1
「運命は車輪と表現される。わかるか咲夜」
「はぁ。車輪ですか」
「そう。車輪だ。wheel of fortune 聞いたことぐらいはあるだろう」
「聞いたことぐらいは。それで?」
「それでって……おまえちょっとは主を敬えよ」
「十分敬ってます。それで?」
「まあいい。簡単なことだ。運命の車輪なんてひとつで十分だ。補助輪などいらん」
「補助輪なきゃ倒れちゃうでしょうに」
咲夜のあきれた顔がちょっとだけ痛い。
しかし、しかたないのだ。
わたし、レミリア・スカーレットがこの程度の児戯で補助輪などというお子様アイテムを使う必要などない。
自転車ごときで。
そう、自転車だった。かのものに興味をもったのはちょっとしたきっかけだ。いうなれば誰にでもあるようなふとした思いつき。そうだな。朝起きたときにふとコーヒーを飲もうと思い立つときがあるじゃないか。わたし自身はコーヒーなんて紅茶に比べれば苦くてまずいだけの代物だが、それでもほんのちょっとは飲んでみようかなと思うときがある。砂糖をたっぷりいれてミルクもたっぷりいれて。なにこれほとんどミルクなんですけど超ウケルーと咲夜に毒づかれるレベルまで魔改造すれば飲めなくもない。
いやそんなことはどうでもいい。ともかくコーヒーを飲もうと運命がささやいているとき、ほかの者にも覚えがあるかはわからないが、決まってわたしはコーヒーの匂いを嗅ぐ。おそらくは吸血鬼という種族は他の種族に比べて鼻がよい。血液を味わう高貴な種族だからだろう。そして匂いを嗅いだあとは、わたしはモーニングコーヒーを優雅にたしなんでいるシーンが見える。
これが運命というものだ。
自転車の場合も同じ。
プロセスは匂いから始まった。鼻を近づければわかるあの鉄の匂い。決して嫌いな匂いではない。血液の匂いに似ていてわたしとして甘美なものに思える。そのあと、わたしは自転車に乗ってるわたしを幻視した。いや――正確には自転車に乗ろうとしているわたしを、というべきか。
ともかく、自転車を手に入れること。まずこれからはじめた。
たいしたことはない。香霖堂の店主に言えば、外の世界のものも手に入るはずだし、そもそもわたしが幻視したイメージには自転車は既にそこにあったのだから、きっと手に入れることはできると踏んでいた。運命を視る力は決して万能ではなく、途切れ途切れのイメージがいくつかつながり、関連性がありそうでなさそうなそんな曖昧な情報が時折飛来するようなものであるが、少なくとも運命は裏切らない。
そう、運命は絶対だ。
もっと言おう。結果は必ず起こる。過程がどうであれ、わたしは自転車に乗ろうとしているイメージを視てしまったのだ。だから結果は必ず到来する。いつなのかはわからないが、そう遠くはない未来である。
結果からいうと、自転車はすぐに手に入った。
わたし好みの小さな赤い自転車だ。
店主によればこれはママチャリという種類に属するらしい。おそらくは魔々血在とでも書くのだろう。
ふふふ、実にわたしにあった自転車ではないか。
血の色というところが特に良い。
サイズはわたしにあわせてできるだけ小さなサイズにしてもらったが、いかんせん外の世界から流れ着くのは運によるところが大きい。オーダーメイドのようにぴったりあわせることなど望むべくもなく、わたしが自転車にあわせる必要がある。君には三輪車のほうが適正なのではと店主に薦められたがとりあえずぶん殴っておいた。
問題は――
足がつかないことだ。
サドルの部分を限界まで下げてもらっても足がぜんぜんつかない。ペダルまではなんとか足は届いているものの、この不安定さはいかんともしがたい。両手両足を縛りながら弾幕ごっこをやっているような、できなくはないけどちょっとなにその無理ゲー的な感じがびんびんしまくっているのだ。
咲夜の言い分もわからなくもない。まことに遺憾ではあるが補助輪をつけなければすぐに転倒してしまい、決して自転車に乗ることはできないだろう。
そんなことはわたしの理路整然とした頭をもってすれば考えるまでもなく明らかなことであるし、しかも今回はわざわざ運命によるお墨付きもあった。
端的に言えば、わたしが自転車に乗れないイメージ。
何度も何度も転ぶイメージである。
先ほども言ったとおり視えた結果は裏切らない。わたしが視たイメージは絶対だ。しかし、不可逆的な要素と違い、自転車でわたしがいつか転んだとしても、そのまた未来においては自転車に乗れるようになっているかもしれない。それが希望といえなくもない。歯切れの悪い言葉になってしまうが、わたしが運命を操れる範囲というのは、その程度のものなのだ。
2
「さぁ。わがしもべよ。我を運命の楔から解き放つのだ!」
「はいはい。はずしますからちょっと待って」
「なにその冷めた態度。ちょっと咲夜、ノリ悪いわよ」
補助輪をはずすことの恐ろしさを咲夜はまったくもって理解していないらしい。
いわば、これは旅立ちなのである。
運命の車輪はここから回りだすといっても過言ではない。
「だったらご自分でなさればよろしいじゃないですか」
「手が汚れる……」
「わがまま娘」
「なんですって」
「いいえ。なんでもございません。この身はすべてお嬢様にささげておりますからね。補助輪をはずすという一見するとどうでもいいような腐れ仕事にも全力をつくさせていただきます」
「あなた棘ありすぎ。棘メイドなんていやよ、わたし」
「なんですか棘メイドって」
「ちくちく痛いメイドさんのことよ」
「こう見えてわりと優しいと評判なんですよわたし」
「へえ。どんなふうに」
「例えば妹様からは慕われてますしね。不出来な姉よりもよっぽど姉らしいとおっしゃっていました」
ねえ、泣いていい?
泣いていいかしら、わたし。
いやいやこの程度のことで紅魔館の主たるわたしが動揺を見せてはいけない。
紅魔館の主たる者、下々の者の規範にならねばならない。貴族然とした態度で接しなければならないのだ。
「フ……フランはまだまだ精神的に幼いから、見た目の年齢で判断してしまうのかもしれないわね」
「そうですね」
軽く流された。
そんなこんなで補助輪ははずされて、いままでよりもずっと不安定な赤い自転車がたった一本の細い足で屹立していた。
なんという細い足なのだろう。その足も後ろ足で蹴り上げることによりタイヤと水平になる仕組みであると聞く。
「ねえ咲夜」
「なんですか。お嬢様」
「これってもしわたしが乗れるようになっても、降りられないんじゃないかしら」
「いいところに気づきましたね。さすがお嬢様」
「よくわからないところで持ち上げないでよ」
「補助輪をはずせばこうなることは当然気づいてらっしゃったんですよね」
「と、当然じゃない。その程度のこと気づかないでか。そ、そうよ。降りるときは飛び降りればいいのよ」
「あまり乱暴な乗り方をしてらっしゃいますと、すぐに壊れますよ」
「ええい。今はそんなことはどうでもいいのよ。降りるときのことを考えて乗る馬鹿がどこにいるか!」
「むしろ降りるときのことを考えないで乗る馬鹿がいるほうが問題かと思いますが」
「咲夜……」
「はい?」
「後ろ支えて」
「お嬢様」
にっこり笑顔の咲夜。
「ん?」
「わたくし、こう見えまして、紅魔館の業務の九十五パーセントを単独でまかなっております」
「それで?」
「つまり、わたくしのスケジュールは基本食っちゃ寝のお嬢様に比べてずいぶんタイトなんです」
「なにが言いたい」
「つまり、暇じゃないのです」
「だから?」
「だから、お嬢様の自転車に乗るという遊興につきあうのは少しばかり無理なのではないかと愚考いたします」
「わたしが頼んでいるのにか」
「例えば夕食が出たり出なかったりでもいいとおっしゃるなら、可能かもしれませんけれど」
「もういいわかった。紅魔館の業務のほうを優先させなさい」
「仰せのとおりに。それでは失礼いたします」
咲夜はヒュっと姿を消して、どこぞへと行ってしまった。
咲夜はぜんぜんわかってない。わたしが自転車に乗るということの意味をまったく理解していない。紅魔館の主たる者できないことがあってはならないのだ。たとえ児戯に等しいことがらであっても、例外はない。自転車に乗れないレミリア・スカーレットなんて――想像するだに恐ろしい。
わたしは夕闇の薄暗がりのなかでぼんやりと存在感を主張する赤い自転車を見やった。
独りで達成できるだろうか。
そこまでわたしは傲慢ではない。自分でもプライドが高いことは自覚しているが、独りで練習していつまで経ってもできないよりは他人の手を借りてでも達成したほうがいい。
結果こそがすべて。
このレミリアにあるのはシンプルなたったひとつの思想だけだ。
『自転車に乗って支配する』
過程や……! 方法なぞ……! どうでもよいのだァーッ!
じゃあ補助輪つけたままでもよくね? ってツッコミは無しにしてちょうだい。
補助輪をつけた自転車なんて三輪車と同じじゃない?
