の居候」
「黙れ……」
「でも、ぬえの頭の中にはあるのでしょう。『幻想郷と外の世界は行き来可能』と。ですから、もしも……それができないと知ったら?」
「黙れ……」
「自らの手で、あなたを束縛したと知ったら? あの子はどういった反応を――」
その瞬間、言葉より早く体が動いていた。
地面が砕けるほどの力で地を蹴り。
空中で余裕の笑みを作り続ける紫の首に、左手を突き立て――
「くっ!」
しかし、その腕は横から伸びてきた藍の手に阻まれ。
強く掴まれたまま無理やり引き離されてしまう。
「……紫様!」
「はいはい、わかったわよ、藍。意地悪はこれくらいにいたしましょうか」
困り顔で藍が叫ぶと、お手上げといった様子で肩を竦めた。
「そちらとしても、望まぬ形でこちらの世界に入ってきたのかもしれません。けれど、他の妖怪と同じく、平穏を過ごしていただけることを望みます」
「……儂がこの世界を壊すかも知れぬぞ?」
「あら、そうすると誰かさんが悲しみますわね」
「ぐむむむ……」
藍が手を離しても、マミゾウはその場で声を上げるばかりで紫に飛びつこうとはしない。そんな声が数分続いた後。
マミゾウはその場で飛び上がると、そのまま胡坐をかいて着地し。
「……あ~、わかった! やめじゃ、やめ! 儂も腹を決めてこの世界の一員となってやろうではないか!」
膝を叩きながら、ふてくされる。
「意外とかわいらしいところもありますわね」
「ふん、儂はいつでも愛らしく、可愛らしいのじゃ! ええい、酒じゃ! 酒をもってこい!!」
その一声を合図に、紫が開いた隙間から大量の酒樽が地上に降り注ぎ。
次の日、紅魔館から苦情が上がるほどの騒ぎが繰り広げられたのだという。
その後、ふらつきながら朝帰りしたマミゾウは……
「ねえ、マミゾウ! 明日でいいからさ、妖怪の山にいってこようよ!」
「わかったぁ、わかったから、あまり近くで大声はぁ……」
布団に潜りながら、ぬえの大声と格闘しており。
「その次はね! 白玉楼ってとこで!」
「おうおう」
「その次の次は、地底なんてどうかな!」
「うむぅ……」
「えっと、ね。その次は……」
「ん?」
「その次は……えと……」
「んぅ?」
「ねえ、外の世界に帰りたいって、思う?」
「……」
「本当は、あっちにいたかったとか思ってたり……」
「……馬鹿者」
布団を深く被り直し、一言だけつぶやいた。
一畳分ほどの広さの長机と、その周囲の畳の上に、土色の破片が散らばるまでは。
湯のみであったはずの容器が形を失ったせいで、その中に注がれていた高温のお茶が湯気とともに周囲に広がり、正座していたマミゾウの太腿にすら降りかかる。
「――」
けれど、マミゾウは微動だにしなかった。
尻尾を振ることも、叫び声をあげることもなく。
聖に借りた経文が、黄色く染まっていくのを、ぼうっと眺めていた。まるであり得ない状況を見せつけられた子供のようで――
「わ、わたたたたっ!?」
やっと状況を把握した時は、すでに経文の半分が煎茶で染まりきった後。熱いとか熱くないとかの問題ではない。
生命の危機である。
『のう、何か暇をつぶせるような書物はないか?』
と、尋ねたら笑顔で経文を差し出す聖にも、居候の立場で強く拒否できなかったマミゾウにも問題はあったかもしれない。
とりあえず読んでみようかとしたら、退屈が悪化してしまい。睡魔がいたずらしたとかそういうのもほんのちょっとは問題かもしれないが、不慮の事故である。情状酌量の余地もあるはずだ、が。
やはり、このシミはまずい。
というか余計なことを考えている間に、文字が滲み始めて見えるのは気のせいだろうか。
いや、気のせいにしなければならない。
気のせいにして、ぷりぃず。
真っ青な顔で慌てて湯呑の破片を経文から押し退け、部屋の隅に置いてあったはずの手ぬぐいを探す。
畳んであった替えの衣服を手荒に退かせば――
真っ白な手ぬぐい発見。しかも二枚。
これは天の助けと言わんばかりに、それを片手で握りしめたマミゾウは、濡れた書物を乾いた畳の上に避難させる。ふやけ始めた紙を上下から優しく包み、子供でもあやす様に優しく。それでいて、疾風のように素早く叩く。正座しながらそんな作業を10分ほど続けてやれば、お婆ちゃんの知恵袋ならぬ、お姉さんの知恵袋的な感じで――
「わぁい、どすぐろぉいのじゃぁ……」
悪化した。
しかも救い手であったはずの手ぬぐいさんが文字の墨まで広げる有様である。白い紙に戻れば、絵も字もござれなマミゾウのこと。こっそり修繕して何事もなかったように返せたというのに。
これでは返すどころか、土に還されてしまうかもしれない。
成仏的な意味で。
とりあえずこんな状態を誰かに見られては危険だ。
そう判断したマミゾウは、黄色と黒が混ざった経文のページを開いたまま机付近を片付けようとして――
「マミゾウ! たまに人里に遊びに――」
「あっ!?」
「えっ!?」
マミゾウが腰を浮かせた姿勢で固まる。
なんと間の悪いことか。
おそらくは遊びに誘おうとやってきたのだろう。ぬえも予想だにしない光景に小さな悲鳴をあげるだけ。しかし、その声は容易にマミゾウの動揺を誘い。
