帰って、電気もつけず買い物袋を廊下に放り出すと、メリーはすぐに服を脱いで、そのままベッドにもぐりこんだ。疲れがまるで水のようにベッドに染み渡っていく。ずいぶんと長い間、自分の体から疲れが流れ出ていくのを感じていた。体は眠ってしまい指一本動かないはずなのに、意識ははっきりしていた。暗い海に、ぽつんとひとり、取り残された気分だ。
夜が更けて、更けて、そのままどこまでも更け続ける気がして、メリーは怖くなった。
ほんとうに朝はやってくるのだろうか?
頭では、そんな馬鹿げたことは起こらないとわかっている。更けた夜は、やがて明ける。何もしなくても、勝手に朝が来る。ただ待っていればいい。
それなのに、メリーは落ち着かなかった。このままにしておけば、永遠に朝はやってこないのではないか。夜が深まるばかりで。一日は循環せず、ただまっすぐに深淵に向かっていく。そうならないために、何かしなければならない。その何かがわからない。今、この瞬間にも、自分がすべきことをしていなかったり、すべきでないことをしていたり、取り返しのつかない間違いを犯しているのではないかと、気が気でなかった。
「蓮子……」
不安が喉元までせり上がってきて、メリーはたまらず、一番信頼できる名を呼んだ。
返事はない。蓮子がいない。今の不安が、そもそも宇佐見蓮子がこの場にいないことから来ていることを、マエリベリー・ハーンは理解する。
蓮子が、私の傍に、いない。
「そう、これはそういうゲームなんだ」
成長期前の少年のような声が聞こえた。メリーは辺りを見回す。サイドテーブル、カーテン、机、玄関へ続く廊下、バスルームへのドア。どこにも姿はない。
「君は、宇佐見蓮子を取り戻さないといけない。ほんとうに彼女が必要であるならばね。でないと彼女は、永遠に君のもとへは戻らない」
「あんた、何」
メリーは目を凝らした。部屋のどこにも裂け目は見つからない。
「無駄、無駄。なぜならこの空間そのものが、僕のものだから。君はとっくに敷居を跨いでいるんだよ。マエリベリー・ハーン」
「蓮子をどこへやったの。ていうかあんた誰」
「宇佐見蓮子が君を必要としなくなっても、君は宇佐見蓮子を必要とするのかな」
「何を言っているのよ、さっきから」
「その答えは君が自分で出すんだね。自分がほんとうに欲しいものがなんなのか、とくと考えるといい。でないと、蓮子を取り戻せないどころか、この夢そのものから一生抜け出せなくなるよ」
「夢? これは夢なの」
「そういう理解でいい。さしづめ僕は夢魔といったところかな。そう理解してもらうのが手っ取り早い」
「夢なら醒めればいいじゃないの。おやすみ」
メリーはシーツを頭からかぶった。少年のような声が笑う。メリーは意地になってそのままの姿勢を保っていた。だが、五分もすれば、認めざるを得ない。寝てもどうにもならないことを。そもそも、まったく眠くならないことを。
「眠りたかったら寝てもいいよ。ただし、それはこの夢と途切れることを意味しない。それさえわかってもらえれば、どんどん寝たまえ。睡眠不足では、僕との勝負にも集中できないだろうからね」
「あんた、誰なのよ」
声は応えない。部屋に沈黙が降りる。すると、さっきまでいくらがんばってもこなかった眠気が、急速にメリーを襲った。耐えきれず、横になる。今、蓮子は何をしているのだろうと少し考えたが、すぐに眠りに落ちた。
インターホンの呼び出し音で目が覚めた。一度鳴ってもすぐには起き上がれず、メリーは布団の中でぐずついていた。掛布団から顔を出して、水色のカーテン越しに見える外の光が、ずいぶん明るくなっているのを確認する。もう、朝とは呼びにくい時間帯のようだ。
再び、チャイムが鳴る。ピーンポーン、と単調な電子音が部屋に響き渡る。
「こーんにーちわーっ」
小さな子供の声がした。メリーは耳を疑った。こんな幼い子供の知り合いなどいない。親戚にも、友人にも、いない。にもかかわらず、明らかに、自分の部屋の前から声は聞こえている。
チャイムはそれ以上は鳴らなかった。頭の弱いどこかの子供が、ひたすらチャイムを押しまくるという事態を恐れていたメリーは、ひとまず安心した。うつ伏せの状態から膝を曲げ、土下座の格好から、両手をついて上半身を起こした。髪はぼさぼさ、上はタンクトップの肌着、下はパンツ一枚だ。タンクトップの襟をつまんで肌着の内側の匂いを嗅ぐと、こもった生温かい体臭が漂ってきた。
この状態で出たものか、迷う。
ひとまずインターホンの前に立ち、外の画像を見た。小さなディスプレイの中には、見知らぬ少女が映っていた。耳を剥き出しにした黒髪のショートカットだ。ほとんど黒に近い、濃い緑色のドレスワンピースを着ている。ぱっちり開いた目と、丸っこい鼻が愛らしかった。まだ十歳にも満たないだろう。
「どなた」
メリーはインターホンに向けて応答した。女の子は扉正面に目を向けた。カメラは扉上部にあるので、目線は合わない。
「私、宇佐見蘭子と、もうします」
幼く、たどたどしい口調だが、滑舌が良く、耳にして心地の良い声だった。
「マエリベリー・ハーンさんの、おたくですか」
「ええ、そうですよ」
「母に急用が入ったので、先に、私だけごあいさつに来ました」
わけがわからない。
「ちょっと、待ってね」
インターホンを切り、スカートをはいて上に軽く羽織って、ドアに向かう。チェーンを外し、ノブのロックを外す。薄緑色のドアを押しやると、灰色の空と街並みを背負った少女が立って、こちらを見上げていた。背丈はメリーの頭ふたつ分は小さい。その小さな少女が、ぴょこんと頭を下げた。ベリーショートに近い。耳だけでなく、襟足も剥き出しだ。腕も肘から先は、すべすべと柔らかそうな腕があらわになっている。だが、あまりになめらかすぎる肌は、かえって色気が感じられない。年齢が年齢だから、当たり前のことだ。それでも、はじめにメリーがこの少女をそういう目で見てしまったのは、彼女がさっき口走った言葉のせいだった。
「こんにちはッ」
「あ、その……こんにちは」
「メールはしているから、そっちを確認してもらうようにって、お母さんは言っていました」
「そ、そう、蓮子がね」
「はいっ」
「わかったわ。メールは見るから、とりあえずあがっててね。ええと……蘭子ちゃん」
「はい、ありがとうございます」
少女はもう一度お辞儀をして、靴脱ぎ場に踏み込んだ。靴を脱ぎ、きちんとそろえる。動きが素早い。ともすればせかせかしているようにも見える。小さな子供はこんなに動きが機敏だったのかと、メリーは驚かされた。
「お茶でも入れるから、その辺に座っていて」
そう言ってから、ろくな敷物が部屋になかったことに思い至る。クローゼットの中から、最後にいつ使ったかもわからないような、皺だらけのクッションを引っ張り出して、蘭子に差し出した。
「え……」
そのとき、メリーは違和感に囚われた。違和感の中身に気づいたとき、背筋が寒くなった。
「ありがとうございます、メリーさん」
蘭子は明るく笑って、くたくたのクッションを受け取り、尻に敷いた。メリーは言葉をなくしていた。今のクッションに、見覚えがあった。まだ買い物袋の中に入っているはずだ。なぜ、クローゼットの一番下に埋もれていたのだろう。
昨夜は、蓮子から夕食の約束をすっぽかされた。やり場のない気持ちを持て余して、閉店間際のショッピングモールに行って、たまたま目についた黒と茶のチェック柄のクッションを買った。すっぽかした、というのはあまりに一方的な言い方だろう。研究発表に向けての準備が、蓮子は予定より遅れていた。それを取り戻すために、ラボに泊まり込みにならざるをえなかった。メリーはその事情をよく承知している。こういうことは初めてではない。蓮子が院に行く前、学部生の頃からもちょくちょくあった。そういうときメリーはいつも、仕方がないと受け流していた。まったく平気だったわけではないが、次に楽しみが伸びたとプラスに捉えることにしていた。
昨夜は、それができなかった。寂れた住宅街や、眠り込んだ工場地帯を延々と歩きまくって、本来ならモールから歩いて十分の駅にたどりつくまで、二時間かけた。ぶっ通しで歩いて疲れ切った足を休ませたくて、電車に乗り込むとすぐに脇の席に座った。電車の座席特有の温かみが尻から背骨、頭へと昇っていき、たちまちメリーは睡魔に襲われた。ちょうどよかった。これから自分のアパートに帰るまでが嫌だった。ほんとうなら今頃、寮からやってきた蓮子と一緒に、買ったばかりの酒瓶とコンビニのつまみを袋に下げて、言葉を交わしながら、家路をたどる楽しみに耽っているはずだった。部屋に戻れば、自分以外の声が聞こえ、自分以外の体温が感じられるはずだった。それが、帰ったらひとりだ。そのことを少しでも忘れられるなら、睡魔は歓迎だった。
どうせ、駅についたら勝手に目が醒めるのだから。
目が醒めると、ディスプレイの前にいた。ようやくメリーは、自分が電車の中ではなく、宇佐見蘭子を招き入れた部屋にいることに気づいた。回想と夢が、入り混じってしまった。ディスプレイの画面は暗いが、電源は落ちていない。マウスを左右に動かし、スリープモードを解除した。すると、メールの文面が現れた。どうやらうとうとしながらも、メールまでは開いていたようだ。振り向くと、クッションに正座した蘭子が、持参したらしき本を読んでいた。ナンプレだ。ひとりでいても退屈しないという美点は、しっかりと母親から受け継いだらしい。
母親。
自分で考えたくせに、メリーはそのせいで胃の辺りに針で刺されたような痛みを感じる。
嘘かもしれない。
その可能性に、すがりつきたくなる。自分の知らないところで蓮子が子供を作っていたという事実は、真正面から向き合うにはあまりに重すぎた。この少女が「宇佐見蘭子」だというのは真っ赤な嘘で単なる虚言症患者だとか、そこまでひどくなくとも蓮子の姪だとか、実はドッキリだとか、そういう益体もない可能性を、いまだに頭の中で追いかけ続けていた。合理的であろうとなかろうと、考えるのをやめられなかった。
『ごめん、せっかく今日会おうってそっちから言ってくれたのに、急用が入ってしまいました。用事自体はたいしてかからないから、それまで娘の相手をしていてください。そう、私にも娘がいるのだよー、名前は蘭子。私たちも、そういう歳になったものね。順当に用事が済めば今日の昼の三時までには体が空くから、キーサンで待ち合わせしよう。蘭子にはメリーさんについていきなさいって言ってるから案内よろしく。十年ぶりの秘封倶楽部の会合、楽しみにしています』
繰り返し、文面を見直す。
頭の中に、泡のように疑問が湧き上がっては弾けていった。
十年ぶりというのはどういうことだ。ほんとうにあの子は蓮子の娘なのか。じゃあ蓮子に男が。自分というものがありながら。そもそも蓮子と自分が十年も会わなくなるなんて、そんなことがあるだろうか?