そこは譲れない一線なのよ。
3
「美鈴。紅魔館の主たるレミリア・スカーレットが命じる」
「はいッ! なんでしょうお嬢様」
「自転車の乗り方を教えなさい」
「じ、自転車ですか。ですが、ここを離れると咲夜さんに怒られてしまいます」
よっぽど咲夜のことが怖いのか、美鈴はあわてふためいている。
「わたしの命令は絶対よ。咲夜には後で言っておくわ」
「わかりました」
そんなわけでついに練習タイムが始まった。
最初、美鈴は何も言わずにわたしが乗るところを観察したいと言ってきた。達人者がよくあるように、まずは視ることからはじめようというのだろう。
ふん。さすが美鈴といったところか。
結果など運命を視るまでもなくわかりきっているが、どこが悪いのかを指摘するつもりなのだろう。
ということは、だ。
必然。わたしは転ばなければならない。
あ、今気づいたけれど、そうなるといま着ているドレスも泥まみれになるのね。これはちょっとした盲点だったわ。運命の幻視はただのイメージ図。実際に体験したわけじゃないから、そこから蒙る損失に気づいてなかった。
べ、べつに転倒するのは怖くなんかないわよ。肌をすりむこうが、顔から地面に落ちようが、一瞬で回復するのが吸血鬼だもの。
それにわたしから言い出したことだ。
美鈴に今さら考えが変わったと言うのもプライドに触る。
「よく見てるのよ。わたしの雄姿を」
「はいどうぞ。お嬢様」
「はあああああああッ!」
ペダルをグンと漕いだ瞬間。
変な具合に力をいれすぎたせいか、自転車は前のめりになって逆ウイリー状態。
あわててブレーキをかけるも、それが逆によくなかったらしく、その瞬間まるで水中のように時間が遅くなるのを感じた。
あ、これ死ぬ。
死んじゃう。
恐怖。
恐怖しているというのか。
このわたしが。
レミリア・スカーレットが!
「きゃうううううッ」
「ほっ」
そんな軽い声が聞こえたかと思うと、わたしは頭から素敵な角度で落下する前に美鈴に助けられていた。
おぜうさま抱っこってやつである。
ぐっじょぶ美鈴。
でも少しばかり恥ずかしい。これでは威厳もなにもあったもんじゃない。
美鈴にはすぐに下ろしてもらい、わたしはドレスの裾をパンパンとはたいた。
「ま、まことに遺憾であるが、少々焦りすぎたらしいな」
「そうですねぇ。お嬢様は腐っても吸血鬼なんですから、ちょっとは力のセーブをしないといけませんよ」
「かのものは我が力を受け入れるには脆弱にすぎたか……」
「あ、大丈夫みたいですよ。車体もゆがんでないみたいですし、チェーンもはずれてません」
あれだけ盛大に回転していたのに、自転車は壊れていなかったらしい。
なんともぐっじょぶな自転車だ。
心のなかで褒めておき、わたしは美鈴に向き直る。
「それでどうだった。わたしの雄姿は」
「ええと。まずは力の入れ具合から練習してみないといけませんね。あとそのお召し物は自転車を運転するには向いてないんじゃないかと」
「しかたないわね。ミニスカートあったかしら」
「妹様からお借りすればよいのでは?」
「フランから……か。そうね、考えとくわ」
けれど、フランの力を借りる気など毛頭なかった。
いや――
それどころか、わたしは自転車に乗れるようになるまでフランとは顔をあわせたくなかったのだ。
理由は簡単である。
あの好奇心旺盛なフランがわたしの超絶カッコいい自転車を見たら、自分も乗りたいと言い出すに決まっているのだ。
それだけではない。運動神経抜群な妹のこと、もしかするとすぐに乗りこなしてしまうかもしれないし――
いや、もういい。はっきり言おう。視えたのである。フランが悠々と自転車に乗っている姿が、そして、無様に転び、地面にはいつくばるわたしの姿が。なにより、無残にひしゃげたわたしの自転車が。
そんな未来を認めるわけにはいかない。
だから、フランには絶対に知られるわけにはいかない。
けれど、運命とは残酷なものだ。
――運命は決して裏切らない。
もちろん幻視にいたる過程までつぶさに視えるわけではないから、結果以外のところは違う道筋になるのかもしれないが、結局フランは自転車に乗るし、そうだとすればわたしが自転車に乗ることも知られてしまうのである。
背後から――
声が
聞こえた。
「あれ? お姉さま何してるの」
振り向くと、フランがいた。フランはつい最近地下の幽閉から解き放ち紅魔館内なら自由に出歩いてよいといっている。
紅魔館の中庭にあたるここで偶然であったとしてもなにもおかしいことはない。ただ、フランはかりそめの自由を得たとはいってもいまだに精神的に不安定なところがある。そんな自分のことをわかっているのか、フラン自身もあまり出歩くことはない。それが今日に限って――
やはり運命には抗えないということなのだろうか。
わたしは苦虫をかみつぶしたような気持ちを必死に押し隠し、笑顔を装った。
「あら、フランじゃない。ごきげんよう」
「ごきげんよう、お姉さま。ねえ、それなぁに?」
「これ? べつにたいしたものじゃないわ」
「なんなのよう。教えて」
「ただの人間の道具よ」
「いいもん。じゃあ美鈴に聞く。美鈴これなに?」
「え、あ、これはですねー」
わたしが言うな言うなとオーラを送っていたおかげか、美鈴は言葉を濁す。
するとフランはムスっとした表情になった。
「なによお姉様の言うことばっかり聞いて。美鈴はわたしのことが嫌いなの」
「違いますよ。大好きです」
「そう。じゃあ教えて」
「いいわ。美鈴。教えてあげなさい……」
わたしは言った。ここまで至ればもはやフランの好奇心を抑えることはできないだろう。むしろ言わないほうが好奇心を爆発させてしまう。
「あ、はいわかりました。これはですね。自転車という乗り物です」
「自転車?」
「はいそうです」
「へえ……。それでお姉様はこれに乗ろうとしてるわけ?」
「そうよ。たしなみ程度によ」
「ふうん。お姉様にしては珍しいな。こんな意味のないことあまりしそうにないのに」
「趣味に合理性を求めるほうがおかしいわ。これは仕事でも義務でもない。ただやりたいからやってるのよ」
「あっそ。じゃあわたしも乗ってみたいな。ね、いいでしょ」
「ダメよ」
わたしはできるかぎり柔らかく言った。
フランに内心を悟られたら、きっとなにがなんでも乗ろうとするだろう。
だから、ムキになってはいけない。
「どうして乗っちゃいけないの」
「あなたどうせ自転車壊すでしょ」
「最近はあまり壊してないわ」
「あなたは過去にどれだけの物を壊してきたと思っているのよ。わがままはおよしなさい」
「今のわたしを信頼してくれなきゃ、なにもできないままだよ。そんなのおかしいじゃない」
「フラン」
「まあまあ……、お嬢様。ここは穏便に」
美鈴が場をとりなそうと気を利かせてくれたが、しかし今回ばかりは最悪なタイミングだった。
「穏便? わたしはフランと話しているのよ。美鈴」
「ですが。これでは妹様があまりにもかわいそうです。いいじゃないですか。自転車ぐらい乗せてあげても」
「……ダメって言っても、美鈴がこっそり乗せそうね」
「そうよ。お姉様と違って、美鈴は優しいもの」
「好きにするといいわ。でも、自転車はまだ練習中なの。あなた用のを買ってあげるから少し待ってなさい」
「少しってどれくらい?」
「一ヶ月くらい、かしら」
「長すぎるわ。これに乗っちゃダメなの?」
「ダメ。これはスカーレットの当主にこそふさわしい。わたしは今ここで宣言するわ。この自転車はただの自転車にあらず。紅魔館のロード・オブ・バイセコォと心得よ。そして、わが名においてこの自転車をスカーレットディスティニー号と名づける! 何人たりともわたしの許可なく乗ることは許さん」
「とか言っちゃって、お姉様まだ乗れないんでしょ?」
「ふん。確かに乗れん。だが乗れないことが誇りを汚すのではない。乗れないままにしておくことこそが誇りを汚すのだ」
「でも一ヶ月はやっぱり長すぎだし、お姉様よりもずっと早く乗れる自信あるから、三日ぐらい貸してよ。すぐ返すから」
「あなたにはまだ早いと言っているのよ。これでも十分な譲歩はしたつもり。強欲は身を滅ぼすわ」
「お姉様のほうがわがままじゃないの。いいわよもう。パチュリーに同じの作ってもらう」
「待ちなさい!」
言っても聞かん坊なフランはすぐさま翼をはためかせて地下の図書館に向かった。
しかし、わがままでコントロールがきかないところはあっても所詮フランは子どもだ。パチェがわたしの友人であるということを知らないわけでもあるまいに。
「お嬢様。妹様が自転車にお乗りになるのがそんなに不都合なのですか」
「ずいぶんと直球だな。いつもの気のまわしようはどうした」
「いえ。なんだかお嬢様が――」
4
焦っている、か。
よく気がつくタイプとはいえ、美鈴に悟られたのは失態といえるだろう。
これでは知恵に秀でたわが友人の前では、わたしの内心などすべて露呈しかねない。
心構えを新たにして、わたしはパチェのもとを訪れた。
パチェはあいかわらず辛気臭い場所で、黙々と本を読んでいた。
わたしはいつものように無言でパチュリーのそばの椅子に座り、彼女が一区切りつけるのを待つことにする。
時間にして、十五秒ほどだろうか。
わたしが待つという行為に対して許容できるギリギリを、パチェは知っていた。
「で、自転車のことかしら」
「話が早くて助かるわ。フランはなんて言ってた?」
「自転車をコピーしてほしいって言ってたわね。あなたの……ええとなんだったかしら、スカデス号とかいうのと同じ仕様にしてくれって話だったわね」
「スカーレットディスティニー号だ」
「自転車の名前なんてどうでもいいわよ。それで、どうしてほしいわけ?」
「時間がほしいのよ」
「時間?」
「わたしが乗れるようになるための時間が」
「ふうん。つまりあなたは妹が姉をさしおいて自転車に乗るのはけしからんと――そう言いたいわけね」
「そ、そうは言ってないわよ」
「言ってるも同然じゃないの」
「わたしはただ自転車という凶悪な乗り物に大事な妹を乗せるには時間が必要だと思ったまでだ」
「はぁ……」
盛大なため息をつかないでくれ、わが親友よ。
「何日ほしいの?」
「一週間でどうだ」
「あの子、かなり乗りたがってたわよ。一週間も我慢させるのは難しいわね。三日ぐらいってとこかしら」
「三日か……」
「肉体的には強靭な吸血鬼なら楽勝でしょう。三日で乗れないならたぶん一生乗れないわよ」
「そう……。運命とは残酷なものね」
「運命? レミィ、あなた何か視えたの?」
「いや、なにも」
「そう。ならいいのだけど――」
「では自転車のことよろしく頼むわ」
「ねえレミィ」
きびすを返したわたしの背中に、パチェの声がかかった。
振り返ると、少し思案するようなパチェの顔がある。
「どうした?」
「いやなんでもないわ。ただ、そうね……。自転車乗れるようになるといいわね」
「ありがとうパチェ」
バレては、ないわね?