「ち、違うのじゃ! ぬえ! 儂は、そういうつもりではっ!」
化かす能力を使うのすら忘れ、素直に己の罪を自白させてしまう。ぬえとて命蓮寺の一員である。その寺が管理する経文を汚したとあっては、叱責の声が飛んでくるに違いない。そう判断して、マミゾウが身を強張らせていると。
何故かぬえは、小さく首を横に振って優しく微笑みかけてくる。
「いいんだよ、マミゾウ。それはきっと仕方のないことだから」
「ぬえ……」
すべての罪を包み込んでくれるような、母性的で柔和な表情。普段のぬえからは想像できない姿に、マミゾウは仏を見た気がした。
「大切なものを台無しにしちゃった気持ち、痛いほどわかるから」
ぬえは座り込んだマミゾウと同じ目の高さまで身体を下げ、ゆっくり肩に手を置いた。昔は悪戯っ子でしかなかったぬえの成長を垣間見て目頭が熱くなったのだろうか、軽く眼鏡を上げて目元を擦りながら微笑みを返す。
「そう、じゃな。誠意を込めて謝罪する、それが第一か」
「うん、きっと聖も年を重ねた人間だから、そういうのわかってくれると思うよ」
妙な物言いに一瞬首を傾げるマミゾウであったが、年を重ねている分経験が多いという使い方だろう。
そう判断してぬえの言葉が続くのを待ち――
「お年寄りってさ、厠まで我慢できなかったりするもんね。だからマミゾウおばあちゃんが悪気なく粗相しても、それは仕方のな――いた、いたたたたたたっ!」
直後、顔を赤くしたマミゾウの連続チョップがぬえに襲いかかったのだった。
「なんだっけ、年をとった女の人って癇癪起こしやすいんだっけ……ヒステリーとかいうやつ!」
「じゃかぁしぃわ! お主が無礼を働くのが悪い!」
仲がいいのか悪いのか。
横並びになって歩きながら、肘でお互いの脇腹を小突きあう妖怪の姿を人里の人間は物珍しそうに眺めていた。しかも向かって右側の妖怪はあまり面識のない新参者の妖獣、そのため人間が警戒し、進行方向の人ごみが綺麗に分かれていく。
上空から見るとさぞ綺麗な光景であろう。
いわゆるぷちモーゼの奇跡である。
「あ~あ~、せっかく? せぇ~っかく、私が一緒に謝ってあげたのに、謝罪もないし。恩を仇で返すなんて見損なったね! いたーい、おでこがひりひりすーるー!」
「おうおう、そうかそうか。あの程度の攻撃で参るとは天下のぬえも落ちたものよのぅ」
「なっ!?」
「おや? おやおやおや? どうした? 顔を真っ赤にしおって。ああ、そうじゃった。まだ傷が癒えておらんのじゃったなぁ、可哀想に、ほほほほほ」
「若づくりばばぁ」
「……路地裏」
「……上等」
にこやかに口元を歪めながら見詰め合う二人。火花が散るほどアツアツな二人を邪魔することなどできるはずもなく。
周囲の人の輪はどんどんと半径を広げていった。そんな中で、
「そこまでだ!」
人垣を掻き分けて、一つの陰が急接近した。
青い長髪を振り乱しながら距離を詰めた慧音は、二人の視界の中心に分厚い本を振り下ろした。
いきなりの行動に二人の視線が女性に動く、その瞬間。
こんどは女性の陰に隠れていた阿求がひょっこりと顔を出し。
「人里では人と妖、及び妖と妖の争い事は基本的に禁じられています。速やかに争いを止めることをお勧めいたしますが、いかがでしょう?」
見た目は少女、のはずなのだが見た目からは想像できないほど落ち着いた様子で二人をたしなめる。それはまるで、大人びた女性の域であり。言い得て、妙であった。
ぬえとマミゾウはしばらく少女と女性を交互に眺め続けるだけ。
それを理解していないと受け取ったのか、慧音はやれやれといった様子で両手を腰に当てる。
「ぬえは分かっているとは思うが、あまり物分かりが悪いようだと捕まえて自警団に――」
そして、軽く瞳を閉じながら、お決まりの注意を言い掛けたときだった。
砂煙が上がったかと思うと、二人の姿が地上から消える。
それとほぼ同時に遮られる、慧音に降りかかっていた日の光。
何か嫌な予感を感じながら彼女が空を仰ぎみれば、
何か、大の字になって飛んでくる影ふた――
がしっ
「はくたくげっとじゃぁぁ!」
「おっけーマミゾウ!」
「な、なぁぁぁっ!?」
組みつかれそのまま地面へと。
上に覆いかぶさった二人は、両側から抱きつき。慧音とぬえとマミゾウのくんずほぐれつ大騒ぎ。
その動きに男たちは息をのみ、阿求は耐えきれず両手で目を覆った。
「け、慧音さん、なんて破廉恥なっ! もう見てられません!」
「阿求、顔隠してないで早く助け……って、指の間から目が見えるんだがっ! 見てるだろ、おいっ!」
そうして、人里の一角は若干桃色に染まったんだそうな。
めだたし、めでた、
ゴスっ…… ドゴっ……
「……何か言うことは?」
「ハンセイシテマ~ス、みぎゃぁ!」
阿求の屋敷の中、二度目の頭突きで沈黙したぬえの横で、マミゾウは静かに震えていた。人間という生き物の残酷さに、何でも力で押し通そうとする傲慢さに……
「ああ、かよわい儂も後を追うことになるのじゃな……今逝くぞ……ぬえ」
