この作品は前作、前々作と出来事や世界観を共有しています。
未見の方はお手数ですが、こちらからお読みいただけると本文中の不明な点が少なくなるかと思います。
言い訳をするつもりもないが、腕時計を確認するとどう弁明したものかつい考えている自分に気付く。
約束の時間が過ぎているのだ。とっくに、と言うほどではないにせよ、待ち合わせ相手に不安を抱かせる程度には十分な遅れだ。
(これは、怒られるか……?)
雪がちらつく旧都の目抜き通りを急ぎ足で進みながら、水橋パルスィは先行きをシミュレートしきれずにいた。生来五分前行動をもってよしとしてきたため遅刻すること自体初めてのことだし、あいつがこういうときなにをどう言ってくるかなんて、完全にパルスィの把握するパターン外の話だったから。
まぁ、謝らなければならないだろうな。と、しばらく考えた末に思いつく。
あいつに謝る。
(なんか嫌だなー)
別に、特に理由があるわけでもない。パルスィがあいつと対立していたのはもうだいぶ前の話だし、そのときにしたってパルスィは暴走状態にあった。今さらあいつに頭を下げるくらい、なんてことはないはずだ。
だからこんなことを思ってしまうのは、ただの生理的な嫌悪感だ。負けを認めることに対する口惜しさともいうか。
(いや、待ち合わせは勝負ではない……)
面倒くさい性格なのは、もう自覚している。それに相手が相手だけに、考えれば考えるほどあとでバレて、どつぼにはまるのは目に見えているのに。
角を折れて、大通りよりは少し寂しい路地に出る。あいつが予約しているはずの隠れ家のような店があるのもここだ。あいつとふたりで食事するときはいつもここで、五分前に現れるパルスィを、あいつはここでほけっと突っ立って待っているのだ。
今日もまたそうだった。五分前を逸脱している点以外は同じだ。
やわらかそうな薄桃色の髪にふちどられた、表情の読みにくい幼い顔。パステルブルーのオフショルダーブラウスは歳を考えればちょっと少女趣味だが、こいつが着る分には本当に似合う。上から着込んだ真っ白ふわふわの起毛コートも。その裾からのぞくスカートもブーツも。ファッションなんて詳しくないが、なんかお洒落で季節感ばっちりで高級そうだ。
こっちはほぼ仕事着のまま駆けつけてきているというのに……!
ひと目でわかるほどめかしこんできているそいつに言い知れぬ苛立ちを覚え、謝るのはやめにしようと心を固める。
「……さとりー」
謝らないなら謝らないで第一声に困ったが、無難に名を呼ぶ。
そいつ、古明地さとりは、そっと首を傾げるようにこちらを向いた。
「あ……」
さとりは。
白い息をほぅと舞わせて、微笑んだ。ぎくりとしてしまった。こいつが怒っててくれたほうが、まだなにか言いようがあったような気がする。
「……今日みたいな日は、店の中に入ってれば良かったのに」
だが、まだまだだ。これしきのことで罪悪感に負けるパルスィではなかった。まだまだ、待たせたことなどまるで気付いていないかのように振る舞ってやる。
「いいんです。雪を見ながらただあなたを待つというのも、楽しいものですから」
「ぐっ――」
ただ本心を語るように、さとりはするりと言った。胸に鈍痛が走る。
こいつのこういうセリフを額面どおりに受け取っていいと気付いたのは、いつだったか。
いやいやしかし、鼻と頬を赤くしておいて、頭に雪を積もらせておいて、こいつはなにを言っているのか。
「……遅れて……ごめんなさい……」
罪悪感に打ちのめされて。
パルスィは謝罪の言葉を口にしていた。
さとりは控えめな微笑を浮かべて、鷹揚に許してくれた。
髪についた雪を払ってやって、ふたりで店に入った。ゆるく絡めた指がずいぶん冷たくて、パルスィは後悔した。やはり、もっとはやく来てやるべきだったのだ。五分前に間に合うように。
もうお互い顔なじみとさえ言える店員に会釈をして、いつもと同じ奥まった予約席に座る。全体的に照明は暗めの店で、落ち着いたデザインのテーブルが広めの間隔で並んでおり、かつ古いレコードが常に回っているため、隣の席の会話も気にならない。店員もまたしつこく話しかけてこないという、こいつが好む環境だ。パルスィはといえば、最初に連れてこられたときにはこの気取ったテーブルをひっくりかえして暴れてやりたい衝動に駆られたが、まぁ、慣れた。
もうこの店に通うこと、一〇回を数えている。それはつまりこいつ――古明地さとり――との逢瀬も同じ回数だけ行われているという事実を示す。
向かいに座った連れの顔をなんとはなしに眺めていると、目があった。ほぼ凝視していたから当然だ。
湯飲みで手を温めながら、さとりがその小さな唇を開く。
「ひさしぶりですね、パルスィ」
「大げさね。まだ二週間くらいでしょ?」
今日は、パルスィが恐れ多くも地底の特命全権大使に就任してから初めての休暇だった。長らくの地底勤めとおさらばして太陽の下で晴れ晴れと仕事をするというのは、周囲の羨望の目を集めまくった。それはほんとうに気分のいいことだったが、地上での激務ぶりといったら縦穴の閑職が既に懐かしくなっているほどである。
「一日千秋の想いで、この日を待ってたのです。一四〇〇〇年ぶりです」
「……さすがにさぁ、わたしをからかいすぎなんじゃあ……」
「パルスィは、わたしがあなたを想うほどに、わたしを想ってはくれないのですね」
「からかいすぎだ」
半眼で告げてやると、さとりは小さく舌を出した。
実際こいつはそんなに暇じゃない。いつも地底のことをあれこれ心配して画策に告ぐ画策を練り、または数多抱えるペットたちをやきもき心配して世話という世話を焼いている。
地底のおかあさんみたいなやつだ。
「さすがにそんな歳ではないと思いますがー」
心の声に突っ込みを入れるな! とさとりを睨みながら念じる。こいつは覚、心を読む妖怪だ。その生来の能力を疎ましく思っていた時期が、パルスィにはあった。それが原因で、こいつと対立したことも。
そういう負い目があるから、ときにこいつが地霊殿の主としての立場を忘れて甘えてきたとき、ついついたしなめられずにされるがままになってしまうのだ。
そして遠慮なくそこにつけこんでくるさとりは、悪女だ。悪女以外のなにものでもない。
「ひどいこと考えてますねぇ」
「うるさいな。――で、地底はどう? なんか変わったことあった?」
「ちょいちょいとは……再開発地区がようやく形になってきた程度ですか」
「……ひさしぶりだってのに、仕事の話ってのも、なんかアレねぇ」
「あ! ひさしぶりですよね、やっぱり!」
言葉尻をつかまえて、さとりはにこっと笑った。思わず眉間に力を込めてにらみつけると、さとりは笑顔をひっこめてきりっとした表情をつくる。
「お空の様子はどうですか?」
「あんたのそういう顔ってものすごく信用ならない。不思議」
「お空の様子ぅ」
「はいはい。足ばたつかせない」
テーブルの下で暴れるそれを軽く蹴って鎮める。ペットたちにこんなとこを見られでもしてみろ、幻滅されるぞ――いや、幻滅されるべきだろうかこんなやつは……
「かなり優秀ね、あの子。割と礼儀正しい部類に入るし、勉強熱心だし。最近は河童と一緒にヤタガラスの研究してる。専門的過ぎて話がよくわかんないのよね、たまに」
「へぇ……」
そのときばかりはさとりも素直な反応を見せた。うれしそうにうなずいたのだ。
「元気そう」
「元気元気。あのなんとかいうオレンジ色の棒? が直ってからは、そりゃもう」
「ふふ、先方に迷惑をかけたりしていませんか?」
先方、というのは地上の怪異の総本山、『妖怪の山』のことだ。地底妖怪の監視役でもあるが、今のところ良好な関係を構築できている。ともに間欠泉地下センターの完成という目標を目指している、という部分が大きいだろう。
地霊殿も妖怪の山も、出向してきているのが昔を知らない若い妖怪が多いということもプラス材料に数えられる。若いやつらの交流はいいことだ。まさに彼女らこそが、これからの時代を背負って立つ者たちなのだから。
思考が年寄り過ぎる? 自分よりも年上の者が聞いたら笑うだろうが、これが後進の妖怪に対する思いであることに偽りはない。
ようやく料理が運ばれてきた。店主の技術と工夫が凝らされた創作和食だが、難を言えば注文してから運ばれてくるまでが結構遅い。そして――実は――格段においしいということもない。よって客も少ない。落ち着けることだけがこの店の武器で、その切っ先に見事にやられるさとりのような客が主な養分だ。
とはいえパルスィにとっても嫌いな味でもない。なんといっても座して待てば食べ物が出てくるのだから、たまには外食もいいものだ。いや、最近は、外食ばかりだが……
「そうだ。聞いてよ、さとり。地上でさ、毎晩飲みくらべ挑んでくる神さまがいて大変なのよ」