正直よくわからない。パチェほどの頭脳ならわたしが何かを言うまでもなく悟っているのかもしれないし、あえて言わないでおいてくれたのかもしれない。
なんのことはない。
そうたいしたことではない。
笑ってしまうほど単純な事実だ。
――運命は決して裏切らない。
あの紅い月よりも残酷なほどに。
わたしがどんな行動を採ろうとも、視えた結果だけは変更することができなかった。
わたしに与えられたのは、解釈と猶予だ。
たとえばわたしはあまりコーヒーというものを好きではないが、そんなわたしが咲夜に対しておいしいコーヒーねと述べ伝える幻視が視えたとする。その場合、わたしは実際には紅茶を飲みながら咲夜にこのコーヒーはおいしいわねとうそぶくことで、糞まずいコーヒーを飲むという未来を回避することができる。
あるいはいつまでもコーヒーを飲まないことで、無限に引き伸ばされた時間を得ることができる。とはいっても本当に無限なわけではない。先の例でいえば少なくとも咲夜が生きていなければならないのであって、その条件が満たされている時間のなかで運命は限定される。
そう、咲夜は生きていなければならない。
不可逆的な反応は変えることはできないのだ。たとえば世界に唯一の壷とか人間の命とかいったものは、元に戻すことはできないわけで、そういったものが壊れたイメージを視た場合、もはや解釈で覆すことはできない。
許されているのは待機という苦痛だけだ。
ぽたり、と――。
いつのまにかテーブルのうえに透明な雫が流れ落ちていた。気取られるわけにはいかなかったのですぐにぬぐった。運命なんて視えない者にとっては猛毒でしかない。魔女でさえ扱いかねるしろものだ。パチェが聞かないでおいてくれたのは本当に助かった。
いつからだろう。
ただの人間に過ぎない、わたしより遥かに寿命の短い存在がわたしのなかで大きな位置を占めるようになったのは。しかし、咲夜の存在が大きくなるにつれて、わたしの幻視もより強くなっていった。
その運命は例によって匂いから始まった。
嗅ぎなれた甘い血の匂いだ。嘘偽りなくわたしのよく見知った人間の血――咲夜の血だった。血に関して敏感な吸血鬼がましてや咲夜の血を間違えるはずもない。
雷が遠くでなっていた。雷雨らしかった。陽光を防ぐためにほとんど窓のない紅魔館でもいくつか窓は存在する。たとえば時計塔のすぐ傍。たとえば門の近く。ここはどこだろう。たぶんいずれか。暗いから夜中かもしれない。あるいは雷雨のせいで暗いのか。
カッ、と雷が闇を切り裂いた。
血だまりの床。
わたしは信じられない。そこに転がっているものを。そこにある物言わぬ死体を。
わたしは声にならない声をあげる。名前を呼ぶ。胸のあたりには大きな穴がぽっかりと口をあけていて、わたしはその虚空に吸いこまれそうになる。
解釈する余地のない固定的事象。演技や捏造では決して到達することができない"死"の感覚。
見上げると妹が呆然とした表情で立っていた。
うろんとした、それでいて恍惚としたような、そんな表情。
手は血塗られていて、その血は床に染みを作っていた。
なぜ?
一言。
なぜという言葉しかでてこなかった。いや胸の奥ははちきれんばかりにいろいろな言葉がたゆたっていたが、赤黒い淵のなかに吸いこまれていくかのように消えていった。
わたしはなぜ殺したのかと聞いた。わからないと妹は答えた。血と蜂蜜が混ざったかのような甘ったるい声だった。自分の行動に困惑しているらしい。そしてどうやら本当らしかった。妹はただ単純になにかにイライラしていて、すぐ近くに咲夜がいて、だから――なにが『だから』なのかわからないが、つまるところそうとしかいえないらしく、真実を語っているのだとわかった。
わたしは心が急に真っ白になるような感覚を覚え、それから気がつくとフランを貫き手でつらぬいていた。
以上が運命の内容である。
視えた幻視は絶対だ。だからその未来は必ず起こることになる。
しかし、そんな未来はごめんだ。
このレミリア・スカーレットはそんな未来を認めない。
運命がわたしを裏切ったことはない。だからこの戦いの勝率は低い。いや絶望的とすらいえるかもしれない。いまだわたしは運命を完全に塗り替えたことはないのだ。
自転車はわかりやすい決定項だった。ひしゃげた自転車とフランの勝ち誇った顔は解釈やあるいは捏造といった方式で塗り替えることができない類の未来だ。
わたしは、この運命を変更しようと"決意"した。
何を自転車ごときと思う者もいるだろう。実際その通りかもしれない。だが、わたしはその程度のことすら変えようとしたことはなかったのだ。フランをつい最近まで幽閉していたのもそうだし、つい最近外に出したのも正直に言えばフランをこれ以上押さえつけておく自信がなかったからだ。フランが外に出てくる幻視がみえた。仮にその未来を変えようとして幽閉を続けたとしても、咲夜が死ぬという未来が早まるだけのように思えた。
結局、わたしはフランを恐れているのかもしれない。あるいは避けられない運命を。
姉失格。紅魔館の主失格だ。
しかし、まだ遅くはないと信じたい。wheel of fortune は自由意志と運命の戦いとして表される。誇りを取り戻すためには戦わなければならない。三日後までに自転車に乗れるようになれば、運命に勝てることを証明できる。
これは前哨戦だ。必ず勝ってみせる。
――自転車なんかに絶対負けない。
あ、やば。なにかフラグめいたものを感じたわ。
と、ともかくがんばるのよわたし。
だいたいパチェがいうとおり吸血鬼は肉体派なのだから、自転車程度三日もあれば乗りこなせて当然なのだ。さっきは力がありあまって失敗してしまったが、力の制御ぐらいすぐにできる。問題ないはずだ。
5
夕飯を食べたあと、さっそく自転車の練習に移る。スカートはミニ。フランから借りた。事ここに至ればもはや妹の力も利用するほうがマシであった。
美鈴によれば、まずは力の使い方を覚えたほうがいいとのことだったので、車輪を浮かせた状態で漕ぐだけの練習をした。
わたしの力からすれば、スカデス号(←気に入った)はずいぶんと脆弱な作りだったが、触れる程度の力ですいすいとペダルを漕ぐことができた。問題ないようだ。
「ふむ。漕ぐ力の調整はできるようになったみたいですね」
「次はどうすればいいの」
「次はバランスのとり方ですかね。漕ぐのはしなくてもよろしいですから、ともかく倒れないように身体だけでバランスをとってみてください」
「足がつかないんだ」
「あ、そうですか。それは困りますね。普通は足がつくくらいのサイズが練習するにはいいんですが」
美鈴はあごに手を立てて悩んでいるようだった。
「問題ない」わたしはあえて明るく言った。「足なんてつかなくても美鈴が支えてくれるのだろう」
「後ろから支える方法はあまりよくないんですけどね。あ、そうだ。こうしましょう」
「馬鹿な……そんなやり方が許されるのか」
美鈴の提案した方法はシンプルだ。
美鈴が自転車の後ろを持って勢いよく押す。
わたしはそれからあとできる限り長い時間自転車のバランスを保つ。
これだけだ。
「し、しかしこれでは最終的にわたしは転んでしまうような気がするのだが……、あ、べつに転ぶのが怖いわけではないわよ。ただ、対策もなしに恐竜の巣に飛びこむのも馬鹿らしいと思っただけ」
「ん、そうですね。適当なところでまわって、ここに戻ってきてください。そうしたら、わたしがまた後ろをつかんで止めますから」
「ずいぶんとスパルタだな。わがしもべながら恐ろしいぞ」
「え、これぐらい普通ですが」
「……そうか」
ともかく、美鈴が考えた最短の練習方法がこれなのだからしかたあるまい。
わたしは自転車のハンドルを力強く握り、前だけを、ただ前だけを見つめる。後ろから美鈴の軽い声が届いた。
「じゃあ、いっきますよー」
「ああ、覚悟はできている。やってくれ」
「そぉれ」
思いのほか、その力は弱く、すっとながれるような出だしだった。
これならいけると思った。
実際最初の数秒間ほどはまっすぐに走っていたのだ。
しかし、思いのほかこのスカデス号はやる気のないやつだった。
ちょっと走っただけで勢いを失い、すぐさまわたしの身体を放り出したのだ。
顔からだった。
くすん。
「あ、お嬢様大丈夫ですか。こちらのパワーが少し足りませんでした! 申し訳ございません」
「よい。はじめから完璧な存在などいない。これからわたしとともに少しずつ学んでいけばよいのだ」
「お嬢様はがんばりやさんですね」
「ふん。知らなかったのか。わたしは生まれた時からがんばりや様だ」
「おー」
ぱちぱちと拍手。
ちょっとだけいい気分だ。
だが――
この自転車という代物。想像以上に難しい。
