01.
金属音を聞きながら、私は秋の空を眺めていた。
後二ヶ月もしたら、一年が終わる。そんな時期になって、ようやく吹く風から温さが抜けた、ある日の事だ。
背中に大きな荷物を背負ってやってきたのは、山に住むエンジニアの河童だった。別段親しいわけではないけれど、時折私の家にやってきては、趣味である発明品を押し付けて行くのだ。
天気予報をする人型ロボット。まるでどの層に需要があるのかさっぱりわからないそんな物を、エンジニアの河童が我が家に持ってきたのは何時間前だったか。おまけに熱心に説明をしているが、別段興味のわかない私は話半分でそれを聞き流し、湯呑みを一つ、傾ける。……が、既に中は空になっていたらしく、口に入ってきたのは僅かばかりの雫と茶の苦味だけだった。
「でさ、この間の懐中電灯あったじゃん。あれをここにも組み込んでるからさ。天気予報も出来るし電灯にもなるし、おまけに害虫駆除も出来るよ」
「あぁ、うん。凄いね」
エンジニアの河童(名前は忘れた。みとりだったかにもりだったか、確かそんな風な名前だったと思う)は、度々何かを作っては、こうして私の家にそれを持ってくる。或いは試作品のテストプレーヤーになって欲しいのかもしれないが、いかんせんこの河童の持ってくる発明品は私の興味を惹かないものばかりで、今までまともにそれらを使った試しはない。夏に押し付けられた懐中電灯に至っては、殺虫剤もかねていたらしく、下駄箱の上に放置したいたら気温にやられてある日爆発した。
百害あって、とまでは言うつもりはないが、これまでの経験からするに、あまり期待しないほうがよさそうなのだ。河童の作ったもので重宝している物と言ったら携帯電話と小型冷蔵庫くらいで、他にまともなものはない。しかもその小型冷蔵庫も今は使っていない。原動力が乾電池とかいう代物で出来ているそれは寿命が短く、一週間ほどで止まってしまうのだ。面倒になったので放置している今では台所の片隅で物言わぬオブジェと化している。それを聞いた河童は、とても憤慨していたけれど。
いや、まぁ、もしかしたら単に私が使っていないだけで、本当は凄く便利な発明品もあるのかもしれない。でも、貰っては放置し、貰っては放置し、をしていたら、何がどこにあるのか分からなくなった。爆発さえしなければ、それでいいと思おう。
ああ、そういえば。
その下駄箱自体、河童の持ってきたものだっけ。使っているのは私以外の奴らだけれど。
見渡せば、私の家は私以外の物で溢れている。
河童の発明品だったり、あの烏天狗の日用品だったり。
私の所有物なんて、片手に収まるくらいしか、ないんじゃないか。
私以外の物の中で、私は暮らしている。
「ちょっとは興味持ってよね。……ってはたてに言っても無駄か」
「酷い言われよう」
「今まではたてが私の発明品に興味もったことないじゃん」
「まぁそうだけど」
「と言うか、はたて、今まで何かに興味持った事あるの?」
はたて。姫海棠はたて。私の名前だ。
天狗と河童の仲はあまりよろしくないらしい─と言うよりも、対等な関係にないとかなんとか─が、怠惰な生活を送る私は天狗の社会からは少し外れているらしい。そのせいかこの河童は最初こそびくびくと怯えていたが、今では我が物顔で私の家に上がりこんできている。別段それが嫌なわけじゃないので、私も何も言わない。
誰かの声がするのは、嫌いじゃない。
誰かの話を聞くのは、苦手じゃない。
だけれど、
誰かと話をするのは、好きじゃない。
誰かに話をするのは、得意じゃない。
それでも完全に一人になれないのはきっと、この山の住民がどこまでも他人に甘いからなのだろう。何かと理由をつけてはやってくる妄想新聞記者や名前も覚えていない他の天狗、或いはこうして発明品を持ってくる河童。他にも口を開けば苦言を呈してくる白狼天狗や、私を見るなりせっせと回る神様と、何故か私に構う声が絶えない。
まるで存在を確かめるように。
まるで生存を確かめるように。
別段それが煩わしいとは思わないし、かといって嬉しいわけでもないけれど。
「あるさ。そりゃあるよ。こう見えても私グルメなんだぜ。アンニュイな気分の時は人里の喫茶店でブラックコーヒー飲んでる」
「いつもアンニュイだろあんたは。切り身にしたらさぞ苦い出汁がとれるんだろうね」
「天狗様に下克上を起こそうとはいい度胸じゃないか」
「いまどき死体でもあんたほど腐った生活しちゃいないよ」
どうにも最近この河童は口が減らない。最初に会った頃の恭しさが懐かしく感じる……覚えていないけれど。
まぁ、下手に窮屈な関係になるよりは楽でいい。
卑屈に生きるつもりはないが、
日陰で暮らすくらいはしたい。
誰にも気を使わなくてすむし、
誰にも気を使われなくてすむ。
「後は、そうそう。昨日はあれだ。紅茶にワインが入ってる奴飲んだ。なんか果物っぽい味であんま好きじゃなかった」
「……あのさ」
「なに。あ、さては疑ってるな。そんな飲み物ないと思ってるな」
「そうは言ってない。でもさ、それ」
「なに」
「夏の紅茶だよ」
静寂が、部屋を支配した。
ロボットをいじる手を止めて、河童が私を見る。青い瞳は何故か悲しそうにしていて、思わず私は視線から逃げるように背を向けた。
「もう秋だよ。十一月だよ。夏のメニューがあるわけないじゃんか」
「ちょっと間違えただけだって」
「……。別に、はたてが飢え死にしようと、私は困らないけどさ」
そりゃそうだ。私が死のうと河童が死のうと、別にお互い関係ない。
私が河童の名前を忘れていて、
河童が私の名前を覚えている。
相手が楽しそうに話し、
私が気だるそうに聞く。
その程度の関係なのだ。私たちは。
「それじゃ、私は行くよ」
「んー。って、これ、置いてくのか」
「置いてくから持ってきたんだよ。そうだね、名前は“しっとりレイン君”とかどうだろう」
「だっせぇ」
天気予報ロボットなのに、ちっともさわやかな名前じゃない。
緑のような青のような配色に、ところどころ紫色が混じっている。率直に言って、不気味である。人型をしている割にはところどころ無機質さが目立つのがより一層そう思わせる。
「せめて人型にするなら、もうちょっとにこやかなのにしてくんないかな。なんかこれ、見てて気が滅入る」
「そりゃそうだろうよ」
ロボットの黒い双眸は共に半分ほどしか開いていない。八の字になった眉とは反対に唇を少しだけ吊り上げているのが腹立たしい。有体にいって、人を小馬鹿にしている表情だ。しかも私よりもサイズが大きいので、見下されているようにしか感じない。
……なんと言うか。
見れば見るほど、むかつく顔している。
帽子を被りなおしながら、河童が立ち上がった。恐らくは本当にもう用事が終わったのだろう。にやりと不敵な笑みを一瞬浮かべて、ひらひらと手を振りながら、言った。
「それ、あんたがモデルだからね」
「へぇ。道理で死んだ魚の様な目をして、っておい」
「あはは。自覚はあるんだね。んじゃ、帰るよ」
私の抗議も空しく、河童は帰ってしまった。
後に残されたのは呆気にとられたままの私と、そんな私を見下ろすロボットだけ。半眼で私を見下ろすロボットが、小憎たらしい。
「……けっ」
腹いせに一つロボットを蹴り、部屋の隅へと引きずる。微妙に重い。
そして暫くロボットと見詰め合う。見れば見るほど腹の立つ顔をしている。私だけど。
「……天気予報、ねぇ」
的中率は、さして問題ではない。
例えそれが百パーセントだろうと信じなければ意味がないし、
逆にそれが一パーセントだろうと信じればそいつは救われる。
「……ふん」
背中のスイッチを押してみる。かすかな起動音がした後に、ロボットが喋りだした。
『本日は○月×日 今週末 雨 降るよ 一杯 降るよ』
「……」
うぜぇ……。
どうしようか。今からゴミ捨て場にでも持っていくか。あれ、そう言えばゴミ捨て場ってどこだっけ。この家ゴミ出ないからな。要らない物は多いけど、私のじゃないし。
ああ、もう。だから河童の発明品なんて、信用できないんだ。
「……買い物にでも行くか」
ため息を一つ吐いて、私はロボットのスイッチを切った。
02.
私がこの世で二番目に嫌いな事は、雨に濡れることだ。だから、雨が降ると私はいつも家から出ない。普段もあんまり出ない。だからほとんど家から出ない。
おかげで今日が何曜日かなんてすっかり忘れていた。忘れていた事を忘れていたので、十日分の食料を買い込んでから失敗に気づいた。あのロボット、日にちは言うくせに曜日は言わないとは、欠陥設計にもほどがある。今度河童に会ったら引き取ってもらうように言おう。そうしよう。
「そういや、冷蔵庫壊れてたな。あー、やっちゃった」
壊れているわけじゃなくて、電気切れなだけなんだけど。新しい電池を貰いに河童に会いにいくのが面倒で億劫なので、壊れた事にしておいた。
「どうせならあのロボットに冷蔵庫機能でもつけとけばいいのに。懐中電灯だの殺虫剤だの、いらん機能ばっかり付けやがって」
確かロボットは週末から長雨が降ると言っていた。さて、今日は何曜日なのだろう。冷蔵庫無しでこの食料たちは何日もつだろうか。
「……まぁ、十日くらい食べなくても、死にはしないけど」
妖怪だし。
或いは、そういう死に方も悪くないのかもしれないけれど。
両腕に抱えた荷物の重さに耐え切れなくなって、仕方無しに地面に置いた。狂ったような暑さはなくなったものの、それでも日中に重い荷物を持つと、汗の一つくらいはかきもする。
「なんだって雨なんか降るんだこんちくしょう。いっそ太陽をぶち壊してやろうか」
「ちょっといいかしら」
忌々しげに空を見上げたその時、ふと誰かに声をかけられた。振り返るとそこには銀髪の女がいて、腕を組んだ体勢で私を見据えていた。
「誰さ」
「通りすがりの初対面よ。そんなに荷物一杯抱えて、パーティーでもする気?」
「いや別に。ちょっと雨が降るから引きこもろうと思って」
「ふぅん」
銀髪の女に表情はない。両手に買い物袋を持った引きこもりに出くわしたからなのか、或いは元から感情が顔に出ないタイプなのかは分からない。何分女の言うとおり、初対面だからだ。
「それで、何か用?」
「あぁ、いえ。大した事じゃないんだけど、太陽がどうとか聞こえたから」
そんな事を言ったかもしれない。雨が降るのが嫌でなぜ太陽を破壊しようと思ったのかは自分でも全く理解に苦しむ独り言だったけれど、要は愚痴をこぼす対象が欲しかったのだ。
本当に雨など降るのだろうかというくらい秋の空は澄み渡っていて、青色の中には雲ひとつない。その為、空をにらむには相手が大きすぎると言う事もあって、私は仕方なしに太陽に文句を言う事にしたのだ。太陽からしたらいい迷惑だろう。
「ちょっと訳ありで。太陽が眩しくて嫌だなぁとか、そんな感じ」
「へぇ」
