「ねえ。あなた?」
こいしはグレー姿の妖精に声をかけた。
お燐といっしょにいることが多いゾンビフェアリーだ。
もちろん特殊な個体ではなく、身も蓋も無い言い方をすれば雑魚中の雑魚。そこらにたくさんいる有象無象というやつである。
ゾンビといってもフリであり、中身はただの妖精さん。お化粧を落とせば健康的な肌色が覗く幼児に近いぷるぷるお肌。でも滅多なことではしない。ゾンビが好きだからゾンビフェアリーなのである。
そんなゾンビ好きな妖精も実はたくさんいて、ゾンビフェアリーズを結成している。
したがって、こいしが声をかけた妖精もゾンビフェアリーだから普通の妖精より特殊というわけではない。趣味がちょっと地底風味というぐらいなものだ。
身体的な特徴も地上の妖精と変わるところはない。
ゾンビフェアリーの体長は平均すればだいたい30センチ程度で、ちょっとしたお人形のような大きさである。
ゾンビの真似をしていようがやっぱり中身は普通なので人肌の温かさ。
ちょっとメランコリックな表情、ふわりふわりと幽鬼のように浮いてるほかは普通の妖精と変わらない。
こいしが声をかけたゾンビフェアリーも特に目立った特徴のない普通の妖精だった。
声をかけられたゾンビフェアリーはきょとんとした表情をしていた。
それもそのはず。
普段、殺しても死なない妖精のことなんか気にしている存在などほとんどいないし、ましてや声をかけたのが地霊殿の主の妹君となれば恐れ多い。
妖精は上下関係に頓着するほど知能は高くないが、それでも圧倒的な力の差は感じることができるらしく、住んでる世界が違う住人から突然話しかけられたような気分なのだろう。
こいしはもう一度口を開く。
「そうそう。あなたよ?」
ゾンビフェアリーはきょろきょろと周りを見渡した。
誰もいない。
その後、指を自分にもっていって、わたし?と確認している。
「そう。あなた」
ゾンビフェアリーはフワリとこいしのほうに近づいた。
こいしは小首をかしげて、なにやら当該妖精さんを観察中である。
ふむふむと頷き、
「あなたしゃべれる?」
妖精はフルフルと首は横に振った。
どうやらしゃべることができないらしい。
珍しいことではない。
妖精は基本的にサイズによって力の大きさが決まっていて、力の大小が人間でいうところの精神年齢と直結しているというのがこいしの見解だ。
こいしの目の前にいる妖精はどちらかといえば小さいサイズに分類される。
だから人語を話せなかったとしてもおかしくはない。
だが、べつに人語を理解していないわけではないらしい。そこらが難しいところで喃語(幼児言葉)をしゃべる程度の能力を遙かに凌駕する知能は有している。喃語が一歳児程度の知能とすれば小さな妖精でも五歳児程度の知能はあるように思える。では発声ができないのかというとこれも違うようで、小さいけれどもその機能はきちんとしている。ンーとかヤーとか言うことを聞くことはあるし、十分に聞き取れる程度の大きさである。
では、どうしてしゃべることができないのだろう。
こいしの興味はこの一点に尽きた。
「あなたに聞きたいことがあるのだけど」
「?」
「あなたってどうやってお燐に勧誘されたのかしら」
相手は話せない妖精である。
なんとか伝えようとしているようだが、ンーンーうなっているだけでちっとも声がでてこない。
「文字は理解できる?」
フルフル。
「じゃあ、お燐といっしょにいるときどうやって自分を表現しているの。あるいは妖精さんどうしでもいいわ。どうやって伝えてるの?」
そのときのゾンビフェアリーの顔は
^(;゜v゜)^
こんな感じだったので、こいしはひとまず追及をあきらめることにした。
2
外に出てみると妖精さんはどこにでもいて、遊んでいたり弾幕ごっこをしたりしているが、話すことができない小さい子たちもいっしょにいることが多い。
ときどき同じタイミングで笑ったり、ときどきよくわからない脈絡で喧嘩をしている。
それがこいしには不思議だった。
テレパシーでもしているのだろうか。しかし、妖精が心を読んだりする能力を持っているなんて聞いたこともない。以心伝心とも違うだろう。妖精はニュアンスで生きている傾向が強いものの、笑ったり怒ったりするのは個を感じさせる行為だ。
考えれば考えるほど不思議である。
とりあえず、こいしはお燐に尋ねることにした。
お燐は地霊殿の地下でなにやらやっていた。たぶん燃料補給というやつだろう。燃料は死体であるが、いまはたいして興味がない。