吸血鬼はおそらくパワーがありすぎる種族なのだろう。バランスをとろうとして超スピードで反応する。結果、客観的にいえばプルプルと生まれたての小鹿のような挙動で自転車を操舵することになってしまい、逆にバランスを失う。
では人間の子ども並のパワーにまで力をセーブすればよいということになりそうだが、ありあまる我が闇の力をそこまで制御する自信はない。当初の考えでは人間を少し越える程度の力で無理やりスカデス号を屈服させる算段だったのだが、実際に乗ってみてそれは不可能だと判断した。このスカデス号はそこまでキャパシティがなかった。人間の力を少し越えただけでまっすぐ走らせることすら不可能になるのだ。完全な誤算というやつだった。己が力のことなのですぐに理解できる。これは三日でどうこうできる問題ではない。
フランはどうやって制御するのだろうか。
なにかコツのようなものがありそうだが。
幻視の内容は勝ち誇るフランの顔だけだったので、どういうふうに乗ったのかまではわからない。
残り時間は少ない。
焦る気持ちが募るなか、その日の練習は朝日が昇るまで続けられた。
6
次の日はあいにくの雨だった。
運命はどこまでもわたしをもてあそびたいらしい。
吸血鬼にとって雨は大敵。
撃たれる雨粒は硫酸弾に等しく、一分とその場に立っていられない。
もちろん傘でいくらかは防げるところではあるし、日光と同じく対策万全ならなんとか移動もできる。
しかし、自転車の練習はできない。
わたしにはまだ片手で運転するという高等技術などない。
では、室内ではどうかと思ったが、紅魔館の室内はふかふかの絨毯が敷かれている。そんなところを走るなんて不可能だ。
あともう幾ばくも時間がないというのに、身動きがとれないわが身が悔しい。
パチェの顔を思い浮かべた。
パチェなら……パチェならなんとかしてくれる。
実際、天候を操るのは魔女なら片手間に可能なくらい基本らしい。もちろん並の魔女には難しいが、わが親友はそんじょそこらの魔女とは違う。
ただ残念なことに時期が悪い。
自業自得というべきか、わたしはパチェに三日という時間を指定したのだし、その時間を作るためフランを心理的に封じてもらっている状況である。
具体的に言えば、パチェはいまスカデス号のコピー品を作るのに忙しく、フランの好奇心を爆発させないように心を砕いているはず。
天候を操る暇はなさそうだ。
しばらくの間、小さな窓から天を望む。
ふと思いついた。
「庭先のテラスなら可能かもしれないな」
あそこならわたしのために作られた広い軒先があるし、石畳だから自転車の運用にも支障はきたさないだろう。
早速、妖精メイドに命じてテラスのテーブルを片づけさせた。
テニスコートと同じ程度の広さを確保できた。端のほうは雨が当たって危険だが、まあそれでも自転車の練習をするには十分だろう。
ただ固めた土の上とは違い、石畳はどうしてもでこぼこができてしまってちょっと乗りにくそうだった。車輪が沈む絨毯よりはマシといったところか。
「しかたないわ、時間もないのだし」
「お嬢様。お困りのようですね」
「ん。今日は仕事はいいのか」
咲夜だった。
こいつは本当に優秀すぎて困る。
助けを呼びにいくまでもなく、いつのまにか傍にいるのだ。
「今日はあいにくの天気ですのでお洗濯ができない分、少しだけ開いた時間ができたのですよ」
「そうか。べつに休憩していてもいいんだぞ。お前よりもっと暇なやつがいるからな」
「美鈴には門番という役目がありますからね」
「そうか。あいつも雨のなか大変だな」
「お嬢様がねぎらいの言葉をおかけになれば喜びますよ」
「ああ、そうしておこう。ところで――咲夜」
「はい」
完璧なスマイルだ。
笑顔の仕方だけは最初に叩きこんだからな。
わたし好みの品の良い仕草。
「今日はつきあってくれるんだろう?」
「お望みとあらば」
「では華麗なダンスへと洒落こむとしよう」
呼吸。
息を吸う。
雨の音。
咲夜の顔。
前を向く。
とにかく前進する。
足に力をこめる。
壊れないように。
そっと。
今度は息を吸うのを忘れそうになる。
イメージが重なる。
わたしが転ぶイメージ。
未来の不可避的事象。
転ばない。
転びたくない。
違う。
運命に負けたくない。
バランスが崩れる。
視界が揺れて。
動悸。
一瞬の思考の停止。
あ。
――――。
空中に浮かぶときのような、浮遊の感覚。
咲夜がわたしをかかえていた。
左手はハンドル。もう片手はわたしの腰のあたり。
「もう少し練習が必要ですね。お嬢様」
「時間はあまり無いのよ」
「どうしてです?」
「ああ、咲夜は知らなかったか」
わたしはフランが二日後に乗るということ。
それから姉としての矜持からフランに勝たなければならないことを伝えた。
咲夜はプッと噴き出すとおかしそうに笑っていた。
「失礼なやつめ」
「すいませんお嬢様。でもがんばりすぎてもいい結果がでるとは限りませんよ」
「わかってるわよ。そんなことぐらい。でもわたしにできることはこれぐらいしかないのよ」
思わず怒号を発してしまう。
自分でもわかりきっていた。
このままではきっと運命に勝つことはできない。
正攻法では、
普通に練習しただけでは残り二日で自転車に乗ることはできそうにない。
「お嬢様?」
「いやなんでもない。今日はもういいから仕事に戻れ」
「ですが、自転車の練習はおひとりだと――」
「気が散るからひとりで練習したいの」
ほんの少しの遅延。
このわずかな間に咲夜は何を思ったのかはわからない。
咲夜は綺麗に一礼すると、すぐさま姿を消した。
残ったのは罪悪感。
いまのはどう考えてもやつあたりだ。
運命という勝てない相手へのやつあたり。
わたしはいつだって運命には逆らえないということに気づいていた。
だからいつでも運命が視えるようにふるまってきた。そうすることで運命に負けていないと自分自身に言い聞かせようとしてきたのだ。
わたしは運命に負ける未来にベットする。
そうすることで運命に負けるが、自分のちっぽけな自由意志は守られた気分になっていたのだ。
あまりの愚かさに反吐がでる。
そんなものは自由意志ではない。
なにものにも縛られない。すなわち運命にすら縛られないものが意志の輝き。
そう信じている。
信じるものは救われる。
いやそれって吸血鬼的にどうなのって思わなくもないが、わたしは運命の全容を知っているわけではない。だから、わたしにも勝ちようがあるかもしれない。視えたイメージは必ず起こってきたが、次の幻視ははずれるかもしれない。だったら、わたしは信じていい。信じる価値がある。
7
「この世に存在するすべての意識ある存在は――要するに妖怪も人間もわたしもあなたも、運命に操られて生きていると思わないかしら」
「思わないわね」
「運命って言ってもそう大仰に構えなくていいわ。たとえばそうね、あなたには手癖の悪い友人がいるじゃないの。その子が持ってきたゲームソフトとかいう外の世界のおもちゃにRPGというジャンルがあるわ。確か主人公は勇者という職業で、悪である魔王を倒しにいくの。それでおもしろいことにその勇者とかいう輩は神あるいはそういった類のものの奴僕なわけだけど、神の力を借りているせいか、絶対に死なないのよ。魔王からしてみればそれって恐怖以外のなにものでもないわ。わたしが何を言いたいかわかるかしら。勇者が死なないのが不合理すぎておもしろくない? 勇者のほうがよっぽど魔王? いやいやそんなことじゃない。そんなくだらない設定の話をしているわけじゃないわ。問題は勇者が死なないのはなぜかってことなのよ」
「設定でしょ」
「設定! そう設定。でも少し違うの。わたしが言いたいのはおそらくあなたが思っていることとは違うの。わたしはね。主人公は『勇者』であるから死なないと思うのよ。『勇者』という設定。いやもっとわかりやすい言葉があるわ。世に言う主人公補正。これが勇者が死なない原因なの。勇者は主人公であるから死んじゃったらまずいでしょ」
「運命の話はどこいった。いやそもそも――」
「運命の話はこれからするわ。さっき言った主人公補正があるから勇者は死なない。これは一見すると正しそうに視えるわ。だって主人公が死んでしまったらそこから先は空白のページにならざるをえないもの。そんなの読者からしてみればおもしろくもなんともない。でもね。考えてみれば運命には紡ぎ手がいるのよ。そいつの立場からしてみても主人公が死んでしまっては困るわけ。空白のページになってしまうのが困るというのは確かにそうだけど、もっと核心的なのは主人公が死んでしまっては『物語が終わってしまう』から。だから、主人公は死んではいけないし、死ぬにしてもその後の影響という形で、主人公が生きる話を紡いでいくほかないわけよ。つまり、運命とは物語補正であり、わたしたちは誰一人例外なく物語の補正から逃れられない。凡人には凡人の、レミリア・スカーレットにはレミリア・スカーレットの。そして、あなた――博麗霊夢には博麗霊夢の物語補正が常にあなたの行動を監視し、あなたの生を牛耳っている」
