これは、まだ彼女が「ぎゃーてー」と言いだす前の話。
命蓮寺の慌ただしい一日と、それによって生まれ変わった妖怪の話である。
※ ※ ※
――虚しい。
幽谷響子は何度目になるか分からない溜息をついた。
頭上では、ふさふさした毛に覆われた犬耳が、しょんぼりと垂れている。
「あの……」
「ひゃい!?」
「きゃうっ!?」
深く思考の海に潜っていた彼女は、真後ろから発せられた問いかけに、驚いて飛びあがった。
あまり大袈裟に驚いたので、声をかけた当人が驚いてしまったくらいだ。
響子は慌てて、声の主に謝った。
「すみません、すみません!」
「いいんです、私のほうこそ声をあげてしまって……」
聖は頭をさげると、ささ座りなおして、と改めて座布団を奨めた。
はあ、と気の抜けた返事をして、響子はしょぼしょぼと正座する。
その姿は小さく、か弱く、今にも消えてしまいそうだった。
あまりの無気力さに、聖は見ていて心が痛むような感覚をおぼえた。
――ためらいを振り切って、コホンと咳払いをする。
「仏門に入りたいというのは、貴女ですか?」
「はい……」
「仏門に入ってどうするのですか?」
「分かりません。でも、もうここしか行き場が無いんです」
そう告げると、響子は再び俯いて黙りこみ始めた。
聖は頭からつま先まで、じっくりと響子を観察した。
緑色の癖っ毛に、はりのある肌。
大きく黒目がちな瞳はボンヤリとくすんでいたが、普段なら溌剌とした光を湛えているのだろう。
控えめに飾りフリルのついた白いスカートは、地味な色合いの上着と対をなし、響子をそこいらの村娘よりずっと魅力的な姿に仕立て上げていた。
思わず聖は呟いた。
「……惜しい」
「えっ?」
「惜しいと言ったのです。貴女は、まだ若く魅力に溢れている。
仏門に入るということは、それを全て棄ててしまうということなのですよ?」
しかめ面で説教する聖の顔を、響子はポカンと見つめていたが、
「そんなこと言われても……」
とションボリ俯いた。
聖は強い調子で続ける。
「たとえば、です。貴女の一番大事な人を思い浮かべてください」
「……え? そんな人、いませんけど」
「じゃあ、好みのイケメンを思い浮かべてください。いいですか?」
「は、はい……」
響子は目を閉じ、想像に意識を集中させた。
「では、その人が次第に年老いてゆく姿を想像してください」
「えっ」
「さあ」
響子の眉根にはっきりと皺が寄った。
あまり良い気分ではないらしい。
「……想像しました」
「次に、その人が亡くなったところを想像してください」
「うっ」
「その人は、次第に遺体が腐り、土へと還ってゆきます。
どんなに美しいものも、どんなに力強いものも、いつか土へと還るのです。
そう考えて欲を捨て、悟りを開くことを目指す。これが仏門に入る、ということです」
聖は、かすかに語気が荒くなった自分を諌めるかのように、大きな息を吐いた。
外は良い天気で、響子の気分とは正反対の青空が広がっている。
中庭のほうからは、ぬえと星のじゃれあう声が聞こえてくる。
――これで仏門に入る気などなくなるだろう。
そう思った聖だったが、響子から帰ってきたのは、
「……はい」
という素直な返事だった。
これには、さすがの聖も仰天した。
「なぜ仏門に入りたいのですか?」
聖は質問の仕方を変えることにした。
響子は逡巡したが、意を決したように口を開いた。
「虚しくなったからです」
「虚しい?」
「はい。住職様は誰かに声を届けたいと願ったことが、おありですか?」
今度は聖がうろたえる番だった。
まさか、そんな人生の根幹に関わるような質問をされるとは、思ってもみなかったのだ。
しかし、命蓮寺の住職として、何も言わないでいることはできない。
心の隅に小さな痛みを感じながら、かつて人間だった頃の自分を思い出し、言葉を紡いだ。
「ありましたよ。果たして、それが届いたのかどうか分かりませんが――
私にも『言葉を伝えたい』と願ったことはありました」
「それが、どんなに力を尽くしても届かないものだとしたら……山彦の存在には、どんな意味があるのでしょう」
「意味……」
それっきり響子は黙り込む。
今度こそ聖は絶句した。まるで禅問答だった。