こいしの興味は季節よりも移ろいやすいものであり、いま尋ねているのも偶然によるものが多い。しかし、お燐は嫌な顔ひとつしない。こいしがそのような性格であるのは十分に理解しているし、主の妹をないがしろにすることはできないからだ。
「ねえ。お燐。聞きたいことがあるの」
「はいなんでしょう」
「ゾンビな妖精さんのことなんだけど」
「ゾンビフェアリーたちですか?」
「べつにゾンビじゃなくてもいいんだけど、あの子達って話せる子と話せない子がいるわよね」
「ええそうですね」
「話せない子とはどうやって話をつけてるのかしら」
「話をつける?」
「どうやってコミュニケーションをとってるの?」
「えとですね。妖精のなかには言葉が通じるやつもいるんで、そいつらを通して話をつけてるんです。べつに全員と話してるわけではないですよ。わたしに聞くよりも話ができる妖精に聞いたほうが早いと思います」
「なるほど。で、その話せる妖精さんはどこにいるのかしら」
お燐はすぐに連れて来てくれた。
そのゾンビフェアリーは先ほど話をした妖精よりも一回り大きな七十センチクラスの大物である。こいしは瞳を輝かせて、その妖精の手をとった。
いままでどうでもよかった存在が、突然素敵なものに見えることはよくあることだ。
こいしの場合は思想の偏重がほとんどなく、ふわふわと浮いている思考形態をしているから、唐突にその価値観が変わったりすることもある。もちろん根っこの部分には変わりきれないものもたくさんあるのであるが、表層は服を着替えるように節操がないのである。
妖精はどうでもいい存在――という価値観も今は修正が加えられていた。
「あなたしゃべれるの?」とこいしは聞いた。
根無し草なこいしとはいえ、その地位は地霊殿の主たるさとりの妹君である。
尋ねられたほうは少しばかり緊張気味であったが、丁寧に頭を下げて答えた。
「はい。大丈夫です」
「あなた、小さな妖精さんたちとはどうやって話しているのかしら」
「ええと。実をいうとたいして話をしているわけではないんです。わたしたち妖精は基本的に自分の好きなように生きる性質ですから、遊んでいたらなんとなく仲良くなっていっしょによくいるようになっただけでして……」
「あなたから一方的に人語によるコミュニケーションを図ってるの? 相手側からのなんらかの意思疎通行為はあった? ボディランゲージは少しは使えるようだけど」
「ボディランゲージとかもありますけど……」
「ふむ。顔とかかしら」
「顔の表情もありますね。あとは弾幕とかでしょうか」
「弾幕?」
聞きなれない言葉にこいしはオウム返しに聞いた。
「弾幕の出し方とか、速度とか、そんなんです」
「すごいわ」
こいしは瞳の中にハートマークを浮かべる。そしてぼーっと立っていたお燐のほうに振り向いた。
「お燐、すごいことを発見しちゃったわ」
「はぁ。何がすごいのかよくわからないのですが」
「ちっちゃな妖精さんたちは独自の言語を持っているかもしれないのよ」
「妖精が何を話してもたいして影響力なんてないんじゃないですか」
「もぉー。わかってないわね。いや――普通はそういうふうに考えるのかな。ねえ、お燐」
「はい?」
「たとえば百万の人間が使ってる言語と百人の言語を使ってる言語のどちらが偉いって感じる?」
「そうですね。べつに偉いとかそういうのとは違うと思いますが」
「じゃあ、どちらを優先的に覚えるべきだと思う」
「そりゃ百万のほうでしょうね。言語なんて結局はコミュニケーションするための道具なんですから、多くの人とコミュニケーションをとれる可能性があるほうがいいに決まっています」
「ふぅん。それが平均的な考え方?」
「どうなんでしょう。でもより多くの人が話している言語を覚えるほうが合理的じゃないですか」
「確かにそうね。それはわかるわ。合理的って言葉は数学的ってことだからわたしにも理解できる」
けれど――
こいしの価値観は合理とは異なるところに置いてある。
合理的であるという一点においては、お燐の言うことも理解できるのであるが、その他の定性的な評価はいわゆる普通の人とは隔絶している。しかし、べつにこいしが特別だから妖精の言語に興味を持ったというわけではないかもしれない。