「へ、え」
「天狗どもも、あんなにザルな奴らだったっけ? ってくらい飲むし。あれに対抗できるのは鬼くらいよね」
「……楽しそうじゃないですか……」
「外交官ってのはああいうのが仕事なの? 今度経費で胃痛薬買っていい?」
「どーぞー。まぁせいぜい経理担当にばれないようにお願いします」
「ん……?」
なんかこいつ、急にむくれだした? 行儀悪く箸でぐるぐる味噌汁をかきまぜている。
いまなに言ったっけ、と自分の言動を考えてみる。
「……ああ、いや別に、毎晩と言っても、ほんとに毎日ってわけじゃないよ」
思い当たった。なんでこんな弁明めいたことを言わなけりゃならない? と思わないでもないが、とにかくやんわりと伝えてみる。
「うしろめたいことがないならその言い訳は出てこないはず……」
「ええー……いまなんか怒ってたじゃないの。だから」
「怒ってなんていません」
どう見ても怒っています。火に油を注ぐようなセリフは、ぷいと顔をそむけたさとりにはとても言えなかった。
ああ、話題選びに失敗した。破天荒なやつに捕まって、同情してもらえると思ったのに。
「むぅ……」
「……」
「……」
「……」
「……うー」
「はぁ……すいません。大人げなかったです」
黙っていたら許してもらえた。パルスィの思考を勝手に読み取ったのだろう。
「……いや、ほんとに節度は守ってるよ。先方もそうだしさ」
この機にさりげなく自分をフォローする。隙を見せたらそこを突く、戦いの基本だ。というか、事実そうだ。神さまというのはとにかく酒好きで、地底の話をやけに聞きたがってくるのだ。大使館の部下たちが潰されるのもおもしろくないから、パルスィは仕方なくその身を盾にしているだけなのだ。
それを聞いてかえって気にしてしまったのか(狙い通りだ)沈んだ表情で、さとりがぽつりと言った。
「なんかこういうとき、あなたの気持ちが、ちょっとだけわかるんですよね」
「うん? わたしの?」
「ええ。嫉妬……してしまいます」
その切なそうな声音に、パルスィは含んでいたかきたま汁を吹いた。
「ぶふっ、げっほ、ちっ、違うから! そんなのする必要ない! 考えすぎ!」
口早に否定しながら、鼓動が早鐘を打つ。店員が布巾を持って近づいてきたので、それを奪いとって追い払う。
「はぁはぁ……なに言い出すのよあんた」
「うふ」
さとりはいたずらっぽく笑ったように見せかけて、頬が赤くなっているのを隠せていなかった。
詰めの甘いやつ……
食事を済ませて店を出る。と、冷たい風がふたりの身を縮こまらせる。
「さむっ、地底って寒いのね。初めて知ったかも」
「地上と比べるとそうでしょうねぇ」
身を寄せ合って家路に着く。休暇は三日間、いやおよそ二日半といったところだが、その間は地霊殿でやっかいになる予定だった。自宅のボロアパートも引き払わずに残してあるが、さとりが強く希望したためだ。
「つーか、あんたは薄着なのよ。鎖骨丸出しじゃない」
一度目につくと気になるそれに触れつつ、言う。
「もっと襟のしまった服着るか、マフラーで隠すとかしなさい」
「隠す……? 隠すというその表現、気になります」
「隠すのよ! いい!?」
「はーい」
さとりは楽しげに笑って小走りに逃げていく。数歩ほどしてから、あいつはぱっと振り向くとコートの前をぴったりあわせて見せ付けてくる。
「これでどうでしょう」
「ひとまずよし……いや待て」
「なんです?」
「明日、帽子とだて眼鏡買ってあげるわ」
「いやそんな……ヤマメちゃんの変装みたいな……」
アイドルにちゃんづけとはミーハーなことである。ほんとこいつ、ペットの前では偉そうなくせになんなの?
「でもパルスィのセンスは、ちょっと不安ですね」
「いいのよ、隠すだけなんだから」
「うふふ、もしや大事にされてます? わたしって」
「そんなことない」
「ないんですか!? ……あ、それに、大丈夫なんですか? 薄給なのに」
「給料削ったのはあんたでしょうが! いつになったら元に戻してくれんのよ!」
「そうですねーもうじき一年ですかぁ……」
ふっと遠い目をするさとり。言ったパルスィもちょっと気まずくなって、少し前のことに想いを馳せる。言うまでもなく一年前、パルスィのアパートに、ひとつの通知書が届いたときのことをだ。
それは、パルスィがさとりに背き、地底の治安を乱したことに対する処分の通知だった。
「給料、五〇パーセントカット……か……」
地霊殿で軟禁されて、ひたすらカウンセリングを受け続ける生活を終えて。アパートに帰ってきたパルスィを待っていたのは、非情なる沙汰であった。ついつい大きなため息を吐き出す。これは、まぁ仕方ない。もっとおおっぴらに逮捕されて地霊殿もクビで再就職さえ難しくなるという選択肢も、あいつにはあっただろうから。
ポストに溜まっていた郵便物を残らず回収して、二階の角部屋の扉を開く。
当然、なにも変わっていない。とりあえず荷物を玄関に全て捨て置き、ベッドにダイブしてやろうと立て付けの悪い中扉をも開け放つ。
「ん……ぅん?! なんだこれ!?」
ひと目で異変に気付く。窓だ。窓からガラスが消失して、変わりにダンボールをぞんざいに貼り付けて補修してある。
ダンボールには、読めなくもない字で『割ってしまいました。ごめんなさい! おくう』とさらに貼り紙。素直に信じるなら、近所の子供が遊びの一環で割ったのだろう。ガラスを割る行為そのものが遊びかもしれないが。このボロアパート一帯は比較的育ちの悪い妖怪が多かった。
すきま風の冷たさに愕然とし、しかし現実はそれに没頭することさえ許さなかった。
閉めたばかりの玄関からどんどん、と乱暴なノックの音がした。呼び鈴のような気が利いたものは、このアパートに存在しない。この叩き方は……
「ちょっと水橋さん! 長い間どこ行ってたの?」
扉を開けるのを逡巡していると、あろうことか勝手に鍵が外されて、大家のおばさんが部屋に闖入してきた。
「どこって、とっ、友達のところで厄介に……なんです、家賃は先払いしてあるはずでしょう」
誤魔化すために居もしない友達をでっちあげてしまった。逮捕されて地霊殿に禁錮刑を食らっていたなどと正直に言うわけにはいかなかったので、仕方ないのだが。
「なーにすっとぼけてんのォ! その窓のことよ!」
「え、えぇ……? 窓なんて、こっちが聞きたいところですよ。なんですかこれは」
「困るわよォ、こういうことされちゃあ」
「はぁ!? わたし、なんにも知らないよ!」
「水橋さんがやったんじゃないの? なんか誤魔化してない!?」
「知りませんって! だいたいわたしはたったいま帰ってきたところで……」
「こういうの、こっちでは補償できないから」
突然大家は無表情になって告げてきた。この呪われるべき大家がやる、いつもの手だ。大声で一方的にしゃべくってこちらに有無を言わせない。
「とにかくそういうことだから! その窓、いつでもいいけど水橋さんが退去するまでには直しといてね!」
物凄い勢いで言い捨てて。
大家は嵐のように去っていった。
「……」
残されたパルスィは、とりあえず二ヶ月ぶりに再会したボディピローに憤懣やるかたない拳を叩き込んだ。
「ああっ、なんなのよあのくそ大家! 足元見やがって! 引越ししてやるっ……!」
へこんだ枕に今度は顔を押し付けて(近所迷惑対策である)怨嗟を叫んだ。間違っても壁や扉などに八つ当たりをしないのは、経験上それがとてもよくない結果につながるとわかっているからだ。
しばらくベッドの上でじたばたしてから、顔を上げる。ひらりと一枚の紙が舞った。
どこにどう引っかかっていたのか、それは、さきほど届いたばかりの通知書だ。
「ああー……引越しなんてしてる場合じゃないな……」
給料半額カットはやはりきつい。しばらくはこのボロアパートで慎ましく生きるしかないのか。
実家に帰るか? いやいや冗談じゃない。もう数年以上、会えばいいひとは見つかったかだの孫はまだかだのと馬鹿のひとつ覚えのように言われているのだ。あれは認知症の前兆に違いないとパルスィは信じるようになっていた。とにかく毎日あんなことをねちねち言われたくはない。
他に頼れそうなのは。
(いねー……)
わかっていたことだが。ギリギリと歯軋りしながら認めた。
冷静になれ、水橋パルスィ。自分に言い聞かせる。今はそんなに落ち込むべき状態か? 給料は半分になったが、ゼロになったわけではない。もしそうだったときのことを考えてみよ。家賃が払えなくなってこの忌々しいアパートさえ引き払わなくてはならなくなり、あの忌々々しい実家に戻らざるをえなくなるのだ。そして家の者にぐちぐち文句を言われながら求職の日々……その上、自分は明確なる前科者……
それに比べれば、ずいぶんましな生活が期待できるではないか?
