01.
甘い香りと共に、クローブの葉が揺れている。
吸血鬼の住む館にも、窓はある。一つの階におおよそ十を超えるくらいの数が備え付けられており、換気のためか今はその内の数箇所が開いていた。
フランドールの部屋は地下にあり、窓はない。廊下にも勿論窓はなく、外の景色を見る事は出来ないので、普段部屋にいる時はそれが感じ取れない。しかし、フランドールの自室と地上の階へ向かう階段の丁度中間辺りに位置する図書館の扉を開こうとしたとき、一つ上の階から緩やかに流れてくる空気と共に、その匂いは感じ取れた。
この幻想郷の暑かった夏もいよいよ終わろうとしていて、思い出したかのようにようやく短い秋を迎えようとしていた。あと一ヶ月もすれば、窓の外には雪がちらつくのだろう。
この「紅魔館」と呼ばれる広い屋敷の、地下の端の端にある彼女の部屋を訪れるものは殆どいない。唯一の血縁関係である姉とそれに仕える人間のメイド長を除けば、せいぜい迷子か度胸試しをする妖精メイドが週に一、二匹、部屋に続く長い廊下の半分ほどまでやってくる程度である。
「酷いわね。友人の私はそこに入れてくれないのかしら」
「あー。どちらかと言うと、私が来るじゃん」
ふと声をかけられて、フランドールは本から顔を上げた。顔はいまだに渋いままだ。
現在フランドールがいる場所は、彼女の私室と同じく地下にある、大図書館である。趣味の少ない引きこもりがちな彼女がする事と言ったら、専ら読書に限る。自室にも本がないわけではないが、数え切れないほどの本が収納されている魔女の図書館には遠く及ばない。そんな訳で、フランドールが私室を出る際には、ほとんどがこの大図書館と言う事になる。決して一人で愚痴を零すのがみっともないと思ったわけでは、ない。
ちなみに、さきほどまでフランドールが読んでいた本は彼女自身の持ち物である。
「レミィが泣いていたわよ。『フランが朝食を一緒に食べてくれない』って」
レミィとは、姉のレミリアの事である。この図書館に住む魔女、パチュリー・ノーレッジとレミリア・スカーレットは旧知の仲で、この土地に三人で越してくる以前からの付き合いだ。
「いや、吸血鬼に朝食を求めるのが間違ってるでしょ。しかも本当に文字通り朝に起こしやがって。なんで規則正しい生活をしてるのさ、あいつは」
吸血鬼は夜行性の種族である。しかし姉のレミリアは、この土地、幻想郷に来てからと言うもの、とにかく早寝早起きの習慣が身に付いてしまっているのだ。
「いいじゃない、健康的で」
「人間だったらそうだろうけど、吸血鬼的には不健康。と言うか、睡眠摂らない魔女が言うかなそう言う事」
持っていた本をぱたりと閉じてそう返す。別に機嫌を悪くしたわけではない。単に本を最後まで読み終えただけのことだ。
そして立ち上がり、何冊か本が置かれた机の上に、無造作に本を置いた。これはこの図書館においてのルールなのだ。
数多くの蔵書が並んでいるこの図書館では、本の持ち出しは禁じられている。加えて、本棚の前での立ち読みも禁じられているので、本を読むにあたっては、本棚から本を抜き出し、部屋主―あくまで家主はレミリアで、この図書館は彼女の私室なので、そう言う表現になる―のパチュリーの近くにある椅子に座って読まねばならない。そして読み終えた頃にはもれなく元の返す場所を忘れる所までがセオリーなのだ。
そこでパチュリーの使い魔である司書の提案により、最近になって置かれたのがその机である。小ぶりの机に置いてある本は、いずれ司書が本来あった場所に戻す本である。いわば返却リストと言っても差し支えない。最初は図書館に家具を置くことに難色を示していたパチュリーだったが、返却机に置いておけば勝手に司書が片付けてくれるため、今では満足している。
「あら。その本貴女のでしょう?」
「まぁ、そうだけど。もう読み終わったし飽きたからあげるよ」
「またどこかの白黒が聞いたら喜びそうな事を」
「あれにあげるくらいならそこらの妖精メイドにでもあげるっての。まぁ、渡す前に逃げられるだろうけど」
「つまり私は妖精メイドと同じということね」
「やーそうは言ってないんじゃないかなー。まぁあれだ、お近づきの印ってことで」
単に持って帰るのが面倒になっただけである。が、そう言おうものなら今度はどう言う返しが待っているのか分からないので、適当に誤魔化したところで、フランドールは座っていた椅子を持ち上げた。
「ねぇパチェ。何度も聞くけど、なんで椅子に座らないと駄目なのさ。別に床でもベッドでも良いでしょうに」
パチェ、というのは、パチュリーの愛称である。考案し、そう呼んでいたのは長らくレミリアだけだったが、ここ最近になってフランドールもまた、そう呼ぶようになっていた。
「元来読書というのはそうあるべきなのよ、フラン。例えばあの人形遣いのように知識を得る為に文字列を追うのであれば別だけれど、貴女はそうじゃない。娯楽として本を読んでいる。ならばそれはそれに相応しい形を伴っていなければならない」
パチェ、フラン。そしてレミリアはレミィ。それぞれに愛称があるが、フランドールが姉の事を愛称で呼んだ事は、唯の一度もない。全力で物事を楽しみ、全力で人を愛するレミリアとは違って、フランドールにはそれなりにこっ恥ずかしさという感情がある。なので、そんな姉に対しては、少しの尊敬と少しの恨みをこめて、「お姉様」と呼ぶようにしているのだ。
「私としては暇が潰せればなんでもいいんだけど。別に本が好きで好きで仕方ないわけじゃないし。っていうか、なんで椅子に座ることが娯楽として相応しい形なのさ」
椅子ごとパチュリーの背後に移動して、背もたれに顎を乗せる形で跨ぐように座りなおした。小声な上に早口なパチュリーの言葉は、注意しないと聴きそびれてしまう。加えてやたらと歪曲な表現をするので、フランドールとしては時折頭を痛める事がある。とはいえ、もったいぶった様な遠まわしな表現は、姉のレミリアも好んでするので、いくら頭を悩ませても無駄なのだが。
「その表現は正しくないわ。それでは全ての娯楽が椅子に座って行われるべき行為になってしまう。あくまで私が言いたいのは読書と言う事に関してのみよ」
羽ペンをさらさらと動かしながら、淀みなくそう返す。恐らくは魔女として何かの研究をしている最中なのだろう。この図書館に数多く並ぶ蔵書の中にも、彼女自身が手がけたものは少なくない。しかし別段それに興味のないフランドールは、内容については尋ねなかった。吸血鬼のフランドールには、魔女であるパチュリーの研究内容など分かるはずもない。また、いずれは本として編纂されてこの図書館に並ぶであろう物を今分からないままに尋ねても無意味である。