たぶん、それは人語をしゃべることができない妖精たちが少数派であるということが大きな理由であろう。こいしは精神の構造が世の大多数と異なっていて、その言語の構造も少数派に属する。同じ言葉を使っているのに、その言葉はいつまでたっても相手の心と交差することはない。少数派の悲哀みたいなものを少しは感じる。あるいはズルいって感覚。普通の人たちはこいしが知らない未知の公式を使って現実世界を生きているのに、こいしは生の計算能力だけでなんとか生き延びている――といった喩え話が当てはまるかもしれない。まあそんなことをいちいち話しても簡単には伝わらないし、多数派はいつだって傲慢なのはさすがにこいしも知っている。ともかく少数であるということは弱いということなのだ。いくらこいしという個が強くてもひとりであるということはそれだけで弱いことらしい。だから妖精にもなんとなくの親近感が湧くのかもしれない。
こいしにもそこらの理由はグチャグチャとしていてよくわからない。
ともあれ、こいしは妖精の言葉に興味をもったのである。
お燐は困った顔をしていた。
「よくわかりませんけど、妖精たちって人見知り激しいですよ。こいし様のように力の強い妖怪が近づいたら脅えてしまいます」
「お燐はよく慕われてるようじゃない」
「わたしは死体運びしか能がない弱い妖怪ですからね」
「そうかしら。まあいいわ。わたしは観察するのは得意だもの」
こいしはふわふわと所在無く浮いていた七十センチクラス妖精の頭を撫でた。
撫で撫でされるのが恥ずかしいのか、それとも気持ちいいのか。物も言わずに目をぎゅっと瞑ってされるがままの妖精。
「わたし、あなたたちを観察するけど、今日のことは黙ってもらえると嬉しいわ。わたしが観察しているとわかったらうまく話してくれないかもしれないもの」
妖精は何度かコクコクと頷いた。
もっと撫でてほしそうだったので撫でた。
七十センチクラスは一番撫でがいがありそうだ。
「あのー、さしでがましいかもしれませんが」お燐が口を開く。「この子に教えてもらえばいいんじゃないですか」
「だめよ。この子から教えてもらったって通訳を聞くのと同じじゃないの」
「言葉を学ぶ過程は他人から学ぶしかないんですから、結局変わらないのでは?」
「そうねぇ……」こいしはンーと少し考える。「確かにそうかもしれないけれど、この子は既に半分くらい忘れてるんじゃないかって気がするの」
「忘れている、ですか」
「忘れているというか……話せなくなってるんじゃないかな。ねぇ。どうかしら?」
妖精はちょっぴり上気した顔で言った。
「えと。確かにいつのまにか話せなくなってました。かろうじて意思疎通はできる程度です」
「ほらね」
「普段使ってる言葉を忘れるものなんですか?」と、お燐は疑問顔である。
「忘れるっていうか――忘れさせちゃったのかもね」
こいしは少しだけ意味ありげに答えた。
3
「要するに多数派は傲慢なのよ」とこいしは説明する。
お燐はよくわからないといった顔をしており、七十センチのほうは既に考えることを放棄しているようである。早く帰りたそうにしていた。
こいしは続けた。
「言葉という同一の規格を持つひとたちが、そういった共通規格を持たない存在を排斥しているの。だから、言葉を持つってことは既存の言葉を忘れる上書き処理なんじゃないかと思うのよね」
「上書きですか?」
「そう上書き。古い言葉のほうを忘れるってこと」
「ですがバイリンガルとかいるじゃないですか」
「それは同じ言葉だからよ。そうね。例えば英語と日本語の両方を話せる人がいるみたいだけど、わたしに言わせればどちらも同じ"レベル"の言葉なのよ。だから忘れない。両方使いこなすことができる。規格が同じだから」
「妖精の言葉と人間の言葉は"レベル"が違うってことですか」
「そう。レベルが違う。だから上書き処理されてしまう。両方話せるってことにはならない」
「うーん。どうしてそうなるんでしょう」
「いまお燐は言葉で考えてるでしょう? その言葉を今すぐ忘れて言葉以外のやり方で思考してって言われてできるかしら」
「まぁ……できませんね」
「でしょう。言葉を忘れるなんて普通はできないのよ。わたし以外にはたぶんできないんじゃないかな」
「こいし様は言葉を話してるじゃないですか」
「完全に忘れることはわたしにもできなかったってだけ」
「よくわかりません」
「わからなくてもいいのよ」
こいしにだってうまく説明する自信はない。