こんな哲学的で、根本的な質問が、力の小さな妖怪から出てくるとは思わなかったのだ。
ややあって、ぽつぽつと響子が語りだした。
「私、何の考えも無しに仏門に入りたいわけではないんです。
でも科学が浸透したせいで、やまびこは音の反射だという迷信が流行るようになりました。
このままでは私は、遠からず妖怪としての力と存在意義を失います。
そうなる前に、せめて心の拠り所を得て、穏やかな日々を暮らしたいのです。
これって、いけないことでしょうか?」
「いえ、立派な心がけだと思いますが……もっと他に方法は……」
聖はギョッとして言葉を切った。
いつの間にか響子が泣き始めていたからだ。
響子のほうでも、そんな聖の表情に気付いて、悲しそうに肩を落とした。
「すみませんでした、ご迷惑をおかけして。
もう行きますから、どうもすみませんでした……!」
「あっ、待って!」
呼びとめる暇もあればこそ。
響子はスカートの裾をひるがえし、命蓮寺を出て行ってしまった。
日が傾くまで、聖はその場に座り、響子の言葉を反芻していた。
『住職様は誰かに声を届けたいと願ったことが、おありですか?』
もちろん、あった。
山ほどあった。
かつて人間だった頃、命を落とした最愛の弟に、どんな言葉をかけてやれば良かったのか。
仏門に入り、悟りを開いたはずの今でも、たまに夢に見る。
死の間際、自分は彼にどんな言葉をかければ良かったのか――
「救いとは何でしょう……」
「ちょっと聖ー、もう日が暮れちゃうよ? 灯りもつけずに何してるのさ?」
「村紗……」
沈黙を破って現れたのは、セーラー服姿の少女だった。
手持無沙汰といった感じで、両手をブラつかせている。さすがに家の中にまで碇は持ちこめなかったようだ。
「聖、また何か悩んでる」
「そんなことありませんよ」
「嘘。灯りもつけないで、難しいこと考えてたんでしょう」
ふふっと笑って、村紗は聖の隣に腰を下ろす。
聖は溜息をつくと、響子とのやりとりを語って聞かせた。
「声が届かない、ねぇ……」
話を聞き終えると、村紗はポリポリと頬をかいて考え込んだ。
「その子、響子ちゃんだっけ? うちの仲間に入れてあげればいいんじゃないの?」
「村紗は幽霊だからそんな簡単に言えるのです。
生きていて、まだ若いのに、全ての欲を棄ててしまえなんて簡単に言えるものではありません」
「ふぅん。私は『聖に恩返ししたい』とか『皆と仲良くしたい』って思ってるけど、これも棄てなきゃだめな欲なの?」
「それは……」
「いいじゃん、深く考えないで! その子も仲間に入れてあげよう!」
村紗は、いとも簡単にそう言うと、聖の手を引いて立ちあがった。
「行こう!」
「どこへ行くんですか?」
「響子ちゃんのところへ。善は急げ、だよっ!」
※ ※ ※
その頃、響子は奇妙な追跡者とにらめっこしていた。
命蓮寺を出てからというもの、姿を隠そうともせず、堂々と着いてくる影がある。
とうとう我慢の限界に達した響子は、振り向いてそいつを怒鳴った。
「なんで着いてくるんですか!」
「さあ? 着いてきたいから?」
「大体、貴女誰ですか!?」
「ぬっふっふ~、正体だけは教えられないな~」
「あーん、もうやだ、この人!」
賢明なる読者諸兄はお察しだろう、追跡者とは、ぬえのことである。
着いてきた理由は、暇だからというのもあるが――歩いて帰る響子が珍しかったからである。
幻想郷の住人は空を飛ぶ。
人間だろうが巫女だろうがメイドだろうが、いっそ清々しいくらいに空を飛ぶ。
ゆえに、徒歩で帰ろうとする響子は珍しい観察対象として、ぬえの標的にされてしまったのである。
「どこまで着いてくるんですか?」
「そりゃ貴女の家まで」
「来ないでください!」
「え~、いいじゃん。それよりアンタこそ、なんで空を飛ばないの? 歩く修行中?」
響子は、ビクンと体を震わせると、歩みを止めた。
「ん? どしたん?」
なんとなく雰囲気が変わったのを察して、ぬえが顔をのぞきこむ。
響子は――響子は泣いていた。
大粒のオニキスのような瞳から、ぽろぽろと透明な雫が次々と落ちてくる。
「あれ!? なんで泣いてるの!?」
「飛べるもんなら飛んでます! もう飛ぶこともできないんです!