更に付け加えて言えば、もし今している研究の内容が本棚に並ばないのであれば、それはここで内容を尋ねても答えてはもらえない程度の秘密事であるからだ。つまりはどちらに転んでもフランドールとしては、ここで尋ねる意味はないのである。
「なるほど、全く分からん。パチェの言う事は全く分からん」
「それで結構。魔女の言う事に耳を傾けたら駄目よ。人形にされてしまうわ」
「でも、友人なんでしょ」
ほんの一瞬だけ、羽ペンが止まった。気がした。
が、それも本当に一瞬の出来事で、フランドールが何かを言おうとしたときには既に、先ほどまでのパチュリーに戻っていた。
インクが紙をすべる音だけが、二人の間に流れていく。
「…………」
「…………」
「…………ねぇパチェ」
「…………なに」
「そこで黙られると、恥ずかしいんだけど」
「ふふっ」
思わず二人して、笑いあった。
そうして反対に向かい合わせた椅子の背もたれに、フランドールは体を預けなおした。こつんと頭が触れ合い、作業の邪魔でもしたかと一瞬不安になったが、パチュリーは何も言わない。直後に羽ペンをペンスタンドに挿す音が聞こえ、フランドールは何故だか少し嬉しくなった。
「そういえば、フラン。あなたさっき本を読んでいるとき、物凄く神妙な顔をしていたけれど」
「あぁ、あれか」
そう言われ、頭をパチュリーに預けたまま、フランドールはちらりと返却机に目線をやった。
彼女が先ほどまで読んでいた本は、人里に住むとある少女が書いたもので、この地幻想郷についての説明や住民についての記述である。思慮の出来る妖怪はまだしも、下級の妖怪や思慮の浅い妖精などは、時折人間に手を出すことがあるのだ。それは単にイタズラと呼べる程度のものから、時には人間の命を奪う程度の出来事に発展する事もままある。なので、そういった最悪のケースにならないようにと、こういった書籍が出回っているのだ。
尤も、そこまでの事態に至ることは少なく、大抵は妖精が人間にちょっかいを出して返り討ちにあうのがこの幻想郷の日常なのだが。
「何? 初めてあの人間にあったときの事でも思い出した?」
「ん、そうじゃない。いや、あれも確かに嫌な思い出だったけど」
そう言われてフランドールは著者の少女に初めてあった時の事を思い出した。
著者の少女としては昼下がり、つまり吸血鬼のフランドールにとっては夜の出来事である。いい加減に眠りたいのにも拘らず、矢継ぎ早に質問を重ね、挙句の果てには羽を勝手にむんずと掴まれでもしたら、誰だって良い思い出にはならないだろう。
「じゃあ、あれかしら。その本で私もレミィも三ページつかって紹介されていたのに、貴女だけ二ページだったのが不満とか?」
「そんなみみっちい理由じゃないっての」
「でも門番も二ページなんだからいいじゃない。まぁ咲夜は四ページだったけれど」
「舐めてんのかあのメイド」
「しかも『英雄』欄で紹介されていたわね」
「Oh……」
幻想郷で定期的に起こる異変を、フランドール自身が体験した事は一度もない。厳密に言えば、過去に一度、姉のレミリアが異変を起こした起因に自身が関わっているらしいと言う話を耳にしたが、事の詳細を確かめたわけではないので分からない。フランドール本人からしてみれば、珍しく騒がしい館内が気になり廊下に出たら見知らぬ白黒にぶっ飛ばされた、それくらいの出来事である。更に翌日に紅白の巫女に有無も言わさずぶっ飛ばされた時は一週間ほど自室から一歩も出ない事で無言の抵抗を示し、本気で姉を心配させたが今では良い思い出のはずだ。多分。
そもそもとして家から出ない二人には、まるで縁のない単語である。姉のレミリアやメイドの咲夜も以前は異変に首を突っ込んだりしていたが、ここ最近はそうでもないようだ。まぁ、仮にフランドールが異変に関わるとしたら、当然それは館内で起こらなければ意味がない上に、館内で解決できる異変など解決したところで、他人の目には微笑ましい日常の一ページにしかみえないだろう。そんな甘い家族計画はフランドールとしては真っ平御免である。
いや、そもそもフランドールからすれば異変なんて紙上の出来事であってほしいのが本音だ。何事も平穏無事なのが一番である。
それを願い続けられるほど精神がまともであるとは、自分でも思わないけれど。
「じゃあいったい何かしら。皆目見当が付かないわ。もしかしておねむ?」
「コンティニューできなくするぞ。……別に、本に対して何か思ったわけじゃないよ。ただ、匂いを思い出したんだ」
「匂い?」
「そ。匂い」
クローブの、甘い匂い。
くだらないやり取りをしながら、フランドールは立ち上がった。そして先ほど机に置いた本を再び手に取る。そして今度は自分が記されているページではなく、その一つ前のページを開く。そこには、不敵そうにしている姉がいた。
「……貴女は、貴女よ」
「ただ今戻りました。んあ。妹様、おはようございます」
パチュリーがそう言うと同時に、図書館の扉が開いた。司書である小悪魔(名前はないらしい)が戻ってきたのだ。
ぺこりとお辞儀をする小悪魔に、片手でおざなりに返事をするフランドール。その反応が気に入らなかったのか、小悪魔がフランドールの元へと歩み寄った。
「いけません妹様、読書はきちんと座ってなさってください。今紅茶をお持ちいたしますので」
「あー、いや、別に良いよ。そろそろ戻るつもりだったし」
「まぁまぁそう仰らずに。ところで何をお読みになられていたんですか? ……んん。これはお嬢様じゃないですか。さすが妹様、読書をしながら姉妹の絆を確かめるなんて、私涙がちょちょぎれる思いです」
「今すぐ紅茶を取りにいけ」
「かしこまりました」
何故最後だけ無駄に良い声だったのかは分からないが、小悪魔は踵を返して再び図書館を後にした。
「もうちょっとまともな司書はいないのか」
「あれでも仕事はそこそこするから」
「そこそこかよ」
「それでいいのよ。何もかも完璧にやられたら息が詰まっちゃうわ」
「今頃咲夜がくしゃみしてるな」
「あれもあれで結構天然入っているけれどね」
今でも時折変てこな事をしては、主人を困らせているらしい。よもやこの図書館に福寿草を持ってきたりはしないだろうが。
「あ」
と、そこでフランドールが何かを思い出したように声を上げた。
「そう言えばさ、さっき小悪魔が来る前、なんて言ったのさ」
「……内緒」
振り返ってパチュリーの目を見ると、何故だか逸らされてしまった。閉じていた本を開き、羽ペンを手に持つ。こうなったら頑として言わないであろう。思わずフランドールはため息をついた。
02.
