「虹の根元を見に行きましょう」
予兆や伏線など、何一つ無かった。
傷だらけの身体と空虚な心を引きずった私の前に、その女は突如現れ、そして手を差し伸べた。
しとしとと雨が降り注ぐ森の中、二人の妖怪は静かに互いの瞳を見つめあう。
なんて奥深く、透き通った眼なのだろう、空ろな心でそのような事を想う。
彼女が自分よりも高貴な妖怪で在る事は、一目見ただけで明らかであった。
彼女の誘いに乗るか乗らないか。
その問いに対する自分の答えなど、始めから決まっていた。
大妖怪が恐ろしかったからでも、虹の根元とやらに興味があった訳でもない。
ただ、もう一度私に生きる目的を与えてくれる、それだけで私にとっては十分だったのだ。
――――――――――――虹の見る夢――――――――――――
「傷はもう大丈夫かしら」
「まぁ、大体はな。これでも治癒力には自信がある」
前を歩く女は、私の返答を聞いて「そう」と小さく微笑んだ。
雲一つない青空の下、妖怪二人は虹の根元を求めて、山間の細道を南へと進む。
二人して見た目は人間と遜色無い為、旅人から情報を集めるのにも苦労しないとは彼女の言だ。
この旅を始めて既に数日、私にも少しだけだが彼女の事がわかってきた。
空間を意のままに操るという、大妖怪に相応しい圧倒的なまでの力。
ただし本人の体力はまるで人間並で、少し歩いただけで休憩を要する体たらく。
古今東西、知らぬものは何一つ無いのではないのかと思わせるほどの数多の知識。
しかしそれが正しいのかどうか証明できない物も多く、彼女自身何処から知識を得たのかすら覚えていないという胡散臭さ。
まぁ、要するに何処までも掴みどころの無い女だ、と言うのがここ数日間で掴んだ彼女の特徴である。
いや、何も掴んでいない気もするが。
おそらく聡明な彼女の事、私が傷を負っていた理由など、とうにわかっているのだろう。
それでいて無遠慮に踏み込んでこないのは、彼女なりの気遣いと言ったところか、それとも単に興味がないのか。
何れにせよ、これから旅を共にする上で、余り自分の素性を気にされないのはありがたいと思えた。
勿論、私としても彼女の素性に突っ込むような事はするつもりはない。
問いただしたいと思うのは、もっと別の事だ。
「なぁ」
私の乱雑な呼びかけに応じてか、女はその場で足を止めた。
普段は互いに無言で歩くか、相手の呼びかけに私が適当に応対するだけ、こちらから声を掛けたのは今のが初めてだった。
その事が余程嬉しかったのか、女はにへらと気色の悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと私の方向へと向き直る。
「何かしら?」
「お前は本当にその『虹の根元』とやらを探しているのか」
「探しているわよ。だからこうして旅をしているんじゃない」
「私にはどうもそうは見えない。旅とは言うが、ここまで寄り道ばかりで、大した距離も進んでいないではないか。第一虹に根元など―――――」
虹に根元などある筈が無い、その言葉を女の悲しげな瞳が遮った。
虹の根元の存在に対する自信の無さなどではなく、その存在を知らない私に対する哀れみ、そんな眼であった。
「言ったでしょう。私達が探しているのはただの虹じゃない。『虹蛇』と呼ばれる生きている虹よ。光の屈折や反射などではなく、正真正銘の生命なの。だとしたら、根元があったとして、何の不思議があると言うのかしら」
「その生きている虹とやらが既に幻想だろう、全く」
「幻想、ねぇ」
はじめに虹の根元と聞いた時は、てっきり何かの例えか、そう言った名前の財宝か何かだと思っていた。
しかし話を聞くに、どうやら彼女は本当にそのままの意味で虹の根元を探していると言うではないか。
幾ら目的を欲していた自分とて、達成しようの無い夢物語を追い求るのは、流石に馬鹿らしいと感じてしまう。
疲れたように大きく溜息を吐く私に対して、女は呆れたような顔で首を振る。
「これは実物を見せないと納得してくれそうも無いわね」
「ああ、その通りだ。とは言え私もこんなお遊びに何時までも付き合ってはいられない。お前と行動を共にするのは、私が他の目的を見つけられるまでの間だ」
「それで構わないわ。始めから貴女を拘束するつもりは無いもの」
そう言って女はくすくすとおかしそうに笑う。
この全てお見通しと言わんばかりの彼女の態度が、私は少しばかり苦手であった。
何処までも奥深いその瞳に射抜かれ、思わず目を逸らしてしまう。
「それじゃあ、貴女の為にも是非、虹蛇を見つけてあげないと」
「何が、見つけてあげないとね、だ。恩着せがましい」
「細かいことはいいじゃない。おさらいしておくけど、虹蛇も普通の虹と同じで雨上がりに姿を見せるわ。ただし、色の並びが逆だから一目見ればすぐわかる筈よ。それから」
「普通の虹とは違い、太陽を背にしていなくても見える、だろう」
「その通り」
女はくるりと背を向けると、再び南に向けて歩き出す。
空を見上げればそこに在るのは一面の青空と、容赦なく降り注ぐ陽光のみ。
曰く、この辺りは随分と日照り続きらしく、当分の間雨は望めそうにないとの事だ。
今の季節、雨が多いという南の山麓に向けて進むのは、確かに虹を探すには効率的なように思える。
とは言え……。
「のんびり歩いているのが、不満?」
私の心を読んだかのような女の言葉に、眉を顰める。
顔を上げてみれば、女はこちらには振り返りもせずに淡々とその足を前に進めている。
彼女の指摘の通り、私には何故空を飛ぶ事も出来る私達が、わざわざ真昼間に歩いて移動せねばならないのか理解できなかった。
それこそ夜を待ってから、翌朝雨が振りそうな場所にでも飛んでいけば済む話なのだ、ましてや空間を自在に操る事の出来る彼女ならば、瞬間移動とてお手の物ではないのか。
にも関わらず歩き旅に拘る結果、雨雲に追いつく事は愚か、雨の振りそうな地帯に赴くにも一苦労。
全くもって効率の悪い……それこそ、本気で虹の根元を見つける事を目的としているのか、と疑いを持ってしまうのも無理はないと言う物だ。
そんな私の心中での吐露に対して、女は歩みを止めずに背中越しに口を開く。
「貴女は、人間の時間を生き過ぎたわね」
「どういう意味だ? 空を飛んだ方が効率がいいと言うのが人間の発想か?」
「ええ、実に人間的だわ。寿命の短い人間らしい、とても時間に追われた考え方」
