人間とは往々にして常に何かを忘れている。
何度も聞いたはずの漢字の読み方、久しぶりに会った知人の名前、一昨日の晩御飯などなど。
人は他の動物達以上にモノを学ぶ生物であるが、同時に他の動物達以上にモノを忘れる生物なのである。
なんでも人間の脳の機能は全力を出せておらず、普段使われているのは全体の数%程でしかないとか。
だから一度見聞きしたものがするりと頭の中から抜け落ちている事があるという話だ。
仮に脳の力が常にフル稼働する様になるとしたら、人は忘れるという事をしなくなるかも知れない。
見た事聞いた事をすべて覚えていられ、楽しい思い出や学習内容の事をずっと忘れずに頭の中に保存できる。
話を聞くだけならすばらしい。そういうことが可能だとならば、なんとも興味深い話ではないだろうか。
しかし「忘れる」ということは、なくてはならない脳の優れた仕組みなのである。
例えば、辛い記憶、悲しい記憶、心の痛み、精神のトラウマ。あるいは恥ずかしい過去。
そういったものがいつまでも脳内に残っていて、いつでもそれが頭にちらつくというのは誰しもが嫌うはずだ。
ずっと辛い過去の事を考えて生きていたら、もしかしたらその人間はいつの日か発狂してしまうかもしれない。
苦しい記憶を脳の奥底に封じ込めて、消し去ってしまうという事が「忘れる」という事の真価なのではないか。
「忘れる」とは本来生物が獲得した防衛本能であり、実に素晴らしい機能なのだ。
だから僕はモノを忘れてしまうことを恥だとは思わないし、物忘れが激しい人を軽蔑したりもしない。
むしろモノを忘れるという事を誇りに思い、これを多いに活用していくべきなのではないかと思う次第なのである────
「そんな屁理屈が通るわけないでしょ」
ジト目でこちらを睨んだ慧ちゃんがピシャリと僕の言を撥ね付けた。
僕はその言葉に渋い顔をしつつも硯で墨を磨(す)りつつ文句を言う。
「屁理屈だって立派な理屈だよ。何も間違った事は言ってないじゃないか」
「そうね、確かに霖ちゃんの言う事は正しいのかも知れない。でも今この場でそれを主張するのは間違い」
僕の隣で和紙を前にして、同じく墨をすっていた幼馴染みの上白沢慧音──僕は慧ちゃんと呼んでいる──はため息をついて手を止め僕に向き直った。
それを横目にしつつも僕は半ばヤケクソのような面持ちで墨を磨り続ける。
この墨を磨る作業というものは実に面倒くさくてやってられない。
いつの日か、墨汁がそのまま出来ていてすぐにでも文字が書ける様になったりしないものだろうか…。
「霖ちゃんが歴史が嫌いなのは分かるけどさ。それでもやらなくちゃダメなのよ」
「どうやったってこんなに覚えられないよ。量が多すぎてわけがわからない」
「少なくとも、私たちが寺子屋で習った事は全部覚えてなきゃいけないのよ」
「なんでさ。こんなの忘れちゃったって別に良いじゃないか」
「だって覚えずに試験やったら霖ちゃん落第しちゃうよ?それでもいいの?」
「…よかないよ。よかないけどさぁ」
諭すような口調で言葉を放つ慧ちゃんに、僕もため息をついて墨を磨る作業を中断して顔を向ける。
僕の顔の正面にあった慧ちゃんの顔はちょっと怒ったような困ったような顔だった。
その顔に向かって僕は力なく言葉を放り投げる。
「昔の偉い人の名前なんてどうでもいいよ。慧ちゃんだってそうおもうだろ?」
「偉い人、じゃなくて天皇陛下、でしょ。先生が覚えろって言うんだから覚えなきゃ」
「ふ~ん。慧ちゃんは大人に言われた事しか出来ないのか。頭が固い子供なんだね。それだからダメなんだよ」
「……そうね。確かに私は頭が固いかも……ねっ!」
「いっだぁ!?」
ごっちん。
いきなり慧ちゃんが座ったまま僕の肩を両手でつかんで引き寄せ、思いっきり頭突きを食らわせて来た。
前頭部に走ったあまりの衝撃に僕は思わず涙を浮かべて頭を抱えた。
「痛いじゃないか。なにをするんだよ!」
「ふん、だ。霖ちゃんが悪いんだからね」
「今ので今日覚えたことを全部忘れた。いったいどうしてくれるんだ」
「知らないわよ。自業自得でしょ」
慧ちゃんはぷりぷりとした表情を作って僕から顔を背け、また墨を磨る作業に戻ってしまった。
僕も片手で頭を抑えて渋面を作りながら、頭の痛さを誤摩化すようにさっきよりも勢い良くガシガシと墨を磨り始めた。
それが終わると筆を手に取ってたっぷりと墨を含ませ、そして教科書を開いて内容を目の前の紙に移し始めた。
そうだ、明日は大事な大事な寺子屋の進級試験なのだ。
もしここで合格できなかったら僕は進級できず、下の子供達と一緒に今年習った事をまた習わないといけない。
そうなればこれから先は慧ちゃんと一緒に授業を受ける事が出来ないし、慧ちゃん本人にも馬鹿にされてしまう。
歴史の勉強は苦手だが、なんとしてもこの試験だけは落とすわけにはいかないのだ。
僕は嫌々ながらも一心に教科書の中身をひたすら暗記する作業に努めた。
ピーーーーーーーーーーッ!!!