「送信箱」の項目にカーソルを持っていくが、クリックできなかった。そこを押せば、自分がこれまでどういうメールを蓮子に送ったかがわかる。少しは現状把握に役立つはずだ。しかしメリーは、押せない。自分が送った覚えのないものがその中に入っているかと思うと、恐ろしかった。そして蓮子は、そのメールを、メリーのものからだと思い込んでいるのだ。メリー自身は送った覚えがないのに。
ディスプレイに表示された時刻を見ると二時を少し回っていた。「キーサン」は急げば歩いて十五分でつく。ゆっくり出て早めにつくとしても、あと三十分くらいはここで暇つぶしをしておきたい。そうやって、宙に目を泳がせながら時間の計算をしていると、不意に、メリーの視線がディスプレイに引き戻された。
時刻のすぐ下に、今日の日付が示されている。確かに、十年経っていた。
キーサンは、ログハウス風の喫茶店だ。一見、整ったお洒落な内装のようでいて、ところどころ安っぽい作りが見えているのがかえって親しみを誘う。単価の安さもあって、それなりに繁盛している店だった。忙しい時間を外せば、ゆっくり座ることもできる。
昔はよくここで蓮子と待ち合わせをした。
昔、といっても夢魔の「設定」に従えば、の話だ。メリーにとっては、昨日のことのようだ。毎日のようにここで顔を合わせていた時期すらある。もっとも、よくよく思い出してみれば、十年前の「最近」も、あまり会えていなかった。最後にここで蓮子と待ち合わせをしたのがいつだったか、メリーは思い出してみた。思い出して、それがかなり以前にさかのぼらなければならないことに、今さらながらショックを受けた。一ヶ月や二ヶ月の話ではない。いつのまにか、ずいぶんとこの店とは疎遠になっていた。
ドアを開けると連動して、重く、落ち着いた鈴の音が鳴った。がらんがらん、と音を背負いながら、木の素材を前面に押し出した店内に入る。机も家具も、合成ではあるけれど、素人には本物の木にしか見えない。
蓮子がいた。
店内を見渡すでもなく、一瞬でわかった。こちらからは、横顔が見える。角砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜていた。十年経ったって、何も変わらないじゃないか。
「蓮子」
胃に溜まっていた不安を吐き出すような思いで、メリーは名を呼んだ。蓮子は顔を上げ、メリーを見た。
目元の皺が少し増えて、頬の肉がわずかに落ちていた。
前より、色っぽくなっていた。
「綺麗に、なったわね」
「やめてよ、もう。あんた、お世辞言うようなキャラじゃなかったでしょう」
その分、傲岸さや、突き抜けるような知性が和らいでいた。眉の角度は平坦になり、額はのっぺりとしていた。
「相変わらず、帽子かぶってるのね」
メリーは、ソファーに置かれた鍔つきの黒帽子に視線をやった。
「特に理由がなければ、変えないわ」
服装も、さほど変わっていなかった。中華風の刺繍が入った綿のシャツに、赤のネクタイ、スカートは黒だ。細部のアクセサリーや色の組み合わせが違うくらいだ。学生時代は、他に、ケープを羽織ったり、もっとボーイッシュなシャツを選んだりもしていたが、基本的な路線は同じだった。
「なにか頼むといいわ。メニュー、それ」
「じゃ、カプチーノ」
メリーは蓮子と向かい合って座り、やってきた店員に注文を告げた。
「あと、何か食べ物あるかしら」
指し示されたメニューを開いた。匂いからすると、蓮子が頼んだのはエスプレッソのようだ。豊潤な泡をスプーンでかき混ぜている。そこで、はたと気づく。
「遅れないのね……蓮子」
「いつの話をしてんのよ。毎回遅れてごらんなさい、すぐクビよ。社会生活できるわけないでしょう。そりゃ、プライベートで遊ぶときは今でも遅れるけどね」
胃に、形のないもやもやとしたものが再び溜まっていく。店員が置いていった氷水をひと口飲んだ。それから、意を決して口を開く。
「久しぶり、になるのかしらね、蓮子」
「そうね、お久しぶり、メリー」
「正直、何から話していいかわからないわ。話したいことが多すぎて。多すぎて、むしろどうでもいいって思ってしまいそう」
「驚いたでしょう、ごめんね。子供がいるなんて言ってなかったから」
エスプレッソの泡をスプーンですくい、口に含んで、蓮子は微笑んだ。
「そう、ね。知らなかったわ。びっくりした」
メリーは、自分がどんな表情をしているのか不安だった。目が、メニューの上を泳いでいる。
「でも、予想はついていたでしょう。あれから十年会ってなかったんだから。って、蘭子はどこ行ったの」
「お母さんとふたりで楽しんできてね、って言って、近くのゲーム屋に入っていったわ」
「まったく、フリーダムなやつめ……ま、そっちのが良かったかな。あ、カプチーノ来たわよ、あんたが頼んでいた分」
「あ、はい」
わけがわからない。
さっきから、頭の中でその言葉ばかりが反響している。喫茶店の内装に目を走らせる。確かに、壁紙や照明、メニューのデザインなどに、わずかに違和感を覚える。それが十年という歳月かもしれない。だが、十年も二十年も変わらない光景はざらにあるし、今メリーが感じている妙な空気も、ただこの店の個性というだけかもしれない。
「どうやってここまで来たの」
メリーが思い切って尋ねると、蓮子は飛行機やバスの話を始めた。
違う、違う。そうじゃない。交通手段とかを聞いているのではない。もっと根本的な問題……この世界が、どこから来たか、ということを、メリーは聞きたいのに。
「どうしたのメリー」
蓮子は手をテーブルについて、腰を浮かせて、前に乗り出した。メリーの目を正面から見つめる。
「気分でも、悪い?」
目を見て、メリーは確信する。今、目の前でこちらの健康を心配してくれている女は、まぎれもなく宇佐見蓮子だ。その宇佐見蓮子が、子供の話をしたり、会うのが十年ぶりだなどとわけのわからないことを言ったりしている。
いや、きっとわけのわからないことになっているのは、自分自身なのだ。この世界から、マエリベリー・ハーンだけが弾かれている。
「ううん、大丈夫よ。ちょっと、ほら、今日は曇りだから」
「そう……まぁ、お互い曇りの日は苦手だったもんねぇ」
「蓮子、正直に言うとね、私、まだあなたとどんな風に接していいかわからないの」
蓮子は、机から手を離し、力なくソファーに座り込んだ。
「そう……」
「それに、どうして十年間も会えなかったのかしら」
「それは」
蓮子は言いかけ、口を閉じた。何か事情があったのだ。メリーの知らない事情が。メリーは、決めかねていることがあった。素直に、十年間時間を飛ばされた迷子として蓮子に助言を求めるか、それとも、十年過ごしたような顔をして、周囲の世界に合わせるか。
「勘違いしないでね、あなたと会いたくないわけじゃないの。会いたかった。会いたい。けど、気持ちの整理がつかない」
「メリー、ねえ」
「蓮子、聞いて。私、この十年間、何をしたか覚えていないの。気づいたらもうこんなになってた」
「メリー、言わないで、そんな風に」
蓮子が、メリーの告白を、言葉通りに受け取っていないのは明らかだった。何かの比喩と思っている。しかも、それに思い当たる節があるような、比喩として。
「結婚おめでとう、蓮子。そうかぁ、結婚していたのね……私は、そのあいだ、何をしていたのかしら」
「メリー。大丈夫よ、これからは、会いましょう。週に一回、いや、もっと会ったっていいわ。私、こっちの方でも仕事できる環境になったから。それで、昔みたいに」
「蓮子、ごめん、蓮子。会いたかったし、会いたいわ。でも、今日は勘弁して。私、頭が混乱して……お願い、また会ってくれる?」
メリーは机の上に手を置いた。蓮子が手を伸ばせば、握れる距離だった。
「ええ、会いましょう。遊びに行くときは声をかけるし、メリーからも連絡して。これ、今の携帯端末のアドレス」
蓮子は、卓上の紙ナプキンにアドレスを書き、メリーに差し出した。メリーの手には、触れようとしなかった。
「ありがとう、蓮子。連絡するわ」
「それじゃメリー、悪いけど今日はここで。来週はもっとゆっくり時間が取れるから、またお茶しようよ」
蓮子は伝票に素早く手を伸ばし、レジに向かっていった。メリーは後からのんびりとついていった。店先で別れて、アパートに戻った。部屋に戻った途端、足が震えて、立っていられなくなった。鼻まわりの筋肉がひきつり、眉間に深い皺が刻まれた。頭を両腕で抱え込んだ。
何か、致命的な出来事が起きている。
「十年……なにそれ」
蓮子の顔は、確かに変わっていた。熟れた色気も、丸くなった部分も、今までの蓮子にはないものだった。子供がいる女、という目で見たからかもしれない。
二十を過ぎれば人間の顔なんてそうそう変わるものではない。蓮子が仕組んだ芝居という可能性は捨てきれない。
メリーが自分の顔を鏡で見れば、はっきりする。
だが、そんなことをしなくても、メリーにはなんとなく確信があった。多分これは、ほんとうだ。ほんとうに、十年が経ってしまった。
そして、腫れ物に触るような、蓮子の自分に対する態度は、なんなのだろう。結婚したことがそんなに後ろめたかったのだろうか。
なら、しなければ良かったのに。子供なんて、産まなければよかったのに。
全身から力が抜けきっていた。そのままベッドにもぐりこんだ。とりあえずこの悪夢から醒めてしまいたかった。
部屋のカーペットの上を誰かが歩いている。普通なら、不法侵入者と思い、体が恐怖と緊張で強張るところだが、メリーはそうならなかった。理解していたからだ。今、ベッドの脇に立っている存在が、犯罪者でもなければ、おそらくは人間でもないことを。
「ゲームのルールは、理解できたかな」
少年から、第二次性徴を迎えようという時期の声だった。少し低くなり始めてはいるものの、声の表情に幼さがまだ色濃く残っている。
「いいえ全然。だいたい、ゲームって何よ」
メリーは毛布を胸まで下ろし、仰向けのまま、夢魔と視線を合わせた。
「だから、僕との、夢魔とのゲームだよ。君は、君の意識よりも十年歳をとっている。それはもう納得してくれたかな。世界は十年歳をとり、宇佐見蓮子は子供を産んだ」
「はいはい、そういう設定ね。あんたが勝手に作った世界でしょう」
「ずいぶんあっさりしているね。もっと動揺するかと思ったら」
「あんたが自分で夢魔って言ったじゃないの。要するにこれは夢オチってことでしょ。どんなにひどくても、それが夢だってわかっているなら何も怖くないわ。どうせいつかは醒めるんだから。多少寝覚めが悪くて、その日一日気分が悪かったり、なにかとむしゃくしゃしたりはするかもしれないけど」
「醒めなかったら、どうする」