「こらそこ、人を暴力者のように言わない!」
マミゾウはさきほどできたコブをさすり、正座した脚を擦り合わせる。とりあえず、慧音が超至近距離からの頭突きで二人を黙らせてから、場所を移してことの次第を話し合っていた。
「まぁ、なんじゃ。まさかぬえの計略がここまではまるとはおもっておらなんだのじゃて」
そう、マミゾウとぬえは本心から争っているわけではなかったのだ。
目的は阿求の横で怒り心頭中の慧音。彼女を探しに人里にやってきたはいいものの、寺子屋が休みでどこにいけばいいかわからなくなり。
『行き先がわからなければ、呼び出してしまえばいいじゃない』
という、ぬえの作戦により。わざと厄介事を演出し、人里の守護者である慧音をおびき寄せたというわけだ。
「それで? 私に用とは? もしそれがつまらない内容であれば……」
ただ、呼び出された側としてはたまったものではない。初対面の相手なら敬語を話すはずの慧音が、いきなりマミゾウに対して威圧感たっぷりなのもそのせいだろう。
それを理解している阿求も、仕事机につきながらうんうんと頷く。
「そうです。慧音さんは、大事な作業中だったのです。せっかくの休みを竹林で過ごそうと鼻歌を奏でながら、野菜を買っている姿はもう、主婦そのもので――、こ、こほんっ! と、ととと、というわけで、理由を望みます。えーっと……」
「マミゾウじゃ」
「はい、マミゾウさん!」
余計なことを口走った瞬間、ものすごい顔で慧音が振り返ったので、慌ててマミゾウに話を振る。
怒りとは別な要素でも顔を染め始めた慧音に対し、それでもマミゾウはどこか余裕を残して腕を組み、ひと唸り。その後、おもむろに懐から一冊の本を取り出して二人の前に静かに滑らせた。
「実はそれと同じ本を探しておってのぅ」
「本を探すのに、何故私なんだ?」
「簡単な理由じゃよ。もしこの本がどこで作られたか分かれば、大きな手掛かりになるからじゃ。裏表紙をめくったところにもそういった情報がなく、困っておったのじゃて」
幻想郷の中で作られた本かどうかわかれば、複製が可能かもしれない。もしくは、この著者がこの世界にいるのなら同じものが何冊か存在するかもしれない。
そう思って、ぬえに何か手段がないかと尋ねたら。ハクタクという存在を教えてもらったというわけだ。ハクタク状態ではない人間状態の慧音を初見で判別できたのも、事前に話を聞いたから。
「しかし、そういう理由があったのなら妙な策を使わなくてもよかったんじゃないか? 明日なら寺子屋も開いているし」
「……まあ、それもそうなのじゃが」
すると、マミゾウは気まずそうに視線を落とし。
「実はこの本は聖殿のものでな、ほれ、中が汚れてしまっておるじゃろう? 儂が手違いで汚してしまったものじゃ。それを聖殿に素直に謝罪したわけじゃが……」
「許してくれなかった、と? あのお方はそんな器量の小さい方ではない気がしますが」
阿求が不審そうに眼を細めるが、マミゾウは当然と言わんばかり首を横に振る。
「もちろん、許してくれたのじゃ」
「それでは、何故? 慧音さんの言うようにそんなに急がな――」
「許してはくれた! 気にするなとも言ってくれた!」
マミゾウはいきなり足を崩し、胡坐をかくと声を荒げた。
「しかしじゃ! その笑顔の陰に悲しげな表情があったのを見抜けぬこの儂ではない! それほど大切なものじゃった! 儂を信頼してそれを貸し与えてくれた! じゃが、儂は……、儂は……、その信頼を裏切って、それを汚した!」
「マミゾウ……」
「どこにも行くあてのないこの儂を迎え入れてくれた。その恩に報いることもできず、ならば儂にできることはもはや、悲しみの元を少しでも早く軽くしてやることだけじゃ。
見知らぬ妖獣の戯言かもしれぬが、どうか、どうか……」
言葉尻を揺らしながら、頭を下げる。
そのとき、ぽたり、ぽたり、と何かが畳の上に落ち、小さなシミを作り出した。それを見下ろしていた慧音は、溜息を吐きながら額を押さえて阿求に視線を送る。
と、二人の視線がぴったりと合って。
「さて、慧音さん? 追い返します?」
悪戯っ子のように笑う阿求に、慧音の最期の毒気まで抜かれてしまう。
「わかった、わかったから! ここで断れば私が悪者じゃないか、まったく」
「で、では、慧音殿!」
「歴史を見るだけ、それ以上は手伝わない。それでいいな?」
「うむ、恩に着るのじゃ!」
瞳を潤ませながら顔を上げるマミゾウに微笑みを向けてから、慧音は本に触れ、その記憶を探り始めた。
これでやっと、手掛かりがつかめるとマミゾウは息を吐く。
「それで、マミゾウさん?」
そんなとき、何故かすぐ隣に阿求がすり寄って来ていた。
何か用かとその小さな少女へと視線を送れば、何故か嬉々とした顔で見上げており。
「やはり、お願いごとには何かしらの対価が必要だとは思いませんか?」
「うむ、ぎぶあんどていく、というやつじゃな。それは理解できるが、儂が提供できるものはそんなにないと思うがのう。なんせ、ほぼ身一つでこの世界に来た――ひゃぅっ!?」
