春夏秋冬。
自然の理として四つの季節が巡り、それぞれにそれを象徴するものがある。
春の桜に夏の蝉。秋の紅葉に冬の雪。
僕としてはまさにこの四つが季節のシンボルと言うべきものであると思う。
これらを見たり聞いたり、あるいは肌で触れて感じたとき、人は季節の移り変わりを実感するのだ。
今、僕の店の裏手にある森からはしゃわしゃわと蝉時雨が聞こえてくる。
日差しがじりじりと照りつけ、人々はどこからか幽霊を調達して涼んでいるようだ。
まさに、季節は夏真っ盛り。
そしてその夏の日に、僕の店にあまり来ることはない珍客がやってきたのだった。
「自由にこき使える奴隷が一匹、欲しいのだけど」
僕は目の前の客が言った言葉を聞いて目を瞬かせた。
そして落ち着き払って眼鏡を外し、それを眼鏡拭きで丁寧に磨き始める。
たっぷり三十秒、その作業に費やしてから僕は眼鏡を掛け直して聞き返した。
「なんだって?」
「聞こえなかったのかしら。奴隷が欲しいと言ったのよ」
僕に向かって素っ頓狂なことを言い放った風見幽香は優雅に微笑んでそう言った。
幽香の緑色をした髪の毛がふわりと広がる。
朝っぱらから面倒な奴が来たな、と思って僕は溜め息をついた。
「聞こえたに決まってるだろう。ただ、それを認めたくなかっただけさ」
「だったら早く対応しなさい。せっかく貴方が何か言うのを待っててあげたのに」
「あいにく香霖堂は生物を取り扱っていなくてね。奴隷はなおさらだよ」
「あら?そんなことを言っちゃって良いのかしら?」
閉じた日傘をくるりと回して幽香はくすくすと笑う。
その様子に僕は顔を顰めた。
幽香の持つ傘は僕が開発した高性能な日傘だ。UVカットからマスパ撃ちまでなんでもござれの逸品である。
今、僕は彼女に攻撃力を兼ね備えた日傘を作ってやったことを少し後悔している。
「言っておくがね、僕はここで暴れてもらうためにその傘を作ったわけじゃあないぞ」
「わかってるわよそれくらい。でも、もしかしたら手が滑っちゃうかもね」
「お望みのものがないというだけでそれか。まったく恐ろしいな、君は」
「風見幽香が恐ろしいというのは幻想郷の常識だと思うけど?」
それはまぁ確かに、と言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。
幽香は幻想郷でも十指に入ろうかと言う実力者だ。僕など彼女の足元にも及ばない。
下手なことを言えば一瞬で僕の首が宙を舞うに違いない。
よくもわるくも、風見幽香の悪名は幻想郷中に響き渡っていた。
「ほら、早く対応してよ。それともここの店主はお客の注文にも応えられないような根性無しなのかしら?」
僕は頭を抱えた。多分、自分は幽香に遊ばれている。
楽しげに笑っている幽香の顔が何よりの証拠だ。
なにしろ風見幽香という女は加虐趣味の権化のような奴なのである。
恐らく、自分に何か用事があるというのは間違いないだろう。
それは本当に奴隷が欲しいというのではなく、もっと別の何かを求めているのだ。
きっと幽香はわざと自分の要求をものすごく遠回しに言っているんだ。
そして僕が困り果てている様を見て楽しんでいるに違いない。
まったくタチの悪い客だった。
とりあえず、幽香の欲さんとするところを見極めなければ。
僕は抱えていた頭を解放して幽香に向き直った。
「その奴隷とやらを手にいれたところで君はどうしたいのかな?」
「そうねぇ…とりあえず徹底的にいじめ倒すのもそれはそれでアリかも知れないけれど」
「……」
「私、ちょっと前から野菜の栽培を始めてるのよ。近場に適当に畑作ってね」
野菜?