そうよ、私は死ぬんだわ。このまま力も存在も消えていって、どこかへ霞んで無くなってしまうのよ!」
「い゛っ!?」
響子は、うわぁぁんと声をあげて泣き出した。
その声の、なんと大きいことか。
弱体化しているとはいえ、山彦の地声を直接耳にしたぬえは、鼓膜が破れそうになった。
「わかったわかった、なんか知らんけど悪かった! だから泣かないで、ね?」
ぬえは懸命に抗議の声をあげる。
しかし、その声は届かない。耳を押さえても聞こえるほどの大音声にかきけされてしまう。
「うわぁぁん! もうどこにも行くところなんてないんだ! もうおしまいなんだ!」
「あっ!?」
脱兎のごとく、響子は山に生える木々の間へと姿を消した。
ぬえは茫然とそれを見送っていたが、すぐに追いかけようと飛びあがった。
「……って、木が邪魔で地面が見えないじゃん!」
どうしよう、歩いて山に入るのか?
いやいや、それは流石に面倒だなぁと悩んでいた時、足元から声がかかった。
聖と村紗である。
「ぬえ! すごい声がしたけど、どうかしたの?」
「え、何? 耳がぐわんぐわんして……」
「ああもう、今そっち行く!」
村紗は飛びあがると、ぬえの隣をめざした。
空では太陽が沈み、一番星が輝き始めている。月は面倒くさがりなのか、いまだ姿を見せない。
紫紺に霞む夕空を背に、二人の少女は並んで浮かんだ。
「何があったの?」
「大声出さないでよ、耳が痛い。
昼間の子に『空を飛ばないの?』って聞いたら、泣きながら走って行っちゃったんだ」
「ぬえ……アンタまた何かやったんでしょう?」
「知らないよ、本当にそれだけだって!」
「だってさ。どうする、聖?」
村紗は聖の方を振り返った。
聖は、きっと前を見つめて、宣言した。
「追いましょう。あの子を一人にしてはいけません」
「だってさ。ほら、ぬえ行くよ!」
「あぁん、待ってよ~。まだ耳が……」
三人は夜の山道へと足を踏み入れた。
辺りは暗くなりつつあるが、妖怪である彼女たちには何の障害にもならない。
星灯りだけで昼間と同様に辺りを見渡すことができる。
ただし、道にまでは詳しくない。
ここから先へ進むには、直感だけが頼りである――
※ ※ ※
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
響子は走った。
家に帰る予定だったが、もうそれもどうでもよくなっていた。
走って、走って、どこか遠くへ行きたかった。
どうせ、その先には自分の消滅――死しか残っていないのだから。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
死ぬ。死んだら、どうなるんだろう?
昼間の住職さんは、死ねば土に還ると言っていた。
自分も土に還るのだろうか?
それとも見えないほど細かい灰か、粒子のようなものに分解されて、永遠に風の中をさまよい続けるのだろうか?
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ!」
わからない。
わからない。すごく怖い。
怖いけれど、誰も頼りにしてはいけない。
一人きりで最期を迎えなくてはならない。
そう思うと、悲しくて涙が出て、涙が出て、止まらなくなった。
「ひっく、ぐすっ……」
涙をふこうとして、注意が逸れたときだった。
響子は、わずかに足元の道を踏み外した。
体勢がぐらりと泳ぐ。しまった、と思ったときには山道の側面を、切り立った方向へと重力に引かれて落ちて行く最中だった。
「きゃああああ!!」
ごろごろと地面を転がる。ふんばるとか、何かに掴まるだなんて、とんでもない。
圧倒的な勢いに、響子はなすすべもなく落ちていく。
やがて、わずかな衝撃があった。
斜めにせり出した岩の突起に、体が引っ掛かったのだ。
「いたたたたた……」
顔や手足に出来た擦り傷をさすりながら、自分が落ちてきたほうを見上げる。
自宅へと続く道の中で、一番細い場所から滑り落ちてしまったようだ。
自分の位置はわかるが――
「あ、足が……」
右足に鈍痛が走る。見れば打撲を負ったらしく、くるぶしの辺りが腫れあがっていた。
このままでは歩けそうにない。
かと言って空を飛ぶだけの力は残されていなかった。
「これから、どうしよう」
響子も妖怪である。
弱っているとはいえ、ちょっとやそっとで死ぬことは無い。
飢え死にするより先に足が回復するだろうと思われた。
だが、存在が消滅するまでの短い期間を、何日もこの岩の上で過ごすというのは……あまりに憂鬱すぎる。
何とか移動できそうな足場が無いか。
そう思って周囲を見やったとき、彼女の耳に小さな鳴き声が飛び込んできた。
「ニャー……ミャウ……」
「子猫……?」
見れば、手を伸ばせば届く距離で、子猫が石にしがみついていた。
前足はプルプルと震えていて、今にも落ちてしまいそうだ。
響子は足の痛みをこらえて体をずらすと、両手を伸ばして子猫を受け止めてやった。
胸元に、そっと抱き寄せる。子猫の体は温かかった。
とくん、とくん、と心臓の音が聞こえてくる。
――この子は、まだ生きている。
だが、このまま岩場に置いておけば、死んでしまうのは確実だろう。
ふと、昼間の聖の話が思い出された。
(その人は、次第に遺体が腐り、土へと還ってゆきます。
どんなに美しいものも、どんなに力強いものも、いつか土へと還るのです)
そして子猫より長生きする響子は、その様を看取ることになる。
何もできないまま……この小さな命が土に還ってゆくのを……
(いやだ)
響子は願った。
それは彼女自身、思いもよらない強い願いだった。
彼女の中に残された僅かな生命力が、全力で死を拒んでいた。
(この子を見捨てたくない。
せめて、この子だけでも親元に帰してやりたい。
でなければ、私はきっと後悔する――!)