そう言うと銀髪の女は、鋭い目つきで私の頭からつま先までをさっと見た。その視線に思わず身じろぎをしてしまう。ええい、引きこもりをじろじろ見るな。いたたまれなくなるだろうに。
「それで」
「あ?」
「それでいったい、どうやって太陽まで行くの?」
「……」
何を言っているのだろうか、この女は。
青と白を基調とした服は、見た事のない種類のものだ。それがエプロンドレスと言う知識くらいはあるが、それ以上のことは分からない。頭のヘッドドレスもセットなのだろうか。
正直に言って、見た事のない服装な上に先ほどからの良く分からない発言で、怪しさしか感じない。出来ればお近づきになりたくないのだが。いや、お近づきになりたい奴自体少ないけれど。引きこもりだし。
初対面と話すの辛いし。
この女目が怖いし。
すると、返答に窮した私の様子を見て、女は小首を傾げた。そして数秒の後に、ぽん、と手を叩いた。
「まずは自己紹介からしましょうか」
「……」
なんと言うか、なんだろう。この肩透かしを食らった感じは。
「十六夜咲夜。あなたは?」
「……はたて。姫海棠はたて」
「そう。じゃあ姫海棠さん。ここで会ったのも何かの縁、ちょっとお茶でも飲まない?」
「……まぁ、いいけど」
「うん。じゃあ、行きましょ」
良くはない。出来ればそっとしておいて欲しいのだが……哀しいことに物事を断るのは苦手なのだ。だから大抵は踏み込まれる前に逃げるのだが、この女はどうにも会話のペースが良く分からない。どう逃げようかと考えていたら、話が進んでしまっていた。
銀髪の女は、ひょいと地面の買い物袋を手に取った。呆気にとられる私を尻目に、女は眉根を寄せて呟く。
「随分買い込んだのね。雨が来るって言っていたけれど、一日二日の量じゃないわよ、これ。台風でも来るのかしら」
「……あぁ、まぁ、そんなところ」
「へぇ。最近は天気予報も進歩したのね」
片手で持とうとして重さに参ったのか、荷物を両手に持って、銀髪の女は私の隣を通り過ぎた。どうやら御茶屋は私の後ろらしい。
面倒な事に巻き込まれてしまった。思わず私はため息を吐き、今一度空を仰いだ。別段荷物が惜しいわけではないけれど、なんとなしに断りづらい空気だったのだ。鋭いようで緩いあの女は、いったい何者なのだろうかと考えたが、分かるはずもない。
数メートル先で、銀髪の女がこちらを振り返って待っている。手招きこそしないが、もし片手でも空いていたらしていただろうか。少なくともこのままここに留まっていたら、声で呼び寄せるくらいはするかもしれない。多くはないとは言え、ある程度の人通りがある往来でそんな恥ずかしい事はして欲しくない。
「これで天気予報まで外れたら、恨むからな」
呟き、再びため息を吐く。今度は、先ほどより深く。
そして区切りを付けるように私は、女の方へと歩き出した。一歩分の間隔を空けて、斜め後ろを付いていく。そうしてたどり着いたのは、私も何度か足を運んだ事のあるカフェだった。
──夏のメニューがあるわけないじゃんか
ふと、河童の言葉を思い出す。言われた瞬間には感じなかった僅かな痛みが、いまさら胸に刺さった。
「おぉ、咲夜。ずいぶん大きな買い物だねぇ」
「お待たせしました、お嬢様」
店内に客はまばらで、カウンターに一人と、五つほどあるテーブルの内二つが埋まっている程度だった。そのうちの片方でティーカップを傾けていた小さな女が、こちらに向かって手を振っていた。当然ながら、私はその女を知らない。他人の名前を忘れる事が得意な私だが、姿形ならば何とか覚えていられる。その記憶の中にないと言う事は、恐らく本当にあった事がないのだろう。多分。
「ふぅん」
円形のテーブルに椅子は三つ。銀髪の女が小さい女の右隣に座り、仕方無しに私が残りの一席に座った。興味津々、と言った感じで赤い瞳が私を観察する。ころころと良く動く目だ。背中の翼と、先ほどの“お嬢様”と言う言葉を鑑みるに、恐らくこの小さい女は人間ではなく妖怪なのだろう。だとしたら、見た目の幼さをそのまま年齢として捉える事は出来ない。だからと言って、まぁ、何かするわけじゃないけれど。
「お待たせしました」
腕を組もうとしたその時、ウェイトレスがやってきた。トレーの上には三つのティーカップと、透明の瓶が一つ乗せられている。カップの中身は見えなかったが、匂いからするに紅茶だろう。だとすると瓶の中身の飴色のそれは、紅茶に入れるジャムか何かだろうか。
恐らく小さい女があらかじめ頼んでおいた物なのだろう。随分とタイミングがいいことだ。おかげでわざわざメニューを開く手間が省けた。本音を言うとコーヒーの方が良かったが、腹に入ればどちらも一緒だ。
風情がないなどと言ってはいけない。
……。
…………?
なんで三つ?
「久々に面白いのが見えたから気を利かせてやったのに、随分無愛想な奴連れてきたのねぇ」
「偶然ですわ」
「つまらん」
ごゆっくりどうぞ、そう言ってウェイトレスは去って行った。ごゆっくりなどしたくはないが、いかんせん席を立つ空気ではない。仕方なく私は投げやりになりながら─或いは八つ当たりをする様に─小さい女に尋ねた。
「何、あんたらグルか。こんな所に私を呼んでどうするつもりだ。金ならないぞ」
さっき散財した。
「別に。私が呼んだわけじゃないわ。あんたが来ただけ。そういうあんたこそ、なんで来たのよ」
「はぁ……?」
質問をしたはずが、質問を返されていた。しかも意味が分からない。
小さい女は私の事など意にも介さず、やってきた紅茶を一口啜った。なるほど確かにその姿は“オジョウサマ”である。
それが尚更私の神経を逆撫でしている事には気が付いていまい。
「嘘もいい所だな。あんたが頼んだ紅茶は三つ、つまり私がここに来ること前提での注文じゃないか」
「面倒ねぇ……おい咲夜、どうして私を知らない奴なんか連れてきたんだ」
随分と高慢ちきな女だ。言うに事欠いて、“私を知らない”とは。まるでこの幻想郷で自分を知らないものがいないとでも言いたそうな口振りである。
ちくしょう、引きこもりだからって、馬鹿にしやがって。
いや、まぁ、それはさすがに被害妄想だけれど。
「お前、運命って信じるか?」
「怪しい宗教ならお断りだ」
「じゃ、言葉を変えるわ。
私が紅茶を三杯頼んだのも、
あんたと咲夜が会ったのも、
あんたがこの店に来たのも、
全部偶然。偶々が重なってこうなった。それでいい?」
それを、信じろと言うのか。
それを、疑うなと言うのか。
なかなかに荒唐無稽で無茶苦茶な話だ。
「あんた達は、一体、何なんだ」
色々と言い返したかったが、適切な言葉が見つからず、そう言葉を搾り出した。
なんというか。
違う言語を用いているような。
違う思考が働いているような。
違う世界に生きているような。
そんな空気、そんな雰囲気。
「ただの吸血鬼とメイドだ。まぁ、こっちは唯の人間だけど」
「……どっちでもいいわ、そんなもん。
ともかくそこのメイドに突然話しかけられて、突然荷物を持たれて、突然ここに連れてこられた。せめて理由を聞かせてくれ」
「それは私も聞きたいね。あんたが来るのは分かってたけど、理由までは私にも分からんからな」
二人分の視線を受けて、メイドはきょとんとした表情を浮かべている。瓶に入った飴色の何か─ジャムだと思っていたが、匂いからするに蜂蜜のようだ─をスプーン一杯分紅茶に沈めて、くるくると掻きまぜている最中だったようだ。
意外にこのメイド、子供っぽい表情もするのか。
いや、それを知ったところで、別に何もないけれど。
「お嬢様が仰ったじゃありませんか」
「え、私が?」
やっぱりお前じゃないか。メイドへの視線を吸血鬼に切り替える。恨みをこめて。それに気が付いたのかは分からないが、吸血鬼が再び口を開く。
「夕食は唐揚げにしたいなんて言ったかしら」
「いえ、今晩はロールキャベツですわ。お望みであればそうしますが」
「おい」
頬を引きつらせながら、二人の会話に割って入る。このまま放っておくと、何故だか自分の境遇が悪くなる一方な気がした。
「お前ら、私を何だと思ってやがる」
「そういや何も聞いてなかったな。お前、名前は?」
「……姫海棠はたて」
どうやらこの吸血鬼は、意地でも会話の主導権を握っていたい性格のようだ。自分のことを知らない奴がいないと思っているのも加えて、かなり鬱陶しい。反対にメイドはメイドで、どうも会話の端々から掴み所のなさが窺い知れる。
つまる所、どちらも私にとっては面倒で仕方ない相手だ。
雨の間引きこもろうと思って買い物に来ただけなのに、何故こんな事になったのだろうか。全く、いい迷惑だ。
「ヒメカイドウ。噛みそうな苗字ねぇ。あんた、妖怪みたいだけど」
「ただのひきこもり。もしくは烏天狗」
「ふぅん。って事はお前も新聞書いたりするの?」
「まぁ、一応」
ティーカップを一口啜り、私は眉をひそめた。
甘い。林檎と葡萄の香りがするが、それのせいで元々甘い紅茶がより甘くなっている。思わず私はカップを受け皿に置いた。
「口にあわなかったかしら」
「……甘いの、苦手なんだよ」
私がこの世で二番目に嫌いな事は雨に濡れることだが、一番嫌いなのは甘いものだ。
だいぶ昔の話になるが、その当時に雨が降り続いた時期があった。その頃は天気予報など見ていなかった私は、いつものように引きこもっていたのだが、どうにも雨が止まない。やがて日数が進み、いよいよ角砂糖と水だけでは限界が訪れたのか、私は意識を失った事があった。
目が覚めた頃には雨が上がっていたが、角砂糖を飲み込む前に意識を失っていた私の口の中は、蟻だらけになっていた。
元より虫が好きではなかった私はそれ以来、甘い物を受け付けなくなっていたのだ。甘い物を食べたり飲んだりする度に、口の中に蟻がいるのではないかと言う疑念にとらわれて、飲み込むことが出来なくなっていた。
まぁ、つまりは。
自業自得なのだけれど。
「ふぅん。それは勿体ない。人生の三割は損してるね」
「余計なお世話だ。……あぁ、ちょっと」
近くを通ったウェイトレスを呼び、コーヒーを頼む。とてもじゃないが、こんな甘ったるいのは飲めやしない。
すぐに運ばれてきたコーヒーと水を受け取り、まだ紅茶の残ったティーカップを下げてもらう。ほとんど、というより一口分しか減っていない紅茶を見て不思議そうにしていたウェイトレスだったが、特に何も言わず去っていった。
このカフェには何度か足を運んでいるが、こう言う所は好きだ。
注文以外は関わってこないところが良い。
「そうねぇ。アンニュイな午後を過ごすには最適だねぇ。まぁ、あんたはいつもアンニュイみたいな顔してるけど」
「お前に言われたくないよ」
どいつもこいつも随分な言い草だ。そんなに私の表情は剣呑としているだろうか。
まぁ、にこやかじゃないことくらいは自覚しているが。
「どうして私の周りには無愛想な奴が多いんだろうねぇ。なぁ咲夜」
呼ばれたメイドは、二杯目の蜂蜜を紅茶に入れているところだった……嘘だろう……?