ありがとう給料、ありがとう地霊殿。ありがとう、古明地さとり。感謝は尽きることがない。だが。
(……さとり)
一度、あいつのことを思い出してしまうと――
自分を騙しきれなくなって、パルスィは再び枕に顔をうずめた。
地霊殿にいる間中、ただの一度も話せなかった。正直に言えば、機会がなかったわけではない。でも、地底のためにひたむきに働いているさとりの姿をいざ見てしまうと、自分がやったことをつい省みてしまって、言葉が出てこなくなるのだ。
さとりには、ひどいことばかりたくさん言ってしまったのに。
悪いことにそれは、本心だ。嫉妬をコントロールできなくなり、心の奥底に秘していた醜い感情を吐露してしまった。決して誰にも見せてはいけないと思っていたのに。
「さとり、ごめん……」
自分以外誰もいない部屋で言ったところで、そんな言葉はこの世に存在しないのと一緒でなんの意味もない。
「ごめん……ごめ、ん……うぅ」
そうと知ってなお、虚空に繰り返すことしかできない。パルスィには、他になにもない。嫉妬と、それを欺瞞する心の欠片だけが、パルスィの全て……
『自分の心を責めないで、パルスィ』
脳裏にこだまする、声。さとりが言ったことだった。
そういえば、あれはどういう意味だったのか。たしかさとりは続けて、『嫉妬は上へ向かう心』と言った。それはありえないことだ。嫉妬とは、どす黒い重力の渦のようなものだ。今もなおパルスィの足を地に縛り付けている、どろどろとした想念。心は目に見えなくとも、これだけは断言できる。
『見せてあげるわ――あなたの、心を!』
続けて想起した言葉に驚き、思わず身を起こしていた。
「そうだ……さとりは、わたしの心象を見せてくれた。あれは……」
地霊殿で無気力に過ごしているときは気付かなかった。
医者に質問責めにされているときも思い至ることはなかった。
自ら考えようとしなかったからだ。
全身を駆け巡る戦慄とともに、想起する。
あれは、後から噂で聞いたところによれば地上の人間、名うての妖怪バスター・博麗霊夢。その手練手管の代表的なひとつ。光芒放つ霊の符、夢想封印。
地底にはありえない輝き、例えるなら、夜を切り裂いて駆ける流星。細部に至るまであますところなく、くっきりと思い出すことができる。だからこそのトラウマであり、だからこそパルスィと同じようにさとりが再現できたのだ。
あの光に包まれたとき、パルスィは恐怖や痛みに心を濁していただろうか。
ただその美しさに忘我したのではなかったか。
「……窓、なんとかしなきゃ」
ぽつりと、声に出してみる。まずはそこからだろう。ガラス工務店に連絡をつけねば今晩中に凍死しかねない。考えはまとまらないままだが、思考を続ける必要があるならそれ相応のことをしなければならない。
パルスィはその晩、眠れない夜を過ごす。思索と、あとは窓ガラスが直っても吹き込んできたすきま風に悩まされて。
(……やっぱ引越しは考えておこうかな)
翌朝、ようやくやってきた眠気を抱えながら、地霊殿に出る。職場復帰の第一日目には最悪のコンディション。
パルスィは自身が所属する建設土木課において、縦穴管理係長を務めている。係長といっても部下はいないし、縦穴を通る用事もこれまでの地底妖怪たちにはまったく存在しなかったため、やることなんて一切ない閑職に過ぎない。一日中詰め所に控えてはいるが、任されてしまった書類仕事を片付けたあとは、持ち込んだ本を読んだり詰め将棋にいそしんでみたり、暇に飽かせて遊んでいるだけといったところだ。本のジャンルは特に問わないが、書店で目につくように並べられているものを読むことが多い。また、詰め将棋以外にも詰め碁に詰め弾幕といったバリエーションもある。
気が向けば縦穴を散策したりもする。どこから入り込んでいるのか、たまに迷子が見つかったりもする。パルスィも一度遭難しかけてからは、安全なルートの模索という意味もあった。その間、詰め所は空になっていたわけだが……
まぁいくら閑職だからといって、週初めの朝礼でさとりのありがたいお言葉を聞かなくていい、なんてことはない。
講堂には既にずらりとペットや職員たちが並んでいた。パルスィも隅の列の末尾にこっそり加わる。
タイミングよく、さとりが壇上に上がってくるところだった。
「おはようございます、みなさん。段々と春の訪れを感じられるようになってきていますが、今日は珍しく冷え込みましたね。季節の変わり目は体調を崩しやすいといいます。うちでも妹が風邪をひきました。みなさんも体にはじゅうぶん気をつけて、各々の業務に励んでください」
うっすらと微笑みながらすらすらと、さとりが話している。あいつは壇上から均等に視線を振っているが、数百名の妖怪にまぎれていれば、パルスィのことは見つけられまい。見つけられたとして、まさか壇上から個人に話をふっかけてくるわけもない。
(ま、安心してぼけっとしてられるってものよね)
本人の声を聞いたらなにか思いつくこともあるかもしれないと思ったが、どうもあてが外れたところがあった。やはり、直接話さなければ駄目か。謝るのもそうだが、あの言葉はいったいどういう意味だったのか……
「――また、かねてより計画が進められている新春地底統一王者決定トーナメントの開催も二週間後に迫っています。準備に怠りのないよう、各部署は報告・連絡・相談を密にお願いします。それでは今週もがんばりましょう」
(なんだって?)
今さとりが締める前になにか言った。かねてよりって、まったく聞いたことがない。仕事から離れているうちに、時流から取り残されているのを実感する。
困惑しているうちに妖怪たちははけていく。パルスィも慌ててその流れに乗ろうとしたとき、壇上でさとりがこちらを見ていることに気付いた。ひやりとした――あの三つの眼光にさらされるのもひさしぶりだが。
その場で固まっていると、さとりは傍らにいた妖怪に何事か申しつけて退場していった。
「……?」
と、今度はその妖怪が遠慮なく近づいてくる。なんとなく見覚えがある。赤い髪を三つ編みおさげにした猫、いや、火車か。ずいぶん険しい顔をしている。なんとなく私怨がこもっていそうな。
「あ」
「うん……?」
思わず声をあげると、火車はさらに目をすがめた。物凄くとげとげしい態度である。
思い出したのだ。この火車はたしかオリンとか呼ばれているさとりの手下だ。地霊殿で働かせながら非常時にはさとりの手足となって戦う役目を負うという、危険な妖怪。前回さとりと対立したときはこいつにも襲われて、弾幕を避わすのに苦心させられた。
「ハイ」
オリンはぶっきらぼうにA4サイズの封筒を突き出してきた。
「この中に、おまえが休職していたときの配布物が入っている」
休職、の部分が強調して発音される。そういう扱いになっている、ということか。おそるおそる受け取ると、オリンは鋭い一瞥を残して背を向けて、
「じゃ、確かに渡したから」
さっさと行ってしまった。たまたま不機嫌だった、などということはないだろう。
怒っていて当然だ。パルスィは、あの火車の目の前で、さとりの第三の目を踏み潰そうとしたのだから。
「にしても、さとりってなんでペットでもないわたしに温情をかけるのかな……」
地霊殿を後にして縦穴へ向かうため、寄り合い馬車に乗り込む。中途半端な時間帯で、車内はガラガラだ。後部座席に腰掛けて、遠慮なく封筒の中身を検める。どうでもいい懇親会の誘いとか、たまに職員がコラムを書かされる『地霊殿だより』とかは読み飛ばす。余計な印刷物のおかげで予算が圧迫されているというのに、こういうものはどうしてなくならないのだろう。必要な書類を白黒にしてまで何故……