僕は片眉を上げて話に聞き入る。
「野菜の花も中々素敵なのよ。それが目当てでやってたんだけど、最近いい感じに実ってきたのよね。
せっかくだからそろそろ収穫しようと思ったんだけど」
「……で?」
「一人でやるのも楽しくないでしょう?黙々とやったって疲れるだけだし……それにこういうのはやっぱり女だけじゃ…ね?」
幽香はそういって見事な微笑みを僕に返した。
ともすれば見とれてしまいそうな笑顔だ。
しかし、今の僕にはその笑顔はどうしたって不吉なものにしか映らなかった。
あくまでも涼しげに笑う幽香と対照的に、僕はなんだか嫌な予感がした。
幽香の言いたいことが何となく分かった気がする。
そして思う。何故この店にはまともな客が来ないんだ。
僕はなるべくはずれであって欲しい予想を幽香に向かって言ってみた。
「……つまり野菜の収穫を手伝えと言うんだな、この僕に」
「だから、最初からそう言ってるじゃないの」
言ってないだろ。
僕はそう言いたかったが、言えなかった。
何故なら脱力してカウンターに突っ伏してしまったからである。
まったく、何が奴隷だ。
「なによ、だらしないわねぇ。お客が来てるんだからもっとしゃっきりしなさいよ」
「香霖堂における客というのは道具を買ってくれる人のことだ。君は違う。断じて違う」
突っ伏した状態から顔だけ幽香に向けて反論する。
相変わらず幽香は笑顔を絶やさない。
ふと、「綺麗な薔薇には棘がある」という言葉が頭をよぎった。
「……今の君にはぴったりだよ」
「なんのこと?」
「いや、気にしないでくれ」
「収穫用の道具なら向こうに準備してあるから心配要らないわよ」
「そんなことは言ってない」
まったく用意周到なことだ。まだ僕は手伝うとは言っていないのに。
いや、もうこの展開では何を言っても無駄だろうな。なんといっても、彼女は風見幽香なのだ。
僕は頭をガリガリと掻き、半ば自棄のような心持ちでバンと手をついて立ち上がった。
「…分かった。手伝ってやるよ。ただし今回だけだからな」
「あら、やけに物わかりがいいのね。もっとごねるかと思ってたわ」
「どうせ君は僕が反対しても聞かないだろう」
「そうね、もし断られても一発殴ってから引きずってくつもりだったし」
「ああ、きっとそうするだろうな、君は!」
勘弁して欲しい。僕は心からそう思った。
…いや、もう何も考えるまい。元より僕が風見幽香を相手に自分の意見を通せるとは思わない。
彼女が香霖堂に来た時点で僕の運命は決定して動かし難いものになってしまったのだ。
くそう、レミリアめ。今度何か高値で売りつけてやる。八つ当たり気味にそう決心した。
しかしだ、と発して僕は幽香の正面に向き直る。
こうして立ってみると幽香は僕より幾分背が低い。
「君ね、頼み事にするにしてもあの切り出し方はないんじゃないのかね」
「何を言ってるのかわからないわね」
「…君の性格は良く分かってるつもりだよ。だが、それでも最低限の礼儀は尽くすべきだろう?」
「だからわざわざこんな陰気な店に出向いてきてあげたんじゃない。これでも十分僥倖よ?」
「そもそもだ、僕の力を借りたいと素直に言ってくれれば、僕も喜んで手伝ったというものだよ」
と、こう言った途端に僕と顔を合わせていた幽香は急にそっぽを向いた。
そして僕には聞こえないくらいの小さな声で何事かつぶやいた。
「……そう素直になれたら苦労しないわ…」
「なんて言ったんだい?」
「なんでもない」
幽香はなぜか怒ったようにそう言うと踵を返して扉に向かった。
そして扉を開け放ってから僕の方に振り返った。
「ほら、とっとと行くわよ。案内してあげるからついてきなさい」
「ちょ、ちょっと待て!そんなすぐに行けるわけないだろう!」
「なによ、のろまね。待っててあげるから早く支度しなさいよ」
幽香がさっさとしろと言わんばかりに片方のつま先でトントンと床を叩いている。
…やっぱり引き受けない方が良かったかもしれない。
僕はそう思いつつも慌ただしく出かける準備を始めた。
そして入り口から吹き込んでくる風に気づき、扉は閉めておけと幽香に言った。
