さとりは、盲人であった。
盲人であることに、彼女が不都合を感じたことは殆どない、盲人らしく振る舞うこともない。故に、知る者は限られている。彼女を監督する立場にあった四季映姫は、数少ない例外であった。
「また怨霊がうじゃうじゃと潜り込んでましたよ」
お燐の手の中で、怨霊がもがいていた。霊魂の冷たい触感も、青白く光るその様も、手に取るように理解できる。心を見れば、容易なことだ。お燐の視覚と触覚は、そのまま、さとりのものとなる。一人きりでないならば、常人と変わらぬ視覚を持っていた。
「お姉さんの気持ちはわかるが、死人は閻魔様の所で裁かれては生まれ変わるのが道理なんだよ」
旧地獄には、浮かばれぬ霊が多い。それを管理するために作られた地霊殿に紛れ込むことも珍しくはない。さとりは管理者である。怨霊がいれば、処分せねばならない。
始めは、気分の悪くなる仕事だった。怨霊の心に残る恨み辛みを聞くことも、確かに気分のいい物では無い。
だが、心を覗き、その恨みを生んだものを知ることは、それ以上だった。同情を感じてしまう。同情を感じたからと言って、何が出来るわけでもない。気の滅入ることしかなかった。
死人は裁かれて、消えるのが道理だ。さとりに出来ることは、晴れぬ無念を無理矢理に断ち切る事だけだ。
道理であり正しい仕事とはいえ、常にさとりは、罪か、あるいは謝意を感じていた。
だから、光の消えたとき、悲しむより先に安堵を覚えた。自分の行ってきた事に罰が当たったと感じられたからだ。嘆いたのは、安堵の後だった。
怨霊の心を見る中で、罪を犯しても罰が当たらない者――中には死後すら裁きを逃れうる者も――がごまんといることを知っていたから、罪には罰が当たる。その例を自分の身で示せたことに、安堵を感じさせたのだ。
それも昔の事だ。ペットを飼い始めた理由は、気まぐれと幾らかの罪滅ぼしが混じったものだった。そして、覚りの力はもの言えぬペットに好かれると気がつき、一匹、一匹とペットは増え、賢いペットには仕事を与え――
今では、彼女を慕うペットに囲まれた、幸福な日々が続いていた。かつてを思えば、夢のような生活だとさとりは思う。
もはや、管理者というのも名目上の事。お燐を始めとした、霊と対話できるペットに任せて、何の不都合も無かった。
大昔は、誰からも嫌われる妖怪として、侘びしく暮らして居たものだ、姉妹だけが理解者の世界を、二人きりで過ごしていたものだ。
それも昔の事、今は豪勢な屋敷で、自分を慕うペットに囲まれた、安楽な日々を送ることが出来る。かつて感じた罪の意識など、思い出すことも無くなっていた。
盲目を意識することも無くなっていた。今のさとりには盲人であることが、生来のもので有ったように思える。そして、
――妹など最初からいなかった気がする。
いつからか、そう思えるようにもなっていた。
◇
朗らかな日々を送っていても、是非曲直庁に向かう日だけは、気が晴れなかった。
実質は、全てペットに任せている。お燐などは、怨霊と対話することは出来るが、それだけだ。その心の奥底、彼岸の向こうに行くことを拒否する理由、性根を知ることは出来ないし、する必要も無い。さとりのような罪を感じる事もなかった。
所詮、魂だけの存在。視覚どころか、あらゆる感覚を喪失した抜け殻など、力尽くで処分するのも容易だ。怨霊の対処など獣に任せても十分だった。
それでも、名目上の管理者として、どうしても報告には向かわねばならない。報告書すら、賢いペットが作り上げてくれる。
それ自体は難事ではなかったが、その道すがらですれ違う者達の恐れの声を聞くことと、
「貴方はもう少し責任感を持つべきです――」
報告すべき閻魔、四季映姫の説教を聞かされるのは苦痛だった。二人の座る椅子は、地味だが座り心地は良い、だが、一刻も早く立ち上がりたくなる。
四季映姫の言が正論なのは理解できるが、諫言耳に逆らう、と言うことか、その殆どを聞き流すのが常になっていた。
――広大な屋敷と山ほどの給金をもらっているのだから、これも仕事のうちね……
そう思うだけになっていた。ただ、その日は珍しく、幾らか耳に留まることもあった。