夢魔は、頬を引きつらせるようにして笑った……ように見えた。メリーには、夢魔の声ははっきり聞こえるし、傍で話しかけられているのもわかっている。人型をしていることもわかっている。だが、顔の細部がわからない。そこだけはまるきり夢のようで、きちんと見たと思っても次の瞬間には忘れている。だから、夢魔が笑ったように見えても、すぐにその印象は水面下に沈んでしまい、二度と出てこない。
「決して明けない夜のように、夢がいつまでも醒めなかったら、どうする。それは確かに君の言う通りただの夢かもしれないけど、そこにいる者にとってはまぎれもない現実だよねぇ。メリー、君にとっての現実は、親子連れ三人の形をとってやってくるよ。宇佐見蓮子と、その夫と、その娘の三人が連れ立って歩いているところを見たとき、君の言う悪夢は、現実になる。今まだ君は、ありとあらゆる可能性を立てて、蓮子と蘭子、蓮子と夫の関係をなかったものとして処理しようとしている。何かの間違いだ、とね。けれど、親子三人を同時に見たとき、そんな小細工は何の意味も持たなくなるだろう。まぎれもなく彼女たちが親子であると、わかってしまうだろう。そうして君は夢に屈し、夢は現実となる」
メリーはベッドから上体を起こした。眉間に皺を寄せ、顎を突きだすようにして夢魔を見上げる。
「で、そういうことをわざわざ教えてくれるのはどうして。私を絶望させたいの」
「とんでもないよ。メリー、君は僕の目的を誤解している。僕は何も、君を苦しめたり、悲しませたりしたいわけじゃない。むしろ希望を与えて、これからの人生に情熱とやる気をもって立ち向かってほしいと願っているのさ」
「なによその学校の先生みたいなおもしろみのない教訓じみた言い草は」
「僕の言葉が届いていないようで残念だよ。えてしてひとの本心というものは、平凡な言葉の中に見出せるというのに」
「こんな悪夢の中で希望を与えられるものなら、そうして見なさいよ」
「ここを抜ける条件を教えよう」
「気前がいいのね」
「嘘じゃない。リスクがあって、初めて勝利の悦びが生まれる。それがゲームというものだから」
メリーはもう、茶々を入れようとはしなかった。メリーなりの理屈と感情で、この夢魔が嘘を言っていないと判断した。夢魔の言葉を聞き洩らさないよう、じっと顔を見つめる。見ているのに見えていない、その曖昧な顔を。
「僕を、思い出して」
メリーは夢魔から視線をそらし、ため息をついた。
「それだけ?」
「そうさ」
「そんなのわかりっこないわ」
夢魔は応えない。
「それともなに、私が今まで会った人間の中に夢魔がいるっていうの? じゃあ、知っている人間を全員言えばいいのかしら、そうすれば誰かわかるわよね」
やはり夢魔は応えない。さっきまで楽しげだった顔からは、今ではすっかり表情と言えるものが消えていた。
「そういう単純なゲームでもなさそうね……いいわ、思い出すわよ、それがお望みとあればね。私はもう『醒める』わ。じゃあね」
「うん、『おはよう』、メリー」
まるで大切な恋人に囁きかけるような、甘ったるい声だった。メリーは腹の底から苛立ちを感じた。だが、もうこれ以上余計な口を利きたくはなかった。枕に顔を突っ込んで、枕で耳を塞いだ。
*
ベッドから上体を起こして時計を見ると、夜中の三時を十分ほど回っていた。体全体がだるく、重苦しい。疲労が、体の隅々にまでぎっしりと詰まっている。なぜこんなに疲れているのかわからない。そして、眠い。頭の中が、蓮子の顔や手、スカートの裾で埋め尽くされていた。他に考えるべきことなど何もないように思えた。からからの口内を、乾いた舌で舐めまわす。蓮子の唾が飲みたい。ピンク色の尖った乳首を舌先でこねまわしたい。まだ回らない頭でベッドから出て、廊下に放り出していた紙の買い物袋を開けた。中には、ビニールで包まれたクッションがあった。今夜……いや、もう昨夜か。昨夜、やけになって買ったクッションだ。てきとうに食べられそうなものを腹に入れようと、冷蔵庫の方へ行こうと思うが、体がついていかない。ベッドから一歩も外に出ない。睡魔は耐えがたい。そのまま、シーツを頭までかぶった。
*
ベッドから上体を起こして時計を見ると、十一時だった。どうやら午前の、らしい。カーテンが、仄明るい。冷たい光だ。喫茶店から家に帰りついたときはまだ夕方だったはずだが、あれから十二時間以上眠っていたらしい。体全体がだるく、重苦しい。疲労が、体の隅々にまでぎっしりと詰まっている。なぜこんなに疲れているのかわからない。そして、眠い。頭の中が、蓮子の顔や手、スカートの裾で埋め尽くされていた。他に考えるべきことなど何もないように思えた。からからの口内を、乾いた舌で舐めまわす。蓮子の唾が飲みたい。ピンク色の尖った乳首を舌先でこねまわしたい。まだ回らない頭とは関係なく、胃の辺りがきゅうっと締めつけられる。
頭でなく、体でわかった。
この夢に、出口はない。寝ても覚めても、まるきり同じ感覚に支配されている。
「うそ……なに、今の」
呆然として、呟く。
「やあ、『おやすみ』。ようこそ夢の世界へ」
夢魔が、壁際に背をもたれかけていた。さっきと違い、成人男性の声だ。
「現実世界はどうだった? さぞかし夢と違って、リアルな生活実感があったんだろう」
メリーが体験したことを一から十まで知っているかのような口ぶりだった。
現実の方が、まるで夢のようだった。何かを見たり、開けて手に取ったりと、おぼろげに憶えてはいるが、具体的な情報はほとんど忘れてしまっていた。
今、これは夢だと夢魔は言う。メリーだって、こんなものが現実だとは思いたくない。にもかかわらず、今の夢の方が、メリーにとっては明らかにリアリティがあった。
「あんた……」
「君がこのゲームに専念できるように、もう少し解説を付け加えておこうか。君は相変わらず大学に籍を置いている。資料収集に利用していたのが縁で、カルチャーセンターで日本古典の講義を持つことになった。アルバイトだけど、実入りはそれなりにある。ガイジンさんが、記紀だの源氏、近松、秋成、さらには宣長や折口まで、色々なメジャーどころの古典文学作品をわかりやすく丁寧に語ってくれるという評判で、結構な人気を得ている。わりと美人で若いってのも重要なポイントだ。君は自分で思っているよりは、人前で話すことが得意だったってことだね。それと研究生の奨学金で、喰うに困ることもなく、十年前と同じアパートに住んでいるというわけだ。状況説明はこのぐらいでいいかな」
「蓮子は?」
自分のことはどうでもよかった。こうして住まいを追われていない以上、どうかして生活を続けていけているということだ。今のメリーにとって何よりも知りたいのは、蓮子の状況だった。
「宇佐見蓮子のことを、知りたいのかい? ほんとうに」
夢魔は唇をいびつに歪めた。笑っているのだ、とメリーは数秒遅れて気づいた。
「それは、君の敗北条件に抵触しやしないか? 僕が宇佐見蓮子の今の生活を説明したとして、君はそれを納得するだろうか。結婚し、家庭を持ち、知への探求心を失った宇佐見蓮子を、君は現実として受け入れるのかい」
「そうだったわ。あなたが真実を告げるとは限らないものね。今の私に関する説明は、とりあえず破綻がないから一応受け入れておくわ」
「それがいいよ、余計なことは考えないで、ゲームに専念しよう」
夢魔はカーテンを開いた。オレンジ色の光が射し込んで、夢魔の姿をかき消した。今まで暗かったところに突然夕日を迎え入れ、メリーは手を顔にかざした。もう、夕方だ。夢魔と話している間にまた眠っていたようだ。なんとなく気になって、かざした手で自分の顔を撫でた。かさかさに干からびている。そろそろ鏡を見るべきだろうか。
まだ混乱している頭のまま、枕元に手を伸ばし、端末を手に取った。蓮子からメールが来ていた。
『今週の土曜、十九時にM市の総合文化センターに行きませんか? うちの蘭子の発表会があるの』
蓮子はくすんだ白色の、つばの広い帽子をかぶっていた。
「なに、その帽子」
「ああこれ。女優帽ってやつよ。なんとなくゴージャスに見えるでしょう」
「それが、お母さんのおめかし用?」
ケープも、透かしレースの入ったブラウスも、スカートも、白系でまとめられていた。ネクタイやカッターシャツ、ブーツなど、かつて蓮子が好んでいたものは、そこにはなかった。先日、喫茶店で見た蓮子とは、まるで違っていた。
一方メリーは、紫色のブラウスとスカートの上下だった。彼女自身、もっともなじんでいる服装だ。タートルネックとジーンズで出かけようとも思った。そういう活動的な服が、クローゼットには多くあったからだ。十年前より遥かに多かった。どうやらそれでカルチャーセンターに行っているようだ。十年前のメリーのクローゼットには、かわいらしい、お伽噺に出てくるような服も、けっこうあった。そういう服を、着るのも見るのも、メリーは好きだった。特に、そういう服を着て蓮子に見られるのが、最高に楽しかった。興奮もした。
だから、たとえこの世界が十年後であろうと、蓮子の前では、メリー自身が知っているメリーでありたかった。自分の知らない十年に、飲み込まれたくはなかった。
それなのに、蓮子はまるで違う服装だった。
「とても綺麗よ。似合っているわ」
「よしてよ」
蓮子は苦笑して手をひらひらと振ったが、メリーは本心からそう言ったのだ。今の蓮子に、とてもよく似合っている。
本心から言っているのに、全然すっきりしない。
市立総合文化センターは、メリーが通っている町立のものより遥かに広く、立派だった。駐車場は続々と埋まっていく。道路を、広場を、保護者然とした女たちが歩いていく。周囲から、この建物目指して集まってくる。彼女たちはみな、人の親なのだ。中には自分と同じかそれより年下の女もいるだろう。そう考えると、メリーはいたたまれなくなった。目の前にいる親友がその一部であることを思い出すと、そのいたたまれなさはいっそう高まった。
「発表会ってわりにはずいぶん大がかりね」
「そりゃ、校区ごとの選考会を経て、今日の発表会があるからね。出てる子たちはわりと本格的な練習を積んでいるわ」
「へえ、じゃあ蘭子ちゃんも」
「あまり言うと親バカに取られるからもう言わないけど」
「何をするの」
「タップダンスよ」
「あの、タカタカ、タカタカって鳴らすやつ」
「そう、それ」
やはり他の子供と比べても敏捷ではあったわけだ、とメリーは納得した。
白い縁取りが何重にも施された黒のスカートに、黒のタイツ。真っ白なブラウスの襟元には、楕円形の赤いブローチがついていた。
暗い舞台に円錐状のスポットライトが頭上から浴びせられ、そこだけ丸く浮き上がった白い床の上に、蘭子は立っていた。隣の蓮子が、緊張しているのがわかる。メリーにまでその緊張が伝わってきた。彼女たちが座れた席は、先頭から数えて十列以上後ろなので、はっきりと蘭子の表情までは見ることができなかった。それでも、彼女が両足を軽く広げ、肩の力を抜いてうつむいているさまは、迫力があった。小さな少女に、威厳があった。