女は右手で日差しを遮りながら、大空を仰ぎ見る。
「私達の目の前には足が竦む程に莫大な時間が広がっている。そんなに生き急いでも仕方がないでしょう。人間のように目的に向けて一直線に走ってばかりでは、いずれ私達は壊れてしまうわ」
女の言いたい事は、漠然とだがわかる。
妖怪と人間とでは、身体の中で流れる時間が違う。
人間とは比べ物にならない程の長い生を与えられた妖怪にとって、一年二年の時などは一瞬と言って過言ではない。
それこそありもしない虹の根元とやらをふらふらと求めて、数年の時を犠牲にしようがさして気にする事もない。
そしてそれだけ長い時が残されているのならば、常に人間と同じペースで生き急いでも、いずれ息切れしてしまうと言うのもその通り。
時間の浪費と言う感覚のない妖怪からすれば、確かに彼女の考えの方が一般的、効率を重視して動こうとする私の方こそが異端なのだ。
しかし、彼女の皮肉通り人間に近づきすぎた私からすれば、時間に価値を見出さない妖怪の感覚には焦燥を覚えてしまう。
「だが、生き急ぐからこそ人間の進歩は著しい。このままではいつか、我々は人間に追いつけなくなってしまうぞ」
「そうやって生き急いだ結果、見落としてしまう物もあるわ」
私の焦りを一蹴しながら、女はおもむろに道端へとしゃがみ込む。
いきなり何だ、と目を細めてみると、女の視線の先には紫色をした小さな小さな花が一つ。
珍しい物なのか、周囲を軽く見渡してみるも同じような紫の花弁は見られない。
この国で長年生きてきた私としても、始めて見る植物だった。
女はその花を愛しそうに見つめながら、先程までとは違う優しげな口調で言葉を紡ぐ。
「別に効率的なやり方を否定したい訳じゃない。けれども、私達の目の前には数多くの未知が広がっているわ。その全てを知ってからでも、空を飛ぶのは遅くないでしょう?」
先ばかりを追い求め、そこに在る美しい物達を忘れてしまうのは悲しい事だ。
彼女の言は即ち、そう言う意味であった。
成程、確かに人間達は彼らの文明の進歩にあわせて、多くの大切な物を忘れていってしまうだろう。
今世界に満ちている多くの美しい現実が、いずれ幻想と成り果ててしまう日は必ず来る。
それを良しとしない彼女の心意気は、個人的にはとても好感を持てる。
だが女よ、賢明なお前ならばとうに気付いている筈。
人間達に忘れ去られ、存在しない幻想とされてしまうのは、我々妖怪達もまた決して例外では無いと言う事に。
喉まで出掛かった、確信めいたその言葉。
口にしてしまえば、何時か現実になってしまいそうで、私はすんでの所でそれを呑み込んだ。
―――――――――
ずっとずっと昔の話だ。
私がこの国ではなく、海を隔てた大陸で暮らしていた頃。
今よりもずっと愚かで、脆弱な一匹の妖怪狐であった頃。
間抜けにも倒木に足を挟まれ、身動きが出来なくなってしまった事があった。
今考えれば大きな木と言う訳でも無かったが、人間にも劣る当時の自分の力では、どかす事など出来よう筈もない。
食事が出来ずに腹は減るし、夜になれば肉を好む獣が跋扈するような場所だ、逆に獲物として狙われる可能性も十分に考えられた。
生まれて初めて襲い掛かってきた絶体絶命の危機、幼心に感じられた恐怖は今でも鮮明に覚えている。
そんな恐怖と絶望から、私を救い出してくれたのは人間だった。
未だ少年と呼ぶに相応しい、一人の年若き男が、私の足に乗っかった倒木をどけようとしてくれたのだ。
恐らく彼は私を妖怪だとは気付かなかったのだろう、哀れな子狐を助けようと、その衣服を汚しながら必死で倒木を持ち上げようとした。
そしてほんの一瞬、足に圧し掛かる重みが無くなったのを見計らい、私は何とか窮地を脱出する事が出来た。
私は命を救われたのだ。
胸が一杯になった気分だった。
人間に対する警戒心から、その場は逃げ出す事しか出来なかったが、男に対する感謝の念は日に日に強くなっていった。
彼は私の命の恩人なのだから。
何とかして彼の恩に報いたい。
いつの間にか私はそのような事ばかりを考えるようになっていた。
幼かった私の目には、彼が妖怪を助けてくれる英雄のように映っていたのだ。
彼が一国の皇子である事を知ったのは、それからしばらくしての事だった。
―――――――――
「ん……」
頭上で聞こえた鳥の鳴き声に、空ろであった意識が覚醒して行く。
どうやら何時の間にか、夢の世界へと落ちてしまっていたらしい。
緑が萌える山の中、水流と葉擦れの音色が丁度いい具合に子守唄になっていたようだ。
「っとと」
ふと手元に感じる重みに視線を上げてみれば、手製の釣竿が水面へと向けてしなりを上げているではないか。
慌てて竿を掴み直すが、その時には既に竿に掛かる重みは無し。
必死でもがいた事で針を外す事に成功した魚は、苦笑を浮かべる私を尻目に悠々と泳ぎ出していた。
どうやら私は居眠りで、夕食の魚を一匹逃がしてしまったらしい。
しまったなぁと頭を掻くが、それで魚が戻ってくるならば苦労しない。
幸い日没まではまだ十分に時間がある、あの我侭な女の機嫌を取るためにも、一匹でも多くの魚を釣るべくもう一度渓流へと釣り糸を垂れる。
「いや、何をやっているのだ、私は」
思わず口から疑問がついて出る。
いや、何をやっているかはわかっている、魚釣りだ。
問題は虹の根元を捜し求めるこの旅の途中で、どうしてこうものんびり魚釣りなどを行っているかである。
きっかけは女の「今日は一日お休みにしましょう」という今朝の一言だった。
彼女曰く、旅には休息も必要との事、また虹とは関係なく、少々この近辺で調べたいものがあるとの事だった。
しばらく旅を共にする事で既に彼女の方針は理解の上、とは言えただ単に丸一日休みを与えられたのでは、今度は自分のする事がなくなってしまう。
そう思い、一刻も早く虹の根元を見つける為何か自分に出来る事は無いかと尋ねた所、彼女からは素晴らしく明快な答えが返ってきたのだった。
「夕食は川魚がいいわ」と。
近場の渓流を露骨に指差しながら。
「……暢気なものだ」
魚釣りなどを命じる女も、それに素直に従って釣り糸を垂れる私も。
旅が始まった頃の私ならば、何を悠長なと噛み付いていただろう、そうしなかったのは知らず知らずの内に女の生き方に染まってきてしまっているからだろうか。
