それはもうすぐ冬の足音が聞こえてくるような、肌寒い秋の夜の事だった。
見ていると、折れるのではないかと不安になりそうな三日月が浮かぶ夜、その頼りない光が差し込む紅魔館の一室で、何やらひそひそ話をする声が聞こえてくる。
「少し変則的な形だけど、幻想郷に市場経済を導入しようと思うのよ」
そんな事を藪から棒に切り出したのは、幻想郷の実力者である八雲紫。
「また、変な事を考えたみたいだね」
それに対して、感心したような、あるいは呆れたような声で応えるのは、この紅魔館の主であるレミリア・スカーレット。
「この幻想郷では人間以外が強くなりすぎた。だから、経済の力によって幻想郷のバランスを取ろうと考えたのよ」
「なるほどねぇ。頑張るねぇ。またぞろロクでもない事を考え付いたんだねぇ。人の事は言えないけれど、あんたのバイタリティも大したものだよ」
どうやらこの二人は、幻想郷の行く末について意見を交わしているらしい。
幻想郷でも指折りの実力者同士の密談、これはかなりの事件である。
特に八雲紫は、外の世界の物資を幻想入りさせる力――つまりは流通に関する利権の持ち主で、幻想郷の妖怪たちは言うに及ばず、神や宇宙人からも一目置かれているほどの大妖怪だ。
「しかし、幻想郷に市場経済ってのはやりすぎじゃないの?」
そんな八雲紫が語る計画が、先に述べた市場経済の導入だった。
市場経済。
アインシュタインは『宇宙最強の力。それは複利の力だ』と語った。
これが示すように、金融は力を超えたパワーである。八雲紫は幻想郷のヒエラルキー最下位に位置する人間に、その力を与えようと考えているらしい。
「それによって、人は経済の力で勢力を増大させる。少し前までの幻想郷なら、人は一次産業を主体にしていれば良かったでしょう。でも、様々な勢力の台頭しつつある現在では、
人間もある程度の力を持たなければ、彼らはただ搾取されるだけの存在になってしまいます」
「心にもないことをよく言ったもんだ。単に黒幕に徹しながら幻想郷を支配し続けたいだけだろう? 表だって妖怪の山や妖怪寺、それに永遠亭等と事を構えたくはない。
だから、人間を緩衝材にして、他勢力の勢いを削ごうと企てたってとこか」
「そんな事はないですよ。私は支配欲や権勢欲とは無縁ですから」
八雲紫は扇で口元を隠すと『オホホ』と上品に――だが、どうにも薄気味の悪い笑みを浮かべた。
確かに、八雲紫という妖怪に欲望があるのなら、それは支配欲とか権勢欲なんて器が小さな事では収まりがつかない。もっと得体が知れない何か。
そうした欲望を表には出さず、他人を動かして目的を果たす。この妖怪は、そういう風に生きていたのだ。
今回の事も、そうだろう。
自分は表舞台に出ないようにしながら、間接的に経済によって幻想郷を支配しようとお茶目な陰謀を巡らせるあたり、幻想郷の困ったちゃんの面目躍如といったところだ。
「けど、市場経済ってぶち上げても、実際はどうするの? この幻想郷にはろくでもない金融商品しかないよ」
レミリアは現実的な事を尋ねた。
実際のところ、幻想郷には株式会社は存在しないし、軍産複合体も存在しない。だから、株券も利権もほとんどない。
そんな幻想郷にある金融商品なんて、借金の借用書と土地の権利書、それに細々と流通している通貨ぐらいのものだろう。
「そこはそれ。幻想郷らしい金融商品を用意しています」
「ふん。そうかい。まあ、そこまで決めているなら、勝手やれば良かったんじゃない?」
「でも、勝手に動いたら、貴方は怒るでしょ」
「まあね」
「そんなわけで、よろしくお願いしますって事よ」
そう言われて菓子折りと共に丁寧にお願いをされては、レミリアも頷くしかない。
このように実力者への根回しを欠かさない事が、権謀術数を張り巡らすときにトラブルを起こさない秘訣と言えるだろう。
最も権謀術数を巡らさなければ、そもそもトラブルが起こる余地も無いのだけれど、八雲紫に陰謀を企むななんて、マグロに泳ぐなと言うくらいに無理な話だ。
ともあれ、本題も終わった。
小難しい話から開放されて、レミリア・スカーレットも肩の力を抜く。