「さぁ、存じませんわ」
くるくると回るスプーンを止め、紅茶を口に運ぶメイド。息を吹きかけて、慎重に一口飲んだ。
「……熱い」
「えぇー……」
あれだけ時間を置いて、更には蜂蜜を入れて掻き混ぜていたのに。猫舌で甘党って。最初にあった氷のような視線と佇まいは一体どこへ行ってしまったのだろうか。思わずこめかみに手をやった。
「それにしても」
「あん?」
再びメイドが口を開いた。表情はなく、やはり普段から澄ましているのだろうが、くるくるとスプーンを回す手元とのギャップが激しい。
そして出てきた言葉に、私はどうすることも出来なかった。
「やっぱり、あなた、吸血鬼じゃないのよねぇ」
「……」
「……」
私はコーヒーカップ、吸血鬼はティーカップ。二人して、持ち上げたまま硬直してしまう。
「太陽が苦手だって言うから、てっきりお嬢様の知り合いかと思ったんだけど」
「おい。おい、ちょっと待て咲夜」
先に我に返ったのは、吸血鬼だった。
ティーカップを皿に置き、頬を引きつらせながらメイドに問う。
「まさかお前、こいつを連れてきた理由って……」
「はい?」
スプーンを回す手を止めて、メイドが小首を傾げる。
「ですから、昨日お嬢様が仰ったじゃありませんか。
“太陽がなければ、一日中私の天下なのになぁ”、と。
ですので、戦力を連れてきたので……えっと、どうかしましたか」
「信じたのか、あれを……」
がっくりと肩を落として、うな垂れる吸血鬼。私もそれに倣いたいくらいだ。
この女のことは知らないが、吸血鬼と言う種族についてなら、少しは知っている。確か、日光と流水が苦手な、夜行性の生き物だったか。真っ昼間に日傘を持ってカフェに来る程度には例外らしいが、それでもやはり日光は好きではないようだ。一体この二人の間にどんなやり取りがあったのかは分からないが、大方吸血鬼の気まぐれをメイドが真に受けたとか、そんな所だろう。
……。
…………。
そんな理由で私、ここに連れてこられたのかよ。
「冗談で言ったんだけどな。咲夜、お前のそう言うところが好きだよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
恐らくは皮肉のつもりで言ったのだろうが、まるで動じていない。なるほどこの主人にしてこのメイドである。尤も、高慢ちきで我侭な吸血鬼の従者を務めるには、これくらい図太い性格をしていないと出来ないのかもしれないが。
コーヒーを啜る。苦味と熱さが喉を伝って胃に落ちて行く。心なしか、少し気が楽になった気がした。むず痒い口の甘さが抜け、代わりにため息を一つ吐く。
「それで、オジョウサマ。連れられた理由も分かったし、そろそろ帰って良いかい?」
「ぐむぅ。仕方ないわね」
コーヒーを一気に飲み干し、立ち上がる。呼ばれた理由が分かった以上─しかもそれが互いに望んでの物ではないと分かったなら尚更─ここに居る必要はない。私と吸血鬼、空になった二つのカップが雄弁だ。
「これ、私の分」
「良いわよ、それくらい。しまいなさい」
自分のコーヒー代……と、一応、紅茶代もか。それらをテーブルの上に置こうとしたら、吸血鬼に止められた。とは言え、私とて初対面に茶代を払わせるつもりはない。借りを作ると、返さなくてはいけなくなるからだ。
人と会うのは面倒だ。
人と話すのは疲れる。
出来れば一人でいたい。
「……なら、こうしましょう。
あんた確か新聞書いてるって言ったわよね。新しい新聞を書いたら、持ってきなさい。それでチャラ」
「なんでそうなる」
「じゃあ、一緒に太陽旅行でもする?」
「……分かったよ。新聞でいいんだな」
「?」
ちびちびと紅茶を口に運ぶメイドが、私を見上げてくる。この状況の原因が自分にあると分かっているのだろうか。
いや、分かってないだろうな。
……。
…………。
ちょっと、可愛いと思った。
「それであんたの家ってどこなのさ」
「引きこもりにもやたらと縁があるな、私は。まぁいいや。
霧の湖、知ってるか? 山の麓にあるやつ。そこの湖畔にある紅い大きな館が私の家。紅魔館。門番がいるけど“新聞を持ってきた”って言えば通すよう言っておくから」
「分かったよ。それじゃ今度こそ帰る」
「忘れないうちに持ってきてくれよ」
「不定期だから期待はするな」
良い様に言いくるめられている気がしたが、気にしないことにした。ひらひらと手を振る吸血鬼と、ようやく半分ほどティーカップの中身を減らしたメイドを一瞥して、店を後にする。
全く、面倒なことに巻き込まれた。なんと言うか、精神的に疲れた。
秋の昼下がりは日差しが柔らかく、人通りは店に入る前よりも多く感じられた。その中を、買い物袋を右手に持って進んでいく。
紅魔館。確か吸血鬼はそう言った。霧の湖の畔にあるらしい。それが本当ならば、やはり溜息を吐かずにはいられない。
何しろ、その霧の湖があるのは妖怪の山の麓。その山を少し中に入れば、私の家があるからだ。昼間は霧が出ることが多く、遠くを見渡すことが出来ないにしても、今までまるで気が付かなかったというのはお笑い種だ。
如何に自分が狭い世界で生きてきたか。
如何に自分が狭い見識を抱いてきたか。
そう思わずにはいられない。鼻を鳴らさずにはいられない。
「……あぁ、ちくしょう。片方忘れてきた」
山の麓まで来た時に、思い出す。確か私は両手に買い物袋を持っていたはずだ。それが今は、右手一つ分しかない。少し考えてすぐに気づいた。メイドの足元だ。
緩い坂道を飛ばずに歩く。山の中に入ると、木々が茂っていて羽を満足に伸ばすことが出来ないので、どうしても歩かなければならない。羽を使わずとも飛ぶことは出来るのだが、安定しない上にやはり木が邪魔をして高く早く飛ぶことは出来ないのだ。なのであれこれ対策するよりも、普段から山の中は歩くと決めている。
「本当、最悪だよ」
河童のロボットに踊らされて、
子供舌のメイドに連れられて、
吸血鬼には借りを作らされた。
だから他人と接するのは嫌なのに。
だから一人で暮らすのが楽なのに。
どうしてどいつもこいつも、私を一人にしてくれないのだろう。
玄関の扉を足で開ける。鍵なんてかけていない。いつだったかそれを聞いた河童には改めるように言われたが、元より私の物など殆どない家だ。物が減ろうが増えようが別段困りはしない。
ちなみに、白狼天狗は白い目で私を見ていたが、あいつはいつでもあんな顔をしているので、どうにも分からない。私に言わせればあの白狼天狗の方がよっぽど無愛想で辛気臭い顔をしていると思う。
「……」
『……』
居間へ向かうと、あのロボットが鎮座していた。相変わらず憎たらしい顔をしている。何故かちびちびと甘ったるい紅茶を啜るメイドの姿を思い出して、落ち着かない。
腹いせにロボットをまた一つ、蹴ることにした。
03.
翌日のことである。
わざわざ新しい記事を書くのが面倒だったので、一昨日書き上げたばかりの新聞記事を持って、紅魔館へと向かうことにした。
あの後、白狼天狗と河童がやってきて、私が買ってきた食料を勝手に使い、勝手に食べ、勝手に談笑して帰っていった。本当に何をしに来たのだろうと思ったが、調理する手間も省けたので良いとしよう。
湖を歩いて巡る。霧の所為で全体は見渡せない。そのせいで巨大な湖だと思われているが、実の所そこまで大きくはない。せいぜい一時間もあれば一周できるだろう。ただし、この湖には人間を食べるほどの大きさを誇る魚がいる(あくまで噂だ)らしいので、観光や釣りをしている人間は居ない。いるとしたらそんな魚を意にも介さない妖怪共か、或いは逆に死の概念に囚われない妖精がふらふらとしているかぐらいだ。
十分ほど歩いたところで、紅い館の正面にたどり着く。文字通り館は殆どが紅い色をしており、お世辞にも上品とはいえなかった。吸血鬼は皆紅い色が好きなのだろうか。だとしたら、とても分かりあえない気がする。
右手に持った新聞を丸め、鼻の頭を掻きながら、門番らしき人物と短く言葉を交わす。門番が居るということは、普段は立ち入るのに許可が要るのかもしれないが、昨日の話通り事情を説明するとすんなりと通してくれた。気さくで良い門番である。あのくらい我の強くない性格の持ち主であれば、話していても気後れしないで済むのだが。
まぁ、今日の用事が終われば、この館にも来ることはないのだけれど。
「あら。いらっしゃい」
飛び回る妖精メイドを見て、さすがに驚く。メイドが皆人間だとは思っていなかったけれど、よもや妖精だとは。
「まぁ、殆ど役に立ってないんだけどね。結局私が全部やってるわ」
「ふぅん」
時を止めるだの空間がどうだの、いかにもインチキくさい説明をしているが、別段興味がないので聞き流す。昨日の吸血鬼の運命がどうとかというのも信じていないのだが、幻想郷だからと言う事で理解することにした。納得はしていないけれど。
「あぁ、そう言えばあなた昨日、買い物袋忘れていったでしょう。帰りに持っていってね」
「そうするよ」
昨日と同じく、メイドの一歩後ろを歩くこと数分。通されたのは応接間のようなところだ。
二十畳ほどの床一面に紅い絨毯が敷かれており、なんだか足元が落ち着かない。
白いレースのカーテンで彩られた、大きな窓の向こうにはテラスが続いており、テーブルやらパラソルやらが垣間見える。それを鑑みるに、どうやら定期的に利用しているようだ。月光浴ならまだしも、よもや昼下がりに優雅にテラスに出ているはずはあるまいと思ったが、考えてみればこの吸血鬼に会ったのは昨日の昼下がりだ。どうにも自分の知っている吸血鬼のイメージと一致しないが、まぁ今時の吸血鬼はそういうものなのだろう。かくいう自分だって、普通の烏天狗とは違うのだから。
「実はまだお嬢様は起きたばっかりでね。ちょっと待っててもらえるかしら」
「……分かったよ」
用件は新聞を持ってくることだけだったので、さっさとメイドに押し付けて帰ることも出来たのだが、それでは後日吸血鬼に何を言われるか分からないので、仕方なく待つことにする。文句を言うだけならまだしも、再度新聞を要求される可能性もある。直接あのふてぶてしい顔に新聞を投げつけてやらないといけない気がしたのだ。ましてや、既に出来上がっている新聞を持ってきただけなのだから。
一番近くにあったソファに座る。位置的にも恐らくここが下座だろう。吸血鬼に媚びへつらうつもりはさらさらないが、かといってわざわざ機嫌を損ねることをする必要もない。なるたけ面倒な事にならないようにし、すぐに帰るのが今の一番の望みだった。
「お茶請けは何が良いのかしら」
「別に良いよ、長居するつもりはない」
カーテンと同じく純白で彩られたレースを掛けたガラスのテーブルに、紅茶が置かれた。欲を言うならコーヒーか水が良かったのだが、まぁ良いだろう。長居をするつもりはない。
ふと見ると、メイドは腕を組んで困った顔をしている。メイドと言う職業柄、何かもてなさないと気が済まないのだろうか。余計な気を使われるのは私としても困る。何でも良いから適当な物を、って。
ああ。
そう言うことか。
「……昨日私が置いてった買い物袋の中に抹茶があるから、それでババロアでも作ってよ」
甘い物が苦手だって言ったっけ、そう言えば。
まぁ、ババロアくらいなら大丈夫だと思う。多分。上に生クリームやら蜂蜜やらを大量に盛られなければ。
「ふぅん。難儀な体質ね」
「体質ってほどの事じゃないんだけど、まぁとにかく甘ったるくしないでくれればいいよ」
メイドが立ち去ったのを確認して、紅茶を口にする。紅茶には詳しくないが、辛党の私でも飲める口ざわりで、すっきりした味わいだった。気を利かせてくれた、のだと思うことにする。
そうして一人になった部屋で、紅茶を啜る。
耳を澄ますと、かろうじてどこか遠くから妖精メイドの声が聞こえた。全くの無音よりも、静寂の中に微かに音がする方がよりまどろみやすい。
秋の日差しは強すぎず弱すぎず、テラスに接する窓から柔らかく体にしみていく。自宅で朝食を摂った後と言うこともあり、ついつい私は眠気を覚えてしまった。他人の家で眠るなどと言うことはしたくないが、一度こうなってしまうと中々撥ね付けるのは難しい。
(まぁ、ドアが開けば起きると、思うけど)
そう考え、私は少しの間目を閉じることにした。
……。
…………。
紅茶の香りも、たまには良いかもしれない、なんて。
柄にもなく思ってみた。
例えば人里のあのカフェで、いつもコーヒーを飲んでいたけれど、次に寄ったら紅茶でも飲んでみようか。蜂蜜は入れないけれど、今飲んでいるようなストレートティーくらいなら飲めなくはない。
そうしたらアンニュイな空気をぶら下げて、窓際で新聞でも開いてみようか。いかにも世の中を憂いているような、世間を心配しているような表情で誌面に目を落とすのだ。傍から見ればさぞかし知的に見えるだろう。そう、今こうして捲れるページの音をBGMにして……。
…………。
……。
ページをめくる、音?