※ ※ ※
「……ってわけで、命蓮寺からここまで、あの妖怪ずっと徒歩だったんだよ」
「事情は分かりました。ぬえ、ありがとう」
「空も飛べないってことは、相当、弱ってるみたいだね……どうしよう、聖?」
歩いて響子を探すかたわら、聖と村紗は、ぬえから経緯を聞いていた。
「仏門に入りたいというのも、死を前にした彼女なりの決意だったのかも知れませんね」
聖は、どこか後悔したような様子で呟いた。
村紗が、どうするの、と視線で問いかける。
「今は響子さんを探しましょう。話はそれからです」
「でも何を手掛かりに探せばいいのさ?」
ぬえが投げやりに呟いた、そのときだった。
――ミャウ……
「あれ? 今、何か……」
「ん? 何が?」
聖は不意に聞こえてきた鳴き声に、耳を澄ました。
ぬえは聞いていなかったらしく、きょとんとしている。
――ニャー……
「気のせいじゃぬぇの?」
「気のせいじゃない。子猫の声だわ」
「うん、聞こえるねぇ。けど、今は響子ちゃんを探すんでしょう?」
「いいえ、村紗。この声、何かおかしくない?」
聖の声に、村紗とぬえも口をつぐんで耳を澄ました。
どこから聞こえてくるのだろう?
最初は小さな声だと思った。
しかし、よく聞くとおかしいのだ。遥か彼方から、何重ものエコーがかかって響いてくる。
「この声……とんでもなく大きい!?」
「嘘、子猫の声でしょう!? 化け猫でも住んでるの?」
「いいえ、違うわ。いくわよ、二人とも」
聖は飛びあがると、声の元を探して彷徨い始めた。
最初のうちは、声があちこちの山に反響するのでわかりにくかった。
だが、そのうちどんどん声が大きくなってきたので、発生源に近づいているのがわかった。
そして、とうとう彼女たちは声の主を見ることができた。
「ニャー! ミャウ! ニャー!」
「響子ちゃん!」
そこには、岩の上で子猫を抱え、一心不乱に叫び続ける響子がいた。
弱弱しい子猫の声を、彼女が何十倍・何百倍にも増幅して叫び続けていたのだ。
聖たちに気が付くと、響子はにっこり笑って子猫を差し出した。
「ああ、良かった。どうして住職さんがいらっしゃるのか分かりませんけれど、助かりました」
「貴女、この子を助けるために……?」
「ええ。私の取り柄、声が大きいことぐらいしかありませんから」
子猫は、聖の手に渡されると、胸の間に顔をうずめてニャーと鳴いた。
その様子を見ると、満足げに響子は頷いた。
「それじゃ、この子をよろしくお願いします」
「貴女は……?」
「私の妖力は、もう残り少ないですから。ここで消えるまで、ヤッホーと叫び続けるつもりです」
ですから、どうぞお構いなく。
そう告げて笑う響子の頬で、パァン…と乾いた音がした。
村紗が響子の頬を平手打ちにしたのだ。
「痛っ! 何をするんですか!」
「痛いって言ったね」
村紗は悔しそうな顔で告げた。
「いいかい、痛いってことは生きてるんだよ。
陳腐なセリフで悪いけど、アンタの体はまだ生きていて、そして生きたいって言ってるんだ」
そして、響子の胸倉を掴む。
「私みたいに死んでから後悔したって遅いんだよ!