「私って、別に夏の妖怪ってわけじゃないのよね」
「ああ」
「なのにやたらと夏の妖怪みたいな扱いをされるのよ。何でかしら?」
「ああ」
「確かに向日葵と一緒にいることは多いけど、それだけで夏夏言われるのってどう思う?」
「ああ……一つ、君に言いたいことがあるんだ」
「あら、何かしら」
「やはり、この状態はものスゴく違和感…というか、よろしくない気がするんだが」
幽香曰く近場に作ったという畑は、僕にとっては全然近場じゃなかった。
僕が支度を終えて幽香の元へ行くと幽香は、野菜の畑は幽香がいつもいる「太陽の畑」の近くに作ったと言った。
近いしちゃっちゃと向かうわよ、と幽香はのたまうが僕の方はそうもいかなかった。
そりゃあ空を飛べる幽香にとっては、「太陽の畑」は充分に近いと言える所にあるだろう。
しかし、僕は空を飛べない。
幻想郷の奥地にある「太陽の畑」へ徒歩で向かうことは僕にとってはなかなかの労力と時間を要するのだ。
僕がその旨を幽香に伝えると彼女は、
「軟弱ね」
と小馬鹿にする感じで鼻で笑った。ほっといてほしい。
元々僕は体を動かすのがあまり好きじゃないし、得意でもない。その僕が畑仕事という肉体労働を手伝ってやるというのだ。
それだけで充分僕の行動は評価されるべきなのではないだろうか。
確かに僕が空を飛べないというのは幻想郷では軟弱と言わざるを得ないのかもしれない。
だけども、しっかりと両の足で地面を踏みしめて歩いてこそ得られるものがあるのではないか。
決して足下にある草や土や石ころを馬鹿にしてはいけない。それらにはすべて神の力が宿っているのだ。
この広い大地を歩くという事は、同時に地面を通して神の力を自分に吸収し、糧とすることを意味する。
登山を愛好する者や仏道における山岳修行の者達を見るがいい。
彼らの足腰はたくましく、どっしりと筋肉がついてどんなに険しい道でも乗り越えられる。
これもちゃんと大地を敬い、常に歩みを止める事無くして大地の神の御利益を得ているからなのだ。
なにより空を飛んでいては地面に落ちている道具を見落としてしまうかもしれない。
僕にとっては大地の神云々よりも、まずそこが一番重要なポイントなのだ。
だから、僕は今までずっと空を飛ぶ事はしなかったしこれからもそうすることはないであろう。
頭の中でそう主張している間に何やら考え込んでいた幽香は、仕方ないわね、と言ってある提案を僕にしてきた。
僕は僕なりに丁重にその申し出をお断り申し上げたのだが、他に代替案も無く。
結局僕は幽香の提案に従ってしまったのだ。
僕は今、幽香に抱えられて空を飛んでいる。
背中と膝の裏を支えられる─────所謂、お姫様抱っこという状態で。
「非常におさまりが悪い気分がするよ、色んな意味で」
「あなたが空も飛べないひ弱な男だからいけないのよ」
「こんなの、もし天狗にでも見つかったとしたら大変なことになるよ」
「大丈夫よ、そうなったら責任は全部貴方に押し付けるから」
なにが大丈夫なものか。僕は抱えられた格好のまま腕を組んで仏頂面になった。
正面から吹く風が僕と幽香の顔を打ち付けてゆく。
蝉の声が遥か足下から追いすがるように聞こえてきた。
「この体勢はもう少しなんとかならないのかい?」
「嫌だというのなら足の部分だけ持ってあげても良くってよ」
「…それだと宙づりになりやしないか」
「あら、それがお望みだったんじゃないかしら?」
どうも彼女には何を言っても暖簾に腕押しだ。
僕の言わんとしている事が伝わっている気配が全くない。
というより、すべて自分に都合の良いように解釈している気がしてならない。
夏の日差しが容赦なく僕たちを照りつける。
空を飛んで太陽に近い為かいつもより日差しが強く感じるが、僕も幽香もただの人間ではないからさほど汗はかいていない。
僕たちは幽香の畑へ向かって空中散歩を続けている。
その間も僕は幽香に抱えられっぱなしであり、それがまたなんとも情けなく思える。
する事も無く暇なのでちらりと下を見てみたが、すぐに目を背けてしまった。