しわぶきひとつないほど会場が静まり返った、その直後、蘭子が跳ねた。
雨粒のようにテンポよく、小石のように固まった音が、リズミカルに打ち鳴らされた。蘭子は、ほとんど動いていないように思えた。ただ、膝から下が猛烈な速度で揺れていた。そして、立て続けに音が生み出され、舞台に響いていく。高く、透き通った音は、メリーの胸に風穴を開け、溜まっているものを吹き去ろうとしていた。
上半身にも動きが出てきた。身振り手振りが激しさを増す。音に耳を、踊りに目を奪われ、メリーは、蘭子から目を離すことができなかった。
黒髪を振り立て、汗の玉を垂らす八歳の少女は、美しかった。
「綺麗ね、あなたの子供」
メリーは、隣の蓮子の手のひらに、自分の手を重ねた。
「あなたの、子供」
私たちの、子供ではない。
あなたの子供の、蘭子。
蓮子は夢中で舞台を見ている。メリーはいっそ手の甲に爪を立ててやろうとしたが思いとどまり、ぎゅっと蓮子の手を握りしめた。すると、ゆっくりと蓮子の手のひらが裏返り、軽い力で握り返してきた。メリーは腹の底から安堵した。これで無視をされたら、自分がどれほど虚脱感を味わうか想像できなかった。
不意に、地響きが起こった。メリーは肩を震わせた。思わず、蓮子から手を離した。誰かから咎められた気がしたのだ。だが、気のせいだった。まわりに誰も、蓮子とメリーの手元を観察する人間などいなかった。
もう一度、地響きが起こる。それは舞台の奥から聞こえた。
奥の幕があがった。すらりと背の伸びた、スタイルのいい男たちが、それぞれ左右に五人ずついた。黒のスーツに、白のシャツ、そして蝶ネクタイの黒。肌は白く、髪は黒い。みな、目鼻立ちがくっきりとしていた。しかし顔つきには特徴らしい特徴もなく、不意に誰かが隣と隣で入れ替わっても気づかないだろう。重い地響きは最初の二度だけで、そこからは重厚と軽快が同居した。十人の男たちはリズミカルに、しかし規律正しくタップを踏み鳴らしながら、舞台を進み、蘭子の左右に並んだ。常に一歩引いて、踊る蘭子を中心に立てていた。体重で大きく劣るはずの蘭子のタップはその差をものともせず、男たちの合唱のような低く重いタップの中にあって、ひときわ明るく、突き抜けて響いた。蘭子の頬は上気して、目は酒に酔ったように潤んでいた。
メリーは、嫌な感じがした。なんだか、蘭子が男たちを従えているみたいだった。称賛の目で見ていた、初々しい躍動感に満ちた蘭子が、急に手練れの熟れた女に見えてきた。
蘭子は二位に入賞した。帰りに近くのデパートの屋上に寄った。パラソルと、簡素な机、椅子が用意されている。売店で食べ物を買って、三人はそこに腰かけた。街並みは、十年前とたいして変わっていないように見えた。といっても、そもそもメリーは、この角度から街並みを見たことがなかった。蓮子と行動していた頃、ここの屋上に行く機会など皆無だった。だから正確に比較できようはずがない。なんとなくだ。
ひと昔前に、ファミリー層の憩いの場として作られたと思しきこの屋上遊園地は、すっかり寂れていた。ゲーム台はことごとく時代遅れのものばかりで、イルカのモニュメントは風雨にさらされ、もとの水色が褪せていた。色とりどりの小さなボールが足元にぎっしり詰められた遊戯場の前では、パイプ椅子に腰かけたアルバイトが暇そうにうなだれていた。
「ちょっと電話してくる」
蓮子は、椅子に座ったかと思うと、端末を取り出し、すぐに立ち上がって、屋上の柵の方へ行った。手持無沙汰になったメリーは、蘭子に声をかけた。
「蘭子ちゃん、ああいうの乗る?」
塗装のはげかけた馬の機具が並んでいるのを、メリーは指差した。小銭を入れると、安っぽい電子音を鳴らして、数十秒ほど前後に動くものだ。
「乗らないよ。子供じゃないんだし」
蘭子はストロベリーシェイクをストローで飲みながら、真顔で応える。
「あんなに大人を従えていたら、気分いいでしょう」
さっきの舞台を思い出しながら、メリーは尋ねた。尋ね方が僻みっぽい。それが自分でわかって、嫌だった。蘭子に嫉妬する理由などないはずなのに。蘭子は素直にうなずいた。
「メリーさんは、そういう経験ないの」
カップを膝の上に置き、メリーを見上げる。メリーは、子供の頃を思い出した。異常に感覚が研ぎ澄まされた時期が、確かにあった。それは、蓮子に会うよりももっと昔だ。無数の境界に体を引き裂かれた。頭や腕がバラバラにちぎれて、どこに自分がいるのかわからなかった。境界は、まるでメリーを崇め奉り、同時に辱めるように、体の至るところを駆け巡った。ほんとうに、十にも二十にも、百にも、メリーは引き裂かれていた。夜が終わると、体は元に戻っていたけれど、引き裂かれた記憶は残り続けた。
日本に来て、蓮子と出会い、秘封倶楽部として境界と向き合うようになってから、その記憶は少しずつ薄れていた。今、蘭子と対峙して、またあのときの感覚がよみがえってくる。
「やめてよ……」
「ごめん、急にメールが入ってて」
蓮子が戻ってきた。蘭子はメリーから顔をそむけた。
「お母さん。ゲームしてくるね」
そう言い残して、脇の小さなゲームセンターに駆けていった。ひとつの台に座り、硬貨を入れる。やがて重低音が響き始め、男たちの野太い叫びや、熱い拳を交し合う戦いの音が聞こえてくる。
「いつの格ゲーよ、あれ……ああいうのもするのね、蘭子ちゃん」
「相当強いわ」
「あの辺は、あなたに似たのかしら」
「私と、あと旦那も好きだからね。レトロなやつ」
メリーはお腹を手のひらで抑えた。飲み込もうとしていたフライドポテトを、危うく戻しそうになった。目を閉じ、呼吸を整えて、フライドポテトを飲み込む。いつまでも喉や胸の辺りにつかえて、なかなか下まで降りていかない。チープな味のオレンジジュースを飲み、ひと心地ついてから蓮子を見ると、蓮子は蘭子の方を見ていた。
あの鋭敏な蓮子が、メリーの反応に気づいていないはずはない。メリーの前で男のことを口にしたミスに、多分蓮子は気づいているだろう。だが、それをおくびにも出さず、鈍感に受け流す。
「蘭子ちゃん、相当鍛えられているわね。プロみたい」
「プロは、あんなものじゃないわよ。私もあなたも、知り合いがやっているっていう贔屓目が入っているだけ。もちろん、私は見ててすごく楽しかったから、それで全然いいんだけどね」
鈍感が、場を救い、次の話題へ滞りなく進む。メリーはまた、胃がじくじくと痛むのを感じた。ほんとうに自分は宇佐見蓮子と話をしているのだろうか?
「それにしても、あのバックダンサーは大げさよねぇ。すごかったことはすごかったんだけど」
そう言ってメリーは蓮子から目をそらし、顔を伏せた。すると、机に置かれた蓮子の左手を見てしまう。薬指に光るものを認める。蓮子からは返事がなかった。怪訝に思い、顔を上げて蓮子に視線を向けると、蓮子は手すりの向こうに広がる街並みを眺めていた。少しぼんやりしているようだ。
「蓮子?」
「ん、ああ、ごめん」
蓮子はぼんやりした顔のまま、メリーに向き直った。
「どうしたの、蓮子」
私といるのが、つまらない?
思わず直接そう尋ねそうになった。ぐっと歯を噛みしめて堪えた。
「なんか、うん、いいなぁ、って。久しぶりにあなたと会って、こうして話をして」
蓮子は、朗らかに笑った。メリーは唖然とした。ひとりでうじうじと憂鬱なことばかり考えていたのに、蓮子は暢気に「ああ、いいなぁ」と来たものだ。毒気を抜かれたメリーは小さく吹き出した。
「別にたいしたことは何も話していないわよ」
「それは昔からでしょう。昔から、こんなものだったわ」
「そうかしら。もう少し、中身のある話をしていたような気がするけれど」
「気がするだけよ」
ぬるい風が吹いた。秋も深まった肌寒いこの時期には、心地よかった。
「メリー、次はいつ会おうか」
メリーは端末のスケジュール帳を開いた。
「普通に土日が空いているわ」
「そう。私、来週土日は無理なのよね。金曜の夜にしない? うちの近くに手頃な値段の店を見つけたから、そこに行ってもいいわ。うちに来たっていい」
蓮子の家に、行く。
その言葉にまつわる甘い感覚が、メリーの首筋や背中、顎をくすぐった。同時に、かつては感じなかった疎ましさが、腹に重く澱んでいる。
「蘭子ちゃんも一緒なの」
「どうしてあなたとご飯を食べるのに蘭子の名前が出てくるのよ。今回は発表会だったから一緒なだけで」
「いや、そうじゃなくて、あなたの家に」
「そりゃ一緒に住んでいるわね、家族だから。たまにうるさくて仕方なくなるけど」
「まあ、そうよね」
「メリー、何か気になることでも?」
「なんでもないわ。蓮子、このあと、ちょっと歩きましょう」
「少しならね……夕食の準備もあるから、前みたいに一時間も二時間も、とはいかないわ」
「それでもいいから」
「蘭子もいるし」
「しばらく格ゲーさせておきましょうよ」
メリーは立ち上がり、蓮子の手をすくいとるようにして、握った。蓮子の手の表面が一瞬震えたが、すぐにメリーの手の中に馴染んだ。
「蘭子、お母さんたち、ちょっとその辺歩いてくるわね」
「ん、いいよ。しばらく遊んでいくから」
蘭子は半身だけ振り返って返事してから、また画面に体を戻して、集中する。先刻のタップダンスを思わせる俊敏さで、立ちはだかる敵を滅多打ちにしていた。
デパートからいったん外に出て、表通りから路地に入った。ふたりは並んで歩いた。ひと気のない道で、メリーは蓮子の手を握った。蓮子はそのまま、軽く握り返し、歩き続けた。
ベッドの脇に立つ夢魔は、老けていた。
「今日は、だいぶお楽しみのようだったな」
もう、『今の』メリーの歳すら追い抜いている。声に中年の苦みが感じられた。顔の細かい部分はわからないが、皺が目立つ、という印象だけはある。
「ただご飯食べて、散歩しただけよ」
「でも、君は楽しそうだ」
「そりゃあね、いつも通りだったもの。私の知る蓮子との、いつもの時間だったわ。ああやって無駄話して、その辺をぶらぶらと歩きまわって、他愛もない話をして……」
夢魔は苦しそうに顔を歪めた。これも、歪めた、という印象だけが伝わって、細部はわからない。
「よせ、いつも通りなものか。思い出せ、君も蓮子も十年分、歳をとっている。宇佐見蘭子という生意気な子供だっている。蓮子と子作りをした男だっている。もう、かつての秘封倶楽部が過ごした世界じゃない」
「そういう設定ってことでしょう。こんな夢、そろそろ醒めてやろうかしら。お誂え向きに眠くなってきたことだし」
メリーはわざとらしく伸びをして、夢魔の言葉を遮った。言うほど心に余裕があるわけではなかった。いくら夢だと言い聞かせても、蘭子の存在は、いまやメリーにとってあまりにリアルなものとして感じられていた。そして、蘭子がいる以上、蓮子と肉体関係を結んだ男が、この世界にはいるはずだ。そういった存在を認めることは、夢だろうが現実だろうが、メリーにとって苦痛だった。眠気が襲ってきたのはほんとうだった。まだ夜の十時にもなっていなかったが、そのままメリーは眠りについた。