生きてるうちにやりたいことあるだろう!?
それを何だい、悟ったみたいに『消えます』だなんて。
そんなセリフは、人間にでも言わせとけばいいんだよ!
アンタは違う、妖怪だろう!?」
「……」
響子は困った顔をして、聖のほうを見た。
聖は、静かに目を閉じ、何かを考えている。
響子の視線に気付いた村紗が言葉を放った。
「ほら、聖も何か言ってやってよ」
「これも……御仏のお導きなのかも知れませんね」
聖は大きく深呼吸すると、つい今しがた決意した内容を述べた。
「幽谷響子さん。私は、貴女が仏門に入ることを認めます」
「え……だって昼間は……」
聖は、聖母のような微笑みで響子に語りかけた。
「子猫を救った慈悲の心、死を間際にしてしっかりと固めた、その決意。
その双方を勘案して、貴女が命蓮寺にふさわしい方だと判断しました。
貴女は、今でも仏門に入りたいのですか?」
「私? 私は――」
答えかけて、頬を伝う熱いものに、響子は驚いて顔をぬぐった。
知らぬ間に、彼女は涙を流していた。
いつからだろう、妖怪としてのやまびこの価値が失われたのは。
誰に呼びかけても無視される日々。
何十年もの間、響子は山中にある自宅の中で、孤独を味わい続けてきた。
けれど今、自分の言葉が目の前の聖に届いている。
ん? と問いかけるように、聖が首をかしげた。
「私は、皆さんと一緒に居たいです!」
「じゃあ決まりだね!」
村紗が響子の腕を取った。
ぬえが、逆側の腕を恥ずかしげに支える。
「貴女は今日から命蓮寺の一員です。心して御仏にお仕えするのですよ?」
「は、はい……はい!」
かくしてこの日、命蓮寺に新たなメンバーが加わったのであった。
※ ※ ※
その後。
命蓮寺に子猫を持ちかえったところ、ナズーリンが
「ううう、うちの鼠たちを餌にしようたって許さないよ!
その不吉な毛玉めを、どこか遠くへ捨ててきてくれないか!」
と真っ青になって抗議した。
協議の末、子猫は響子の自宅に預かられることになり、彼女は自宅で読経の練習をすることになった。
ところが、その行為は響子の足を治癒させたばかりでなく、
『山から読経の声が聞こえる』
と村人たちを怯えさせることにもつながったのだ。
自然、響子の妖力は回復してゆき、今では空も飛べるまでになってしまった。
世の中、何が幸いするか分からないものである。
「あの時は死にそうな顔してたのにね~」
「あはははは。その節はお世話になりました」
ぬえが、なんだか面白くなさそうな顔をして呟く。
響子は力をこめて、門に積もった落ち葉を掃く。
神霊がどうの、と慌ただしい命蓮寺メンバーに代わり、門の掃除を買って出たのだ。
まあいいや、と言ってぬえは空へ飛び上がった。
「ぬえさん? どこか出かけるんですか?」
「ちょっとね。神霊たちがうるさいってんで、皆てんてこ舞いなのは知ってるでしょ?
私も、私なりに皆を手伝おうと思うの」
「はあ。お気をつけて行ってきてくださいね」
ぬえはどこかへ飛んでいこうとして、思い出したように戻ってきた。
「響子。今どのくらいの力がある?」
「え、私ですか? そうですねぇ、全盛期に近いぐらいの力がありますよ。
今なら天狗が来ようが、鬼が来ようが、追い返せるぐらいの自信があります!」
ぬえの顔がサァッと青ざめた。
「響子。それ死亡フラグ……」
「しぼーふらぐ……?」
ぬえはご愁傷様と言わんばかりに首を左右にふると、響子の肩をポンと叩いた。
「いいかい、鬼や天狗ばかりじゃなくて、人間にも気をつけるんだよ」
と言い残して去って行った。
響子は小首をかしげる。
人間……? 人間なんて怖くないじゃないか。
「変なぬえさん。さ、それよりお掃除です♪
ぎゃーてー♪ ぎゃーてー♪ ぜーむーとーどーしゅー♪」
数分後、一つの人影が命蓮寺の入り口に立った。
逆光でよく見えないが、紅白の配色が特徴的な服を着た、小柄な人物だった。
響子は迷うことなく声をかける。
「おはようございます!」
それが惨劇の幕開けだとも知らないで……
(了)
響子の心情が伝わってきて良かったです
しかし、このあとのことを考えると……南無三。