三日月の下、赤の光が点滅する。電子的な金属音と連動するそれは疎らな闇を照らし、辺りの存在に呼掛ける。対する反応は無い。もはや夜の帳は下りており、分断される住宅街の灯りも外灯が殆どだ。近辺を歩く者など稀であった。
その中にあって、宇佐見蓮子はただ前を見ていた。警報の赤に照らされる顔は、眉根を寄せ、口を半分開いている。彼女の瞳の焦点は、見知った友人に向けられている。薄く弧を描いた唇に、伏せられた目。ブロンドを揺らし、彼女はかぶりを振った。右から強い光。蓮子の目が見開かれる。
二人の距離は約五メートル。更に遮断機が阻む。しかし、躊躇うことなく彼女は走り出し─────
眼前に壁。
白。ただその一色に染められ、一マス二十センチメートル四方の碁盤状の黒の線が走る壁。
右は白の布に阻まれ。左も布に阻まれ。 暫くして知るのは、声の出ない事。
ああ、これは夢なのだと。ここ毎日見ている不可思議な夢だと夢の中で気付き、彼女はそっと瞳を閉じる。
そうすれば、全てが戻ると知っている。
目を閉じれば落ちて行く。落ちて、昇る。
嫌な夢だった。そう彼女はウンザリする。退屈な講義のせいで、朝の事を思い出した。もはや、講義など耳に入らない。
時計の針はとうに終了時刻を告げていたが、教授は話題に熱が入ってるのか、未だに終わる気配は無い。周りの学生達からも、少なからず苛立ちがにじみ出始めている。
視線をややずらし、蓮子は外を見る。窓からは離れているので完全に外を覗く事は出来ないが、部屋が雛壇状であることと一番後ろの席である事が有利に働いている。数人の背中越しに見る景色は、未だ青々とした木々の緑を揺らしていた。週間天気予報では、高気圧で暑さが少しぶり返すという。秋物の服を出すには少し早かったかもしれないと、彼女は思った。
そういえばと、蓮子は携帯電話を取り出す。以前どこかで聞いた、地図に無い村というフレーズを思い出したのだ。
もし行ける様な場所であれば、秘封倶楽部の活動として行く事が出来るだろうと考える。
検索すれば、それは二つ在った。一つは青森、もう一つは千葉にあるという。青森は京都からではあまりに距離があり過ぎる。東京までならばヒロシゲで行けるので、現実的なのは千葉であろうか。
思いに耽る彼女が我に返ったのは、視界に流れが出来ていた事と、自身を呼ぶ声に気付いた事だった。
マエリベリー=ハーンだ。
「調べものも良いけど、ぼうっとし過ぎじゃない?」
「そうかしら」
「そうよ」
「・・・アレが近いんじゃないかしら」
そういう風には見えないけどね。口を尖らすメリーに蓮子は、しかし別の話題を振る。
「今、次の秘封倶楽部の活動内容を考えてたんだけどね、千葉の地図に無い村とかどうかしらって」
「ただの廃村じゃないの? 地図に載せても仕方ないようなの」
「そうかもしれないんだけどもね、青森にも同様の話があって、そっちは時空の狭間にあるとかいう話になってるの。千葉の方も同一視されることもあるみたいで、じゃあ調べてもいいんじゃないかって」
「なるほど。けど、どちらにせよ今月は無理よ。レポートあるし」
言われ、蓮子は頭を抱える。完全に忘れていた。
「仕方ないわね、来月にしましょ」
「お金も貯めれるし、一斉休暇ってことで」
「・・・一石二鳥?」
「そうとも言うわ」
薄い唇で薄い弧を描き、しかし自信たっぷりの眼差しでメリーが言い切る。
この場合、一石二鳥というのも少し違うのでないかと突っ込もうかとも蓮子は思ったが、面倒なのでやめた。
眼前に壁。
白。ただその一色に染められ、一マス二十センチメートル四方の碁盤状の黒の線が走る壁。
右は白の布に阻まれ。左も布に阻まれ。
暫くして知るのは、声の出ない事。
そして体の動かない事。
ああ、これは夢なのだと。ここ毎日見ている不可思議な夢だと夢の中で気付き、彼女はそっと目を閉じる。
そうすれば、全てが戻ると知っている。
目を閉じれば落ちて行く。落ちて、昇る。
テーブルを挟んで向かい側。カフェで人と取る距離感としては最適であろう間隔。