いつもの口調からはまるで想像もできない、可愛らしい声。
それがいきなりマミゾウの口から零れた。
それは仕方ない。なにせ、いきなり阿求が服越しに脇腹を撫でてきたのだから。
不意打ちにもほどがあるというものだ。
「ああ、申し遅れました。私、稗田阿求と申しまして、人里で幻想郷の歴史の管理を行っております」
「ほ、ほぉう、それは立派じゃなぁ、じゃが、儂にペタペタ触れておるのとそれと何の関係が……」
「マミゾウさんは、新参の妖怪なのでしょう? つまりまだ、幻想郷の中に何の歴史も刻んでいない新しい存在。
慧音さんがゆっくり本を調べている間に、こちらはこちらで、あなたを調べつくそうかと思いまして」
「……あ、あぁ、しまったぁ! 今から命蓮寺で仕事があったんじゃったぁ、すぐ終わらせて戻る故、代わりにぬえをここに置いて! ……おいて、って?」
いない。
さきほどまで気を失っていたはずのぬえの姿が、きれいさっぱりなくなっている。
そして、ぬえがいたはずの畳の上にはメモが一つ。
『後はまかせたっ!! ぬえより』
「……いやん」
マミゾウはこの時、自分の血がサーっと引いていく音を聞いた気がした。
それから半刻御――
「さっきはお楽しみでしたね!」
妙に疲れた顔でマミゾウが屋敷から出ると、通りで待っていたぬえがからかいながら近づいてきて、。
「……」
「ごめん、割と本気でごめん」
呪い殺しそうなほど熱い視線をカウンターで受けて、ぬえは素直に頭を下げた。
「まったく、儂が粉骨砕身の気概で動いたというに、結局わからずじまいとはのぅ」
「え? わからなかったの?」
「わかるにはわかったのじゃがなぁ。この本は儂と同じじゃよ」
「古いってこと?」
「拳骨一発」
「え、ぇぇっ!?」
素直すぎる答えを軽く切り捨て、少しだけ力を入れた手をぬえの額にこつんっと。
「――っ!?」
「そうそう、そうやって静かに話を聞いておれ。儂と同じ、つまり外の世界で書かれた書物が流れてきたというわけじゃ。しかも比較的新しいものらしい。墨がすぐ滲んだのもそのせいということで」
「――っ!?」
「なんじゃ、何をのたうちまわっておる。大袈裟な」
「っ! お、大袈裟って! すっごい痛かったんだけど! さっきのチョップより痛かった!」
「はいはい、わかったわかった」
「こらー、人の話聞けーー!」
通路の隅でごろごろ転がるぬえを視界の端に置いて、マミゾウは軽く足に力を込めて空へと飛びあがる。すると慌ててぬえもそれについていく。
「んー、そういえば、星が聖へのプレゼント探しに森の近くの道具屋いってたから、そのときに仕入れたのかも」
まだ痛そうに額をさすっているのは、マミゾウへのアピールか。
「なるほど、仲間からの贈り物か。ならば納得がいく。では、そちらの店に向かってみるか?」
「やめといた方がいいよ。あの店って同じ品物置いてあることほとんどないから」
「妙なこだわりがある店主なのか、それとも単なる変わり者か。まあ、それはさておき、人里が駄目そうならばもう一つの手掛かりを探しに行くとするかの?」
「そうだね、あそこなら新しい本も集めたりしてるし」
会話を繰り返しながら空を飛んでいくと、眼下に白い霧に覆われた湖が見え始める。ぬえからその近くだと聞いていたマミゾウは、速度を緩めて高度を下げ。
「ふむ、ここか」
濃い妖気を肌に感じながら、大きな屋敷の門前に降り立った。全体的に赤をモチーフにした、阿求の屋敷とはまた違う雰囲気の概観。綺麗でありながら、言い知れない威圧感を与えてくる屋敷に感嘆の声を漏らしていると。
ぬえが門番に挨拶することなく、素通りしようとしていた。
門の横の壁に背を預けた門番すらスル―して。
「お、おぉ~?」
そんなぬえの首根っこをひっつかなんで、ずりずりともう一度門の外まで連れてくる。
「こら、人の家に入る時は門番に断りを入れるのが筋ではないか」
「え~、だってみんなこうやって入ってるよ」
「皆は皆、ぬえはぬえ。外見は子供でも良い歳なのじゃから、行動には気をつけれるべきであろう」
「むー、頑固者め」
おそらくぬえがここの屋敷の誰かと知り合いであるから無言で通すのだろう、と、そう判断したマミゾウはぬえと一緒に、門番に対してぺこりと頭を下げた。
ちょうど真横になる位置から。
「お邪魔してよいかのぅ?」
問いかけてみた。
しかし、門番はマミゾウの方を向かず、壁を背にして前を向くばかり。
ああ、なるほど、やはり正面からではないと失礼かとマミゾウが前に回り込んで。
「お邪魔してよいかのぅ?」
もう一度問いかけるが、反応がない。
ぬえはそんな様子を『言った通りでしょ?』と不機嫌そうに眺めている。こうなってはマミゾウにも意地がある。
反応するまで挨拶を繰り返してやろうと大きく息を吸い込んだとき、いきなり背後に気配が生まれて、
さくっ
そこから放たれたナイフが頬を掠めて、壁に深々と突き刺さる。
恐る恐る振り返ると、そこには。
「……美鈴? お客様がいらしているのだけれど?」
なんだかどす黒いオーラを放つメイドと。
周囲を覆い尽くすナイフの群れがそこにあって――