こいしが、何か問題を起こしたらしい。それを聞いても、さとりは驚くこともなかった。「何か」もどうでもいいことだった。聞き流した。こいしは無意識で動く、彼女の目には何も写らない、彼女の目には何も聞こえない。
確かに生きて、動いて、口も動かす。だが、さとりは思っている。
例えばオジギソウがお辞儀をすることに意識はなく、ただの反射運動に過ぎないように、そこに心はない、意識はない、思考はないと。
それは閉じられた、第三の瞳の奥で眠っているのだと。オジギソウよりも遙かに高度だが、こいしの行動の殆どは、本能的な反射に過ぎないのだと。
それでもかつては、微かに第三の瞳が緩み、人間らしい所を覗かせたことも有ったが、最近はそれも見受けられない。
溶け残る程の塩が入った紅茶を飲みつつ、「美味しいね」と、壊れた道具のように繰り返すような存在が、今のこいしだった。
「よく気がつかれたものですね、珍しいこともあるもので」
無意識で動く故に、誰も彼女の気配には気がつけない。無意識で動く物の気配は、石ころよりも薄い。こいしが何かをしたとして、それに気がつく者がいるのは妙だった。
「写真に写っていたのですよ、偶然、撮られていたのです」
それを聞いて、なるほど、と思った。小石よりも存在感が無いとは言え、写真に写り込んでいれば、話は別だ。
――いっそ、逆ならばよかったのに。
さとりは思い、内心で苦笑した。怨霊は心はあるが、肉体は無い。こいしとは真逆だ。迷惑をかけることも殆ど無い、出来ない。精々が、生者に付きまとっては、聞こえない恨み言を呟く程度だ。妹がそれであったら、累を及ばされずとも済むのに。と思った。
「たった一人の血の繋がった妹ですから、家族として、責任はとりますよ」
地獄の沙汰も金次第、とは真実であって、大概の事は、金で解決が付くものだ。血の繋がった妹とは言え、所詮他人だ、理屈で言えば、欠片ほどの責任も負う必要は無い。
もっとも、あれだけのペットを養う身であって、さとりには金など使い切れないほどにある。だから「責任は取る」と気楽に言った。四季映姫も抗弁はしない。責任を取ると言って、それ以上何が言えよう。
しばらく無言が続いて、用件も終わった、とさとりは部屋を後にしようとしたが、
「最後になりますが……貴方とここでお会いするのも、これきりになりそうです」
と四季映姫が言った。裁判長に専念するため、このような雑務からは離れるらしい。
「そうですか、残念ですね」
さとりは神妙な顔で、絵に描いた社交辞令を呟き、立ち上がった。すぐに、四季映姫も立ち上がって、さとりの手を引いた。
盲人とはいえ、四季映姫の目も、死神の目も、是非曲直庁にはある。それを頼りにすればよいだけで、手を引かれる必要は微塵も無いとさとりは思うのだが、四季映姫は万一にも不便があっては良くないと思っているらしい。
毎度のことで、断るのも面倒だった。さとりは、素直に手を引かれていった。出口までの道すがら、四季映姫は言った。
「貴方が妹さんを疎む気持ちはわかります……ですが、たった一人の家族なのですから、もっと、気にかけてあげてはいかがでしょう?」
「……そうしないことは罪ですか?」
罪だとしたら馬鹿馬鹿しいと思う、私が望んだから妹が存在するわけではないのに、と。
「そういうわけではありませんがね」
「よかった。前世からの罪による宿縁だとか言われたら困ってしまいましたから……ええ、でもご心配なく、たった一人の家族ですから。貴方の言葉は胸に刻んでおきますよ」
さとりは、善意だけが見える四季映姫の心を感じつつ、心にも無い事を言った。今の自分にとって、家族などペットだけだ、と言う思いは、おくびにも出さない。
「返ってすぐに、考えてみます」
「それがよいでしょう。諸行無常。私が貴方とここで会うことが無くなるように、妹さんとも、いつまで会えるのかはわかりませんから」
支障があるわけもなくさとりは帰宅し、自室に入った。珍しく、微かだが不便を感じた。
部屋の中央のテーブルには、ポットが乗せられていて、飴が収められていた。しかし、それを舐めようにも、外出中に掃除されたのか、ポットが無い。
ベルを鳴らして、ペットに飴を運ばせた。光も戻った。口の中に、安い甘さが広がる。安物だが、昔から好きだった味だ。