いや、単に女の暢気さに諦めがついただけとも言えるが。
疲れたように溜息を吐きながら、糸の先にある水面をぼんやり見つめ続ける。
周囲を包む穏やかな暖かさに、思わず欠伸が出た。
(随分と気持ちよく眠ってしまったな)
寝る間すら惜しんだ以前の自分が、酷く懐かしい物に思える。
今は旅をしているとは言え、休憩時間は十分にあるし、そもそも急ぐと言う概念が無い。
あの女に言わせるならば、目的に追われない今の在り方こそが『妖怪的』なのだろう。
悪くは無い、とは思う。
やはり自分も妖怪だからか、時間に追われて日々を過ごすより、こうしてただ時間が流れていくのを眺めている方が性に合っているのかもしれない。
とは言え、自分がかつては人間の生き方に身を置いてしまっていたのもまた事実で。
何か目的の為に動いていないと、どうにも落ち着かないと言うのは確かな本音の一つであった。
我ながら半端者になってしまったものだ、と一人ごちる。
人間の生き方が正しいのか、妖怪の生き方が正しいのか。
恐らくその問いに答えは無いのだろう、自分にあった生き方を選択するしかないのだ。
ただ、こうして『妖怪的』な生き方とやらに身を置いて初めてわかる事もある。
(こんなにも美しく、ゆったりとした時間が流れていたのだな、この国は)
川のせせらぎと葉擦れの音、小鳥の囀りが耳を心地よく撫でる。
ぼんやりと辺りを見回してみれば、木漏れ日と生い茂った緑が視界を彩っている。
かつて住んでいた大陸とはまた違う、青々とした自然の美しさ。
深緑の描く芸術の中、こうしてただまどろんでいるだけで、穏やかな気持ちになる事が出来る気がした。
ふと、先日の女の言葉が脳裏によぎる
『生き急いだ結果、見落としてしまう物もある』
彼女の言う『見落とす』とは、単に視界に入るかどうかではなく、感じ方なのだろうと思う。
この国を彩るあらゆる物を美しいと思う事が出来るか否か、大切だと思う事が出来るか否か、その違い。
あの女はきっと出来る側の存在なのだろう。
ならば人間は、と私は考える。
この雄大な自然ですら、彼らはいずれ、全力でひた走る内に忘れてしまうのだろうか。
理屈ではわかっていた筈の理、しかし実際に自分を包む緑の美しさを眺めていると、それがとても悲しい事のように思えてくる。
この彩を、失いたくないとすら思ってしまう。
ひょっとすると彼女は、こうして私を妖怪側に引きずり込む為、あえて魚釣りなどと言う仕事を与えたのだろうか。
「どうだろうなぁ」
自然と苦笑が零れた。
彼女の事だ、そこまで考えていても何らおかしくないし、逆に単純に魚が食べたかっただけと言うのも十分にありえる。
本当に掴み所の無い、よくわからない女だと、日々を重ねるごとにそんな印象が強くなる。
果たしてこの旅の中で、奴の本質を理解する機会はあるのだろうか。
あの胡散臭い女……そう、あの―――――ん?
(そう言えば、名も知らなかったか)
ますますおかしくなってしまう。
共に旅をしておきながら、互いに名乗りあってすらいないとは。
もっとも私は名を捨てた身だ、もしかしたら名乗らないのは彼女なりの私に対する配慮なのかもしれない。
いや、単純に「ねぇ」とか「ん」で通じるから、必要性を感じていないだけかも知れないが。
「ますますわからんなぁ……っと、来た来た」
手元に感じる引きに釣竿を上げてみれば、見事な魚が一匹水面から顔を出す。
結局彼女が何を思い、私に釣りを命じたかはわからない。
けれども、深緑に囲まれ、魚を待っていたその時間は、思ったよりもずっと短く感じられたのだった。
―――――――――
命を助けてくれた男が王を継いだと知って、私は幼心に何とも複雑な気持ちになった。
心優しき者が王となるのは国にとっては良い事かも知れない。
しかし恩返しをしたいと思っていた自分とって、相手の位が上がると言うのはその分だけ出会う機会が損なわれると言う意味だった。
以前はお忍びでこの山を訪れる事もあったそうだが、王になってしまってはそうも行くまい。
いっその事、彼がただの農民であってくれたならば、容易に会いに行く事も可能だったろうに。
詮無き事を思うが、既に彼が王となってしまったのは現実な訳で。
少なくとも妖怪狐の自分が、正攻法で彼に近づく事は不可能に近かった。
だから、私は王宮に忍び込む事にした。
妖怪としては未熟とは言え、身軽さには自信があった。
夜の闇に紛れてこの小さな身体を寝室に忍び込ませる事くらいは出来るだろう、そう信じて山を飛び出した。
今思えば酷く稚拙で無謀な行動だ。
しかし当時の幼い私には、それ以外の手段が思いつかなかったのだ。
そして、どうやら私は悪運だけは強かったらしい。
奇跡的にも人間に見つかる事なく王宮へと潜り込み、男と再び出会う事に成功したのだった。
男は私の事を覚えていた、そしてやはり思った通り心の優しい人間であった。
王宮に忍び込んだのだ、狐とは言え何をされても文句は言えない物を。
彼は決してその事を咎めようとはせず、かつて自分が救った存在との再会を心から喜び、はるばる訪ねてきた私を労ってくれた。
その態度は私が妖怪であると気付いてからも変わらない。
私を友として扱ってくれるばかりか、何時でも訪ねて来れるように手引きまでをもしてくれた。
まるで一国の王であると言うのが嘘であるかのように、ただの妖怪狐である私を大切にしてくれる人間。
私は覚えたての人間の言語で、「何か出来る事はないか」と彼に尋ねた。
当初の目的であった恩返しを行いたかったのだ。
しかし彼は、話し相手になってくれるだけでいい、とやんわりと私の申し出を断った。
私は彼の優しさを嬉しく思う反面、少々困ってしまった。
本当にこうして話し相手になっているだけで、彼の恩に報いられているのか不安だったのだ。
けれど何度尋ねても、彼はそれ以上は必要ないの一点張り。
自分で考えようにも、人間の王族が欲しがる物など見当が付く筈もない。
ならばせめてと思い、私は人間に化ける術を学んだ。
彼も話し相手が狐の姿では物足りないだろうし、寝室だけでしか気兼ねなく会話が出来ないのは不便だと私は考えたのだ。
とは言えすぐに上手く出来る程に簡単な術ではない。
初めて彼の前で変化の術を見せた際には、尻尾も耳も隠せず大笑いされてしまった。
来る日も来る日も変化の術を試してみては、男が笑いながら修正点を示す。