「これか」
目当ての書類――『これからの地底を盛り上げていくために 新春地底統一王者決定トーナメントの開催のお知らせ』を探り当てる。先々月あたりに突発的に企画され、既に新聞の折り込みチラシなどで地底の一般家庭にもばらまかれたようだ。発案者は古明地さとりで、目的は再開発地区を更地にすることを含んでいる、とのこと。
「あのスラムは確かに、遊ばせとくのはもったいないな。それに犯罪の温床になりやすい。わたしも逃げ込んだのはあそこだったわけだし……」
口の中でぶつぶつ呟きながら要綱の二ページ目をめくる。
「え、なにこれ」
参加資格の項目。目を疑った。参加資格は、地底と地上に住む全ての妖怪と人間。
この募集要項は、まさか地上にも送られているのか!? 一体どういうことなのか、パルスィには理解できなかった。今までのさとりはどちらかといえば保守的で、こんなに積極的な策を打ち出したことはなかったのだ。
また地上から、人間が来る。今回は招かれているのだから、大賢者との取り決めにも地底の法にも抵触しないはずだ。
問題は、そいつらがどこから来るか。
(縦穴に決まってるだろ……で、そうなると……)
馬車から降りる。地霊殿からかなり離れ、田舎といっていい町並みが続く区域を、ここからは歩きで進んでいく。ほどなくして見えてくるのが、縦穴管理係のために大昔つくられた詰め所だ。ボロアパートと大差ない小屋だが、ほぼパルスィ単独の職場、つまりパルスィの城と心中で言ってはばからない場所だった。
その慎ましやかな城門を開けると、ふたりの妖怪が(たぶんパルスィと同じように)暇そうにだらだらしていた。
「あっ」
「水橋さん、ひさしぶり」
「あ、うん……ひさしぶりね」
三者三様、ぎこちなくあいさつを交わす。彼女らはパルスィと同じ建設土木課の職員で、たしか同期だったように思う。別段友達つきあいをしているわけではないが、まったく顔や素性を知らないというわけでもない。どちらもさとりのペットではない、一般妖怪だ。
「水橋さん、ご病気大丈夫だったの?」
「えっ? あーっ、とぉ……ああ、病気。ええもう。全然、元気……」
「そうなの。よかったー。こういうときってそのまま戻ってこないひと多いじゃない」
いったいどんな設定で休職扱いになっているんだ。どうやらそこまで奇抜な病気というわけでもないらしいのは、安心していいところだろうか。
「あの、どうしてここに?」
聞くと、ふたりは同情的な色を顔に浮かべた。
「今度さ、お祭りやることになったでしょ」
「お祭りって、なんとかトーナメントじゃないの?」
「まぁそれのことなんだけどね。それ、地上からも参加者を募ってるのよ。さとり様ってなに考えてるのかしら」
「で、そいつらを間違いなく再開発地区の会場に連れてくために、この詰め所へ一時的にでも増援を送らないとさばききれないって。そんなふうにさとり様が話してたわ」
予想的中だ。
というか、増援でもなければ詰め所がパンクする。ふたりでは足りないくらいだ。
「そういうわけだから、しばらくここで仕事なの。よろしくね」
「私物とかには触ってないから……その、にらむのやめてね」
「え? わたし、にらんでる?」
「う、うん。休み前からちょっと、機嫌悪そうなこと多かったよね……」
言われて、思わず眉間を揉みほぐす。考え事をしているときに癖になっているのだろうか。もしそうなら悪い癖だ。
「ごめんなさい。別にあなたたちのことを不快に思ってるわけじゃないから」
「そうなの。よかったー」
ふたりはようやく自然な笑顔を見せた。
なんだろう。もしかして自分は同期から怖がられているのだろうか。いつも自然とハブられるから気付かなかった。
仕事を終えて、アパートに戻る。
日中、既にちらほらと地上から気の早い人間や妖怪が現れていた。二週間も逗留の予定とはなんとも優雅、妬ましい限りだ。祭りの前に地底観光でもするのだろう。地底にもそれなりに歴史があるし、旧都はかつて栄華を極めた都市だ。警備の鬼の目があるにせよ、楽しむことはできるだろう。
「ふぅ、妬ましい。そんなときにわたしも警備の手伝いとかしてるんだろうな」
風呂上り、やすい発泡酒の缶を傾けながらぼやく。娑婆のお酒は最高です、などとお勤め明けから早速反省がないとも言える感想が出てくるあたり、カウンセリングも効果があったのだろう。裸の胸に落ちた酒滴を、指ですくいとって舐めながら思う。どんな形でもユーモアが出てくるならそこまで悪い状況ではない。
「……さとり、なに考えてんのかな」
髪をタオルでわしゃわしゃ拭いていると独り言が口から漏れていた。ここのところ独り言が増えている気がする。
ともかく整理すべき点はふたつ。
さとりが突然地上から人間や妖怪を呼び、なんだったか……とにかくトーナメントを開催するなどと言い出したこと。
そしてさとりに対してあれだけ暴挙をしでかしたパルスィの立場を、どうしてか守ってくれているらしいこと。
ああ、それともうひとつ。『嫉妬は上へ向かう心』という言葉の意味。
「っくしゅ」
くしゃみをして、身震いする。いつまでも裸でいたら湯冷めしてしまいそうだ。とりあえず下着と、寝間着がわりのキャミソールを身につけ、薄い座布団に腰を下ろす。
思えばこんな時間を過ごすことさえも、本当にひさしぶりだ。
半裸で発泡酒飲んでだらだらしてることを喜ぶなんて、なんかおかしいけど。
さて、まずはトーナメントだが。おそらくトーナメントそれ自体に必然性はない。さとりが企んでいるのは、地上から人間・妖怪を呼ぶこと。これはわかる。しかし、それが何故かと言われると、やはり答えに困る。今までのさとりは、地上とは不干渉を決め込んでいた。だからこそさとりは地上からの旅人を襲っていたパルスィを逮捕したのだ。
「あ、まだ次のページあった……」
今朝受け取った資料をさらにめくると、当日の日程と会場見取り図が載っていた。
トーナメントに付随して、いろいろな催しが予定されている。寄席や縁日、企業博覧会。黒谷建設ブースでの黒谷ヤマメのライブは目玉イベントのひとつに挙げられるだろう。あとは、活け花講習会や出張歯科検診はまだいいとして、怪しげなセミナーも腐るほどある。どれほど広範に客を呼ぶつもりなのだろう。地底開拓史始まって以来の一大フェスティバルだ。
つまりさとりはスラムの再開発にかこつけて騒ぎたくなった? さとりってそんなやつだったのか?
「わかんないやつだなーあいつって」
考えても仕方ないところにぶち当たってしまったかもしれない。
じゃあ、次だ。さとりが何故、パルスィを守ってくれているのか?
「同じことじゃないの!」
空になった発泡酒の缶を叩きつける。これもまた、さとりのことを理解しないことにはわからない。
「さとり……あいつ、なんなのよ……」
ちゃぶ台に突っ伏して、ぐったりと言ってみる。
どうしてこんなに、さとりのことばかり考えているのだろう。
数えてみると、逮捕されて以降ずっとだから……というか、それ以前だって考えていたといえば考えていた。憎悪を募らせていたのだって考えていたうちに入るだろう。だから、軽く半年(!?)はこんな状態だ。
さとりのこともよくわからないが、自分のことさえ理解不能である。
自分の内側を巡る『何故』と『どうして』があふれ出して、この狭い部屋を埋め尽くす。その疑問に答えられるものは何処にいるのか。
さとりが、パルスィの心を教えてくれればいいのに。
(不思議だな……あんなに読まれるのが嫌だったのに。今はそれを望んでいるの?)