「そんなこと知ったこっちゃないわ。だいたいわたしが言いたいのは、なぜあんたがここに遊びにくるのかってことなのよ」
「友人でしょう。わたしたち」
「妖怪の友人なんかできたら商売あがったりだわ。で、なんなのよ実際」
「さっきも言ったとおりよ」
「よくわかんなかったんだけど」
「物語補正って話」
「ああ、中二理論ってやつね」
「違うわ!」
「確かにあんたは中学生には早いわ」
「うぬぼれるなよ人間。わたしはこう見えて立派なレディだ」
「ほう。あんたのいう立派なレディはいきなり神社におしかけてきて、お賽銭もいれず、傲慢にも縁側でお茶と茶受けを要求し、訳のわからない話をしはじめるやつのことを言うのね」
「お茶は霊夢が勝手に出した」
「いちおう客だから。喧嘩売ってるんなら帰ってもらうわよ」
「うー」
「はいはい。いい加減、話を進めなさいよ。なんかあるからきたわけでしょ」
「何度も言うが、要するに物語補正が理由なの。運命がもしも物語の補正する力だとすれば、人間の選択はこれを一種のフラグと捉えることができると思うのよ」
「フラグ? なにそれ」
「同じくあなたの友人、霧雨魔理沙が持ってきたゲームソフトの中に、異性と仲良くなる恋愛ゲームというやつがあったでしょ」
「あまり興味がないからしたことないわ」
「ともかく、恋愛ゲームにおける異性と仲良くなるための選択肢の集積のことをフラグというの。実際はそのほかにもこの行動をとったら死にそうになるという運命が付与される――死亡フラグとかもあるわ」
「死亡フラグね。あんた誰かの死亡フラグでも視えたわけ?」
「う。べ、べつにそんなことないわ」
「あっそ」
霊夢はまったく興味がなさそうにズズズと緑茶をすすった。
なんというかわたしが焦っているのが馬鹿みたいだ。
しかし、霊夢には嘘はついていない。
わたしは鬼のように厳密に嘘をつけないわけではないが、それでも吸血『鬼』であるからか、あまり嘘を好ましいものと思ってはいない。だからいつだって言葉が足りなくなってしまう。運命という複雑な概念がさらにわたしの説明を拒絶する。
運命が物語補正のことを指すのならば、わたしは自由意志に相当する概念があると思った。
それがフラグだ。
わたしたちがなんらかの行動を起こした場合、そこから波紋が広がるように物語が駆動していく。
物語があるひとつの意味を有しているのかは不明だ。
どこかの誰かによって運命が書かれているのかなんてわかるはずもない。
しかし、エンドシーンというものがそこに存在する以上、結果に向けて物語は必ず補正されることもまた否定できない。
運命側の理論はかなり強壮だ。
わたしがコーヒーブレイクをする運命にあるのならば、紅茶の葉っぱは偶然という名の必然において切らしているかもしれないし、たまたま珍しい客人があらわれてわたしとともにコーヒーを飲みたいと提案してくるかもしれない。
運命は緩やかに自らが望むように動く。
他方で意志側の理論は少ないチャンスを物にする感覚に近い。
フラグは点滅する運命の線に従って自己を表出することだ。
多くの人間は
――ハッピーエンド
という物語の終局に向かってさまざまなフラグを立てていく。
つまりフラグとはエンドマークにおける勝利条件であり、運命に抗するわれわれの手段である。
わたしがコーヒーブレイクをする運命において、わたしは紅茶の葉っぱを切らさないように気をつけるし、たまたま珍しい客人があらわれてわたしとともにコーヒーを飲みたいと提案してもつっぱねる。
ぶっちゃけた話をすると、わたしが視た物語補正は最高の強度を備えているわけだ。
悪夢を見たときにぞっとする感覚が目覚めたあとも尾を引くことがあるが、それがずっと続く感じに近い。
そのなかにおいて生存フラグを立てるには紅魔館勢の力だけでは足りないと分析した。
家族の絆、それも結構。
わたしのたゆまぬ努力、それも結構。
だが冷静に分析してみると、それらはバッドエンドに向かうフラグでしかない。
フラグというのは運命に対するわれわれの感応力だ。わたしはダイレクトに視えるからそれが一層わかりやすいだけの話。きっとみんなもなんとなくフラグをかぎとってバッドエンドを回避しようとする。ハッピーエンドを手に入れようとする。
わたしだってそうしたい。
しかし、いまのままではサイコロに無い目を出すに等しい。
ハッピーエンドが七であるとして、六面しかないサイコロで七の数字を出せるわけもない。もしも七の数字を出したいのなら十面のサイコロなりをどこかから調達すべきなのだ。
抽象的な話になってしまった。運命とはかくも説明は難しい。
具体的な話に引きなおし結果だけを端的に述べると、わたしが妹に自転車レースで負けるのは必然に近く、紅魔館のファミリー内でいくらがんばってみてもわたしがスカデス号に乗れるようにはならないし、咲夜も当然死ぬということである。
運命は変えられない。
運命が視えるわたしにも運命は変えられない。
紅魔館の誰にも運命は変えられない。少なくともわたしの視える範囲ではそうなる算段が強い。
だとしたら誰だったら変えられるのだろう。
昨日、テラスから落下して硫酸雨のなかを転げまわりながらどうしたらいいか考えた。
それで、もしかすると、そんな力を持ってるとしたら――今、目の前にいる友人だけではないかと、なんとなくそう思ったのだ。
まったく根拠がない話ではない。
あの紅い霧の事件のとき、奇妙なことにわたしには運命が二重に重なって視えた。
一方ではわたしが霊夢を屈服させ、
他方ではわたしが負けていた。
だからあの夜は最高に楽しかった。
霊夢と弾幕ごっこをしたとき、わたしは運命の楔から解き放たれた気分になれたのだ。
霊夢にはそういう不思議なところがある。
いつだって彼女には自由という言葉が付随する。
全身の細胞が本能的に霊夢を求めた。
運命論的な意味で。
より正確にいうなら運命に対抗する自由意志の象徴として。
霊夢とかかわることで必ず運命に勝てるというわけではないかもしれないが、少なくとも運命との勝率を五分にまであげることができる。
これが運命に抗うベストなやり方だと信じている。
いままで紅魔館勢のみに頼ってきたところに、いきなり博麗霊夢という新キャラが登場するなんて、後づけ設定と思われてもしかたないところだろうが、そうなるのも当然の話で、わたしはわたしの運命に、すなわちわたしの物語に反する行為をとっているのだから、物語的な必然を越えているのである。
陳腐な表現になるが――
貴族たるわたしとしては陳腐であるということは我慢ならないが、あえて言おう。
――今からは全部筋書きのないドラマよ。
「で?」
わたしの一世一代のがんばり物語も、霊夢の冷たい視線の前ではなんの効力も持たなかった。
「いきなりで悪かったわね」
と言うしかなかった。
霊夢にとってはまさに突然の訪問で、わたしとしてもできるならそんな礼を失した行為はしたくはない。
せっかく霊夢ともだいぶん仲良くなったのだし。
霊夢は人間にしては、わたしの琴線にどこか触れるし。
つまり、ま――霊夢のことを気に入ってるのだし。
霊夢の視線はつまるところわたしが迷惑をかけたことに起因しているのだが、霊夢自身も気づいているのかあまりそういうところにこだわっているわけではない。
わたしが頭を下げると、霊夢はそれ以上怒りの感情を向けたりはしない。
「べつにどうでもいいけど。なにがしたいのかぐらいは口で説明してくれないとわからないわよ。わたしはさとりとは違うんだから」
ぽふん。
わたしの頭の上に、霊夢の指先があって、わりとがさつな手つきで弄られた。
これじゃ――
まるで、恋愛フラグみたいじゃない。
がらにもなく、顔を真っ赤にさせればいいんだろうか。
それとも流行のツンデレみたく、なれなれしく触るなと言うべきなのだろうか。
いや、霊夢は多くの恋愛ゲームと違い、笑っているわけじゃなかった。
ただただ面倒くさそうに、手をのせているのだ。
もしかすると霊夢にとってすべての存在は等しく面倒くさいことなのかもしれない。
あるいは、霊夢にとっては傍らにおいてある緑茶よりもいとしい存在なんてないのかもしれない。
隣にいるのは誰でもよくて誰でも代替がきく。
だから頭を撫でるのもレミリア・スカーレットではなく、他の誰でもよいのかもしれない。
そんなことを考えて、もしかすると霊夢は自由であることにとらわれているのではないかと思った。
「……なによ?」
「いや、あなたが誰かに触れるのなんて珍しい……と思ったから」
「人を弾幕でしか触ったことがないみたいに言わない」
「じゃあなんで頭撫でたの」
「なんかそうしなきゃいけないと思っただけ。たぶんあんたが悪いのよ」
は?