中々に成長しない私の技術だったが、彼が笑ってくれるので、失敗を苦とは思わなかった。
男の笑顔を見ているとこちらまで幸せな気分になれたのだ。
始めは恩返しのつもりだった筈なのに。
気付けば私は、この優しい王との日常がずっと続けばいいなどと思うようになってしまっていた。
彼の優しさが、脆さの裏返しであると言う事にすら気付けない程に、私は愚かだった。
―――――――――
「今日はこの辺りで休みましょうか」
乱れた息を整えながら、女は洞穴の入り口付近の岩へと腰を下ろす。
空を見上げてみれば、灰色の雲が暖かな日の光を遮っている。
成程、まだ日没までは時間があるとは言え、この空模様では雨を凌げる場所がある内に休んだ方が得策だろう。
ましてや我々は虹の現れそうな場所を探しているのだから尚更だ。
「恐らく夜から明日の明け方に掛けてって感じかしら。朝寝坊は厳禁だからそのつもりで」
女は空の様子を眺めながら、おおよその雨の降り方を予想する。
もともとの彼女の持っている知識ゆえか、それとも雨雲を追い続けた旅の成果か、彼女の天気に対する予測は非常に高い精度を誇っていた。
おかげさまで我々の旅は突発的な雨に襲われる事も少ないし、進むべき先もわかりやすく、進める事自体に苦労は少ないと言っていい。
もっとも肝心な虹の根元については、手掛かりの『て』の字も掴めていないのが現状だが。
それでも彼女に焦った様子は微塵も見られない。
「明日は、見つけられると良いわね」
「そう言い続けてもう三ヶ月だがな。一体何時になったら虹の根元とやらをお目に掛かれる事やら」
女とは対照的に、私は少しばかり焦っていた。
虹の根元が見つからないからではない、そんな物の存在を私は未だ信じてはいない。
問題は信じてもいない虹の根元を探す旅から、私が抜け出せなくなってしまっている事だ。
「でも、悪くはない三月だったでしょう」
「否定はしないさ」
不意に向けられた女の視線に、私は逃げるように目を逸らした。
この女に瞳の奥を覗き込まれようものなら、自分の迷いを全て読み取られてしまいそうだったから。
否、彼女の事だ、きっととうに私の迷いなど見抜いているのだろう。
私は単に、心の奥底を読まれてしまっている事が堪らなく恥ずかしくて、女を直視できないだけなのかもしれない。
この旅が始まってすぐの頃、私は能天気極まりない彼女の行動に否定的だった。
女は自分の在り方こそが妖怪的だと言ったが、私に言わせるならばそれは緩やかに滅びへと向かう道、いずれ人間に追いつけなくなる弱者の生き方だった。
傷が完全に癒えたら、すぐにでもこの女と別れ、次の目的となる物を探そう、そのような事を毎日考えていた。
しかしどうだろう、彼女と共に自らの足で歩み、様々な未知と出会ったこの三月は、私にとって存外悪くない時間……いや、それどころか実に充実した一時であった。
だからこそ、私は迷うのだ。
彼女に何時まで付いていくべきなのか、何時まで妖怪的な生き方とやらを続けるべきなのか。
虹の根元とやら以前に、私は自分の歩むべき道を見失い掛けていた。
「真面目ねぇ、貴女は」
外を眺めながら、独り言のように女がぽつり。
彼女はきっと、己の生き方に迷いが無いのだろう。
他を知らないからこその妄信ではなく、先を見通せないからこその無鉄砲でもなく。
人間の生も、いずれ忘れ去られる運命も、全てを知った上で、自身の在り方に絶対的な自信を持っている。
女の生き方が正しいかどうかはさておき、己の歩む道を見失わないという点については尊敬の念を禁じ得ない。
視線の先にある彼女の背中は、不思議とやけに大きな物に見えた。
「聞いていいか」
思い立つ前に、言葉が飛び出していた。
「お前はこれまでずっと、虹を探す旅をしていたのか?」
それは、私が初めて彼女の過去に対して口にした疑問だった。
らしくない、と自分に辟易しながらも、その疑問を決して呑み込もうとはしない。
私は、自分でも気付かないほど無意識の内に、女に対して興味を抱いてしまっていたのだ。
彼女と旅をする上で、勝手に自分で行ってきた線引き、自らが踏み込まれない為の予防線、それをこちらから一歩踏み込んでみせる。
何時の間にか私は彼女を、ただ自分に目的を与えてくれるだけの都合のいい存在とは、思えなくなってしまったらしい。
果たして、彼女にはそんな私のらしくない姿がどう映ったのか。
くすりとその表情に小さく笑みを浮かべると、曇り空を見つめながら口を開く。
「五年、といったところかしら」
「どうしてそこまでこだわれる」
「好きなのよ、虹。綺麗でしょう?」
「はぐらかすな。私は真剣に聞いているんだ」
「だから、真剣に答えているのよ」
彼女の纏う空気からは、偽りの気配は読み取れない。
困惑する私に対して、女はゆっくりと言葉を続ける。
「虹の根元の前は『旅をする沼』、更にその前は『音の消える洞窟』……好きなのよ、この国の幻想が、本当に好きなの」
「だから、幾度と無く旅を?」
「ええ、それこそ膨大な時間は掛かったし、苦労だって山ほどあったわ。足を止めて休んだのも一度や二度じゃない。けれど、私は今もこうして幻想を追い求めて、旅を続けている」
女の言葉はとても優しかった、けれどもとても力強かった。
『旅をする沼』『音の消える洞窟』そして『虹の根元』
果たしてその幻想たちに、彼女ほどの大妖怪が追い求めるだけの価値があるのか、それは私にはわからない。
しかし少なくとも彼女自身は、それらを探し求め消費した時を微塵も惜しいとは思っていないのだろう。
そしてこれからも、幾らでも時間と労を惜しまないと言う強い覚悟がある。
それはきっと、他ならぬ自分の意思で選んだ生き方だからこそだ。
決して焦らず、己のやりたい事を忘れずに生きてきたからこそ、彼女は後悔をしないのだと思う。
「少しだけ」
「?」
「少しだけ、お前を羨ましいと思ったよ」
私の呟きに女は一瞬きょとんとしたかと思うと、困ったようにふっと薄く苦笑い。
「私を羨むなら、貴女も選べばいいだけよ。他ならぬ貴女自身が歩みたい道を」
「……そうかもしれないな」
そうかもしれない、とは確かに思う。
彼女の言うように自分の意思のままに生きられれば、きっと充実した生を送る事が出来るのだろう。
けれど同時に、そうはなれない、とも思うのだ。
私は、決して彼女のように強く在る事は出来ない。