陽は完全に落ち、夜になった。地下に位置する図書館には窓がないのでそれを確認する事は出来ないが、さきほど摂った食事が今日初めてである事を考えればきっと間違ってはいないはずだ、とフランドールは一人結論付けた。
くどいようだが、フランドールは真っ当な吸血鬼である。
「この場合間違ってるのは、夜にいそいそとベッドに向かうあいつよね」
二度断るのはさすがにどうかと思い、今度は共に食事をするべくリビングに向かったのだが、そこに待っていたのは嬉々として納豆を混ぜる姉の姿だった。しかもご丁寧にきちんと箸を使って混ぜている。見れば食卓に並んでいるのは白米やら味噌汁やら、西洋らしさは微塵も感じられないものばかりだ。テーブルの花瓶に生けられた数本の薔薇も、心なしか申し訳なさそうに頭をたれているようにも感じられる。
「おお、愛すべき妹よ。やはり私の所に来たか。これもきっと運命だな」
帰りたい。今すぐにでも部屋に戻って小説の世界に飛び込みたい。そう思い、フランドールは先日、パチュリーの司書から面白そうな小説を貸してもらった事を思い出した。そうと決まればこんな所に用はない。少々空腹にはなるだろうが、ここで姉の芝居を見るよりかは、遥かに有意義である。そして踵を返して帰ろうとしたが――
「妹様、おはようございます。紅茶でよろしいですか?」
「あー、うん」
「それは良かった。丁度収穫した丁子(チョウジ)がございますので、オレンジスパイスでよろしいですか?」
「丁子? ……あぁ、クローブか。そんなもんいつ栽培なんて始めたのさ」
「今年の春からですわ」
いつだったか咲夜に紅茶のリクエストを受けた際に、思いつきで言ったのがそれだった。フランドールとしてみれば、館にはない物をリクエストして少し困らせてみようかと思った程度だったのだ。しかしそれから数日後、紅魔館の外壁をゆうに超える木を目の当たりにすることになり、その際にフランドールはこのメイドに冗談を言ってはならないと固く心に誓った。
それにしても、春と秋の年二回収穫出来るクローブはまだしも、オレンジはまだこれからだろうに、とフランドールは言おうとしてやめた。このメイドに時間や季節の事を言っても無駄である。でなければまだ収穫しただけで乾燥させなければならない物を使おうとしないだろうし、そもそも最初に実が付くのに十年かかるクローブの木から一年で蕾を収穫しないだろう。時間を操る程度の能力なんてインチキそのものだと思っているフランドールは、咲夜の話の半分以上を話半分に聞くようにしている。要は突っ込んだら負けなのだ。
「それじゃ次はナツメグでも育てるか?」
「あら、それも良いですわね」
「おい咲夜、ここまで完璧な和の食卓にそんな香りのきついもん持ってくるんじゃないよ」
と、そこでレミリアが口を挟んだ。表情こそ引き締まっているものの、やっている事はしまっていない。というか、まだ納豆を混ぜている。
「納豆の匂いよりは遥かに勝るでしょ」
「いやこれが慣れてみるとなかなか」
「慣れたくないよそんなの」
「弱りましたね……なら、こうしましょうか」
なにやら咲夜が閃いたようである。ただし、咲夜の思いつきはこの館では評価されていない。もっぱら不評である。ご丁寧にぴんと立てられた人差し指が不吉に見えて仕方ない。
「以前お嬢様にお出しした福寿草がまだ残っていますので、それを……」
「ミルクティーだ咲夜、私の妹に早くミルクティーを持って来い」
「かしこまりました」
言い終わるのと同時に、咲夜が姿を消した。あれを皮肉や悪意でなく、純粋に天然で言っているのだから恐ろしい。
「もうちょっとまともなメイドはいないの?」
「あれでもここでは一番優秀だよ」
「あれで一番なのか」
「あれで良いのよ。真面目すぎるのがいても息が詰まるからね」
はて、どこかで聞いたようなやり取りだ。
溜息を吐きながら椅子に座るフランドールの前に、すっと紅茶が差し出された。インチキメイドのやる事には、もう驚かない。
「咲夜、私にも」
「かしこまりました」
「……」
和がどうのこうのじゃなかったのかよ。
とはいえ、ここでそれを指摘しようものなら、きっと嬉々とした顔でこのメイドが福寿草を煎茶にするだろう。仕方無しにフランドールはミルクティーを一口飲んだ。アッサムかウバかは分からなかったが、別段そこにこだわりを持たないフランドールにはどうでも良いことだった。いや、もしかしたらこのメイドのことだから、当初淹れようとしていたオレンジスパイスに使おうとしていたであろうディンブラをミルクティーに回したのかもしれないけれど。或いは、洒落を効かせて、「オレンジスパイス」と「オレンジペコー」を引っ掛けたのかもしれない。だとしたら、それはそれで構わなかった。ディンブラでミルクティーを淹れたのなら、自然使われるのはオレンジペコーだ。
それも、砕けた壊れたオレンジペコー。
ブロークンオレンジペコー。
(私にぴったりの、紅茶じゃないか)
「咲夜、スプーン」
「かしこまりました」
「……」
箸使えないのかよ!
