橋とは何か。
それは河という名の境界を跨ぎ、彼岸と此岸を繋ぐもののこと。
ゆえに、地上と地底を繋ぐこの巨大な深道は「橋」と呼ばれ、
その番人たる妖怪の名を「橋姫」と言った。
『橋を架ける』
「随分潜るねぇ! ここまで深いとは思わなかったよ」
「元々地獄だよ、勇儀姐さん? こちらは地下666階。これくらいは深いのさ」
「降りてくるだけだったのに、よく何階かなんて解るもんだねぇ、ヤマメ」
「私は土蜘蛛。空より地面の中の方がよく解るってもんさ!」
地獄の深道を下へ下へと、2つの人影が行く。無論、この暗闇の中を悠々と進む両者は尋常の存在ではない。
“勇儀姐さん”と呼ばれた女性は顔立ちこそ少女の面影を持つものの、筋骨隆々たる体躯はまさに女丈夫の形容が相応しく、またその額に堂々と聳える深紅の一本角は彼女が“鬼”と呼ばれる強大な種であることを示していた。先導する“ヤマメ”と呼ばれた人物は対象的に小柄で快活な印象を与える愛らしい少女であり、自ら名乗った“土蜘蛛”の名の通り蜘蛛めいた八目の意匠が施された衣服を纏っていた。
鬼は、その名を星熊勇儀という。地上最強の種である鬼の中でも、名高き四天王の一角を担う存在だ。そしてヤマメ――黒谷ヤマメは、名乗り通り土蜘蛛なる妖怪である。
勇儀は引越し中であった。鬼は地上で人間とバランスよく付き合っていたのだが色々あってそれが破綻し、それを見越してさっさと地下へ引っ越していた他の妖怪の所へ漸く合流することになったのである。ヤマメはよく地上に近い所をうろついていることもあり先導役に任じられ(本人は喜んで了承した)、勇儀は豪胆な性格を以って鬼たちのしんがりをつとめていた。彼女で、地上の鬼たちは撤収完了だ。
「鬼もどうせ来るなら、もっと早く来れば良かったのにさ? 姐さんがいないとやっぱり華が無くってねえ」
「見所のある奴はまだいたし、簡単に諦めるってのも人間に悪かろう」
「鬼ってのは、人間に義理立てし過ぎなんだよねぇ」
「ま、義理を通さぬ鬼はいないよ。鬼に横道無しってね」
「それに、最後の一人になってからも来るまで時間をかけたじゃないか」
「……茨木の奴が見当たらなくってな。あの時、実際に殺られちまったのか何なのか……萃香が一番粘ると思ったが、最初に諦めた」
「そりゃびっくりだ。随分仲が良かったって聞いてたけど」
「あいつはあんなんでも責任感とかはあるからね。一番情が深い分、一番最初に切り捨てなきゃいかんと思ったんだろう。となれば、最後に残ったあたしが最後まで探すのは当然のことさね。ま、見つからなかったけど」
ヤマメはそりゃお気の毒に、と返した。鬼というのは個人の力が凄まじい上、種として技術力も高い。しかし、真正直すぎるというか、生き方が不器用なのである。彼女自身はそんな鬼の生き方を好いているが、同時にそれが鬼達に人間による被害を出す結果になったことを知っている。苦笑を返す他ない。
「なあヤマメ。あれ、誰だ?」
と、勇儀の声にそちらを見た。其処にはヤマメにとって馴染みの顔がある。
異国の装束を身にまとった小柄な妖怪が、ふわりふわりと優雅に浮いていた。肩までで切り揃えられた波打つ金髪は地底のあやかしの光を受けて艶めいて美しく、同時に繊細さを感じさせる。大きく愛くるしい緑色の瞳。対照的に小さく形のいい唇。何も言わずにその緑の瞳をこちらに向けている。
ヤマメを片手を上げて軽く笑いかけながら、言葉では勇儀に答えた。
「橋姫だよ。橋姫の水橋パルスィ。此処の門番というか守護神みたいなもんだね……って、姐さん?」
同伴者に向き直ったヤマメが驚きの声を上げたのも無理は無い。勇儀は、彼女が見たことも無い表情を浮かべていたのだから。
「水橋……パルスィ」
上気した頬。一点に注がれた視線。それは明らかに「見蕩れている」者のそれだった。
「なあヤマメ」
「止めときなよ、姐さん」
何も言っていないのに言葉を制され、勇儀が一瞬ひるむ。
「パルスィは止めといた方が良い。鬼の性格と合わないと思うよ」
「どういうことだい?」
流石に本人を前にひそひそ声になったヤマメは、勇儀の問いに
「……旧都についてから説明する」
と答え、その場を脱した。