「起きた?」
「うぉ、おぉ。え、ええ?」
咄嗟に目を開けると、隣に誰かいた。いや、メイドがいた。メイドが新聞を読んでいた。……何でだ。
「いい天気ね。本当に台風なんて来るのかしら」
「台風じゃなくて長雨、ってそんなのはどっちでも良い。なんで居るんだ」
「私、ここで働いてるから」
「そうじゃない。なんでこの部屋に居るんだ」
「ババロアを作ったから」
「あ、それはどうも。じゃねぇ。そうじゃなくて、なんで私の隣にいるんだ」
「ソファは二つしかないから」
ソファから立ち上がり、数歩歩いて距離をとる。メイドはそ知らぬ顔のまま、誌面に目を落としている。つい先ほどどこか空想の世界で見た光景に似ているが、いかんせん表情が違う。慌てる私など全く気にも留めずに、相も変わらず無表情のまま新聞を読んでいた。
「待たせるのも悪いと思って、時を止めてさっさと作ったのよ」
「お、おぅ」
ポツリポツリとメイドが話す。話すことよりも新聞を読むことに重点を置いているからだろうか。
「そのまま時を止めたまま部屋に戻ってきたら、あなたが寝てたのよ。そっとしておこうと思って……向かいの席はこれからお嬢様が座るから、あなたの隣しか座るところがなかった。他に質問はあるかしら」
「い、いや。ない」
「そう」
会話と言うよりは独り言の様にメイドが話す。そして言い終えたのか、それきり口は開かなかった。メイドの横顔は相変わらず淡々とした表情のままで、一体何が楽しくて新聞を見ているのかまるで分からなかった。
まぁ、私の新聞に楽しい部分なんて、ないのだけれど。
「座ったらどう?」
「あ、え?」
「食べないの?」
見ればガラステーブルの上に、確かにババロアが置かれていた。平皿の上に四角く切られたババロアは緑が鮮やかだ。脇に添えられた小倉餡は余り好きではないが、生クリームが盛られていないだけで十分である。
「じゃあ……食べる」
「そう」
まさか立ってババロアを食べるわけにもいかない。かと言ってメイドに席を立ってもらうのも気が引けた。仕方なく、恐々と言った感じで、ソファの端にちょこんと座る。我ながら情けないと思うが、何しろこんなに誰かと至近距離で接すること自体余りないのだ。余裕がないのである。一杯一杯なのである。
落ち着かないまま、平皿を手に取る。まずはフォークで一口分ババロアを切り、そのまま口に入れてみた。
もっちりとした食感が口の中に広がる。次いで抹茶の濃厚さがやってくるが、決して嫌なしつこさではない。甘い物が苦手な私にとっては、このくらいの苦味がちょうどいい。
次は小倉餡と一緒に、ババロアをまた口に運ぶ。抹茶の苦味と小倉餡のすっきりとした甘味が、丁度よく重なる。決して互いを消すのではなく、綺麗に足した味わいだ。
(これは……ちくしょう。うまいな)
腹に入れば何でも一緒だと思っていたけれど、どうやらそれは間違っていたようだ。少なくとも今までこんなに美味しい甘味を食べた事はない。甘い物が苦手とはいえ──いや、だからこそか。だからこそ、このババロアは美味しく感じられる。
そのまま何も考えずに半分くらいまで食べたところで、ふと視線を感じた。
「ん……うぉっ」
気づけば、メイドがこちらを見ていた。
「な、何」
「美味しい?」
「あ、あぁ。うん」
「そう。良かった」
ならばもっと嬉しそうな表情をして欲しいのだけれど……きっとそういう性格なのだろう。感情があまり表情に出ないタイプに違いない。まぁ吸血鬼みたいに、思っている事感じた事を何でもかんでも口に出されても面倒なのだけれど──
──熱い。
何故か、昨日の光景を思い出す。
蜂蜜を入れて、熱そうに紅茶を啜る、メイドの姿が。
「……っ」
気恥ずかしくなり、つい立ち上がる。まるで意味はない。
そんな私を、不思議そうにメイドが見上げる。それもまた、昨日カフェで見た光景だった。きょとんとしたその表情を見ると、何故だか落ち着かない。
何かを言おうとして、けれど言葉が見つからなかったので、再びソファに腰を落とした。二人が腰掛けても数センチの余裕があるソファの広さに、心の中で安堵する。この至近距離で落ち着かないのだから、衣擦れでもしようものなら、その時は本当にどうしていいのか分からないだろう。
「変な人。新聞、返すわね」
「あ、あぁ」
「先に読んだの、お嬢様には内緒よ」
「まぁ、別にいいけど」
「ありがと。結構面白かったわよ」
「お世辞でも嬉しいね」
「まさか。本音よ」
「……」
返された新聞に目を落とす。無機質な写真と文字の羅列が、そこにある。
花果子念報。それが私の書いている新聞の名前だ。
“足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神なり”──いつだったか読んだ歴史の書物にそんな記述があった。
“山田のそほど”と呼ばれたその神は、今で言う案山子の事を指し、世の中の事を何でも知っているとされた。それを知った時、なるほどこれは使える、と思った。と言うのも、その頃は丁度自分の新聞を作ろうと決めたときだったからで、つまり新聞の名前を探している最中だったからだ。
念写と言うこの授かった力を使えば、本来知りえない事も分かる。家にいながらにして、外の事が分かるのだ。これはまるで案山子と一緒ではないだろうか──そんな風に、考えたのだ。生意気にも。
とは言え、そのまま“案山子”の名を使うのも気が引けたので、読みはそのままに自分の名前を当て字する事で、体裁を繕うことにした。
姫海棠と言う私の苗字。晩春に白い花を咲かせ、秋に実を付ける林檎の名前。まだ甘い物が苦手でなかった子供の頃には、時折なったばかりの実を食べて泣いた記憶もある。冬を越さないとあれは渋みが取れないのだ。何度か白い花を押し花にした事があったけれど、あれはどこに行ってしまったのだろう、と。
そんな事を考えて、閃いたのが今の新聞の名前。
白い花に赤い果実。──花果子念報。
だけれど、私は神様の様にはなれなかった。
勿論、神様になりたかったわけではない。なれるはずもない。そうなりたくて、新聞を書き始めたわけではない。しかし私の新聞は神様どころか、ただの新聞としても認められなかったのだ。
私の念写は、誰かが撮った景色しか撮れない。その上、写真について自動的に何か分かるというものでもないので、撮れた景色について当たり障りのない内容しか書けないのだ。その為、記事として最も大切なものが欠けていた。
発行への速度が。
事件への熱意が。
読者への解像が。
その結果、私の新聞が読まれることは無くなっていった。
周りの新聞が売れる度に疑問を覚え、
周りの新聞と比べる度に違いを覚え、
自分の新聞を捨てる度に諦めを覚え、
そうして、今私の新聞を読んでいる人は片手で数えられるほどである。
そんな、面白くも何ともない、時代遅れの新聞である。
それをどうしてこのメイドは──よりによって楽しいだなんて、言うのだろう?
「私って、メイドでしょ」
「あぁ、知ってる」
フォークを皿に置き、話を聞く。……視線は、新聞だけれど。
どうにもこのメイドには、ペースを終始握られっぱなしだ。
「だからどうにも、世間様に疎くてねぇ。今初めて、船なんて知ったわ」
「そりゃまた、なんとも」
幻想郷に船がやってきたのは、もう数ヶ月前の事になる。今の世間の話題といったら専ら新しく幻想郷にやってきた霊廟についてだ。
「温泉が出来たって言うのは、なんとなしに聞いたけど。どうにもメイドやってるだけじゃ分からないことばかりね。だからこういう新聞は助かるわ」
「こういう新聞、って言うと?」
「あなた以外の新聞はとても読めたものじゃない、って事よ」
「あぁ……」
天狗の書く新聞など、大抵が碌な物ではない。根も葉もない噂や人づてに聞いただけの話を、さもスクープと誇張して語るのが天狗と言う種族だった。真実を明らかにするだとか、売れるために万人に受ける記事を書くだとか、彼らはそう言うことに重点を置いていない。自分の書いた新聞を持って酒の席へ行き、そこでどれだけ大げさに内容を語れるか。それが天狗にとっての新聞というものだった。とどのつまり天狗の新聞は公にさらされる事はほとんどなく、大抵が身内の間で交わす程度なのだ。
だが、中にはそうしない奴もいる。例えば、あの妄想新聞の持ち主がそうだ。
天狗の間には新聞のコンテストがあるのだが、もとより評判の芳しくないあの妄想新聞の書き手は、発行部数と売り上げを増やすために人里などに無作為に無差別に無遠慮に配っている。尤も、元が売れていない新聞なのだから、そんな小細工は微々たる物なのだけれど。
恐らくは同じ人物を想像したのだろう、揃って溜息を吐き、目を合わせた。
私は苦笑を浮かべ、
メイドは微笑んだ。
人の家に来ては締め切りがどうのだの、売り上げがどうのだの愚痴をこぼす。最近は無理解な読者が多くて困る、などと嘆いているが、それは単に自分の悪評が原因なのではないかと思う。
だけれど、それらの話をするとき、けっしてあいつは嫌そうな顔をしないのだ。
新聞が売れなくても。
締切で慌てようとも。
理解をされなくても。
それでもあいつは、例によってやたら丸っこい字で記事を埋めるのだろう。
きっと、記事を書くのが好きだから。
きっと、写真を撮るのが好きだから。
きっと、大空を飛ぶのが好きだから。
日がな一日家に引きこもり、とりあえずと撮った写真にもっともらしい内容をくっつけただけの私の新聞では味わえないような。そんな目に見えない何かが、あいつの新聞にはあるのだろうけれど。
それを認めるには、まだ私の心の準備が出来ていないのだ。
「ねぇ。私、あなたの書いた新聞もっと読みたいわ」
「何でさ」
「あなたの新聞、丁寧で読みやすいもの。お嬢様はよくパパラッチの新聞を読んでいるけど、嘘ばっかりでとても読めたものじゃないわ」
窓掃除や油取りには役立っているけれど、というメイドの言葉にはなんと返したものか。すくなくとも自分の新聞はそうはなりたくないものだ。
「まさか、自分から頼んでおいてそんな事しないわよ。
それより、新聞をもらうには対価がいるんでしょう? 何をあげればいいのかしら」
「あぁ、別にいいよ、そんなの」
半眼でメイドに睨まれ、どうしたものかと考える。
別段そこまできっちりと金銭を要求するつもりはないが、メイドの中で納得がいかないのだろう。完璧主義なのか天然なのか、或いはその両方なのかもしれないけれど、何かしらを要求しないと、多分に引き下がってはくれないに違いない。
とはいえ、咄嗟の事で特に何も考えていなかった私は、返答に窮してしまう。
一つ唸り、二つ悩み、何かを連想できないものかと部屋中に視線を巡らせようとして、ふと目の前のババロアに目がいく。思ったときには、もう口を開いていた。
「これと同じものを作ってくれればいいよ」
「ふぅん」
私の言葉に、メイドが少し視線を泳がせた。躊躇ったり嫌がったりしている……と言った風ではない。別段無茶な要求をしているとも思えないが、何か思うところがあったのだろうか。
いや、まぁ、あったからそんな表情をしているのだろうけれど。
「同じものじゃ、芸がないわね」
「さいですか」
その辺りは価値観の違いだろうか。私は一週間水と酒だけでも平気だけれど、メイドはそうではないらしい。メイドをやっていると、性格まで難儀なものになるのだろうか。
きっかり一分思案した後に、メイドがぽんと自分の手を叩いた。何か思いついたらしい。
