とある日の夕暮れのこと。
美鈴がワニを連れてきた。
「なに、これ」
全長5,6メートルはあろうワニを小脇に抱え、美鈴が快活に笑う。
「いやー、ちょっと散歩してたら、近くの川を泳いでたんですよ。お嬢様が面白がると思って、捕まえてきました」
「……なんに使うのよ、こんなの」
ニコニコ笑う美鈴を、咲夜はため息混じりにレミリアの部屋へ先導した。
「お嬢様、咲夜です。失礼します」
「入っていいよ」
レミリアの返事を待ち、咲夜が戸を開く。美鈴が姿を見せ、
「ぶっ!?」
レミリアが紅茶を噴いた。
「……鰐、ね」
パチュリーが本を拾い上げながら呟く。一見冷静に見えるが、彼女が驚いて本を取り落としたことは想像に難くない。
「……で、どうするのよ、これ」
けほけほとむせながら、レミリアが問う。
「……さあ?」
キョトンと小首をかしげる、紅魔館の門番。と、すぐにポン、と手を打つ。
「じゃあじゃあ私、芸やります! 知ってましたか? ワニって口の中に触れない限り口を閉じないんですよ。だからそれを利用すれば……」
「ちょっと待って」
呆れたように眺めていた咲夜が割り込んだ。
「貴女、髪長いじゃない。いいわ、私やるわよ」
肩より少し長いくらいの咲夜に対し、美鈴の髪は腰の辺りまで伸びている。
「はあ……もう、勝手にして頂戴。私は見てるから、やってもいいけどヘマだけはしないでね」
言って、レミリアが腰掛ける。咲夜は髪をまとめ、顔をレミリアのほうへ向けて。
そろそろと、頭を差し入れ――【
そして、この状況である。首の両側に牙が、軽くではあるが食い込んでいるため、少ししか動かせない。
まさか髪が少し触れただけでも反応するとは思わなかった。パーフェクトメイドの名が泣いている。
あ、私も泣きそう。ちょっとしゃしゃり出てみただけだったのに。
咄嗟に能力を発動したため私の首はまだ繋がっているが、もしも間に合わなかったらどうなっていたことか……。
哀れ、可憐なメイド長の首からは鮮血がほとばしり……絨毯が汚れちゃうじゃない!
うん、冗談でも言わないと本気で身が持たない。身が滅ぶ前に心が亡びそうだけど。
懐中時計を手探りで、見えるところに持ってきた。普段は私の命綱だけど、今回ばかりはむしろ……私の命のカウントダウンのようにも思える。
カチ、カチ。連続で時を止めていられるのは、大体1時間くらい。すでに五分くらい経っているから、あと1時間もしないうちにこのデカブツのあごが、バクン!
……考えたくもない。さっさと脱出してしまおう。
太もものホルダーに挿してあるナイフを一本取り出した。頭を動かせないので、肌に触れている部分の牙は見えない。
私に見えるのは、お嬢様のお御足と……ああ、私にはお嬢様のお御足しか見えないわ! ……コホン。実際、私の視界には、ずらりと並んだ鋭い歯と、
あとはお嬢様の座っている椅子くらいだ。美鈴とパチュリー様は私の後ろに居るはずだし。
とりあえず目の前の歯の付け根にナイフを突き立てる。これで切れるようなら、首元のをいくつかへし折れば脱出できるだろう。お嬢様にはきっと怒られるけど。
ごりごり。ごりごり。
「くっ、ふう……」
思ったより硬い。いつもならこのナイフで腕くらいなら両断できるのに。勢いがつけられなくて力が入らないのと……動かすたびに、首に歯が食い込んで痛い。
ぼきっ。鈍い音を立てて、歯が折れた。少し視界が開ける。何とかナイフの刃が通ることは確認した。これで実践できる。時計を確認する。なんだ、まだ40分も残ってるじゃない。
ごりごり。ごりごり。
それから数十分が経過した。
私は存外、苦戦していた。歯と刃先が見えないのは、思ったよりもつらい。
その上、首が疲れて集中が切れる。刃先と歯の位置を確認するために左手を添えているが、さっきから何度も、誤って指先を傷つけてしまっている。
「んっ、つぅ……」
やっと、2本目。折れるときに、首筋に刺さった。痛みとともに、思考が鮮明になる。いつの間にか意識が朦朧としていたらしい。
目に入った汗を拭おうとして、何か硬いものにそれを邪魔されて、ようやくそれができないことを思い出した。
今ので30分ほどかかっていた。汗が鼻筋をつうっと伝った。このペースでは、間に合いそうも無い。間に合わない?