いきなり響き渡ってきた絹を裂くような鋭い音にカウンターに突っ伏していた僕は飛び起きた。
「な、なんだ、どうした!?」
独り言を言いながら慌てて周囲を見回し、そしてそれが火にかけっぱなしだったやかんの音だと気づくと、
僕は急いで台所に駆け込んで火を消し、鎮火を確認してふうとため息をついた。
そうだ。確かお茶を入れようとしてたんだっけ。お湯が沸くのを待ってていつの間にかうとうとしてしまったようだ。
本来の目的を思い出して僕は寝ぼけ眼をこすりつつ急須にお湯を移し、それから湯のみを取り出してお茶を淹れた。
店の中に戻り、カウンターに座って熱いお茶を一口すすり、ほうと暖かい息を吐き出す。
そしてさっきまで見ていた夢を改めて思い出し、誰ともなしに呟いた。
「随分昔の夢をみたな…」
それは遠い日の、今まで特に思い出そうともしなかった記憶。
そう、幼なじみの上白沢慧音と一緒に寺子屋で勉強していた頃の記憶だった。
もうあれから何年経つだろう。数えるのも億劫だ。あの頃から僕は小難しい理屈をこねくり回していたんだな。
夢の中の、ペラペラと得意げに考えを語っていた自分の姿を断片的に思い出してなんだか僕は気恥ずかしくなった。
なんというか、若くて未熟な頃の自分を思い返すと声を上げて布団の上でのたうち回りたくなってしまう。
なるほど、こういう思いをしたくないから普段の僕らは昔の記憶を封印しているというわけだな。
昔の僕もなかなかイイトコ突いてるじゃないか。こりゃあ将来有望だな。
まあその将来というのが今の僕という事なのだけど。
「霖ちゃん、ね…」
僕は夢の別の一部分を取り上げ、またぽつりと言葉を漏らした。
そうか。あのときの僕らはああいう風に呼び合っていたんだな。霖ちゃんだの慧ちゃんだの、いやはや若さを感じさせる。
お互いが立派に…いや、自分が立派かどうかは分からないが、ともかく大人として成長した今となっては考えられなかった。
やはりあれは子供だったからこそ許されたものだったのだろう。今ではとても恥ずかしくて使えそうにないな。
僕はもう一口お茶をすすって所在も無く目線を店内にさまよわせ、彼女は元気でしっかりやっているだろうか、と考えた。
僕は最近彼女と会っていない。
僕の友人、上白沢慧音は人里で人間の守護者をする傍らに寺子屋で教師をつとめている。
僕が霧雨道具店での修行を終えて独り立ちする時に人里で開業するよう彼女から勧められたが、結局僕はここに店を開いた。
確かに人里ならお客はたくさん来るだろうが、お客よりも道具と触れ合いたかった僕にはそちらの方が好都合だったからだ。
それ以来、僕は人里にあまり顔を出さなくなったし、それに伴って慧音と顔を合わせる機会も減っていった。
ふと、僕は壁に掛けてあった時計をちらりと見た。
時刻は三時半を少し回ったというところ。お八つ時にはちょうどいい頃合いだ。
「……たまには行ってみるか」
僕は湯のみに半分以上入っていたお茶を一気に飲み干すと立ち上がり、出かける支度を始めた。
僕の正面から子供達が二、三人駆けて来て僕の傍を通り過ぎていった。
僕は振り返ってその様子を見送ってやる。子供達は走りながら楽しそうに声を上げてはしゃいでいた。
元気だな、とまず思い、それから昔の僕もああいう風に元気に見えたのだろうか、と考えた。
自分が活発な少年だったとは思わないが、子供なんて大人からすれば誰も彼も元気に見えたものだろう。
久々に訪れた人里は相変わらずのどかな雰囲気に包まれていた。
幻想郷に生きる人間達が寄り集まって暮らす場所。半分人間の血が混ざった僕も、昔はここで暮らしていた。
どこか懐かしさを漂わせる空気。僕は深呼吸してその空気をいっぱい肺の中に取り込んでから吐き出した。
「…さて、どうしようかな」