そこでようやく吸血鬼は出された紅茶に手をつけていなかったことを思い出し、一口飲んだ。
「……む」
けれど、それはすっかり冷え切っていたので、レミリアは残念そうに溜め息を吐く。
「もうすぐ冬ですものね。熱い紅茶もすぐに冷めるわ」
「そうだね。もうすっかり寒くなってきたみたいね」
ちょっとだけ、不機嫌な顔でレミリアは呟いた。
「冬はきらい?」
「一番好きなのは春。食べ物が美味しいからね。次が秋。秋の恵みは美味しいし、過ごしやすいもの。夏は、あの狂ったように燃え盛っている太陽がなければ好きだよ。
冬は夜が長いのはいいのだけれど、寒いのは嫌」
「でも、冬は暖かい食べ物が美味しいじゃない。身体の温まる鍋に燗したお酒、中華まんや暖かいおうどんに、おそば、ほうとう。あと、おでんも今が一番美味しいわね」
寒いからこそ、楽しめるものもあるのだと、八雲紫は語った。
そうして、グルメの話をしているときは、陰謀の話をしているときとは別人みたいに、童女のような笑い方をする。まるで彼女の親友みたいだ。
「まあ、そうだねぇ」
ともあれ、レミリアは頷いた。
身体がすっかり冷え切ったときの暖かいスープなど、値千金の美味さと笑顔で断言できるからだ。
「そういえば、今日は咲夜がおでんを作るといっていたけれど」
「それは素敵ね」
十六夜咲夜は料理の名手であり、その腕前は幻想郷でも広く良く知られている。
当然ながら、その手腕はおでんでも発揮され、彼女の作るおでんはおでん屋台のおでんも帽子を脱ぐと評判になっているほどだ。
どうやって、おでんが帽子を脱ぐのかは定かではないが、それぐらい美味しいということなのだろう。
「食べていく?」
レミリアが紫を食事に誘うと、スキマ妖怪は少しだけ悩んで見せてから、
「昨日のカレーが残っているのよ」と断った。
カレーの残りがあると言われては、無理に誘う事もできない。
「なら仕方ないね」と、レミリアも大人しく引き下がる。
そんな取るに足らない雑談を少しした後、八雲紫は「それじゃ、そろそろお暇するわね」と申し出て、席を立った。
「スキマで帰るんじゃないの?」
二本の足で帰ろうとする紫を見て、レミリアは怪訝な顔をする。
神出鬼没を具現化したかのようなこのスキマ妖怪は、ちょっとした移動でもスキマを用いて移動をする。それが席を立って歩いて帰ろうとしているのだから、レミリアは少し驚いたのだ。
「たまにはね」
その普段ではあまり見ない行動は、純然たる気まぐれであるらしい。
断じて、冬という事で新陳代謝が下がっているのに、冬のご飯が美味しくて、ご飯のお代わりが多めになり、体重がちょっとだけ残念な事になっているわけではないと、八雲紫は目で語った。
「そっか。なら玄関まで送ろうかな」
「ええ、ありがとう」
そういう事になった。
咲夜がおでんを作っているので、客人の案内をできるメイドは居ない。妖精メイド達にパーラーメイドの真似事はちょっと難しい。
なぜなら、妖精メイドにお客人の案内をさせようとしても館で迷ってしまうからだ。
「やっぱり、妖精メイドは使えないね」
レミリアは愚痴った。
紅魔館は割と大きな館であるけれど、迷うほどに大きくはない。それでも、館で迷えるのだから、やはり妖精という生き物は大概だ。
「道を迷わせるのは妖精の仕事だけれど、本人が迷っていれば世話はないわね」
「全くだよ。ちょっとした手伝いとにぎやかし程度にしか使えない」
そんな話をしながら、二人が連れ立って玄関ホールに向かうと、赤い服を着た小さな人影が何やら遊んでいるのが見える。
「あ、お姉様」
人影は、レミリアの妹であるフランドール・スカーレットだった。
あまり外に出ることを好まないフランは、少し身体を動かしたい時などは、この玄関ホールに来て遊んだりする。
実際、赤じゅうたんが敷かれたこのホールは、小さな公園くらい広くて造りもしっかりしているから、一人の吸血鬼が遊ぶくらい何の問題もないのだ。
そんな広いホールで遊んでいたフランは、ぽくぽくと音を立てながら二人の所に向かってきた。
