ようやくにして峠を越えた絞首の一隊は、閑散とした刑場から人間の里をまなざした。
流れ出た血と脂でべとべとに固まってしまった指を少しさえ開く気配もなく、元は屈強だったのだろうその身体を亀甲に縛られた白狼天狗は、誰を恨むともない顔つきだけして無言に空を呑んでいた。
傷つき、ずたずたにされた彼の身体が、妖怪における生得の再生力を喪っていないはずはない。現に、今もわずかながらに彼の命は元通りに再生しようと必死に蠢き続けていた。血は黒く固まり、固まりはかさぶたになり、かすかなかゆみを伴っているはずだった。だが、彼は再生に伴う痛みのような快感のいっさいを表情に浮かべるような真似をしなかったし、彼の首に犬のように縄を掛けて刑場まで引きずってきた、やはり白狼天狗の刑吏たちも、そんなことは望んでいないはずだった。罪人に求められるのは、ただ従容と、自分自身の犯した罪を心の底から悔いて死んでいくことだけだったからだ。
「水を、いや酒でも飲むか」
「要りませぬ」
それとも、煙草を……と言いかけた刑吏は、どちらにも首を横に振った罪人に対して、ひどく怪訝そうな顔をした。そんなことをするやつがこの世に居るのか、と、言いたげだった。いつもより高い給金で雇われて、嫌々ながらも忙しく立ち働いていた人足たちも、今はもう、とうにどこかに去ってしまっていた。罪人と、刑吏と、鴉天狗の役人と、それから処刑を見物に来た貴賎まばらな天狗たちの呼吸が断続的な人いきれになって、十月初旬の山を吹く。
彼らがその眼の中に収めていたものは絞首の台だった。大人の男をひとり吊るせば、まるで窓際の風鈴みたいにぷらぷらと両脚が揺れるだろう絞首の台だった。それは、罪人の体格を幾つかの規格に分けて寸法を造形され、場合に応じて随時に組み合わせることのできるつくりをしている。曲がり、歪んだ基礎の木枠の上で、誰も名前を知らないだろう虫の卵が幾つか潰れて染みになっていた。
いかにも、長いあいだ獄(ひとや)に繋がれていたんだと言外に主張しているかのように、罪人の頬は髭だらけだ。着せられている装束だけは真新しい白いもので、いったいいちどの処刑のためにこんなことをする必要があるのだろうと首を傾げるには十分だったのかもしれない。けれど、誰もそんなことをしない。役人も、観衆も、刑吏も――これから殺される罪人でさえも、きっとそうだ。それが当たり前だと、昔からそのように決まっているから、あえて首を縦に振ることしかしない。採寸が行われたはずもない、少し大きめな装束で小石の多い地面を摺り、罪人は首輪を解かれ、絞首の台に上らされた。まるで抵抗するそぶりもない。不自然なまでに堂々としていた。あたかも殉教者を礼拝するかのように、観衆から溜め息が漏れた。
遠くから、正午を告げる鐘の音が「ごおん、ごおん」と何度か聞こえた。
その場の誰もが息を飲んだ。
今日の処刑は正午をもって開始される予定になっていた。
実際のところ、単にいつも通り山中に時間を知らせるためだけに打たれた鐘の音であって、白狼天狗がひとり処刑されることを知らせるための鐘の音ではなかった。けれど、そんなことを納得できる者が、彼が殺されることを知っている人々の中にどれくらい居たというのだろう。当の罪人でさえ、不敵な気配を忍ばせる微笑を浮かべて、舌先で唇の真裏を突きながら、静かに正午の音に耳を傾けていた。
彼は、刑場を取り巻く観衆の中に、ひどく昏く光るふたつの眼を入り込ませた。
誰かの姿を探しているようだった。やがて、探していた“何か”を見つけ出すと、視線を自分の足下に戻した。それから、はああ……息を吐く。彼の眼は、もうすっかり生の輝きを取り戻してしまった。
鴉天狗の役人は、未だ少年と言えるほどの小柄な体格をした刑吏から形ばかりもうやうやしく数枚の書類を受け取ると、そこに列挙された罪状と、評定での判決文と、罪人に処される刑罰を淡々と読み上げていく。ねっとりと、粘つく口調。乾ききったように見える痩せぎすの指が、書類をめくり上げていくのとはまるで対照的に。