大昔には、こいしと分け合っていたっけ、とさとりは思った。まだこいしが第三の瞳を閉ざしていない、姉妹で心を読み会えた頃の事だ。二人で同じ気持ちを、「美味しいね」と思うだけの、無邪気な心を共有できていた頃だ。
飴を舐めながら、少し考えて、決めた。再びベルを鳴らして、
「呼んできて欲しいペットがいるんだけど――」
数匹のペットの名前を伝えた。
こいしに、ペットを与えようと思ったのだ。自分がペットのおかげで幸福になれたように、ペットを与えれば変わるかもしれない、と思って。
第三の瞳を閉ざしたこいしは、特別にペットから好かれる事はないだろう。無意識で動くこいしには、ペットの世話もまともに出来ないだろう、ペットが、飼い主の後を追うのも一苦労だろう。
――それでも、ペットを飼うという目的が出来れば、少しは変わるかもしれない。
そう思える程度には、まだこいしへの情は残っていたし、そうすることが餞別代わりになるだろう、と思える程度には四季映姫に感謝をしていた。
◇
ペットのおかげで、確かにこいしは変わったのかもしれない、とさとりは思った。
相変わらず、どこで何をしているのかはよくわからない。いつの間にかに帰ってきては、気がつくと姿を消している。
与えたペットは、気がつけば一匹、また一匹と姿を見なくなっていた。最後には、その全てを見なくなった。
恐らく、死んだのだろうと思っている。そうでないなら逃げ出したのかもしれない。どちらでも、消え去った、という点では大差ないだろう。
それでも、以前よりは気配が感じられるようになっていた。気配が無いと言う事は、つまり完全に第三の瞳を閉ざし、無意識で動くと言うことである。
逆に、気配が感じられる時は、ほんの微かにでも、第三の瞳が開いているという事である。覚りの力でも中が見えぬほど、小さなものであっても。先日まではほぼ皆無だったその割合は、僅かながらも増えているように思えた。
同時に、ほんの少しづつ、他人の心を受け入れるようにもなってきたのだと感じることができた。
「この間凶暴な巫女が来てね――」
先日、霊夢が来訪したときの事を話した。あるいは、空が烏から人の形になるまでも、話した。
心は微塵も見えない、返事も無い。だから、傍らに空がいて、その視覚を見ていなければ、そこにこいしがいることも理解できなかっただろうが、確かに、いたのだ。
そして、確かにこいしは聞いていたのだ。
しばらくして、山にこいしが現れた、と言う話を聞いた。山は、天狗の監視が厳しいと聞く。そんな中を、誰に気付かれることもなく、彼女は頂上まで、神社まで登ったそうだ。
それはこいしらしい、と思う。彼女が無意識で動けば、誰も気配に気付くことは出来ない。厳重な警備も無意味だ。
だが、神社で霊夢と出会い、その存在を認識され、こいしは言ったらしい。「おくうに神の力を与えた強い者を捜していた」と。
その一言を思うだけで、彼女が目的を持って行動していること、他人と意志の疎通を行い――幾ばくかでも心を受け入れたこと。そして、自分の話が届いていたことを理解できた。
心を失った人形となってからは疎んでいたのも事実だが――元は、誰よりも仲の良い姉妹だったのだ。心の奥底まで覗かれることになんの躊躇も覚えない、全てをさらけ出せる仲だったのだ。
だから、最初には喜んだ、こいしを不憫に思い、助けようとした行為が無為に終わらなかったことを、また、心を持った妹と会える事を。
しかし、それから少しすると、不安がもたげてきた。心を覗かれることに、恐れを感じたのだ。他人の心が読める覚りでも、自分の心を覗かれたいとは思わない。
かつて、姉妹二人きりの時はそう思ってはいなかった。唯一の理解者には、全てをさらけ出したいと思っていた。理解し合って、依存し続けなければ、耐えられなかった。
今は違う。ペットという理解者に囲まれて、妹は疎みつつ、穏やかで幸福な日々を過ごしている今は。
かつてより複雑になった心を持つ今では、もう一匹の覚りが、それを壊す異物になるのかもしれない、とすら思った。
……芽生えてきた恐れと、蘇ってきた思慕の念が入り交じった心で、さとりは過ごしていた。