その時、レミリア・スカーレットに電撃が走る。
見慣れた妹の足に、見慣れないものが装着されていたからだ。
「…………フラン。それは?」
レミリアは、フランの足を見て尋ねる。
「缶ポックリですわ。お姉様」
外の世界から来た美味しくて保存の利く食べ物に『缶詰』というものがある。
これは食料を金属製の缶に封入し、保存が利くようにした食べ物で、レミリア・スカーレットも外の世界に居たときは、物珍しさから何度か食べた事もある。
缶詰は、かのナポレオンが『大陸軍は世界最強!!』とか叫んでいた頃に、アルプス越えをする為に発明させた保存食『瓶詰め』に端を発し、それを英国人が発展させた素晴らしい保存食だ。
フランが足に装着している『缶ポックリ』は、そんな缶詰(フルーツミックスの大型缶詰)の空き缶に紐を通して、それで上手いこと足で踏ませるようにしている『玩具』だった。
そして、これからが『缶ポックリ』の驚くべき点であるが、空になった缶詰の開いた部分を下にする事によって、缶ポックリは『ぽくぽく』という音を鳴らす音響機構も兼ね備えるのである。
そんな缶ポックリの脅威のメカニズムを見て、レミリアはただ溜め息を吐く。
『なにあれ。凄い面白そう』
五百年生きた吸血鬼は缶ポックリに心奪われていたのだった。
たかが、空の缶詰に紐を通しただけのシンプルなメカニズムであるのに、なぜこうも心を揺さぶるのだろうか。
出来る事なら今すぐにでも、妹に懇願して缶ポックリを貸してもらい、思う存分ぽくぽくしてみたい――そんな強烈な、吸血衝動よりも強いぽくぽく衝動がレミリアを襲った。
そもそも、缶ポックリのあのぽくぽくといいう音は何だ。
缶を踏んづけて歩くだけで、馬を歩かせているみたいなぽくぽくという足音が存分に味わえるなんて、一体どこの牧場だ。マザー牧場か。
しかも、少し視界が高くなるので背が急に伸びたような気分も味わえ、小さな缶詰の空き缶を踏んづけてバランスをとるので、ちょっとしたゲーム感覚も味わえるわけだ。
これは、なんて素晴らしい玩具だろう。
「あら、随分と楽しそうね」
「あ、はい。美鈴に作ってもらったんです」
そうしてレミリアが缶ポックリに魅了されている間、フランがお嬢様らしく客人である紫の対応をしていた。
その立ち振る舞いは由緒正しいスカーレット家のご令嬢らしく、缶ポックリの乗っているという点を除けば、なかなかのレディっぷりと言えるだろう。
「なかなか素敵な乗り物ね。ふふ、私も貸してもらいたいぐらい」
「あ、えっと……はい、いいですよ。お貸しします」
「冗談よ、そんな顔をしなくても取らないわ。それに私が缶ポックリなんてやっていたら、他の妖怪たちは『ついに頭がおかしくなった』って思うに違いないもの…………ねえ、レミリアもそう思うでしょう?」
「……あ、う、うん。そうね」
そんな八雲紫の言葉によって、どうにかレミリア・スカーレットは我に返る。
確かに、八雲紫の言うとおり。
紅い悪魔と恐れられたレミリア・スカーレットが缶ポックリなんてしてしまったら、『カリスマ再び大暴落』だの『いつになったら底値になるのか』だの『そんな事よりおうどん食べたい』などと、言われてしまうではないか。
「フラン」
「何かしら。お姉様」
「そ、そんなのに乗ってお客様に挨拶なんて失礼だろう。ちゃんと降りて挨拶をするように」
「はーい」
当主らしくレミリアが注意すると、フランは素直に降りて、今まで乗っていた缶ポックリを紐で簡単に括ると、小粋に持った。
使わないときは紐で縛って手に持って運べるとは、なんて高い携帯性。似た系統の遊具である竹馬などとは比べ物にならない便利さだ。
「それで、八雲様はもうお帰りで?」
「ええ、そろそろ丑三つ時ですからね」
「そうなんですか。一緒にご飯を食べれたらと思ったのに」
そんな令嬢トークをしている最中も、レミリアは缶ポックリに心を奪われていた。
多くのデュエリスト達が『甲鱗様』と呼んで、甲鱗のワームを狂ったように愛したと同じく、レミリア・スカーレットも缶ポックリを愛してしまったのだった。