「…………は、人里の塩商いと共謀して、妖怪の山に流通する塩の相場を不当に吊り上げることで兵糧の確保を困難たらしめ、また、人間たちの一部に依然として燻ぶる反天狗の勢力と結託し、彼らの間者として軍用の山道や砦の位置を意図的に漏洩させた。これは“われわれ”とってまったく弁護の余地のない謀反そのものであり、人妖の均衡によって保たれる幻想郷そのものの平和に対するあまりにも重大な大逆である。以上の罪状に対し、評定は極刑をもって望むべしとの判決を下した。これに対して反対の意見を申し述べる者はなく、また罪人みずからも同様であったため、本日、刑を執行し…………」
役人が書類の最後を読み終わると、刑吏が罪人の頭に麻袋を被せる。
ばさばさ、ばさばさ、と風が袋を揺らしていった。
彼の呼吸によって袋の表面は顔にぴったりと張りついて、鼻の形が盛り上がって見えた。
絞首の台上に設置された、さらに小さな台に罪人が上る。これから殺されようとしているというのに、まるで喜劇でも演じるみたいによたよたとした足つきだった。決して台を踏み外さないように。自分の最後の努め――――失敗なくきれいに殺されてしまうことを務め上げて見せるように。新たに、台から吊り下がる縄が彼の首に掛けられた。未だ人の首を締め上げることもできないほど緩み、たわんだままでいる。
刑吏が、罪人の乗る台を木槌で思いきり叩き落とす。
絞首の台上から落下したその木製のかたまりが、乾いた音と共に地面に落下した。
けれど、そのときに響いた音が本当に台が落下した音だったのか、それとも罪人が自らの体重で頸を締め上げられることによって骨が折れていく音だったのか、仔細に聞き分けることのできた者は誰ひとりとして存在しなかった。水中でもがくようにしてじたばたと足を動かしていた罪人の股座は、息が詰まってようやく死んでしまうその瞬間、確かに勃起し、冷たい射精を残していた。何もかもが乾ききったその日の刑場で、ごく当たり前の生理的な動きに基づくその事実だけが、ひどく湿り気を帯びた皮肉のひとつとして存在し続けていた。
――――――
「…………は、人里の塩商いと共謀して、妖怪の山に流通する塩の相場を不当に吊り上げることで兵糧の確保を困難たらしめ、また、人間たちの一部に依然として燻ぶる反天狗の勢力と結託し、彼らの間者として軍用の山道や砦の位置を意図的に漏洩させた。これは“われわれ”とってまったく弁護の余地のない謀反そのものであり、人妖の均衡によって保たれる幻想郷そのものの平和に対するあまりにも重大な大逆である。以上の罪状に対し、評定は極刑をもって望むべしとの判決を下した。これに対して反対の意見を申し述べる者はなく、また罪人みずからも同様であったため、本日、刑を執行し…………」
観衆のほとんどは自分より背の高い人々だったから、犬走椛は自分自身の眼の良さをありがたいと思った。大半の連中は暇つぶしとして来ているのだろうけれど、罪人の様子を観察しようとしてぴょんぴょんと飛び跳ねるのはさすがに場をわきまえない振る舞いだと思った。それなら、人波の間をどうにかかき分けて、千里も見通す自分の眼で直接に見た方がずっと“まし”なのだと言えた。
観衆は、みなどことなく地味な着物に身を包んでいた。
何人かは儀式用の礼装を着ていたが、全体からするとひどく悪目立ちして見えるくらいだ。別に墓参りや法事をやるでもないのだから、各々が好き勝手な格好で処刑を見物してもまったく問題はなかった。問題はなかったはずなのに、椛が着ていたのは木綿の水干だ。つまり、よく着なれた“いくさ”の装束。刑場に入るための幾つかの規則のひとつとして刃物こそ今はその身に帯びていなかったけれど、ほつれや破れを繕った跡を見ると周りを取り囲む人々は、たいてい、椛に道を空けたり譲ってくれたりした。それは、一方では賤しい白狼天狗の身といえども、いくさ働きに身を粉にしていることについての敬意ゆえのことだったのだろう。