「怖いのかしら?」
そんな僕の様子を見逃さなかったのか、からかうような調子で幽香が声をかけてきた。
怖いわけじゃない、と僕はなるべく下を見ないようにして返す。
実際僕に高所恐怖症の気はないと思うのだが、いかんせん空を飛ぶ事に慣れていない。
両足が地面に接着していないということが僕にはどうも落ち着かなかった。
「それにしてもあなたの体って本当にひょろっちくて軽いのね」
僕をその両手に抱えた幽香が言った。
僕から見たら幽香も十分華奢な体に見えるというものなのだが。
「私は妖怪だもの。見た目で判断すると痛い目に合うわよ?」
「僕だって人妖だぞ。見た目で判断してもらっては困る」
「貴方の場合、見た目通りの判断で間違いじゃないと思うわ」
「…心外だよ。もっと中身を見てもらいたいものだね」
「だって、私のようなか弱い女の子ですら簡単に持ち上げられるような男じゃないの」
「君はか弱くないし、そもそも女の子って言う年齢でも………うわわっ!?」
いきなり景色が歪んだ。それと同時に僕の顔に打ち付ける風の勢いが強烈なものに変化した。
なんと幽香は僕を抱えていた手を突然離した。いや、あろうことか地面に向かって僕を投げつけたのだ!
ビュンと風を切る音が耳を貫き、みるみるうちに遠くにあった地面がもの凄い勢いで僕に近付いてきた。
このままでは数秒のうちに僕の体は地面に激突してしまう!
僕は思わず目をぎゅっと瞑り、身を固くして衝撃に備えた。
と、急にがしっと何かに体を掴まれ、吹いてくる風が止んだ。
地面にぶつかることを予想していたのだが、ぶつかった衝撃もそれに伴う体の痛みも何処にも無い。
恐る恐る目を開いてみると、目と鼻の数十センチ先に地面があった。
「……次余計なことを言ったら命は無いと思いなさい」
僕を抱きとめて空中に静止した幽香が低く冷たい声で言った。
もし幽香が僕を助けるのが少しでも遅れていたら。僕は背筋に冷たいものが走った。
そして改めて肝に銘じた。────風見幽香は恐ろしい奴だ。
空を飛べない人間をいきなり空中から真下に投げ落とすなんて。
幽香はひょいっと僕をお姫様抱っこの状態に抱えなおすと再び空中へ舞い上がった。
地面がまた遠ざかり、太陽が僕らに近付く。
今さらになって全身の毛穴から冷や汗が吹き出てきた。
売り言葉に買い言葉で軽口を叩いてしまった数十秒前の僕を問いつめたい。小一時間問いつめたい。
相手が風見幽香だということを決して忘れてはならなかったのだ。なんて軽率だったのだろうか。
まったく、二度と体験したくないな。
今ある命をこの世の全てに感謝して僕は口を開いた。
「……今後心臓に悪い真似は慎んでもらえると嬉しいな」
「そうね、貴方の心掛け次第かしら」
「生きた心地がしなかった。勘弁して欲しいよ、本当に」
情けない顔をして喋る僕と違って幽香はどこまでも楽しげだ。
やはり彼女は僕で遊んでいるに違いない。
まだ本来の目的である畑仕事も始まっていないのに、どうしてこんなに疲れなければならないのだろう。
なんにせよ、また同じようなことがあってはたまったものではない。二度と変なことは言うものか。
僕は投げやりに思考を放棄すると、今までだらりと垂らしていた腕を幽香の体に回して幽香にしがみついた。
「ちょっ……!?」
幽香が珍しく慌てたような声を出した。
反論される前に僕はやや早口に捲し立てた。
「もう落っことされたらたまらないからね。非常に不本意だが、背に腹はかえられない。しばらくこのままで居させてもらうよ」
君も辛抱してくれ、といって僕はそれきり黙り込むことに決めた。
こうしておけばもう投げ落とされたりすることはないだろう。
しがみついた部分から幽香の体の温もりが感じられて、少しだけ自分の顔が熱くなってゆくのを感じた。
それがなんだか気恥ずかしかったが、命と恥を天秤にかけたら圧倒的に命の方に傾くのだ。ここは耐えるしかない。
幽香は何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言わずに空を飛び続けた。