*
時計は、三時四十分を指していた。また少し眠ったようだが、朝はまだ遠い。さっきよりは幾分頭は軽くなっている。メリーはベッドから起き上がり、流しでコップに水をついで、飲んだ。まだ視界はぼんやりしている。電気をつけて、ヘッドホンで大音量の音楽を流しでもすればすぐに目は醒めるかもしれないが、真夜中にそんなことをやっても仕方ない。コップをタオルで軽くふいて、元に戻すと、再びベッドにもぐりこんだ。覚醒と睡眠の境界が曖昧だった。
*
蓮子からのメールは、早かった。
『こないだはどうも。M駅まで出てきてくれる? 金曜の夕方六時に鉄塔前のカフェで待ち合わせしよう。駅前の、あの鉄塔ね』
七階建ての鉄塔は、その駅周辺自治体のシンボルとして、自治体から積極的にプッシュされていた。潤沢な予算の投入の甲斐あってか、デザインも内装も洗練され、中に入っている店も洒落たものが多かった。ただ、値が少々張る。メリーと蓮子が待ち合わせに選んだのは、その向かい側に店を構えている、大手チェーンのコーヒーショップだ。歩道に面して広々としたテラスがある。メリーはコーヒーカップを手にしてテラスに出て、座って本を読んでいた。ひと昔前の詩集で、あまり馴染めないまま、ページが進んでいった。そこへ、不意に男の声が降ってきた。
「マエリベリー・ハーンさんですね」
見上げると、色白のスーツ姿の男がいた。黒々とした髪を整髪料で丁寧に撫でつけ、品の良い眼鏡をしていた。微笑んだ頬には少し皺が刻まれている。メリーよりも五、六歳は年上に見えた。
「家内がいつもお世話になっています」
男は、少し照れたような笑みを浮かべて、頭を下げた。頭と一緒に、伸びた背筋も綺麗に傾いた。営業で鍛えられたと思しき、隙のないお辞儀だった。親しみを出そうとしていても、ついつい、背筋をピンと伸ばしてしまうようだ。だが、その折り目正しさは好感が持てた。
「あ……その、いえ」
メリーはなかなか返答ができなかった。相手の正体を問い質すことができないでいた。というより、聞きたくなかった。どうせ、わかっていることだ。
「ああ、これは失礼しました。宇佐見蓮子の夫です。坂下と言います」
「坂下……さん」
まるきり聞き覚えのない名前だった。つまり、メリーの知る範囲とは全然違うところで知り合った男ということだ。というよりそもそも、メリーと蓮子には、共通の男性知人など数えるほどしかいなかった。いたとしても、変わり者の教授とか、そんなのばっかりだった。
「家内とは職場で知り合いました。今日、大切な旧友と会うと言っていましたので、私もこの辺りで営業をしていますもので、ちょっと時間をとって、こちらに寄りました。まあ、時間をとってというか、要するにサボろうとしているんですがね。営業ってのは難儀な商売です。こうして夕方に暇を持て余すかと思えば、夜に予定をねじ込まれたりする。最近は家に帰るのがいつも深夜を回るので、家内のご機嫌伺いが大変ですよ。おっと、これはお友達の前で言う台詞ではなかったかもしれませんね」
メリーの動悸は早まっていた。落ち着くよう、自らに言い聞かせる。
まだ、ゲームが終わったわけではない。
この男が、ほんとうに蓮子の夫かどうかはわからない。ただの悪戯かもしれない。頭のおかしい狂人かもしれない。とにかく、男と、蓮子と、女の子の三人がそろいさえしなければいいのだ。そろわなければ、メリーは、秘封倶楽部としての蓮子を現実として考えていられる。
「それにしても、家内は私に学生時代のことを全然話してくれないんですよ。趣味が違うとか、どうせ興味もたないだろうとか言って。そんなことないと思うんですがねえ。あれが興味を持つものなら、私も興味を持つと思うんですが。映画でも音楽でもいいし、車とか、インテリアとかでも」
メリーは、ぽかんとしたまま、坂下と名乗る男を眺めていた。彼が何を言っているのか、よく理解できなかった。きっと話は合わないだろうと、それだけを強く確信した。
「では、私もあまり油を売っていると上から叱られますので、ここらで失礼します。カフェ巡りはね、好きなんですよ。メリーさんはお好きですか」
「え、ええ……」
「そうですか、それはよかった。あの鉄塔はお勧めですよ。あそこの四階のカフェで、私はいつもくつろいでいるんです。ちょっとした展望台もあって、なかなか見晴らしがいいところですよ。一人でもいきますし、二人や三人のときもいきます。それではメリーさん、家内に会ったらよろしく伝えてください」
メリーがロクに応答しないので、会話はほとんど成立しなかった。坂下は席にも座らず、一方的にしゃべるだけしゃべると、爽やかな笑顔を残し、足早に去っていった。
しばらくして、時間に遅れず蓮子はやってきた。
「ああ、ごめんごめん、結構待たせてたみたいね」
「昔ほどじゃないわ」
「行こうか。ここから十五分ぐらい歩いたらつくわ。いいでしょ、そのくらい」
「ええ、もちろん。行きましょう」
メリーは立ち上がり、蓮子のあとについていった。男の話はしたくなかった。名前を出して、それを認められたら一巻の終わりであるような気がした。レストランで食事している間も、メリーは坂下に会ったことは一言も話さなかった。蓮子も坂下の名前を出さなかったところを見ると、今日のは男の独断だったかもしれない。
レストランでのゆっくりした食事が終わり、外に出ると、もう完全に夜になっていた。駅前の繁華な通りから遠ざかるにつれ、建物は住宅が多くなり、雰囲気も閑静なものへと変わっていった。両側を護岸された川を、ガードレール越しに横目で見つつ、いくつかのアパートを通り過ぎていく。川の音が耳に障る。夜に流れる水は、遠目にもねっとりとして、油のように見えた。
「たいして広くないわよ。期待しないでね」
やがて立ち止まったアパートは、平凡なコンクリート造りの外観だった。強いて言えば、玄関にツタが生い茂っているくらいだ。自動ドアの前でパスワードを打ち込み、セキュリティを解除して、中に入る。狭い階段を上り、部屋にたどり着いた。
蓮子の部屋は、メリーが思っていたよりもさらに狭かった。ひとりで暮らす分にはそれなりのゆとりがあるが、三人と考えるとかなり手狭だ。隣のテレビの音が、わずかに聞こえてくる。何をしゃべっているかはわからないが、男の声か女の声かは、わかってしまう。
玄関をあがって廊下を進み、リビングに曲がるところの壁に、蘭子の写真が飾ってあった。暗紫色をメインにした、ゴシックロリータ風に着飾っている。今回の発表会と少し違うが、同じように舞台用に誂えられた服だろう。少し緊張に強張った顔をしているが、すらりとした、しなやかな姿勢は美しかった。
リビングには、本棚が見当たらなかった。
「本は、前の部屋から何か持ってきた? さすがに全部は無理でしょうけど」
「本はあまり……いえ、ほとんど置いてないわ」
見ればわかる。一応、聞いてみただけだ。ひょっとしたら、他に書棚用の部屋があるかもしれないから。だが、その期待も無駄だった。
「うちの人が、読まないから」
「蘭子ちゃんも?」
メリーは思わず聞き返した。
「ええ。蘭子もほとんど本を読まないわ」
「だってあなたの……子供でしょう。あなたを見て育つんなら、本に興味を持つわよ、絶対」
蓮子が本なしの生活を送るなんて、考えられなかった。信じたくなかった。
「だから、最近は、そんなに読んでないって。仕事中は読む時間ないし、帰ってからご飯とか掃除、蘭子の相手をしていたら、もう寝る時間になるし」
メリーは目を閉じた。あまりに平々凡々たる蓮子の言い草に、眩暈に襲われた気分だった。
「違う、違うの蓮子。ひとはね、そんな理由で好きなことをやめたりしないわ。あなたがやめてしまったのは、まわりに話す人間がいないからよ。そんなロクでもない環境を、どうしてあなたは自分の意志で選択してしまったのかしら」
「メリー、それは少し、言い過ぎよ。まるで私が何もしていないみたい」
突き離すような蓮子の言い方に、メリーは衝撃を受けた。それは、蓮子の冷たい口調に対してというよりは、ちょっと蓮子からよそよそしい口を利かれただけで強烈に痛んだ、自分の心の脆さに対してだった。お腹が寂しげにしくしくと痛む。その痛みは、自分がどれだけ蓮子に依存していたかを、まざまざと思い知らせる。
「私は、今の生活を納得して送っているわ。あなただってそうでしょう。ずっと学校に留まって、社会に出ようとしない。私はそれでいいと思っている。あなたがそれを選んで、それに納得したんだったら。大事なのは、納得しているかどうか。世間に胸が張れるとか、知り合いに会ったとき恥ずかしくないようにとか、そういうのじゃない」
蓮子はどこまでも正しい。メリーは、今の蓮子と言葉を交わす気には、どうしてもなれなかった。曖昧にうなずいた。
蓮子がバスルームに入ると、部屋の空気が一気に冷え込んだような気がした。バスルームとは直角に面した側のドアが開き、寝間着姿の蘭子が現れた。意外に早寝の習慣らしい。半分眠ったようなぼうっとした顔で、冷蔵庫からパックのジュースを取り出し、コップにつぎ、こくこくと飲み始めた。その間に少し目が醒めたのか、コップを置くと、さっきよりははっきりした目つきでメリーに声をかけた。
「メリーさんって、お母さんと仲がいいのね」
バスルームからは、タイルに水が落ちる音が聞こえてくる。薄い壁だ。今、蓮子はどんな姿で体を洗っているのか、メリーは想像していた。
「ええ、学生の頃は、よく一緒にいたわ」
「お母さんって、てっきり、お父さんと出会う前は、学校なんかでもずっとひとりで本を読んでいるかと思っていたわ」
「そんなことはなかったわ。友達も多かったし」
「でも気を許していないはず。ほんとうの友達って、いたのかな」
メリーは、この八歳の少女に対して、苛立ちを抑えることができなかった。
「いたわよ。蓮子は、孤独じゃなかったわ。むやみに多人数と関係を結ぶことはなかったけど、きちんと付き合いはしていたわ」
「それも含めてよ。やっぱりお母さんは、優秀とかちょっと変わっているとかで、クラスの中で目立ってて、でもひとりでいることを気にもせず、自分の好きなように生きていたんだと思う」
あんたに、何がわかる。そう言いたくてたまらない。二十以上も歳の離れた女に向かって、感情を爆発させそうになる。
「私、不思議でたまらないの。そんなお母さんに、親友がいたなんて。想像もできなかったから。だってこれまでお母さん、そんな話、まったくしたことがなかったもの」
またもや、腹の底でなにかぐるぐると回りはじめた。
まったくしなかった?
自分の話を?
大学時代、あんなに時間をともにしたのに、そのことを家族には一言もしゃべっていない?