それからレミリアの道ならぬ恋とも形容できぬ、名状しがたき感情を持て余す日々は、始まった。
誰にも相談すらできぬ状況に、レミリアは密かに缶ポックリの写真が入ったロケットを首から下げて、
あの素晴らしき缶ポックリで遊ぶ事に思いをはせる乙女となったのだ。
それは明らかな奇行以外の何物でもないけれど、誰にも相談していないので、突っ込みの入らないのをいい事に、
レミリア・スカーレットは徐々に取り返しの付かない領域へと足を踏み入れていく。
「……どうにか、缶ポックリを私のものにできないだろうか」
しかし、そうした愉快な内面とは対照的に、窓辺で白い溜め息を吐いて、庭に落ちていく落ち葉を眺める姿は、
どこに出しても恥ずかしくない深窓の令嬢そのものであった。
その姿は幻想郷の投資家達を激しく魅了し、それによって幻想郷に新たに開かれた市場では、レミリア・スカーレット株が急騰。
多くの投資家達は『バスに乗り遅れるな』を合言葉として、急騰するレミリア株を狂ったように買い漁った。
それは、バブル絶頂どころかアメリカ合衆国の黄金時代である狂騒の二十年代(Roaring Twenties)も真っ青の乱痴気騒ぎであるが、この降って湧いた好景気を投資家達は諸手を挙げて歓迎した。
そして、賢明なる読者諸兄であればご理解いただけたと思われるが、この唐突に登場したレミリア株こそが、先に八雲紫が提案した幻想郷らしい金融商品の正体だった。
この株券は、レミリア・スカーレットだけではなく、幻想郷の名だたる実力者全てのものが発行されていて、
これを買うと、いつ配当されるのかは定かではないが配当金が受け取れるかもしれなかったり、どんなサービスか不明だけれども何らかのサービスで株主優待が得られるかもしれないという噂のある、なんとも胡散臭い株券である。
その実態は完全なる詐欺であるけれども、そもそも金融商品自体が大掛かりな詐欺みたいなものなのだから、この株券は、さして問題なく投資家達に受け入れられた。
だが、そんな周囲の騒ぎとは相対的にレミリアの気分は沈んでいる。
そもそも、そんな自分の名を冠した金融商品が売り出されていること自体に気が付いていないのだから、それも仕方ないだろう。
「……はあ」
時代のうねりとは裏腹に、レミリアは儚げな溜め息を吐いた。
缶ポックリはしてみたい。
けれど、その缶ポックリは彼女の妹であるフランドールの所有物だ。
つまり、レミリアが缶ポックリをするためには、妹からそれを奪わなければならない。
だが、それは紅魔異変以来、少しずつ構築してきたフランドールとの関係を壊しかねない行為だ。
地下の密室から出た当初は『あ、お姉様。おはよー。とりあえず、死ぬがよい』などと、起き抜けに発狂弾幕を浴びせかけてくる理不尽暴力系どころか最終鬼畜系な妹だったフランも、
教育の結果、どうにか淑女と呼べる生き物になってくれたのだ。
そうして心を開いてくれたフランの信頼を損なう真似などできないし、何よりも……
「紅魔館当主が缶ポックリって……」
レミリア・スカーレットは想像する。
さめざめとした月明かりに照らされた花畑で、自分が無邪気に缶ポックリをする姿を。
『私。レミリア・スカーレット五百歳♪ 今日はお花畑て缶ポックリに乗ってハッスルしちゃうの!』
そこでのレミリアは、紅魔館当主ではなくただの女の子で、誰の目も気にすることなく思う存分に缶ポックリをぽくぽくと思う存分楽しむのだ。
「……これはちょっと威厳に欠けるというレベルじゃない」
その姿は、幻想郷でも特に恐れられる吸血鬼などではなく、単なる近所のアホの子だった。あるいは妖怪『ぽくぽく幼女』か。夜中に出会ったら、きっと大人でも泣くに違いない。
そしてレミリアは思う。フランドールが缶ポックリをすれば『無邪気な子』になるのに、どうして自分がそうした事をすると、アホの子に見えるのか。
「やはり、普段の行いの所為か……」
アンニュイな溜め息をレミリアは吐いた。
そして、それを見た投資家達は大喜びをして『アンニュイな五百歳児は素晴らしい』と、レミリア株は暴騰を続ける。