通常人は社会化する過程で言葉を覚えて、自分が世界と同化しているかのような、言い換えれば無限に愛が与えられるかのような万能感といったものを捨てていく。そうして自分を殺していくわけであるが、こいしの場合は一度は殺したものの無理やり妖怪としての能力で蘇生させたようなものなのだ。これは言葉で思考することを覚えたあとに、その言葉を捨てることに等しい。こいしの思考は言葉を越えているともいえる。
「妖精の言葉はレベルが違うから、人間の言葉を覚えることができないし、覚えてしまったら今度は妖精の言葉を忘れるってことになるわけですね。じゃあ逆はどうなんでしょう」
「逆?」
「妖精の言葉を覚えたら人間の言葉を忘れちゃうのでは?」
「うん。ありそうね。でもそんなふうにはなかなかならないと思うわ」
「どうしてです?」
「川の流れのように、上流と下流みたいなのがあるのよ。言語化されるってことは言わば下流なの。また遡るのは難しいんじゃないかな」
「人間の言葉のほうが固定化されやすいってことですか。人間の言葉は強いってことですかね」
「強いから傲慢なの」
「傲慢ですか」
「強ければ傲慢になってもいいのよ?」
こいしはにこにこ笑っているが、それが逆にえもいわれぬ圧力を作り出している。
お燐は話題を変えようと、少し別の質問をすることにした。
「どうして人間の言葉は固定化される傾向にあるんでしょうね」
「仮定に仮定は重ねたくないけれど、あえて推察するなら、やっぱり口語かそうでないかっていうのが大きいんじゃないかしら。人間の言葉は口だけでコミュニケーションをとれるわけじゃない。もちろん表情とかもすごく大きな補助線みたいだけど、べつに真っ白い箱が話したって会話することは可能だわ。つまり人間の言葉のほうがコミュニケーションをとれる幅が広い。だからその言葉はほかの口語以外の言葉よりも強い。強い言葉は弱い言葉を駆逐するから自然と話し言葉が主流となっていく。お燐にだって想像できるでしょ。例えば、この世界では絶対に手話がメインストリームになることはない」
「でもその妖精の言葉っていうのがよくわからないからなんともいえませんね。だいたいそんな弾幕のなんたらっていうのが言葉っていえるんですかね」
「妖精さんどうしではちゃんとコミュニケートできてるから、少なくとも機能的には言葉なんじゃないの」
「いや、わたしが言いたいのは、そういう妖精の肉体的な所作を含めた言語が思考をトレースできるのかってことなんです」
「それも大きな違いね。言葉は象徴的な記号だけど、妖精さんの言葉は現実と直結しているのよ」
「妖精の言葉は世界を象徴化できない。つまり抽象論を一切使えないってことですよね。それで言葉といえるのかが疑問なんです」
「ふうん。お燐はそう考えるんだね」
「ええまあ。心配性なので」
「わたしのことがもしかして心配?」
こいしはなんとなく問いを発してみた。
もしかすると事細かく質問するのは、こいしが妖精の言葉を知ろうとすることの危険性を考えてのことかもしれない。
他人の気持ちなんてこいしには知りようもないことだが、それでもデータベースからおよその答えは予測できる。
「そりゃそうですよ」
ほら当たってた。
こいしは嬉しくなって微笑度がアップする。
「お燐は心配性だねー。でも、大丈夫。わたしはいつだって無意識で行動できるんだから」
だからこそ心配だ。
と、お燐は顔で語っていたが、こいしはいつものように無視することにした。
都合の悪いことに目を瞑るのはお手の物である。
4
「こいし。最近は妖精のところによく通ってるそうですね」
よくある夕食風景の雑談として、さとりはそんな話を切り出した。
「うん。そうだよ。わりと難しい言語だわ。ある腕の振り方がひらがなの『あ』に相当するとか、翻案すればそんな程度がわかってきたぐらい」
「そうですか……」
さとりは物憂げに皿を見ている。
「どうしたの?」
「こいしが他者に関心を持つのが嬉しいんですよ」
「違うんだけどな。べつにわたしは他人に関心を持ってるわけではないの。妖精さんの言葉が知りたいだけ」
「妖精の言葉が知りたいんでしょう?」
「うんそうだよ」
「妖精のってことは、つまり他人のってことでしょう?」
「だからそれが違うの。おねえちゃんは『の』っていう接続を重視してるみたいだけど、わたしが言ってる妖精さんは別に人格として重視してるわけじゃないもの。主体じゃないの。ただの観察対象。つまりわたしはわたしの観察に興味があるだけ。もっと言えばわたしはわたしに興味があるだけなのよ」