けれど、もう一方はといえば――今まさに処刑されようとしている罪人もまた、いくさを生業とする白狼天狗のひとりだったから、裏切り者を目の当たりにすることへの痛みという、その同情から出た行動だった。誰も口に出して教えてくれるはずもないから、椛は自分でそういう結論に達していた。そんなことを直ぐに考えつくくらいには、しっかりとした学があるわけでもない彼女だって賢しかった。同時に、そんなどうしようもないくらい卑屈な一面が、犬走椛という天狗の中に存在してしまっていた。
天狗たちの国は、幻想郷に他を見ないほど『強い』同胞意識で結びついている。
ときに、それは『烈しい』と呼んでもまったく差し支えないほど強固なものである。罪人に与えられた拷問は天狗たちが用いるものにしてはもっとも軽い種類のものだったようだが、それでも謀反人を相手にしたときの拷問は、他の種族や人間なら二、三度は死んでしまうと戯れが漏れるほどのものだと椛は聞いたことがある。天狗たちは同胞意識が強い。しかしそれだからこそ、反逆者に対しての処断には慈悲も容赦もほとんど介されることがない。
「手足に穴ぐらいは開くだろうか」と、椛は眠気の煙る目蓋の裏に想像する。かつて海を渡って攻めてきた蒙古の軍勢は、捕らえた女たちの手のひらに孔を開けて縄を通し、数珠繋ぎにして連れ去ったという。博麗や八雲の意向によって命名決闘法が誕生するよりも前、未だ人妖の間でいくさが当たり前に行われていたころは、そんな風にして人間たちをさらって来れば良いのだと豪語する者が白狼天狗の中にはたくさん居た。幸か不幸か、そういう物言いをするやつは今ではほとんど死んでしまったのだけれど。
そうだ、と、彼女は独語を舌の奥に転がし、噛み潰す。
みんな死んでしまうのだ。例外なく。自分もきっと。
妖怪たちの多くがそうであるように、天狗もまた生半可なやり方では死ぬことがない。
病に斃れることも珍しいし、槍や刀で傷つけられてもしばらくすれば元通りに治ってしまう。もちろん――それは、首を吊っても同じことだ。
あの罪人は処刑された後に首を切り落とされ、それぞれ遠く離れた場所に埋められる。
天狗たちの墓に埋葬されず、埋められた場所を公にされることもない。
そしてあらゆる公的な記録から“彼”の存在した痕跡はひとつも残らず抹消され、住んでいた家は取り壊され、持ち物はことごとく破壊される。一族が連座で処刑されることはないが、罪人について口にすることはその生涯に渡って固く禁じられ、場合によっては姓さえ新たなものに代えられる。かつてある罪人が居たという、その存在について話題にすることすらも天狗たちの間では禁忌とされ、記憶を急速に風化させていく。妖怪は存在の意義を喪失した瞬間、真に死する。それならば、罪人の存在を誰にも語らせなくして完全な喪失と忘却へと押し遣ることだけが、天狗が天狗を殺すことのできる唯一にして最大の方法であるには違いなかった。
「とはいえ、それなら何だって公開処刑、なんて手間も時間もかかる方法を採用し続けているんでしょうかねえ。密室で毒でも飲ませた方がはるかに効率が良いでしょうに」
「見せしめに決まってる。大多数の天狗に対する。記録のすべてを書き換えるみたいにきれいに頭の中身をつくり変えることができるほどには、天狗という生き物は単純にはできていないのです」
「ああして反逆者の末路を見せつけなければ、きっとろくなことにはならない。まあ、それもそう。あるいは娯楽――です、か。身も蓋もない言い方をしてしまえば」
かたわらに潜められた声はすっかり聞き慣れた忌々しさだったが、心の中をぴたりと言い当てられた不快よりも、目上に対する敬意の方が一応は勝った。ちらと横目で相手を見ると、射命丸文は椛よりも高い背を少しだけ屈め、わざわざこちらに眼を合わせて話をする。
「何の御用で、文さま」
「なに。記者の好奇心は、常に日常的倫理と非日常的背徳の境で反復横飛びをくり返しているものですからね」
「はっきりと、“人死にが見たい”と仰ったらいかがでしょうか」
「ふふん。“椛と同じ”と言っておきましょう」
いつも身につけている写真機を、今日の文はどこにも持ってはいなかった。