それは、天井知らずの値上がりで、金融に関する知識のあるものならば、尋常なものでない事がすぐに見て取れるだろう。
つまり、それは終わりの始まり。
行き過ぎたマネーゲームに興じた先は、破滅しか存在しない。
膨れ上がる実体のない株価など、欲望という名の空気によって異常に膨らんだ風船のようなものだ。無限に膨らむ風船など存在しないように、無限に成長する市場など無い。空気を入れ続けた風船は、それに関わった人々を巻き込んで必ず破裂するだろう。
その破滅はレミリア・スカーレットの株券を取得した者達だけでは収まらず、暴騰をしたレミリア株は、生み出されたばかりの幻想郷の市場経済もろとも、全てを破壊するに違いない。
だが、その破滅に気が付いた者がいた。
「面倒な事になっているようね」
スキマから現れたのは、八雲紫だった。
幻想郷でも唯一『株トレーダー瞬』を持っている彼女は、いち早くこの異変に気が付いて、ジョギング中にも関わらずジャージ姿で駆けつけたのである。
「ああ、紫か……どうしたの」
「悠長な挨拶なんてしている暇はないわ! かくかくしかじかで大変なのよ!」
「な、なんだって! つまりまるまるうまうまってこと!?」
紫によって、現在起きている事を知らされて、レミリアは驚愕した。
まさか、缶ポックリに乗りたいとアンニュイになっていた所為で、幻想郷の危機を引き起こしてしまったとは、驚きのこの展開とはこの事だ。
「ど、どうすればいい。私のために幻想郷が破滅するなんて…………私にできることはあるの!?」
そして、自分の所為だと悩みながらも出来る事なら何でもしようというレミリア・スカーレットの態度に、投資家達は熱狂した。
それによって『やべぇ、おぜう様が凛々しいよ』と、無責任な投資家は狂ったようにレミリア株の取引を続け、この暴騰が天井知らずとなるのはもはや必然。
そんな投資家達の狂態を知った八雲紫は、こいつは本格的にヤヴァイと頭を抱えた。
「全ての原因は、貴方のそのアンニュイな空気よ。その空気が投資家を狂わせてレミリア株の暴騰を招いている。だから、アンニュイになっている原因を解決すれば、この暴騰も収束するのよ!」
「――え?」
つまり、それはレミリア・スカーレットの缶ポックリに乗りたいという秘めた思いを暴露しろということ。
そんな事、言えるはずもない。
「む、無理! 無理だよ!」
顔を真っ赤にしてレミリアが叫ぶと、投資家達は『ヒャッハー!』と叫んだ。
恥じらいに顔を紅く染めている少女は、投資家の大好物の一つ。こいつは女房を質に入れても株にぶっこまなければと、レミリア株の株価チャートは狂気的な曲線を描きはじめる。
「その恥じらいの顔をやめなさい! その顔が投資家達を狂わせる!」
「無茶を言わないでよ!」
恥ずかしいという気持ちは自然の物で、こればかりは自分でもどうする事もできない。
だから、それを止めろといわれると、困ってしまう。
だが、レミリア・スカーレットは困ってばかりも居られない。
このまま狂騒する投資家達を放置すれば、幻想郷の市場は崩壊してしまい、貨幣経済の存続も困難な有様になって、幻想郷はパンを買うにもリヤカー一杯の紙幣が必要になるという失敗国家になってしまう可能性もあるかもしれない。
ともあれ、そんな状況であるから、八雲紫はそれを防ぐ為にあらゆる手段を許容する事を決意した。
「貴方が自分の口から、株価高騰の原因を言うのなら、それで問題ないでしょう。だが、もしそれを言えないのであれば、地底からさとりを連れてきて、無理にでも聞き出します!」
「なっ……っ」
レミリアは言葉を失った。
他人の心を読むさとりの手にかかれば、レミリアの黙秘している内容など簡単にばれてしまうだろう。
つまり、缶ポックリをしたいという気持ちは、呆気なく白日の下に晒されてしまうのだ。
「他人の口か、自分の口か。好きな方を選びなさい」
八雲紫は心を押し殺したような口調で、レミリアに死刑宣告をする。
その要求は理不尽。
けれども、そもそも現実なんて、どちらを選んでもろくでもない選択肢が提示され続ける糞のようなゲームの如きもの。
