海から吹きつける風はほのかに潮の香りを孕んでいて、二本脚で立つ狸――二ッ岩マミゾウも、十二分にその心地よさを味わっていた。
波飛沫を感じられる岩場に陣取り、目には見えない対岸から飛んでくるはずの一羽の鳥を待っている。鳥が来るという連絡はなかった。ただし予兆はあった。来るかもしれないという予感だけで、マミゾウが動く理由としては十分だった。
こめかみを掻き、頬を掻き、首筋を、鎖骨を掻いて、遠い昔に行き過ぎた昔話を思い返す。最後に会ったのは百年前以上も前で、それ以来何の連絡もしてこなかった意地の悪い妖怪。
「ふん」
苦笑交じりに、眼鏡を押し上げる。
名前を何と言っただろう、思い浮かべるのも若干の時間を要する。
懐かしさすら覚えるその名を呟こうかと唇を開いた時、彼方を見据える視線の先に、一羽のカモメが映った。白く大きな翼を広げ、真っすぐに彼女に向かって飛んでくる。
マミゾウは爪先でふくらはぎを掻き、待ちくたびれたとばかりに粗い岩肌を蹴る。そして止まり木はここだと言うように、めいっぱい腕を伸ばす。
カモメは上空にて彼女の存在を確認し、心なしか畏まった様子で彼女の腕に降り立つ。お疲れさま、とカモメの羽を優しく撫で、その嘴に指先を添える。
まぶたを閉じ、ウミネコの鳴き声に意識が掻き乱されないよう、カモメに充てられた言伝を聞く。
「ふむ。なるほど」
ものの一分もしないうちに、マミゾウは遠くの地より伝えられた言葉を受け取った。役割を失ったカモメを解放し、しばし逡巡した後、いずこかに飛び去っていく渡り鳥を見送って、マミゾウはやれやれと腰に手を当てた。
預けられた伝言を受けて、どう動くべきか。
旧知の友は、助けて欲しいと願っているようだが。
さて。
「のう、鵺よ。古狸は生きておるぞ」
眼鏡の奥の目を凝らしても、目には見えない幻想の地を睨み、マミゾウは歯を見せて笑った。
棲み処に帰る途中、顔見知りの子どもと遭遇する。似た背格好の男子と女子、確か双子といっていたか、マミゾウによく懐いていた。彼らの親とも近所の住民とも面識があり、不審人物と通報される心配もない。
「おばあちゃんだー!」
「マミゾウおばあちゃーん!」
「ははは、おばあちゃんと呼ぶなと言っとるじゃろう。ぶん殴るぞ」
「おばあちゃーん! ふゃひはははは!」
「んん? 言うことを聞かないのはこの口かな?」
男の子のほっぺたを限界ぎりぎりまで引っ張るのも、マミゾウの日課となっていた。女の子はあわわあわわと狼狽えるばかりで、有効な手立てを講じることができずにいる。
ちなみに、マミゾウは人間形態であっても耳と尻尾を隠さない。完全な人間の姿を取れば、人の社会に溶け込むのは容易い。ただ、マミゾウは化け狸のまま人と共に在ろうとした。
それが成功しているのかどうか、今はまだ解らないけれど。
「ん、どうした、もう降参か」
「うるへー! もががっ」
マミゾウが子どもたちと戯れていると、これまた狸の耳を生やした長身の女性が、住宅街の角から歩いてきた。マミゾウたちの存在に気付くと、切れ長の目をふっと細めてそちらに近付いていく。
彼女の存在に気付いて男の子のほっぺたから指を離すと、子どもたちはわらわらと彼女の膝元に駆け寄っていった。
「あっ、おねえちゃん!」
「卯ノ花おねえちゃーん!」
「そっちは普通におねえちゃんなのよな……何かが間違っていると思うのじゃが……」
「口調の問題ですよ」
卯ノ花と呼ばれた化け狸が苦笑交じりに指摘すると、マミゾウはふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。子どもたちの頭を撫でている時の卯ノ花は、マミゾウに負けず劣らず緩んだものであった。
ひとしきり子どもたちとじゃれ合い、それぞれに満足したところで子どもたちは自分の家に、マミゾウと卯ノ花も棲み家に戻ることにした。陽が落ちるのも早くなった。夕闇に長く伸びる影がふたつ、大きな耳と尻尾をぶら下げて揚々と歩く。
その道すがら。
先に足を止めたのは、卯ノ花の方だった。
「どうした。まだ愛で足りなかったか」
「それは、あなたの方でしょう」