焦らずゆっくりと、己の意思のみを頼りにして道を探す生き方など、恐ろしくて仕方がなかった。
この旅がどれだけ有意義でも、終われば私はすぐにでもこれまでの生活へと戻っていくのだろう。
足を止めれば、不安と言う名の黒い獣はすぐにでも襲ってくる。
だから、私はいつも目標を探して、それに向かって走り続けた、走り続ける。
そうやって走り続けている間だけは、私は冷静で居られるから。
「不毛ねぇ」
そんな弱い私を哀れむように、女は大きく息を吐く。
自分の生き方が不毛である事など、とうに承知であった。
わかっていながら、私は今の生き方から抜け出せずにいるのだ。
「目的を見つける事を目的になんて、するべきじゃないわ」
「……」
「貴女の目は決して節穴ではないのに。貴女は断じて愚かではないのに。一体何が、貴女をそこまで縛り付けているのかしらね」
いっそ蔑んでくれれば、嘲笑ってくれればまだ楽だったのに。
女の優しげな声が、真摯な瞳が、私の心を余計に深く抉っていた。
「もう、忘れたよ」
自然と浮かんでしまう自嘲めいた笑みを隠そうともせずに、私は視線をゆっくりと外に向ける。
会話はこれで終わり、と言う私なりの態度、女もそれを汲み取ったようで、目を閉じて何事かを思案し始めた。
ぽつり、ぽつりと言う雫の奏でる音色が、雨の到来を我々に教えてくれる。
決して強い雨と言う訳ではなかったが、それでもこの雫たちは容易に世界を灰に染めてしまう。
果たして明日、彼らはこの灰色の世界と引き換えに、七色の根元を私たちの前に導いてくれるのだろうか。
そんな事はありえない、と理性は言う。
虹の根元など、ただのあの女の妄想であると。
けれどもそうして、ありえない、と断言しながら同時に、見つからないで欲しい、と私の中の何かが呟いているのもまた事実で。
そんな弱々しい自分自身に対して、私は小さく眉を顰めるのだった。
―――――――――
男の周囲を包む違和感に気付いたのは、数年の彼との修行の結果、私がすっかり人間に化けるのに慣れてからの事であった。
この頃私は彼の手引きで、王宮内を比較的自由に歩けるようになっていた。
当時は深く考えていなかったし、理解出来るほど賢くもなかったが、その権利を私に与えるために策を巡らせ、臣下に言い聞かせ、彼は相当な苦労をしたのだろうと思う。
彼は何時の間にか私の望む物は、否、望んですらいないような物までも、数多く私に与えてくれるようになっていたのだった。
正直私としては少々気が引けていたのだが、私に何かを与える際の彼の笑顔がとても楽しそうで、私は彼からの贈り物をいつも断る事が出来ずに居た。
しかしそんな彼から与えられた権利が、私に教えてくれたのは皮肉な事実だった。
王は笑わなかった。
寝室の外、私以外の者に対して、彼は決して笑みを見せなかったのだ。
いや、笑おうとはしているのだろう、ひょっとすると周囲の人間から見れば笑っているように見えるのかもしれない。
けれども彼の本当の笑顔を知っている私からすれば、それは貼り付けた仮面にしか見えなかった。
彼をよく知る人物から話を聞くに、昔の彼はもっと自然に笑えていたのだと言う。
王族とは思えないほどに謙虚で、周囲の人間に分け隔てなく接する、優しい心の持ち主だった。
だからこそ、付け込まれた。
幼き頃から王位を約束された存在だ、彼に近づく者は邪な考えを持つ者ばかりであった。
取り入って権力を利用しようとする者、彼を失脚させ立場を奪おうとする者。
策謀の道具にされた事も、毒を盛られた事も一度や二度ではない。
往来の優しさから相手を憎めないのをいい事に、下劣な輩は次々とやって来ては彼を傷つけていった。
そうして人間の醜さばかりを見て育っていく内に、何時しか彼は周囲の人間を信用しなくなってしまったのだ。
仮面の笑顔を貼り付け、表向きは人あたりよく振る舞いながらも、その裏では誰一人頼らず、近づけようとしない孤高の人間になってしまった。
勿論、それは自分に対しても同じであった、幼い頃から世話をしていたと言う老婆は、そう口にして哀しげに目を細めた。
彼女が言うには、私はたった一人の例外だったらしい。
ただ唯一、彼が本当の自分を見せる事が出来る相手。
壁も仮面も作る必要なく無く、ありのままの笑顔で接する事の出来る相手。
久方ぶりに彼のそのような表情を垣間見る事が出来て本当に嬉しかった、と老婆は言ってくれた。
どうして私だけが、そんな事は考えるまでもなく理解できた。
私が人間ではないからだ。
私が狐であったからこそ、妖怪であったからこそ、彼は私の想いの一切を信じてくれたのだ。
自分が人間では無いことを、その時私は深く感謝した。
そして、これからも彼の孤独を私が癒し続けようと、その幼い心に誓ったのだ。
しかし、現実は何処までも残酷だった。
男は日々政務に追われ、周囲の人間に追い詰められ、次第に心を病んでいった。
彼は王になるには余りにも優しすぎたのだ。
人間の心の棘が、容赦なく彼の脆い心へと突き刺さる。
私はこれまで通り夜は彼の話し相手となりながら、彼の執務中である昼には学問、政を習得し、あらゆる面で彼を支えようとしたが、所詮はそんな付け焼刃で得た知識など国を治めるのに何の役にも立たなかった。
逆に、私の焦りを読み取ったのだろう、男は哀しげな瞳で私に訴えかけるようになった。
そんな事はしなくていいと。
ただ側に居てくれるだけでいいと。
辛そうな彼の表情を見る度、私はとても哀しい気持ちになった。
互いを想うからこそのすれ違いは、気付けば取り返しのつかない所まで来てしまっていたのだ。
男の心の病はいよいよ深刻となり、日に日に彼の私への依存を強めていく。
財宝や権力、ありとあらゆる物を捧げて、私を繋ぎとめようと躍起になる彼を見るのが辛かった。
そんな物、私は何一つ欲していなかったのに。
私が欲しかったのは、彼の心からの笑顔だけだったと言うのに。
そうして見返りを与えていないと安心出来ない程に、彼は追い詰められてしまっていたのだ。
あとは、もう崩れるだけであった。
精神がおかしくなってしまった者に、国など治められる筈も無い。
彼の治世は、急速に乱れ始めていた。
誰かが言った、王は妖に化かされていると。
それは国中に広がった、王は女に化けた物の怪の言いなりとなり、国を滅ぼそうとしていると。
確かに、その通りなのかもしれない。