「ぴ、ぴゃーっ!」
「みゃーっ!」
美鈴とマミゾウは同時に妙な声で鳴いたのだった。
「阿求という、あのメイドといい、人間とはなんと残酷な生き物じゃ……」
「咲夜さんのことですか、まあ、大体この屋敷に関わる人間のほとんどがたくましいですけどね。昔はもうちょっと可愛かったんだけどなぁ」
咲夜の教育的指導の後、あっさり復活した美鈴に連れられ、マミゾウとぬえは紅魔館の広い廊下を歩く。
下を向けば赤い絨毯、横を見れば鏡のように輝く壁、上を見ればマミゾウの身長の倍以上ありそうな高い天井。そんな空間が淡いランプの光だけで照らされていた。窓はしっかりと締め切られ、カーテンだけでなく金属製の何かで光を遮断してある。
「ああ、確かに気になりますよね。先ほども説明しましたがここは吸血鬼の住むお屋敷なので、太陽の光は厳禁なのですよ」
気を読むというのだろうか。マミゾウが興味を持って視線を動かす度、美鈴は嬉しそうに館の説明を始める。そして、地下までおりてきたところでマミゾウが美鈴へと視線を移す。すると、さすがにわからないのか首を傾げて見つめ返した。
「おぬし、門番の業務はいいのかのぅ?」
「妖精メイドの誰かが代わりにやると思いますよ。遊び感覚で」
「遊びっ!?」
「たぶん30分ほど経てば、じっとしているのが我慢できなくなるだろうし。侵入者側と防衛側に分かれてごっこ遊びが始まるから。まあ、妖精の行動なんてそんなものですって」
外の人間がいう妖精というイメージはこう、神秘的で、知性が高く、森の中で独自の文化を持ってて、引っ込み思案。
自然界に住む精霊と似たようなものか、と思っていたマミゾウの想像を斜め上に裏切る状況である。そもそも一部の人間が空を飛んでいる時点で、マミゾウの常識の範囲外だ。
「咲夜というさきほどのメイドは、何を?」
「普段ならこういう仕事は咲夜さんが担当するんですけど、このお屋敷のお嬢様はとても好奇心が旺盛であられるので……、知らない妖怪が屋敷に入ったと知ったら大騒ぎするのは間違いないわけで……」
「なんじゃ、子供が元気なことくらいよいではな――」
「しにますよ?」
「えっ?」
「不用意に接近したらしんじゃいます。
というわけで、咲夜さんはお嬢様を抑え込む役割ですね」
とりあえず凶暴。
吸血鬼を見たことのないマミゾウも、知識だけを組み合わせればそんなイメージが浮かび上がる。が、出会ったら死ぬとまでは想像していなかった。
あごに手を当ててうーんっとマミゾウが唸っていると、少し後ろを歩いていたぬえが何かを思い出したように口を開いた。
「あ、お嬢様って人は抑えられるとして、フランドールの方は?」
「……あー妹様ですか、少し前に妖精を自室に入れたので、おそらくは『遊んでいる』最中だと思うので」
「なんじゃ? ぬえ、知り合いがおるのか?」
しかも吸血鬼に。外のいたときはお世辞にも友好関係が広くなかったぬえの意外な接点にマミゾウは目を丸くする。
「そうそう、弾幕仲間ってところかな。私の弾幕癖があるみたいで、フランドールくらいの妖怪じゃないとまともな相手にならないのよ。まあ、巫女とかは別として。でも、『お人形遊び』中なら邪魔できないなー」
「ほほう、人形か。姉とは違ってなかなかおしとやかなようじゃな。そのフランドールとかいうほうなら、危険はなさそ――」
「死ぬよ?」
「えっ」
「油断しなくても死ぬ」
もうやだその姉妹。
マミゾウは絶対にその吸血鬼とは出会うまいと心に決め、
「こちらが図書館になります」
美鈴に促されるまま、マミゾウは大きな扉の中にと足を踏み入れた。
「人里からの紹介状、ね。なら、信用できる妖怪と思いたいのだけれど」
マミゾウから預かった文書を読み終えた後、パチュリーはそこで言葉を切り、
「化かす妖怪セットを信用してもいいものか」
確かに、と。マミゾウは自分のことながら心の中で肯定した。
概念を捻じ曲げるぬえと、変化を司る狸の妖獣。
どちらも騙しに関しては一流どころではないのだから。小悪魔に運ばれた紅茶を口にしながら、困った様子でマミゾウは片目を瞑る。
「さきほどの内容から言えば、テーブルの上の本をなんとかしたいだけみたいですし。ほら、何かあれば私がついてます」
が、背後を守るように立つ美鈴の声を受け、パチュリーは表情を緩めた。
「それもそうね。余計な心配ほどしなくていいものはないわ。では、見せていただいても構わないわね?」
マミゾウが頷くのも待たず、パチュリーは魔法で本を引き寄せると空中で停止させる。そして読みやすいように角度を変えてから、何もない空間で指と横にすべらせた。
するとどうだろうか。まるで、本の方から望むように、パチュリーに眼前でページが勝手に開いていく。そのまま最後まで開き終えた本は、ぱたりっと、小さな音を残してテーブルの上に落ちる。
問題の汚れたページを出した状態で。
と、そのとき。
「あっ!?」
パチュリーでもなく、マミゾウでもぬえでもなく。
紅茶セットの横で立っていた小悪魔が真っ先に反応した。口元に手を当て何か言いたそうに、そわそわし始めたのだ。