街灯の火は既に灯っている。夕日と街灯の明かりが、狸ふたりにふたつずつの影を作る。
卯ノ花には、獣の耳こそあれど巨大な尻尾はない。それは、人と交わって生活する中で邪魔になるものは排除しようという、合理的な判断によるものだった。服装も、羽織袴を崩したようなマミゾウに対し、卯ノ花はセーターにジーンズを合わせて着こなしている。その比較は思想の対立でもあり、お互いを否定することはないけれど、いずれはどちらかの立場に寄るべきだと暗に迫っているようでもあった。
狐のように、細く尖った眼がマミゾウの横っ面を刺す。
「便りが、届いたのではないですか。式神が空を行き過ぎました。あれは、二ッ岩の式神ではあり得ない」
卯ノ花が空を見上げると、ちょうど上空を飛んでいたカモメがふたりの間に降りてくる。そのカモメは、海岸でマミゾウが出会ったものと同一の個体であった。正確には、カモメが便りを運んできたのではない。カモメそのものが便りの役割を果たしていたのだ。
卯ノ花が指を弾くと、カモメはその姿を一匹の蛇へと変じ、その蛇もしゅるしゅると身をくねらせながら近くの茂みに逃げ込んでいく。操り手を失えば、蛇もただの生き物に転じる。人の世に放しても問題にはなるまいと、卯ノ花もマミゾウも理解していた。
マミゾウは、バツが悪そうに頭の後ろを掻いて、踵を電信柱に打ち付ける。八つ当たりというよりは、誤魔化しようのない気まずさをそれでも何とか薄めようと努めた結果であった。
「……別に、隠しとったわけではないぞ」
「嘘おっしゃい」
ぴしゃりと看破され、マミゾウは見る間に目を泳がせる。目尻のあたりをしきりに掻いている狸の長老を前にして、卯ノ花は大きく溜息を吐いた。
「……鵺ですね」
断ずる。
卯ノ花も、マミゾウと同じくらい長い時を生きてきた。その中で、遥か昔に京の都を脅かした伝説の妖怪の名も聞いている。また、その妖が使用する常套手段も。
「どんな内容だったのですか。この期に及んで、何も知らないとは言わせませんからね」
厳しく問い詰められ、マミゾウも返事に窮する。どう答えるべきか、卯ノ花を上手い具合に言いくるめられる方法はないかと模索しながらも、そんな都合の良いものはどこにもないのだと解っていた。
人に依るか、妖に寄るか。
その境界線上に立ち続けることは難しい。マミゾウでさえ、最善の策を取れているとは思っていない。人と妖の共存を計り、結果としてマミゾウが、卯ノ花がこの島に生きている。海を境にした広大な地にその理念が通用するか否か、彼女たちには知りようもない。
もはや羽虫が火に入る季節は過ぎた。袖口を掠る風は肌寒く、何かを羽織らなければ凍えてしまいそうだ。
「噂には、聞いたことがあるじゃろ。忘れ去られた者たちが集う幻想の郷を」
袖の中に手を入れて、マミゾウは海のある方角を向く。卯ノ花は目を逸らさず、わずかに眉を潜めた。
「……二ッ岩が、人々から忘れられると?」
「さて、どうかなぁ」
苦笑する。その可能性は否定し切れない。最盛期のマミゾウを知る卯ノ花からすれば、苦もなく自嘲するマミゾウの姿が腹立たしくてならなかった。
「まぁ、そう難しい顔をするでない。儂もまだまだ現役のつもりじゃて」
冗談めかして、力こぶを作ってみせる。卯ノ花は苦虫を噛み潰したような顔をしている。昔のように頭を撫でてやろうと手を伸ばしても、卯ノ花は容易くその手を払いのけてしまう。
「行くのですか。その地に」
「助けを求められたのでな。邪険にするわけにもいくまい」
「お帰りは、いつ頃に」
「それはわからん」
素っ気なく答えるマミゾウに、卯ノ花は露骨に顔をしかめた。
「なぁに、戦争に行くわけでもなし、狸らしく化かし合いに専念するわい。留守の間は頼んだぞ」
「……子どもたちが寂しがります」
お前もじゃろ、と不意に呟きそうになるけれど、マミゾウの手を簡単に払いのけた卯ノ花に、安っぽい同情は禁物である。マミゾウにしてみれば、卯ノ花ほど寂しがりの狸もいないのだけど。
「安心せい。いつになるかはわからんが、必ず帰るよ。儂もたまには外の世界を見たいのでな、気楽な物見遊山の旅に興ずるとしよう」