感傷に浸るのをやめてツッコミをしかけたが、すんでの所でフランドールはとどまった。いや、別にツッコミを入れても問題はない(むしろレミリアは高確率で喜ぶ)のだろうけれど、何故だかそうしたら負けな気がしたのだ。
箸は納豆を混ぜるのに使っただけで、結局姉はスプーンでもしゃりもしゃりと納豆ご飯を食べていた。非常に食欲が損なわれる光景である。
「妹様は和食になさいますか? それとも、洋食にいたしますか?」
「是非とも洋食で頼むよ。間違ってもあの粘っこい奴を持ってこないでね」
「それはそういうフリでしょうか」
「フリじゃねぇよ」
「こらフラン、言葉遣いが悪いわよ」
まず自分のメイドを何とかしろよ、と思ったが、もう何も言うまい。さっさと食べてさっさと地下に戻る事にしよう。フランドールは心の中でそう一人結論付けた。
出てきたのは普通のトーストとベーコンエッグにコーンスープだった。僅かながらに福寿草のスープでも出てくる可能性に怯えていた自分が恥ずかしい。
ナイフでベーコンエッグを小分けにしながら、ふとフランドールは姉に尋ねた。
「と言うか、ここで私が洋食を食べたら結局和の香りとやらが薄まるんじゃないの?」
「……」
「聞いてる?」
「……頭良いな、お前」
「馬鹿の集まりかここは」
良い加減に耐え切れず、ついにツッコミを入れてしまった。
「ちょっと、誰が馬鹿ですって? 姉に対してずいぶんな言い草ね」
「主にお姉様に言ってるんだがな?」
「ぐむ。せめて言葉遣いをなんとかしなさい」
「誰のせいだと思ってる」
「妹様」
「あん?」
姉の抵抗を無碍に突っぱねたところで、伏目がちに咲夜が申し出る。さすがに自分も馬鹿の集まりに括られるのには抵抗があったか。
「その、せっかく半熟にした黄身を容赦なく真っ二つにするのは何故でしょう。何か目玉焼きに恨みでもあるのですか?」
「ねぇよ、癖だよ。悪いかよ」
悪かったな、食器が汚れる食べ方で。最初に全て一口大にしたほうが楽なんだから良いだろ。
フランドールの言葉に、再びレミリアが窘める目を向けたが、これでも我慢したほうだ。主従して妹にツッコミ役をやらせたのだから多少の反抗くらい認めて欲しい。
まぁ、スれたのは今に始まった事じゃあ、ないけれど。
その後もぶちぶちと文句の言い合いをしながら、二人は食事を続けた。そうして先に食べ終わったのは、フランドールであった。必死に味噌汁の大根をフォークで掬おうとしている姉を尻目に、一足早く食べ終えたフランドールは、ミルクティーも飲み干した。
「ごちそうさん」
「紅茶のお代わりはいたしますか?」
「貰う」
「かしこまりました」
言うや否や出てくるオレンジスパイスティー。なんというか……なんというか。
「……結局出てくるのか」
「今更和も洋もないと仰ったではありませんか」
「だからってなぁ。今から胃を広げてどうしろと」
「人間でも襲いに行ってみてはいかがでしょう」
「襲って欲しいのか?」
「あらいやだ」
こっちだって願い下げだ、と言いながら一口飲んだ。オレンジの果汁のおかげで熱さが和らいでいるので、飲みやすいのは確かである。
「ちなみに」
「あん?」
「この丁子を収穫したのは、お嬢様です」
「ごふっ」
味噌汁を飲んでいた姉が、むせた。
「収穫自体は簡単ですが、蕾を傷つけないようにしなければならないので、それはそれは丁寧に摘んでおられましたわ」
「うわー。似合わねー。心底似合ねー」
空を飛べる姉が蕾を摘むのは難しくないとは言え、やはり似合わないものは似合わない。椅子にふんぞり返って長くない足を組み合わせている方がよっぽど形になっている。
悪びれもせずに口元を布巾で拭く咲夜の頭を、わしゃわしゃと掻きながらレミリアが騒ぎ立てる。よっぽど悪い所にでも入ったか、時折泣きながら咳き込んでいるが、もはや何も言うまい。
「余計な事は言わないで良いのよ!」
「そんな、余計だ事だなんて。妹様の為だと仰っていたじゃありませんか」
「だから尚更言って欲しくないんじゃない! 察してよ! 貴女私の従者でしょう!?」
「ですから、妹様に教えようと思ったのですが」
「なんでそうなるの? ねぇなんでそうなるの?」
肩を上下に揺さぶられながら本気で困っているメイドを見て、思わずフランドールは頭を抱えた。悪気がない分尚更手に負えないと言ったのが今なら痛いほど良く分かる。
これ以上振り子時計の様に揺れるメイドの三つ編みを見ていても埒が明かないので、フランドールは地下に戻る事にした。
「待ってフラン、今日は――」
何か背後で姉が言っているような気がしたが、恐らくは言い訳めいた尊大なわがままだろうと決め付けたフランドールは、そのまま足を止める事なく食堂を後にした。
03.