記録のいっさいを残してはならないとする刑場の規則に従ったのだろうけれど、見慣れたものがひとつないだけで、椛が受け取る印象はまるっきり別の色合いに染まる。しかしそれでも、文は手指を組み合わせて写真機を真似る四角をつくり、絞首の台上に引き立てられた罪人をその真ん中に収める仕草をして見せた。それに気づいた周囲の数人からわずかに失笑が漏れた気配がしたが、あらためて意味ある視線を送るべきことでもないと考えたのか、また直ぐに罪人へと眼を向ける。
ちょうど、刑吏が木槌を取り出したところだった。罪人の顔を隠すすり切れた麻の覆いは次第に荒くなっていく呼吸によって顔面に張りつき、鼻と唇の形をぼんやりと浮かび上がらせた。その懐かしい膨らみを椛は見つめた。何度も何度も。舐めるようにというよりも、飢えて噛みつく獣のようにと言った方がはるかにふさわしい眼を彼女はしていた。小さな台の上に罪人が上る。垂れ下がる縄が首を緩やかに締め上げる。刑吏の天狗が何かを決心したように思いきり木槌を振りかぶった瞬間、世界のすべては沈黙したのだとさえ思った。その無感覚はきわめて矮小で何の意味も持たない錯覚だったのかもしれなかった。玩具の灯篭が薄闇に浮かび上がらせる絵巻みたいに、鮮やかな影の冴え。けれど、木槌が台を叩き落とすその音、あるいは罪人の頸が無残に圧し折れる音の響きが、文の言葉を不気味なまでの器用さで覆い隠した。椛は、ひどく敏感になっていた自分自身の狼としての聴覚を呪った。同時に、罪人の股座が勃起した様子をも瞭然と感じ取る眼をも憎んだ。そして、刑場の規則に頭を垂れたい気分になった。刀を持っていたら、間違いなく自分の耳と眼を抉り落としていただろうから。
知っていたのですか、と、椛は訊いた。
文は何も答えない。この人はいつもこうだと嘆息する。
頸の骨が折れた屍体は、もがき動いていたときの力の残りによって、未だぷらぷらと震えていた。精液でべたつく装束の箇所に手を触れないようにしながら、刑吏は数人がかりで白狼天狗の屍体を絞首の台から下ろしていった。再び、椛は口を開いた。今度こそ文は答えてくれそうな気がした。その保証もなかったけれど。彼女はただ、熟れすぎて腐る前の柘榴のように赤い唇をぐにゃりと曲げて、愉しげに笑っているだけだった。
「知っていたのですか。否、知っていたのですね。文さま」
「もちろん。記者は足で稼いで情報を得るのが基本ですからね。罪人の“彼”が人間の少女と恋仲だったことも。少女の父である塩商いに陥れられ、それがために間者として利用されてしまったことも。そして、“彼”自身は天狗を害するつもりなど毛頭なく、また少女をさらって自分の妻としてしまえるほど狡猾な心根ではなかったことも。それに――――、」
ほんの少しだけ、文は笑みの精度を落としている。
椛には、そんな気がした。
「彼の謀反を告発したのが、他ならぬ犬走椛であったことも」
奥歯をぎりと噛み締めると、それだけで血の味が肺腑の奥底まで逆巻いているような不快を感じた。喰ったものが水の一滴に至るまで、吐き気となって身体中を駆け巡っている。確かに、文の言葉には少しの間違いもなかった。罪人として処刑された“彼”は、事情はどうあれ、里の人間たちに天狗たちが用いるいくさのための陣構えを漏らしてしまった。そのために椛は白狼天狗の職責として“彼”の謀反を告発し、結果として“彼”は咎めを受けて殺された。かつてのいくさで何人も死んでいった白狼天狗の友人たちのうち、かろうじて生き残っていたひとりだった。一緒に読み書きを覚え、同じ釜の飯を食い、何度も死線をくぐり抜けてきた仲だった。
だからこそ、椛は許すことができなかった。“彼”が天狗に仇なす行為を続けていたということが。警吏が“彼”を捕らえる日の前の晩、椛のもとにはごく短い弁明の手紙が届けられた。震えた筆跡と墨の滲みから、急いで書き上げて直接届けに来たのだろうと解った。“彼”もまた、椛が自分を疑っていることに気づいていたはずだ。人間の少女に懸想していたが、反妖怪主義者であるその父に利用されて間者として仕立て上げられてしまったこと。自分は天狗とも人間とも敵対したくはなかったが、少女を恋いうる心からは離れがたいために過ちを犯してしまったこと。こんなことになってもなお、椛のことは大切な友人だと思っているということ。この期に及んでは、自分はいっさい逆らうことなく死を受け容れるということ。そして、この手紙を読んだら直ぐに燃やしてほしいということ。自分が存在した痕跡を所持しているのがもし発覚すれば、今度は椛の身にまで累が及んでしまうのだから。