勇儀は取り敢えずパルスィに「ご苦労さん!」と告げてヤマメに続く。パルスィは何事か呟いていたようだが、それを聞き取ることはできなかった。ただ、見送る際の童女のように無垢な笑顔が、勇儀の脳裏に刻み込まれた。
「嫉妬?」
「そう、彼女は嫉妬の化身なのさ。嫉妬によって人から鬼になったって話。鬼って言っても勇儀姐さんとは違うけどね」
旧都の一角。鬼達も全員到着が確認され、早速酒場に繰り出した勇儀とヤマメの姿が其処にあった。鬼の御多分に漏れず、勇儀は酒精を三度の飯より好んでいる。
「そうは見えなかったけどねえ」
「姐さんは嫉妬なんてしたことあるの?」
「無い」
「だろうね」
「でもあいつはにこにこしてたじゃないか。嫉妬してる時ってのは気持ち悪いもんなんだろう」
「人間とか普通の妖怪ならね。でも彼女は橋姫なんだよ、勇儀姐さん。嫉妬するのを楽しんでるのさ。悪い奴ではないんだけどねえ」
ふむ、と頷き勇儀は朱塗りの大きな杯を傾けた。なみなみと注がれていた酒を一息に飲み干す。
「妬み嫉みなんて、勇儀姐さんからいちばん遠い感情でしょ? ていうか姐さんそういうの嫌いでしょ」
「まあ、確かに嫉妬して他人の足を引っ張るようなのは大嫌いだね」
その声音は微妙に歯切れが悪いことを自覚する。これは一体どうしたことか。ヤマメも首をかしげた。
「どしたの、姐さん」
「うーむ。私もよく解らなくなってきた。こういう時は飲むに限る!」
「お、流石姐さん!」
こうして、有耶無耶の内にテンションを上げた2人は、結局その後一晩中飲み明かすのであった。
カッ、カッ。
下駄が硬い地面を蹴る軽快な音に、宙に浮かんだまま胎児のように丸まっていた水橋パルスィは、閉じていた瞳をうっすらと開けた。
橋姫の眠りは常に浅い。マグマのように胸の内を灼く嫉妬の熱が、彼女を安らがせないのだ。
人を不安に陥れる緑色の瞳がつぅと動き、音の主をとらえた。
額に聳える一本角。奔放に長く伸びた金の髪。
鬼の四天王が一人、星熊勇儀。昨日此処を通って行った鬼たちの最後の一人だ。右手には『大吟醸・鬼殺し』と書かれた一升瓶を携えていた。
「御勤めご苦労さん。一杯どうだい?」
満面の笑みでそう告げられ、パルスィは一度小首を傾げた後に地面に降り立つ。
「何事?」
「私は四天王の星熊勇儀! お前さんがこの道を守っているんだろう? だったら、鬼のみんなが無事地底に入れたのもお前さんのお陰ってわけだ。礼の一つもしないとね」
「ああ、成る程。御勇名はかねがね。折角ですから、頂きます。わざわざありがとうございます」
にこりと邪気無く微笑み瓶を受け取るパルスィは、器量良しの娘にしか見えない。
が、それは一瞬だった。
「私のような端で浮いているだけの者にこんな業物を渡せるなんて、流石四天王の方は随分と余裕がおありですね」
その柔和な声や温かな微笑とは裏腹、続いて発された言葉には明らかに険が混じっている。
「そんなもんじゃないよ。ただ、馴染みの顔に譲ってもらったから、礼も兼ねて一献と……」
「山の頂上で天狗や河童をかしずかせ、麓に下りては恐怖で人間たちを縛る。上に立っていれば、逆らえる者はありません。それこそ何でも手に入ることでしょう……妬ましい。何でも持っている鬼さんが、地上にあっては人目を縫い、地底にあっては虚空を眺めるだけの私へのあてつけかしら?」
パルスィは笑顔のまま険どころか棘で覆われているかのような言葉を機関銃のようにまくし立てた。……いや、表情に一箇所、変化がある。口元の笑みは昏い愉悦に浸るように口角を深めていたのだ。勇儀は呆気に取られながらも、何とか続けて問いかけた。
「お前さん、私が怖くないのかい? 泣く子も黙るってことになってる鬼の四天王なんだが」
「勿論怖いわ。四天王の怒りを買った私は見せしめにばらばらにされてしまうのかしら? 明日には旧都の辻に、私の首が晒されるの? 怖いわ。あなたには、すぐにでも私をそうできる力がある。腕力でもそうだし、社会力でもそうでしょう。無力な私とは違って……妬ましい! そんな力があるのに、私に構いに来るのがあてつけているというのよ。鬼というのは本当に、力と恐怖で何でもできると思っているのね」