図書館の扉を開けると、そこには珍しく客人がいた。
「げ。なんであんたがいるのさ」
「よう噂の妹妖怪。ご機嫌麗しゅう」
「たった今不機嫌になったよ」
訂正しよう。白黒の泥棒がいた。
霧雨魔理沙。この図書館のルールを唯一守らない、厚顔無恥で自信過剰な生身の人間だ。無断で立ち読みを始めては司書の小悪魔に白い目で見られ、無断で持ち帰ろうとしてはパチュリーにとがめられている。ちなみに借りて行くだけで、返しはしない。スペルカードルールと言うものがあるにせよ、実力行使をすれば多少は懲りるのではないかとフランドールは思っているのだが、肝心のパチュリーが動かないのだから、ただの友人でしかないフランドールにはそれ以上なす術はない。
尤も、フランドールとしてみれば、過去に一度弾幕勝負をして以来はこうして図書館で顔を合わせるだけで特に親しいわけではないので、長編の小説を読み始めた際に間の巻を持って帰るなどと言う事さえされなければ、別段白黒が何をしようと興味はないのだが。
「なら安心だな。私は小説なんぞ読まん。腰をすえて本を読むのは苦手だしな。ましてや、こんな辛気臭いところでじっくり読書なんてしてたら、カビが生えちまう。
それに、例え本の中でも私以外の奴が活躍するのは許せん」
「それが良いんじゃないか」
「どこが良いんだよ。自分以外がヒーローの話なんか読んで」
「現実を見ろってことだよ」
「夢も希望もないな」
「それは元からだ」
適当に本棚の前に立ち、適当に本を抜き出す。それはどうやらシリーズ物の推理小説らしく、巻数を見るに丁度中間くらいのようだ。全く読んだ事のないものだったが、フランドールは躊躇わずにそれを持って椅子に腰掛けた。知らなかろうが続きだろうが、本を読むことには変わりはない、と本人は思っているからだ。まぁ、そのスタンスに賛同してくれる者に未だフランドールはあった事がないが。
目次を斜め読みで飛ばしながら、フランドールは魔理沙に尋ねた。
「で、なんでまたこんな時間に」
図書館の時計は午後七時を回ったところだ。夕方に食事を摂った後、自室に戻り小悪魔に借りた小説を切りの良いところで切り上げたフランドールが訪れたのが、図書館だった。
ついこの間までは猛暑に見舞われていた幻想郷も、この数日であっという間に一日の平均気温を十数度までに引き下げた。フランドールの部屋は地下にあるので、暑さは感じないがその反面寒さが良く響く。ましてや日中は寝ている彼女である。嫌が応にも寒さを感じずにはいられない。
その為、同じ地下にあってもパチュリーの魔法で一定の室温に保たれたこの図書館は、これからの時期にありがたいのだ。
「そりゃお前、ここの主が宴会を開くって言ったからだな」
「ふぅん」
別段興味ないので聞き流す。小説の内容は酷く陳腐で、ありがちな密室にありがちなアリバイトリックを突き崩す所らしい。よりにもよってその密室が地下室なのは、果たして何の因果だろうか。
「妹様、コーヒーでもよろしいですか?」
「ん。あぁ、別に良いよ。ブラックで」
何が理由かは知らないが、小悪魔はコーヒー派らしい。
「それは良かったです。この館でコーヒーを断らないのは妹様だけですから。私は肩身が狭いです」
子供舌の姉に甘党のメイドが相手では、コーヒーの立つ瀬はない。
「あいつはまだしも、咲夜まで子供舌だとはねぇ」
「おまけに猫舌なんだそうです」
ちなみにパチュリーは、そもそも飲まない。捨虫の魔法、いわゆる飲食を捨てた魔法遣いの彼女にとっては、あってもなくても良い物なのだ。十回誘えば一回は首を縦に振ってくれるだろうが、その程度の反応である。特別好き嫌いがあるわけではないので何を勧めても勧めなくても大して差はないのが更に切ない。その為、この図書館でコーヒーを飲むのは、大体は小悪魔で、時折それに付き合う程度でフランドールが加わるだけである。
「お前は行かないのか?」
「行かない」
視線は本に落としたまま、魔理沙に短く返す。フランドールとしてみれば、まだ居た事が不思議なくらいだ。
「そっか。なら仕方ないな。それじゃ私は行くとするか」
空いているほうの手でひらひらとそれに答える。やがて扉が閉まり、再び静寂が図書館に訪れた。そこで初めてフランドールはパチュリーがいないことに気づいた。とはいえ、何も驚く事ではあるまい。姉が開いた宴会に友人が参加するのは当然だからだ。もしかしたらあのパチュリーの声量だ、聞き逃していたのかもしれない。そう考え、特に気にすることなくフランドールは再び本に視線を落とした。
と同時に、どこからか椅子を持ってきたのか、小悪魔がやってきた。右手にコーヒーカップを持ち、左手には椅子を持っている。そして脇には本を一冊抱えていた。
「妹様、ご一緒してもよろしいですか?」
「んー。……『神々は渇く』。革命本か」
「ええ。ちょうどコーヒーを淹れたので、これにしてみました」
「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、だっけか」
「天使のように純粋で、愛のように甘い、までですね。良くご存知で」
「伊達に引きこもっちゃいないよ。でも確かその人って革命家じゃなくて政治家だったような」
「もう、詳しいですね。でも教会の人間でありながら反カトリック派でしたし、クーデターの陰謀にも参加してましたし、ナポレオンを失脚させていますからね」
「あれはどちらかと言うと裏切りじゃんか」
「そうですけど」
苦笑しながらコーヒーを傾ける。彼女もブラック派のようだ。
そこで会話は途切れ、ページをめくる音とコーヒーをすする音だけが、図書館に拡散していく。他に感じる事と言えばコーヒーの香りと温度、それに本と交互にフランドールの表情を見る、小悪魔の視線だった。
鉄製で出来た扉の鍵穴やドアの隙間でもなければ、秘密の抜け穴があるわけでもない。はたしてこの密室の正体はなんだろうか、と考えながら、フランドールは小悪魔に尋ねた。
「この館の主は私じゃないよ」