それを感じ取ったのか、パチュリーは頬杖をつきながら小悪魔に視線を送る。
『話しなさい』と、指示するように。
「え、えーっと、たぶんその汚れ、取れちゃうと思いますです、はい……」
「おお!」
「しかも、あっというまに」
「おおおっ!」
マミゾウが期待の視線をパチュリーと小悪魔に送る。
パチュリーは平然とそれを受け止めるが、小悪魔は難しそうな顔をしながら消え入りそうな声でつぶやいた。
「……私も、よくやりますから」
パチュリーが視線を送った理由がこれだったのだ。
『あなたならわかるでしょう?』と、若干皮肉を込めたつもりなのだろう。恥ずかしそうに頭を下げる小悪魔がテーブルから離れていくのを見て、パチュリーは軽く息を吐き。
「よい関係ではないか、かわいげがあって」
「そうね、可愛いというところは肯定させていただこうかしら。まあ、この程度の汚れなら水や地の属性に干渉するだけで元に戻るとは思うのだけれど、少々問題があるの。それさえ解決していただけたら、すぐにでも作業に取り掛かるわ」
「ほ、本当か!」
「ええ、いつもあの子が紅茶を零した後、復元しているもの」
願ったり叶ったり。
マミゾウは腰をいすから浮かし尻尾を小さく揺らしながら、瞳を輝かせる。
「それで、あなたにお願いしたいことなんだけれど」
言いながら、パチュリーはマミゾウが来てから向けていなかった方へと、視線を動かした。
「……ふむ」
そしてマミゾウも、部屋に入ってから見ていなかった左側。
ぬえの方へと視線を動かす。
図書館用の四角いテーブルの、線の一つ。
少しはなれたところにぬえがいるのは間違いない、間違いないのではあるが。問題は、その横。
金色の髪を横でまとめた愛らしい少女が、ちょこんっと座っていて。
「ねえ? パチュリー? 耳と尻尾があるってことは、妖獣よね? 妖獣って……『頑丈』なのよね?」
紅の瞳を好奇心に燃やしていた。
結晶つきのいびつな羽根は楽しそうに揺れ、飛び上がる瞬間を待ち望んでいるようだ。
「のぅ、パチュリー殿?」
「何かしら?」
ただ、何だろうか。
視線を向けられる度、マミゾウの背筋あたりをぞわぞわ、と何かが走り抜けるようなこの感覚は。寒気、と単純に言い表していいのだろうか。
「えーっと、ぬえと仲よさそうにすわっておるあの童は?」
「妹様」
「名は?」
「フランドール・スカーレット」
「種族は?」
「吸血鬼」
確か、妖精とお人形遊びをしているとか言う話だったのに。
何故ここにいるのだろうか。
どうして、服のところどころが紅く染まっているのだろう。
マミゾウの首筋につーっと、冷たいものが伝っていく。
「……というわけで、私が本を修復する間、あなたには妹様の遊び相手をお願いするわね」
「え、あ、いや、ちょっ!? 待て、そのような話は聞いておら――」
本能が警鐘を鳴らし続ける中で条件を飲めばどうなるかわからない。
マミゾウは慌てて拒否しようとするが、フランドールは椅子に座ったまま。楽しそうに笑っていて。
「ねえ、遊びましょう?」
「っ!?」
直後、真後ろから上がった声に反応できたのは奇跡かもしれない。
風を切る音と妖力から速度、威力、角度を瞬時に判断し闇雲に手を伸ばせば、
続いて来るのは、手の平を襲う激しい痛み。
「きゃはっ!」
そして、襲撃者の楽しそうな声。
フランドールとまったく同じ姿の少女が放った拳を、受け止め。
いすに座った状態で吹き飛ばされながら、
「こ、この、馬鹿者がっ!」
横に流す。
「あれ?」
と、力を利用されたもう一人のフランドールは、マミゾウの横を素通りして本棚の一つに激突。
盛大に飛び出した本の下敷きとなってしまう。
さすがにやりすぎたかと、地に足をつけて冷や汗を流すマミゾウであったが。
「ぬえ! このお姉さん面白いよ! いきなり私の攻撃受け止めちゃった!」
本の中から赤い霧が生まれ、それが座っているフランドールへと収束していくのを見て、要らぬ心配と悟った。
それよりも、遊びとかそういう問題ではなく。本気で対処せねば生命の危機であることに違いない。
さらに、派手にやりすぎると……
「ああ、そうそう。あんまりドタバタやると、後で片付ける小悪魔が大変なのに加えて。レミィが動くわよ?」
「やだ! こんな遊び、お姉様になんか! あいつなんかに渡さない!」
「あー、興奮しちゃった」
「ぱ、ぱちゅりぃどのぉ!」
派手にやりすぎるともう一人の吸血鬼まで呼び寄せかねないのだから、そんな状況で火に油を注ぐなとか、『マミゾウならできる』とか無茶なこと言うなとか、傍観者に対して言いたいのは山々だが。
相手のテリトリーで怪我を負わせることなく、適度に遊ばせるという難問を突破することが第一。
マミゾウはさきほどのように、攻撃に合わせて動くことだけに集中する。
あの重い一撃よりも、さらに重い攻撃の避け方、受け止め方を頭の中に思い浮かべ。
「……そうじゃ、全盛期の儂であれば」
あの重い一撃を受け、流す。
それはそんなに難しいことではない。
だから、今の自分にもでき――
――でき、る?