小さな丸眼鏡を押し上げて、屈託のない笑みを浮かべる。
引き留めても無駄だと悟り、卯ノ花も力のない笑みを零す。寂しさに瞳が潤むほど幼くはない。苛立ちを声にするほど若くもなく、全てを受け入れて背中を叩けるほど老いてもいない。
多くの狸がマミゾウの下から去った。死に別れ、生き方を違え、時代に取り残され、海の彼方に飲み込まれていった。
「約束ですよ」
「ん」
「必ず、ここに帰ってくると」
マミゾウは、自信たっぷりに頷いた。
その後で差し出したマミゾウの小指に、卯ノ花が小指を絡めることはなかったけれど。
引き留められるのは嬉しいものだ。ならばそれには応えねばなるまい。旧知の友の危機を救うように、故郷の地を守る同胞の約束を果たすために。
「――そろそろ行きましょうか。お腹も空きましたし」
「そうじゃのう。狸は狸らしく、腹を膨らませておらんとな!」
「それはあなただけです」
「うぐっ」
ようやくふたりは街灯の下から抜け出し、暗闇に落ちた住宅街を歩いていく。
いつものように他愛のない話をしながら、わずかばかりの寂しさを言の葉に乗せて。
それから、一週間。
近所周りの挨拶も終えて、マミゾウは島を発つこととなった。子どもたちはまたすぐに会えると信じているらしく、特に寂しさを感じている様子はなかった。いつものように、おばあちゃん呼ばわりする男の子の頬を引っ張り、頭を撫でて飴を配る。ただちょっと飴の量が多かったのは、しばらく会えなくなると見越してのことか。
船に乗る時は、耳と尻尾を隠して。
見送りに来た卯ノ花と子どもたちに、仲良くするよう言い聞かせる。卯ノ花にすれば、マミゾウの方が男の子に優しく接するべきだと思うのだが。
「んじゃ、達者で暮らせよー」
呑気に、徳利をぶら下げて卯ノ花たちに背を向けるマミゾウは、普段と変わりなく見えた。こうもあっさりと別れを告げられては、別れる前から寂しさを募らせている自分が馬鹿みたいに思えてきて、卯ノ花はその背中に飴を投げつけたくなった。
船縁に立ち、子どものように手を振るマミゾウを、卯ノ花は黙って見守っていた。やがてマミゾウを乗せた小さな船はゆっくりと進み始め、彼女の姿も徐々に小さくなっていく。
子どもたちは、マミゾウが見えなくなるまで手を振り続け、声を上げ続けた。いなくなってからも、船が行ってしまった方角を眺めていた。卯ノ花もまた同じで、何か彼女を勇気付ける言葉を掛けるべきだったのではないかと、今更ながら後悔の念に苛まれていた。
その、卯ノ花の袖を引き、子どもたちが彼女を心配そうに見上げていた。
「……うん。大丈夫よ」
そんなはずはなかった。
けれど、見透かされていると知っていても、子どもたちの頭を撫でて、安心させてやらねばならなかった。狸にあるまじき不器用さで、化かし合いなら勝負にもならず、人間にも負ける情けなさだけれど。
マミゾウが笑って行ったのならば、自分も笑って見送らなければ。
そうして、いつか彼女が帰ってきた時に、笑いながらほっぺたを引っ張ってやれる自分でありたいのだ。
だから、ほんのちょっとだけ震えた指で、卯ノ花は子どもたちの髪の毛を梳いた。良い子ね、と、しゃがみ込んだ卯ノ花の胸に、子どもたちが一斉に抱き着いてくる。
風は海から吹いて潮の匂いを抱き、港を行き過ぎて山の香りに溶けていく。
遠く、汽笛の音が響く。校舎の鐘が埠頭に鳴り渡る。
港に打ち付ける波飛沫は、彼女たちに届く前に、砕けて落ちた。
いつまで幻想郷に留まるつもりなのか気になるところです
こんな生活をマミゾウが送っていたとしたら、ぬえに「妖怪の味方になってくれ」と言われたとき、いろいろ思うところもあっただろうなあ、と想像してしまった。
短い中に味がある、いい短編でした。
情感溢れるお話でした。マミゾウさんマジ狸。
単純に『幻想入り』という言葉で済ませるには、実に勿体ない要素ですよね。
やっぱりマミゾウさんは東方界隈に新しい在り方をもたらしてくれたな、と思います。
そっと寂しくなる、とてもよいお話でした。
バックストーリーやこの先の展開の想像の余地がありますね。
なぜだろうこのキャラはバッドエンドになる絵がまったく想像できません。