「ふぇ?」
「さっきからちらちら私の事見てるからさ。革命でもするのかと思って」
「いえ、そういうつもりでは。あぁ、でもちょっとは夢見た事ありますよ。もし私が……っていうのは」
肩を竦めながらフランドールは次のページをめくった。目立った外傷のない被害者の死因は、どうやら心臓麻痺のようだ。現実的に考えれば病死なのかもしれないが、それでは推理小説として成立しないだろう。これは娯楽のための推理小説であり、被害者には被害者になる故と理屈があるのだ。
「まぁその叶いそうにもないささやかな野望については聞かなかったことにしてあげるよ。んで?」
「ああ、えっとですね」
尋ねながらも、フランドールはおおよそ小悪魔の言いたい事が分かっていた。
コーヒーの水面に映った表情は、酷くつまらなさそうにしている。それが何故なのかは、考えないようにした。
「宴会、行かれないのですか?」
予想はずばり、当たっていた。それくらい、ちょっと考えれば分かる事だ。やはり自分は探偵にも主人公にもなれないな――心の中でフランドールは一つ、つぶやいた。
先程の白黒の言葉は、裏表のないまっすぐな思いつきなのだとしても。
パチュリーの無言が、自分の意思で来て欲しいという思いだとしても。
小悪魔の揺れる瞳に、自分を待ちわびている姉の姿を映したとしても。
それでもフランドールは、その言葉に頷くことが、出来なかった。
分かっている。誰も自分を嫌ってなどいないことくらい、フランドールにも、分かっている。館の外壁を越えるクローブの木が誰のためなのかくらい、痛いほど良く分かる。きっとあのメイドは本当にナツメグの木を植えようとするだろう。数年かかる成長期などすっ飛ばして、あっという間に樹齢十年になるのだろう。そうなれば、日傘をさしながら自分の姉がそれらを見上げている姿も、容易に想像できた。
「妹様……」
温くなったコーヒーを一気に飲み干し、そのまま机に置いた。別段強く置いたつもりはなかったのだが、二人しかいない静かな図書館に響き渡るには十分だ。その音を聞いて、思わず小悪魔は口を閉じた。フランドールとしても、これじゃまるで拒絶したみたいじゃないか、とも思ったが、それで会話が終わるなら、きっとそれも悪くないのだろう。特に弁解するわけでもなく、再び次のページをめくった。
「……コーヒー、お代わりいたしますか?」
「……ん」
空のコーヒーカップを、小悪魔に渡す。何か言いたげな表情を浮かべたまま、しかし何も言わないままに小悪魔は踵を返していった。今ならため息を吐いても誰にも聞かれる事はない。そう思い、フランドールは一つ息を吐いた。締め切った部屋の重い空気を吸い込んで、ぐっと言葉をこらえる。
「お待たせいたしました」
「ん」
三ページ分の焦燥の後に、コーヒーの香りを連れて小悪魔が戻ってきた。今度は小悪魔の目を見ずに、左手だけを差し出す。しかしいくら待っても、フランドールの左手は宙に浮いたままだった。そこでようやくフランドールは顔を上げ、そして驚いた。
「妹様」
「……」
眉根を寄せ、垂れ目の切れ端に浮かべた涙が今にも頬を伝って落ちそうで、慌てたフランドールは思わず立ち上がった。その衝撃で本は床に落ちる。もしこの場にパチュリーがいたらきっと怒っていただろうが、フランドールにそんな事を考える余裕はなかった。震えている小悪魔の手がコーヒーカップを落とさないように、両手でそれで包み込んだ。コーヒーの温かさと小悪魔の手の柔らかさなど、考えないようにした。
「そんな顔なさらないでください」
「え」
この至近距離で自分より背の高い小悪魔の顔を見るには、フランドールは見上げなければならない。
「本をお読みになっている妹様のお顔、寂しそうでした」
「何言ってる。私は、寂しくなんか」
「妹様」
フランドールの両手を、空いた小悪魔の右手が包み込んだ。コーヒーより低いはずの彼女の温度が、じんわりと内側に広がっていく。コーヒーを受け取ればきっと彼女の両手は離れるだろう。強く突っぱねれば、引き下がってくれるのだろう。
けれど、フランドールには、それが出来なかった。
「手」
「えっ?」
「手、放してもらえるかな。コーヒー、熱いんだ」
「あっ。す、すみません」
これは本当である。そろそろカップから伝わるコーヒーの熱さで、手の感覚がなくなってきていたところだ。慌てて小悪魔が手を放したのをみて、黒い水面に二三回短く息をふきかけ、一口すする。焼けるような熱さに一瞬顔をしかめながらも、そのまま一気に飲み干す。そして驚く小悪魔を尻目に、再びフランドールは空のコーヒーカップを机に置いた。
喉が焼けるように熱い。同じく熱く苦しい胸の奥から、出てくるままに言葉を繋ぐ。
「あぁ、そうだよ。お前の言うとおりだ。
寂しいんだよ。苦しいんだよ。すまし顔で本なんか読んでるけどな、本当は泣きたいくらい辛いんだよ。
でもどうしたら良いかわかんないんだ。だってきっと私なんかより何倍も何十倍も、あいつは――お姉様は悩んでるんだ。それに対して、私はなんて言えばいい?」
まくし立てるように、フランドールは言葉を紡ぐ。良い加減に見上げるのが辛くなって、目線を少し下げた。紅いネクタイが、浅い呼吸と共に微かに揺れる。今、彼女はどんな顔をしているだろう。気になったけれど、それを確かめるだけの勇気が、フランドールにはなかった。
「いまさらどの面下げて出て行けって言うんだよ。“引きこもるのに飽きました、誰か構ってください”とでも言えば良いのかよ。
……あぁ、きっとそれでも、受け入れてくれるだろうさ。あいつも咲夜も、きっと喜んでくれるだろうさ。分かってる。ずっとそうして欲しかったことくらい、分かってる」
クローブの葉が、泣いている。姉妹で並んだページが、泣いている。
淹れたてのコーヒーを飲み干した喉が熱い。舌だって、痺れている。だけれど、そんな火傷よりも軋んだ心がひどく痛い。
「でも、私には、そんな事出来ない。そんな事、言えないんだ」