「……」
くすくすと笑うその顔は、もはや最初とは全く違う。姿だけは年頃の少女のあどけない忍び笑いだが、瞳には罪悪感と愉悦が同居しており、透明ながら淀んでいる、というえもいわれぬ表情であった。さしもの勇儀も、異様な姿と被害妄想じみた悪罵には黙り込む。しかしその表情は怒りではない。寧ろそれは――。
「気に入った」
「え?」
パルスィの表情から初めて笑みが消えた。怪訝。
「何ですって?」
「気に入ったよ、水橋パルスィ! ははっ!」
「何を……図星を突かれて、今更大物ぶろうとしても無駄よ」
「そうじゃない!」
勇儀はずかずかと両者の距離を詰めると、少しかがんで自分と相手の目線を合わせた。
「お前さん、本当に嫉妬することばかり考えているんだな! しかも、四天王の異名を退け、恐怖にすら打ち勝つその嫉妬心!
鬼の四天王、星熊勇儀が認めよう。お前は確かに、地底一真っ直ぐに嫉妬している妖怪だ! まさに嫉妬の化身だな!」
呵呵大笑する勇儀に、今度はパルスィが呆気に取られる番である。
「本気で言っているのかしら」
「本気も本気! 鬼は嘘をつかないよ!」
ばしばし叩いてくる勇儀の手を嫌そうに払いのけながら、どうやら本当の本気らしいと納得したパルスィは、再び笑みを形作った。あの、歪んだ悦びの笑みである。
「私にそんなことを言ってくれた人はあなたが初めてよ。とても器が大きいのね。流石は、鬼の四天王。
何に対しても妬んでばかりの私とは違って!」
パルスィが自身の胸を押さえる。
「その力が妬ましい。その心が妬ましい。何もかも妬ましい! 同じ妖怪であるはずなのに!」
心から満面の笑みを浮かべるパルスィを襲っていた感情は、やはり嫉妬であった。
これほど嫉妬を感じさせる存在は初めてである。こんな存在を無かったことにしてしまいたい。お前は無価値だと断じたい。その欲求による黒い感情こそ、パルスィの力の源であり、最大の歓喜であった。
「そうこなくちゃね!」
常人が見れば歪さに怖気を催すようなパルスィの笑顔を見ても尚、勇儀の姿勢は崩れない。パルスィの妬む姿こそ、勇儀が見たい「純粋な妖怪の姿」であるからだ。
「今日は他の四天王ともども、地霊殿の連中に呼ばれてるんでね。そろそろ失礼させてもらうが、またな、パルスィ!」
「あら、逃げるのね。やはりあんなことを言って、私と一緒にいるのがイヤなんでしょう? 辛いんでしょう?」
「んなことないって。また来るよ!」
去っていく勇儀の大きな背中を見ながら、パルスィは頬に手を当てため息をついた。
「嵐のような妖怪ね……大江山の嵐を起こしていたという話も頷けるわ。そんな力で……私を馬鹿にしに来たんでしょう」
浮かべた微笑が嫉妬する悦びによるものか、よく解らない出会いに対する喜びなのかは、余人にはあずかり知れぬものであった。
ああは言ってももう来ないだろう。帰れば頭も冷えるだろう。パルスィは冷静にそう考えた。そしてその考えは翌日に粉砕された。その翌日にも。その翌日にも。そのまた翌日にも。星熊勇儀はパルスィの元を訪れ続けたのである。
『よう、パルスィ。顔を見に来た!』
『無様で下賎な妖怪を見れば、自分が上だって安心できるものね?』
『そんなことをしなくとも私は万夫不倒だよ!』
『そう言い切れる強さが妬ましい。でも、いくら強くても、それを見せ付けるようでは御終いね』
『これが私だから仕方が無いさ』
『……ああ、妬ましい』
『パルスィ。良いシメジが取れたんでお裾分けだよ』
『私がろくなものを食べていないような不精者だと思ってるんでしょう?』
『いいから来なって。鍋にしよう』
『ちょっと、そんなに強く引っ張らないでほしいのだけど』
『悪い悪い!』
『パルスィ。宴会に行こう!』
『私が参加してもみんなの気分が悪くなるだけって解ってるくせに、そうやって私を惨めな気分にさせるつもりでしょう?』
『嫌われたくらいで今更惨めにならんだろう。酒はみんなで飲んだ方がいい。今夜、もう参加するってヤマメに伝えてあるからね』
『どうなっても知らないから』
『ほら、私のせいで空気悪いじゃない。だから言ったでしょう』