「なんじゃ、これは……」
マミゾウは、声を震わせながら。
戸惑いながら。
それでも、確かに、
「すごい! すごーい!!」
フランドールの攻撃を、避け続けていた。
「やったねマミゾウ! 本が元に戻ったよ! これで聖も星だって喜んでくれるよ!」
「あ、あぁ、そう、じゃな」
館を出れば、もう夕暮れ。
綺麗になった経文を手にぬえが飛び跳ねるのを横目で見ながら、マミゾウは自らの手を握っては広げ、握っては広げ。そんな単純作業を繰り返していた。
おそるおそる、何かを確かめているような。
そんな動作だった。
「あー、フランドールの相手一人でさせたのは悪かったとはおもうけど。マミゾウなら一人でも大丈夫だって最初からわかってたし」
気のない返事を不機嫌さによるものと勘違いしたのか、ぬえが軽く頭を下げてくる。しかし、マミゾウの心は別な事象で揺れ動く。
「なあ、ぬえ?」
「何? マミゾウ」
だから、聞いておかねばならない。
そう思ったのだろう。
「おぬし、この世界でもう一度自由を得たとき、昔と何か変わったことはなかったか?」
「え? 変わったこと?」
「ああ、何か調子が悪いとかそういうやつじゃ。なんでもよい、なにかあったのならば教えてはくれまいか」
「ん~? 変なマミゾウ、まあ、答えてあげるけどさ」
ぬえは夕日に横顔を照らされながら、ぐるりっとマミゾウの前に回りこんで、自慢気に胸を張って見せた。
「ふふーん、このぬえ様をなんだと思ってるのかなぁ。封印されてたくらいでどうにかなると? 全然かわらないって、むしろ調子よくなった感じ」
えっへん、と言葉にするくらい偉そうに答えるものだから。
マミゾウはくすくすと笑い声を上げる。
「ははは、そうか、変わらぬ、か」
「そうだよ。変わるわけがないよ」
「儂を迎えに、この世界の外に出たときもかのぅ?」
「うん、ちょっと体が重くなったくらいかなぁ?」
そう答えてから、もう一度『変なマミゾウ』で締めくくる。
その言葉には妙な色合いなど含まれていない。
ただ、純粋に答えを返しているようにしか見えない。
だから、マミゾウは――
「ぬえや、少々よりたいところがあってのぅ。先に戻ってはくれまいか」
「え、いいけど、夕飯までには戻る?」
「いや、今日は外で食べるとするのじゃて。外食もたまにはのぅ」
「わかった、聖にはそう伝えておくね、じゃあ」
少し寂しそうに離れていくぬえを見送ると、マミゾウは体の向きを変える。
館とも、命蓮寺とも違う、太陽が沈んでいく方角へ。
昼と夜の境界へ向かって、進んだ。
霧の湖は、夜になるとその姿を一変させる。
透明度の高い湖面の上で、星や月の光を反射させ、それはまるで一枚の絵画のよう。
そんな湖の畔で、マミゾウは空を見上げていた。
程よい夜風に身を任せ、草木の香りを胸いっぱいに吸い込み。
夜空を肴に、過去を視る。
いつの時代からだろうか、このような当たり前の風景を眺められなくなったのは、
ずきり、と痛む、傷だらけの右手を目の前に持ってきて、自嘲気味に笑い。
「覗き見とは、よい趣味をしておる」
風が変わったのを肌で感じて、ゆっくりその身を起こした。
よっこいしょ、と。掛け声を入れるのを忘れずに。
すると、大人びた女性の笑い声がどこかから響き、
「妖怪の楽園、堪能していただいたかしら?」
目の前の湖面、その中央で、空間が縦に割れる。
そこから声質に見合った容姿の妖怪が姿を見せた。月の光でその身を長い金髪を飾り、水面につま先を触れさせ波紋を作り出しながら。
「ああ、実に面白い世界じゃ。この雰囲気も実によい。昔を思い出させてくれおる」
見上げる先には何があるのか。
マミゾウは星の輝きを数えながら、言葉を繋ぐ。
「あの頃は良かった。人間たちも儂を恐れ、崇め、共に生きておった。儂部下たちも中々ひょうきんでな、実に馬鹿馬鹿しい思い出がこの胸に詰まっておる。じゃが、それは確かに、失われたものじゃ。
変わらなかったのではない。
変わりたかったわけでもない。
変わらなければ、ならなかった。儂が暮らしておった世界は、過去の己を偽らねば存在すらできぬ地獄となってしもうた。じゃが、それを拒んだのじゃな、おぬしは」
何もないところから扇子を取り出し、紫は口元を隠して微笑む。
久しぶりに話しのできる相手だと感じ取ったのかもしれない。
「忘れられたものの楽園を創造しました。この世界での常識は、外の世界の非常識、その境界を明確にすることで私たちは生き続けることができます」
「ふむ、それは確かにありがたいことじゃな」
「あら、ならば何故」
紫が、不意に扇子を閉じ、また新たな空間を開いた。
するとそこから、九本の尻尾をくねらせてもう一つの影が現れ――
「何故、紫様に薄汚い殺気を放ち続けている?」
金色の目でマミゾウを睨み付ける。
この場に紫が現れてから、いや、現れる前から湖が静寂の中にあったのは、そのせい。
マミゾウがどす黒い妖気を放ち続けていたから、妖精すら逃げ出していたのだ。
「わからんか?」
「ええ、わかりません。こちらは妖怪が暮らしやすい環境を提供しているだけ、あなたも実感しているでしょう? 外の世界の常識という足枷が外され、自由になり始めた肉体を」
その足枷が砕け始めたのが、今日という日なのだろう
湯飲みを軽く握り締めただけなのに、砕けてしまったのも。