血の繋がった妹であり、生きている限り切ることの出来ない存在なのだと再認識した。
血の繋がった存在であるからこそ覚りの力を持ち、恐れるのだから。
その時も、一人、さとりは考えていた。妹が第三の瞳を開くという、喜ばしく恐ろしいことを。一人きりの、暗闇だけの部屋で、考えていた。
「ただいま、それとごめんなさい――」
声が、聞こえた。声と言っても、声帯が放つ物では無い、心の声だ。
それは酷く虚ろで、不気味に思えた、まるで怨霊のよう放つ声のように聞こえた。
「お姉ちゃん」
だが、「お姉ちゃん」という言葉を聞けば、それがこいしのものだと、待ち望んで、恐れていた日が来たのだと理解できた。
「おかえりなさい……こいし」
と、心に浮かべた。もう、口に出す必要は無いから。体は、少し震えていた、心も、戸惑っていた。
「……ええとね、強く、強く言ってくれないとわからないんだ。お墓の前でご先祖様に語りかけるくらい大きくね。『うるさい!』って夢枕に総立ちになるくらいにね。まだ、慣れてないから。おかえりとか、そんな事を言ってくれた気はするけど」
ああ、と思って、さとりは安堵した。安堵したことを恐れもしなかった。
先ほどから感じていた違和感にも説明が付く。この部屋には微塵も光が無いのだ。光を捉えられる目を持つこいしがいるのに、その視覚は一切掴めない、いや、他の五感も掴めない。
だが、今感じている感覚。針先に、糸を通すような感覚。それは知っている。こいしが心を完全に閉ざすよりも、ほんの少し前に覗き見た心。殆ど閉じた瞼の隙間を必死に覗き見て、表層だけを微かに見ることが出来ていた心。
覚りとて万能ではない、霊夢が来訪したときに、彼女の意識の奥底に有った弾幕を再現したものだが、準備もなしには、そこまでは出来ない。催眠術の一つでもかけ、心を開かせねば。
声が異常に聞こえることも、五感を掴めないことも、心がさほど開かれてないと思えば納得出来た。
「おかえりなさい」
精一杯に、さとりは声で、心で叫んだ。精一杯の笑顔を浮かべながら、
「お腹は空いてない? 喉は渇いていない?」
「平気」
自宅に、そして無為の世界から有為の世界へと戻ってきた妹に、姉らしい言葉を投げかけた。
心の中のどろどろとした思いは、深く深く押し込めば伝わらない。そう確信できると、自然、心の上辺には暖かな思いだけが浮かび上がってきて、恐れは澱のように沈んでいく。
さとりは、こいしの殆どを知らない。心を閉じてからは何も知らないとも思えた。だから、問いかけ続けた。その最後は大抵、
「昔、貴方が新聞に写っているのを見たわ。よく撮れたものね」
「覚えてないなあ……」
覚えていない、だったけれど。
「そうだ、神社に行ったことは覚えているよ」
「そうなの。どうして行こうと思ったのかしら?」
初耳のことだ、と言う体でさとりは言った。こうやって話せていれば、妹を疎んじる気持ちは欠片も生まれてこなかった。
「私のペットも、おくうみたいにパワーアップさせて貰いたかったの。聞いたんだ。お姉ちゃんの飼ってた烏が大きな女の子になったって、神様ならそれも出来るって」
「え、貴方の――」
こいしのペットは、恐らく死んだものだとさとりは思っている。少なくとも、慕って、後を付いて、神を食らってもくれるだろう動物は、一匹もいないはずだと思っている。
――心を読めない覚りは、誰からも好かれず、嫌われもしないのだから。
それを口に出してしまいそうに、心の上層に浮かびそうになって、さとりはすぐに飲み込んだ。飲み込まないと、ほの明るい光が吹き消されてしまいそうに思えて。
妹には、それすらも気がつけていないのだろう、とさとりは思うが、わざわざ伝えようとは思わなかった。
――だって、今のこいしには目的が有って、他人の心も受けいれているのだもの。
世界の全てから心を閉ざしていたこいし、
「――どうだったの? 首尾は?」
「難しいみたい。残念だよ、お姉ちゃんのペットだけパワーアップして、私のペットだけそのままなんて寂しいもの。私はずっとペットの言葉もわからなくて、お話も出来ないまま……」
……そして、寂しいと思う心もまた、持ち合わせていないはずだった。