「でも外に意識を向けているのはまちがいないわけですよね」
「どうかしら。単に内側に向けているようにも思えるけれど」
「なんにしろ……」さとりはため息のような呼吸をした。「わたしとしては妖精のことをわかろうとするこいしの行動が好ましいように思いますよ」
「よくわかんないよ」こいしは微笑を浮かべる。「お姉ちゃんはわかりあうっていうのが無条件によいことだと考えているみたいだけど、本当にそうかしら。なにがなんでもわかりあいたいと思うのは、精神疾患の一種じゃないかしら」
「そうでしょうか。ヒトは独りでは生きられないと思いますが」
「ふうん」
こいしは興味がなさそうに答えた。
さとりの考え方はおそらく多数派に属するだろうというのは理解できる。しかし、その考え方をこいしが受容できないということをさとりは理解していない。
端的に言えば、わかりあおうとするがゆえに、こいしとさとりは引き裂かれている。
では、こいしとさとりが歩み寄ろうとするにはどうしたらよいのだろう。
こいしにしても、それは一種の悩みどころではあった。こいしはさとりにまったく興味がないわけではないので、妥協として無駄に思える会話を交わしてみたり、時々は夕食をともにしたり、つまるところ家族としてふるまってるわけであるが、本質的には交われない可能性も大きく、数学的な判断としてたぶんそうなるだろうと思っている。べつにそれでもいいかと思う反面、なんとはなしに今の生活を続けてフラフラと放浪しているのも、どこかに解決策があるのではないかと考えているからだ。
――結局、互いに希望を捨てきれないってだけ。
こいしはやさしくほほえむ。
べつにわかりあえなくてもいいはずなのに。
妖精さんの観察は特に問題なく行われている。
導き手がいない状況下でも、時間さえかければなんとなくわかってくるから不思議だ。
たぶんこいしは通信規格としては両方保持している状態なのだろう。人間の言語と妖精の言語を両方持っているからこそ、妖精の言語もなんとなくわかるのだ。
しかし、そのことは逆に言えば、人間の言葉が中途半端にしかわからない以上、妖精の言葉も中途半端にしかわかりえないという可能性を示唆している。
ニュートラルの位置にいるからこそ、どちらの側にも立つことができない。
でもそれでもよかった。
「それならそれで翻訳家として暮らしていけるもの」
「はい?」
答えたのはまたもや七十センチクラスの妖精さんである。
いましがた、こいしは疑問に思ったある言葉について質問がてら無理やり拉致ったのである。
七十センチについてはあれから少しは仲良くなって、それなりに言葉を交わした。こいしとしては無理強いするつもりはまったくなかったのであるが、実情としては地霊殿の権威を借りたことになるかもしれない。まあ所詮、この世は弱肉強食。ちゃらんぽらんな妖精でも是非もない。
「こいし様は翻訳してどうするつもりなんですか?」
「妖精の言葉はいままで誰にも明かされたことがなかったわけよね。多数派の人たちは自分たちの言葉こそが正しいと信じてる。神様の言葉だって信じてる。けれど本当は違う。無数にある言葉のひとつに過ぎないってことが思い知らされる。それが少しだけ楽しいかなって思っただけ」
「楽しい……ですか?」
「楽しいというのもちょっと違うかな。知ってほしいと思ったの」
「わかってほしい?」
「そう、わかってほしい」
とてつもない矛盾である。
姉、さとりには自分のことがわかってほしくないのに。
もちろん認識自体は可能だろう。
さとりとこいしがいまや違う心の有り様をもっていることを身をもって体験することは可能だろう。頭で数学的に理解することは可能だろう。こいしにだってできているのだから、正常人側から歩み寄れないはずはない。ただ、こいしの場合、境界線に立っていることから狂気も正常も完璧に理解できるのに対して、いくら正常から狂気の側に歩み寄ったところで、自分が正常の側にいることに気づけない。より正確に言えば、自分が正常という名の狂気に満たされていることに気づくことはできないのである。
どうしてといわれれば、こいしはよく瞳の構造を持ち出すことにしている。
瞳は前方に固定されているから自分自身の姿を見ることはできない。それと同じことだ。
したがって、さとりがいくらがんばってもこいしの心の構造を完全に理解することはできないし、さとり自身のことすらわからないのだ。