その顔が僕と同じようにやや赤くなっていたのは恐らく気のせいだと思う。
僕らはお互い無言を貫き通したまま空中を行き続ける。
その速度は心無しか、さっきよりだいぶゆっくりとしたものであった。
前方に黄色い地面が見えてきた。あれが幽香が入り浸っている、向日葵が咲き乱れる「太陽の畑」だ。
幽香の畑にも、もうそろそろ到着する。
あれから数分で僕らは目的の場所に着いた。
さっさと離れろ、と幽香が言ったので素直に従って地面に降りる。
やれやれ、やっと仕事始めか。
「どう?私が手塩にかけた野菜達は」
「なんとまあ……これは中々なものだな」
誇らしげに胸を張った幽香を横目に僕はしきりに辺りを見渡していた。
幽香の畑は広かった。これを一人で育てていたのか。僕は少し幽香を見直した。
幽香の畑には様々な種類の野菜達が植わっていた。
トマトに茄子、キュウリ、ピーマン、トウモロコシなど、夏野菜の代表的なものが勢揃いしている。
畑の端っこのほうにやけに大きな丸いものがあった。よくよく目を凝らして見てみると、なんとスイカだった。
「あとはゴボウとか…あ、枝豆とかもあったかしらね。全部私が育てたのよ」
「随分骨が折れただろうね」
「そうね、結構大変だったわ。でもどれも花は綺麗だったし、楽しかったわよ」
「しかしこれを全て収穫するとなると、結構な重労働になりそうだ」
「その為に貴方をここまで運んできたんじゃない。せいぜい私の為に汗水垂らして働くことね」
「そうだな。まあお互い頑張るとしようじゃないか」
僕は幽香にそう返事をして幽香があらかじめ用意しておいたらしい籠を担いだ。
農家みたいで似合ってるわよ、と幽香が上機嫌で言ったが、特に嬉しくもなかったので無視しておいた。
畑の方に歩き出しつつ僕は何から手をつけようか考える。
ああ、そうだ。
「幽香、収穫用のハサミはないのかい?」
「あるわよ。はい」
「ああ、ありが……おわ!?」
僕はハサミを受け取ろうと振り返り、そして反射的に後ろに飛び退った。
さっきまで僕が居たところにハサミが音を立てて落ちる。……刃を開いた状態で。
しばしそのハサミを見つめ、それからしゃがみ込んでそれを拾い上げてから幽香を睨みつける。
「…幽香、ハサミは投げ渡すものじゃないぞ」
「ああ……やっぱりいいわね、その反応。ゾクゾクするわ」
「危ないだろうが。まさか普段からそんなに素行が乱雑なんじゃあるまいね」
「そんなわけないじゃないの。貴方が慌てるザマが見たいからに決まってるじゃない」
「そりゃ光栄だよ、まったく!」
くすくすと笑う幽香に皮肉を投げつけてから僕は今度こそ畑に歩き出した。
一番近くにあったキュウリの列に目をつけ、姿勢を低くしてハサミを構える。
ざっと見た限り、どれも健康そうで結構なことだ。
チョキン、と実を一つハサミで切り取ってじっくり眺め、そして頷いて担いだ籠の中に入れた。
キュウリというものは、収穫せずに放っておくとどんどん栄養を吸収して太くなっていってしまう。
下手をすると、ヘチマと見紛う程に巨大化する時もあるそうな。
そこまでいってしまったらもはや食卓に並べて美味しく頂くのは難しいだろう。
かと言って早いうちに収穫してしまっても短かったり細かったりで、まるでつまらないものだ。
ここにあるキュウリ達はどれも太すぎず細すぎず。まさに理想のキュウリと言えるものだった。
幽香は僕の背中の方で茄子にハサミを入れ始めたようだ。
背中合わせで作業しながら幽香に話を振ってみる。
「知ってるか、幽香。キュウリというのはこの世で一番栄養価が低い野菜なんだ」
「あら、そうなの。確かに水分ばっかりって感じがするわね」
「河童がキュウリを好むのもあるいはそれが理由かもしれないね。河童は水が好きだし」
河童はキュウリばっか食べて栄養失調にならないのだろうか。僕はふと考える。
もしかすると、河童というものは水分さえあれば生きていけるのかもしれないな。
妖怪は基本的に食事を必要としないだろうし、ひょっとしたら河童にとってキュウリは嗜好品なのだろうか?