誰かがこうだと自分の心の形を決めてくれるのは、きっと楽なことだ。認めがたいことを認めるときはそれが最も手っ取り早い。
全ての疑問の答えを、あいつは与えてくれるかもしれない。
さとりに会いたい。
でも、自分の心がはっきりしないのに、それをあいつに押し付けるのは――
『心が読めてるくせに、そういう言い方やめてくれる?』
『読めばいいでしょ、勝手に。言った通りのことだってわかる!』
――パルスィは、それは卑怯なことに思えてならないのだ。
次の日、業務開始から何時間かしてから、同期が出し抜けに言う。
「水橋さん、なんか悩んでる?」
「……そんなふうに見える?」
問い返すと、彼女はおっとりした仕草でうなずいた。二日酔いの苦悩が刻まれた頭を抱えての業務なのだから、まぁ自分は沈んでいるように見えたのだろう。
同期のもうひとりは、先ほどやってきた地上の妖怪を寄り合い馬車の停留所まで案内しているため、この場にはいなかった。だからか、今こちらにいる方はしょっちゅう話しかけてくる。
「なんかあるなら聞くよー」
「悩んでるというか……あ、そうだ」
この妖怪にも聞けることがあるではないか。思いついて、話してみる。
「さとり……様。さとり様って、なんで急にトーナメントなんて思いついたの?」
「ああ、それね。ほんとなに考えてるのかしら」
あっさり望みを砕かれる。やっぱり知らないみたいだ。
「でも、たぶん」
「ん、なにか心当たりがあるの?」
「変わろうとしてるんだろうなぁって、わたしみたいに関係ない下っ端にもわかったなー」
「え――」
「あれ、わたしそんな変なこと言ったー? ほらさとり様って無表情なことが多かったじゃない。近頃はなーんか面持ちがやわらかいような」
確かに昨日の朝礼では終始笑みを浮かべていた。
それに、あいつはもっと話を簡潔に切り上げるタイプだった気がする。
「水橋さんが悩んでるのって、さとり様との関係なの?」
「え!? いやいや、違うわよ。なんでそんなこと」
「いやぁ、悩みはなにって聞いて、さとり様のこと話すからさー」
「違う、違うのよ。別にわたしはさとりのことなんて」
「あはは! 『さとり』なんて呼び捨てじゃない! さとり様と親しいの? ていうかなにぃ、もしかしてコイバナぁ?」
まっさかねー! と同期はひとりで大爆笑した。会話のペースが掴めない。普段ひとと話さないものだから、どんな顔で、どんな調子で話せばいいかもよくわからない。ただなんとなくむすっとしてしまっていると、同期はあわてた様子で謝ってきた。
「ごご、ごめんなさい、水橋さんってクールに見えるから、ついおかしくって」
いよいよわからないことを言い出すものだ、と思った。
「わたし、クールじゃないよ」
「そうなの?」
「もっと……癇癪を抑えられない、子供っぽいやつよ。わたしは」
「そうかな? そういうのわかってるのって、大人っぽいと思うけど」
「わかってるふりして大人ぶりたいのよ」
「そうなのかなぁ」
同期は釈然としていないようなことを言って、腕組みをした。目を閉じてうんうん唸っている善良なその妖怪に、パルスィは続けて言ってやった。
「でなけりゃね、悪いことして謝ろうってときに、あれこれ理屈つけて先延ばしになんてしないわ」
大きなため息をつく。
結局のところ、話は単純にそういうことなのだろう。まずは素直にごめんなさいと言えばいいところを、やすいプライドが邪魔している。だがそれは値の多寡に関わらず、無視できるものでもない。無視していいものでもない。パルスィという妖怪の性質がそうなっているのだから、もう根っこの部分から子供っぽいのだ。
「さとり様に謝りたいのね、水橋さんは」
「話を好き勝手につなげてくるわね、あなた」
皮肉を交えて攻撃してみるが、同期はそれを理解しなかったようだ。首を傾げて不思議そうにしている。
「だってそうなんでしょう」
「えーと……まぁ、うん」
今さら隠すこともないか、と諦めて首肯する。逮捕のことは間違っても口を滑らせないようにしよう。
「なにやっちゃったの、水橋さん」
あまりにも興味津々といった同期を軽く押し返しながら、パルスィは考える。
ことをぼかしつつ、大事なことだけを相談する……となると。
「あいつにひどいこと言っちゃって……口でも思考でも」
これくらいしか言えなかった。実際は言ったどころではない。弾幕でぼこぼこにした。
「あーさとり様は覚だもんねぇ」
同期は大体の話を理解したような反応である。なんの種族か知らないが、こいつも覚か?
「要は痴話げんかでしょ!」
「そろそろ真面目に仕事しようかしら……」
「えッちょっと水橋さん! 無視しないでよー」
パルスィは鏡を見たいと思った。いま自分のこめかみを見たら、きっと青筋が立っているはずだ。
本気で無視して書類にペンを走らせる。書面は、トーナメント当日までの増員要請。パルスィの裁量で課長にかけあえる範囲内の要請なので、さっさと書いて印鑑を押す。横から同期がまだなにか言っているのが耳障りである。
「謝るときは、自分の本心を言うのが鉄則だよー。そこ誤魔化してもしょうがないからね」
「……本心ね」
つい、反応してしまう。
「本心で傷つけちゃったら、どうすればいいわけ?」
「それはだから、しょうがないよ。でも水橋さんの場合は問題ないでしょ……ちょ、ちょっと。にらむのやめてって」
「どういうこと? わたしの場合って」
我知らず、言葉に力がこもる。なぜ、覚妖怪でもない他者が自分の心を語ることができるのか、不思議だったから。
「だって水橋さんはさとり様と仲直りしたいんでしょ。さとり様は覚なんだよ。本心なんて見えて当たり前だよ」
「だからわたしは、どう取り繕ったって、謝ることなんて……」
「この場合、自分の本心というのは正しくなかったね。えっとねぇ」
同期は一度言葉を切って、また腕組みをする。虚空を指で叩くような仕草。言葉が出てこないらしく、散々苦心しながら(そしてパルスィをいらつかせながら)脳裏を検索している。
「――そうそう、思いついた」
「そんな行き当たりばったりな考えを伝えようとしてるの?」
「まぁ聞いてよ。つまり重要なのはね、本心が見られてる状態で、その上で水橋さんがさとり様になにを伝えたいか」
「……それは、嘘をついてるのと違うの?」
怒鳴ってやりたい気持ちを抑えながら、パルスィも苦心して同期の言葉を解釈する。
「うん。違うと思うよ。仲直りしたいっていう気持ちが嘘じゃないんなら」
「……嘘じゃ……」
「わたしもさぁ、あいつと――いま停留所まで行ってるあいつね――よく一緒にいるわけだけど。むかつくこと多いんだよね。水橋さんにはびびってるけど、わたしには強気で横柄な物言いが多いの。でも、友達なんだ」
「仲が悪いの?」
「ううん。こないだもふたりで一緒に遊びに行ったよ。ただ、誰かを好きだなーって思うのと、その同じ誰かを嫌いーって思うのは、両立しないものじゃないんだよ」
それは、例えばパルスィに置き換えるとするなら。
さとりを好きだという――違う、さとりに謝りたいという気持ちは。
さとりを嫌う気持ちがあったとしても、存在を許される、ということ。
並べてみれば確かに矛盾していない。この時点でもうパルスィとさとりの間にはなんの障害もないように思えた。
でも、なんとなく、それは。
「不実に思えるわ……」
「水橋さんは真面目だね……でもひとの気持ちなんて、オンオフで語れるものじゃないんだと思うな。いろんな気持ちでどろどろなんだよ、心って」
「どろどろか。そうなのかな……」
「まぁ、わたしもひとつの意見だって以上に主張はできないんだけど」
勢い込んで語っていた割に、同期は自説を強硬には支持しなかった。
だからか、やはりなんとなく、パルスィは彼女をフォローしていた。
「だけど……参考にしてみる」
「水橋さんの助けになってるといいけど。あ」
声につられて顔をあげると、旅人を停留所に送り届けていた方の同期が詰め所へ歩いてきていた。もう何度も往復しているため、へとへとといった様子だ。彼女はこちらが眺めているのに気づき、力なく手を振ってくる。次はあんたたち行きなさいよ、と。
隣の同期はうれしそうに手を振り返しながら、
「ああ、そういえばいまの……さとり様との話がコイバナだったときの想定なんだけど、大丈夫かな?」
などと、とんでもないことを言い出した。
パルスィは確信した。こいつは典型的な甘味脳とかいう病気だ。
彼女には不実だと言ったが、パルスィはその一方ですんなりと腑に落ちてもいた。
たしかにふたつの想いが同居している。
さとりに自身の醜い心を読まれたくないという想い。
そして、さとりの考えていることを知りたいという想い。これを好意と呼ぶなら、もうそれは認めよう。パルスィはしばらく考えたが、他に当てはまる言葉を思いつくことができなかった。
ただの人間、博麗霊夢に負けたことで、パルスィは自暴自棄になって暴れた。遠からず自滅していただろうパルスィを止めてくれたのは、さとりだ。パルスィは、さとりに恩を感じている。あいつはパルスィの命を助けてくれただけでなく、元の生活に戻れるように配慮もしてくれた。
(わたしがあいつを憎む理由なんて、ほんとはなかったんだ)
マグカップの中の、ほぼ口をつけていない牛乳とコーヒーリキュールの混ぜものを見つめながら、ぼんやりと考える。
理由は、いつだって自分の中にある。パルスィがさとりを避けたいと思っているのなら、そのほんとうの理由もだ。
「嫉妬は、上へ向かう……心……」
避け続けていたその問いを、意識して口にする。
わかっているのかもしれない。いや、本当はわかっているのだ。自分の心なのだから。
さとりが己の心象を見せてくれたときから、きっと気づいていた。美しいものを素直に美しいと思う心が、パルスィの中にちゃんと息づいているのだと。
それを今さら認めるには、ただ無駄にした時間が長すぎた。
ただ美しくあろうとできなかった、不純な時間が長すぎた。
そんな自分を認めることができないでいた。
だから、さとりにも誰にも近付けなかったんだ。
心に絡みつく鎖を、ひとつひとつ解いていけるように。最初の錠前に鍵を差し入れる。
カチリと、軽い音を立てて、その機構は回転した。決意の瞬間というのは、この程度のものだ。
自分を認めてやるために、まずは、なにをする。水橋、パルスィ!