改めて思う。こいしは変わったのだと。すると、やはり恐れも再び生まれてくる。
今のこいしは、確かに心を開いている。その殆どは見えない。殆どが第三の瞳に覆われていて、殆どを伺えないけれど、それでも確かに開いている。
こいしの心を見て、話を聞いても、視覚を伴って理解することは出来ない。
二人きりの部屋は暗闇に包まれていて、恐れという比喩的な闇と、希望という比喩的な光だけが見えた。
今のこいしの状態はかつてと同じだけど、閉じようとしていたあの時とは逆だ。そんな光を精一杯に捉えようとした。
「……慌てなくてもいいのよ、時間が経てば、歩いては話せるようにもなるもの。あの詐欺兎のように」
「時間……あるのかなあ」
「あるわよ」
さとりは励ますかのように言って、何も聞こえなくなった。何も感じられなくなって、背筋が一瞬寒くなった。
「そうだよね、ペットは……ペットが長生きすればね、するもんね」
その間が、こいしが考えていた間だと思えて、さとりはほっと胸をなで下ろした。
そして、そのなで下ろせた感覚に従いたいと思った。
こいしが第三の瞳を開けば、心を取り戻せば、大昔の二人が、二匹のさとり妖怪が戻ってくる。
心の全てをさらけ出せる、さらけ出さなければならない仲に。
大昔は、だからこそ二人は誰よりも仲が良かった。
今は、どうなのだろう? これからは、どうなるのだろう? どろどろした心も、家族と同じように大切なペットが増えた今は?
わからないけれど、昔のようになりたい、とさとりは思う。
昨日まで思っていた疎んじる気持ちは、機能しない目の前に存在するこいしが消してくれたのだろうから。
◇
夜が更けて、朝を迎えた。眠気は殆ど感じない。ただただ、話し続ける。
「貴方を何度も憎らしく思ったわ。私一人を置いて、第三の瞳を閉ざした貴方を……」
そして、一つ、一つ、さとりは己の心の中にある隠し事を伝えていった。
もし、第三の瞳が真に開いて、心をすっかり取り戻せば全て伝わってしまう事を、言葉にして、己から紡いでいく。
「私はずっと楽しかったよ、一人きりで、何にもない世界、嫌なことだってお姉ちゃんへの未練だって無い世界……でもね、今はわかるよ、一人で逃げたこと、それでもお姉ちゃんは頑張って……ペット達との関係も育んで……」
同時に、こいしも何度も何度も詫びていた。自分の弱さを、姉の前から消えたことを。さとりもやはり、あらゆる事を、詫びた。
「――ごめんなさい、お姉ちゃん」
「――ごめんね、こいし」
話の結びは、いつも謝罪の言葉だった。
ただ、詫びあいも、その心を覗かれるよりも遙かに気楽だった。心の準備をしてから、噛み砕いて言えるのだから。
その過程を踏んでいくことで、恐れが次第に消えていくのが実感できた。
血が繋がっているからどうだと言うの? と思ったときも有ったが、やはり、血縁と言うのは決して消せない物だと感じた。どれだけ愛しく思うときも、疎く思うときも、姉妹という関係は消せない。
「ああ、懐かしいねえ、お姉ちゃんはいつでも助けてくれたの」
「頼れるお姉さんだから」
「でも、結局はぼこぼこにされて二人泣いて帰るんだ」
「今だったらペット総出で血祭りにしてあげるのに」
たわいのない思い出話が、何よりも愉快に聞こえた。
古い過去を共有出来て、笑い会える、生まれる前から知っていた妹との話は。
「私はね、目が見えないのよ」
「うん、知ってた」
その中で盲目の事も伝えたが、知っていた、と言われたのは少々意外だった。でも、こいしになら気がつけたのかもしれないな、と思い直した。
こいしの心を見ても、相変わらず視覚までは掴めない、他人には聞かせたくない秘め事も多かったから、ずっと、さとりは人払いをしていた。
ペットが周囲にいなければ、真に盲人なのだから、不都合は多い。気がついてもおかしくないだろう。
それか――単純に姉妹の絆で気がついたのかもしれない。そうなのだろう。さとりは、根拠も無くそう思えるような気分だった。
「だからね、こいしには私の目になって欲しいわ」
自分でも苦笑するほどに安い、だけど本心からの言葉をさとりは言った。同時に後悔の念を感じた。