「嫌」
嫌。嫌だ。死にたくない。私には仕えるべき方がいる。死にたくない。
絶対に、死にたくない。
『ワニの噛む力は数トンにも達し――』
どこで聞いたのか、そんな説明が脳内によみがえった。冗談じゃない、絶対に逃げ出てみせる!
「……あご?」
あご、あご……そうか、顎を解体してしまえばいい! 私は左手にナイフを掴み、ワニの口内に突っ込んだ。頬を掠めたらしく、かすかな痛みが走る。
そんなことはどうでもいい、とにかくこの牢獄からさっさと逃げ出さなくては。逃げ出さなくては。
ぐちゅぐちゅ。カチ、カチ。肉を削る音に混じって、時計の針の音……カウントダウンが聞こえる。
あとどのくらい、私の力は持つ? この醜悪なギロチンが私の命を絶つまでに、どのくらいの時間がある?
私が、紅魔館のメイド長が、この十六夜咲夜が、爬虫類如きに命を奪われる? そんなことがあって良いわけがない。私はニンげんとして生き、死ぬのだ。
こんな死に方は、私には許されていない。カチ、カチ。時計の針が進む。おそらく、もう30秒もないだろう。
でも、それで十分だ。私が人間として死ぬには、十分すぎる。
懐中時計の蓋を閉じ、ポケットにしまった。万が一にも、私の血で汚れないように。
太ももから新しいナイフを取り出す。
「お嬢様、絨毯を汚して申し訳ありません」
そう一言呟いて、ナイフの刃を首に埋める。
その冷たい感触を最後に、私の意識は途切れた。
◇
その瞬間、紅魔館の一室に爆音が響いた。
レミリアの紅槍が鰐の首と胴体を断ち、パチュリーが鰐の全身を一瞬にして凍らせて、美鈴の蹴りが上顎を消し飛ばして。
そうしてパチュリーは、嘆息し、また、無表情に戻って、座っていた安楽椅子に崩れ落ちた。
そうして美鈴は、嘆息し、また、その場へへたり込んだ。
そうしてレミリアは、その場に立ち尽くして、俯いて肩を震わせた。
三者の視線の先には、身体のあちこちに孤独な戦いの跡を残す、咲夜の死t】
レミリアは溜息をついて言った。
「咲夜」
「なんでしょう?」
緊張した面持ちでワニに頭を近づけていた咲夜が、顔を上げて応える。
「興が殺がれた。もういい。美鈴、そいつは元いたところにでも逃がしておけ」
そう言い残して、レミリアは部屋のドアを開く。
「お嬢様!」
咲夜の声が追いすがる。
「私に何か至らないことがありましたでしょうか!」
必死の口調で問う咲夜にレミリアは振り返り、
「お前は何も悪くないよ。忠誠心にあふれる、私の素晴らしい従者だ。ただ、もう少し私を、私たちを信頼して欲しい」
後ろ手で扉を閉め、もう一度嘆息して、その場を去った。
レミリアは運命を見たってことじゃないのか
その行動を「まーたレミリアお嬢様のわがままか」とか思われてたりしたら最高ですね
つまり、ありふれた日常の一幕なんだとしたら、レミリアの当主たるを見た気分です。
紅魔館メンツの格好良さと咲夜さんの愛されぶりが同時に感じられて幸せです。
ハイスペックに見えて実はそうでもないから咲夜さんは可愛い
咲夜さんはもっと皆を信頼するべきです。