……昨日も見たが、ちょっとリアクションが古いと思ったのは、言わないでおこう。
「昨日あなたとお嬢様があったカフェがあるでしょう」
「あぁ、うん」
「今週末に二人で行きましょう」
「あぁ、うん……うん!?」
なんでそうなる。
「色々考えたけど、甘い物が苦手なあなたでも食べられる料理をつくるより、あなたが甘い物を食べられるようになれば手っ取り早いじゃない」
「いや、それはそうかもしれないけど」
「あなただって、甘い物が全く食べられないと言うわけじゃないみたいだし。折角だから、克服してみれば?」
「自分の事じゃないからって……」
いかにも名案を思いついたと言う風にするから何かと思ったら。よりにもよって、私に甘い物を克服しろだなんて言うとは。しかも、何故二人で行かねばならないのだろうか。
「だって、お嬢様は関係ないでしょう?」
「そりゃそうだけど」
よせばいいのに、想像してしまう。回想してしまう。
蜂蜜を入れた紅茶を冷ましながら、ちびちびと飲むメイドの姿を。そしてその正面にいるのは吸血鬼ではなく、今度こそ自分だ。
……。
…………。
なんと言うか。
凄く、恥ずかしい。
いや、いやいや。別段やましい事は何一つなく、単に知り合いとカフェに行くだけじゃないか。何をそんなに気後れする必要があるのだろうか。それくらいの事、誰でもやっている。普段引きこもっている私が変なだけで、別段おかしくはないのだ。
「……分かった。分かったよ。じゃあ今度の週末な。ちなみに今日は何曜日なんだ?」
「引きこもっている人は曜日の感覚がないって言うけど、本当なのね」
「うるさいな」
ジト目で見ないで欲しい。
「今日はまだ週の真ん中よ。
楽しみにしておくわ。私、お嬢様以外の人とどこかに行った事ないから」
「ぶふっ」
紅茶を口に運んだ瞬間、メイドがそう言った。思わずむせてしまう。
不思議そうな顔でメイドがこちらを見るが、言い返そうにも咳が止まらず何も言えない。紅茶をこぼさなかっただけ幸いか。
「ちょっと、平気?」
「あ、あぁ。大丈夫」
「そう。そろそろお嬢様を迎えに行ってくるわ」
「あ、あぁ」
「……変なの」
変なのはお前だ、と言いたかったが、言ったら藪蛇になりそうなのでやめた。
メイドが立ち去り、呼吸が落ち着いた頃に、吸血鬼がやってきた。表情からするに、あまり機嫌は良くないようだ。吸血鬼の後にメイドがついてきたが、目線は合わない。私としてもまた下手にかき乱されても困るので、それで良かった。
「まさか朝に来るとはね。嫌がらせのつもりか」
「少なくとも好意はないよ」
「陰険な奴。咲夜、ミルクティー」
「かしこまりました」
言い終わるか終わらないかと言う頃には、既に吸血鬼の前にティーカップが置かれていた。時間を操るなどとインチキを述べていたが、理論を口で説明されるよりは、やはりこうして直に見たほうがまだ理解できる。納得は……そのうちすることにしよう。
ソファで足を組みながら、吸血鬼が渡された新聞を読み始める。吸血鬼の傍らに佇むメイドと一度目が合ったが、特に感情の色は見受けられなかった。
「ふうん。なるほど」
新聞をめくる音が止み、吸血鬼が呟いた。昨日見たころころと転がるビー玉の様な瞳を今はしていない。その目はどちらかと言うと──
──冷めた目をしていた。
死にかけの虫を見るような、そんな目だ。おおよそ妖怪としての冷たさを表現するとしたら、そんな瞳になるだろう。そんな目をしていたのだ。
やがて新聞を四つ折りにしたかと思うと、吸血鬼はその新聞を私に向かって投げつけた。決して強くはなく、投げ渡すに近い形だったけれど、虚をつかれた私は手で受け取ることが出来なかった。新聞は私の胸元にあたり、そのまま膝元へと収まる。
「確かに読んだ。もう帰って良いよ」
「……」
数回息を吹きかけ、ミルクティーを一気に飲み干す。そのまま乱雑に受け皿に置くと、吸血鬼は立ち上がった。そこで私はようやく気づく。
吸血鬼は、先ほどからまるで私を見ていない。
昨日の丸い瞳はどこへ行ったというのか。まるで私がここに存在していないかのような、或いは私への興味がまるでなくなったかのような。それくらいの心境の変化があった様な、態度の違いだ。
──いや、原因は分かっている。原因は、一つしかない。
だけれど、
それを認めるには、まだ私の心の準備が出来でいないのだ。
「ちょっと待て。随分な扱いだな」
もう用事は終わったとばかりに、部屋を後にしようとする吸血鬼を呼び止める。しかし、用事はもう終わっている。本来新聞を渡した時点で、私がここにいる理由はもうないのだ。だとしたら、新聞を読み終えた吸血鬼を呼び止める権利は、私にはない。そして私だって、先ほどまではそうしたくて堪らなかったはずなのに。
なのに、こうなってしまったら。
引き下がるわけには、いかないじゃないか。
「お気に召さなかったようで残念だけどね。あいにく返却不可能なんだよ」
「それは初耳ね」
「言ってなかったからね。出来ればどこが不満か教えてくれると嬉しいんだけど」
そんな事、分かっているくせに。わざわざ吸血鬼に尋ねなくとも、自分が一番分かっているのに。
それでもそう言ったのは、やはり認めたくなかったのだ。
「……良いわ。特別に教えてあげる」
振り返った吸血鬼は、微かに笑っていた。余裕の笑みともとれるし、怒りから来る笑みともとれた。どちらだとしても、ぞっとしない話だった。
吸血鬼が両手を自身の前に持ってくる。何かするのかと思い一瞬緊張したが、特に何も起こらない。単に癖なのかもしれないが、こころなしか威圧感が増したようにも感じられる。
「お前の新聞、良く書けてると思うよ。どこぞのパパラッチと違って、丁寧で簡潔で小気味いい。
でも、それだけだ。まるで面白くない。おまけにまるで新しくない。もうどこかで見たり聞いたりした話を改めて纏めただけのものばかり。
分かりやすく言うと、お前の新聞はね。なくてもいいんだよ」
「……新聞なんて、本来そう言うものだ。楽しくなくて良いんだ。情報が正しいかどうかが大事なんだ」
くつくつと吸血鬼が笑う。その目は、どちらかと言うと昨日のものに近いが、まるで嬉しくない。これではまるで、見下されているかのようだ。
「お前、友達いないだろう」
「……それが、新聞とどう関係あるんだよ」
「いや。ないよ。まるでない。ただ聞いてみただけだ。ただ、なんとなくそんな気がしてさ。
だってそうだろ? 無愛想だし辛気臭いし、まぁ顔はそんなに悪くないけど、なにより世の中に対する考え方がひねくれてる」
「吸血鬼から聖人君主にでも鞍替えしたつもりか」
興が乗ってきたのだろうか。吸血鬼は踵を返し、ゆっくりと室内を歩き始めた。紅い絨毯で足音はしない。
「まさか。私はずっと吸血鬼だよ。吸血鬼だけどね、それと同じくらいに、ここの住民でもあるんだ」
「……」
ここ、というのは幻想郷を指しているのだろう。何も言わず、吸血鬼の次の言葉を待つ。
吸血鬼は再びソファに座り、足を組んだ。私の方が目線が上のはずなのに、何故だか見下ろされているような気がして、気分が悪い。
「ここの連中、自分勝手だろう。まるで自分の周りのことしか考えてない奴らばっかりだ」
「お前とかな」
黙ってばかりでは癪だったので、一つ皮肉を言い返す。しかし吸血鬼は意に介さず、鼻を鳴らすだけであしらった。くそ、と心の中で呟く。
「そんな奴らだけど、それでもここが理想郷って言われてるのは何でだと思う?
皆、楽しんでるからだよ。ここで生きるのを楽しんでるからだよ。少なくとも自分の為に他人を陥れるような奴はいないのさ。
そりゃいざこざやトラブルや異変はしょっちゅうあるけどね。でもそれだって一時期の物よ。言ってみれば祭りみたいなものね。勝手に喧嘩して勝手に盛り上がって、で最後はかならず大団円。後腐れなく酒の席よ。分かる? お前にそれが」
「……それは、お前の持論だろう。それを私に押し付けるな」
「いいや、押し付けるね。だってそうだろう。皆が楽しくやってる所に、お前みたいな辛気臭い奴が紛れ込んできたら、不快でしょうがない」
歯を噛み締めて、吸血鬼を睨み付けるが、どこ吹く風だ。それが腹立たしい。
「……余計なお世話だ。仮にそうだとしても、私はお前らなんかに紛れるつもりはない。今までだって一人だったし、別に誰の邪魔もしてない」
視界の端に、メイドの姿があった。表情は無い。今はその無表情が、心に突き刺さる。
「でもお前は今ここにいる」
「それはお前が呼んだからだ」
「そうね。でも、断る事も出来た。無視する事も出来た。でもお前はそうしなかった」
心がかき乱されていく。いつの間にか握り拳を作っていた。
そのまま吸血鬼を殴りつけられたら、どんなに良いことか。少なくとも、口を閉じてくれれば。
それだけでいい。何も言わないでくれれば、それでいいのに。
或いは、自分が今すぐここから立ち去ればいいのに。何故だか足が絨毯に絡め取られたかのように、動かない。
「もっと言えば、昨日お前がカフェに来なければ、こんな約束しないで済んだ。咲夜に何を言われたのかは分からないけど、断ることくらいは出来ただろう。
でも、お前はそうしなかった。何故だと思う」
やめろ。やめてくれ。
「分からないなら私が言ってあげようか。
──お前は、寂しかったんだろう。
口では孤独を望んでるけど、そうじゃない。周りにちやほやされながら、口ぶりだけそれを拒んでるんだ。照れくさいからそうする事でアピールしてるんだよ」
「違う」
「違わない」
「違う!」
足が動いた。動いたと同時に、テーブルを踏み、吸血鬼の胸倉を掴んだ……つもりだった。
だけれど、私の手は虚空に浮いたまま。代わりに、首元に冷たい金属の感触。それがナイフだと気づいたのは、間近にあるメイドの顔を確認してからだった。
文字通り、止めたのだろう。時と、私を。当然だ。仕える主が殴られそうになっているのだから。
その吸血鬼はと言うと、まるで私の事などお構い無しに、ミルクティーを一口飲んだ。メイドが止めに入るだろうと分かっていたのかも知れない。
メイドの瞳が微かに揺れている。初めて見る色だったけれど、それに構う余裕はなかった。
「乱暴だねぇ。ガラスなんだから、もっと丁寧に扱って欲しいんだけど。あーあ、咲夜の仕事が増えちゃった」
見れば、私が足を乗せた衝撃でテーブルの上は散乱していた。ティーカップは倒れ、残り少なかった紅茶が床までこぼれている。半分ほどのババロアも、絨毯の上で見るも無残な形になっていた。
きゅうと、心が締め付けられた。気がした。
「帰ってもらえるかしら」
冷たいメイドの言葉が耳に響く。決して大きな声で言われたわけではない。むしろ囁くほどの声量だ。
だと言うのに、どうしてかその声はやたらと心に突き刺さった。
「今度来る時はテーブルマナーを身につけるといい」
「二度と、来るか」
メイドの腕を振り払い、吸血鬼を睨みつけた。踵を返し、ドアノブに手をかける。後ろで片付けを始めるメイドの、ババロアを拾う表情を見ないようにして。
乱暴に扉を閉める。閉めようとして──微かに声が聞こえた。
「きっとお前は、またここに来る」
その声は、今まで聞いた中で一番柔らかい物で、
思わず噛み締めた歯の間から声が出そうになって。
何かを言おうと思ったけれど、上手く心の整理が付かなくて、
私はそのまま扉を閉めた。
「ちくしょう……」
ようやく出てきたのは、誰に対するものかも分からない、そんな言葉だけだった。
04.