「蓮子、近いわ」
「良いじゃない一口くらい」
メリーの文句を無視して、蓮子は更に身を乗り出した。彼女の手元のカップが音を立てたが、中身がこぼれることは無い。そもそも、入っていない。
「いいでしょメリー? ちょっとだけ、ほんの、ほんのちょっとだけでいいから」
「その頼まれ方だと絶対あげられないわね」
えー、という非難の声は聞き流し、メリーはブルーベリーティーに口をつける。透き通る味わいに、仄かなブルーベリーの香り。天然の物を知らない彼女達には、人工物であろうともこれが本物だ。カップを戻せば、向こうに見える友人の顔は少し離れていた。刺さる視線は不服の感情。
彼女は意に介さない。蓮子の手元にある空のカップを見て、まぶたを下げて視線を上げる。
「貴女が頼んでたクランベリーティー、一口くれたら上げても良いわよ?」
「え・・・だってほら、美味しかったから」
「自分だけ両方味わえるなんて、ずるいと思わない?」
「思うわ。で、くれないの?」
「あげないわ」
「今、私の心のメモ帳に『メリーはケチ』って書いて三回なぞったわ」
「じゃあ私は『蓮子はドケチ』って五回なぞるわ」
半目で睨むメリーが不機嫌な事を蓮子は知っている。だがそういうスタイルを取っている事も知っている。
だから、彼女は分らず屋のスタイルを続けた。どうせ、ごねていれば一口くれるのだ。
「ケチー、メリーのケチー」
「だから、貴女が飲んでたクランベリーティーを一口くれたらって言ってるじゃない」
「私の口にまだ少し残ってるけど、それでいい?」
「ありったけの紙ナプキン口に突っ込むわよ」
「・・・給料日、再来週なのよ」
「わかったわよ、あげるわよ・・・」
ガッツポーズを取る蓮子に、メリーが数瞬ほど苦笑。続く言葉は、唇の薄い弧をから放たれる。
「ただし、次は奢ってよね」
眼前に壁。
白。ただその一色に染められ、一マス二十センチメートル四方の碁盤状の黒の線が走る壁。
右は白の布に阻まれ。左も布に阻まれ。
暫くして知るのは、声の出ない事。
上体を起こすと、最初に見たのは壁ではなく天井だとわかる。が、ひどくフワフワとした感覚で、現実味が薄い。
ああ、これは夢なのだと。ここ毎日見ている不可思議な夢だと夢の中で気付き、彼女はそっと目を閉じる。
そうすれば、全てが戻ると知っている。
目を閉じれば落ちて行く。落ちて、昇る。
赤地にチェック柄のプリーツスカートを手に、蓮子は考える。果たして、これは自分に似合うのだろうかと。
気まぐれに白黒以外にも手を出してみようかと思い立ち、ショッピングモールに足を伸ばした。そこまでは良かった。知識として、色々な種類のファッションがあることは知っていた。が、視覚に物量として情報が入ると、どうしても身構えてしまう。意を決して店の一つで物色を始めてみたものの、中々決まらない物である。
意図的に、黒は選択肢から外す。そうでなければ、目は勝手に黒を見つけ、手が勝手に伸びていく。
そして漸く見つけたスカートは、試着してみると想定より短かった。これは可愛い。確かに可愛いが、
「脚が気になるわね・・・」
太股も露わになれば、そこも考慮せざるを得ない。確か家に黒いタイツがあった筈だと思い、組み合わせればまだ見れるものになるだろうと考えることにした。
店内は、思いの外広い。清算するにはこの中からレジカウンターを見つけなければならず、そのためには歩き回らなければならない。まあいい、どうせこの後も歩き回るのだ。彼女はそう思いなおし、パンツルックで来て正解だったと自分を褒める事にした。
程なくして、レジは見つかる。が、店員が見当たらない。呼び鈴も無かったので、少しすれば戻ってくるだろうかと待ってみる。
暫くして、人が現れた。それは、蓮子のよく知っている人物だった。
「いらっしゃいませー」
「なんでメリーがここにいるの?」
「お会計、一点で三千百五十円になりまーす」
「いや払うけど・・・ 何、メリーここでバイトしてるの?」