思い立ったが吉日の精神でぶらりと人里まで歩いて来たはいいものの、目的がないためどうしたらいいかとんと分からなかった。
こう言う時は何も考えずに歩くに限る。足の赴くままに任せるのが一番良いのだ。
僕は何かを為そうとする意志もないままに歩き出した。
と、十歩ほど歩いた所で僕ははたと立ち止まる。
その目線は僕の正面にある八百屋の店先に向いていた。
八百屋自体は珍しいものでもなんでもないが、その店先で商品を見定めていた人物に僕は見覚えがあった。
淡い青色のメッシュが入った長い綺麗な銀髪。
その頭にはなにやら奇妙な形をした帽子がちょこんと乗っかっている。
その身に纏う衣服は全体的に青を基調としてその人物を特徴づけていた。
見紛うはずもない、僕の幼馴染み。人里を守護するワーハクタクの少女。
彼女は野菜をあれこれと手に取ってはどれを買おうか悩んでいる様子だった。
僕はそんな彼女につかつかと後ろから歩み寄り、肩にポンと手を置いて声を掛けた。
「やあ、慧音」
「ふおお!?」
いきなり肩を叩かれたことに驚いたのか、慧音はビクッとこちらを振り返った。
そのあまりの勢いの良さに僕も少々面食らってしまう。
緊張した顔つきで振り返った慧音は、自分に声を掛けたのが誰であるかを確認するとその顔を緩めた。
「なんだ、霖之助か」
「なんだとはご挨拶じゃないか」
「突然間近で声をかけるんじゃない。驚くだろうが」
「はは、悪かったね」
僕は軽く笑って慧音の文句をいなした。
慧音もそこまで気にすることではないと思ったのか、また野菜を鑑定する作業に戻った。
そして何個か良いものを見繕うと八百屋のおっちゃんに声を掛ける。
「すいません、これください」
「はい、毎度!いつもありがとうね!」
おっちゃんはてきぱきと野菜を袋に詰め込んで代金を慧音に告げる。
慧音は懐からがま口を取り出してその中から言われた金額をおっちゃんに手渡した。
おっちゃんは渡された金額を確かめて頷くと野菜を慧音に渡し、また来て頂戴ね、と気さくに笑った。
慧音もそれに微笑んで返す。その様子を僕は突っ立って端から眺めていた。
と、野菜の袋を片手にぶら下げた慧音がこちらに向き直った。
「さて、霖之助。久しぶりだな」
「ああ、そうだね」
「出不精のお前がここまで来るとは珍しいじゃないか、ん?」
「なにを言っているんだい。僕は出不精なんかじゃないよ」
「ふん。どうだかな」
「もう寺子屋の授業は終わったのかい?」
「ああ、終わったぞ。だからこうして買い物をしてるというわけだ」
「ふむ、まあ授業中に買い物は出来ないだろうしね」
「当然だ」
久しぶりにあったにも関わらず、お互いすらすらと言葉が出てくる。
最後に慧音とあったのは一体いつだったろうか。それももう忘れてしまった。
しかしそれでも僕と慧音の会話は淀みないものであった。
「まあ、こんな店先で立ち話をしていたらお店にも迷惑だろう。動いた方がいいんじゃないか」
「そうだな。それがいいだろう」
「さて、それじゃどこへいこうか」
「そんなもの、歩きながら考えればいいさ」
このようなやり取りをして僕らは八百屋から離れ、並んで歩き出した。
穏やかな風が吹き、僕と慧音の髪を揺らしていく。
僕たちは他愛のない事を語り合いつつ、人里の中をのんびりと歩いていった。
「あ……」
「どうした?」
割と長いこと人里の中をぶらついていた気がする。
ふと慧音が声をあげて足を止めた。僕もそれに倣って足を止め、慧音の顔を覗き込む。
「…家に着いてしまった」
慧音の視線の方向に目を向けると、そこには一軒の家が建っていた。
表札を見ると「上白沢」と書いてある。
どうやら彼女は歩きながらの話に夢中になっていく内に、足が無意識に自宅へ向いてしまったらしい。
そして僕もそれにひょこひょこくっついてここまで来てしまったというわけだ。