『いやー、本当だな。いっぺん試したかったんだが、みんなパルスィの良さに気付かないね!』
『……あなたのその能天気さが羨ましいというか、妬ましいというか……』
『おや、パルスィ。旧都まで来て何やってるんだい』
『見て解るでしょう。丑の刻参り。あなたの髪なら嫌って程落ちてたもの。あなたに襲い掛かろうとする瘴気が見える?』
『ははは、実力行使かい! でもその程度の呪いじゃあ私には通用しないな! ほら!』
『頼むから、呪詛を力で吹き飛ばさないでくれないかしら』
『よう、パルスィ! 今日も良い笑顔だな!』
『私がどんな妖怪か良く解ったでしょう? 内心を知って蔑んでいるんでしょう?』
『そうじゃないって解ってるだろ?』
『だから妬ましいのよ』
何度も何度も訪れる勇儀と、拒絶だけはしないために振り回されるパルスィ。すれ違っているようで、実は2人はかみ合っていた。
パルスィを気に入ったという勇儀の言葉は嘘偽りの無い本音であり、そして彼女は「気に入った」相手の言動を見ることに楽しみを見出す人となりである。パルスィがその勇儀のことを恐ろしいほど妬んでいるのもまた事実であるが、同時に彼女は嫉妬によって喜びを得る妖怪でもある。これほどまでに力も人望も行動力もあり、嫉妬の念を抱かせ続けてくれた存在は今までに無かった。言葉さえ聞かなければ、2人は常に笑顔で喜びを感じているように見えただろう。それはある意味間違っていなかったし、理想的な互恵関係にあったとさえ言えた。その筈だった。
――2人が知り合って、一月も経ったある夜。
「邪魔するよ、パルスィ」
「勇儀」
「お?」
そのとき、パルスィは珍しく酔っていた。白いかんばせに朱が差したことで、人形めいた美しい微笑に普段は余り感じさせない愛嬌も湛えており、勇儀は思わず見蕩れた。宴会に参加したときも途中で辞していたので、彼女の酔った姿を見るのはそういえばこれが初めてであることに勇儀は思い至った。
パルスィの小さな杯を満たしているのは、かつて勇儀がパルスィの元を初めて訪れた際に預けた『大吟醸・鬼殺し』。今の今まで飲んでいなかったとは。
「お、飲んでくれたのか」
「まあ、死蔵させておくものでもないでしょう」
「一人酒かい?」
「勿論」
「ご一緒してもいいかい?」
「……まあ、いいわ」
不思議な夜だった。パルスィが妬みによる皮肉や悪罵を口にしない。その雰囲気の違いに、勇儀の磊落な様子もなりを潜めて何となく口を噤む。
「……ねえ、勇儀」
何とはなしに降りた沈黙を破ったのはパルスィ。これも珍しいことだ。いつもは勇儀の役目なのに。
「あなた、前に私のことを真っ直ぐに嫉妬してるから気に入った、って言ったわよね」
「ああ。言ったよ」
パルスィの視線が、杯の中の自分の瞳に注がれる。緑色。勇儀はその横顔を見遣った。
「じゃあ、こんなことを言ったらあなたはとうとう私に失望するかしら」
「? 言われてみないと解らないね。どういうことだい?」
「あなたには感謝しているの」
突然の謝辞に、勇儀は言葉を失った。完全に予想外。
「私は嫉妬することが好きよ。他人を貶めている瞬間の喜びも。そうすることが正しくないと解っているからこその、後悔交じりの背徳感も私にとっては好物なの。
でもね。一人が全く寂しくないわけでも無いの。
だから……楽しかったわ。あなたと2人でいるというのは。悪くないと思った。
今、酒精が私の嫉妬を殺いでいるからこう言っていると思う?」
「いや。嫉妬と孤独は違うものってことだろう?」
「そういうこと。でも、私の嫉妬は欠片も傷ついていないけれど……これでは拙いのよ」
首を傾げる勇儀の前で、パルスィは杯を置く。不穏な気配。
「あなたへの感謝が、私の中で嫉妬よりも強くなりそうなの。それは拙いわ」
白魚のような指先が、懐に潜り込んだ。その先が何かを握る。
「私は嫉妬の化身。その私に嫉妬より強い感情ですって? 冗談じゃない!」
取り出されたのは、肉厚の刃物。包丁だ。
「勇儀。真っ直ぐに嫉妬する私が好きなんでしょう。だったら――死んで」
ゆらりと立ち上がるパルスィ。
「あなたがいるとね、私が壊れるの! 私を受け入れるあなたがいると!