スムーズに会計し、手馴れた動作でスカートを畳んで袋に詰める。とても様になっている彼女に、蓮子は驚き感心する。同時に、疑問を抱く。
「こういう所って、店員も広告塔みたいな物じゃない。バイトで簡単に入れるものなの?」
「してないわよ? 私店員じゃないし」
さらりと言うメリーに、蓮子はすぐには反応出来ない。
「蓮子ってばこっちでも律儀に動いてるからずっと付き合ってたけど、偶には突拍子も無い内容になっても良いと思うのよ」
「ちょ、ちょちょちょちょっとまって!? 店員じゃないのに、勝手にそんなことして良いの!?犯罪よそれって・・・」
「そんなことないわ」
そこまで言い、彼女は一人合点が言ったようにああと言葉を繋げる。もしかしてと思ったけれども、と。
「蓮子、星を見なさい。此処が何処だなんて、貴女なら簡単に分かる筈よ」
メリーは上を指差した。ここは店内だ、天井で遮られては空は見えない。その上、今は午後に入って時間もそう経っていない。見れる訳がないのだ。ブロンドを揺らし、構わず彼女は指を立てている。半ば呆れながら、蓮子は上を見た。
薄い弧が彼女を見下ろした。それは、二日月に近い三日月だ。数多の光が散りばめられ、黒を豪華に彩らせる。光は白であったり、赤であったり、或いは黄色であったり。明滅するたびに変わりゆく其れ等は、間違う事なく星々であった。
天井は無く、それどころか壁も無く。確かだった床の感触すら危うい。
不可思議な現象の正体を、蓮子は知りたくもなかったろう。だが、意思とは関係なく、月は自身の位置を、星は置かれた時間を、彼女の眼に映させる。
この置かれた状況が夢であり、最後に見た夜空より、とうに五日も過ぎていると。
「蓮子。貴女は自分の位置が分かるわ。だから上を見て。自分を見失わないで。私はもう戻れないけれど、貴女は自身を保っていけるわ」
声に引かれ、蓮子は顔を下ろす。頬を伝う何かを確かめる事もなく、彼女は友人を見る。そこでまた釘付けになったのは、眼前に二つの月があったからだ。
薄い弧の月、その片方が言う。
「帰りなさい蓮子。元の場所に、元の時間に。制御できずに、有耶無耶になった私とは違う。貴女の目なら帰れるわ。夢は夢。現は現。胡蝶の時間は終わらせなければならないわ。境界を解いていたのなら、特に」
薄い弧の月、そのもう片方は、ただ光を発していた。親友の横顔と、自身と。
蓮子は短く息を吸い、しかし出す物は何も無い。反論も、賛同も、意見すら発する事も叶わず。足元を見れば、クリーム色のタイルは何時しか鉛色のアスファルトに変わり、ひっそりと夜陰に照らされている。再び顔を上げれば、二つの月は見るからに距離を開けていた。
踏み出す。本能的に、離れてはいけないと感じたからだ。踏み出しは加速し、距離を詰めるが、しかし阻む物が二つあった。
三日月の下、赤の光が点滅する。電子的な金属音と連動するそれは疎らな闇を照らし、彼女に停止を呼掛ける。
二本の遮断機が下りる。静止され、蓮子は思わず足を止めた。警報の赤に照らされる顔は、眉根を寄せ、口を半分開いている。彼女の非難と疑問の感情が、メリーに向けられる。薄く弧を描いた唇に、伏せられた目。ブロンドを揺らし、彼女はかぶりを振った。
「蓮子、貴女は落し物をしているの。だから拾って、またそこから始めましょ。夢の私と現の貴女で秘封倶楽部だから。私はずっと貴女と一緒にいるから、何も怖いことは無いのよ」
───何故。如何して。
意思を乗せようにも声が出ず、蓮子は俯く。奥歯を噛み、目を伏せ、弱くかぶりを振る。
顔は上げられない。きっとひどい顔をしていると思ったからだ。
遠く、警笛が鳴った。右から強い光。ハッと彼女は顔を上げ─────
眼前に壁。
白。ただその一色に染められ、一マス二十センチメートル四方の碁盤状の黒の線が走る壁。
右は白の布に阻まれ。左も布に阻まれ。そしてそれらは、須らく闇に埋もれていた。
暫しの放心の後、知るのは声の出ない事。
上体を起こすと、最初に見たのは壁ではなく天井だとわかる。視点を降ろせば、自身はベッドに寝ていたのだと理解した。