このことを別にこいしはとがめるつもりはないし、こいしがこいし自身の狂気を理解できることに優越感を感じるわけでもない。ただそうなのだという事実認識がある。それにこいしの精神的な立ち位置はいわば正常と狂気を隔てる壁そのものの上に乗っかっているようなものなので、かなり不安定なのだ。誰かに優越感を感じたり、誰かを強く否認できるほど強い立場にはない。いいことといえば、見晴らしがよいことぐらいだ。
こいしは目の前にいるちっぽけな存在に自分のことを少しだけわかってほしいと思った。
だからこいしはゆっくりと口を開いた。
「つまり、わたしは……お姉ちゃんにはわたしのことがわからないことをわかってほしいのよ」
「それって……」
「そう。言うまでもなく矛盾してる。どちらかといえば正常に近い発想だわ」
正常という名の狂気はいつだって矛盾を孕んだものになるから。
「こいし様はもしかしてさとり様と同じようになりたいんじゃないですか?」
「お姉ちゃんと同じに?」
「普通に」
「普通に。つまり正常という名の狂気にってこと? 多数派になりたいって?」
「よくわかんないですけど。そうです」
「よくわからないのにそうなんて言葉、すごく素敵ね」
こいしはニッコリ笑う。
非常によくできた張りぼての笑いだ。
七十センチは「ひっ」と小さく声をあげて、身をすくませた。ピチューンさせられると思ったのかもしれない。
こいしは少しだけ圧力を下げた。
妖精はほっと息をつく。
「妖精さんは何もしなくてもアンコンディショナルに自然な存在だからそんなことがいえるのよ」
「ふに。よくわかりません」
「少数派になりにくいってこと」
「そうなんでしょうか。たとえば、妖精でもいろいろいますから、パンとクッキーのどっちが好きって聞いたら、クッキーって答える子が多くてパンのほうって答える子は少なかったですけど」
「あなた妖精のくせに頭いいわね」
「それほどでも……えへへ」
「私が言ってるのは存在を賭けなくてはいけないほどの場面における多数派・少数派のことを言ってるの」
「パンもクッキーもすごく重要な問題ですが」
「死ぬか生きるかの問題よ」
「死ぬって一回休みですか?」
「妖精さんの言葉はやっぱり普通とはちょっと異なるみたいね」
「よくわかんないです」
「あなた、クッキーとパンのどっちが好きなの?」
「私は飴ちゃんが好きです」
「そうなんだ」
まあいずれにしろ、こいしの通信規格がかなり特殊なのはまちがいない。
言葉が通じていない気がするのもこいしのせいかもしれないのだ。
「今度お礼に飴ちゃんあげる」
「とってもハッピーです。二個くれるとダブルハッピーセットです」
「二個あげる」
そのときの妖精さんの顔は
^(*'▽')^
こんな感じだったので、こいしは黙って小さい妖精さんの観察に戻ることにした。
あの妖精には伝え切れなかったが、結局死ぬか生きるかの問題にあるとき、『私』自身を伝達するには二つしかないんじゃないかと思う。
ひとつは自殺。
もうひとつはテロル。
こいしはくじけない女の子なので、自殺なんて考えない。やるならテロルである。
妖精の言葉を覚えようとしたのもテロルの一端である。妖精の言葉は多数派が扱う言語とはレベルが異なるところにあることは既に述べた。そしてそのような言葉がこいしを通じて翻訳されれば、多数派が持つ言語の特権性は失われる。翻訳といってもそれは英語を日本語に直すのとは訳が違う。いうなれば四次元の言葉を三次元に直すようなものなので翻案といったほうが正確であろうが、少なくとも幼児言葉しか話していないと思われている妖精が予想よりも遥かに深みのある精神世界を持っていると知ったらどうなるだろう。
その反応を見てみたい。
それがこいしの動機である。
そしてそれこそがこいしの考えついた最も柔らかなテロルである。
5
数日後。
再び夕飯時。
「こいし」さとりはいつものような礼儀正しい口調だった。「鬼さんたちと鬼ごっこをしたそうですね」
「うん、したよ」
確か昨日の出来事だが、べつにたいしたことではない。
しかし、さとりにとってはそうではなかったらしい。
さとりの顔が歪んだ。
「なんて危険な……。鬼さんたちは力が強い種族です。こいしみたいに小さな女の子が遊んでいたら怪我するかもしれませんよ」
「べつにたいしたことないと思うけど。覚りという種族だって力がとびきり弱いわけじゃないし、鬼と昔遊んだことがある人間という種族だって、私たちより弱かったって聞いたことがあるわ。だったら人間よりは遥かに丈夫なわたしたちが危険なわけないじゃない」