――こいしが第三の瞳を閉ざしたときに、私にはもっとやるべきことが有ったのではないだろうか、更に言えば、心を閉ざす前にも何かを……と言う思いを。
具体的に何をするべきだったか? と言う事は思いつけない。それでも、過ぎ去ったことだから、自責の念だけが強く、重くのし掛かっていた。
「そうしてあげたいと思うけど……無理だな」
こいしは返した。すると、さとりは返せなかった。少し、何も無い間が広がる。
何故こいしが「無理」と言ったのかはわからないけれど、拒絶されたと言うことははっきり理解した。
真に目になってくれと思っていたわけではない――そんなものは、始めから必要ない。
それでも、だからこそ拒絶が悲しかった、だけど、自分の思いを振り返り、恐らく都合悪く振り返って、仕方のないことだと思い直す。これから、関係を紡いでいけばいいのだと。
「ねえ、こいしにはどうして私が盲人だとわかったの?」
先ほどの言葉を無かったことにしたいかのように、さとりは話題を戻した、
「聞いたの、あの閻魔様から」
その返事もまた、さとりが願っていたものでもなかった。――姉妹なんだからわかるよ、と言う三文台詞が、一番の望みなのだったから。
理にはかなっていたけれど、四季映姫は知っている、彼女から知らされていた、というのは自然な事だろう。
「貴方も大変だったわね」
くすくす、と笑いを作って、さとりは話を変えた。
「あの閻魔様に会ったのなら、長々とお説教をされたんでしょう?」
「それはもう、有りがたいお話を延々と聞かされたのです」
相変わらずの不気味な声音、いや、心音だったけれど、その言葉はおどけたように聞こえた。
「私も彼女には随分と世話になったものよ、仕事で会わないと行けなくて、会う度、会う度、有りがたく聞く気も無いお説教をされたものだわ。もう会うことも無いと思えば気楽だけどね」
「もう会わないなんて事は無いよ、何処かで鉢合わせするかもしれないし……そうでなくても、死んだら世話になるんだから、誰もが、必ずね」
それは確かだろう、と思えたが、今のさとりには、到底死後を意識することは出来なかった。陰口混じりの冗談を呟き続ける。こいしはずっと相づちを打っていたが、
「でもねえ、本当にあの人はいい人だと思う、説教だって理に適ってるし、わざわざ説教なんて憎まれることをしてくれる人なんてそうはいないから」
「……そうね」
途中、そう言って、さとりも自省した。陰口めいたことを言うのは閻魔が見ていなくても褒められたことではないだろう、と流石に感じた。何より、非の打ち所のない善人だと言うことは、幾度も心を見てきたさとりには十二分にわかっている。だから、
「あの人はいい人だから本当に残酷なの」
とこいしが続けて、少し驚いた。
「どうしてそう思うの?」
「あの人は閻魔様、自分にも他人にも厳しい、完璧な神様。あの人にはわからないんだよ、お説教されても聞けない人のことなんて、いいや、違うな、わかってるけど言うんだ。それでも、いつか反省して聞き入れてくれてると思い込んでるから」
「閻魔様って、そんなものでしょうね」
死ねば皆彼女の所に行って、裁かれて、罰を受けるのだ。そして、罰と共に罪を浄めてくれるのだ。そうすれば全てを忘れて輪廻の渦に飲み込まれる……悔いたことを活かす事も出来ず、生まれ変わる。
「最後にはお説教の意味がわかるけど、もう手遅れな人だらけなんだよね」
それを聞いて、手遅れになる前に行えたと思い、さとりは心底四季映姫に感謝した。もし、彼女の言葉を聞いて、考えて、妹にペットを与えていなければ、こんな関係は取り戻せなかっただろうと。ひょっとすると、未来永劫に。
「……説教と冷や酒は後に効く、とは言うけど、閻魔様の管轄になったらもう手遅れね」
「手遅れって何なんだろうね。どうなったら手遅れでやり直せないんだろうね? 馬鹿は死ななきゃ治らないなら……馬鹿は絶対に手遅れになるのかな?」
その問に、さとりは即答できなかった。何も見えない時間が恐ろしくて、
「少なくとも私たちには、幾らでもやり直す時間があるわよ」
当たり障りの無い事を言った。
「そうだといいね。こうやってお姉ちゃんとまた話す時間が有ったんだけで、もう十分な気もするけど」
「それがずっとずっと続くのよ」