そうするには、あまりに時間がたちすぎた。地下に閉じこもること数百年。姉を避け始めたのは何時のころだったろう。無視して来た呼びかけと言わなかった言葉は、どれくらい溜まっただろう。
そうして手元に残ったのは、きっと後悔だけだった。
数分の沈黙の後、フランドールは小悪魔に背を向けた。足元の本を拾い上げ、椅子に置く。今更探偵と共に密室の謎を解く気になどなれない。元より自分は主人公にもワトソンにもなれないのだ。フランドールがいなくとも、きっと探偵は謎を解き、正義が悪を裁くに違いない。ならば続きは、また気が向いたら読めば良い。そう思い、フランドールは、一歩足を踏み出した。
と、その時。
「……それでも」
フランドールの服の裾を、小悪魔がつまんでとめた。それは歩みをとめるには余りに弱く、ささやかなものだったが、何故だかフランドールはその指を振り払うことが出来なかった。小悪魔からすれば、フランドールがここまで心情を吐露したのは初めてであり、それはつまりこれが最後のチャンスだと感じ取ったのだ。
「それでも、妹様とお嬢様は家族じゃありませんか。たった二人の、血の繋がった家族じゃありませんか。
いくら時間が経ったとしても。
いくら会話を絶ったとしても。
お二人はずっと家族なんです。家族が互いに傍にいちゃいけない理由なんて、この世にありません」
「なんだって、お前がそこまで思い入れるのさ」
「……私は、お嬢様に仕えているわけじゃありません。あくまでパチュリー様の使い魔として、この図書館にいます。
お嬢様は活字嫌いですから、こちらにいらっしゃることは滅多にありません。私にとってのここの景色は、パチュリー様と妹様――フランドール様のお二人がいる景色なんです。
私はパチュリー様と、フランドール様。あなたに、幸せになって欲しいんです。
それじゃ、駄目ですか?」
言葉を選びながら、だけれど思いのままに、小悪魔が思いを告げた。親指と人差し指でつまんだ服の裾だけが、二人を繋ぎとめている。それが途切れたら、今度こそ小悪魔にフランドールを止める術はない。果たして自分の思いは届いただろうか。それは、小悪魔には分からなかった。
やがて、一つのため息の後、フランドールが顔を上げた。
といっても、背中を向けられている小悪魔には、フランドールの表情は分からない。しかしその仕草に、不思議と暗い色は感じなかった。
「……ふっ」
フランドールの肩が揺れる。戸惑う小悪魔だったが、それが怒りによるものではないと分かり、ほっと安堵した。
「ふっ。ははは。そうだな。あいつが、大人しく椅子に座って本なんか読むわけ無いじゃんか。十分もてば良いほうだね」
「――。はい、そうですね」
あっけにとられた小悪魔だったが、柔らかなフランドールの声に、思わずつられて微笑んだ。斜め後ろから僅かに見えたフランドールの横顔もやはり穏やかなもので、思わず小悪魔はぎゅうと服の裾を強く握った。
「そうだ小悪魔、同盟組まない?」
「同盟、ですか?」
「そう、同盟。革命同盟。私と小悪魔のコーヒー派が革命を起こすんだ。敵はあいつとメイドだな。手ごわいぞ、相手は。多分近いうちにナツメグの木も植える」
「咲夜さんならやりかねないですね。あの人、すまし顔で実は何も考えてませんもの」
「私もそう思うよ。で、私達はそれに抵抗して、戦争を起こすんだ。戦争って言っても大それたことじゃないけど」
「それは良いですね。パチュリー様は、含まないのですか?」
「ありゃ完全な中立派だからな。敵にも味方にもならんからどうでもいい」
「まぁ、ひどい」
「そうだよ。なにせ私は悪魔の妹だからな。そう言うお前だってまかりなりにも悪魔だろう?」
振り返ったフランドールの表情は晴れやかで、思わず小悪魔は瞳の端を指で拭った。それに苦笑したのはフランドールだ。
「おいおい、何も泣かなくてもいいだろうに」
「すみません、つい」
「……お前、実は結構可愛い顔してるのな。あんまりじっと見たことなかった」
「えっ、いや、そんな。そんな事ありませんよ」
「おぉぅ」
フランドールの服の裾から手を放し、思わず小悪魔は自分の顔を両手で覆った。しかしそれでは赤い頬は完全に覆われはしない。それを見て笑うフランドールに、小悪魔が口を尖らせた。
「もう、からかうのはやめてください」
「ごめん、ついね」
ひとしきり二人で笑いあって、やがてそれも収まる。つかの間の静けさが図書館に広がるが、そこに不快さは一切なかった。むしろ、心地よい沈黙といっても差し支えないだろう。緩く、暖かい空気が二人の間を流れていった。
「それじゃ、私はいくよ」
「あ、はい。……えっと、宴会ですか?」
「いや、今日は行かない。口、思い切り火傷した」
実は結構ヒリヒリしている。吸血鬼なので大抵の傷は治るとはいえ、ある程度時間はかかる。
「宴もたけなわ、とまではいかないけど、今から行くのもあれだしね」
「そうですか。お口、大丈夫ですか?」
「あぁ、明日には治ってるだろうよ。……優しくしてくれたら、もっと早く治るかも」
「え。あ、えっと」
「冗談だよ。冗談」
「もう、フランドール様!」
再びからかわれたと分かり怒る小悪魔だったが、どこ吹く風である。やがて踵を返して、図書館の扉まで歩を進める。小悪魔もそれに従い、共に扉までやってきた。
ドアノブを回して、扉を開ける。クローブの甘い香りは、もうしない。地上の窓も、さすがに夜中は閉まっているのだろう。
「あまりからかうのであれば、私にも考えがありますよ」
「へぇ、どんな?」
「フランドール様がお読みになられていた小説ですが、あの密室は鉄製の扉に電気を流してですね――」
「あっ、やめて。私が悪かったから」
「えいっ」
「うぉ」
未読の小説の続きなど聞いても、ちっとも楽しくない。ましてやそれが推理小説ならなおさらである。思わず振り返り、小悪魔を制止しようとしたフランドールだったが、
「なんだ、なんだよ突然」
「すみません。でも、一回くらいやり返しても良いですよね?」
