「秋ですよぉー!あはははははははははははははははははははははぁ!!!!」
――晩秋
十一月も下旬に入り、ここ幻想郷も言い逃れができないほどすっかり秋らしい気候となっていた。山々は色
鮮やかな紅葉に彩られて、耳を澄ませばいや澄まさなくても秋の神様の高笑いが木霊して聞こえてくる。
紅葉の秋、食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋。
秋一色の幻想郷で人々は思いおもいの秋を満喫していた。
傲慢の秋、嫉妬の秋、憤怒の秋、怠惰の秋、強欲の秋、暴食の秋、色欲の秋。
闇を操る程度の秋、冷気を操る程度の秋、気を使う程度の秋、火水木金土日月を操る程度の秋、時間を操る
程度の秋、運命を操る程度の秋、ありとあらゆるものを破壊する程度の秋。
そんな楽しかった秋も、あともう少しで終わり。
足早に過ぎていく秋を名残惜しむうちに、耳を澄ませば冬の足音が聞こえてきそうな、そんな晩秋。
紅葉に染まる山が一面の雪景色に変わるのも、そう先の話ではなかった。
「んっ……うーん」
霊夢は布団に包まり孤独で静かな戦いを繰り広げていた。
既に朝日は昇り庭では小鳥が囀り、霊夢自身も一応目を覚ましてはいた。布団から這い出して綺麗に畳み、
今日という日の行動を開始する頃合である。
しかし、布団の外の厳しい寒さがそれを遮っていた。なにしろ寒いとにかく寒い理屈抜きに寒い。こんな暴
力的なまでに寒いのは、きっと寝ている間に誰かが液体窒素を撒きながら散歩していたからに違いない。と霊
夢は推察していた。
朝なのだから布団から出なければいけない。でもあと少しだけ温かくてぽかぽかで心地良いまどろみに身を
任せていたい。できることならずっとこうして布団に身を委ねていたい。だってとっても寒いんだもん。
「……あと五分だけ」
寝ぼけ眼で時計を確認し、試合時間の延長を決心する霊夢。彼女の愚行を責めることが一体誰に出来るので
あろうか?
五分後に終わる無上の楽園に堕ちた彼女であったが、楽園の神々はそれを善しとしないようである。
羽毛の枕に頭を沈めた彼女は「なにか」を感じる。
「ん……もう、何よぉ」
博麗霊夢という人間の生来持つ、人ならざる能力。いわゆる勘というやつであった。
幻想郷のどこかで、なにかの異変が起きている。おそらく妖怪絡みのなにかが。彼女の勘はおよそ外れるこ
とがない。そして彼女は妖怪退治を生業としている。布団から出るお膳立ては揃っていた。
「しょうがないなぁ」
彼女は布団の中で身を硬くして覚悟を決める。勢いで一気にしてしまわないと余計に辛くなる。
息を止めて、布団を捲り上げようとして、はたと動きを止める。
朝が来た。だから布団から出なければいけない。至極当然のことであり疑問の余地は無い。
いや、本当にそうなのだろうか? 疑問の余地はあるのではないか? 本当に布団から出なければいけない
のだろうか? だとしたら何故?
まだ本調子ではない頭を回転させて霊夢は考える。
布団に包まっているのは幸せだ。温かくて心地良い。
布団の外に出るのは不幸せだ。外は寒い。
ならば不幸せよりも幸せなほうがいい。幸せは自分で掴み取るものだ。
しかしこれは霊夢自身を主体とした考えでしかない。もっと視野を広げて考えてみる。
霊夢が布団に包まっていることにより他の誰かが幸せになるのだろうか? ……ならない。
霊夢が布団に包まっていることにより他の誰かが不幸せになるのだろうか? ……ならない。
霊夢が布団の外に出ることにより他の誰かが幸せになるのだろうか? ……ならない。
霊夢が布団の外に出ることにより他の誰かが不幸せになるのだろうか? ……ならない。
つまり、霊夢が布団に包まっていようが布団の外に出ていようが、その事が他の誰かの幸せや不幸せに影響
を与えることは無い。
ならば……誰かを幸せにすることもなければ誰かの幸せを奪うことも無いのならば、彼女が自身の幸せのた
めに布団に包まっていてもいいのではないか?