「私、メリーさんのこと、初めて知ったわ」
蘭子はコップを洗って、乾燥機に立てかけると、廊下へ去っていった。
裏切られた。
唐突に、その言葉がメリーの胸を貫いた。
蓮子は、それまでの秘封倶楽部の日々を捨て、男を手にし、家庭を手にし、新しい生活を手に入れた。そこにメリーは不要だったから、学生時代の日々そのものをなかったことにしようとした。
それが、この十年間の真相だ。
これは被害妄想だ、根拠なんてないと、メリーの中で声高に叫ぶ者がいる。だが、今、メリーの胸にむなしく空いた穴を埋めるには、このぐらい毒性の強い想像が必要だった。そして、想像はたやすく思い込みへと変わる。わかっていても、止められない。
「お風呂、次あんたが入りなよ、メリー」
裾のゆったりした部屋着のズボンと、丈の長いTシャツ姿の蓮子は、バスタオルで髪を吹きながら、リビングにやってきた。今しがた洗面所で軽く塗りつけたらしい化粧水が、温められた肌と汗に混じりあい、蓮子の体全体から女の匂いが漂っていた。
「うん、じゃあ借りるね、蓮子」
「どうぞ、どうぞ」
「ねえ、聞きたいことがあるの」
「なに」
「どうして、十年ぶりに私に会いにきたの」
蓮子の反応が、一拍遅れた。
「そんなの簡単よ。あんたが呼んだからよ」
蓮子は片手でバスタオルをおさえながら、パソコンの画面に向かった。
「こんなメールが来たら、そりゃあ、ね。十年くらい会ってなくても、顔を合わせれば問題ないって思ったから」
メリーから蓮子宛へのメールが開かれていた。
『ねえ、蓮子。あなたのまわりは晴れていますか? こっちは多分曇り。私はやっと、あなたのまわりが晴れていることを、素直に祈れるようになったと思う。もし時間ができたら、メールちょうだい。明日はどう? いつでもいいから』
蓮子はウィンドウを閉じて、メリーの方へ振り向いた。
「そうでしょう」
「ええ、そうね」
メリーはうなずいた。こんなメールを出した覚えはなかった。にもかかわらず、自分が書くなら、このメール以外にはありえないと、納得もしていた。
「お互い会わないままだと、悪いことばかり考えてしまうもの。私は、あなたが会いたがっていないと思ったから、会わずにいたけど、あなたが会ってくれるなら、やっぱり、私も会いたいって思った」
やはり、何かがあったのだ。ふたりの間で。それは、結婚だとか、男だとかにまつわる話だろうか。今、この場で聞いてみたい。夢魔が用意しているのとはまったく別の答えが、蓮子の口から聞けそうだった。
「蓮子……」
「ねえメリー。私が立っているところは、昔と同じところじゃないわ。それでも、私の隣にいようと、思ってくれる?」
応えにくい質問だった。とても難しかった。
メリーは顔を伏せた。今の質問を肯うことは、蓮子の家庭生活を肯うことだった。否めばそれは、蓮子とともにいることを否むことになる。
「蓮子、それは……」
「お風呂が冷える。早く入らないともったいないわよ。あがったら何か夜食でも食べましょう。用意してあげるから」
蓮子は、メリーの頭に軽く手を乗せた。
バスルームは、トイレと一式になっていた。蓋を降ろした便座の上に、脱いだ服を乗せる。湯船に浸かって、一息ついた。頭を縁に乗せ、足を水面から出して、壁に足を押しつけるようにすれば、なんとか体いっぱい伸ばすことができる。
洗面台や湯船の縁には水垢がついていた。蛇口の脇に、シャンプーやリンスの瓶が置いてある。どことなく、ごみごみしている。さっきまで蓮子が入っていたと思うと、仕切カーテンの骨組みにかけられたタオルや、シャンプー容器のぬめりまでが、なまなましく蓮子に直結して感じられた。水面に鼻の下まで沈めた。こぽこぽと水泡を吹き出す。
少し長い毛が、湯に浮かんでいた。縮れては、いない。まず腹の上に乗せた。それから、指に絡めた。口元に持っていき、唇で毛を挟み、引っ張る。口の端から毛が垂れる形になった。
バスルームを出て部屋に戻ると、蓮子はメリーに背を向けて、流し台の横に立っていた。手元に電気ポットと、コーヒーカップ、ココアの瓶がある。蓮子のTシャツの襟ぐりが広いため、ブラの黒い肩紐が二本とも剥き出しになっていた。
「あら、遅かったわね。あんたも何か飲む? といっても、あと緑茶と紅茶と……」
「蓮子」
肩に手を置くと、蓮子のシャツはしっとりと湿っていた。髪の毛が、メリーの鼻先にかかる。
「ちょっと、メリー」
「蓮子。しよ」
うなじから、肩に唇をすべらせる。蓮子が小さく身をよじった。体の反応は、昔と寸分変わらない。メリーは誇らしい気分になった。蓮子の体は、変わっていないようだ。だったら、どこをどうすればいいか、よくわかっている。
「蓮子」
「メリー、ちょっ、今はッ……やめて。蘭子が……」
「いいじゃないの。もう八歳でしょう? 結構、興味津々で見るかもしれないわよ」
ドアの陰から蘭子がこちらを覗き見ているところを想像し、メリーはますます昂ぶった。すると、蓮子の体もまた、メリーの波長に寄り添うように変わっていった。腕の中で、少しずつ抵抗する力が抜けていく。
「ケイが……もう」
ぴたりと、メリーの体が止まった。まるで今まで自分が何をしていたのかを忘れたように、メリーは止まった。蓮子は肩で息をしていた。頬が、湯上り以外の理由で紅潮していた。蓮子は、メリーの腕から、ゆっくりと逃れた。メリーは時計を見た。もうすぐ日が変わる。そうだ、この家に住んでいるのは、蓮子と蘭子だけではないのだ。
「蓮子、私、帰るね」
「メリー、ごめん」
足早に玄関へ向かうメリーの背中に、蓮子は声をかけた。
「また、来てくれるよね」
「ええ、会いましょう。次は、昼にでもね」
ドアを開けながら振り返り、応えた。ドアを閉めると、一目散に階段を駆け下りた。アパートを離れてからも、駆け足は止まらなかった。メリーは恐怖に追い立てられていた。もし、今すぐにでも背後から坂下に声をかけられ振り向いてしまったら、その瞬間にこの悪夢が現実のものとなってしまう。怖くて、ひたすら駆けた。駅に戻り、終電間際の電車に乗った。安心が体中に広がっていくと同時に、毒が回っていく。
ケイという名の毒が。
おそらく、坂下の下の名前だろう。ケイスケだとかケイイチだとか、どうせそんなところだ。問題は、蓮子の言い方だった。とても自然に、その名を口に出していた。これまで幾度となく、あらゆる場所で用いられた言葉なのだろう。あの名にまつわるもので、メリーが知らずにいて、それなのに蓮子にとって大事な記憶が、いくらでもあるに違いない。
自宅に帰りついても、長いことその名の響きが頭から離れなかった。
「いるんでしょう、夢魔」
ベッドの脇に、老境に差しかかった、くたびれた男が立っていた。髪の毛は薄く、背筋も曲がっている。
「あなたは、坂下なの」
夢魔は無言で首を振った。ひどく疲れているようだった。
「それとも、蘭子の傍にいた男たちかしら」
また、首を横に振る。
蓮子のことを家内だと言い張る男。そして、蘭子を囲い込むように現れた男たち。彼らは同一人物かもしれない。夢魔がメリーに対して送り込んだ、無名の男たち。彼らを欠損させれば、あるいは、夢は醒めるのではないか。
「僕を、思い出して……ですって」
メリーは呟く。大それた願いだ。そもそもメリーはこんな夢魔のことを知らない。それでも思い出してほしいのは、捏造してでも、メリーや蓮子の記憶の中に居座りたいということだ。蓮子は時々、独特な男女たちから、びっくりするような慕われ方をしていた。そいつらの中の誰かが、マジナイを行なって夢魔を呼び出し、メリーに精神的な攻撃を仕掛けてきているかもしれない。可能性だけなら、なんだって考えつく。
*
目を開けると、ちょうど四時になったばかりだった。下の方で扉の開け閉めする音がして、さらにバイクのエンジン音が聞こえてきた。近くに新聞社の配達所があるから、多分それだろう。
すぐにまた目を閉じた。
*
鉄塔の足元で頭上を仰いだ。テラスで煙草を吸っている男が目に入った。顔の細かいところまではほとんどわからない。それでもメリーは、男が坂下であることを一瞬で理解した。男は力が抜けきったように、手すりに身を預け、ぼんやりとしていた。
今なら、突き落とせる。
唐突に、メリーは思いついた。思いついたのは唐突だったが、いったん思いついてしまえばもうこれしかないというぐらい、今取るべき行動として相応しい気がした。
階段は、鉄塔の側面につけられている。鉄板組みの階段で、下の光景が容易に見ることができるため、高所恐怖症の人間にはつらい階段だ。手すりは高く、小さな子供でも抜けられないくらい柵の間隔は狭く、余程のことがなければ転落事故は起こらないようあらかじめ設計はされているが、それでも宙に放り出されたような感覚に付きまとわれる。もちろん中にはきちんとエレベーターがついているので、無理に外から上らなければならないわけではないが、メリーは外から上ることにした。その方が、どのぐらいの高さから相手が落ちるのかを想像しやすいからだ。
街の風景が、徐々に高くなっていく。一階ごとの高さがかなりあるせいか、階段がずいぶん長い。途中で折り返してはいるが、それでもかなりの段数がある。
深く考えることはない。躊躇せず、押そう。
ポケットの中で、端末が震えた。メールが来ていた。
『メリー、少し時間を取って話したい。色々なことを。今日、食事できる?』
メリーは立ち止まって、文章を打って、返信した。
『いいわ。食べましょう。私も今日、色々なことが解決できる気がするの。用事はすぐに終わるから、終わったら会おう。今、どこ? 私は駅前の鉄塔』
すぐに蓮子からの返信が来た。
『あ、そうなんだ。私も今鉄塔で二人でお茶してたところ。すぐそっちに行くね。鉄塔のどこ? 私は四階』
メリーは端末を握りしめた。手の内側から汗が滲み出て、端末がぬるぬるとすべる。
こんなはずじゃなかった。
確かに坂下は、いつも一人だとは言っていなかった。二人のときも、三人のときもある、と。家族連れの可能性は当然あった。蓮子は『二人』と書いていた。夫婦連れということだ。夢魔の定めた条件は三人だったが、『夫婦』でいる二人を見て、自分が持ちこたえられるかどうか、メリーには自信がなかった。そのまま振り向いて、階段を降りようとした。
そのとき、軽快な音が、下から聞こえてきた。聞き覚えのある足音を耳にして、メリーは総毛立った。踊り場を折り返し、少女が現れた。
「やっぱりメリーさんだ! 下から見て、すぐにわかったわ。忘れものよ」
「どうして……」
蘭子は否応なく近づいてくる。メリーが嫌だと思っても、上ってくる。とうとう、目の前までやってきた。少し肩で息をしながら、蘭子は誇らしげに文庫本を差し出した。
「昨日うちに来たとき持っていた本よ。詩集かな。私、このひと知っているわ、学校で名前だけ習ったもの。そういえばさっきお母さんと……」
「どうしてここに、来たのよッ!」
「えっ、メリー……さん」
突然のメリーの剣幕に、蘭子は目を丸くして立ち尽くした。メリーは顔を真っ赤にし、目尻に涙を浮かべ、眉間に皺を寄せて、怒鳴った。