ベストな選択肢なんてごく稀にしかなくて、少しでもベターな選択肢を、少しでもマシな生き方をするしかないのが、人生だ。
人生の悲哀を噛み締めて、レミリアは渋面を作る。
そして、ほんの数秒だけ悩んだ後に、小さな声で呟いた。
「…………わかったわ」
レミリア・スカーレットは覚悟を決めた。
他人の手を煩わせるよりは、この場で吐いた方が『まだマシ』だからだ。
それに現在の市場は一刻の猶予もない。そんな時に個人の感情からごねて、より最悪な事態を招くのは馬鹿らしい。
そして、そんなレミリアの姿を見た投資家達は、追い詰められたおぜう様たまらんと悶え苦しみ、株価チャートはもはや曲線どころか、天を貫くような直線を描き始めていた。
果てしなく上がる株価は、想像を絶するもので、末は博士か大臣かと世のお母様方が勘違いするほど、この狂騒に驚いたジンバブエドルは『レミリア株はワシが育てた』と捏造を始めてしまう。
それは、まさに末法の世。本格的に取り返しのつかない状態になりつつある。
レミリアは、小さな溜め息を一つ吐くと、覚悟を決めて言い放った。
「私がこうして秋空を眺めながらちょっとアンニュイに溜め息を吐いているのは…………缶ポックリがしたかったからよ!」
幻想郷中の投資家が注目する中、ついにレミリアは言ってしまった。
吸血鬼界でも有数の名家であるスカーレット家の当主ともあろう者が、庶民の娯楽である缶ポックリをしてみたいなどと告白をしてしまうなんて、この先、どの面下げて生きていけばいいのだろうか。
この告白は、幻想郷を経済破綻から救うために必要な事ではあった。
だからこれは、ノブレス・オブリージュ。幻想郷に突如舞いおこった経済戦争を収束させるために、幻想郷における貴族的存在が率先して血を流すのは当然の事といえるだろう。
それに、たった一人の吸血鬼が生き恥を晒すだけで、幻想郷が救われるのだから、大儲けではないか。
イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかけられる事によって、全人類の贖罪をしたように、レミリア・スカーレットは犠牲となったのだ。
「終わった……」
強い虚脱感に襲われて、レミリアがへたり込みながら、八雲紫の方を見上げた。
これで、全ての問題は決着をしたはずなのだから。
きっと、投資家達はレミリア・スカーレットに失望し、凄まじい勢いでレミリア株は投売りされているのだろう。
多少の被害はでるにしても、これで天文学的な暴騰は止まり、この狂想曲も最終楽章を迎えるはず。
だが、紫の顔色は、真っ青だった。
「……株価が、まだ上がっている!?」
八雲紫は呆然と呟く。
そして投資家達の動向を見れば『ヤヴァイ。缶ポックリに乗るおぜう様たまらん』『やっぱり恥ずかしがっている幼女たまらん』『水が無ければ血で茹でろ』と、投資熱は未だに収まるどころか、むしろ火に油を注いだだけ。
「そんな。それじゃあ……」
恥を忍んで告白をした自分は一体なんだったのか。
全てを捨てて犠牲となっても、それは無駄死にどころか逆効果だったなんて。
「私の苦労はなんだったんだ!」
レミリアは怒りに震えて、八雲紫を怒鳴りつけた。
その怒号は、凄まじいもので、紅魔館の鎧戸を吹き飛ばし、テーブルの上に乗っていたマグカップを倒し、転がっていったカップが床に落ちて割れてしまうほど。
「ごめんなさいね。完全に無駄骨だったみたい♪」
「おい、ふざけんな」
謝罪をした紫に対して、レミリアは凄い勢いで食ってかかる。
すると胸倉を捕まれた八雲紫は、赤べこもかくやという勢いで頭をカックンカックン揺らしながら、弁明をした。
「幻想郷の株式市場、誠に不可解なり!」
「いや、不可解とかいって投げ出してないで、どうにかしなさいよ!」
「だって幻想郷は資本主義だから、市場介入して計画経済とか噂されると恥ずかしいし……」
「阿呆かあんたは! そんな事を言っている場合じゃないだろうが!」
「そりゃ貴方は良いでしょうよ。アカいから、その辺を気にしなくていいし」
