熱でもあるんじゃないか? 神奈子様にそう言われ、額に手を伸ばされる。
ひんやりとしていた。むしろ冷たいと言ってもいい手のひら。
ほら熱い。風邪だな、こりゃ。
間近で話しかけられているはずなのに、どこか遠い。熱でボウっとしているのだろうか。
休め休め今日は休んでいろと、無理矢理寝室に連れていかれた。寝間着に着替えているうちに、神奈子様がお盆を持って戻ってくる。
「すみません」
「これくらい構わないさ。最近の早苗はがんばってたし、疲れたんだろう」
「まだ、お掃除も終わって」
「だから、気にしないで寝てなさい。風邪くらい、誰でもひくんだから」
頷いて布団に潜り込んだ。毛布が押入から取り出されて、掛け布団の一番上に追加される。
こういうときは、あったかくして寝ないとね。その言葉に、ハイと小さく答える。
次になんと言われるか分かった。私の想像の通りに、神奈子様はリンゴを手にとって言う。むいておくから食べなさい、と。
それにも小さくハイと返事して、私は布団を掛けなおした。鼻のあたりまで布団にうずめて目を閉じる。
ナイフを使う音がした。
いつも、こう。私が風邪をひくと、こう。神奈子様は判を押したように、同じ言葉をかけてくる。
病気の時に出来ることなんてそんなにないし、風邪なんて寝ていれば治ってしまう。それは分かっている。
だから神奈子様の言動の範囲も自然と狭くなる。それも分かっている。
それでも少しだけうっとうしかった。まるで機械がそばにいるように感じるから。
風邪を、ひいているんだ。私は、風邪を、ひいている。だから、だから大好きなのにそんなことを考えてしまう。そう思うことにした。治ったら、こんなつまらない思いは消えるはず。
寝よう。寝てしまおう。
目を閉じたまま念じ続ける。あたたかい。布団と私の境目が消えたようにぽかぽかする。それでもまだ心の中で唱え続けた。
なにか、言われた気がした。とろけた体の向こう側で、私は曖昧に頷いたようだ。
天井を見つめていた。ボンヤリと、いつから見つめていたのか、いつまで見つめていればいいのか、なにも分からないままで目だけ開いていた。
体を起こす。ふわりと何の抵抗もなく布団がめくれる。
立ち上がってもしばらくボウっとしていた。障子の向こうが明るい。もう、お昼過ぎ? なぜこんな時間まで寝ていたんだろう、ああそうだ、風邪をひいていたんだった。
神奈子様、治っちゃいました。寝てたら治っちゃいました。もう大丈夫です。お掃除に戻りますね。
ホウキを探しに廊下を進む。右へ行っても左に行っても、納戸が見つからない。
どうしよう。これじゃお掃除が……。
おや、早苗。どうしたんだい? あ、神奈子様! ホウキが見つからないんです。なにを言っているんだい? おまえの右手にあるじゃないか。あれ、なんで持っているのかな。
でも、これでお掃除が出来ます!
ちょっと待ちな、早苗。なんでしょうか? おまえ、顔が赤いぞ。
熱でもあるんじゃないか? そう言われ、額に手を伸ばされる。
ひんやりとしていた。むしろ冷たいと言ってもいい手のひら。
私、もう風邪は治りました! 私が熱いんじゃありません! 神奈子様の手が冷たいんです!
私を見つめていた瞳が、急に光った。
ほう、私を冷たいというのかい? 私が冷たいというのかい? 私の手のひらが?
え、ええ……。そうですけど。
なんでだろうねぇ? どうして冷たいのかねぇ。私が生きていないから? 私が人間じゃないから? 私が蛇だから? 私が機械だから? どうしてだと思う? 早苗、早苗、答えておくれ。
見つめてくる目の光は強いままだ。むしろどんどん強くなってくる。まぶしくて、答えられなくて、目をそらす。
私の額に伸ばされた腕が、一匹の蛇となっていた。手のひらだったところに生まれた目を、まともに見てしまう。
ニヤリと笑って、蛇が噛みついてきた。
泣いていた。目が覚めた今でも、ぼろぼろと涙がこぼれていく。
夢。悪い夢を見ていた。自分が起きたと強く意識したせいか、もう半分も思い出せない。ただ、嫌な感情だけが残っている。
もう半分も、どうせすぐに忘れてしまう。忘れてしまいたい。神奈子様はあんなことを、しない。するわけがない。
枕元に濡れたタオルが落ちていた。額に乗せてもぬるいだけ。でも涙を拭くにはちょうどよかった。
お盆にタオルを置き、リンゴに手を伸ばす。水気を切って一口かじったソレは、塩の味しかしなかった。
甘くない。外のものと比べると全然。シャリシャリとした触感しか残らなかった。
外、外か。小学校の頃も、風邪をひけばこうやってリンゴを食べてたな。
寝てばかりじゃつまらないから、テレビをつけて。いつもは見れない番組がやってて、次の日に友達に自慢してたっけ。
再放送や昼ドラなんて面白くもなんともないのに、普段と違う、というそれだけでワクワクしてた。
そうそう、とまた一つ思い出して、本棚からマンガを引っ張りだした。
前もこうやって読んでいた。何度も読んで内容は全部覚えているのに、昼間から読んでいられる優越感だけで満足してさ。
味のしないリンゴをかじりながら、先を知っているマンガを読む。ここにはなんの驚きもない。でも穏やかだった。
ざわざわした悪夢は消えていた。障子越しに射し込む光がとても気持ちがいいからだろうか。
足音が聞こえて神奈子様がやってくる。私を見るとからからと笑った。
「早苗、おまえは変わらないねえ」
「こういう時って不思議とマンガが読みたくなるんです」
「知ってるよ。子供の頃からいつもそれだ」
薬を持ってきたから飲みなさい、と湯呑みが渡される。飲み干すと、なにか食べたいものはあるかい? と聞かれた。
鍋焼きうどんが食べたいです、と答える。
笑われた。さっきよりもずっと大きな声で。
「なんです、どうしたんですか神奈子様?」
「早苗、もしかして気付いていないのかい?」
「なにが、でしょう」
「風邪をひいたときに食べたいものを聞くと、おまえはいつも鍋焼きうどんがいい、と言ってるよ」
「え?」
「少しはほかのものを食べたいと言ってもいいだろうに。まあいいさ、変わらないでいられるのは早苗の良いところだよ」
もう一度だけ大声で笑い、行ってしまった。
急に静かになり、取り残されたようになってしまったが、気分は晴れやかなままだ。
「ふふ」
自然と笑みがこぼれる。何に笑いかけたのかは知らない。知らないけど、たぶん、風邪をひいて寝ていたことそのものに対してなのだろう。
うどんまで、もう一度寝ていようかな。
布団に入り込んで、静かに目を閉じる。布団どころか、部屋に満ちた風にまで溶けていく気がした。
風邪引いたときにテレビ見たり、マンガ読んだりするのはすごくわくわくするんですよね。
優越感と言うか、小さな背徳感みたいなものを感じていた気がします。
夢の質感がとても夢っぽくてよかったです。
卵をダシと混ぜても美味いが、今度やってみるか。
なんだかほほえましいです。望ましいです・・・。
あと鍋うどんの卵はうどんに絡ませて食べるのがおれのジャスティス。