さとりは笑みを浮かべつつ言った。こいしは、しばらく口をつぐんだ。そして、答えるでもなく、言った。
「あの人は本当にいい人なんだよねえ、だから最悪で最低で最高なことが出来るんだ。あの人にはきっとわからないんだよ、自分みたいにいい人じゃない奴のことは」
四季映姫の説教など聞き流していた盲人には、こいしの言ったことの意味はわからなかった。
◇
深い、深い眠りに付いていた。妹との再会、それに陶酔して話し続けていたのだが、いつの間にか眠りに付いていたようだ。
「こいし? 起きてる?」
返事は無かった。一人きりの部屋で目覚めても、どれほど眠ったのかはよくわからない。昼夜を示す物は、盲人だけの部屋には存在しなかった。
軽く身支度をして、さとりは自室を出た。すぐ、ペットの一匹とすれ違った。心を見て、外が光に溢れていることに気づけた。
「おはようございます」
とペットが鳴いたので、さとりは笑って「おはよう」と言った。いつもの、家族に囲まれた穏やかな朝だ。自分にはずっとあって、こいしには無かった朝だ。と思った。
胸が痛んだ。その気持ちのままで、こいしの部屋の前を通った、どんな声も聞こえなくて、どんな気配も感じられなかった。
眠っているのだろう、と思うことにした。万一に、何かの気まぐれでまた心を閉ざしてしまったら? と言う事は、考えない。恐ろしいから。心の奥の奥を覗かれるより、妹がまた消え去ってしまう方が恐ろしい、と思えていた。
だから、その一助に、と再びペットを与えることにしたのだ。温厚で、丈夫な動物がいいと思った、目処も立てていた。
こいしが目覚めたら、さっそくプレゼントしようと思い、嬉しがるこいしの表情を想像して、自然に笑みが漏れた。
笑みを浮かべたまま、庭に出た。放し飼いにされてるペットの声で賑やかだ――人間ならそうとだけ思ったのだろうが、動物の心を読めるさとりには違った。動物が騒ぐ原因がありありとわかるから、早足で向かった。
赤い視覚が、心に流れ込んできた。奥底まで覗けば痛覚なども理解できるが、到底する気にはなれない。なるべく心を見ないように近づく。
その出元は、一匹の犬だった。全身が赤黒く染まって、かさついていた。視界は赤で濁っていた。
迷い込んできた野良犬ではなかった。汚れていたが、近づけば見覚えの有る犬だと、そう、こいしに与えた犬だとわかった。
こいしに与えたペットは、皆死んだものだと、さとりは思っていた。困惑しつつも、生きていたなら治療しないと、と思いつつ、犬を見た。それだけでも、どこかおかしいと気がつく、弱っているが、外傷は少ない。
――そもそも、全身血まみれの怪我で生きていられるわけがない。
慌てる頭でも、少し考えれば気がつける。わかれば、恐ろしくなった。心の奥底にしまっていた、忘れようとしていた、不自然な感覚が頭の中に広がる。
だから、物言えぬ獣の心を見ることに、躊躇した。恐らく初めて……躊躇した。それでも、さとりは見た、見なければならなかった。
血は、こいしの物だった。それ以上の事、犬の覚えている全てをさとりは見たけれど、頭には、残らなかった。不自然だった感覚の意味がわかって、それが急かす頭で、現実を否定するために走った。
……いいや、認めたくない現実でも、認めてもいい。そこに確かに妹がいるなら。体が無くても、心が有ってくれれば。とも思えた。気持ちが入り交じっていた。
ああ、犬の介護を誰かに頼んでなかったな、と思ったが、戻る気にはなれない、こいしの部屋へと、急ぐ。盲目の不便さをこれ以上に感じたことはない。
誰かの心と視覚を見る余裕は無かった。途中、数匹蹴り飛ばしたのかもしれない。よくわからない。そうだとしても、気にする気は微塵も無かった。
ドアの前に立っても、声は何も聞こえない。ノックもせずに、勢いよくドアを開いた。
「ねえ、こいし! 寝てるの!? 寝てるんでしょう!?」
と叫んだが、返事は無かった、ベッドがあったはずの所を叩く、少し冷たいシーツの感覚と、マットの柔らかな反動だけが帰ってきた。
もう、立ちすくむことしかできない。静かに佇んで、心を整理しようとする。
「さとり様」