朝だから布団から出なければいけない。この普遍的な常識が、今まさに崩れようとしている。
霊夢は自分の閃きに興奮を覚える。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう? 寝ている時じゃなけれ
ば布団から出ることが常識? ここ幻想郷では常識に囚われてはいけないと東風谷早苗も言っていたではない
か。
布団から出たくなければ出なければいい。まさにコロンブスの卵的発想だと言えた。もしくはマリーアント
ワネットのお菓子的発想。
はやる気持ちを抑えて彼女は精神を集中する。それをやってもいいとしても、それが出来るかどうかは別の
問題である。布団に包まったまま空を飛んだことなど無かったしそれをやろうと試したことも無かった。
気持ちを落ち着けて、いつもするように空に浮かんでみた。彼女の体が浮くにつれて、掛け布団も敷布団も
おまけに枕も、寝床にあるのと同じ形で宙に浮かぶ。やってみたら出来た。
気分が高揚していることを霊夢は自覚する。自然と微笑みがこぼれる。
これからずーっと、温かくてぽかぽかで心地良い布団に包まって過ごすことができる。霊夢自身が嫌になる
まで、いつまでもずっと布団と共にあることが許される。
「うふふふ」
機嫌の良い笑い声を残して、霊夢を包んだ布団は幻想郷の空へと飛び立っていった。
「ふぇーん!!」
「ちょ、ちょっとそんな大きな声で泣かないでよ、もう」
「だ、だって……ふぇーん!!」
「ああもう、参ったなぁ……」
人間の里の外れで小傘は困っていた。
朝の晴れ渡った秋空が気持ちよかったので彼女は当てもなく漂っていた。風の向くまま流されるまま秋空を
泳いでいたところ、里の外れにいかにも気の弱そうな女の子が寂しそうに歩いているのを見かけた。
俯き加減に歩くその女の子は、枯葉が地面に落ちるだけでも驚いてくれそうなほどの極度の小心者に見えた。
千載一遇のチャンスに小傘は胸の高鳴りを覚える。こういう時は下手な小細工は必要ない。シンプルにそし
てエレガントに、後ろからそっと近づいて大声で驚かす。最も単純なやり方こそが最大限の効果を発揮するの
だ。
彼女は音もなく地面に降り立つと、慎重にそれを実践した。
「……」
「……」
「……わーーーーっ!!お化けだぞぉ!!食べちゃうぞぉ!!」
「きゃ、きゃあぁーーー!!」
小傘の目論見どおり、女の子は盛大に驚いてくれた。驚かせたはずの小傘が逆に驚いてしまいそうなほどの
大きな悲鳴をあげて、尻餅をつき地面にへたりこんでしまう。
十二分な成果を挙げて小傘の心はひさしぶりの達成感に満たされた。諦めずにお化けをやっていてよかった
とさえ思った。しかしそんなささやかな喜びも、すぐに後悔へと塗り替えられてしまう。
「うぅっ……う、うわぁーーーん!!」
「へっ!?」
お化けに後ろから驚かされたという事実を受け止めるには女の子は小心すぎた。あまりにも驚きが大きすぎ
たため、彼女は立ち上がることもできずにそのまま大声を張り上げて泣き出してしまう。
予想していなかった反応に小傘は狼狽する。驚いてくれたのは有り難いのだが泣かれるのは正直困る。
「ね、ねぇ泣かないでよ」
「ふぇーん!!」
「あー参ったなぁ。こんなところ人に見られたら私が苛めたみたいに誤解されちゃうじゃない!」
「……あんた、なに朝っぱらからか弱い女の子苛めてるのよ」
後ろから声がした。小傘は「これは違う」と言いかけて後ろを振り向き、……そして驚いた。
純粋に心の底から、ただただ驚いた。
声のした方向には布団が浮いていた。
「ふ、布団が喋ったあああああ!!」
「布団が喋るわけないじゃない」
宙に浮く布団がもぞもぞと動くと、しばらくして霊夢が顔を出した。
「へっ、れ、霊夢?」
「他の誰に見えるのよ」
「え、で、でも……何で布団!?」
「そんなの決まってるじゃない」