「当主の妹だぜ私は」
「でも同盟ですから」
何故か小悪魔に抱きしめられていた。緩く細い力にもかかわらず、それを振りほどける気がしない。クローブとも違う香りは、シナモンだろうか。よもやコーヒー豆まで栽培はしていないだろうに、酷く甘美な香りに感じ取れる。
きゅうと小悪魔に抱きしめられながら、内心フランドールは焦っていた。浮いた両の手はどうしたものか。抱き返せば良いのだろうか。最後に誰かにこうされたのはいつのころだったか、もしかしたら、相手は外の世界のぬいぐるみだったかもしれない。それくらい遥か昔以来の出来事だ。
「これから、お眠りになられるのですか?」
「お、おぅ。そのつもりだよ」
耳の後ろで囁かれて、思わずそう答えた。別段何をするつもりでもなかったのだが、つい頷いてしまったのだ。
落ち着かない両手を宙に浮かせたまま、なすがままにされること数分。ようやく小悪魔がフランドールを放した。赤い頬を今度はからかう余裕はなかった。
「おやすみなさい、フランドール様」
「ん、あぁ。うん。おやすみ」
我ながら情けないとも思ったが、フランドールとしてはただ生返事をするので精一杯だった。小悪魔もそれに何を言うわけでもなく、フランドールが自室に向かうのを待ってくれているようだった。恐らく、フランドールが自室の扉を閉めるまで、ここで見送ってくれるのだろう。だけれどそれは恥ずかしいので、小悪魔にここで良い、と手を振った。最初は残念そうにしていた小悪魔だったが、意図を汲んでくれたのか、図書館の扉を閉める。
そうして廊下に残されたのはフランドール一人である。
「……さて」
意を決したように、自室とは反対方向に歩き始めた。向かう先は地上への階段だ。
「水を、貰うだけだからな」
もしくは、敵情視察とでも言うべきだろうか。
火傷した舌が空気に触れる。秋の夜は地下の空気を冷たくするのに十分だ。上に一枚羽織ってくるべきだったか、とも思ったが、いまさら引き返すのも面倒だ。本当に水を一杯貰いにいくだけなので、長居はしない。
階段を一段一段確かめるように昇る。すると、するはずのないクローブの甘い香りが、鼻腔をくすぐった。はて、閉め忘れた窓でもあるのだろうか、と廊下を見るが、どうにもそんな様子はない。ならばこの香りはどこかだろうか。
水の事はひとまず置いて、フランドールは香りの正体を確かめる事にした。そうしてたどり着いたのが、食堂である。中ではまだ宴会が行われているらしく、喧騒が曇りガラスの観音扉から漏れてくる。
「まぁ、まずくはないわね」
「私はコーヒー派だが、まぁいいんじゃないか」
何かを試飲しているのか、そんな様な会話が聞き取れた。いったい何をしているのだろうか、と思い、はたとフランドールは理解した。
「でしょう。この紅茶はね、わが紅魔館の庭で育てたクローブを使ってるのよ」
「クローブ?」
「東洋でいうチョウジね。紅茶だけじゃなくて色々使える香辛料よ」
「ふぅん。で、なんでそんなもの」
決まっている。そんなの。
「私の妹よ。フランの発案ね」
「なんだ。じゃあお前が偉そうにすることないじゃないか」
「偉そうになんかしてないわよ。誇らしいの。私の自慢の妹だもの」
「また妹自慢か。人里でも聞いたぞそれ」
「そりゃそうでしょうね。どこでも言ってるもの」
「まさかそのために箸の練習してるんじゃ」
「なかなか難しくてねぇ。何かコツみたいなのないの?」
「慣れだ、慣れ。でもまぁ、肝心の妹が来なくちゃな」
「来るわよ。きっと来る。恥ずかしがり屋だからすぐにはこれないけど、いつか絶対来てくれる」
「──」
思わず、フランドールは天を仰いだ。
「まいったなぁ……」
そんな事を言われたら。
革命なんて、出来ないじゃないか。
戦争なんて、言えないじゃないか。
ただの冗談や悪戯で言っただけの事を本気で実行して、人に会うたびに妹の話をするなんて。それだけの為になれない箸まで使おうとしている。
ずっと、待っててくれている。
(あぁ、もう。私が思ってた以上に馬鹿で幼稚で適当で――)
意を決して、扉に手をかける。隙間から更に甘い香りが漂う。十数人ほどだろうか、宴会の視線が全て、自分に向けられるのを感じた。だけれど、そんな視線はフランドールにとって意味はない。今意味があるのは、正面の奥に座って、驚いた表情を見せる姉だけだ。
(――最高の姉だよ、まったく)
いつか自分も、あの花の香りが好きになれるだろうか。もしくは、姉がコーヒーに慣れてくれる日が来るのだろうか。姉の為に今度は自分が、何をしてあげられるだろう。それは分からなかったけれど、それはきっと幾らでも悩んで良い事に違いない。
だから目一杯考えよう――とりあえず、明日くらいは朝食につきあってあげよう。そう思ったフランドールだった。
司書もいるんだ、小虻魔さんという名前の。言葉には出さないけど、尊敬と感謝の念をいつも捧げているのさ。
やはり家族ものは良いっすね。ほんと紅魔館にはよく馴染む。
革命は失敗に終わりそうだけど致し方無し。レミ様の姉力を前にしてフランちゃんが日和るのは当然の理なのだ。
パチュリー、咲夜、小悪魔。皆違うベクトルでフランドールを弱らせる武器を持っている。善き哉善き哉。
一つ気になったのは宴会でのレミリアの発言。
クローブの紅茶をフランの発案と言ったのは妹に花を持たせる為?
それともフランドール本人は忘れているけど、過去にそういったイベントがあった? 俺が読み取れないだけかな。
何の気無しに言った妹の言葉を真に受けて、咲夜さんと一緒に一生懸命クローブを育てるレミリアを
想像すると、激しく頬が緩むのだが。
ここまでいいSSは9ヶ月ぶり
>>コチドリさん
食事の場面でちょこちょこと、後は後半にもちょこちょこと。
……のつもりでしたが、投稿時にコピーを間違えたらしく、その後半が一部分抜けていました。これは手痛い失敗です。ご指摘ありがとうございました。
本当に可愛いフランはややスレて半グレのこう言うのだと思う
かわいいじゃないか…