それからどうやって外に出たのかは覚えていない。
気がついたら私は、人里にまで来ていた。
霧の湖を抜けて山へ帰ればいいはずなのに、こんなところで何をやっているのだろう。
おまけに今は土砂降りの嵐だ。河童の天気予報なんて、やはり当てにならない。
「ちくしょう」
河童に対するものなのか、吸血鬼に対するものなのか。或いはまさか、自分に対するものなのかはまるで分からなかったけれど、そんな呟きは雨音にかき消され、余計に惨めになるだけだった。だから雨は嫌いなのだ。
自分の言葉さえかき消されるから。
自分の視界さえかき消されるから。
自分の存在さえかき消されるから。
大通りをとぼとぼと歩く。土砂降りで辺りには誰もおらず、殆どの店が入り口を固く閉ざしていた。いよいよもって、この場には私一人だけしかいない。
「ちくしょう」
頭の中は吸血鬼の言葉で一杯だ。視界がぼやけて、その度に拭うのが面倒で仕方ない。
──お前は、寂しかったんだろう。
吸血鬼の言葉がリフレインされる。目を瞑って頭から追い払おうとするけれど、より一層心に刻まれていく気がした。
そんなこと言われなくても、分かっている。何故なら、その通りだから。
一人が良いなんて、嘘だ。本当はそんなのは、嘘だ。
私の周りには河童がいて、天狗達がいて、神様がいて、その誰もが私の家へとやってくる。それらを追い返そうと思えば、いつでも出来る。いつでも出来た。
それでもそうしてこなかったのは、やっぱり自分が一人でいる事が嫌だったからに違いない。
河童の発明品に文句を言って、妄想新聞弱小新聞と張り合って──そうやって、繋がっていたかったのだろう。
私が新聞を書く理由。それは、繋がっていたいから。
カフェで一人コーヒーを飲む時も、紅い館で紅茶を飲んだときも。
誰かの声を遠くに聞いて、安心していた。声が聞こえる事で、一人ぼっちにならなくて済むから。声を聞く事で、かろうじて自分がそこにいる誰かと繋がっているように感じられたから。
念写をするときに携帯電話に文字を入力する。そこに私は誰かを幻視する。
誰かが撮った景色しか記事に出来ない私の念写。それこそが、誰かと繋がっている証拠だった。
写真を見て私は想像する。この写真を撮った人物は、他に何を見て、何を感じ、何を思ったのだろう。そこに何があったのだろう。それら全てを読み取って、感じ取って、時にはこじつけて──そうして記事にするのだ。
そして出来た新聞を、私は配る。多くは無い読者に配る。私はまだこうして新聞を書いています、と。私はここにいるよと、言葉にする代わりに。
「ちくしょう……」
別に新聞が売れなくてもいい。売れるために新聞を書いているわけではない。
単に、周りの声に答えるのが恥ずかしいから。返事をするのが苦手だから。
だから私は、新聞を書いているのだ。
ふと視線を右にやると、そこにはカフェがあった。まだ午前中な上に、この土砂降りの中これから来る客もいないと思ったからか、店は開いていない。まるで突き放すかのごとく、扉は固く閉ざされていた。
ガラス張りの窓から中を覗く。昨日座った席が見えた。
──熱い。
蜂蜜を入れて、熱そうに紅茶を飲むメイドの姿が浮かぶ。
──私、お嬢様以外の人とどこかに行った事ないから
微かに微笑んだメイドの姿が次いで浮かぶ。
そして最後に、腕を掴んだメイドが言った事を思い出す。
──帰ってもらえるかしら
昨日の姿をかき消すように。
朝の笑顔を切り裂くように。
私を冷たく突き放すように。
元々あってないようなものだったけれど。唯の口約束でしかなかったけれど。
それでも彼女との関係は、あそこで途絶えた。
私が館に行く事はもうないし、
彼女が私の家に来る事もない。
或いは互いにこの人里ですれ違う事はあっても、もう話すことはないだろう。
「ちくしょう……」
翼を広げて空を飛ぶ。雨の所為で視界は狭く、およそまともに飛べるような状態ではなかったけれど、それでもここにいるよりは何倍もマシだ。
涙を拭いながら、空を飛ぶ。ふらふらと方向の定まらない翼は雨に濡れ、とても速度など出ない。それでもなんとか山まで来る事は出来た。そしてそのまま家まで翼を広げ、
「うぁっ、ぐっ……!」
木々に翼をぶつけてしまい、無様に地面に墜落する。服は泥まみれになり、痛みを感じた右腕からは血が出ていた。目にも泥水が入ったらしく、瞬きをするたびに痛みと違和感が走る。仕方なく右目を瞑り、歩く事にした。幸いにも、足は擦り傷で多少の出血がある程度で、歩くのに支障はない。
「ほんとに……何やってるんだ、私は……」
呆れて笑いがこみ上げてくるが、上手く笑えない。代わりに嗚咽と涙が再び出てきた。
「うぅ……ほんとに……ばか……」
墜落し泥で汚れた自分が、絨毯に落ちたババロアと重なる。彼女はあれを作るとき、何を考えていたのだろうか。妙なところで完璧主義の彼女の事だから、私でも食べられるように丁寧に作ってくれたのだろう。今思えば、砂糖の量も調整してくれたに違いない。
だと言うのに、あろうことか私はそれを、床に叩き落としてしまった。
「ごめん……ごめんね……」
右腕は痛みで上がらず、左腕だけでこぼれる涙を拭う。今すぐこの場にしゃがみこんで、大声を上げて泣き叫びたかったけれど、それだけはしなかった。その場を誰かに見られたら恥ずかしいだなんてちっぽけなプライドを、この期に及んで捨てられずにいたから。
ぬかるみに足を取られて、何度も転ぶ。その度にしゃがみこみたくなる衝動をこらえ、ようやく家までたどり着く。泥だらけの手で扉を開け、ふらふらと廊下を歩く。居間に入ったところで安堵したのか、その場にしゃがみこんだ。しゃがみだけでは耐えられず、毛布に包まった。
「うぅ……ごめん……ごめんね……」
溢れる涙は拭わずに、繰り返す。
あんな形で館を飛び出して、言える事じゃないけれど。だけれど、思わずにはいられない。
せめて、もう一度だけあいたい。もう一度だけ、言葉を交わしたい。
ごめんねと、謝りたい。
そのうえで拒絶されるのならば、それは仕方のないことだから。
だからせめて、
「ごめん……」
もう一度だけ逢いたい。
目が覚めた頃には、辺りは真っ暗になっていた。明かりも時計もないこの家では、今が何時かは分からない。散々泣きはらした体は重く、右腕の痛みはまだひかないままでいた。或いは、洗いさえしていない傷口は何かしらの菌が入り込んでいても不思議ではないけれど、どうでも良かった。
もう新聞を書くのは、やめよう。そう思ったからだ。
これから先、新聞を書くたびに彼女の事を思い出し、惨めな思いをするのなら。最初から書かないほうが良いに決まっている。別段読者が多いわけではないし、放っておいてもその読者は家にやってくるだろう。
(あぁ、そうか……)
つまりは、そう言うことだった。やっぱり私は、一人でいるのが寂しいのだ。
誰かが来て、私を見つけてくれればだなんて、そんな淡い期待を抱いていつも生きてきたのだ。
(吸血鬼の言う通りだ……)
確かに、この長雨がやめば、河童や天狗が来てくれるかもしれない。そうして私の傷を見て、手当てをしてくれるのかもしれない。
でも、その中に彼女はいない。
枯れたと思った涙が、また湧いてくる。こんなに人は泣けるのかと思うくらいに、涙が溢れてくる。つい昨日までは孤独を気取って、碌に笑いも泣きもしてこなかったのだから、知らなかったのは当然かも知れない。
再び目を閉じる。何もする気が起きない。せめて雨と泥を洗い流すくらいはした方が良いのだろうけれど、それも面倒に感じられた。このまま毛布に包まって、長雨が止むまでの十日間を過ごすのも悪くないかもしれない。
そう思って、目を閉じる。重い体が眠気を受け入れるのには、そう時間はかからなかった。
起きては泣き、泣いては眠りを繰り返す。雨で濡れた体はとうに乾き、泥は薄皮のように体にこびりついている。右腕の痛みも少しだけ和らいだ気がした。
あれから何日経っただろうか。少なくとも三日は経ったと思う。どんな状況でも人は空腹を覚えるらしく(人ではなくて烏天狗だけれど)、明け方になりくぅと腹が鳴ってそれに気が付いた。ようやく涙は一時停止してくれたらしい。
体を起こして、ぼんやりと外を見ると、雨は大分弱まっている。ロボットの言う秋雨の終わり日数まではあと数日あるが、始まりが数日ずれていると言うことは、終わりも数日早まっているのかもしれない。だとすると一週間たたないうちに雨が上がりそうだ。
数分ほどそのままの体勢で悩み、ようやく立ち上がる。台所に行けば、数日前に河童と白狼天狗が作った料理の残りがあるだろう。仮にそれが痛んでいたとしても、水くらいは口にしたい。そう思った。
「……」
『……』
未だ陽の昇らない薄闇にまぎれて鎮座するロボットに目をやる。ロボットは相変わらずそこにあるままで、皮肉な笑みを貼り付けたままだ。それが余計にむしゃくしゃして、少し強く蹴りつける。壁にロボットの音は存外にうるさく、思わず顔をしかめてしまった。
まるで気が晴れないまま、廊下に出て台所へ向かおうとする。ひんやりとした廊下の冷たさが、靴下を通して体に伝わってきた。
その時だった。
ふと、微かに物音が聞こえた気がした。
止みかけの雨が家を打つ音かと思い、最初は気に留めなかったけれど、様子が変だ。すり硝子で出来た玄関の扉の下半分に、黒く丸い影が見えるのだ。思わず驚いたが、すぐにはっとする。
その影は何かではなく、誰か、だ。
誰かが、玄関の前に座っている!
思わず玄関に駆け寄ろうとして、立ち止まる。数日続く雨の日に河童や白狼天狗が家に来る理由はない。遭難者が軒下で雨宿りでもしているのかとも思ったが、それもあり得ない。もしそうならば、せめて家内に向かって一言くらい声をかけるだろう。もしかしたら眠っていてそれを聞き落としたと言うことも考えられるが、つい今しがた私はロボットを蹴り飛ばしたばかりで、当然その音は外にも響いているだろう。にも拘らず、改めて何も言ってこないと言うことは、雨宿りの客ではないと言うことだ。
だとしたら。
あの影の持ち主は、一体何者だろうか。
何故、黙ったまま座っているのだろうか。
「いや、待て……」
あり得ないことを考える。そんなはずはないと分かっているのに、何故かそうではないかと、本能が告げている。一歩ずつ、玄関へと足を運ぶ。
もし、あの影の持ち主が私を探していて、けれど私の家を知らなかったのだとして。
この土砂降りの中、明かりもない山の中を闇雲に探し回っていたのだとして。
その結果、ここで力尽きたのだとして。
──そんな条件が当てはまる人は、今の私の中には一人しかいない。
「……! 大丈夫か!?」
玄関の扉を開けた先に蹲っていたのは、あのメイドだった。
返事はない。いや、厳密に言うと、返事らしき声は聞こえる。ただ、その声はか細く、荒い呼吸に紛れて何を言っているのか聞き取れない。顔面は蒼白で、小刻みに震える体は驚くほどに熱かった。その姿に、思わず涙がこみ上げてきた。
「……っ! ちくしょう!」
いつからここにいたのだろうか。昨夜からだろうか。まさか日を跨いでここにいたなんて事、ないとは思うけれど。
「立てるか? いや、駄目か。持ち上げるよ」
「……」
左腕を両足の膝裏に回し、右腕を首の後ろに回す。一瞬腕に痛みが走ったが、そんな事は気にしない。
軽く力を入れただけで、メイドは持ち上がった。足で扉を閉め、すぐに居間へと連れていく。先ほどまで自分が包まっていた毛布をずぶ濡れのメイドにかぶせたところまでは良かったが、そこから先がどうして良いのか分からない。
「脱が……いやいや、それは駄目だ。とりあえず風呂……も駄目だ」
この家に、ガスは通っていなかった。料理用の小さいガスコンロしか火元がない。病人にとって最悪の環境かもしれない。
「あぁ、もう。ちくしょう」
こんなことなら、もっとちゃんと引きこもりをしていればよかった。電気もガスもきちんと揃えて、悠々自適にしておけばよかった。乾電池一つ頼むのに及び腰になっていた自分を恨むけれど、いまさら遅い。
尤も、それが出来ないから、こんな事になってしまっているのだけれど。
タオルで濡れた体を拭いてやる。顔にはりついた髪を、慎重に払う。整った顔立ちに、少しどきりとするが、今はそんな事をしている場合ではない。
雨で濡れてしまった毛布を、新しい物と取り替える。一枚だけじゃなく、二三枚重ねてくるむ。体をさすって、少しでも体温を上げようと試みた。出来ることは、思いつくことは何でも試みた。
両腕が痺れるまで、ひたすらメイドの体を温め続ける。果たして何時間経ったのだろうかと思ったが、部屋の暗さは全く変わっていない。恐らく一時間程度しか経っていないのだろう。
「……ごめん」
言いたかった言葉を呟いた。勿論、こんな状況で言っても、意味の無い言葉だけれど。
未だ若干水分を含んだ髪をなでる。メイドを抱えた反対の腕と足が痺れている。心なしか、顔色は少し良くなっている気がした。
「……ごめん」
不意に涙腺が緩んだ。
一人は寂しい。声がしないのは寂しい。一人は──嫌だ。
罵ってくれても構わない。ナイフを突きつけられても構わない。嫌いになってくれても構わない。
だけれど、何でもいいから。
何か言ってくれないだろうか。
声を聞かせてくれないだろうか。
「……ごめん」
何度呟いただろうか。
やがて弱弱しい光と共に、太陽が山の木々を乗り越える。光は入ってこない。未だ止まない雨に、陽光はかき消されている。
せめて、陽が出てくれたら。部屋の温度が少しでも上がってくれたら。そんな意味のない事を考え始めたときだった。
「……ごめん」
「……ずるいわ」
ぽつりと、メイドが、そう言った。驚いた私の手を、メイドが緩く握りこんでくる。その手の冷たさに、余計に心を締め付ける。