言いながら霊夢は布団の中に再び顔を埋める。
「外は寒いからよ」
面倒くさそうな霊夢の返答は小傘を納得させるのに十分なものだった。外は寒い。寒いから布団から出たく
ない。出たくないから布団から出ない。ああ成る程と、思わず彼女は声に出した。
「異変かと思って慌てて来てみれば、つまらない妖怪が弱いものいじめしてるだけだなんて」
「いやこれは弱いものいじめじゃ無くて」
「言い訳しない!あんたちゃんとその子を宥めて、泣き止んだら家まで送り届けるのよ、いい!?」
「う、うん」
言いたいことだけ一方的に言うと、布団は空高く舞い上がってそのまま帰ってしまった。
残された小傘は霊夢に言われた通り、女の子を家まで送り届けることにした。逆らうとどんな酷い目に遭う
か考えたくなかった。
「お母さん、わたし妖怪に襲われちゃったの!」
「あらあら、大丈夫なのかい?」
「大丈夫。布団が空から飛んできて助けてくれた」
「布団!?巫女じゃなくて?」
「うん、布団」
「そ、そう。で、そちらの方は?」
「この人はわたしを襲った妖怪」
「えっ、ちょ!?」
逆らわなくても酷い目に遭った。
女の子は、親だけでなく兄弟や友達や親類縁者や野良猫に「里の外れで妖怪に襲われたが空飛ぶ布団が来て
助けてくれた」と触れ回った。
大人たちは女の子が何を言っているのか理解できずにいたが、程なくして幻想郷の各地にて「布団が空を飛
んでいる」のを目撃したという話が伝わってきた。
なぜ布団が空を飛ぶのかという疑問が湧くのは当然のことだったが、他でもない幻想郷のことである。疑問
があろうが無かろうが、飛んでいるのだから仕方ない。実際に飛んでいるのなら布団は飛ぶものである。
こうして特に障害も無く、布団に包まれて飛ぶ霊夢の姿は幻想郷の住人に受け入れられた。
一旦空飛ぶ布団が受け入れられてしまえば、それが一般的なものとして浸透するのにさほど時間は掛からな
い。
幻想郷の少女たちは流行に敏感で長いものには巻かれるのである。彼女たちとしても、寒い空をやせ我慢し
ながら飛ぶよりもは布団で温まりながらの方がいい。願ったり叶ったりである。
「布団から出るべきか出ざるべきか、それが問題だ」
魔理沙は星柄の布団の中で葛藤していた。
「いや問題にならないな。外は寒い私は出たくない。ならば出ない」
決心をすると、ベッドのマットレスごとふわりと浮かび上がる。
「なるほど、これはなかなか快適。だが、これじゃまだ不十分だな」
彼女は布団に包まったまま部屋を漂うと、壁に立てかけてあった箒にマットレスごと乗り上げる。
「うん、魔法使いはこうでなくちゃな」
マットレスのまま箒に乗る姿が魔法使いらしいとは思えないが、彼女自身は納得したらしく、そのまま全速
力で大空へと飛び出していった。
布団を被って全力で飛ぶ魔理沙は、小さな布団を沢山引き連れた小奇麗な布団と擦れ違う。魔理沙の発する
衝撃波を受けた小奇麗な布団の中で、アリスは盛大な悲鳴をあげた。
「あ、危ないじゃない、もう!」
アリスの抗議の声に応えるかのように、連れ添った人形たちも一斉に半角カタカナで苦情を訴える。
しかしその声は小さな布団に遮られて聞き取ることはできなかった。
紅魔館の寝室では、レミリアが天蓋付きの豪華なベッドの上で布団に包まっていた。あくまでも優雅に。
「寒くて飛ぶのが嫌なら布団に包まって飛べばいい。言われるまで気付かなかったけど最高に素晴らしいアイ
ディアね。そうは思わない咲夜?」
「僭越ながら申し上げます。お嬢様が話しかけられておられるのは咲夜ではなくモップに御座います」
完全で瀟洒な従者は間違っている事を間違いだと瀟洒に正すことができる素晴らしい従者だった。咲夜が指
摘するとおり、レミリアが話しかけた先に咲夜は居らず、咲夜とは似ても似つかぬ一本のモップが立て掛けて
あるのみであった。