僕からしたらキュウリなんてほとんど味もしないと思うのだが。
「なんにせよ、その瑞々しさがキュウリの魅力の一つなんだね」
「あら、瑞々しさなら私だって負けてないわよ?主にお肌とか」
「…………」
やっぱり黙って作業しようかな。
それから僕らは野菜の収穫にいそしんだ。
その過程は特に取り上げる程でもなかったので省くが、一個だけ面白いものが見れた。
ゴボウという野菜は根菜であり、地面の中に埋まっている部分を食べる野菜だ。
そして地面に植わっている部分は結構長く、また根毛も多い為収穫には結構な労力を有する。
引き抜くというより、掘り出して収穫するのがゴボウというものなのだ。
まず最初にゴボウ全体がほぼ露出するまで地面を掘り起こしてから引っ張り出さないといけない。
それをしないとゴボウは頑固一徹、まったくその場から動こうとしてくれないのだ。
力任せにやっていたのでは全然拉致があかないのである。
その事を本で読んで知っていた僕はいざゴボウを収穫するとなった時に少々げんなりしたのだが。
意外なことに幽香はゴボウを育てたのは初めてだったらしく、そのことを知らなかったのだ。
幽香は意気揚々とゴボウに両手をかけて引っ張り出そうとしたが、ゴボウはその程度ではびくともしなかった。
そんなものでゴボウが取れたら誰も苦労はしないというものだ。
イメージしてた図と違ったのか、幽香は虚をつかれたような顔をしてゴボウを見つめていた。
二回目には最初よりやや強めの力を持って引き抜こうとするも、叶わず。
三回目にはそれ以上の力で引っ張り出そうとしたが、やはりゴボウは抜けない。
四回目に渾身の力を込めて引っ張ったところ、ゴボウが幽香の力に耐えきれなかったのかボキリと音を立てて折れてしまった。
勢い余ってしりもちをついたまま、やや涙目な状態で助けを求めてくる幽香というものを見て僕は笑い転げたくなった。
そしてそれが表情が出ないように注意しながら、ゴボウを収穫する際の注意点を幽香に懇切丁寧に教えてやった。
すると幽香は立ち上がり、知ってるなら早く言えと僕に強烈なローキックを食らわせた。
非常に痛かったが、それ以上の珍しいものが見れたので良しとしよう。
作業を終える頃にはすっかり日は西へ傾いでいた。
僕らのいる畑にも茜色が満ちている。
「やれやれ……やっと終わったな」
「ふふ、大儀だったわ」
「また偉そうに…」
適当に返事をして僕は近くにあった切り株に腰掛けた。
ずっと中腰のような姿勢だったので腰が痛い。
幽香はなにやらガサガサと野菜を選り分けている。
「しかし、よくもまあ一人でここまで育てたものだ。賞賛に値する」
「お花のためだもの。苦でもなんでもないわ」
「その姿勢がスゴいと言ってるんだよ」
「貴方だって道具のことになったらなんだってやるでしょうに」
「む…」
言われて口を噤む。反論出来なかったのが妙に悔しい。
実際幽香の日傘を作った時も、やれ弾幕を防げるような傘だの滅茶苦茶な注文をされてそんなもの出来るわけないと思ったのだが。
当時初対面だった幽香に色々挑発されて、ムキになって全力を持って注文通りに仕上げてしまったのだった。
完成してそれを渡した当時は幽香に勝ったような気分で居たが、今思うと掌で踊らされていただけだったと思う。
と、幽香が作業を終えて僕の目の前に立った。
「遅くなったけど、礼を言うわね。手伝ってくれてありがとう」
「君が素直に礼を言うとは驚きだね」
「失礼ね。私だって受けた恩にはそれ相応の感謝をするわよ」
怒ったように言う幽香だが、そこにはいつもにはない優しさと温かさがあるように思えた。
僕は立ち上がって軽く伸びをしてから返事をした。