よくわからない。
今日のわたしは確かに脈絡なく霊夢の家に遊びに、もとい自転車の練習をしにきたわけであるが、それ以外にはとくに迷惑をかけた覚えはない。
だいたい頭を撫でたのは霊夢であって、わたしは何もしていないのだから、わたしが悪いと言う意味がわからない。
でも。
それでも。
やっぱり霊夢が正しいのだろうな。
おそらく博麗の巫女としての勘がレミリア・スカーレットというパワーバランスの一角を担う存在を助けようとしてくれているのだろう。
それともほんの少しは霊夢自身の気持ちとしてわたしを助けてくれているのだろうか。
結局、霊夢の心はどこにあるのかわからず、妖怪にとっても謎だ。
まあ、たかだか一妖怪に捉えられるようでは本当の自由とはいえず、本当の幻想郷の巫女とはいえないだろうけれど、わたしとしてはどことなく不安定で心もとない。
だから――
あえて『だから』という接続詞を使おう。
だから、わたしは霊夢に助けを求めたのだろう。
「お願いがあります」わたしは霊夢の前に膝をついた。「助けてください」
「しかたないわねぇ。お賽銭は入れるのよ?」
霊夢の口調はいつもと変わらず単調で面倒くさそうな感じだった。
「それで、なにがしたいのかってさっきから聞いてるの。わたしができることならしてあげるからちゃんと言いなさい。レディなんでしょう、あんた」
「ここにあるものを見てわからないか」
わたしが指差したのはご存知のとおりスカーレットディスティニー号である。
夕闇の明かりを受けて、車体の紅色は鈍く光っている。
妖精メイドに運ばせたものの、いまはそいつらの姿もなく、霊夢とわたし以外に気配はない。
夕暮れ時は太陽の力も弱まってくるからギリギリわたしも気化せずに住むし、霊夢としてもギリギリ周りを見通せる。
時間は少ない。
「まさかあんた自転車に乗れないから乗り方教えろってんじゃないでしょうね」
「そのとおりだが何か?」
「そのとおりだが何かじゃないでしょ。そんなこと程度でいちいちわたしのところに来なくても誰かに教えてもらえばいいじゃないの」
「残念ながら紅魔館のやつらはわたしに気兼ねしすぎているせいか、いまいち教え方が下手でダメだったのよ」
「ま、いいけど。でも自転車なんて適当に乗ってたらいつのまにか乗りこなしてるもんでしょ。教えることなんてないわよ」
「明日までに乗れなきゃダメなのよ」
「なんで?」
「実を言うとだな。明日フランと自転車対決をする可能性が高いの。そのときわたしが自転車に乗れなかったら恥ずかしいでしょ」
「だったらその自転車対決自体を運命操って回避すればいいじゃないの」
「運命とは宇宙の理、そんな簡単に操ってはこの幻想郷自体が壊れる可能性もあるわ」
霊夢はわたしの能力を曖昧にしか知らないらしい。
というか、はっきり言えばどうでもいいと思ってるらしく興味がない。
最後には弾幕ごっこでケリをつけるから、運命なんて関係ないと思っているんじゃないだろうか。
「いちいち面倒くさいこと言うわね。ま、それはいいわ。で、あんたが明日自転車対決とやらをするのは確定事項なわけね」
「そう思ってもらってかまわない」
「それで、明日までに自転車に乗れるようにしろと」
「そうだ」
「だったら最初からそういいなさいよ。まったく妖怪はどいつもこいつも大物ぶってまわりくどいんだから」
「より正確な記述を求めた結果よ。霊夢には嘘をつきたくなかったから」
「ああもう。わかったわよ。じゃあ、ちゃっちゃと乗りなさい」
「そんないきなり」
「時間ないんでしょうが。ほら早く」
促されるままわたしはスカデス号にまたがった。
霊夢はツカツカと横までやってきて、素敵すぎる蹴りの一撃。
ちょっ、ま。
ふえっ。
ガコッという音を立てて、乱暴に支えを水平にされ、スカデス号は準備もなく発進する。
いやこれはもう発進ではない。発進するまえに蹴り倒された感じだ。
「あ、これ無理ね。明日までにあんたは乗れるようにはならないわ」
「うー。それはいくらなんでも結論がはやすぎよ。わたしはもう二日も自転車の練習をしている。そして今日と明日の早朝練習もいれれば、実質、二日も練習時間を残していることになる。この意味わかるな?」
「わからないわ。ていうか二日も練習してるのに乗れるようになってない時点で正攻法は無理ね」
霊夢の言葉に容赦はない。
だが、わたしの予想と一致していたので、その通りだと納得する部分もあった。
「レミリア、明日の自転車対決ってあんたの妹とするのよね」
「ええ。そうなるわ」
「あんたの妹は自転車に乗れるわけ」
「姉より優れた妹なんているはずがないわ!」
「御託はどうでもいいのよ。乗れるかもしれないって思ってるから焦ってるわけでしょ」
「……そうね。おそらく乗れるわ。でもよくわからないのよ。フランはいままで自転車になんか乗ったことないはずだし。わたしと同じ吸血鬼で力のコントロールだってほとんど同じなのは変わらない。どうやって乗れるようになるかはわからないのよ」
「あいつもあんたと同じで成長してるってことでしょ」
「成長ね。正直よくわからないわ。あの子を閉じこめたのはわたしなんだし。495年間も閉じこめておいた子が急にここにきて成長するものなのかしら」
「外を見せたじゃないの」
「え?」
「あんたが地下からだしたんじゃないの」
「そう、だけど。地下から出したのだって運命がそう視えたからそうしただけなのよ」
「友達ができたんじゃない?」
「確かに友人もできたわね。湖あたりで遊んでいる妖精とか、地霊殿の妹さんとか、それと手癖の悪い盗賊さんとか、いつのまにか仲良くなってよく遊びに来るようになったわ。いつかは外にお出かけできるようにしてあげたいとも思ってる」
だがもしも。
もしもフランがその友達を傷つけてしまったら。
取り返しのつかないことをしてしまったら。
フランは自分を許さないだろう。
そうなることがたまらなく怖い。だからわたしが許さないことにした。そうすればすべての責任はわたしが負える。
だが、フランにとってわたしという枷は本当に必要なのだろうか。
再び想起されるのは咲夜の死の映像。
振り切るように頭を振ってそのイメージを消した。
「ああ……よくわかったわ。あんたは妹を避けてるわけね」
「避けてるわけじゃない」
「ふうん。わたしにとってはどうでもいいことだけど。どう考えても信用はしていないように思えるのよね」
耳が痛かった。
霊夢の言葉はわたしの本質的な弱みをついていた。
わたしはフランが怖かったのだ。
フランがわたしの大事なものを壊すから。
そんなフランをわたしが壊しそうだから。
「でも――妹のことは大事に思ってるわけか」
そう。
フランのことが大事だから。
あの子が何かを壊してしまって、その意味を理解するのが怖かった。
「もしも本当に自転車対決を回避したいなら、あんたはいくつだって方法があるはずなのよ。たとえばこの自転車を今ここで壊してしまえばいい」
そうすると確かにフランに負けることはないだろう。
しかし、運命には勝てるかどうかわからないままだ。数日後にはまたパチュリーが自転車をコピーするのだろうし――そうなると結局自転車対決を避けることはできない。いつまでも引き伸ばしていたらフランとの対決を避けていることをなによりフラン自身に知られてしまう。
フランは許さないだろう。
わたしもフランを避けたくはない。
それに自転車対決は運命に勝てるかどうかをテストするための試験的な意味合いを持つ。
本当のところは自転車対決なんて勝っても負けてもかまわないのだが、そうなると必然的に咲夜の死が避けられないままエンドマークを迎えそうで怖いのだ。
結局、安心したいだけ。
わたしは安心したいからその方法をとりえない。
「じゃあ、もっと妹と話せばいいのよ」
それも考えたが却下した。
たとえばフランは優しい子だから、咲夜の運命を話せば彼女は自制するだろう。
しかしそれは、フランを地下よりも暗い運命の陥穽へと落としこむことになってしまう。あの子はきっと優しいからまた自分から進んでそうしてしまうだろう。
それはそれでわたしにとってのバッドエンド。
咲夜はこの世に二つとないわたしの宝物だが、フランだって同じだ。
わたしの妹はフランただひとりなのだから。
「やっぱり勝つしかないのよ」
「あー、勝つのは無理ね」
「ちょ、わたしの決意を台無しにしないで」
「だって少なくともあんたの妹は乗れるわけでしょ。だったらいいとこ引き分けじゃないの」
「引き分けも勝ちなの! だってわたしがお姉さんなんだから」
「はいはい。でもわたしが言いたいのはべつに自転車に短時間でうまく乗れるようになる必要はないってことよ」
「え。ごめんよくわからないわ」
「結局、自転車に乗るってこと自体はあんたにとって優先度が低いことなんでしょ。姉の威厳を守るためとか、スカーレット家がおもしろおかしく暮らせることが大事なわけなんでしょう」
「そうね。そのとおりよ。でもそのためには自転車に乗れないと――」
「だからそれが違うのよ。あんたはべつに自転車に乗ること自体を目的としているわけじゃない。自転車に乗ることはあくまで手段なんでしょ。だったらいくらでも方法はあるわけじゃない。なにも真正面からこの自転車に乗ろうとしなくてもいくらでも目的達成手段は探せるはずじゃないの」
「つまり、霊夢はこう言いたいのか。わたしは自転車に乗らなくてもいい方法を探せと」
「べつに乗っても乗らなくてもいいけど。明日の対決に勝つって言うんだったらそれはそれでやりようはいくらでもあるはずじゃないの。誰もあんたに優雅に自転車に乗るのを期待なんかしてないわよ。要はあんたが妹に負けない程度の体面が保てればいいわけでしょ。そうなるようにもっていければあんたにとっての勝ちなわけ」
「そう……ね」
飲みこむのに時間がかかったが、霊夢の言ってることはとても単純だ。
わたしの勝利条件は『自転車に乗って支配する』ことだと思っていた。
だが――
本当の勝利条件は『紅魔館の全員でハッピーエンドを迎える』ことだったのだ。
そのためにはどうすればいい?