もちろんただのモップではない。
稀代の名ルシアー、ステファン・マルキオーネの作となるこのモップ、希少材となるハカランダを贅沢に使
用した逸品で、吸い付くように手に馴染むネックを握ればどのような汚れも意のままに拭き取ることができ、
いつまでも掃除をしていたくなる、まさに紅魔館に相応しい代物と言えた。
「わ、わかってるわよワザとよ。これはほらワラキアンジョークだから」
「ワラキアンジョークでしたか。それは失礼しました」
布団の中で耳まで真っ赤になりながらも、レミリアは主としての威厳を損なうことなく優雅に取り繕った。
「とにかく……冬の寒空に晒されなくてもいいのは助かるわね。寒いと羽の付け根が痛くなるのよ。おまけに
この威厳溢れる豪華なベッドで空を優雅に飛べば、貧乏臭い煎餅布団で飛んでいる連中も格の違いを嫌でも思
い知ることになるわ。まさに一石二鳥よね咲夜?」
「僭越ながら申し上げます。お嬢様が話しかけられておられるのは咲夜ではなく郵便ポストに御座います」
咲夜が指摘するとおり、レミリアが話しかけた先に咲夜は居らず、咲夜とは似ても似つかぬ一本の郵便ポス
トが立っているのみであった。
もちろんただの郵便ポストではない。
稀代の名ルシアー、ステファン・マルキオーネの作となるこの郵便ポスト、希少材となるベリリウム合金を
贅沢に使用した逸品で、吸い込まれるように手に馴染む投函口にはどのような手紙も意のままに投函すること
ができ、いつまでも投函していたくなる、まさに紅魔館に相応しい代物と言えた。
「な、なんで私の寝室に郵便ポストがあるのよ!?」
「何ででしょう? 咲夜には分かりかねますわ」
「8時と12時と16時に見知らぬ郵便局員らしき男が寝室に来てたのは、こいつがあったからなのね!」
「ポストがあれば集配しないわけにはいきませんからね」
「咲夜、後で捨てておきなさい」
「よろしいのですか? ここにあれば郵便物を出すのに便利ですよ?」
「ここは私の寝室! ポストは寝室には必要無い!! わかった!?」
「畏まりました」
それはさておき。
寒いと羽の付け根が痛くなるお年寄りっぽい一面もあるレミリアは天蓋付きの豪華なベッドで幻想郷の空を
優雅に飛んでいた。隣に寄り添うように、日傘を差した質素なベッドが同行している。
「お嬢様、つかぬ事をうかがいますが」
「なに、咲夜?」
「お嬢様のベッドには天蓋が付いていますしお嬢様は布団を被っています。ひょっとしたら私が日傘を差す必
要は無いのではないかと」
「天蓋があるし布団もあるから日傘は要らない、なるほどね。じゃあ日傘が要らないのなら咲夜も要らないわ
ね」
「そ、そのような意味で申したのではありません!」
「でも要らないんでしょ?」
「……口が過ぎました。これから咲夜のことは日傘とお呼び下さい」
日を追うごとに布団に包まって飛ぶ少女たちの姿は増えていった。
白玉楼の近くでたびたび見かける緑色の布団は、布団から出ずに刀を振るうという無駄な器用さを発揮して
いたし、神霊廟では小船に乗って元気よく横切る布団を見ることができた。小船に乗っているのは布都ではな
く布団である。小船に乗った布団の中にいるのは布都である。
布団の中にいるのは布都である。
布団の中にいるのは布都である。
ふとん の中にいるのは ふと である。
ふとん
の中にいるのは
ふと
である。
これは布団と布都をかけた非常にハイセンスなギャグで……
ともあれ、幻想郷の空では布団が飛び交い、布団が溢れ、時に布団どうしが弾幕を撒き散らしあう、そんな
光景が日常的なものとなり、誰も異論を挟む余地の無いこととなっていた。
―――新しい時代の到来である。
うららかな午後。
人間の里では寺小屋の授業を終えた慧音が、妹紅と連れ立って歩いていた。
「なあ、妹紅」
「ん?」
「最近みんな、空を飛ぶ時は布団に包まって飛ぶようになったよな」