パルスィは酒を流しに捨てて、床に入った。鼓動が調子を変えて、寝入りを邪魔した。
順調に祭りの日(あの長ったらしい正式名称を使うやつは既にほとんどいない)が近づいてきて、それに伴って縦穴を降りてくる人間や妖怪も増えていた。妖精とか幽霊もどさくさ紛れに入り込んできていたが、止められるものでもないのでそのまま捨て置いた。せいぜい祭りのにぎやかしになってくれればいいと思う。
遅めに出勤してきた同期が、あくびをかみ殺しながら言う。
「今朝も無理だったの?」
「んー……あいつってほんと忙しいのね」
あいつとはもちろんさとりのことだ。隙を見つけて話をしようと狙っているのだが、パルスィはあらためて古明地さとりの怪物ぶりをまざまざと見せつけられることになった。始業から終業まで、彼女の秒刻みな予定に穴はなかったのだ。祭りの前で特に忙しいということもあるだろうけれど。
「ま、実質あのお方ひとりで地霊殿を回してた時期もあるらしいしね」
「え!? そんな馬鹿な」
「嘘でーす」
同期は一応秘密話をした間柄ということもあって、ふたりきりのときによく話しかけてくる。もう片方が停留所に行く隙にいちいちちょっかいを出してくるのはうっとうしいが、たまに参考になる話をするときもあるので邪険にしきれない。もっとも、パルスィが案内をしているときに筒抜けになっている可能性も無視はできない。
「痛いよ水橋さん! 最近突っ込みに容赦がないよ!?」
「ああそりゃごめんなさい」
「適当だなぁ……」
同期は口を尖らせていた。それを無視してパルスィは考える。一体いつ、さとりに会うことができる?
「まー順当にいけば、寝る前くらいは暇なんじゃない?」
「完全にプライベートでしょ、その時間は」
「プライベートなイベントだよ、仲直りは」
「そりゃそうでしょうけど……」
「大丈夫、わたし研究してきた。プログラムの、ほらここ見て」
同期は祭りの三日前となってようやく作成されたタイムテーブルを指さす。トーナメントの表彰式が終わってから、後夜祭までの時間。ほとんどの催し物が終了し.、会場の一部では片付けが始まることになっている時間帯だ。招待客の接待に追われるにしても、後夜祭の前半の時間を過ぎれば、さとりも暇になるのでは? と同期は言う。
「ふむ……ちょっと楽観的ね」
「がんばって考えたのにひどいよ水橋さん」
「ありがとう、考えてくれて」
「えっ!?」
「なんで驚くの」
「いや……いやいやいや、なんでもないよ!」
挙動不審に手足をばたつかせる同期。なんだかよくわからないが、えへえへとちょっと不気味な笑みを浮かべてうわつき始めた。
「望み薄でもやってみるのが成功へのステップだよね!」
「ええ……あっ」
ちょっとまずいことに気づく。スケジュール帳を思い出してみる。先日のミーティングで決まった当日の、警備係のタイムテーブルをだ。祭りの終わり際、そのときパルスィは……旧都南区域の巡回中だ。
「あれ、どうかしたの?」
衣服の下をどろりと粘稠性の高い汗が流れていく。
仕事をほっぽりだして、さとりに謝る? それは、またしてもなんとなく、なにか違っているような気がしなくもない。
大体、まだ職場に復帰して間もないというのに、怠慢ではないか。
それに今は、恥ずかしながら大減給を食らっている身だ。ここでまた無茶をして、それが上役たちの耳に入れば、パルスィは今度こそ職を失うかもしれない。
常識で考えろ、水橋パルスィ。
パルスィもさとりも、今日明日死ぬような危機にいるわけでもない。この機会を逃したところで、未来永劫謝れないわけでは、ないのだ。
けど……
「ねえねえ、どうしたの? 水橋さん?」
妥協したくない。もういつのことだっただろう。
きっといつかのパルスィは、こんなふうに最初のなにかを諦めたんだ。思い出すこともできないなにかをひとつひとつ捨てていって、代わりに嫉妬だけ詰め込まれたぬけがらみたいになっていったんだ。
「みーずはーしさーん、もー無視してー」
「うるさいな、聞こえてるよ……なんでもないよ、ごめん」
「んん……?」
決意が試されるのは、たぶんこういうときなのだ。こんななんでもない瞬間で、一歩を踏み出せないでいる。パルスィはもう、信じた道をただ突き進んでいけるような少女じゃないのだろう。
それでも。
曲がりなりにも、決めたから。
おっかなびっくりでも進んでやろう。そうしない理由ばかり考えるのは、もううんざりなんだ。
祭りの日がやってきた。まだ桜は五分咲きだが、陽射しからは暖かな春を感じる。
縦穴の通行量も大昔のパルスィやさとりたち開拓団が通ったときに次ぐ数字を記録し、地底妖怪と逗留する客たちが大小様々な揉め事を起こしながらも敢行された祭りは盛況を極めた。お互いの衝突さえも祭りの華とばかりに誰もが楽しんでいるようだった。
とはいえ度を越す馬鹿者を捕まえることも忘れてはならないのが、警備の役割だ。
首から提げたホイッスルを吹きながら、暴れる妖精の首ねっこを掴む。
「はい、神妙にお縄につく。言い訳は駄目よ、先に手を出したんだから」
警備の鬼に妖精を引き渡し、パルスィはため息をついた。旧都はどちらかと言えば静かな雰囲気の街で、ここまでの大騒ぎになっているところを想像できていなかった。
今日は一日中こんな調子だった。朝早くから警備スタッフ総出で巡回路のチェックをして街に繰り出し、往来をこれ見よがしに練り歩く。昼前になってお腹がすいてくると屋台の近くを通るのが辛かった。食べられたのは休憩時間に同期が買ってきてくれた焼きそばくらいである。
メインイベント会場である再開発地区の方からは、近づきもしないのに轟音が響いてくる。噂によれば鬼の頂たる山の四天王が、ふたりも警備を放り出してトーナメントに参加しているらしい。きっと天災レベルの弾幕を撒き散らしているはずだ。パルスィも一般妖怪程度には弾幕好きで、自分で研究していたりもするが、鬼のレベルには到底ついていけないだろう。
しかし、鬼のお偉いさんは仕事をなんだと思っているんだという考えは拭えない。鬼たちの組織はそういうところが大雑把で好きになれないのだ。
「ま、今回ばかりは……そういうやつが他にもいてくれたほうが、やりやすいか」
喧騒にまぎれこませるように呟く。
既に夕刻、間もなく人工太陽は完全に消灯する。それまでにトーナメントは表彰式を含めて終了し、その後すぐに後夜祭が始まる。パルスィが行動を起こすのは、ここだ。
といっても警備を束の間、抜け出すくらいだ。首尾よくいけばなんの問題も起きない。ただ、その首尾のほどはさとり次第。曖昧極まる。
パルスィは、しばらく通常に仕事をこなす。ぎりぎりまで働いていたのだと、あとで言い逃れることができるように。自分でも往生際が悪いと思う。
「さとり……」
雑踏の中、パルスィはあいつのことを考える。
地底の盟主、地霊殿の長、凶悪な能力を擁す覚妖怪の末裔。
そんな外殻に守られた、あいつの中身を知りたかった。あいつはどうして、あのときわたしを殺さなかったのだろう。あいつはこの地底で、どうしようもないほどに恐れられている。世襲で地位についたあいつを無条件で支持しているのはペットたちだけだ。それ以外の誰にも理解されないのに、地底の誰もを守ろうというのか? もう後ろ盾もないあいつ自身は政策をひとつしくじりでもすれば容易く失脚するというのに?
もしそうなら、あいつは……ただひたすら、理想を追い求めているのか。
「わたしとあいつに、どんな差がある?」
互いを照らし合わせて、答えは見つかるだろうか。
パルスィは、頃合を見て歩き出した。
「……また、ひとと比べて嫉妬して、落ち込むんだろうな。でも、それでいいんだ。大事なのは、そこから目を逸らさないことでしょ。たぶん――」
一歩を踏み出せば、意外と足は軽かった。重かったはずの枷となるものも、これから自分自身と向かい合っていく気持ちがあれば、力ずくで引っ張っていけるほどでしかない。それに、博麗霊夢が、そしてさとりが見せてくれたあの輝きが、たしかにパルスィの中にあるのだと思うと勇気がわいてくるんだ。
トーナメント会場に着いた。薄明かりに照らされた再開発地区は、もう存在していないと言ってしまえるほど更地になっている。目印もなにも消滅して、あの日逃げ込んだ倉庫までの道順を思い出すこともできないくらいだ。
そのかわりにいくつものかがり火が設けられ、そのまわりで酒や料理が振る舞われているようだった。参加者や見物客がそれを囲み、みなで歌っている。地底の妖怪も地上の人間も一緒になって馬鹿騒ぎをしている。大昔のわだかまりなんて、なかったかのようだ。
――さとりがしたかったのは、こういうことなのか?