明日に自転車対決をすることはほぼ確定した事項であるし、いまさらこの点を覆すことはできない。
最終的にもたらされる幻視はフランの勝ち誇った顔と壊れたスカデス号。この結論を変えることができなければ運命の補正力に勝てないという負の実績がまたひとつ積まれることになる。
たとえば、負けるにしてもスカデス号が壊れないようにすればどうだろう――
悪くはないアイディアだ。
「もうあとは一人でできるわね」
霊夢はわたしのほうを見ることもなく、トコトコと軽い音を響かせて縁側のほうへと向かった。
確かにもはや練習など不要だ。
わたしが残り時間ですべきことは、アイディアを練ることなのだから。
「ありがとう霊夢。今度おいしいお酒でも持ってくるわ」
「お賽銭も」
「お賽銭も!」
8
いよいよ当日を迎えた。
準備はできているかと問われれば心もとない。
準備というのは結局は心構えなのだ。
そもそも当日に至るまで本当に自転車対決というイベントが起こるのかすら確定できなかったので、引き伸ばされたモラトリアム期間みたいな曖昧さを有しており、覚悟を決めるのが難しかった。
先ほどから心臓が早鐘を打っている。
指先から血の気が引いている。
結局、フランはピカピカの新品を手にした次の瞬間には目を輝かせながら「お姉様といっしょに自転車に乗ってみたい」と言った。
わたしは柔らかく拒否した。
運命に対する初手として、とりあえずフランはフランの練習があるだろうし、もう少ししてからいっしょに乗りましょうと言ったのだが、フランは練習など不要と、わたしの提案を拒否した。
本当、いつからこうなったのだろう。
フランはわたしの言うことはなんでも聞く良い子だったのに。
いや――これも霊夢が言うところの成長か。
わたしは姉として妹の成長を喜ぶべきなのだ。
フランの顔を見てみると、その表情に邪気はない。
わたしを積極的にへこましてやろうとか、そういった気持ちよりも、シンプルにわたしといっしょに遊びたいだけなのかもしれない。
495年間、遊んであげなかったツケのようなもの。
500年間、運命に逆らってこなかった負債のようなもの。
いずれもすべてわたし自身に跳ね返ってきた。
紅魔館の中庭には十字に道が走っており、中央の噴水がそれを二分している。
この道を端から端まで走ろうということになった。
ほとんど直線コース。噴水のところで少しカーブを曲がらなければならないが、それ以外は至って簡単だ。自転車初級クラスだろう。踏み固められた土は自転車のタイヤをほどよく反発して、乗り心地もよさそうだ。
いつのまにやらギャラリーが集まっていた。テラスからわたしを見下ろしているのはパチェと小悪魔。
咲夜は傍らに控えていて、美鈴にはフランのサポートをしてもらった。
妖精メイド達はにぎやかしだ。
「お嬢様。勝つおつもりですか?」
「当然じゃないか。わたしを誰だと思ってる。紅魔館の主、レミリア・スカーレットだぞ。えらいんだぞ」
「最後のつけたしは余計でございます」
「やっぱり棘メイド……」
「なにか?」
「いやなんでもない。だいたい、妹が姉に勝つなんてありえないのよ。フランにも世の中の厳しさを教えてあげなければ」
「でも――、妹様、なんだか楽しそうですね」
視線の先には無邪気に笑う妹の姿があった。
地下に幽閉していたころは妖しく笑っていた。
いまよりもずっと吸血鬼らしく、幼さのなかに微妙なエロティックさを内包した奇妙な妖しさがあったのだ。
けれど自転車にまたがってペダルをぐるぐるまわしているフランは本当に楽しそうで、子どもらしさを取り戻しているようだった。
悪くはない。
退化のように感じられるかもしれないが、これはフランの成長なのだ。
「咲夜」
「はいなんでしょう」
「わたしね……」
言うな。
これ以上何かを言えば、死亡フラグに引っかかる。
見えている地雷に突っこむほど愚かなこともあるまい。
だがあえて言いたかった。
おそらく物語の斥力のようなものがわたしに働いて、そういわせようとしているのだろう。
――この戦いが終わったら、フランとケーキ作りでもしてみようと思うの。
いけない。
明らかに物語からフラグへの逆演算だ。
定められた結果に向けて過程を修正しようとする補正が働いている。
条件成就によって、もはやわたしの敗北は決定的になってしまう。
わたしはフラグを知っている。
だからフラグを全力で避け、あるいは踏襲すべきフラグを立てることによって結果を変えなければならない。
せっかく霊夢の介入によって筋書きのないドラマになったというのに、再び運命が決定されてしまっては元も子もない。
ああ、でも――こういった思考も既にレッドアラートなのだろうか。
「どうしました?」
「いや、悪いけど今日はフランを全力で叩きのめすから覚悟しておきなさいって言っておきたかっただけよ」
「全力で叩きのめすですか」
「ああ……ってこれはこれで危険な発言ね。ええと、まあ勝っても負けてもどうでもいいのだけど、適当にやるわ。だって面倒くさいもの」
「なんだかお嬢様らしくない発言ですね」
「いいのよ。今日は運命の車輪が回る日なの。少し気持ちが昂ぶっているのだろう」
フランが最終調整にくるくるとペダルを回す。
車輪は回る。
くるくる回る。
わたしは見つめ、
覚悟を決めた。
「フラン。ハンデをやるわ。まずはあなたから自転車に乗ってみなさい」
「え? お姉様といっしょにゴーじゃダメなの」
「わたしは既に三日も練習している。それにわたしを誰だと思っている。紅魔館の主、レミリア・スカーレットだぞ。おまえごときにハンデをやって遅れをとるわけがない」
実際はフラグの応用だ。
料理対決と同じでだいたい先行は負ける。
同時にスタートしてもフランに負ける要素が色濃くなるだけだから、それを逆手にとってあえてフランにハンデをくれてやったのである。
フランは半ば怪訝そうな顔をしていたが、とりあえず納得したらしく、迷いがない目線で自転車にまたがった。
既に支えは水平に倒されて、美鈴が後ろを支えている状態だ。
「じゃあ、お姉様先に行ってるね。早く追いついてこないとゴールしちゃうよ」
フランはなにも危なげなく、すっと流れるようにペダルを漕ぎ始めた。
貴族の令嬢というよりは本当に幼い子どものように。
無邪気というより、大真面目にペダルを漕いでいる。
一心不乱といったような。
しかし、そんななかにもどこか安心した表情があって、
この子には倒れない確信があるのだと感じた。
実際のところフランの運転はわたしの三日の練習の成果よりも遥かに進んでいて、特にバランスのとり方が抜群にうまい。
漕ぐスピードはわたしの出発を待っているのか、かなり遅いにもかかわらず――そして自転車というのは構造上、スピードが遅いほどバランスをとるのが難しいにもかかわらず、まったくぶれていない。
天性のものとしか思えない運動能力なのだろうか。
「お姉様。早く来ないとおいてっちゃうよ」
あろうことか。
フランは二十メートルほどまで来たところで自転車をその場に止めた。
タイヤの前輪を傾かせて、ちょうどTの字のようにして、こちらを振り向いたのだ。
「フラン様。本当に一日も自転車に乗ってないんでしょうか」
咲夜が驚いている。
わたしもびっくりだ。
フランとわたしの身長は同程度。
つまり、地面に足がつかないのはフランも同じ。
その状態で自転車を支えもなく止めるなんて、しかも今日はじめて乗った子がよ?
掛け値なしに天才としか言えなかった。
「なかなか優秀なようね。さすがはスカーレットの血族につらなる者。しかし――」
わたしだって負けてはいられない。
フランがどんなに天才的で、どんなに自転車を操るのがうまくても、わたしとフランではそもそも勝利条件が異なるのだ。フランは自転車を楽しめればよく、わたしは自転車対決に勝ってハッピーエンドを目指せればそれでよい。
勝って支配する。
それがわたしの思想だ!
「咲夜、もうそろそろいいだろう。わたしを運命の楔から解き放て」
「なんだか稚魚を放流してる気分です」
「このシリアスな場面でそれはないわ、咲夜」
ともかく、稚魚なわたしは解き放たれた。
フランはその場にとどまって少しわたしを観察するつもりらしい。
まだだ。
まだわたしの策を発動するには早い。
ここ三日の練習の成果で、ぷるぷるとしながらも一応倒れずに十メートルぐらいは進めるようになっている。フランがいる二十メートル先までなら気合でなんとかなる。
「おねーさま♪ あんよがお上手。おねーさま♪ 」
「幼児か、わたしはっ!」
フランからしてみれば、わたしの生まれたての小鹿のごとき運転は見るべきところのないしょぼさに思えたのだろう。だから侮った。
いい傾向だ。
だったら少しはわたしが勝つ目もでてくる。
侮りは敗北フラグの一種だからな。
フラフラと危なさマックスでありながらもなんとかフランのところまで来ることができた。本当、今のわたしを全力で褒めてあげたい。あの三日間の努力は無駄ではなかったのだ。
もはやフランを見る余裕などわたしにはなく、当然自転車を止めたら即転倒してしまうので、そのままノロノロとしたスピードを維持し、前に進む。
「お姉様。そんなに遅いとすぐ追い抜いちゃうよ」
「うるさいわね。だったら追い抜いてみなさい。すぐにまた追いついて見せるわ」
「じゃあ。お言葉に甘えて」
すぐにフランはわたしの前に出る。
あいかわらずスピード自体はそれほどでもないが、ぷるぷる震えているわたしと違って、ものすごい安定感だ。
「お姉様。そんなに震えてたら転んじゃうよ」
――!!
わたしは目を疑った。
前方にはフランが手放しで運転している姿が移っていた。
動悸が早まり。
バランスは一層危ういものとなっていく。
これ以上はまずい、か。
しかし、このまま策を発動させたところでフランに勝てるかわからない。
いや勝つ必要はないのだ。少なくともこのスカデス号を守りきれれば――
本当にそうだろうか?
不意に疑念がわいた。
あの幻視――フランが勝ち誇った顔をして、かたわらには壊れたスカデス号があるという未来。
あのスカデス号はフランのコピーのほうではないか?
もしも。
もしもだ。
フランの勝ち誇った顔が、結果としての勝利に関してではなく、わたしの無様な勝ち方に対するものであって、フランは興味がなくなって自分の自転車を破壊したのだとしたら……。
その可能性を考えてなかった。
まずい。
このままスカデス号が壊れないだけでは、やはり運命を回避できないかもしれない。
と、うわわ。
やばかった。
いま、一瞬からだがぐらつきかけた。
どうする。
やはり、勝負を仕掛けるしかない。
噴水のカーブを曲がりきったら仕掛ける。それしかない。
それまでバランスを保てるか。
「おっそーい。お姉様。わたしこれでもぜんぜん本気だしてないんだよ。イージーモードなんだよ。もっと本気だしてよ。それともそれが精一杯なの?」
「吹いてろ。姉には姉の都合がある」
「あっそ。じゃあもういいや。ゴールで待ってるね。……もう少しだけ早く」
フランが速度を上げた。
既に噴水のところを抜けて直線に入っている。
直線距離で言えば五十メートルほど。
それでもまだまだ手を抜いているようだった。
まったく、どこまで優秀なのかしら。あの子は。
わたしは丸い円形になっている噴水カーブを緩やかなスピードで着実にこなす。
三日間の練習の成果はここでもわたしを裏切らなかった。
ようやく、直線距離まで来た。
――これで勝てる。
敗北フラグじゃない。
絶対的な確信だ。
フランはわたしを舐めすぎた。
確かに素の能力ではわたしよりも優秀らしいが、経験値の足りないお子様だったのだ。
それがたった一つの敗因。
「え。ちょ、なにそのスピード!」
ふふ。
驚いているわね。
いままでヨタヨタした動きでしかなかったわたしが、急に速度を上げたものだから焦ってるのでしょう。
でも、もう遅い。
いまさら本気をだしても加速したわたしのほうが絶対的に早い。
なぜなら――
なぜなら、わたしはいま自転車に乗っているのではなく、自転車に乗られているからだ!