「そうだね。空の上は寒いから布団があると楽だよね」
「まあ確かにそうだが。でもな、飛んでいるときはそれでいいけど、こう、歩いている時は不便だと思わない
か?」
問いかけられた妹紅は横を歩く慧音の姿を見つめる。慧音は暖かそうな布団を綺麗に畳んで背負っていた。
もちろん妹紅自身も畳んだ布団を背負っている。
「言われてみれば、ちょっと間抜けな姿かも」
「布団を背負ったまま歩いたり布団を背負ったまま買い物したり布団を背負ったまま授業したり、なにかと不
便を感じるのだが」
「えっ、何でそのまま授業してるの?」
「それで私は考えたんだ。空を飛ぶ時に布団から出なくてもいいのなら、歩いている時も布団から出なくても
いいんじゃないかと。どちらも同じことなのではないのかと!」
妹紅の問いかけは自然に無視され、慧音は己の閃きを力説している。その瞳は世紀の大発見をしたかのよう
に輝いていた。
「布団を背負って不便な暮らしを送るよりは、布団から出ないで快適な暮らしを送るほうが幸せで人間らしい
生き方なんじゃないかと!どう思う妹紅?」
「あ……えーと、慧音がそう思うんなら……いいんじゃないかな」
「妹紅ならそう言ってくれると思っていた。本当のところ自分の考えに自信が持てなかったのだが、これで踏
ん切りがついた。ありがとう」
笑顔でそう言って、慧音は背中の布団を解くとそれに包まり、もぞもぞと這うように歩きだした。
「さあ、妹紅も」
「え……う、うん」
嬉しそうな慧音の声に従い、妹紅も背負った布団を下ろしてもぞもぞした。布団の中は温かかった。
上白沢慧音は人格者として知られていた。いつでも里に住む人たちのことを考え、寺小屋で子供たちを熱心
に教育し、里に危険が迫れば真っ先に立ち向かう、人間の里の誰からも尊敬される人物であった。
そんな慧音が里で布団に包まりもぞもぞし始める、それが人間たちに与える影響は計り知れぬものがあった。
あの慧音がそうしてるならと、里の人たちは率先して布団から出ない生活を選び始めた。先に幻想郷を飛ぶ
少女たちが布団に包まって飛んでいることを、日常の風景として受け入れてしまっていたのも大きかった。
布団から出ない人々は日を追うごとに増えていき、いつのまにか、布団に包まらずに外を歩くのはなんとな
く恥ずかしいことであるかのような風潮が広まっていくこととなった。人間の里が、そして幻想郷がもぞもぞ
と動く布団の群れで覆われるのに、さして時間は掛からなかった。
さとりは餡ドーナッツが食べたかった。
切欠は些細なことだった。ある日地上に行ったお燐がお土産として、地底には無いお菓子、餡ドーナッツを
買って帰った。物珍し気に餡ドーナッツを頬張ったさとりは、瞬く間にその控えめな甘さと不思議な食感に心
を奪われてしまった。
以来さとりは、恋に焦がれる少女のごとくお燐に餡ドーナッツを求めるようになった。主人が喜んでくれる
のならと、お燐もその要求に応えていたのだが、身を焦がすような恋はやがて悲劇を招くこととなる。さとり
が虫歯を患ってしまったのだ。
幸いにして虫歯自体は軽度の物であり、歯科医に通院することにより既に完治してはいた。しかし珍しいお
菓子に心を奪われて前後不覚となり虫歯になってしまうという失態は、主人としての威厳を損なうことであっ
たとさとりは後悔している。確かに餡ドーナッツは美味しい。あんなに美味しいお菓子は他に思いつかない。
あの味が忘れられない。定期的に食べたい衝動に駆られる。仕舞いには夢にまで出てくる。
地上に出掛けるお燐に、餡ドーナッツを買ってきて欲しいと一言いえば済む話である。しかしさとりのプラ
イドが、それを言うことを許さない。しかし餡ドーナッツは食べたい。さとりは苦悩していた。
頭の中に上皿天秤を思い浮かべてみる。右側の上皿にさとりのプライドを置いてみる。天秤は大きく右側に