誰も信じない筈の彼の心の隙間に潜り込み、彼に心を思い出させたのは、依存する相手を与えてしまったのは他ならぬ私なのだ。
少なくとも私が現れなければ、国政を無能な女の一言で左右したり、国の財を一匹の狐の為に使うなどと言う愚考はとらなかったろう。
もしかしたら、人を信用しないなりに義務的に国を回す事だって出来ていたのかも知れない。
気付けた時には、全てが余りにも遅すぎた。
乱が起こった。
権力を狙っていた臣下達による、王に対して不満を持っていたあらゆる者を巻き込んだ大きな大きな乱。
今まで媚びへつらっていた者達も、沈む船と見るや早々に寝返り、王に剣を向ける。
それを沈静化する力など、最早この国には残っていなかった。
男は首をはねられるその瞬間まで、私の名前を呼んでいた。
―――――――――
(雨、止んできたみたいだな)
朝方、外から聞こえてくる水滴の音色に耳を傾けながら、ふとそんな事を思う。
あんな話をしてしまった後だからか、私は一睡も出来ずにもやもやとした一晩を過ごしてしまった。
視線の先にあるのは女の無防備な寝顔、こちらの気も知らずすやすやと安らかな寝息を立てている。
昨日歩き通しだった為か、相当に疲れが溜まっていたのだろう。
「本当に、お前が羨ましいよ」
双眸を閉じながら、自虐気味に笑う。
昨晩からずっと、頭に浮かぶのは忘れようにも忘れられない苦い記憶ばかりだ。
どれだけ自虐を続けても、あの頃の傷が癒される事は無いと知りながら、それでも思い返してしまうのだ。
男は死んでから尚も、人間に裏切られ続けた。
歴史とは常に勝者によって築かれる物だ、つまりは勝者にとって都合よく描かれる事となる。
結果、彼は史上最悪の暴君、人の心を持たない残虐非道な王として歴史にその名を刻む事となった。
王を裏切り、国を奪った者達がこれから国を治めて行くには、大義名分が必要だったのだ。
確かに、男は王になる器では無かったのだろう。
結局は王の心の弱さが国を滅ぼしたのだ、彼の背負うべき罪は余りにも重い。
しかしそれでも、肉を吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、逆らう者は身の毛もよだつ程の残酷な刑罰で死に追いやるなどと、そんな大それた事あの臆病者が出来る筈も無いだろうに。
だが、その歴史を塗り替えられる者は、既にこの世には存在しなかった。
もしも私が彼に近づかなければ、彼を支えたいなどと思わなければ、こんな事には。
いや、せめてあの時、共に死ぬ事が出来ていたならばどんなに―――――
そんな事を一体何度思っただろう。
際限の無い後悔と、自責の念に押しつぶされ、私は枯れるまで涙を流し続けた。
けれどもどれだけ嘆こうと、私の罪の意識が薄れる事は無くて。
これ以上、彼の故郷にこの身を置く事は、私には耐えられそうになかった。
逃げるように大陸から姿を消し、その後は様々な国を渡り歩いた。
そして行く先々で人間に仕え、この身を捧げて彼らに尽くした。
人を助けたかった訳ではない。
彼を支えられなかった事に対する罪の意識を少しでも薄れさせたかったから。
何かに追われ、考える間もなく走っている間だけ、私は後ろめたさを忘れる事が出来たから。
そんな自分の心の安息の為に、人間達を利用しただけだった。
そうやって何十、何百年もの間、私は人間と共に生きてきた。
何度、利用されるだけされて捨てられただろう。
何度、妖怪と知られるや否や刃を向けられただろう。
女と出会う直前のように、命を落とし掛けたのも一度や二度ではない。
それでも私は決して立ち止まろうとはしなかった。
必死で走り続ける事でのみ得られる安心感、それを捨て去るだけの勇気が、私には存在しなかったのだ。
我ながら何とも空しい生き方だとは思う。
否、空しい生き方だと知りながら、ずっと目を逸らしてきた。
自分を客観的に見られるようになったのは、この旅が始まってからだ。
「……私の、歩みたい道か」
きっとこの旅が終われば、私はまたこれまでのように自虐と逃避を繰り返す生活に戻るのだろう。
それでも、昨夜の女の言葉が私の頭の中で渦巻くのだ。
自分の本当に歩みたい道。
いっその事過去など捨て、もう一度それを探す事が出来るのならば、どれほど楽な事か。
痛いほどにわかっていながらそれが出来ないから、私はここに居るのだ。
暢気に歩く女を私はのろまと攻めたが、本当にのろまなのは何百年もの間、一歩も前に進む事の無い私の方ではないか。
一歩ずつ確実に自分の道を邁進し続ける彼女と、過去に囚われ未だに歩き出せずに居る自分。
こうして寝顔を眺めているだけで、自分の惨めさを見せつけられているようで、私は逃げるようにその場を立ち去った。
(止んだ、か)
もう雨の音は聞こえない。
洞穴の入口には光が差し込み、塗れた地面を明るく照らしている。
やはりこの国は美しい、彩りに満ちた世界を目にしながらぽつり呟く。
せっかくのいい朝だ、爽やかな空気を吸って、頭の中の淀んだ思考を流してしまおう。
洞穴の外へと出た私は、大きく深呼吸を行いながら、頭上に広がる大空を仰ぎ見た。
そこに、虹があった。
「え?」
見間違えでは無い。
通常では決してありえない、色の並びが逆しまの虹。
巨大な七色の橋が、太陽を跨ぐように目の前に広がっている。
それは私達の探していた、『虹蛇』の特徴そのものだった。
余りに突然過ぎるその登場に、一瞬呆気に取られたように立ち尽くしてしまう。
早く女にこの事を伝えなければ。
はっと我に帰った私は、転がるように洞穴の奥へと向けて駆け出した。
泥が跳ねようが、足が滑ろうが知った事ではない。
先程までの不毛な思考など全て吹き飛んでしまう程に、私は興奮していた。
「おい、早く起きろ!」
「んー……何よ。朝からそんな大声を出して」
「出たんだよ、虹が! 逆さの虹がたった!」
「虹ぃ?」
そこまで気だるげに口にしたところで、言葉の真意を理解したらしい。
女は目を丸くして勢い欲その場で跳ね起きた。
寝起きでおぼつかない足取りのまま洞穴から飛び出ると、すぐさま目的の虹を見つけるべく空へと視線を向ける。
そしてそれは、探すまでもなく私達の正面に存在した。
女の表情が見る見るうちに綻んで行く、いつもの冷静な態度など何処かに消し飛んでしまったかのように。