「人間は数が多いですからね。ひとりふたりが怪我してもたいしたことないと思われるんです。けど、こいしはひとりでしょう?」
「瞳を閉じた覚り妖怪なんて確かにひとりかもしれないね。でもよくわかんないな。わたしが希少だから鬼さんたちと遊んじゃいけないの?」
「わたしはあなたが心配なんですよ。どことも知れない場所にフラフラと出て行って、いつか帰ってこなくなるんじゃないかと思うと心配なんです」
「お姉ちゃんが心配しても、わたし自身は心配してないし。そう思うのはお姉ちゃんの勝手だけどお姉ちゃんの気持ちの問題だから、きちんと自分で処理してほしいな」
こいしにしてみれば、他人の気持ちなんて汚物と同じである。
自分できちんと処理してほしいというのはそういう意味をこめて言ったのだ。
「こいし……、少しはお姉ちゃんの気持ちもわかってください」
「わかろうとはしているよ?」
「本当ですか?」
「本当だよ」
通信しようと試みているのは本当だ。そのために妖精の言葉を学ぼうとしている。
さとりたちの言葉では達成できそうにないから、妖精の言葉とあわせ技でなんとかわかってもらおうとしているのである。
これはこいしにとっては身を裂かれる思いでもあるのだ。発想としては自殺に近い。社会化する過程をもう一度たどるようなもので、もう一度自分を殺すことに等しい。ただこいしとしては死にたくはないので、自分を殺すとまではいかず言わばちょっと自傷する程度にとどまっている。
こいしがさとりとわかりあおうとするというのはそういうことなのだ。おそらくさとりには理解できないことなのだろうけれども。
さとりは大きなため息をついた。
「あまりわたしを心配させないでください」
「お姉ちゃんが心配してることは知ってるよ。でもどうして心配するのかわからないの」
「たったふたりの姉妹でしょう」
「家族だから大事にするっていうこと?」
「そうです」
「そうなんだ」
こいしは今初めて知ったかのような声をだした。
事実として、こいしが鬼と遊ぶことにほとんど危険はない。
さとりの心配は杞憂である。
ただ、さとりは迫害の経験を色濃く記憶しているため、こいしが自分の目の届かないところで遊ぶことを不安に感じるのだろう。
こいしにもそのことは経験的に理解できるのであるが、事実のほうを優先したほうがよいのではないかと思っている。つまり危険がないのだから無駄に心配する必要なんてないのだ。けれど、さとりはたぶん『心配したい』のだろうという推測も成り立つ。心配することを望んでいるのではないかと考えた。だったら、わざわざ望んでいることを潰すこともない。さとりが心配したいなら勝手に心配させておけばよい。
自分の行動が制限されない限り、さとりの言葉はこいしには無関係なものだ。
「お姉ちゃんは自分が心配なだけなんじゃないかな?」
と、こいしは誰もいないところで独り言をつぶやいた。
その言葉をさとりに言ったら、たぶん否認の言葉が返ってくるだろう。
――まあそれも知ったことじゃない。
というのがこいしがつかみ取れる、自分自身の心の概要である。
家族だから大事にするとか、姉妹で愛し合うことは大切とか、そういった正常人たちの持つ枠組みは――
こいしには存在しない。
6
それからは特に記すべきことのない日々が続いた。
妖怪の生は単調だ。こいしは冒険好きな女の子だから、できるだけ単調でないように工夫をしているが、いくらこいしが努力しても妖精の言葉を物にするには時間がかかった。
たとえば、弾幕を二発続けて撃つ場合と、単発で撃つ場合では選択される文脈が異なる。しかし単発かそうでないかはいくらか時間を見定めないとわからないし、じっと妖精を観察していてもなかなか機会が訪れないこともある。学びには時間がかかった。
しかし、今ではもう過去の出来事だ。
こいしは妖精の言葉を十分に日常言語として使いこなせるぐらいにはレベルアップしていたし、七十センチクラスの例の妖精も太鼓判を押してくれた。本来ならここで小さな妖精と会話のひとつでもしてみるべきなのだろう。
けれど、こいしは別段妖精と話したいから妖精の言葉を学んだわけではない。なので結局、小さな妖精たちの交流はないままだった。