傾いた。次に左側の上皿に餡ドーナッツを置いてみる。大きく左側に傾いた上皿天秤はもんどりうって転倒し、
あげく爆発して粉々になってしまった。
「……なにも爆発することないじゃありませんか」
さとりは溜め息を吐き、姿見の前に立つとがんばって笑顔をつくってみた。
「ねーぇお燐、さとりぃ、甘くておいしい餡ドーナッツが食べたいなぁー」
精一杯甘えた口調でのお願いを言い終わるより早く、さとりは口角の引き攣った笑顔を写す姿見に向けて脊
髄反射で伝説の左を打ち込んでいた。
「き、きもい!」
ガシャンと鋭角的な断末魔を残して姿見はその生涯を終えた。
「さとり様、なにか今凄い音がしませんでしたか?」
扉を開けて餡ドーナッツが入ってきた。
「餡ドーナ……じゃなくてお燐ですか。どうかしましたか」
お燐が餡ドーナッツに見えた。幻覚が見えるとは末期症状に違いない。
「鏡が割れてるじゃないですか、大丈夫ですかさとり様!」
「ええ、きっと寿命だったのでしょうね」
「寿命、ですか?」
「そう寿命。鏡はその長い生涯を終える瞬間、自ら粉々に砕け散るのです」
「そうなんですか!知りませんでした」
「何年にも渡り姿見として尽くしてくれた鏡です。手厚く葬ってあげましょう」
さとりは姿見の亡骸を手早く塵取りに集めると、不燃物用のゴミ箱に手厚く葬った。
「さて、私はこれからしばらく出かけます。お燐には留守番をお願いします」
「はい、畏まりましたぁ!」
勢いから出た言葉だったが、そもそも最初からこうすべきだったのだ。餡ドーナッツを食べたいのならば何
もお燐に頼る必要は無い。自ら地上に行って好きなだけ餡ドーナッツを味わって、何食わぬ顔で帰ってくれば
いいのだ。なにも幻覚を見るほど我慢する必要なんてなかったんだ。
足早に玄関まで急ぐさとりは、廊下の隅でもぞもぞと動く黄色い布団を見かける。
「我ながら酷い幻覚ですね」
一刻も早く餡ドーナッツを食べなければ理性の限界を迎えてしまうのではないか?黄色い布団の脇を通り過
ぎながら、さとりは焦燥感を覚えた。
「これは……どういうことかしら!?」
かくして地上にやってきたさとりであったが、その変わり果てた珍妙な光景に彼女は言葉を失った。
里の往来では色とりどりな布団たちがもぞもぞと行き交い、店では布団たちがもぞもぞと集い、空を見上げ
れば様々な布団たちが飛びまわっている。いくら幻覚だとしてもこれは酷すぎる。そもそも餡ドーナッツを食
べたいという欲求を我慢するだけで幻覚を見るだなんてこと有り得るのだろうか?
幻覚にしろ幻覚でないにしろ、目の前の光景はさとりの理解の範疇を軽々と超えていた。
右も左ももぞもぞと動く布団に囲まれて、彼女は眩暈を起こしかけた。ふらふらと覚束ない足取りで、それ
でも何とか餡ドーナッツ専門店チェーン、ミスタ餡ドーナッツ人間の里店へと辿り着く。
「いらっしゃいませ!」
カウンターの向こうで店員らしき布団が篭った声をあげる。
「餡ドーナッツ四つと、あと抹茶のMサイズをください」
「はい、680円になります」
「それと、ひとつお尋ねしてもいいでしょうか」
「何でしょう」
「どうして皆さん布団になってしまったのですか?」
「ああ、寒いですからねぇ。みんな布団から出たくないんですよ」
寒いから布団から出たくない。なるほど、つまり布団がもぞもぞと動いているわけではなく、人間が布団を
被ったまま生活しているわけか。自分が幻覚を見ているわけじゃないと分かり、さとりは安心した。
抹茶とともに餡ドーナッツを飲み込む。程よい甘さが彼女の心を癒し、幾分気持ちにも余裕が出てきた。も
ぞもぞと動く布団たちを眺めながら彼女は思い出す。地霊殿でこれと同じように、もぞもぞと動く黄色い布団
を見かけたような気がする。あれは……ひょっとしたらこいしだったのだろうか?