まあ彼女は荷物もあるしこのまま家に入っていくのだろうが、ここから僕はどうしたものだろうか。
久々に慧音と会えたのは楽しかったし、割と満足してしまった気がする。僕も自分の家に帰っていってしまっても良いかな。
腕を組み、片手で顎を撫でながら考えていると慧音が僕に向かって言った。
「あ、あがっていくか?」
「ん?いいのかい?」
「まぁ、なんだ。久しぶりにお前に会ったわけだしな。このままさようならってのもなんだかつまらないじゃないか」
なんだか話足りないしな。
彼女は横を向きつつ、荷物を持った方とは反対の手で頬をポリポリと掻きながらそう続けた。
その様子に僕もなんだか釣られてしまったのかなんなのか、同意の旨を伝えることにした。
「…確かに、そうかもしれない。なんだか僕もそんな気がしてきたよ」
「よし、それならウチに上がってゆっくりしていくといい。歓迎するぞ」
慧音は嬉しそうに玄関に駆け寄ると、鍵を取り出して錠を外し扉を開けた。
そしてちょいちょいと僕を手招きするとさっさと中へ入ってしまった。
僕も慧音の招きに有り難く誘われて戸口から慧音の家へ吸い込まれていく。
そういえば、子供の時に慧音の家に入ったことはあっただろうか。思い出そうとしたが、心当たりは見つからなかった。
僕が玄関の敷居をまたいで土間に入ると、既に靴を脱いで上がっていた慧音が腰に両手を当ててニヤリと笑い僕に言った。
「霖之助。ぶぶ漬けでも食べるか?」
「…君は僕に上がって欲しいのか帰って欲しいのかどっちなんだね」
「なに、ほんの冗談だ。あまり気にするなよ」
慧音はけらけら笑うと野菜の袋を抱えて奥の方に行ってしまった。
一人玄関に残された僕は頭を掻いて溜め息をつくと履物を脱いで慧音の家に上がらせてもらった。
京都地方では、家に長居するお客に帰って欲しい時に「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」と言う。
これは言外に、もう御飯時ですよ、貴方もそろそろお帰りになってはどうですか?という意味を持つらしい。
お客様に直接「いい加減帰ってくれ」というのは失礼であるから、遠回しに表現した言葉だそうだ。
ちなみにぶぶ漬けとはお茶漬けのことを指す方言である。相手のことを気遣った、なんとも美しい言い回しだと思う。
しかし自分で招いたお客に、しかも家に入れた途端にそれを言うのはどうなのだろうか。
「とりあえず居間でくつろいでいてくれー」
「ああ、わかったよ」
家の奥の方から声を掛けてくる慧音に返事をして居間に入り、畳の上にどっこいしょと腰を下ろした。
こういう時に自然に声が出てしまうのだから、自分も歳を取ったなぁとしみじみ実感してしまう。
僕は子供の頃に良くそうしたように、胡座を組んだままごろんと達磨のように横に転がってみた。
畳の爽やかな香りが僕の鼻孔を刺激する。こうやってだらけることも最近めっきり減っていた。
「はっはっは、なんだそれは。昔のマネか?」
「なんだか無性にやりたくなってね」
煎餅を抱えた慧音が居間に入ってきて、僕が転がっている様を見るなり笑い始めた。
僕は笑う慧音に言葉を返すと、体を起こして畳の上に座りなおす。
そう言えば、昔も慧音はよくごろんごろんと転がっていた僕を見ては笑っていたっけな。
帽子を外して気持ち的にラフな格好になった慧音がちゃぶ台の上に煎餅を置いた。
「お茶を淹れてくるよ。それまでそれでも食べてろ」
「いや、どうもおかまいなく」
「遠慮するな。私とお前の仲だろ」
それだけ言って慧音はまた居間から出て行った。
僕は手を伸ばして煎餅を掴み、バリッと噛み付いた。
たまにはこういうシンプルなお菓子もいいな。ボリボリと固い煎餅を噛み砕きながらそう思う。