こいしはこれからどうするかを考えて、小さな部屋の大きめなベッドのうえでころころと転がった。多くの人がそうであるように、これからのことについて考えるのは、それが希望に包まれているイメージがあるならば幸福である。
妖精の言葉を覚えて、さとりと通信できるかもしれないというのはこいしにとっても希望であることに変わりはない。
翌朝、こいしはお気に入りの帽子をつけて、部屋の外にでた。
あいかわらず、お燐が地下でなにやらやっていたので、こいしは調子よく手をあげた。
「ん。こいし様。危ないですよ。ここらは熱いですからね」
「大丈夫よ。それよりお燐聞いて。わたしついに妖精さんの言葉を覚えたのよ」
「妖精さんの言葉をですか? 本当に」
「本当よ。ずいぶんと時間がかかってしまったわ」
「あれから三ヶ月ぐらいしか経ってないように思えるんですが」
「あれ、それくらいしか経ってないの? ふうん集中していたからわからなかったわ」
「それで?」
「それでって?」
「それでどうなさるおつもりなのかと」
「あら、言ってなかったかしら」
「はあ。聞いていませんけど」
「簡単なことよ」こいしは胸をそらして答えた。「今から地霊殿に対してテロ活動するの」
「て……テロ活動ですか?」
お燐の顔には大量の汗が浮かんでいた。
推測される感情は焦りだ。
「べつに破壊活動するわけじゃないわ」
「破壊活動じゃないというと、なにか悪戯でもするつもりですか。さとり様に怒られますよ」
「怒られてもかまわないもの。だってこれは私の存在を賭けた闘いなんだもの」
「よくわかりませんが……、あまり無茶はしないでくださいよぉ」
「無茶をしないで勝利を得られるわけないじゃない。既に戦線は崩壊して敗北寸前なのよ。こいし隊は」
「はぁ」
「まずはお燐からテロるね?」
こいしの気配が妙に高まっている。いつもは空気のように薄い気配しかないのに、今は地獄の熱気のように熱い。
「あ、あのこいし様。意味がよくわからないんですが」
「意味について思い悩むのは意識の悪い癖だよ。結局、思い悩んでも無意味かもしれないじゃない」
こいしが指先を重ね合わせた。
ギュウウウウウウンとエネルギーを充填する音がする。
お燐は何かを言おうとしたが、既に遅い。
桃色の閃光がお燐の身体を包んだ。
こいしのイドは解放されていた。
久方ぶりに覚えた新しい言葉に、新しい自分を表現する方法に、瞳を閉じたこいしにしても抑制をこえてイドがあふれ出している。
なにかしなくてはいけない気分。
そう――お姉ちゃんにテロ活動しないと。
お姉ちゃんのことを好きでなければならないという枠組みはこいしには存在しないが、枠のない不定形の想いがないわけではない。
だから、こいしは全力でさとりのもとに向かった。
地霊殿のなかを疾走する。
階段をかけあがり、ペットとぶつかっても気にせずに走り続ける。
お姉ちゃんがいた!
テーブルにちょこんと座って、なにか書類を書いている。
小さな背中がちょっとだけ猫背になっていて、指先はすらすらと白い書面の上を走っていた。
「お姉ちゃん!」
さとりが振り返る。
こいしはそのほんの少し前に、たまりにたまりきった想いのたけをぶちまけた。
――もちろん妖精の言葉で。
言葉で表現するのは難しい。
色はピンク。
見ようによってはイチョウの葉のような形。
数はたったの一個で、風船のような空虚さ。
こいしが放ったそのひらひらとした弾幕は、さとりのほっぺたあたりにプチンとあたって儚く消えた。
さとりの顔は
(?+_+)
こんな感じだった。
こいしとしてはすぐにでもわかってほしいところであったが、こいしでも妖精の言葉を理解するのに三ヶ月もかかったのだし、いますぐわかれというのは無理があるところなのだろう。そもそも既存の言葉で思考している者が妖精の言葉を理解できるかどうかも怪しい。ただ、こいしの言葉は妖精の言葉と人間の言葉をかけあわせたものだった。存在の深いところではもしかするとなにかしらを感得できるかもしれないし、希望を捨てるにはまだ早い。
なにより――
こいしがハート型の弾幕を放ったのは今日が初めてのことだったのだから。
オチが素敵だったのでそんな野暮はしないことにした。
100点。
この後に地霊殿があるのだろうか
こいしちゃんかわいいなぁ
ご馳走様です
でも話のオチには敵わなかったよ。
こんな話を書けるようになりたい。
良い話でした
大人が、早くこっちに来いって手を引くのがひどく傲慢で理不尽な考えに思えたりして。
もう子どもの頃の自分とは解り合えないんだろうなぁ 。