「そんな顔で謝られたら、色々言いたい事があったのに、どうでもよくなっちゃうじゃない」
「言いたい事?」
メイドが小さくゆっくり息を吐いた。溜息と言うよりも、深呼吸のような、そんな静かな音。体の震えは止まっていて、僅かながらにぬくもりが感じられた。時折長めに瞑る瞳は落ち着いていて、ここに至ってようやく無事だったのかと安堵してしまった。
「そう。言いたい事。色々あって、何から言おうか考えてたんだけど、結局まとまらなかったわ」
「そっか。……なんで、私を追ってきたの?」
こくりと唾を飲んで尋ねる。雨と疲労にやられて、今でこそこうして私の膝上にいるけれど、本来私はメイドに突き放されたはずなのだ。きっとメイドだって、前向きな理由で私を探していたわけではないだろう。
「最初は、あなたに文句を言ってやろうと思って」
「うん」
ガラスのテーブルを踏みつけて、吸血鬼に手を上げようとしたのだから。言われて当然の事だ。
「私も最初は、そのつもりだった。……そうだと思ってた」
「?」
きゅうと、メイドが私の手を強く握る。未だ完全に体力が戻っていないのか、その力は些細なものだけれど、私が狼狽するには十分だった。
「でも、何か違うのよ。何が違うんだろうって、どうして違うんだろうって考えて気づいたわ。
あなたに床に落とされた紅茶とババロアを思い出して、なんでかしらね。凄く胸が辛かったのよ。二人で並んで座ってたあの短い時間がなくなっちゃうような気がして、凄く悲しかった」
──それは。
それはきっと──
「何ででしょうね。ほんとに。初めてだわ、自分で自分の気持ちが分からないなんて」
いや、違う。これはきっと──恋じゃない。そうじゃない様な、気がする。
友情とも違う。
同情とも違う。
山で暮らしてきた私と、
館で過ごしてきた彼女。
感情を出すのが苦手で、
そのくせどこか子供な私達。
そんな、どこか似ている私たちのこの関係には、きっとまだ名前がない。
だけれど、こんな関係も、悪くない。様な気がする。
「ごめん」
「私はいいから。お嬢様に今度謝ってね。メイドとしてやっぱり、それは見過ごせないから」
「うん。そうする」
ちくしょう。悔しい事に、吸血鬼の言う通りだ。やはり私はまた、あの館に行く事になるのか。何だか吸血鬼の掌で踊らされているような気がして癪だが、この際だ。乗ってやろうじゃないか。
どうせこの幻想郷では、楽しんだもの勝ちなのだから。
「その時は一緒に謝りましょうね」
「なんでさ」
「だって私、館の仕事放り出してきちゃったもの」
「あぁ……」
言われてみれば、そうかも知れない。
普段メイドの仕事がどれくらいあるかは知らないが、夕方となれば少なくとも何かしらやらねばいけない事があるだろう。それを投げ捨ててまでここに来てくれたのだと思うと、じんわりと心が温かくなるのを感じた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない」
「本当は?」
「……ちょっとじんと来た」
二人して笑いあう。と言っても、大げさなものではない。広くない居間に広がる程度で、弱まった雨脚と比べても、まだ小さいほどだ。
「来てくれたのは嬉しいけど、意外だった。もう会ってくれないかと思ってた」
「私も最初はそのつもりだったんだけど。お嬢様の言葉を思いだしたら、段々変な気持ちになってきて」
「変?」
「ええ。あなたが落ち込んでるかと思うと、いてもたってもいられなくて。
あれって、今考えると結構自分にも当てはまってるのよね。私、友達いないし。……あぁ、だからお嬢様の言葉が耳に残ったのかも」
「なるほど」
ひとしきり会話が途切れたところで、思いつく。そう言えば私もメイドも、何も食べていない。だいぶ体調も元に戻ったとはいえ、少しは胃に何か入れたほうがいいだろう。唐突に握った手を離されたメイドは不安そうな表情をしていたが、理由を告げると、頷いてくれた。
そっとメイドの頭を枕に乗せて、台所へと足を運ぶ。乱雑に物が置かれた狭い台所からガスコンロを引っぺがし、鍋の水を沸かす。テーブルの上には河童と白狼天狗が作った料理があったが、既に傷んでしまっているようだ。申し訳ないがそれは捨てる事にし、買い物袋に入った残りの食材を確認した。そして溜息一つ。
「……やるしかないか」
数日の間放置していた食材の中で無事だったのは、野菜だけだった。しかし哀しいことに、私はまるで料理が出来ない。右手で包丁を持てばいいことくらいしか分からないくらいだ。とても栄養食的な物は作れない。
意を決し、おろし金を右手に持つ。そして左手には大根。手元には小皿。とどのつまり……ただの大根おろしだ。何の変哲もひねりもない。とはいえ、他に残った野菜が人参や蓮根と言うことを考えたら、一番まともな選択肢だろう。多分。
ガリガリと、大根をおろす。おろす。ひたすらおろす。
「大根おろしって、こんなに食べるもんだっけか……まぁ、良いか」
一本丸々おろしきり、一口味見してみる。まごうこと無き大根おろしだ。例え料理初心者の私がおろしたところで、味は変わらない。すっきりとした苦味が広がって、なんと言うか、焼き魚が食べたくなる。
……。
…………。
うん。
だめだ、こりゃ。
「あー。あー……せいっ」
紅茶に蜂蜜を二杯入れるような子供舌のメイドが大根おろしを食べたら、どうなるのだろう。気にならないでもなかったが、今はそんな事をしている場合ではなかった。
仕方なく、大根おろしを沸騰した湯に入れてみる。お粥の代わりになるかどうかは分からないが、先ほどより辛さはマシになるのではないか。そんな気がしたのだ。ぐるぐるとスプーンで掻き混ぜる。そして一口すくって味見してみるが、
「……湯だな」
辛さは確かに無くなった。しかし、代わりに味も全て無くなった。ついでに言えば、食感も全て無くなった。例えるならば粒の少ない果汁のような、僅かながらに舌に何か当たる程度の食感しか残っていなかった。
これはひょっとして大失敗なのではなかろうか──そんな考えを、頭を振って追い払う。
「いやいや、体にはいいはず。後は味だ、味」
やはり大根おろしには醤油だろう。そう思い醤油を入れて掻き混ぜ、味見をする……が、
「しょっぱいな。入れすぎたか」
どうにも味の調整が上手くいかない。一度そうなると中々丁度いい塩梅の味を作るのが難しく、砂糖と味醂を交互に入れようとして、砂糖がない事に気が付いた。それはそうだ。甘いの苦手だし。
「うん。……これでいいか、もう」
完成と言うより、妥協といったほうが近いような気もするが、そんな事は気にしない。今は味よりも体を温める事ができれば良いのだ。
適当な容器に移し、急いで居間へと引き返す。するとメイドは上半身だけを起こして、居間の一部分を凝視していた。もっと言えば、部屋の端を訝しげに見ていた。
「ねぇ。これは、何?」
「あー……」
『……』
部屋が明るくなるにつれ、こうなる予感はしていたのだが、まぁ別段見られて困るものではないので、そのままにしておく。
「見た感じ、あなたに似てるけど。まさか自分をモデルにロボットつくるなんてねぇ。変わってるわね」
「……」
前言撤回だ。ちくしょう、だから河童の発明品は嫌なんだ。
「これ、なんなの?」
「……天気予報ロボット」
メイドの隣に胡坐をかいて座る。醤油の香りに、思わずメイドが顔をしかめた。
「な、なんだか凄く醤油の匂いがするんだけど」
「的中率三十パーセント。この間人里であった時に大量の荷物持ってたのは、それで長雨が来るって言う予報が出たから、雨の間引きこもろうと思って」
「話がかみ合ってないんだけど」
スプーンで粥(らしきもの)をすくい、メイドの目を見る。にっこりと笑って見せた。吊られて笑ったメイドの笑顔は、引きつっている。そんな表情も出来るのか。初めて知った。
「なぁメイド」
「な、なにかしら」
「私人の名前覚えるのが苦手でさ。非常に申し訳ないんだけど、もう一度だけ名前を教えてくれないかな?」
「……凄く失礼な事言ってる」
半眼で文句を言うメイド。中腰になっている私を、必然見上げる格好だ。
……。
…………。
あぁ、うん。気づいた。
このメイド、上目遣いの時が一番可愛い。
「失礼を承知でもう一回だけ教えてくれないかな。お願い、この通り」
「まるでお願いされてる気がしないんだけど」
それもそうだ。私のポーズは先ほどと全く一緒で、いつでもこのスプーンをメイドの口に突っ込む体勢なのだから。
「……十六夜咲夜。言ったからそのスプーンを置いてちょうだい」
「食べてくれないのか?」
「食べるから。自分で食べるから」
仕方ないと言わんばかりに頭を振り、容器とスプーンをメイド──咲夜に渡す。残念と思う反面、正直なところ、恥ずかしかったので助かったと思っている節がないわけではない。しかしそれを表情には出さなかった。なんとなく、そのほうが良いような気がしたから。
「んー……じゃあ、いただきます」
息を吹きかけて冷ましながら、恐る恐る、と言った感じで一口啜る。その瞬間、咲夜がむせた。
「げほっ、げほっ。なにこれ、しょっぱいわよ!」
「あぁ、やっぱりか」
「というか、これ、なに?」
「大根」
「……」
「大根おろし」
「別に言いなおさなくてもいいから。えっと、なに。あなた、料理したことないとか?」
「いや、今日はちょっと日が悪かったと言うかなんと言うか」
咲夜に睨まれた。昨日吸血鬼の前で退治したときより怖い。
「はい。すみません。生まれてこのかた包丁さえ持ったことないです」
「なんで大根おろしなのよ……しかもこれ皮剥いてないじゃない……」
「え、大根って皮剥くの?」
「はぁ、もう……と言うかなんでお湯に溶いたのよ……」
「あぁ、それは……」
「なに?」
「……怒らない?」
「もう怒ってる」
と言うより、呆れている、と言った方が正しそうだ。ちくしょう、料理が出来るからって言いたい放題言ってくれる。
まぁ、どう考えても悪いのは私なのだけれど。
「咲夜、子供舌だから、そのままの大根おろしじゃ辛くて食べられないだろうと思ってさ。
でも良く考えたら猫舌でもあるから醤油ぶっ掛ければ良かっ、あ痛っ、ナイフは反則だって!」
「うるさいわね! 余計なお世話でしょ!」
顔を真っ赤にしながら、咲夜がナイフを振りかざした。どこから出したかなんていうのはもう野暮な話だ。
その止めた時の中で仕返しをしてこないのが、何だか可愛らしい。
「甘い物が苦手なあなたに比べればまだマシよ」
「いや、どう考えても私の勝ちだと思うが……睨むな、怖いから。このロボットあげるから」
「要らないわよ、こんなの」
こんなのとは酷い言われようだ。仮にも私に似た外見をしているのに。そう思い、思わず苦笑した。
数日前の私はこのロボットに対して、“死んだ魚のような目をしている”と言ったのに。
まさかこのロボットをかばう日が来るなんて。
メイドはもうスプーンを完全に置いている。あのババロアとは違って、しょっぱくて食べられないのだから、私も無理強いはしない。
「なに? どうかした?」
「いや、別に。
それより、このロボット結構凄いんだぜ。さっき言った通り、天気予報はしてくれるし、懐中電灯にもなるし、殺虫剤にもなるんだ」
「……なにその無駄な機能」
やはり最初はそう思うか。いや、というか、私でもそう思う。どうせ目が光って懐中電灯になるとか、口が開いてジェット噴射の殺虫剤になるとか、そんなオチだろう。電灯としてはまだしも、こんな大きくて持ち運び出来ない殺虫剤に果たして何の価値があるのだろうか。どうあがいてもない気がする。
「他は何かないの?」
「あー、どうだろう。他にもあるかもしれないけど、聞きそびれた。
……あぁ、日付なら分かるよ。曜日は分からないけど」
そう言って、私はロボットの頭のスイッチを押した。首全体がめり込む仕組みになっていなくて良かったと思う。もしそうなら、スイッチを押すたびに首がめり込む自分を見る羽目になっていたから。
咲夜も似たような事を考えたのだろうか、何ともいえない微妙な表情を浮かべている。
『本日は○月○日 雨は朝だけ 午後は晴れるよ』
相変わらずむかつく声だが、果たして誰の音声をモデルにしているのだろうか。少なくとも自分がそんなものに協力した覚えはない。
「ますます引き取る気が失せたわ」
「さいですか」
「というかなんで片言なのよ」
「私が知るわけないだろ」
「これだったら日めくりカレンダーの方がまだマシ……」
言いよどんで、メイドが口元に手をやる。まさか粥(のようなもの)がよっぽどまずくて、いまさらになって気持ち悪くなったとかじゃあるまいな。やっぱりこの季節冷蔵庫は必須なのか。
「そうじゃなくて。いや、冷蔵庫は必須だけど。
ちょっと、もう一回音声流してもらえる?」
「あ、あぁ」
慌てた様子で咲夜に言われ、再び音声を流した。
『本日は○月○日 雨は朝だけ 午後は晴れるよ』
「……」
呆然とした表情を咲夜が浮かべるが、どうにも私には分からない。午後に晴れるのが、そんなに嫌なのだろうか。
「……あなた、本当曜日を気にしない人ね」
「お、おぅ。ありがとう」
「褒めてない……今日、日曜日じゃない」
「ふぅん。日曜……えっ? 日曜日?」
二人して固まる。
ええと。つまり。どう言うことだろうか。
「だから、今日は日曜日なのよ! えぇ、なんでよ……こんなのおかしいわよ……」
「えっと、私達が初めて会ったのが水曜日で、新聞を渡したのがその次の日だから……」
「つまり、あなたが館を飛び出したのも木曜日ってこと」
それは、そうだ。水曜日の次の日なのだから、なんら間違っていない。
それのどこが、不思議だと言う──
待てよ。そう言えば、気になっていた事があった。色々あって確認し忘れた事が一つ、あった。
──一体咲夜は、
いつから私を探してくれていたのだろう?