それから慧音が湯呑みと急須を盆に載せて戻ってきてお茶を淹れてくれた。
僕たちはお茶とお菓子を楽しみながらちゃぶ台を挟んでまた話に花を咲かせ始めた。
既に遠くの方では、カラス達がカアカアと合唱を始めていた。
「む……どうやら随分長居をしてしまったな」
「おや、もうこんな時間か。時が経つのは早いものだな。なんなら夕飯も食べていくか?」
「なに、それには及ばない。そろそろお暇させてもらうよ。お茶と煎餅、ごちそうさま」
「気にするな。私も楽しかったぞ」
いつの間にか日もとっぷりと暮れていた。下らぬ話に少し夢中になりすぎたのかも知れない。
家の中もさっきまで茜色に染まっていたが、それもだんだんと薄まってきて代わりに闇の色が増えてきたようだ。
流石にこれ以上の長居は慧音にも迷惑がかかってしまうだろう。
僕はもう何杯目になるかも覚えていないお茶を飲み干し、膝に手をついて立ち上がろうとした。
が。
「ん…!?」
「どうした?」
「あ、足が…」
立てなかった。
長時間胡座をかいていた為か、すっかり足が痺れてしまっていたのだ。
まったく、この足の痺れという奴はいくつになっても辛いものだ。あまり長いお付き合いはしたくないな。
足の痺れに耐えながら、同じようにずっと座っていた慧音は大丈夫だろうかとそちらを振り向いて僕は顔を強張らせた。
彼女はなにやら口元を歪めて微笑を浮かべていた。小言で「なるほど、なるほど」とか言っている。
瞬間、僕の背中に冷たい汗が流れた。そして慧音はその顔を維持したまま僕に聞いてきた。
「霖之助?足が痺れたのか?痺れたんだな?ん?」
「おい、待て。馬鹿。やめろ。早まるんじゃない。来るな。イイ笑顔をするな」
「どこだ?ここか?この辺か?ほれほれどうだ」
「ばっ…やめ、やめろっ…つつくなっ……!」
慧音は痺れた様子もなくさっと立ち上がって僕の傍に寄ると、足を伸ばしてちょいちょいと僕のふくらはぎ辺りを突っついてきた。
その一瞬で僕の足になんとも例えようの無い刺激が走り、僕はそれ以上声を出すことも叶わず悶絶する羽目となった。
すぐにでも逃げ出したいが、足が痺れているためそれも出来ない。
慧音は足の先っぽで微妙な振動を断続的に僕に与えてきて、その度に僕は歯を食いしばって耐える。くそ、何の拷問だこれは。
20秒ほどその拷問が続けられ、ようやく足の痺れが無くなった僕は力つきてバッタリと畳の上に倒れ伏してしまった。
「なんだ、もうおねんねか?だらしがないな霖之助は」
「…いい性格をしてるよ、君は」
僕を見下ろして笑う慧音に僕はせめてもの皮肉を返すが、それが精一杯だった。
僕は力なく立ち上がり、ふらふらと玄関の方へ歩いていく。
そして土間に降りて靴を履くと玄関の扉を開け放って外の世界へ飛びだした。
慧音も見送りの為か、同じように靴を履いて家の前まで出てきた。
辺りはすっかりと闇とわずかな太陽の光に包まれ、吹く風も冷たくなっていた。
もうすぐ太陽も完全に沈み、夜の世界がやってくることだろう。
そうならないうちにとっとと家まで帰ってしまうとするか。
「じゃあ、また会おう」
「あ、ちょっといいか?」
軽く別れの挨拶をして背を向けようとした僕を慧音が呼び止めた。
僕は怪訝な表情で彼女の顔を見る。
「なんだい?」
「なに、別れる前にお前がわざわざ人里まで来た理由でも聞こうと思ってな」
「…僕が人里に居たらおかしいかな」
「おかしくはないさ。ただ、少々心配になって」
「心配に?」
「お前が自分の店を開いてからというもの、こちらに来ることは少なくなったじゃないか。
こうして私とお前が話すのも結構久しいことだ。
普段はお前は店から動こうともしないみたいだし…だから、お前に何かあったのかと思ってな」
慧音が真っすぐに僕を見つめてくる。僕は瞬きしてその目を静かに見返した。