きっとそれは私も同じだったのだろう、私と女は二人顔を見合わせ緩んだ頬のまま頷きあった。
女の指が中空を切り裂き、空間の裂け目が私達の前に現れる。
「行くわよ!」
「歩くんじゃなかったのか!」
「こういう時はいいのよ!」
女は空間の裂け目の中から、私に向けて右の手を伸ばす。
さぁ、虹の根元を見に行こうと。
そう語りかける彼女の手を、私は迷わず握り締めた。
「……凄い」
どんな表現すら陳腐に思えて、出てきたのはその言葉だけだった。
眩いばかりの輝きをもって地面から湧き出す七色の光。
まるで巨大な光の壁、……いや、橋が大空に架かっているようであった。
数百の齢を重ねた私でも、これ程までに美しく、幻想的な光景を見た事は無い。
ふと横を見れば、あの女は子供のように目を輝かせて虹に見入っている。
普段は余裕を崩さない彼女ですら、念願の虹の根元には溢れ出る感動を隠すことは出来ないらしい。
しかし、嗚呼、それに足るだけの光景だろう。
こうして、一瞬目を逸らしただけで、名残惜しくすらある。
手を伸ばせば触れられそうで、けれども決して捕まえる事は出来ないであろう存在。
涙が出そうなほどにひたすらに美しい虹を前に、私達二人はただただ立ち尽くす。
「綺麗ね」
「ああ、綺麗だ」
「悪くは無いでしょう、こういうのも」
「ああ、悪くない」
本当に、悪くはない。
この旅を、彼女と歩む道を共に出来た事を、今ならば心の底から誇りに思えた。
虹の根元など存在しないと、ただの幻想だとずっと思っていた。
しかし今、その幻想は私達の目の前に、確かに存在しているのだ。
「世界は、幻想に満ちている」
聞こえてくるのは女の、慈しむような声。
先程まで喜びを露にしていた女の声色が、少しだけ哀しみを帯びているように感じられた。
「最早忘れ去られてしまったこの虹も、以前は当然のようにこの国で存在していたそうよ。何時しか時間が経つ内、前ばかりを向いて歩いていく内、住民達の心の中から忘れ去られてしまっただけ。世界に溢れている筈の幻想は、そうやって世界から消し去られていく」
「それは、人間の罪か」
「人に罪なんてないわ。誰にも罪なんて無い。互いが互いに与えられた生を遂行していただけ。ただ、私は彼らがこのまま誰からも忘れ去られていくのが嫌だった」
この旅が始まった時、彼女と交わした言葉を思い出す。
彼女は本当に、優しい妖怪なのだろう。
だからこそ、誰にも知られずひっそりと姿を消して行く幻想たちが、哀れで仕方が無かったのだ。
この旅を経た今ならば、私にもその気持ちがわかるような気がした。
「だから、お前は覚えておきたかった。それが旅の目的か」
しかし、私の問いかけに対して、女はゆっくりと首を横に振った。
これまで虹に向けていたその視線が、私の瞳へと向けられる。
「残しておきたいのよ」
「残して?」
「時代の波にさらわれて、消し去りたくはないの。私の大好きな世界の、美しい幻想たちを。いずれこの世界から忘れ去られてしまうモノたちを、せめて私の命が尽きるまでは残しておきたい」
言葉を耳にした時、ぶるりと身体が震えるのを感じた。
この女は今、どれだけ自分が大それた事を口にしているのか、わかっているのだろうか。
自分だけは覚えておくとか、後世に語り継ぐとか、そんなちっぽけな事じゃない。
残しておく、彼女は確かにそう言ったのだ。
それは忘れ去られてしまうだろう幻想たちの運命を、彼女の力で捻じ曲げるという意味だ。
一体どうやって、私の頭に浮かんだ疑問に対して、女はあっさりと言ってのける。
「創るのよ。忘れ去られた幻想が生きて行く事の出来る国を、他ならぬ私の手で」
何と言う、女なのだろう。
目の前の女の壮言大語に、私は呆気にとられてしまった。
その言葉が決して虚言でない事は、既に女のまっすぐな瞳が物語っている。
彼女の言う国とは、はみ出し者達の楽園だ。
いずれ人間達の楽園となるであろうこの世界から、追い出されてしまった者達の為のもう一つの楽園。
出来る筈がない、そう否定するのは簡単だった。
幻想の為の国を創るなど、夢物語もいい所だ。
人間が世界中で力を増していく中、いかに彼女とて、それ程の大事を成し遂げる事が出来ようものか。
頭に浮かぶ数多の否定の言葉、しかしそれらはすぐさま熱に曝され燃え散っていく。
胸の鼓動が見る見る内に大きくなる。
途方もない女の夢に対して、私は興奮を抑え切れなかったのだ。
ひょっとすると。
この女ならば、本当に途方もない理想を成し遂げてしまうのではないか。
否、彼女以外に、一体誰が成し遂げられようと言うのか!
理性ではなく、本能が次々と叫び声をあげる。
久しく、本当に久しく忘れていた熱が身体の中で燃え上がるのを感じていた。
「どれだけ時間が掛かるか、見当もつかないけど」
彼女の言うとおり、その旅路は果てしなく長い物となるのだろう。
虹の根元を求めて歩き回ったこの旅も、彼女の目的の為のほんの一つの通過点に過ぎない。
彼女はこれからも旅を続け、多くの未知をその目に焼き付けていく。
彼女は決して焦らない、急がない。
最短距離を進まないかわりに、確かにそこに存在する小さな物を忘れない。
この世界の全てを知り、消え行く幻想たちの悉くを網羅する旅。
全てはたった一つ、彼女の理想の国を創り上げる為に。
それがどれほど途方もない道のりなのか、私などでは想像する事すら出来はしない。
しかして、女が自虐のように浮かべた薄い笑み。
それは弱気の表れとか、そういった類の物では一切無い。
むしろ逆、自らの道に確固たる自信を持っているからこそ出来る、余裕の表現。
どれだけ壁が高くとも、時間が掛かろうとも、必ずやり遂げると言う女の確固たる意思を、私はまざまざと見せ付けられていた。
果てしなく続く彼女の旅路、そのほんの一端を共に出来た事が、今は誇りに感じられた。
しかし同時に、私の心の中に次なる欲が生まれていく。
「私を……」
女が私をこの旅に誘った理由、今ならば考えるまでもなく理解できた。
姑息な彼女にはわかっていたのだ。
こうして虹の根元を目にすれば、彼女の理想を目の当たりにすれば、私の中にくすぶっていたかつての想いが蘇ると言う事を。
そう、彼女は始めから私を道連れにしようとしていたのだ。
嗚呼、なんと恐ろしい女だ!
どれだけ続くともわからない遥かなる旅へ、私を引きずり込もうと言うのだから!