ぐんぐんとスピードをあげて、フランを瞬時に抜き去る。
「お姉様。サラマンダーよりずっとはやい!!」
サラマンダーの意味がわからなかったが、おそらくはフランが乗ってる自転車のことだろう。
そう、わたしのスカーレットディスティニー号はフランなんかよりずっと速い。
自転車におんぶに抱っこのフランにこの自転車を抜き去ることなんてできやしない。
わかるか。
わたしはいま運命を打ち倒そうとしているのだ。
と、そこで――。
またもや運命による物語補正が入る。
フランではない。
ただの風だ。
しかし凶悪な一撃。
今のわたしはギリギリのところで力を制御している。
しかもいわばニトロをつんだ自転車のようなもので、いつ爆発してもおかしくない状況だった。
そんな最悪のタイミングで横凪の風。
歯を食いしばって耐える。
ここで転倒すれば、きっとスカデス号のほうが持たない。
フランを驚かせることには成功しているが、未来の幻視が回避されたとはいい難い。
わたしの中に灼熱のような火がともった。
調子にのるな運命よ。
運命ごときがわたしの道を塞ぐな。
グンッ。
擬音にすれば正しくそんな――
より一層強く、ペダルを漕いで、
より一層強く、力を注いで、
倒れこみそうになる身体を無理やり支えおこし、体勢を立て直す。
風は去った。
わたしは壁に当たる前に減速し、運命を乗り越えることに成功した。
9
「お姉様ずるいわ。何かしたでしょ」
「わたしには勝利の二文字しかないわ。過程がどうとか、後味がよくないとか、そんな考えはもとより無いのよ」
「ぶー」
わたしは既にいつもの余裕を取り戻している。
フランはちっとも悔しそうにしてはいなかったが、わたしがやったことに興味があるらしい。
しかし、まぁ――。
まず、こんなところからはじめてみようか。
「それよりもフラン。あなただって人のこと言えないでしょう?」
「あれ。お姉様気づいてたんだ」
「当然よ。わたしでさえまともにひとりで乗れるようになるまで三日かかったのよ。経験値の少ないあなたがひとりで乗れるようになるはずがないのは当然。いくらあなたが運動神経に優れているといってもさすがに違和感があるのよ」
「そっか。やっぱりちょっとやりすぎちゃったか……」
「でも――、お友達に頼めるようになったのは、姉として嬉しいわ」
わたしは霊夢がしてくれたみたいにフランの頭を撫でた。
そして、フランの隣あたりに見当をつけて声を張り上げる。
「いるんでしょう。我が妹、フランドール・スカーレットの友人。古明地こいしよ」
「バレないと思ったんだけどなぁ」
と、わたしが顔を向けたほうとは逆の方向からこいしが姿をあらわした。
これはわりと恥ずかしい。
ま、よい。
この程度のミスでうろたえるほど、わたしは小物ではない。
こいしはあいかわらずふわふわとした雰囲気をまとっており、それでも礼儀正しくわたしの前までくると、ぴょこんと頭をさげた。
フランのやったことは簡単だ。
無意識状態という、いわゆる認識が出来ない状態のこいしがフランの自転車を支えていたのだ。
あの異常といってもよいバランス感覚は、なんのことはない、単に後ろから支えてもらっていたからに過ぎない。
だから、あまりスピードも出せなかったのだろう。
むしろ、たった一日でスピードをあわせながら自転車に乗ってるふうを装えたことに敬意すら覚える。
ふたりの息がぴったりと合わないとこうはいくまい。
「次はお姉様の番だよ。種あかし」
「あれはおそらく今すぐにでもできることだわ」
「わたしにもできること?」
「ええできるわね。というか、今この場にいる誰でもできるわよ」
「もしかして――」
フランは呆れたような顔になった。
「お姉様。飛んでたの?」
「正確には浮いていたんだ。接地ギリギリのところでな」
これもまたフランがやったのと同じく自転車に乗っているふうを装うのが難しい。
サドルから腰を浮かせすぎたら飛んでいるのがバレバレになってしまうし、ほとんど手だけで自転車と一体化しているかのように振舞わなければならない。
普段重力が身体と自転車をくっつけるかわりをしているのをすべて自前でやらなければならないのだ。
しかし、自転車をほとんど転がすような状態のこれは、わたしが転倒する可能性をほとんどゼロにする。
さすがに空を飛ぶのは慣れているので、一番の問題であったバランスについて解決するからだ。
「それだけじゃないぞ。もしもフランがもう少し速ければ、わたしは次のカードを切っていただろう」
「まだあるの?」
「なにたいしたことはない。さきの応用で自転車自体を空に一メートルぐらいの高さに浮かして、わたしの持てる最高速度で抜き去るという寸法だ」
「え、でもそれだと、お尻が浮いちゃうよ?」
「ふ。確かにな――」
普通ならそう思うだろう。
地面にギリギリ触れている状態ならば、突き出した二本の腕で支えることで自転車に乗ってるふうを装える。
しかし、空に完全に浮いた場合では、いくら手のひらでハンドルを握りこむことで固定したとしても、サドルに接している臀部がどうしても浮き上がってしまうだろう。
「でも、回避する方法はあるのよ」
「へえどんな? 接着剤でも使うとか」
「違うな……」
あまり説明したくはないが、フランが期待の目をしている。
妹の期待にこたえるのは姉の義務だ。運命なんかよりもずっと強固な回避できない宿命である。
「簡単なことだ。わが妹よ。ほら、よくあるじゃない。割り箸とかをお……おぱんつとかにはさんで、フンってお尻に力をいれて割るやつ。あれと原理はいっしょよ」
なんか言ってて恥ずかしい。
「それって……、お尻にキュって力いれて、サドルをはさみこむってこと?」
「まあ……、そうなるな」
「お姉様。変態……」
え、なにその反応。
フランの目が冷たかった。
がんばれわたし。
勝つためにはいくつも方策を考えておかないと不安だったのよ。
わかって。お願いわかって。
祈るような視線を咲夜に送る。
「ねえ。咲夜、あなたならわかってくれるわよね」
「さすがになりふり構うところなのではないでしょうか」
「う、うるさい。――パチェなら、パチェならわかってくれるわよね」
「尻尻尻、当主として恥ずかしくないのか」
「プギャー」と小悪魔。
「ひそひそひそひそひそひそ……」
妖精メイドたちの容赦ないひそひそ話。
「ひーん」
みんなしていじめう。
勝ったのに。
わたし勝ったのに。
その後、恥ずかしさのあまりわたしは不貞寝した。
でもまあ、目覚めると傍らにフランがいてすやすやと寝入っていて、そんなに悪い気分ではなかったことをつけくわえておこう。
10
夕暮れ時。
わたしは紅魔館で最も高貴なワインを霊夢のもとに届けた。
当然ひとり。
いつもは隣にいる従者もついてこないように命じた。
霊夢は、
「悪いわね」
と言って、
「賽銭も」
と言って、
それで終わりだった。
霊夢はいつものように縁側でお茶を飲みながら、
「で、自転車対決は? 勝ったの」
「当然。わたしを誰だと思ってる。スカーレット家の当主だぞ。当然、ファミリーの誰よりも強い」
「あっそ。で、今日は飲んでくの」
「ん?」
「あんたが持ってきたこのワイン。祝杯あげないのかって聞いてるの」
「それは霊夢の報酬よ。好きにしてもらってかまわないわ」
「あっそ」
霊夢はあいかわらずそっけない。
しかし、そこが霊夢らしいところであり、さらさらとした少女らしい清潔さであるとも言えた。
「では、これで失礼するわ」
「まあ待ちなさいよ。一人酒もいいけど、たまには妖怪を酒の肴にしてみるのもいいもんだわ」
「ふうん」
今回の件では霊夢には恩があるし、そう言うのであれば少しぐらいつきあうのも悪くはない。
ワインはほどよく醸成されていた。
なにしろ五百年という時を経てきた古酒に分類されるもの。
数え切れない歴史をのぞいていてきたせいか、いくつものイメージが喚起されるようだった。
「それでさ。まあ、なんていうの? どういうふうに勝ったわけ」
「なに簡単なことよ」
わたしは余裕たっぷりに、おもしろおかしく話を伝える。
表面から見える事象はただの妹との自転車対決。
どこまでものんきで、遊びめいていて、楽園にふさわしい話である。
霊夢はあまり興味がなさそうに聞いていて、
あるいはあるがままに聞いていて、
それから目を閉じた。
不意に霊夢が口を挟む。
「あんたも結構がんばったわね」
本当に力が一切入ってない、素の言葉だった。
ただそれだけのことなのに、わたしは肩が震えるのを抑え切れなかった。
「なに泣いてんのよ。あんた泣き上戸だったっけ」
「ち、違うわよ」
「ぼろぼろ泣いてるじゃないの」
「これはスカーレット・ティアーズ。人間の涙なんかといっしょにしてもらっては困る」
「ま、いいわ」
「……感謝してるのよ、あなたに」
「べつに。わたしは何もしてないし。あんたが勝手に勝っただけでしょ」
霊夢の言葉はまんざら虚偽でもなく、
あまり実感がわかないところであったが、
それでもあえて言うのならそうなるのだろう。
スカーレット家の当主としてこれから先もわたしは視えた幻視に戦い続けるのだろうし、気に入らない運命は全部変えていく。
わたしがそう望むから。
きっとこれからもずっと紅魔館のファミリーはハッピーエンドを迎える。
わたしの友人たちもハッピーエンドを迎える。
運命の書き手がいるならネズミのように震えていなさい。
あんたの書く失笑もののストーリーなんて全部塗り替えてやる。
わかるか。
運命の車輪よ。
おまえを操るのはわたしだ。
わたしはスカーレットディスティニー号に颯爽とまたがった。
ありがとうございました。
お嬢様のカリスマはもちろん、霊夢の格好良さもハンパなかったです
最後にレミリアに声をかけたところなんかもう惚れます
霊夢がいいキャラしてるなぁ