「いや、私のは紅だからね。赤じゃないからね。確かに祖国の土地は赤くなったけど、いまは赤くないんだから勘違いしないでよ」
「そうね。労働者に賃金を支払わないってアカより酷いし」
「あー? その代わり衣食住の面倒は見ているし、レクリエーションや最低限の福利厚生もやっているし、そもそも妖精メイドが紅魔館の支払っている必要経費以上に働いているとでも?」
そうして二人が口論をしている間にも、レミリア株は変わらずに暴騰を続けていた。
それまでのレミリアであるならともかく、スキマ妖怪と口汚く罵り合っているレミリア・スカーレットのどこに株価高騰の要因があるのかと、人々はいぶかしむかも知れない。
しかし、これはある種の必然なのだ。
投資家は、群集心理に支配された生き物である。
ゆえに、ある種のパニック状態に陥ったとき、大多数の投資家と同じ行動を取ってしまう。
この空前絶後のレミリア株の高騰を見た投資家は、『乗るしかないこのビックウェーブに』と思い込み、レミングスの群れが断崖絶壁から飛び降りるように、実際のレミリア・スカーレットの状況など踏まえずに、ただ暴騰するレミリア株に金を注ぎ込んでいたのだった。
「どうするのよ。もう手がつけられないじゃない!」
レミリアが叫んだ時、窓ガラスを割って、天狗の号外が恐怖新聞のように投げ込まれてきた。
それを拾い上げてみると、天文学的になったレミリア株の株価が記されている。
もはや、この株価には『レミリア・スカーレット』の実態は反映されていない。
缶ポックリを我慢する五百歳児も、自分を犠牲にして幻想郷を救おうとした吸血鬼も、そこにはいない。
ただ人々の欲望によって無限に膨張する数字が其処に有る。
「そうね。だったら、最後の手段を使いましょう」
「あったら、最初から使え!」
「いや、だってねぇ。これは能動的に『使える』物じゃないんだし、そればかりはしょうがないでしょう」
「……それってどういう事よ?」
レミリア・スカーレットが尋ねると、八雲紫はやけくそになったかのような清々しい笑みで、こう言った。
「もう、ほっとくの」
こうして幻想郷の市場経済は破綻した。
そして、崩壊した幻想郷の経済は、あっという間に原始的な貨幣経済までは再興された。
もちろん、全く完璧に元通りというわけには行かない。
幻想郷の様々な商店は、大なり小なりの被害は被った。
しかし、完全崩壊したはずの幻想郷の貨幣経済は、即座にある程度の形まで、戻りつつあったのだ。
なぜなら、何処かの経済学者が語るところ『通貨とは共同幻想である』からだ。
大多数の人々が『通貨には価値がある』と思い込む事で、通貨ははじめて価値を得る。そして、その『幻想』が崩れたとき、通貨は無価値となるのだという。
例え話をしよう。
とある英吉利の番組に催眠術マンションというスケッチがある。
それは、偉大なる催眠術師が催眠術によって建てたマンションで、住人がそれを信じている間は、そのマンションは実在している。
けれども、少しでもマンションが実在しないのではないかと疑えば、マンションは崩壊してしまうという話だ。
通貨も、催眠術マンションと変わりはない。どちらも人々の共通幻想によって成り立つものだからだ。
どちらも、実体のない幻想で、信じなくなれば消えてしまう程度の儚い存在。
けれども、ここは幻想郷。
幻想が実体を持ってしまう不可思議な場所。だから、この幻想郷では『通貨は実体を得る』ことができる。
そして、実体を持った通貨は絶対に価値を失う事がない。
だから、この幻想郷では貨幣経済は何度でも蘇るのだ。
そして、どうにか復興した貨幣経済とは対照的に、株式市場は沈没したままだ。
あれだけ賑わっていた幻想郷市場は跡形も無く、株券はただの紙切れとなって、投資家達は市場経済のある別次元へと旅立ってしまった。
幻想郷はあるべきところに帰った。
「……つまり、元の木阿弥ってこと?」
「そうね。何とか収まるところに収まったって事よ。あの話の木阿弥氏も、あんな放蕩暮らしをしていたら、きっと長くは持たなかったでしょう。むしろ、今のうちに破綻していて良かったのよ」
「……かもね」