妬ましい!
力もつお前が妬ましい!
魅力あるお前が妬ましい!
私の嫉妬よりも強い想いを抱かせるお前が妬ましい!
私を壊すお前が妬ましい!」
「パルスィ――」
その表情は、今までの短い付き合いの中で一度も見せたことのないものだった。
嫉妬――そしてそれによる身を焦がすような喜び。それに加えて、表情の中にあるのは恐怖だ。
「死んで! 勇儀!!」
「――」
パルスィが刃を構えて勇儀の懐に飛び込む。勇儀は防御らしい防御もせず、パルスィを受け止めた。
重く深く、肉を裂く音がした。
「すまん。パルスィ」
「……」
刃は確かに腹部に突き立っていた。人間ならば臓器に深刻な損傷を負っていたはずだ。
だが鬼としての強靭な筋肉は、内臓まで届かせることを拒んでいた。思い出したように血が流れ出て勇儀の白い上衣を赤く染めるが、勇儀はそれに目も呉れない。
そのまま、パルスィを抱擁した。
「すまん。私はお前のためには死ねないよ」
「死んでよ!」
突き刺さった刃を更に押し込もうとするが、肉の強度を貫くことはできなかった。
「何でよ! 怖いの! あなたといると……初めてよ、こんなのは!」
パルスィの瞳から零れたものは涙だ。
「私の妬みを全うさせたいなら、死んでよ! ざまあみろって思わせてよ!」
「それはできないんだ」
「何で――」
勇儀は苦笑した後、言う。
「お前さんのことが好きだから」
「……は……?」
パルスィの手に込められていた力が緩む。
「思えば、最初に見たあの日からそうだった。私は、パルスィに惚れてたんだな」
「な、何、言って……」
「真っ直ぐに嫉妬して、そのためにこんなに必死なパルスィは綺麗だよ。
いつもの微笑みも、無表情でいるときの顔も、嫉妬深く笑うときの顔も、みんな綺麗だった。
お前さんの顔をもっと見たいんだよ。だから死ねないなぁ」
「……」
茫然。パルスィは予想外の言葉の連続に、今度こそ包丁から手を離してしまった。
何を言っているんだ、こいつは。鬼の最も嫌う不意打ち騙し討ちで腹まで抉ってやったというのに。
「どうも、私ってのは昔っから惚れると周りが見えなくなってね!」
勇儀はわははと笑うと、パルスィの頭を撫でた。
「だから、私をお前の傍にいさせてくれないか」
何処までも優しい瞳の奥に彼女のいる広い世界を見た気がして、パルスィは自分がくじけてしまったことを思い知った。
この馬鹿は、もうどんなに理屈をつけて妬んでも、自分の命をかけて嫉んでも、どうやら妬み切れそうにない――。
「姐さん、怪我大丈夫なのかい?」
「怪我のうちに入らないよ、あんなのは!」
四天王刺さるるの報せは地底を揺り動かす、筈だったのだろうが、刺された本人が翌日にはぴんぴんして宴会に参加していたため特に話題にもならず立ち消えた。勇儀のタフネスには妖怪のヤマメですら舌を巻く。
「ほんっと頑丈だね、姐さんは。無事でよかったよ。……だから止めとけって言ったのに」
「止めといたほうがいい理由なんて何も無かった」
勇儀は飄々と言ってのけてから、付け加えた。
「それに頑丈なのは、数ある取り柄の一つだからね」
「はぁ……ま、姐さんがその気なら止めることなんてできないのはわかってるんだ。ま、快気祝いに御一献!」
愛用の朱塗りの杯に、なみなみと酒を注がれて笑う勇儀の背後に、ふと人影が立った。
宴会に参加していた一同がその人物に目を留め、驚いたように動きを止める。周りの視線の動きを見て、漸く誰かいるらしいと振り返った勇儀はその姿に流石に驚きを見せた。
「パルスィ!?」
「こんばんは。具合は悪くないようね」