慧音は純粋に僕のことを気遣っているようだった。
別に大した理由はない。ふと、なんとなく久々に人里へ行ってみようと思っただけだ。
確かに僕はあまり人里へ行くことは少ないけれど、僕にだってたまにはそういうことはあるんだ。
だから、君が心配することは何もない。
その旨を伝えようとして口を開きかけ、その刹那にあることを思い出した。
昼間にうとうととした僕が見た、幼き日の夢。
慧音と一緒に人里の寺子屋へ通っていた頃の夢。
仲良くあだ名でお互いを呼び合っていた頃の夢。
夢に誘われるようにふらりと訪れた人里で、何の因果かその慧音とたまたま出会ってこんな時間まで語り合ってしまった。
あの夢を見たからこそ、僕は人里に行ってみようかと思ったのだ。強いて理由をあげるならそういうことがあった。
「…別に大したことじゃないよ。ただね…」
そこまで喋ってから僕は言葉を切って考えを巡らせた。
……そう言えばさっきは慧音に良い様にされてしまったな。
ならば、仕返しに一つからかってやっても罰はあたるまい。
そう考えて僕は左手の中指で眼鏡をクイッと押し上げ、堂々と慧音に向かって言ってやった。
「ただ、久々に慧ちゃんの顔が見たくなってね。だからこうして会いに来てしまったというわけだよ」
一瞬慧音がぽかんとした表情になり、その後にポフン、と音をあげそうな程に顔を赤く染めあげた。
「なっ……ななな、なにを言ってるんだお前は!?」
「おや、人里の守護者である慧ちゃんもそんな風に慌てることがあるんだね?」
顔に両手を当てて柄にもなくおろおろとする慧音に僕はニヤニヤと追い討ちをかけてやる。
「べっ、別に慌ててなんか…!」
「そうかな?行動と言動が一致してない様に思うけど」
「だ、だって、お前がその、変なこと言うから…さっきの呼び方だって、その…」
「いいじゃないか。たまには昔の呼び方を使ったって。君も僕の事を昔のように霖ちゃんと呼んだって良いんだよ?」
「いっ、今さらそんな恥ずかしい事が出来るわけないだろう!ばかっ!ばーか!」
照れ隠しなのか、慧音が僕に向かって罵詈雑言を投げつけてきた。
僕は笑いながらそれをひょいひょいと受け流してゆく。
「そんなに照れなくたっていいじゃないか。君らしくもない」
「おっ、お前のほうが、らしくないことを言ってるだろうが!?」
「別に嘘は言ってないよ。慧ちゃんに会いたくなったのは本当だし」
「え、え、ええ!?」
「ほらほら、また慌ててる。もっと慧ちゃんは冷静な人でなきゃ」
「……あぅ」
僕は怒濤のごとくからかいの言葉を投げつけてゆき、ついに慧音は真っ赤になって俯いてしまった。
久々に慧ちゃんと呼ばれるのが恥ずかしくもあるのだろう。どうやら仕返しは上手く成功したようだ。あまり恨んでくれるなよ、慧音。
長い事見れていなかった彼女の慌てっぷりに僕は満足した気分だった。
と、いきなり慧音が両手を伸ばし、がしりと僕の両肩を掴んだ。
少し驚いて彼女の顔を見ると、彼女は少しばかり目に涙を浮かべて肩をわなわなとふるわせている。
手を振り払おうと思ったが、思ったより彼女の力が強く逃れられない……って待て。なんか素晴らしく嫌な予感がする。
「いいだろう、霖之助。私の怖さをその身によ~く叩き込んでやる」
「ど、どうした慧ちゃん。なんだか顔が恐いぞ」
「教えてやろう。私をからかったら一体どうなるかを」
「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ。悪かった。僕が悪かった。だからそれだけはやめ」
「問!答!無用!!」
ごっちん。
久々に食らった必殺の頭突きは、昔とまったく威力が変わる事がなく僕の脳髄を震撼させた。