「なに、冗談さ。さてもう仕事は終わりだね?そろそろ帰るとしようじゃないか」
「まあ待ちなさいよ。そんなに慌てなくても家は逃げないでしょう?」
幽香は僕をなだめるようにそう喋ってから脇に置いてあった籠を僕の前に差し出した。
見てみると、今日収穫した野菜が全種類バランスよく入っている。さっき幽香が選り分けていたものらしい。
これは?と僕が聞くと、幽香は素っ気なく返した。
「あげるわ」
「なんだって?」
「その籠に入った野菜をあげるって言ってんのよ。今日のお礼も兼ねて、だけど」
幽香は僕と目を合わせずに言った。
傾いた夕日が僕と幽香の顔を赤く染め上げる。ひゅう、と心地よい風が吹いていった。
「いいのかい?」
「うるさいわね。あげるって言ってんだから素直に受け取りなさい」
幽香は僕の足元に籠をドサッと置いてしまってからずんずんと歩いていった。
そして収穫した残りの野菜が入った籠を持ちあげ、空にふわりと浮き上がった。
「私の分はこっちに充分あるわ。一人じゃ全部食べきれないから貴方に恵んであげるのよ。有り難く思いなさいよ」
僕は黙って幽香を見上げる。
幽香はにらむような目つきでぼくを見つめてきた。
その目線に僕は根負けして苦笑すると素直に礼を言った。
「ありがとう、幽香。有り難く頂戴するよ」
「はん、せいぜい感謝することね」
「感謝してるとも。幽香が育てた野菜達だ。美味しく頂くことにするよ」
「……今度、貴方の家に遊びに行ってあげるわ」
そしたら、といって幽香は続けた。
「私が育てた野菜達を使った料理で私をもてなしなさい。変な出来だったら承知しないわよ」
「…ああ、頑張るよ。またいつでも店に来ると良い。歓迎するよ。客としても、友人としても」
「……ふんっ」
幽香はつまらなそうに鼻を鳴らすと籠を抱えて遠くに飛び去っていった。
僕はそれをしばし見送る。蝉のやかましい鳴き声だけが辺りに響き渡っていた。
……もしかしたら幽香は、自分が育てた野菜を僕に食べて欲しかったんじゃないだろうか。
自分に都合のいい想像でしかないが、もしそうなら光栄だな。
ならば、いつ幽香が来ても良いようにこの野菜達を使った美味しい料理を考えておかなくては。
僕が作った料理を幽香は喜んでくれるだろうか。僕はどこか弾むような気持ちで籠を抱え上げた。
そして家に帰ろうと歩みを進め出し、数歩歩いたところではたと立ち止まった。
「……歩いて帰れというのか、この距離を」
忘れていた。
行きは幽香に抱えられて空を飛んでここに来ていたことを。
ここから僕の家までは遠い。歩いて帰る頃にはすっかり夜になってしまっていることだろう。
また幽香にしてやられたようだ。
幽香が飛び去った時に違和感に気づくべきだったのだ。
どうせ彼女はどこかで僕のことを見てまた笑っているに違いない。
なにしろ、彼女は風見幽香なのだから。
しかし、今回ばかりは許してやろう。彼女がくれた野菜に免じて。
僕は晴れやかな気持ちで籠を担ぎなおすと、夕日を浴びながら家を目指して歩き始めた。
道のりはとてつもなく遠かったが、不思議と今の僕は幸福な気持ちで満たされていた。
風に乗ってどこからか、幽香のくすくすと笑う声が聞こえた気がした。
幽香が引っ張っても不動のゴボウのおっちゃんはさすが頑固だぜ!
霖之助さんは地味にとんでもない作りますよね。幽香の傘は制作したわけじゃないかもしれないけど
ミニ八卦炉を作って魔理沙に与えただけじゃ飽き足らず、ヒヒイロカネとか溶かしこむとかしちゃってますしw
次も楽しみです(喜)
最後の「道のりはとてつもなく遠かったが、」は、道のりは遠いでなく長いだと思います