わかっていながら、私は望むのだ。
彼女の視線の遥か先、その瞳が描いている光景を共に見てみたいと。
誰よりも優しき未来を紡ぐであろう、彼女を支えていきたいと。
それは遥か昔、孤独な王に対して抱いた感情と同じ物。
もう二度と抱く事は出来ないと思っていた。
しかし今、私の心の中には、間違いなくその想いが生きていたのだ。
かつて救う事のできなかった、一人の男の姿が瞼の裏に蘇る。
ずっと重荷だと思ってきたその過去は、今は何処までも優しげな表情を浮かべていた。
笑顔で、私の背中を押してくれたのだ。
今になって、私はようやく理解出来た。
後悔ばかりが残された彼との日々。
けれども彼と共に生きたいと、彼を支えていきたいと言うあの想いだけは、悔やむべき物では無いと言う事を。
「私を、共に連れて行ってはくれないか」
私は言葉を紡ぐ。
心から、純粋に、迷い無く。
涙が出そうな程に、すっきりとした心地が体内を駆け巡る。
全てが終わった時、私はまた後悔するのかもしれない。
私は本当に愚かな女だから、また大きな間違いを犯してしまうのかもしれない。
それでも今ははっきりと胸を張る事が出来た、これこそが私が本当に歩みたい道だと。
それだけで、十分だった。
迷いのない私の表情を見つめながら、女は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「紫よ」
「え?」
「紫。『むらさき』と書いて『ゆかり』。誰がつけたかすらわからないけど、この名前は覚えている」
美しい名だ。
返答代わりに紡がれた彼女の名前を、素直にそう思えた。
私たちの目の前に確かに存在する、あの七色の架け橋の、一色を担う者。
幻想の国を創るべく果てしない旅路を歩む、彼女に相応しい名。
ならば私は。
彼女を隣から支え、同じ光景を目指す私の、これからの名は―――――
「さぁ、藍」
らん。
藍色の『あい』と書いて『らん』
七色に輝く虹の中で、常に紫の隣で輝く色。
何があろうとも、決して離れる事の無い色。
彼女が口にしたその言葉の意味する事を、私はすぐに理解出来た。
私の望んだ名もまた、同じであったから。
女は虹を背にしながら、私に向けてその手を差し伸べる。
私の視線の先には、足が竦みそうな程に壮大な光景が待っていた。
さぁ、誘ってくれ、ゆかり。
私を一緒に連れて行ってくれ
また、この旅の始まりの時のように
ながい、ながいその旅に
「私と一緒に国を創りましょう」
―――――――
「藍様っ」
不意に背後から聞きなれた声がする。
導かれるままに振り返ってみれば我が愛しき式の姿がそこにあった。
「橙じゃないか。どうしたんだい」
「いえ、ただお姿を見かけたので、声を掛けようかと。藍様こそこんな所で何をしていらしたんです?」
「少し、ね。雨宿りをしていたら、つい昔を思い出してしまった」
「昔、ですか?」
きょとんと首を傾げる我が式、橙。
私の過去をほとんど知らない彼女からしてみれば、当然の反応だろう。
この季節、雨を眺めていると昔を思い出す。
彼女と二人雨雲を追って、国中を歩き回ったあの旅。
そしてたった一度だけ目にする事が出来た、あの美しい虹を。
もう遥かなる昔の話だが、今でもあの頃の事を思うと思わず時間を忘れてしまうのだ。
「ひょっとして、邪魔をしてしまいましたか?」
懐かしむ思いが表情にまで出ていたか。
しゅんと申し訳なさそうに、橙が頭を垂れる。
そのいじらしい仕草に、私は思わず頬を緩ませてしまう。
「はは、大丈夫だよ。別に今でなくとも、昔は何時でも思い出せるんだ。それに橙が来てくれなかったら、日が暮れるまで物思いにふけって、紫様に怒られてしまっていたかもしれないよ」
そう言って笑顔で頭を撫でてやると、橙は安心したように溜息を吐いた。
さらに頬が緩んでしまいそうになったが、そこは主の威厳を保つべく何とか表情の緊張を保つ。
取り合えずこれ以上、洞穴内に居ても仕方が無いだろう。
私は橙を連れて外に出ると、そのまま空へと視線を向ける。
先程まで雨を降らしていた雲と、真青な大空の見事なコントラストがそこには広がっていた。
「雨、すっかり止みましたね」
「ああ、今日は暑くなりそうだ。しっかり暑さ対策はしておくんだよ」
「はいっ」
はっきりとした返事に、よりいっそう晴れやかな気持ちになる。
今日はいい一日になりそうだ。
式に微笑みかけながら、そんな事を考えていたその時だった。
「あ」
何かに気付いたように、橙が目を丸くする。
視線の方向を考えるに、どうやら私の背後に何かを見つけたらしい。
一体何事か、と首だけを後ろに向けてみれば、そこにあったのは大きな大きな虹の架け橋。
それもまるであの時目にしたのと同じ、色の並びが逆の虹。
あれは、まさか―――――
「わぁ、逆さ虹ですよっ。私初めて見ました!」
「逆さ虹?」
「はい! 何でも極稀に色の順番が逆さの虹があって、見つけられたらその年は幸せに過ごせるんですって」
嬉しそうに飛び跳ねる橙の姿に、今度は私が驚かされる。
遠い昔に存在すら忘れ去られた筈の配色が逆の虹、それが今在り得ない物としてではなく、『逆さ虹』と言う名で認知されているという事に。
この世界ではあの虹が、存在し得る物とされている。
真っ直ぐに『逆さ虹』を見つめ続けながら、私は震える唇を開く。
「その話、誰が?」
「えっと、誰だったかなぁ。でも、人里では結構有名な話らしいですよ」
橙の返事を聞いて、私は堪らなく嬉しい気分になった。
あの時見つけて以来、一度も目にする事の無かった『逆さ虹』
けれども、その美しい幻想は、確かに忘れられていなかった。
確かに……確かにここに在ったのだ。
彼女の、私達の創り上げた国では、幻想は現実となる。
忘れ去られた幻想が生きて行く事の出来る国、それが目の前に広がっている事が、何処までも誇らしかった。
「藍様?」
急に表情を変えた私を心配してか。
橙が心配そうな顔で、私の袖を引っ張った。
そんな式の健気な姿に、私は彼女の頭を撫でて応えてやる。
この涙は、哀しいからでも苦しいからでも無いんだよ、と。
彼女にも見せてやりたかった。
そして何より、私がもう一度その目に焼き付けたかった。
私がこれまで見た中で、もっとも美しいその光景を。
確かにこの世界に存在する、尊き幻想の姿を。
「なぁ、橙」
「はい?」
私はゆっくりと向き直ると、自分の式に向けてその右手を差し出した。
あの時、長い旅へと私を誘った、彼女のような笑顔を携えて。
「虹の根元を、見に行こうか」
了
藍様の過去のお話もとても良かったです
久しぶりに蟲師読んでみようかな…
元ネタ好きだからたまらないすわ
だらしなくグッテリとできるのは、そうしても大丈夫な環境にできたからですよ藍しゃま。
とてもいい話で引き込まれました
いや本当にいい話でした
いいお話でした。
こういう情緒的な日本の姿を見ていたい
ありがとうございます。
原作をしっかりと読み込まれて書かれたのがよくわかるいいお話でした
素敵な話でした。
泣けてきました
化け猫に橙と名付けた藍様の心境や如何に……
いや、戯れ言だけどね。
一番お気に入りなのは、あとがきのセリフ。もう完全に夫婦だこの二人
なんにせよいいものを見ました。作者様に感謝。
ありがとうございました。
そも虹の根元を見に行こう、っていうことが素敵な考えだなぁ、と。
過去話は妲己と帝辛の話ですよね
そう考えると余計に感慨深かったです
最高です。
藍様の過去話から紫についていこうと決意するまでの心の動きにとても共感出来た
こんな素敵な生き方をしてる紫と、それを思いついて書いてくれた作者様に感謝したい
元ネタも大好きですが、これも素晴らしい。
不覚にも感動した
紫の生き方は妖怪ならではというか、彼女らしい生き方だと思いました
元ネタを知っていたら、もっと面白く読めたんだろうなあ