これは夢なのだと、そう願いたかった。蓮子はそっと目を閉じる。そうすれば、全てが戻ると願う。
だがそれは、鼻を擽る香りに遮られた。つんとしたそれは、アルコールか。何処からともなく漂う香りは、恐らく部屋全体に染み付いたものだろう。
とすれば、ここは病院だろうか。
改めて、彼女は辺りを見回した。闇に紛れてはいるが、白を基調にした清潔感ある部屋は、確かに病室のように思えた。左のカーテンは窓に掛かっている物のようで、ぼんやりと薄明かりに照らされている。ベッド右には簡素な棚があり、その中には籠に白と黒の服が畳まれ、上に帽子が置かれていた。下段には、見慣れた靴。どちらも自分のものだと認識する。
左、光を反射するカーテンを開ける。光は全て疎らで動きも少なく、住宅街が近いことが分かる。それでも、地上の光は強力だ。薄い雲と連携で、星も月も儚く揺らめくしかない。
蓮子には、その光で十分だった。本心としては不足であって欲しかっただろうが、理解してしまった以上、動かずにはいられない。
星が言う、こんなにも過ぎてしまったと。月が言う、まだ近いと。
下着を着けてワイシャツとスカートを着、靴を履き、黒の帽子を掴んで前へ。
突然の運動で体が付いて来てはくれないが、彼女は構いもしない。廊下の案内表示を辿って階段を駆け下りると、裏の職員専用口の鍵を開けて外に出た。
表通りを抜けて裏道を行く。明滅する看板越しに月が道案内し、雲の裏から星が急かす。肺も足も脇腹も悲鳴を挙げ、音の出ぬ口が荒く息を吐いた。
連なる建物の背は縮み、光もより疎らとなる頃、蓮子は視界に其れを捉える。外灯から身を隠すようにひっそりと佇んでいた其処は、彼女を待っていたかのように赤の光を点滅させ音を発し始めた。
踏み切りまで、距離は約五十メートル。遮断機が降り、後ろから警笛と光が来た。尚も走る彼女を、あっさりと貨物を運ぶ列車が追い抜いて行く。少女の足は止まらない。
轟音が過ぎ去った頃、蓮子は息を切らせながらも辿り着いた。静かに遮断機が上がり、再び静寂が降りる。
辺りを見回すと、遮断機付け根を取り囲む防護柵に一つの包まれた紙束のような物を見つけた。近付けばそれは花束だと分かる。暗闇に埋もれる花の名前を、彼女は知らない。淡く優しい、紫の花束だ。
蓮子の足から力が抜け、座り込む。誰が置いた物かは知らないが、誰の為に置かれた物か分かってしまっていた。
彼女は思い出した。警笛の鳴った、五日前の此処での出来事を。赤の点滅する中の惨事を。
この世界に、マエリベリー=ハーンはもはや居ない。肉体だったモノはあるであろうが、見たところでどうなると言うのか。
纏まらないままに思考はただ回転し、蓮子の息が荒くなる。それは突如としてひきつけに変わった。
過去は手元に。そして、彼女は声を拾った。
何もかもが手元にあり、そして、何もかもが過ぎていく。
特にラストの書き方が素晴らしい。
とりあえず褒めたい。
ご指摘ありがとうございます、修正しました。
しかし、何でメリーが死んじゃったのかいまいちわからないなあ。遮断機はちゃんと降りていたみたいだし、どっちかが飛び出したのか、あるいは自殺? そこらへんがなんともはっきりしないのですっきりしない感じです。私が見落としているだけでしょうか。
それと細かいですけど、タグがまだ「宇佐美」になってますよ。タグは看板みたいなものですしきちんとしておいたほうがよいかと。
死んだ描写に関しては、言葉足らずだったと思います。
ただ、自殺のようなもの、と考えていただければと。後はご想像にお任せしたいところです。
最後以外にも現実では起こらないようなことがこっそり起こると、ありきたりだけどもっと面白かったかも?
メリーが死んで悲しいのでこの点数で。
あと升というのは容積の単位ではないかなと思います。
1マスと書くと誤解ないのでは。
ご指摘ありがとうございます、修正しました。
誤字多すぎですね。低脳ぶりをさらけ出しているようです。