同期が言っていた。さとりは変わろうとしていると。それは、地底を変えていくための先鋒となるためではないのか。
観覧席と思われる場所に、一際高くなっているやぐらを発見する。見張り台には見えない。こういうところで試合を眺めるやつというのは、見張りでなければ、主賓だ。
パルスィは浮遊し、やぐらに近づく。急に胸がどきどきと音を立てて血流を巡らせる。軽く胸を押さえながら、やぐらを覗き込むと――
古明地さとりが、やはりそこにいた。グラスを片手に、誰かと話している。白皙の妖怪で、さとりとよく似た顔立ちをしているがどことなく印象の薄い少女。かたわらに第三の目が浮かんでいるということは、覚妖怪であることは間違いないと思うが。
「妹、か……?」
ちょっと前の朝礼で、なにか言っていたような。
なんにせよ、やはりさとりは独りにはならない。自然とふたりきりになれるときを狙いたいが、もう姉妹水入らずの場へ闖入して連れ出してしまうか?
(いやそれはないだろ……!?)
益体もない想像を片付けていると、強い視線を感じた。さとりの妹が、パルスィを無表情に凝視していた。さとりがなにか話し続けているのをまるで聞いていない。
逃げたものか隠れたものか、そう長くはない間、逡巡する。そうしているうちに、さとりの妹は突然ふっと笑った。珍しい、お姉ちゃんとふたりきりになりたいなんてね。どうぞどうぞ。
「え……!?」
脳裏に、自分のものではない思考が差し挟まれた。
まばたきの後、さとりの妹の姿はどこにもなかった。
どうやら、妹にまで背中を押されてしまったらしい。むしろ退路を断たれたとも言えるが。
さとりは妹が消えたことに気づかず、虚空へと語りかける。
「わたしは地底のみんながすき。だから、この地底をもっと楽しい世界にしていこうって思って。今日はその第一歩としては申し分ないわ。充実しているの――すごく楽しかったわ」
その言葉を裏付けるように、地底の嫌われ者は笑っていた。やぐらからその下、たくさんのかがり火を眺め、まだ見ぬ明日へ想いを馳せている。
あいつのみっつの目には、この世界はどんなふうに映っているのだろう
「そんな世界にしていけたら、みんなも、わたしのことを……すきになってくれるかな」
パルスィは、浮遊したままさとりに近づく。
わたしと話をしよう、さとり。
「そんな簡単にはいかないでしょう。妖怪はそんなに単純じゃないわ」
ごめんなさいの一言を何ヶ月も口にできないやつだっているくらいだ。含蓄を込めて言ってやった。
さとりの驚きに満ちた顔が、パルスィへ向けられる。薄桃色の髪と、上気した頬。まるく見開かれた目はパルスィを映し出し、なんらかの感情をありありと覗かせていた。
こんなふうにまともに見つめあうのは、初めてだった。
さとりが呆けたような口調で言う。
「どうして、わたしの言おうとしたことがわかったの?」
いや、口に出してたけど。だがきっと、言葉が途切れていたとしても、パルスィは理解しただろう。なんとなくそう思った。あのオリンもそういうときがあると言っていた。相対する者の心がわかるときが、たしかにあると。
「よく同じようなことを考えるからかな。どうしたら、みんながわたしをすきになってくれるんだろうって……どうしたら、わたしは嫉妬されるんだろうって」
もう道筋は見えている。
それを辿る資格を得るために、パルスィは言葉を継いでいく。
「さとり、わたしは今日、あなたに謝りにきた。忙しそうだったから、今くらいしかタイミングがなかった……でも、その前に聞きたいことがある」
やぐらに降り立つ。いつまでも話し相手を見下ろしているのは変だと思ったのだ。
さとりはもう、驚いた顔をしていなかった。まっすぐパルスィを見て、つぼみのような唇を固く引き結んでいる。なにを言われる準備もできている、鳶色の瞳がそう語っていた。
「あなたは何故……」
声が、震えた。言い直す。
「あなたは何故、この世界で疎まれ嫌われながら、他者をすきでいられるの? 他者があなたをすきになってくれる保証なんてどこにもない。あなたのその強さの源は、いったい、なに?」
そしてそれは、わたしにも手に入れられるものなのか?
たぶん思いつめた顔をしているだろう自分とは対照的に、さとりは静かな面持ちをしていた。気負うことなく、言葉は紡がれる。
「わたしは強くなんてない。妹やペットたちに支えられてようやく立っていられる……あの子たちの心を信じるように、わたしは地底のみんなの心を信じたいの」
ずきり、とまた鼓動が調子を変えて、胸を締めつける。
ならばパルスィは、やはり一足飛びに強くなることなどできないのか。いやさとりにしても、相手は既にさとりのことを恐れている地底の住民だ。そんな者たちを信じるだと?
「そんなことが、できるの?」
「わからないわ」
さとりはかすかに首を振る。確信などない、とその目が語っていた。
だったら、どうして……
「信じられないかもしれないけど。そういうものをこそ、わたしたち地底の妖怪は信じ
るべきなのよ」
どうしてこいつは、こんなふうに微笑むことができるのだろう?
わからない。いつかわかるときが来るのかさえも。
「大丈夫よ」
さとりが慰めるように言う。今の今まで気づいていなかった。こいつはいつも、こんな優しい声で話していたんだ。
「それは時に軽んじられるけど、ほんとうは一番大切で、一番身近にある。笑ってしまうくらい単純な、そんなものの話なんだから」
「大切で、身近で、単純?」
「わたしの隣にいる、あなたがすき。そういう気持ちのこと」
そう言ってはにかむさとりが、そっと――パルスィの肩に触れた。
「きっとわたしは、あなたにも支えられている」
頬を流れる熱いなにかを自覚すると、喉から嗚咽が漏れかかった。
さとりの心の内側に、パルスィがいる。際限ない悪意をさとりに向けたパルスィが。
パルスィさえも許せるなら、さとりはきっと地底の誰だって許すことができる。
「あり……がとう、さとり……わたし、あなたにひどいことをたくさん言ったのに」
触れられた肩が暖かかった。
心が包まれている気がした。
さとりを信じたい。さとりが変わろうとしているなら、パルスィもまた変わりたいと強く想った。
「ごめん……ごめんなさい、ごめん、さとり、ごめん……っ」
堰を切ったように言葉があふれる。たくさん考えたはずの謝罪は全て最も単純な一言になった。次第にそれさえもうまく言えなくなった。気づけば声をあげて泣いていた。誰の目をはばかることもなく大口を開けて、子供のように。
いつの間にかさとりの腕に絡めとられて、パルスィはあやされる。
こいつのペットたちも、こんなふうにされてるのかな。
(……妬ましいな……)
パルスィは初めての感情を抱き、止まりそうにもない涙はただ流れるにまかせた。
周囲がお祭り騒ぎで、よかった。泣き声を聴きつけられることもなく、さとり以外の誰にもこんな姿を見せずに済んだから。
一年前の顛末は、こんな感じだ。もっとも、これ以降いきなり劇的にさとりとの仲を深めたわけではない。
あの後、結局仕事には戻れず、地底の最高権力者であるさとりに送られてアパートに帰った。お咎めなしで済むようにさとりは手配してくれたらしいが、後で警備員の中でそもそも抜け出した者などいなかったと報告されたと話した。よくわからない。縦穴の詰め所に残されていた金髪のかつらとともに、この出来事に残された謎だ。
「ふうー」
終業時刻になり、詰め所の扉に鍵をかける。祭りが終わって、地上の人間や妖怪はさほど問題を起こすこともなく帰っていった。詰め所の増員も解除され、パルスィはまた静かな日々を送っていた。
ひとまずは現状回復だ、と真面目に仕事をしている。年功序列の地霊殿では、半分になっても全く生きていけないほどの給料ではないが、やっぱりきついものはきつい。
「たまには、実家に顔でも出すかなぁ」
パルスィには珍しいことに親孝行でもしようかな、という気分もあった。実際なにが目的かといえば金の無心なわけだが……
寄り合い馬車に乗って、地霊殿に帰る。鍵はしかるべきところに保管しなければならないからだ。ついでにあの同期に会ったら、たまには話し相手にでもなってやるか。祭りの日以降やけに恩着せがましい態度が目立つので、また強めに小突いてやらねばならないだろう。
様々な展望を抱きつつ、地霊殿のエントランスに足を踏み入れる。さっさとオフィスに鍵を戻して、アフターファイブと行きたいところだ……
「パルスィ」
名を呼ばれて、反射的に振り向く。が、誰もいない。空耳かと思って通り過ぎようとすると、慌てたような声でまた呼ばれる。
「ぱ、パルスィ。こちらです……」
見ると、ロッカーと掃除用具入れの影になっているようなところにすっぽりと挟まるように、さとりがいた。
「あんた、なにやってんの」
言ってからちょっと愛想がなさすぎたかと後悔する。あれからむしろ、さとりにどう接すればいいかわからなくなった。それはさとりも同じのようで、毎度こうやって奇行に及んでは二言三言をかわして別れる、というパターンが続いていた。
「い、いえ。誰かに見られたらまずいかと思いまして」
今日もまたよくわからないことを言う。この地霊殿でさとりがいて見咎められる場所などない。
「あの。仕事はもう、終わりましたか?」
「え? うん。終わってるけど……」
「あ、ああ。あのあの」
いや、この様子はいつもよりおかしい。もじもじしながら手を揉み、そわそわと落ち着きがない。頬も紅潮しているし、第三の目までぎゅっと閉じられている。
こんなさとりを見るのは紛れもなく初めてで、耐えきれなくなったパルスィは吹き出した。
「なによ、落ち着かないわね。なんか用事?」
――よし、自然に言えた。笑った勢いで、まともにしゃべることに成功する。
さとりもまた深呼吸を繰り返してから、意を決したとばかりに詰め寄ってきた。
「予定がないなら、今晩お食事にいきませんかっ」
「あ……ごめん外食は無理。お金ないから」
ない袖は振れない、と言う。さとりはものすごくショックを受けた顔をして、しかしパルスィの金欠の理由に思い当たってか、しゅんと落ち込んでしまった。
(……うう)
あのときは素直になれそうだったのに。金欠は本当だが、どうしてすぐ言い方に余裕がなくなるのだ。内心で自分をののしる。
これでは駄目だ。これは目指すべき自分ではない。
しっかりしろ、水橋パルスィ!