暗い情念が深く渦を巻く禍々しい内面からは想像もつかない柔和で繊細な微笑を浮かべ、パルスィは一同に手を振った。
「どういう風の吹き回しだい。自分からこっちに来るとは!」
何も言わないが、周囲の妖怪たちも同じ疑問を抱いている。
「私ね、思ったの」
パルスィは舞台女優のように空(実際には天井だが)を見上げて独白する。
「今まで私は、嫉妬を堂々としてこなかったんじゃないか……橋を通る者に対してしか、嫉妬してこなかったんじゃないかって。
でも、それじゃまだまだ狭い嫉妬だったと思ったの。もっと自分から色んな所に出向いて、より多様に、より強烈に嫉妬しなくてはいけないって。
それが、私。橋姫という妖怪のありようでしょう?」
――誰も其処まで望んでいない! 一同の共通した思惑であった。しかし、一人例外がいる。
「はっはっは!! それでこそパルスィだよ!! ますます強くなりそうだねぇ!! まずは此処にいる連中に対してどんどん嫉妬しないとなぁ!!」
「勇儀姐さん、煽らないでほしいんだけど!?」
「ふふふ……どう妬もうかしら」
「パルスィ、ちょっと待った! 落ち着いて!」
どんちゃん騒ぎで夜は更ける。
病も力も嫉妬も全て飲み込む地底の深い闇の中、橋姫はほんの少しだけ自分の変化を感じていた。
橋とは何か。
それは境界を跨ぎ、彼岸と此岸を繋ぐもののこと。
今宵かけられた一つの小さな橋。
それは、一人の鬼と一人の橋姫の胸の間に。
そして縛り付けられていた今日と、変わってしまった世界の、まだ見ぬ明日との間に――。
(『橋を架ける』 了)
「…………」
宴会場に死屍累々、倒れ伏す妖怪たち。
全員が鬼の飲み比べに付き合わされたわけではない。パルスィの嫉妬を基にした陰険な精神攻撃に全員心を折られたのだ。
「やっぱり、あいつ来るべきじゃなかったって……」
「あれがパルスィのありようだからね、しょうがない!」
「ああ、本当に良い気分だわ。他人の不幸で酒が美味しい……」
橋姫のころころとした笑いが、いつまでもいつまでも、つわものどもの屍の上に響いていた――。
刺される?
終盤でどうなるかとドキドキしましたが最後はらしく終わって良かったです
身を焦がす嫉妬すら楽しんでしまう事に対する後悔すら楽しんでしまうパルスィの歪さマジヤバイ。
このパルスィの表現が上手くてちょっと薄ら寒くなりました。
そしてそんなパルスィに相対しても微塵も振れない姐御マジパネェ。
面白い時を味わせて頂きました、
ありがとうございます。
パルスィといい雛といい、設定だけ見ると明らかに暗そうで陰険な表情をしてそうなキャラに限って、すごいいい笑顔してるんですよね。私自身そういうギャップに疑問に近い違和感を覚えていたので、この作品はすごく好きになりました。私の中のパルスィ像に答えを得た感じですっきり。
もちろん、ただ笑顔のかわいらしいだけじゃない、醜い感情をむき出しにする「妖怪」らしい面も含めてこのパルスィは好きです。
ガゴウジサイクロン(ノーマル)は慣れれば安定すると思いますけど、人によるんだろうか。最初綺麗に貫かれましたけど。
とてもいい勇パルでした。笑顔で嫉妬するパルスィ、そんなパルスィをありのまま受け止めてあげる勇儀姐さん・・・ああ、いいですね・・・。
あとがきで仰っている通り、勇パルは非常に人気が高くいろんな方々書いておりますがそれぞれが色々な見方を持っており読んでいてとてもキュンキュンします。十人十色、十人十カプ。
良い勇パルをありがとうございました。
楽しかったです。勇パルはいいですねェ