あくまで冷静に、冷徹に、白狼天狗としての職務を果たしたつもりだった。
決していくさ働きで手柄を立てたときのような誇らしい気持ちにはなれなかったが、それでも山の秩序と友人とを秤にかけてしまったことの罪悪感は、平穏が護られることで帳消しにできるつもりだと何度も自分に言い聞かせた。だが、自己に対する必死の言いわけは、“彼”からの手紙を終わりまで読んだときに完全に意味を喪った。そのときの椛は足下から崩れ落ち、腑抜けか気違いのようにして喚き続けることしかできなかった。どういうわけか、涙は一滴も流れなかった。ただ、身体の真ん中に“しこり”じみた黒いものだけがいつまでも滞留し続けていた。
「周辺を嗅ぎ回ってみると、どうも八雲がことを荒立てないように仲介を買って出たらしくてですね。塩商いとその娘――まあ、話の全体からすれば彼女は誰にも存在を知られない、ほんのおまけみたいなものですが――には何の咎めもない代わり、今後しばらくの間、塩の取引はわれわれ天狗側が大きく有利になるという密約が結ばれたみたいですよ。お偉いさん方は、降って湧いたような話に大喜びだそうで」
まつりごとに関わる煩瑣な事柄など椛にはどうでも良いことだった。
元より雑兵の身では、そんなものに大きく関わることができるはずもないのだから。ただ、自分はその引き金を引いてしまった愚か者として、今この刑場に立ち尽くしているだけなのだ。なぜ? “彼”をばかなやつだと嗤うためだろうか。それとも、できるはずもない罪滅ぼしのためだろうか。“彼”からの手紙は、未だ棄てられないままでいる。いくさ装束の懐に忍ばせたその手紙が妖怪をも殺すほどの猛毒であったなら、自分はどんなにか救われただろうかと椛は思う。観衆の真ん中でその毒を飲み込み、罪人と一緒に死んでしまうのだ。事態を何も好転させることのない自己満足だったとしても、自分にできる手段はそれだけだと思った。けれど、手紙は手紙であって毒薬ではない。犬走椛という天狗はいつか死ぬ。けれど、今ではない。それはいったいいつか? ひと月後か、三日後か、それとも今夜か? いずれにせよ、自分は生き汚いやつだと自嘲した。“彼”が死んだあのときの光景を目蓋の奥の奥に焼きつけて、心のどこかで安堵さえしている、この現実。これが無様でなくて、いったい何だと呼べるのだろう。
ふふ、と、椛は笑った。
狂気に陥りたくても陥ることができない。そんな様子で。
「私を嘲りに来たのですね、文さまは」
「まさか。優しい先輩である射命丸文は、ばかな犬が後追いの自殺でもしてやいないかとわざわざ様子見に来てあげたのですよ」
「それは、たいへんに御足労を」
吐き出し慣れたはずの皮肉でも、今の椛にはまるで力がなかった。
だとしても、いつもとまるで変わらずに接してくれる様子の文のことが、今だけはとても心強いものだと思えた。夢のように、幻のように。ありもしない感情のはずだったけれど。
「誰もみな、“彼”のことを忘れてしまうのでしょうね」
「そうすることを、私たち天狗が是とする限りは」
「実は、ですね。彼が死ぬ前に、私は手紙を預かっていました。内容は……」
「そんなものに興味はありませんよ。私が私の調査で得た情報も、すべて当事者であるおまえ以外の誰にも漏らさず墓まで持って行くつもりです。射命丸文は小狡い女ですからね。おまえ宛ての手紙に何が書いてあったのかは知りませんが、椛、そうまでして伝えたいことが“彼”にあったというのなら、決してその死から眼を背けるべきではない。おまえは同じ白狼天狗として、山に棲む同胞のひとりとして“彼”を殺させ、“彼”の最期を見届けた。他の者は誰ひとりとして犬走椛の本当の気持ちを知らない。もちろん私も。きっとおまえだけが、“彼”の死のすべてを知り得る世界でただひとりの存在です。“彼”のことを知る者がすべて死に絶え、真の終わりがやって来るそのときまで。犬走椛は自分にとって為すべきことをした。それは誰にも褒められないことなのだとしても、誰にけなされるはずも、謗(そし)りを受ける謂われもない。少なくとも、私にはそう思えます」