「さとり」
「……はぃ?」
「月末までお金貸してくれたら、……行く」
がんばってもこんな言い方しかできなかったが――
さとりははじけるような笑顔を見せて喜んでくれた。なんとも歯切れの悪い説明をしながらパルスィをあの店まで連れて行き、初めてふたりきりでプライベートな食事をした。その食事というのも、まあ、さほど話が弾んだわけではなかったが。
それでもこれが、パルスィとさとりの初めての思い出だ。
どれだけ時が過ぎても、思い出せる。
「あ、そうか」
「なによ」
「いえなんでもありません」
さとりは口早にごまかして、ほくそ笑む。そうそう、最初はそういう理由だった。
今は地霊殿のさとりの私室、ふたりでお酒を酌み交わしているところだ。思い出話をしながら地霊殿まで帰ってきて、くつろぎのひと時といったところだ。パルスィも最初はひどく居心地が悪そうだったが(雰囲気が高級すぎてアレルギー起こしそう、とか言っていた。よくわからない)、何度も部屋へ招くうちに、今ではすっかりリラックスしている。
琥珀色の液体ごしに彼女を眺め、さとりはくすくすと笑った。
「パルスィのお給料、やはりしばらくはこのままにしましょう」
「ええっ!? なんで!?」
パルスィは絶望がにじみ出ているような声で叫んだ。
「うふふ、さあ。どうしてでしょうねー」
「さとり、お願いだからそろそろ許して。もう実家に頭を下げたくないの」
「パルスィの実家といえば、いつわたしを紹介してくれるの?」
「なっ、あっ、さとりいいい!」
「きゃああ!」
顔を真っ赤に染めたパルスィが飛び込んでくる。ふたりしてベッドに倒れこんで、ぐるぐると上に下になりながらマウントポジションを奪い合う。
「あんたほんといい加減にしなさいよ! わたしがかわいそうじゃないの!?」
「いざとなれば、わたしが養ってあげます」
「そんなの、わたしがなりたいわたしじゃないっ!」
「さとり様、なんの騒ぎです? 頼まれていた枕と、資料がまとまっ――あ」
ぼすん、ばさばさ、どさ。
声と音がしたほうへ、さとりとパルスィはそろって顔を向ける。
首まで真っ赤になったお燐が口元を押さえて絶句していた。足元にはパルスィのぶんの枕と、もはやまとまっていない資料が散らばっていた。
対して、こちらは。パルスィが衣服の乱れたさとりを組み敷くような体勢で固まっている。
「あ……あ……」
「ちょ……燐。待って。きっと誤解している」
じりじりと遠ざかる燐に、さとりの上に乗ったままパルスィは声をかける。
誤解だというなら、さっさとわたしからどいたほうが説得力あると思うけど。さとりは余裕を持って事態を俯瞰していた。
「おっっ、お邪魔しましたー!」
「燐! 待ってー!」
もうふたりともがまるで悲鳴を上げているようだった。
さとりが笑っていると、パルスィの頭突きが降ってきた。
「なに笑ってんの。見られちゃったじゃないの」
「いったい……! 手加減してください、パルスィ」
たしかに見られた。が、お燐はことを大っぴらに吹聴するような不忠者ではないし、もしそうされたところでスキャンダルというわけでもない。これがアイドルのヤマメちゃんだったら話は変わってくるだろうけど。そもそも為政者には決まったパートナーがいるほうが信用を得やすいに決まっている。
「別に困らないじゃないですか」
「あ……! あんたがそうなら、まぁ、いいんだけど!」
さとりも気遣ってもらえるのは、うれしい。態度はぶっきらぼうだが、パルスィは優しいのだ。下からぎゅっと彼女を抱きしめて、目を閉じる。パルスィがもぞっと暴れたそうにしたが、すぐにおとなしくなった。
今夜は幸せな夢が見られそう。
耳元でそう囁くと、黙って寝ろバカ、と答えが返ってきた。
読了感謝します。
今回のテーマは恋するパルスィ。
ストーリーは前作、前々作の直接的な続きなので、今作での説明が不足と感じた方にはこの場を借りてお詫び申し上げます。
やはり過去作とあわせてお読みいただけると幸いです。
ご意見ご感想をお待ちしています。
10月23日、前書きを追加させていただきました。
>3 名前がない程度の能力さん、ご指摘ありがとうございました。
エムアンドエム(M&M)今回のテーマは恋するパルスィ。
ストーリーは前作、前々作の直接的な続きなので、今作での説明が不足と感じた方にはこの場を借りてお詫び申し上げます。
やはり過去作とあわせてお読みいただけると幸いです。
ご意見ご感想をお待ちしています。
10月23日、前書きを追加させていただきました。
>3 名前がない程度の能力さん、ご指摘ありがとうございました。
それにしてもお空窓直してないじゃんwwww
お役所地霊殿おもしろかったです
あと、前作のリンクがずれてます
「最新作品集へのリンク」だとそのうちずれるので、始めから番号にしとくといいです
ナチュラルにいちゃつきすぎだろ常考
パルスィはもう観念するしかないね…。うん。
このシリーズもっと見たいなぁ
ツンデレパルスィも純情さとり様もいい味出してて思わず口から何かがたらり
はっ これは…砂糖!
イチャつくのがナチュラルなんですねわかります。
この二人のお話をもっと読みたいです!
書き漏らしましたが、割ったガラスを掃除したことを評価してあげてください(^^;
>>11さん
ありがとうございます。今後もそう言っていただけるよう頑張ります。
>>12さん
さとパルもっと増えればいいのにと思います。
>>15さん
あまりオリジナルのキャラってつくるべきではないかと思っているのですが、
パルスィの普段の生活を描くためにやってしまいました。
ご指摘ありがとうございました。
>>16さん
勢いで書ききりました。カプものを大量生産できるひとはすごいと思います。
>>17さん
さとり様が水橋さとりになるまで頑張りたいです。
>>19さん
妖怪なのに人間くさいとは、なんだかおかしいですね。
自分も書くネタがあるうちは続けていきたいシリーズです。
>>23 すすきさん
作中では、さとり様は誘い受け。パルスィのほうに主導権がないわけでもないですが。
>>24さん
気に入っていただけたようでなによりです。
次は燐の話ですが、さとパル話も定期的に書いていきたいです。
>>匿名評価してくれた皆様
たくさんの評価、ありがとうございます。
拙いばかりの作品ですが、今後もよろしくお願いします。