細かいことはわからないながらも、さとりは一応納得した。そして餡ドーナッツも食べることができたので
満足していた。
地霊殿に帰ったさとりは、なにげなく布団に潜り込んでみた。温かくてぽかぽかで心地良かった。
優しい温もりに包まれてさとりは考える。もし布団から二度と出ることなく生きていくことができたとした
ら、それはどんなに幸せな生き方なのだろうと。
それ以来、地底の旧都では、もぞもぞと動く桃色の布団が見かけられるようになった。
温かい布団に包まり、そこから出ないで生活する。もう冬の寒さに身を縮ませることはない。幻想郷の人々
は幸せであった。
それまでも幻想郷は楽園であると言えたが、布団から出ない幻想郷はより楽園であった。以前より楽園の増
した楽園、楽園を超える楽園。布団の中の楽園を一度知ってしまえば今までの楽園を楽園と言うことはできな
くなってしまう。どうしても見劣りするし寒い。まるでアダムとイブの逸話にある禁断の果実であるかのよう
であった。
しかし幸せに包まれて真の楽園として完成したかに見えた幻想郷であったが、その楽園にも問題があるとい
うことが次第に明らかになっていく。
人間妖怪の違いを問わず、布団に横になった者は普通、柔らかい枕に頭を乗せて上を向くか横を向く体勢に
なる。下を向けば枕に埋もれて息苦しいのでごく自然な体勢をとれば、そうなる。
寝床で寝ているのならこの体勢に何ら問題は発生しない。だが布団に包まって外で生活するとなると事情が
異なってくる。つまりこの体勢は、前を見ることができないのである。
更に悪いことに、外で生活する時には皆、頭を布団の中に引っ込めてしまう。寒いから。
結果として人間の里では、周りがほとんど見えていない無数の布団がもぞもぞと行き交うこととなった。こ
うなると当然の結果として衝突事故が起こる。あちらこちらと、いたるところで衝突する。衝突しない日は無
いぐらい頻繁に衝突する。そのうち口論が起こり喧嘩に発展する。
ついでに待ち合わせも成立しなくなった。頭まで布団に潜って周りが見えていないのだから、待ち合わせを
しても相手を見つけることができない。お互いがそんな状態なのだから、むしろ待ち合わせが成立するほうが
おかしい。五時間待ったが相手が来なかった、二晩待ったが会えなかったなどといった話も珍しくなかった。
これらの問題は決して人間の里に限った話では無く、むしろ空を飛ぶ少女たちにとってこそ、深刻な問題で
あると言えた。
なにしろ往来を歩くのと空を飛ぶのとでは速度が違う。障害物の無い空を飛ぶのだから、彼女たちは誰に遠
慮することもなく最大限の速度で飛び交う。その上で周りが見えていないのである。もちろん衝突事故は起こ
る。起こるべくして起こる。最大限の速度同士が一切の躊躇も無く衝突する。ぶつかった布団たちは花が咲く
かのように空に散り、それに包まれた寝間着姿の少女は悲鳴をあげる間もなく地面に叩きつけられる。
まああいつらは頑丈なので、地面に叩きつけられたところで掠り傷程度で済んでしまうのだが。
かくして、理想的と思えた布団から出ないぬくぬくの生活も事故が増えるにしたがい、次第に問題視される
こととなった。人間の里では布団生活に異を唱える一部の人たちがアンチ布団運動を起こすこととなり、白熱
した反対運動は過激派勢力による布団狩りにまで発展していった。
事態を重く見た妖怪の賢者、八雲紫は、博麗の巫女を通じて幻想郷各地の代表者に働きかけ、話し合いの場
を設けることを提案する。一度みんなで集まって布団を付きあわせて話し合いましょうといった案配である。
「寒いのなら布団から出なくてもいいだなんて素敵じゃない。わざわざ話し合いをする必要なんて微塵もあり
ませんわ」
「紫さま紫さま、そこは『憂慮すべき問題ね。話し合って解決するべきです』じゃないのですか」
「問題が無いのですから話し合いの必要もありません」
「怪我人とか大量に出てますよ」
「幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」
「はぁ……」
「怪我をされた方にはお気の毒ですが、私が布団の中で温かく過ごせるのならば他人の怪我程度の犠牲は問題
にすらならないんじゃないかしら」
「紫さまは自分さえよければそれでいいのですか?」
「藍、あなたは少し五月蝿いです。口の中に油揚げ突っ込んで縫い付けますよ」
「油揚げだけで結構です」