刑場に集まっていた観衆はもうほとんどが去り、また元の閑散とした情景が戻ってきた。
刑吏や役人も姿を消し、酒でも飲んでいたのだろう人足は赤ら顔のまま億劫げにやって来て、それでも慣れた手つきで絞首の台を解体していく。胸の内に留め置いた手紙を着物越しにくしゃりと握り潰すと、射命丸はいっとう怪訝な顔をした。それからまた、熟れた柘榴のような唇の奥から、聞いたこともないような声で凛と言い放って見せた。
「誇りなさい、胸を張りなさい。犬走椛。ひとりの同胞を死に追いやったという責任から、決して逃げ出したくないというのなら。天狗として生き、天狗として死ぬつもりだというのなら」
すう――、と、通り抜けていく透明な熱が、魂の内側を焦げつかせた。
笑うべきなのか、泣くべきなのかもはっきりと解らないまま、椛は唇を閉じたり開いたりをくり返す。“彼”が死んだ刑場の方へと、いざるようにして数歩を進んだ。「言いたいことはそれだけです。それじゃ、私はこれから守矢に用があるので」。言うと文は風を起こして翼を広げ、瞬く間に飛び去ってしまう。人足たちでさえその仕事をまっとうし、次第に影を留めるだけになっていた。
この場ではどんな心をも押し留めなければならない。
怒りでさえ、かなしみでさえ。死も絶望も飼い慣らすために今日の処刑はあったのだ。椛はそれを理解した。理解していたけれど、承服しがたい“ぎざつき”があった。感情の断面はいつでも“ぎざついて”いる。それを容易く削り落して滑らかな表面を取り戻すほど、自分は器用に生まれてはいない。解っている。解っているのに。
でも、今夜は、きっと今夜だけは。
殺してしまった“彼”のために、素直に泣くことができるのではないだろうか?
そんな風に考えて強く強く眼を閉じ、椛は、こぼれ落ちそうな涙をこらえ続けていた。
表現技法だけでなく、言葉を必要最低限に切り詰めて、伝えたい所を尖らせているのは素晴らしい以外の言いようがない。
Bravo!
まず単純に最低二回は読み返さないといけない。吟味して咀嚼する必要があるんだ、貴方の文章は。
こうずさんの描き出す幻想郷について感じる俺のイメージ。
空はいつも曇っている。閉塞感がつきまとう。
目に映る色は寒色で単色。体感気温はマイナスだな。おお、寒い寒い。
当然後味は苦味に満ちている。
言い換えよう、それが俺の感じる貴方の作品の魅力だ。
文章の容量以上にお腹が膨れる。
出口が見えないからこそ救いともいえない救いが印象的に残る。
モノクロームだからこそ虫の卵の潰れた染みや、文の赤い唇が目に飛び込んでくる。
苦味はあるけど雑味はない。また口に入れたくなるのだな。
“彼”は、最後の瞬間最高に気持ちの良い射精が出来たんだろうか?
何故か気になる。
文のさりげない優しさには、二回目で読んでようやく気付けました。
幻想郷もまた、重要資源の配分、パワーゲーム、刑罰、といったものとは無縁ではない世界なんですね。
自分はお気楽幻想郷描写ばかりしますが、こういうのもいい意味で心にずしんと来るので好きです。
幻想の山でさえ決して逃れ得ない、雁字絡めの儘ならなさがひしひしと伝わってきました。
罪人の彼が最期の最後に生きる光を灯したことが、どうにも印象的でありました。
椛の姿に、彼は何を思ったのだろう・・・。
「すばらしい」って賛辞は相応しくないな、いささか乱暴だけど、「えらいもん書きやがって」という感想を贈らせていただきたい。
個と組織と合理と感情の軋轢を、こすっからく強靭さを具えている文と、今はまだ気概しかなく毒を持て余す椛の両者から取り扱っている。これが無意味な過ちか……。
いくつか読ませていただいて確信したのだけど、あなたはあなたにしか書けない、誰かが書くべきものを書いている。羨ましいですね。