「あんた、どうして、こんなッ、私の気も知らないくせに! あんたなんか、どうせ、ただの、夢、でしょうがァ!」
「メリーさん……」
蘭子は、メリーの言葉に撃たれたまま、茫然と立ち尽くしていた。言葉の意味はわからなくとも、激しさは充分すぎるほどに伝わっていた。
「どうしたのメリー、ひょっとして、今叫んだのはあなた?」
声は、頭上から降ってきた。メリーは弾かれたように振り仰いだ。蓮子が階段を降りてきていた。階段は、メリーの前方の踊り場で折り返す。鉄板組みの階段の隙間から、蓮子と腕を絡めた男の腕が垣間見える。だが今のメリーに、嫉妬している余裕はない。
見れば、終わりだ。蓮子と蘭子と男の三人を同時に視界に収めてしまえば、終わりだ。
「駄目……」
メリーの声は引きつっていた。両腕をめいっぱい広げた。階段から踊り場に降りたばかりの蓮子の肩に右手を当て、押し返した。
「どうしたのメリー」
「来ちゃ駄目っ」
「え、でも、どうし……」
「どうしたんだ、蓮子」
男の声はその奥からやってくる。背の高いスーツ姿の男が、現れる。もうこの距離では食い止めても無駄だ。メリーの左手が、後方の蘭子へ伸びる。どん、と強く押した。八歳の力では抗えないほどのありったけの力を込めて、押した。
「えっ」
蘭子の声が聞こえた。次の瞬間には、メリーの視界から蘭子は消えていた。
がたがたがたっ、どん、ばたたっ、だかかかかかかっ、ごっごごん、ばらっ
リズミカルな音の中に、かすれた声が混じる。ため息のようにも悲鳴のようにも聞こえる。メリーはそれが、蘭子の喉からもれたものか、自分自身から出たものか、わからない。
「蘭子」
ぽつりと、蓮子が呟いた。それは、切迫感に欠けていた。ただ、名前を読んだだけのようだった。
「わあああっ!」
メリーは、自分自身、転びそうな勢いで階段を駆け下りた。倒れた蘭子を抱きかかえる。振り仰ぐと、すでに男は端末で救急車を呼んでいた。
「蘭子、しっかりしてッ、蘭子!」
メリーは叫んだ。男は、電話口で冷静に状況を説明している。蓮子はその場に立ち尽くしていた。
早く救急車を呼びたい。一刻も早く。それはメリーの偽らざる本心だった。
早く蘭子を病院に連れて行って、治療してもらって、そうして自分にのしかかった重荷から一刻も早く解放されたかった。
メリーはカーテンを指先で払い、窓から見える病院の庭を眺めた。
「ねえ、どんな気持ち」
斜め後ろ、左側から、声がかけられた。メリーは、全身をこわばらせた。心臓が一瞬締めつけられたように感じた。すぐに、血が全身を駆け巡った。自分の心臓の音が、うるさいくらいはっきりと聞こえる。
「ねえどんな気持ち」
もう一度、問いかけられる。メリーは窓から視線をそらし、背後を振り向いた。ベッドでは、蘭子が上体を起こして、こちらを見ていた。頭や右腕に巻かれた包帯の白が、ひどく眩しい。まるでメリーを咎めるように、眩しかった。
メリーは、蘭子の言葉と、その姿勢を見て、ごまかすことを諦めた。怪我のせいで蘭子の記憶が飛んでいるようにも見えなかった。その目は、メリーを、明らかに加害者として見ている。だから、聞いているのだ。
今の気持ちを。
***
「ねえ、どんな気持ち」
メリーは蓮子の顔を見た。蓮子の顔は、室内灯の下で、ひどく眠そうだった。
蓮子は突然、夜半に帰ってきた。げっそりとやつれて、目だけぎらぎらと光らせていた。楽しみにしていた蓮子との夕食がフイになってしまい、ふてくされてパソコンでぼんやりと動画を眺めていたメリーは、飲みかけのココアを口に含んだまま、入り口に立った蓮子を見た。
「のんびりしているわね、メリー。あなたはいつものんびり」
蓮子の口元に、カミソリのような笑みが浮かぶ。メリーは、喉が締めつけられる心地がした。飲み込んだはずのココアが、少し口の中に戻ってきた。
くすんだピンク色のトレーナーという、あまりに部屋着的なメリーの服装に比べて、蓮子は外の空気をそのまま身にまとってきたかのような、スカート式のスーツ姿だった。
「どうしたの、蓮子。発表は明日よね」
「別に。ちょっとした予行演習があっただけよ」
蓮子は肩の力を少し抜いたようだった。それでも、いつもに比べればずっと乱暴にバッグを床に落とし、足音も荒くメリーに近づいてきた。
「変なの。約束をすっぽかされて怒らなきゃいけないのは私のはずなのに、蓮子、あなた、どうしてそんなにくさくさしているの」
「メリー。ココアの膜が残っている」
蓮子はメリーの前に座ると、唇の端を舐めた。外の空気にさらされた蓮子の舌は、ずっと室内でぬくもっていたメリーにはとても冷たく感じた。
「蓮子……」
「メリー、ごめん、いきなりでごめんけど、ごめん」
「蓮子、今日は、話はしないのね」
メリーは唇を塞がれたせいで、それ以上言葉が出なかった。蓮子の手がトレーナーの裾からもぐりこんでくるのがわかる。冷たい手だった。
きっと、話したくないのだろう。
話したくないほど、屈辱とか、むしゃくしゃとか、やるせなさとか、後悔とか、そういうものをめいっぱい抱え込んでいるのだろう。
そうして、それをメリーに話す気がないのだろう。
「私じゃ、わからないの。私じゃ、駄目なの、蓮子」
闇と吐息だけがすべての中で、メリーは問いかける。
「そうじゃない。そうじゃないの。これは誰にもわからないの。すごく身勝手な、私のプライドのせい」
闇と吐息だけがすべての中で、蓮子は否定する。
そうしてメリーは、冷たく侵された。
これまでにも、滅多になかったとはいえ、ぎすぎすした空気を解消するためにそういった方法を用いることも、ないわけではなかった。
けれど、ここまで徹底して言葉を封じられ、こういう風にされたのは、初めてだった。
メリーは灯りをつけた。スーツを着て、身づくろいをしている蓮子の背中が、不意にはっきりと目の前に現れた。その背中は、急速に老け込んだように見えた。これから向かわなければならない発表の場への、緊張と嫌悪と恐怖が、ありありと感じられた。メリーはベッドの中から呼びかけた。
「ねえ、どんな気持ち。蓮子」
蓮子はスーツを身にまといながら、半身だけ振り返った。
激励を欲していたのだろう、慰撫を欲していたのだろう。
ただ黙って、近くにいて、肌を合わせ、ぬくもりがあれば、それでよかったのだろう。
「ねえ、どんな気持ち。私よりも外の世界を優先して、その世界のせいで傷ついて、私のところに戻って、何も言わずにこんな風にして、また外の世界に行くの。それが今のあなた。ねえ、どんな気持ち? 教えてよ、蓮子」
蓮子の顔に、ぱっくりと開かれた傷が見えた気がした。大きな傷を与えた手ごたえがあった。メリーの胃がきゅうっときつくしめつけられる。どうすれば、ふたりがもっと楽になるのか、わからない。誰か教えてほしい。
蓮子は顔を伏せ、部屋から出ていった。足音はとても静かで、ドアを閉める音も、鍵をかける音も、ほとんどしなかった。メリーは時計を見た。夜中の二時を回っていた。そのまま眠りについた。多分、いい夢は見られないだろうと覚悟しながら。
***
メリーは激しく呼吸をしていた。喉が締めつけられ、声を出そうとしてもうめき声にしかならない。
「あ……あ……」
思い出した。そして、理解した。
蘭子が、そしてこの夢が、なんなのかを。
廊下から、足音が近づいてきた。ひとりが足早に駆けているようでもあり、複数の足音が乱れているようでもある。
「わかったわ、夢魔、わかった、思い出したわ」
蘭子のベッドの傍らに、うっすらと黒い輪郭が浮かび上がった。やがて、老いさらばえた男の姿が現れた。背中が曲がり、皺だらけになり、頭の端にわずかに白髪がへばりついている。黄色く濁った目を、メリーに向けた。
「あなたを、思い出した」
夢魔は、濁った目を細める。それは、見ようによっては、笑っているようにもとれた。輪郭が黒い塵になって、吹き散らされていく。人としての形を崩壊させながら、夢魔は病室の扉へ向かった。ドアノブに手をかけ、開く。
そこへ、蓮子が現れ、夢魔と重なった。夢魔は粉微塵になって消えた。
「夢魔はあなたよ、蓮子」
病室にひびが入った。鏡に映った光景が崩れ去っていくように、病室の壁も天井も剥がれ落ち、あとには暗闇が残った。その暗闇に、白い楕円形が浮かんだ。その上に、蓮子が立った。楕円形に見えたのは、上から降ってきた灯りだった。つい先日、彼女の娘がそうしたように、スポットライトを浴び、舞台に立っていた。あのときの発表会と違うのは、観客がメリーただひとりだということだ。
「ええ、そうよ、メリー。あなたは思い出したわ。だから私も語る」
蓮子の声は朗々と響き渡り、メリーの耳だけでなく、腹の底まで響いてきた。
「大学院に行った私は、やがて教授の助手を勤め、学会に出席し、私なりのペースで社会に出ようとしていた。けれど、私が外へ出れば出るほど、あなたは内へ内へとこもっていった。授業に出ず、論文を書かず、他に職を探すわけでもない。大学時代の秘封倶楽部が、メリー、あなたにとってなによりの原点だった。『あのときの私たち』が口癖になってしまったメリー。私は、いつだって『あのときの私たち』でいるつもりだったわ。ほんとうよ。まわりの環境が変わったら、そりゃ、少しはお互いに変わる。それでも一緒にいる、その時々で一番いい形を取る、そういうのが『あのときの私たち』でいるってことだと、思っていた。けどメリーは違った。メリーは、ほんとうに、寸分たがわず『あのときの私たち』でいなきゃいけないと思っていたみたい。私が変わっていくたびに、泣きそうな顔をした。泣きたいのはこっちよ。子供服はいつか着られなくなる。学校はいつか卒業するし、私たちもいつまでも同じ関係じゃいられない。私たちは生きているんだから、当たり前のことでしょう。止まってしまった時間の中じゃ、何もできないじゃない。そんなの、わかっているでしょう。変わっていきながら、それでも変わらないものを見失わないようにすること、それが大事だって、私は思っているし、そんな風にあなたにも言ったわ。けど、あなたはわかってくれなかった」
蓮子の長い語りのあいだに、悲壮な表情で叫び立てるメリーの映像が、いくつも宙を飛び交った。
「私はだんだん疲れてきた。それでも、研究所でやっていることは楽しかった。大変だったけど、やりがいがあった。何年も下積みを重ねてきた研究が、ようやく日の目をみるようになったの。ワクワクした! 私だけじゃないわ、ラボのみんながそれぞれ協力しあってできたことよ。でも、やっぱり言わせてもらうなら、私の貢献が多かったわ、ほんとうよ! みんな私をほめてくれた。私が普段ほめているひとたちまでが、私をほめてくれた。ほんとうにうれしかったわ! その悦びを、誰かと分かち合いたかった。一番分かち合いたいひとは、きっとこの業績の半分も理解できないけど、それでも一緒に悦べるはずだった。私は信じていた! 久しぶりに部屋に飛び込んだわ。私は叫んだ」
ねえメリー、聞いてよ!
聞いて、聞いて!
私の話を聞いて!
私の自慢を、誇りを、努力を聞いて!