と言う言葉で、はっと我に返った。お燐の声と、お燐の目が流れ込んできた、さとりだけが立ちすくむ部屋を、ありありと見て取れた。
「大丈夫ですよ、そこに巣くってた怨霊なら、私がちゃんと処分しておきましたから」
お燐は笑顔で言った。さとりには何も言えなかった。
「でも、素直な怨霊でしたねえ。普通、ああいうのはしつこく粘るじゃないですか。ま、怨霊ってのは恨み辛みが募ってるんで当然ですが」
口を開けば、怨霊より酷い、怨嗟の言葉をはき出したことだろう、心を覗き見れば、生臭い心が見えただろう。
「楽は楽ですけど……不気味でしたねえ。始終無言で……ま、普通の奴には怨霊の声なんて聞こえないんで、私かさとり様以外にとっちゃそれが当然なんですが、何の抵抗もしなくて、むしろ捕らえてくれって感じに見えて、私は返って何かあるかと恐ろしくなりましたよ」
「……違うわ」
「違う? 何がでしょう?」
何に対して違うと言ったのか、さとり自身にもよくわからなかった。不気味、妹、心の声、単語がぐちゃぐちゃと心に流れるだけだった。
「どうなされました? 顔色もなんだか……」
心配げなお燐の声に、必死に声を紡ぎ出した。消え入りそうなかすれ声だった。必死に頭を片付けて、一言だけ、ひねり出した。
「何もおかしな事はないわ」
怨霊を処分する、何もおかしな事ではない。未練を残した怨霊を処分するのが、さとりと、お燐の仕事。
浮かばれない霊を、また一匹浮かばせただけなのだ。
死者は彼岸に送られねばならない。怨霊は処分されなければならない。それが摂理で、地霊殿はそのために作られたのだ。
さとりは、幾たびも自責の念に駆られつつ、怨霊の――ひょっとすると怨霊にまつわる者も――縁と未練を断ち切ってきたのだ。
「少し、一人にさせて……仕事は任せるわ」
「……わかりました。ええ、仕事が任せて下さい。いつものことですし。何かありましたらすぐに誰かを呼んで下さい。さとり様は地霊殿の皆に取って、一番大切な存在ですから、それはもう、いつまでも、いつまでもですよ」
さとりは自嘲めいた笑みを作って、
「ねえお燐、ずっとなんて、永遠にあるものなんてないわ。そう、あいつが言ってたとおり、なんでも消えるのよ、まだまだあると思ってる物は、思った矢先に消えるのよ! ああ、そうして無くしてから気がつくんだわ。ねえ、私は一回無くして、取り返して、やっと気がつけた。でもね、その時はもう手遅れだったのよ」
早口にまくし立てた。お燐は戸惑った表情で、何も言えない。罪も、真実も、何も知らないお燐には、さとりの気持ちはわからない。
さとりの目から、涙が溢れた。止められなかった。役目を果たせない眼に、涙を流す機能だけが残っていることが、憎らしかった。
流れ的にイイハナシで終わるとは思ってなかったけど、これも『目を閉じた』代償なのかしら。
少なくとも、お燐は悪くないよ。
今までこいしに何もしてこなかったこと、映姫の説教を聞き流し続けてきたこと、怨霊を全てペット任せにしてきたこと、目が見えないこと。全部のさとりの行動が、冷酒のようにあとから効いてきて、気がついたら手遅れになっている。
すっごい胸に来る話でした。
お燐は悪くない…悪くないんや…
誤字報告を
「でも、結局はぼこぼこにされて二人泣いて返るんだ」
「返る」→「帰る」
現実は、非情なのですね
最初の文章からずっと最後の場面への伏線になっている。
このSSを読みながら、もう少し閻魔様の説教に耳を傾けれていれば、
最後の展開は容易に予測できていたのかもしれませんね……私はさとり同様に、聞き流してしまいましたが。
心の底からそう思った。
最後のお燐は意表をつかれた・・・かなりキました。
でもそれも含めて全部前半で伏線がはってあるのですね・・・
お見事でした。
「それが今のあなたにできる、善行です」
二週目も十二分に楽しめました。
閻魔の長い説教を面倒だから聞き流したのはさとり。ペットに怨霊の処分を任せたのも、処分できるように育てたのもさとり。盲目になって安堵したのもさとり。怨霊への関心を無くしたのは、そのたった一人の姉であるさとり。
夜に何かを悟れても、朝が来れば自分が望んだ日常に組み込まれておしまいだったんですね。だって馬鹿は死ななきゃ治らないから。