ぬえを強めに叩いただけなのに、大袈裟に痛がったのも。
吸血鬼の一撃をまともに受け止めることができたのも。
その変化による産物。
「加えて、妖怪等を代表とする幻想の生き物は、信仰を受ける、つまり、存在を強くイメージされることによって力をさらに強めることができる。ですから、時が経てば昔より遥かに強い力を持つことも夢ではありません」
妖怪にとって、永遠に忘れられる心配のない世界。
存在し続けられる世界。
その素晴らしさを紫が語るたび、マミゾウは奥歯を噛み締める。
「……では、これはなんじゃ?」
そして、紫の声が途切れるのを見計らい。
右手を掲げる。
傷ついて間もない、血が滴り落ちる右手を。
「これは、フランドールとやらにつけられた傷ではない。おぬしの言う、『楽園』から抜け出そうとして受けた傷じゃ。これはどう説明する!」
「簡単なことですわ」
声を荒げ、怒気を高める。
それでも紫は、平然と微笑み続け。
「外の世界での貴女の常識とこちらの世界での貴女の常識、それが短期間で大きくずれた。いえ、破綻したのですから。外の世界の常識に押しつぶされる力も幾分か強まるでしょう? つまり、この世界の恩恵を大きく受けた妖怪ほど、外の世界に戻ることはできなくなる。それを軽減する力が備わっているか、人間のように認められている生き物であればまだ救いはあるかもしれませんけれど。
すぐ出て行かなかったところを見れば、あまり外の世界に未練もなかったのではないかしら?」
「――」
確かにそうかもしれない。マミゾウが外の世界を大切に感じているのなら、異変が終わってすぐ外に戻ればよかった。
それならばまだ影響が小さかったはず。
ただ、マミゾウは戻ることができなかった。
彼女を頼り、妖怪の切り札として祭り上げたぬえの立場があったからだ。もし、そそくさと佐渡に帰ろうものなら、命蓮寺でやっと受け入れられたぬえが、一人になってしまいそうだったから。
また、昔のように。
マミゾウと出会う前のぬえに戻ってしまいそうで――
「――ぬえは」
だから、マミゾウは殺気を向ける。
自分が帰れないからではない。
それを悟れなかった自分のおろかさをぶつけているわけでもない。
「ぬえはそのことを知っておるのか?」
「知らないでしょうね。あの子は封印されていたおかげで、過去とあまり力の差がない。だからこそ、あちらの世界とこちらをそれほど苦無く行き来することができた。
ですから……ああ、そういうわけでしたか」
その本心を知られ、マミゾウは殺気をさらに強める。
「滑稽ですものね? 妖怪の切り札として呼び寄せたあなたが、思ったほどの活躍ができず。今は命蓮寺の居候」
「黙れ……」
「でも、ぬえの頭の中にはあるのでしょう。『幻想郷と外の世界は行き来可能』と。ですから、もしも……それができないと知ったら?」
「黙れ……」
「自らの手で、あなたを束縛したと知ったら? あの子はどういった反応を――」
その瞬間、言葉より早く体が動いていた。
地面が砕けるほどの力で地を蹴り。
空中で余裕の笑みを作り続ける紫の首に、左手を突き立て――
「くっ!」
しかし、その腕は横から伸びてきた藍の手に阻まれ。
強く掴まれたまま無理やり引き離されてしまう。
「……紫様!」
「はいはい、わかったわよ、藍。意地悪はこれくらいにいたしましょうか」
困り顔で藍が叫ぶと、お手上げといった様子で肩を竦めた。
「そちらとしても、望まぬ形でこちらの世界に入ってきたのかもしれません。けれど、他の妖怪と同じく、平穏を過ごしていただけることを望みます」
「……儂がこの世界を壊すかも知れぬぞ?」
「あら、そうすると誰かさんが悲しみますわね」
「ぐむむむ……」
藍が手を離しても、マミゾウはその場で声を上げるばかりで紫に飛びつこうとはしない。そんな声が数分続いた後。
マミゾウはその場で飛び上がると、そのまま胡坐をかいて着地し。
「……あ~、わかった! やめじゃ、やめ! 儂も腹を決めてこの世界の一員となってやろうではないか!」
膝を叩きながら、ふてくされる。
「意外とかわいらしいところもありますわね」
「ふん、儂はいつでも愛らしく、可愛らしいのじゃ! ええい、酒じゃ! 酒をもってこい!!」
その一声を合図に、紫が開いた隙間から大量の酒樽が地上に降り注ぎ。
次の日、紅魔館から苦情が上がるほどの騒ぎが繰り広げられたのだという。
その後、ふらつきながら朝帰りしたマミゾウは……
「ねえ、マミゾウ! 明日でいいからさ、妖怪の山にいってこようよ!」
「わかったぁ、わかったから、あまり近くで大声はぁ……」
布団に潜りながら、ぬえの大声と格闘しており。
「その次はね! 白玉楼ってとこで!」
「おうおう」
「その次の次は、地底なんてどうかな!」
「うむぅ……」
「えっと、ね。その次は……」
「ん?」
「その次は……えと……」
「んぅ?」
「ねえ、外の世界に帰りたいって、思う?」
「……」
「本当は、あっちにいたかったとか思ってたり……」
「……馬鹿者」
布団を深く被り直し、一言だけつぶやいた。
ぬえちゃん可愛いよ
マミゾウさんは良いキャラだ。彼女は主人公が張れる性格してる
イエス「おばあちゃん」
でも最後は宴会で和解というのがなんとも幻想郷ですね。
一番気の許せる友人もしくは孫なんですね
二人の幻想郷生活に幸あれ
やや無難に収束しすぎた感も。