そもそも株式導入を画策したのは紫だろうという思いを押し殺しながら、レミリア・スカーレットは予定調和を受け入れることにする。
せっかく収まるところに収まったのだし、ここでごねたら話が終わらなくなるからだ。
吸血鬼は窓の外を見上げる。
まるでさっきまでの狂騒が嘘のように、空を漂う毛玉たちは風まかせの綿帽子のように何処かに飛んでいく。
やはり、経済は力を超えたパワーであり、いまの幻想郷には過ぎたる物だったのだ。
だが、そうなると、その経済の力によって世界を繁栄させている外の世界はどうなのだろう。
レミリアが幻想郷入りした頃は、世界は経済によってかつてない繁栄を謳歌していた。
あの時は、人類恐るべしと思っていたが、人類は本当に宇宙に存在する究極の力である複利すら内包する『経済』を、自在に使いこなしていたのだろうか。
存外、あの時点で人類は株式に狂騒していた投資家と同じように『経済』の奴隷になっていたのかもしれない。
仮にそうなっていたとしたら、経済という言葉の由来を考えればとんだ皮肉と言えるだろう。
経世済民――国を治めて民を救うという意味だ。
だが、それが過去の暴君の代わりに人々を虐げているとしたら、あまりに救えない。
「……ま、どうでもいいか」
吸血鬼はかぶりを振った。
株式市場の猛威吹き荒れた後の幻想郷は、実に長閑そのものである。
ならば、それで良いではないか。
「そうね。終わりよければそれで良しよ。じゃ、私は帰るから」
そう言って、八雲紫はジャージ姿でジョギングをしながら帰る。
「ああ、それじゃ」
レミリア・スカーレットはそれを見送った後、ぽくぽくと馬のような足音をさせて自室へと戻ったのだった。
了
面白かったです!
ワームは誰しも一度は嫁認定しますよね!
レミリアが可愛すぎて幻想郷がやばい
・突っ込み①
経済が崩壊するには、おぜうの株価が暴落しなければ駄目なんじゃぁ…。
おぜうの株価が高騰しただけではすごいインフレになっただけですよね?
それなら物を買う時に、たくさんの札束かコインが必要になって面倒くさくなるだけで、崩壊にはならないかな…と。
・突っ込み②
そもそも株価が高騰させるほど、幻想郷の人々が貨幣?お金?を持っているのか?いや持っていまい。
人々はおぜうの株を買うために、証券会社から金を借りて信用取引を行うか、それとも銀行・闇金から金を借りるしかない。
幻想郷に証券会社・銀行・闇金があったとして、人にバンバン貸せるほど金は持っているのか?
人々がそもそも貨幣を充分に持っていないから、それらの会社?団体?は持っていないと思う。だから株価がそもそも高騰しないかなぁ…。
・突っ込み③
幻想郷で貨幣を発行しているのは誰?どこなのでしょう。紫がおぜうに自白させるしか、株価の高騰を
抑えられないのなら、彼女ではなさそう…。では、天魔や紫より上のクラスの龍神様が発行しているのだろうか…。
つまらない事言ってごめんなさい!ただ、自分としてはこういうところにリアリティが感じられなくて…、
興が冷めてしまいました。
>そんな幻想郷にある金融商品なんて、借金の借用書と土地の権利書、それに細々と流通している通貨ぐらいのものだろう。
>『通貨とは共同幻想である』
まったくその通りだと思います。marutaさんの補足説明や裏設定とかあれば、是非教えていただきたいです。
それで、自分の突っ込みが見当違いならコメント除去して点数入れなおします。
英吉利の天才集団と一脈相通じるものが、この作品にはある気がする。
確かに突っ込みどころ満載なんだけど、
ラスト、レミ様のシリーウォーク、或いはホーリー・グレイルネタで全ては吹っ飛んだ。
面白かったです。ぽくぽく。
缶ポックリおぜう様かわいいよおぜう様
それを感じさせないのがすげえw
2つの銀行がお互いに金100gを貸すとき、金そのものは必要ない。株が金1g分から金5g分まで値上がりしたときも、見かけ上の帳簿の上の公正価値の資産が増えるだけで、現物や金が増える必要は無いのです。
金銀しか貿易通貨になれない時代の下でもチューリップは暴騰したのです。