頭がくらくらとして目の前に火花が散り、僕は思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「………いってぇ」
「ふん!お前が悪い!完全にお前が悪い!」
自然に漏れたつぶやきに慧音が腕を組んで憤然と言い返して来た。
「…まだまだ衰えてないな。その頭突き。相変わらず頭が固いと見える」
「なんならもう一発やってやろうか!?」
「謹んで遠慮するよ」
慧音はまだ怒りをおさめる様子もなく言葉を投げつけてくる。
う~む、少しやりすぎてしまったかな。僕は頭をさすりつつ立ち上がった。
「でもまぁ、その、私の顔が見たくなったっていうのは、嬉しかったぞ」
「何か言ったかい」
「……なんでもない!」
慧音がそっぽを向きつつぶつぶつと呟いていたが僕には聞こえなかった。
素直に聞き返すと慧音はまた怒った口調で僕を怒鳴りつけた。
「ほら、お前なんかもうどっかへ行ってしまえこの馬鹿者!」
「……そうだね、そろそろ帰るとするかな。からかってごめんよ慧ちゃん」
「謝るつもりがあるのなら、その呼び方をやめろ!」
慧音がまたまた僕に怒鳴り、僕はごめんごめんと言って自宅の方角へ歩き出した。
顔に吹き付ける風が冷たい。もう秋もだいぶ深まって来たようだ。そろそろ暖房機器にスイッチが入る頃かな…。
と、数十歩程歩いたところでいきなり後ろから鋭い声が飛んだ。
「霖ちゃん!」
僕は驚いて振り返る。慧音はまだ家の外にいた。
僕を霖ちゃんと呼んだ僕の幼馴染みは、僕の事を呼び止めておきながら俯いて自分の足元を見つめていた。
僕はその場で彼女が何か言い出すのを待っていたのだが、なかなか顔を上げようとしないのでこちらから声を掛けた。
「なにかな?」
「……ええっと」
慧音はなにやら口をもごもごとさせていたようだが、何かを決心したようキッと顔を上げた。
そして思いっきり息を吸い込むと、大声で叫んだ。
「…また、私に会いに来てね!その、ずっと待ってるから!!」
そう言うや否や、慧音は顔を真っ赤にして家の中に駆け込んでいってしまった。
僕は半ば呆然とした表情でその姿を見送る。
どれくらいそうしていただろうか。僕はハッと我にかえった。
そして一人頷くと、さっきまで慧音がいたところへ声を掛ける。
「…また、会いに行くよ」
僕はそう言ってくるりと踵を返すと自宅の方角へ向けて今度こそ歩き出す。
太陽はすっかり地平線の彼方へ沈み、辺りは真っ暗な闇に包まれている。
人里の家々から漏れる灯りを頼りにしながら僕は静かに歩みを進めてゆく。
今度からは、もっと頻繁に人里に訪れよう。そして慧音のところへ顔を出すようにしようと思いつつ。
草むらから聞こえてくる松虫の澄んだ声だけが周囲に響き渡っていた。
読んでる間ニヤニヤが治まらなかったです
いやあ、にやにやしてしまう。
いやぁいいもの見させてもらったわーw
良い慧霖でした
慧ちゃん? ふーん。
そ、そんな見え見えの釣り針に……釣られ…………釣られ…………っ
クマーッ!!!
ふぅ、やっぱり親しまれているだけのことはあるな幼馴染ネタは!!
まったく、慧霖は最高だぜ!! この二人の仲睦まじさを里の人間に目撃されるんだ!
そして結婚を前提にしてると流布するんだ、さあ!
次は元カノ説のある幽香でよろ
並ぶと絵になるし、雰囲気がもう最高。
幼馴染設定万歳!
どうやら私は貴方の作品に夢中になってしまったようだ
しかしまぁ慧ちゃんとw
ふいに友人に会いたくなりましたw
安心のペースと甘さですね。次回も楽しみにしてます。
霖ちゃんは魔理沙と妹紅に見つかってスパークヴォルケイネされるべき。
これはツボった!
これはいいものだ…!
なぜ今までメジャーではなかったのか。超流行るべき。
ただ久しぶりに会いたいってなりますよね。この霖之助みたいに。
霖ちゃん可愛い!