「とにかく話し合いはしません。何故なら布団から出たくないからです」
「紫さま紫さま、でも話し合いをすればきっとお酒が呑めますよ」
「お酒が呑めますか」
「呑めます」
「……藍、今すぐ話し合いの準備を」
かくして博麗神社に、幻想郷の重鎮たる布団たちが一堂に集まることとなった。
「布団を被って飛ぶことによる前方不注意、確かに危ないわね」
「でもこれからどんどん寒くなってくるわけだし、今さら布団無しの生活には戻れないわ」
「布団から出るなんてまっぴら御免ですわ」
「飛ぶ時はともかくとして、歩く時に布団を被るのは問題じゃないか?」
「いやしかし、被らないと背負わなければならない。布団を背負いながら寺小屋の授業をするのはかなり不便
を感じるんだが」
「だからなんでそのまま授業してるの?」
「早苗、柿ピー取って」
「ピーナッツだけ食べてちゃ駄目ですよ諏訪子様。ちゃんとバランスよく食べないと」
深刻な問題に各人意見を出し合い真剣な話し合いが行なわれたが、話し合いは一向にまとまらず空になった
酒瓶だけがその数を増していった。みんな布団を被ったままなので誰が誰なのかわからないといった点も、話
し合いを混乱させる要因となっていた。
このまま何の進展も無いまま酒だけ呑んで解散かと思われた矢先、布団を被らず隅の方でじっと意見に耳を
傾けていた痩せぎすの男が、静かに手を挙げた。
「シューティングゲームの主人公が布団というのは良くないですね、プレイヤーのモチベーションが下がりま
す。やはり東方Projectである以上、主人公も敵も女の子じゃないと駄目ですね」
男の発言は重みがあり、そして酒臭かった。
「コミケに行って東方の新作を手に入れて、そのパッケージを見たときに布団のシルエットが描かれていたら
萎えますよね?」
説得力のある意見であった。その場に居た一同は何も言い返すことができない。というよりも、誰しもが本
能的に、この人にだけは何があっても絶対に逆らってはいけないと感じていた。あの八雲紫でさえこの男の前
では子供も同然であった。
「そういうわけで布団はナシということで、いいですね」
「はーい」
布団を被ったままの生活を禁ずるという決議は射命丸文により文々。新聞号外として即日配布され、幻想郷
中に広まった。
「号外ー、号外ー! うぅっ、それにしても寒いですねぇ……」
久しぶりに体ひとつで幻想郷の空を飛びまわった射命丸は、風邪を拗らせて翌日から寝込んでしまい生死の
境を彷徨ったり彼岸花の咲く川辺で巨乳の渡し守と出くわしたりそれを飛び蹴りで倒したりもしたが、それは
また別のお話。
―――こうしてひとつの時代が終わりを告げた。
「はぁー、冬はやっぱりこれよね」
霊夢は炬燵に潜り込んで幸せな笑顔を浮かべていた。
「炬燵と蜜柑があれば、もう他になにも要らないわ。幸せすぎてどうにかなっちゃいそう。もう絶対にここか
ら出たくないわ」
しかし霊夢のささやかな願いは叶わない。折りたたんだ座布団を枕に寝転ぶ彼女は「なにか」を感じる。博
麗霊夢という人間の生来持つ、人ならざる能力。いわゆる勘というやつであった。幻想郷のどこかで、なにか
の異変が起きている。おそらく妖怪絡みのなにかが。
「あぁ、もう!」
彼女は迷わなかった。溜め息をひとつ吐くと、えいっと気合を入れて空に浮かぶ。……炬燵に潜り込んだま
まで。
その日以来、幻想郷の各地で空を飛ぶ炬燵が目撃されることとなった。
―――新たな時代の幕開けである。
終
それにしてもこの作品、良いセンスしてるなぁ。
そら田山花袋も少女病を発症するわ。
「えっ、ちょ!?」
吹いたわww
>「ねーぇお燐、さとりぃ、甘くておいしい餡ドーナッツが食べたいなぁー」
か、かわいい!
強引な話の進め方が好きだ
もこたんは能力使…イヤナンデモナイデス、ハイ
布団にくるまりながら携帯を使って読んだので、
ずっと布団に入っていたい気持ちは痛いほど伝わりました
それと>>36氏のおかげでこの話を最高に楽しむ方法が分かった!
なにそれかっこいい
俺もちょっと布団被って幻想郷行って来る
ありませんよね…?否、酒を飲んでいるせいで既に体は温まっているのか…
ZUNさんがデウスエクスマキナになってしまったのは
笑えるけど惜しいと思った。
でも「はーい」がかわいいから何の問題もなかった。
・・・?
【審議中】( ´・ω)(´・ω・)(`・ω・´)(・ω・`)(ω・` )
どうせなら歩く寝袋でだな・・・