「……私があなたを追いかけたのはその次の日。だから金曜日」
「ちょ、ちょっと待て。じゃああれか。咲夜はあの土砂降りの中二日間も彷徨ってたってのか」
「しょうがないでしょ。あなたの家知らなかったんだから」
「そりゃそうだけど……」
むしろそう考えると、あの悪天候の中、二日で私の家を見つけたのは凄いことだと思えた。入り組んだところにあるわけではないけれど、それでも咲夜にとってはこの山はなれない場所のはずだ。しかも下手に中腹まで登ったら、天狗に見つかり追い出されていたかもしれない。しかも身内に甘い天狗たちだ、よそ者の咲夜に私の家の場所を教えるとは思えない。
「……咲夜が家についたのは、いつ頃?」
「その日の夜中くらい。家を見つけたときにはもう限界で、ノックさえできなかったわ」
だとすると、咲夜は玄関で丸一日倒れていた事になる。しかもこの土砂降りの中、殆ど雨風の凌げない軒下で。
ちょうどその頃は自分もどん底にいたとは言え、ちょっとそれはあまりに──
「……ひどいわね」
「うっ……」
「私はあなたを探して頑張ってここまで来たのに、丸一日外に放置されたのね……数時間だと思ってたけど、丸一日経ってたのね」
「ぐぬぬ……」
「ひどい……友達だと思ってたのに……」
「ご、ごめん。本当に反省してるから」
顔を覆って震える咲夜に何と言っていいのか分からず、私はあせった。
折角元に戻れると思ったのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
「ぐすっ……うぅ……」
「あー。うー。ごめん、本当にごめん」
「ひっく……ぐすっ……」
「お願いだから泣き止んでよ。もうこんな思いさせないから」
「うぅ……ほんとに……?」
「うん。絶対。……そ、そばにいる、から」
上手い言葉が思いつかず、本当に、本当に思ったままの言葉をむけた。恥ずかしすぎて今すぐにでも外に駆け出したいくらいだけれど、ぐっと我慢する。
すると、咲夜のすすり泣く声が止まった。しかし、顔は覆ったままだ。
泣き止んでくれたのだろうか。
いや、それよりも。
許してくれたのだろうか。
「……ふふっ……」
再び、咲夜の肩が震える。また泣き出してしまったのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。どうしたのだろうかと思い、覗きこもうとして、気づいた。
「ふふっ」
「お、お前っ。騙したな!」
顔を上げた咲夜の目には、これっぽっちも涙はなかった。当然頬も乾いたままで、唇からは白い歯が僅かに垣間見えた。
「冗談のつもりだったんだけど。まさかそこまで言ってくれるなんてね」
「……」
「“傍にいる”、だなんて。生まれて初めて言われたわ」
「こいつ……忘れろ、忘れてくれ」
「嫌よ。絶対忘れない」
さっと咲夜が立ち上がる。まだ少しぎこちないながらも、屈伸をして体をほぐしていき、徐々に数日前まで見ていた違和感のない動きにまで戻っていく。若干目の下に隈があったりやつれているように見えるけれど、今度こそ心配はしない。ちくしょう。
「さ、行きましょう」
「……どこへ」
「館よ」
ジト目をつくって咲夜を見上げるが、まるで意にも介さない表情だ。
「何で」
「言ったでしょう。二人でお嬢様に謝りに行くのよ」
「えぇ……」
「ほら」
胡坐をかいたままの私に、咲夜が手を差し伸べる。目元は微かながら赤い。……もしかしたら、案外、本当に泣いていたのかもしれない。それを誤魔化すために、あんな態度を取ったのかもしれない。
あぁ、もう。
だとしたら、そんなの、断れないじゃないか。
穏やかに微笑む唇に触れてやろうかとも思ったが、やめた。どうせ時を止めて回避されるだけだ。全く、余計な約束をしてしまった──
──あ。
思い出した。
「分かった。じゃあ館に行こう。
……でもその前に、一箇所寄るところがある」
「え?」
「約束、まだ他にもあるだろ?」
──私、お嬢様以外の人とどこかに行った事ないから。
私の隣でそう言った咲夜を思い出す。あの時は分からなかったけれど、今なら分かる。本当にあの時の咲夜は、喜んでくれていた。
一瞬だけ微笑んだ咲夜だったが、すぐに表情は淡々としたいつもの表情へと戻った。それでも比較的、穏やかなものだけれど。
「覚えてたのね」
「うん。思い出した。今更すぐに帰っても、寄り道しても一緒でしょ」
「そうだけど」
メイドと言う立場上、彼女の方からこれ以上館を離れる意思は見せられないのだろう。それは仕方のない事だ。
なので、眉根を寄せて逡巡する咲夜の手を握る。足に力を入れて立ち上がり、咲夜の瞳を見据える。身長は殆ど変わらないくらい。咲夜の背が私より少しだけ低かったらいいのに。そんなことを思った。
「咲夜。駄目かな?」
「……」
「咲夜。咲夜と紅茶が飲みたい」
「……ずるい」
数分の葛藤の後、咲夜が俯いていた顔を上げた。苦笑──なのだろうか。なんにせよ、思いは伝わったようだ。
そこでようやく自分が未だに数日前の姿だと言うことに気が付いた。血と泥は既に乾いていて、腕の痛みも殆どなかったが、こんな姿でカフェに行く事はさすがに出来ない。仕方なく咲夜にお願いをして、二人とも雨で濡れた体をシャワー─水しかでないけれど─で洗い流すことにし(当然別々だ)、今度こそ準備を整える。
手を繋いだまま、玄関の扉を開けた。雨は完全に上がり、どこまでも突き抜けるような青空が広がっている。太陽のまぶしさに思わず二人して顔をしかめ、そして笑いあって、一つ息を吐く。
「お腹空いちゃった」
「私もだ。喉も渇いてる」
「そうね、紅茶も飲みたいわ。蜂蜜入りの、とびきり甘いやつ」
白くて細い指が、私の指に交わる。このまま人里に行くのはこの上なく恥ずかしい気がするけれど、どうなのだろう。どこかで気づいて手を離してくれるだろうか。
いや、あるいは、意外に抜けている咲夜の事だ。ちっとも気が付かないだろう。果たして周りに指摘された時に、一体どう言う反応を見せるのだろうか。ちょっと気になるので、このままにしておいた。自分の恥ずかしさは、棚に上げて。
「はたては、何にするの?」
二人で歩きだす。雨上がりの道はぬかるんでいて、気を付けないと泥が跳ねそうだ。低空でも空を飛べば、泥は跳ねないだろう。
「そうだなぁ」
だけれど、私も咲夜も、そうはしなかった。なんとなく、歩きたかったのだ。
一歩ずつ歩いて行きたかった。
こんな泥道、空を飛んだほうが効率的だ。
わざわざ歩くなんて、どうかしている。
でもあえてそうしたのはきっと──そのほうが、楽しいからだ。
(そうだ。新聞、書こう)
この雨と河童のロボットの事、それから蜂蜜入りの紅茶を好む、子供舌のメイドの事を記事にしてみよう。爆発した懐中電灯の事でもいいし、未だ手元に帰ってこない食材達について面白おかしく書いてみてもいい。とにかく無性に、新聞が書きたい気分だった。
ぬかるんだ道を、二人で歩く。右手に伝わる温もりが、たまらなく嬉しく感じた。
そっと息を一つ吸い込み、大きく吐き出した。後数週間もすれば、この息が白く色づくだろう。そうなったらいよいよ家にガスが必要だ。河童に頼んで、付けてもらわないといけない。それと、名前をもう一度尋ねよう。
きゅうと握る手に力をこめる。咲夜が何かを言おうとして、口をつぐんだ。
代わりに、私が声を紡ぐ。
「私も同じのを頼むよ。咲夜と同じ、蜂蜜を二杯入れて」
甘ったるくて一気には飲めないと思うけれど。それでも、時間をかけてでも、飲んでみようと思った。多分、その方が咲夜を喜ばせられるから。
そして、咲夜の喜ぶ顔が、見てみたいから。
だから私は、頑張って紅茶を飲んでみようと、そう思った。
お互いの気持ちが出てて面白かったです
咲夜さんは最強伝説を築きつつあったし、はたてが紅魔館を飛び出してからのくだりは、
あざといと思いつつ感情移入せざるを得なかった。
花果子念報創刊時のエピソードにも唸らされたですし、はたてロボは俺も欲しいぜ。
俺が思うに、強がりでもなんでもなく独りで生きるほうが楽って人は驚くほど多いんじゃないかな。
そして孤独な人にお節介を焼く者は、逆に驚くほど少ないんじゃないかなって気がする。
そんな意味じゃ、この作品は途轍もなくファンタジー。いや、もともと幻想が舞台なんだけどね。
はっきり言おう、そういう幻想は大好きさ。救いが必要だよ、生きる者には。
ここまでべた褒め。ここからチクッといきます。
やっぱりはたての家の前で咲夜さんが倒れているシーンからの唐突感が否めないです。文章も急いでいるように感じる。
わかるんですよ、「無表情の内側で色々考えてるんだろうなぁ、咲夜さんも」とか、
「似た者同士の孤独な魂が出会ったら、感情がドラマチックに回転するんだろうな」とかね。
わかるんだけど、ここはもう一段じっくりお話を進めて欲しかったところではあります。
あとあれだ、風呂無しでガスも通ってないはたて邸にシャワーがあるのはこれ如何に。
それが少女ってもんよ、とか言われたらぐうの音も出ないんですけどね。
決して別々にシャワーを浴びた、とかいう淡白な描写に文句があった訳ではないのだ、決して。
総評。
色々書いたけど、それでも俺はこの物語が大好きさ。
>>コチドリさん
ご指摘ありがとうございます。
次回への反省材料にしたいと思います。とりあえず水のシャワーを浴びて。
ぶっきらぼうなはたてと不器用にかわいい咲夜さんに萌えました。
しかし、この作品の中ではレミリアが好き。この不遜な態度がレミリアらしい。
また読みたいです
はたての皮を被った引きこもりの少年になってるなとか思うところは何点かありましたが、
そこらへんをさっ引いても面白かったです。
レミリアが良かったし、咲夜さんもあざといぐらい可愛かったです。
最後が急展開であっさりしてるのが残念です。もう少しじっくり物語を展開させても良かったかも。
今後の作品も期待しています!
あとは、引き篭もりというとパチェとフランとはたてと言うイメージなんですが、咲夜が引き篭もりっぽいってのも新鮮ですね。
お嬢は一体どこまで運命を読んでいたのかな・・・
ひょっとすると咲夜に友達を作らせるためにお嬢はあんな風にはたてを挑発したんだろうか。
>>下駄箱の上に放置したいたら
していたら
>>荷物を両手に持って
文脈的に、「両手で持って」の方が適切かと。