「メリーは、私の慌ただしくかいつまんだ説明を聞いたわ。そしてこう言った」
ふぅん、そう。良かったわね。ところで蓮子、この前私、また蓮台野に行ってきたの。また何か境界の裂け目が発見できるかなぁって。最近、倶楽部活動もロクにできていないし……
「私は、声が出なかった。正直に言うわ。私あのとき、メリー、あなたに
裏切られた
と思ったの。あなたは私を見ていなかった。あなたはただ、あなた自身と、あなたの目に映る私を見ていただけだったと! かつて私はぴかぴか光る鏡で、あなたのマジナイに対して、実に優秀な成績で応えていた。鏡が曇り、錆びつき、あなたのマジナイを映し出さなくなったら、それはもう価値を持たなかった。そう、メリーは、宇佐見蓮子ではなく、メリーの鏡を見ていただけだった! 私は、だからこう思ったの。裏切られた! メリーに裏切られた!」
蓮子の冷め切った顔、メリーの紅潮した顔、そのふたつが、様々なバリエーションをとりつつ、交互に現れては消えていく。
「もちろん、その場で絶交ってわけじゃなかった。連絡は取ってたし、泊まりあったりもしたわ。けれど、もう、決定的なものが崩れてしまった。言葉で言ってしまえばひどく簡単なもの、信頼が。しばらく、会うのはやめようと、どちらともなく言ったわ。ふたりの秘封倶楽部が、同じ姿になるまで、何年かかるかわからないけど、それまで、会うのはやめようと。そして、最後は痛みもなく、穏やかに別れたわ。私は研究に没頭し、それから、ふとしたことで男を知り、子供を産むことも知った」
蓮子は自分の体を抱きしめ、全身を震わせ、激しく歯を鳴らした。
「私は信じていた。信じて信じて信じ抜いた。幻想は、メリーとの関係は、ずっと続いていくって。でも、こんな形で終わりを迎えるなんて思っていなかった。そんな未来は信じたくない! 信じたくない! 信じたくない!」
身をよじり、歯を打ち鳴らす。
「これは、悪夢よ……」
夢という舞台の上で、台詞を吐き続ける蓮子を見つめながら、メリーは呟いた。
「私があの夜のひとときに見た、長い悪夢。私は、こんなにも不安に震える蓮子を夢見てしまったのね」
メリーは舞台に上がり、震える蓮子を抱きしめた。カチカチカチカチと歯の根の合わない蓮子の体を、強く抱いた。
舞台に、白いベッドと、そこで上体を起こした蘭子が浮かび上がった。メリーは蓮子から離れて、包帯を巻いた蘭子を抱きしめた。
「さあ、もう、醒めて頂戴……お願いだから……醒めて……お願いします」
わかったから。
もうわかったから。
だからこんな、終わりの見えない不安の増殖劇はやめて。
少しでもお互いが安らかでいられるように、笑顔を交し合えるように、もう一度、いちから……
覚醒への境界をいつ越えたのか、曖昧だった。
部屋の中は、青いインクが滲んだみたいに、薄暗かった。カーテンは水色の光を孕んでいた。遠くで車と電車の音がする。バイクが窓の下を過ぎ去った。メリーは枕に端末を乗せ、文章を打ち始めた。なんと書くかは決めていなかったが、とにかく蓮子に何か言わなければと思った。蓮子は今頃、学会に参加するために、都心へ向かう列車に乗っているだろう。ひょっとするともうどこかで降りて、少し早い昼食でも食べているかもしれない。
ごめんね。
違う。
今度いつ会える?
これも違う。
好きよ。
これも、なにか違う。
蓮子に伝えたい言葉がある。だが、その形が見えてこなかった。会えば見えるかもしれない。その場にふさわしい言葉がおのずから出てくるかもしれない。けれど、昨夜のように、飢えた心が肉の悦びを求め、ただ体をぶつけ合うだけかもしれない。
会いたい。
違う。
いますぐ帰ってきて。
違う。
私を許して。
違う、違う、違う。
手のひらに包まれた小さな四角い機械を、メリーは長いこと見つめ続けた。親指は、何度も宙をさまよい、着地点を見いだせぬまま、やがては空中でぴたりと動きを止めた。祈るように、端末の前でこうべを垂れた。傍から見れば、拝んでいるように見えたかもしれない。
ねえ、
ようやく、それだけの言葉を、メリーは入力した。
呼びかけの言葉。この言葉に、嘘はなかった。相手の注意を引き、こちらに振り向かせる言葉だ。
蓮子。
これにも、嘘は含まれていない。人の名だ。メリーが今、もっとも呼びかけたい、人の名だ。
そこまで打ったところで、また指の動きが止まった。だが、もうメリーは焦らなかった。大事なことは済んだ。呼びかけて、相手の名前を呼んだ。
天気の話でもしよう。
そっちは晴れていますか。
端末に赤いランプが灯った。バイブレータが起動し、小さな機械音が断続的に鳴る。メリーは端末を耳に当てた。
「はい、もしもし。うん……うん。今、ちょうどあなたにメールを打とうとしていたところ。ほんとうよ。もうすぐ送信ボタンを押しそうなところまで来ていたわ。そっちは晴れていますか? ……そう。こっち? 部屋の中にいるからわからないわ。カーテンも閉めているし。いいじゃないの、自分のところはどうでもよくたって、相手のところの天気が気になることだってあるわ。そう、わりと晴れているのね、よかったわ。学会の発表、がんばってね。いい結果が出るといいな。え……うん……うん、そりゃ、言えるわよ、激励の言葉ぐらい。今朝は、少しは眠れた? へえ、列車でね。リクライニングがついていてよかったわね。そう、じゃあ、少しは眠れたのね。ねえ蓮子、聞きたいことがあるの」
*
「今朝? ああ、列車に乗ってすぐ眠ったわ。ふかふかのシートだからまるでベッドみたいだった。後ろも気にせず席を倒すことができたし。ええ、幸運だったわ。結局、ついさっきまで寝ていたから、たっぷり二、三時間は睡眠をとれた計算ね。ええ、少しどころか、まるで二十四時間ぐらい熟睡したような気分の良さよ。ねえメリー、睡眠って言えばさ」
*
「なに?」
「あ、ごめんメリー。今、あなた何か言おうとしていたわね」
「たいしたことじゃないわ。蓮子こそ何か言おうとしていたでしょう。先に言ってよ」
「じゃあ、先に言うね」
ひと時の沈黙、それが今のメリーには何より心地よかった。
この小さな機械の向こうに、誰かがいること。その誰かが、自分のために、言葉を選んでくれていること。そしてその誰かとは、自分にとって、なによりも大切なひと。メリーは幸福のあまり、端末を持っていない方の腕で自分の体を抱きしめ、少しのあいだ悶えた。
「あなた、私の夢を見なかった?」
すぅっと、頭の中が澄み渡っていった。急に、色々なことが、メリーは理解できた気がした。
「私と、夢を違えなかった?」
蓮子は問いを続ける。
「ええ」
メリーはうなずいた。
蓮子の悪夢を、メリーが見た。
ならば蓮子は、この朝方の気怠い列車の中で、ほんのひと時、メリーの悪夢を見ていたということだ。悪夢を交し合うほどの濃密なまじわりを、誰かと持てることに、メリーは感謝する。体が、内側から熱くなっていく。
「ねえ蓮子。あなたは何を見たの? 夢の話を、聞かせてよ」
ってなりました。最初に、ちょっとばかし希望を与えられるのがニクイ。解決するのよね?BADエンドじゃないですよね?ってなりながら読み進めるのがうわああ。
階段転げ落ちた所でまたうわあああ勘弁してくれえええって。頬引き攣りっぱなしですよほんと。
そして最後の流れが秀逸。秀逸すぎて書くことに困る。
秘封が好きであればあるほど食らうダメージもでかい・・・しかし面白い作品でした・・・。いつか誰かに勧めます。俺と同じく、秘封が好きで仕方のない誰かに。
としばし悶々としましたが、そういうことか。
もはや濃密な未来しかない。
突き詰めたというお話、必ず読みに参ります
自分の理想と違う未来を体感させられる夢と、それを現実じゃないと必死に否定するメリーの苦悩。
読み初めると、最後の結末が気になってしょうがなかったです。
キャラがほのぼのとしている話の方がいつもは好きですが、たまにはこういう暗い破滅的(?)な話もいいですね。
大変集中して拝読させて頂きました。
夢だったから面白かったとか言えるんですけれどもw
メリーの悪夢はどんなだったのか気になる。
ただ夢を交わし合うほどの二人が、これから先に茨の道を辿ったとしても、二人でならきっと良くはならずとも悪い結末を回避していってくれると信じたいです。
不安が無駄に膨らんだり、常識的にありえない行為を当たり前として受け入れたり
夢の中身がそのまま現実になるとは限らないのに、本気で焦るメリーかわいい
けど、夢の中身がぜんぶメリーの思い込みじゃなくって、きちんと蓮子と繋がっているとわかったときはホッとしました
夢の蓮子≠現実の蓮子だったら、夢の通りでなくても、メリーは不幸になったでしょうし
実に「小説」を読んだという気持ちにさせられました。どうもありがとう。
読んでる途中夢の中に居るような不安感がありました
面白かったし最後でニヤリとしました
これでバッドエンドだったらトラウマ物だったかも
お互いに相手の夢を見られるような仲なんだから何があっても乗り越えられるはず
しかし自分もこんな夢見そうで怖いですね
貴方の書く二人は血の通った人間に感じられるのです
私としては解説も必要なく、疑問を感じずに最後まで理解できましたよ。
ぬーべーの枕返しの話の大学生版という感じで、当時の恐怖が蘇って来ました。
メリーの苦しみに胸が締め付けられ、
蓮子の悲しみに涙し、
最後に二人がお互いに言葉を選んでいるシーンがなんとも愛おしくてたまりませんでした。
お互いを想う心があれば同じ間違いはしないと思うのですよ。
二人に幸あれ。
たまらん!
僕を思い出して・・・
蓮子さんからメリーさんへの言葉なんですね、あの蓮子が見るはずだった夢は蓮子に向けたのかそれともメリーに向けたのか気になりますね、視点もどうなっていたのか。
蓮子が見たメリーの夢も同じ感じなんでしょうか・・・
しかし二人には到達してほしくない未来だなぁ、おたがい日々が変わり進んでいくなか、同じ変わらないものを見続けれれば良いなぁ。
いっそのことこいつら結婚しろww
二人の「夢違」がどういう結末を迎えるか、
最後まで引き込まれて読んでしまいました。
やはり秘封は良いですね。
蓮子がみていたメリーの悪夢も読んでみたいですね。
面白かったのにもう一度読みたいとは思わない・・・!
二次創作ならではの、設定のぶっ飛び具合が好感持てる。
ただ、個人的には最初から最後まで二人の信頼関係が崩れることなく、
人間関係以外の問題に二人で立ち向かう設定なんかも書いて欲しいなと感じました。
互いに思いやる気持ちを持つエンドで本当に良かったと思う。
この後の二人が幸せであることを祈りたいですね。
これでバッドエンドなら、しばらく立ち直れなかった。
健やかに育った人間なら、あの頃はよかったねとどんなに思っても、今が一番楽しいはずだ。
生きてるんだから。
こんなたくさんのかたに今も見ていただいているとは、この作品も幸せでしょう。
僕も幸せです。
秘封は書けば書くほど、あらたな一面が出てくるような、奥深いコンテンツだと思います。
これから書きますので、良かったらそのときまた読んでください。
蓮子とメリーって元々の舞台が現実世界な分、より身近で生々しいですね。
作中の二人の関係が、これからBestじゃなくてもBetterな方向に向かう事を願ってます。
内容には関係ないですが、この話が投稿されてからちょうど一年ですね
読むことができて良かったです
終盤の蓮子の独白が悲痛で見てられなかった・・・
最後に少しでも希望が見えて、救われました。
続編でも新作でも、またあなたの秘封SSが読みたいです。
前進する大切さが身に沁みるようだった。
あと最後のセリフをメリーなところに悶絶。
瞳を閉ざす蓮子を見て、それがわかる。
そんな小説でした。
文章が本当に生きているようです。
どこか、黒く感じました。面白かったです。
SSありがとう
始めから終わりまで、何か「違和感」と共に読み切った。
読み切って、違和感はまだあるが、これは心地よい違和感だ。
蓮子の姿が夢魔として、男の形を持って表れたことにはどんな意味があるのだろう。
きっと蓮子の見た夢魔は、女性的なあやかしの姿を取ったと思う。